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2022/01/13

狗張子卷之一 守江の海中の亡魂

 

   ○守江の海中の亡魂

 

Morienoboukonn

 

[やぶちゃん注:挿絵は今回は一九八〇年現代思潮社刊の「古典文庫」の「狗張子」のしれをトリミング補正した。]

 

 豐後國守江の浦の海上には、亡靈ありて、人をなやます事、たびたびなり。

 そのかみ、慶長五年九月に、石田治部少輔(ぢぶのせうふ)謀反して、美濃國關が原にして軍(いくさ)あり。

 東軍のために、打《うち》まけ、治部少輔一味の西國勢、みな、逃おちて、國に歸る。

 黑田勘解由(かげゆ)入道は、安喜(あんき)の城(じやう)に陣をかまへて、番船(ばんぶね)數十艘を海上に出《いだ》して、落ち下(くだ)る勢を、とがめらる。

 嶋津(しまづ)の舟とて、くらき夜に、打とほる。

 番船、つよくとがめしかば、軍(いくさ)になり、薩摩船より、砲爍火矢(はうらくひや)を、なげそこなひ、みづから、味方の舟に落ちければ、船中(ふなぢう)廿八人、一同に、燒け沈みけり。

 其中に、中村新右衞門尉(じよう)といふもの、亡靈となり、沖中往來の人を、なやますとかや。

 寬永の末つがた、夏のころ、安藝國倉橋嶋(くらはしじま)のなにがしが娘、日向の國佐土原《さどはら》といふ所にすみわたり、

「故鄕に歸る。」

とて、この沖中にして、俄《にはか》に、物のけ、つきて、さまざまの事、口ばしりけるを、

「何ものなれば、かゝる船の中に來りて、人をなやまし、狂はするぞや。」

と問ければ、娘、口ばしりて、

「我は、そのかみ、この沖中の軍(いくさ)に、海にしづみて死(しに)ける中村新右衞門といふものなり。亡魂、今も、こゝにさまようて、うきぬ、しづみぬ、くるしみをうくれども、我をとぶらふもの、なし。あまりの苦しさに、今、此《この》女性(によしやう)に寄りて望みをいたすものなり。わがために、法事をいとなみて、たべ。」

とて、淚を流しければ、船中(ふなぢう)おどろきて、安喜(あんき)の湊(みなと)に船をつけて、浦人(うらびと)に問ひければ、

「年々、此浦を過《すぐ》る旅人に寄《より》て、物に狂はする事、たびたび、あり。」

といふ。

「さては。」

とて、僧を請(しやう)じて、二夜三日(《に》やみつか)の佛事をいとなむあひだに、關が原軍(いく《さ》)の事、此浦にての、たゝかひの事、娘、物がたりせしに、聞《きく》人、あはれがりて、淚を流す。

 かくて、法事の過《すぐ》る前《まへ》かた、

「有がたや。此佛事の功德(くどく)にて、くるしみ、すこし、ゆるやかに成《なり》ける事よ。」

とて、娘の狂氣は、さめたり。

 それより後は、ばうこんも、うかびぬらん、このごろは、たえて、人にも、寄(より)つきて、狂ひける、沙汰(さた)もなし。

[やぶちゃん注:早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本の最後を見ると、左丁が挿絵で、右丁がそのまま書けば、半ばで過ぎで三分の一が余白になるところを、「このごろは」以下(そちらでは清音「このころは」)の文句が、私が読点を打ったところで、下方に少し掛かる位置で五回改行されて、和歌を分かち書きするように下がってゆく、洒落た処理がしてある。見られたい。

 あまりパンチのない話である。前半の史実を書き込む興味ほどには、後の怪異譚が薄っぺらく、筆力が弱い。敢えて言うなら、挿絵の左手奥に中村新右衛門尉の亡魂の生前の浮き上がった武者姿ぐらいなものか。

「豐後國守江の浦」大分県杵築(きつき)市守江(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の南の入り江。守江湾。拡大すると、東出突出している半島(南側に住吉浜とある)の北に守江湾の名が見える。

「慶長五年九月に、石田治部少輔謀反して……」「石田治部少輔」は石田三成。「関ヶ原の戦い」は慶長五年九月十五日(一六〇〇年十月二十一日)に行われた。

「黑田勘解由入道」かの黒田孝高(よしたか)官兵衛如水(天文一五(一五四六)年~慶長九(一六〇四)年)。「関ヶ原の戦い」の際は子の長政とともに東軍に属し、長政は家康に従って関ヶ原に出陣していた。豊後中津城で留守を守っていた孝高は、浪人を傭い入れて旧領回復に動き出した大友吉統(よしむね)の兵と石垣原で戦い、最終的にこれを破っている。

「安喜の城」豊後安岐(あき)城のこと。ここ(大分県国東(くにさき)市安岐町下原(あきまちしもばる)に城跡が残る。例の江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(一)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)には、『国東郡安岐郷』『にあった。応永年間(一三九四~一四二八)の築城の山城。大友一族の田原氏の居城であったが、関ヶ原の戦いで西軍についたため、黒田勢に攻め落とされた』とある。

「番船」見張り船。

「嶋津」薩摩の島津氏。事実、この時、如水は、国東半島沖の豊後水道付近で、如水配下の水軍が、勝った関ヶ原から引き上げてきた、永く勢力争いで敵味方の関係にあった薩摩の島津義弘の軍船の海上通過を、言いがかりをつけて停戦を命じ、当然、従わなかった結果、戦闘に転じ、それらを焼き沈めている。同年十一月に入ると、彼は四万の軍勢で九州最後の敵勢力である島津討伐に向かったが、十一月十二日に肥後国の水俣まで進軍したところで、家康と島津義久との和議成立による停戦命令を受け、軍を退き、解散している。

「砲爍火矢(はうらくひや)」早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本を見ると(右丁九行目)、読みの「ひ」の字から右上にかなり離れた上に「ヽ」一画のみが見えるので、「はうらくびや」である可能性はある。しかし意味不詳。「爍」は音「シヤク(シャク)」で、「光る・輝く」(「灼」と同じ)或いは「(金属等を)溶かす」の意である。同前の江本氏の論文では、本文(底本は大妻女子大学所蔵の後印本)で「炮爍火矢(はうらくひや)」とし、注されて、『炮録火矢。炮録を石火矢のように発射するようにした火器。「炮録」は戦国時代の水軍が用いた焼夷弾的爆弾。以下、江本氏は私と同じく「和漢三才図会」がお好きなようで、そちらから引用されておられるが、同書は私の守備範囲であるので、先ほど、当該部『「和漢三才圖會」巻第二十一「兵噐 征伐具」(五折)より「天墜砲(ほうろくびや)」』を全電子化しておいたので見られたい。

「中村新右衞門尉」島津の家士であろうが、不詳。

「寬永の末つがた」寛永は一六二四年から一六四四年までで、第三代将軍徳川家光の治世。ここの後半の実景時制設定は「伽婢子」以来の室町後期・戦国時代という暗黙の時代設定からは、特異的に外れる執筆刊行当時(寛文六(一六六六)年板行)からはつい先年のものである。

「安藝國倉橋嶋(くらはしじま)」現在は広島県呉市に属する倉橋島。音頭の瀬戸で知られる景勝地。第二次世界大戦中は、呉鎮守府の前衛として大日本帝国海軍の秘密基地の様相を呈した。

「日向の國佐土原《さどはら》」宮崎県宮崎郡佐土原町(さどわらちょう)。]

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