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2022/01/14

狗張子卷之一 島村蟹

 

   ○島村蟹

 

 細河高國の家臣島村左馬助は、武篇を心にかけし者なり。

 わづかなるあやまちありて、殺されたり。

 亡魂、すでに、蟹となり、攝州尼が崎に、おほく生(わき)出たり。

 世に「島村がに」と名づく。

 餘所(よそ)の「かに」よりは、ちひさくして、おもてのかたに、皺、おほく、みゆ。

 さればにや、顏のしわみたる人を、「『しまむらがに』のやうに」といへるは、此事なりとかや。

 昔、平氏(へいじ)の一門、長門の國壇の浦にして、海にしづみしその亡魂、ことごとく、蟹となりて、長門國赤間が關にあつまり、今の世までも、おほく有けりと、聞つたへし。

 橫ばしる蘆まのかにの雪ふれば

    あなさむけとやいそぎかくるゝ

と、古き歌にも讀けり。

 一念のまよひあれば、いかなるものにも生れかはる、輪廻(りんゑ)の有さまなりと、佛も說おき給へり。

 治承の古へ、源三位賴政、むほんして、宇治川をへだてゝ源平の軍あり、うたれたるものの亡魂、螢になりて、今の世までも、年每の四月、五日には、平等院のまへに、數千萬の螢、あつまりて、光りをあらそうて、相たゝかふ。

 「化(くわ)して、異類となる。」と賈誼(かぎ)がこと葉、空しからずや。

[やぶちゃん注:挿絵はない。本篇に関しては、私のサイト版の、

「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類  寺島良安」の「鬼鱟(たけぶんがに) 島村蟹(しまむらがに)」

或いは、ブログ版の、

大和本草附錄巻之二 介類 島村蟹 (ヘイケガニ(類))

毛利梅園「梅園介譜」 鬼蟹(ヘイケガニ)(素敵な博物図有り。ヴィジュアルには超お勧め)

諸國里人談卷之五 武文蟹【島村蟹・平家蟹】

などを参照されたい。「島村蟹」は、

甲殻亜門軟甲綱十脚目短尾下目ヘイケガニ上科ヘイケガニ科ヘイケガニ Heikeopsis japonica 及び、同科の近縁種の摂津(現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)での異名の一つであり、特定種を指すものではない。より詳細な私の見解は、大和本草附錄巻之二 介類 島村蟹 (ヘイケガニ(類))の私の注を読まれたい。なお、蛸島直(すなお)氏の論文集「蟹に化した人間たち」(現在、「四」まで。総て「愛知学院大学機関リポジトリ」のこちらでダウン・ロード可能)の第一回には、本篇も紹介されてあり、非常に面白い。

「細河高國」細川高国(文明一六(一四八四)年~享禄四(一五三一)年)は室町幕府管領。養父細川政元の死後の幕政を握るが、政元の別な養子細川澄元の嫡男細川晴元に敗れて自害した。

「島村左馬助」島村貴則(?~享禄四(一五三一)年)は当該ウィキによれば、『多くの伝承では『「細川高国の臣」とされているが、正確には高国を管領として担いだ浦上村宗の臣である』とあり『浦上家の重臣として活躍し、特に浦上村宗を助けて活躍したが』、「大物崩(だいもつくず)れ」(「伽婢子卷之四 一睡卅年の夢」の私の注を参照。場所はここ。グーグル・マップ・データ)で『敗死した。その壮絶な死に様は島村蟹(嶋村蟹)の伝承を生んだ』とある。伝承などでは「島村弾正」「島村左馬助」などと呼ばれる彼は、『浦上氏の重臣で備前郡代を務める島村氏の当主として活動』し、「応仁の乱」により、『播磨・備前を失った山名氏が』、『取り戻そうと侵略するのに対処して』、たびたび『戦った』。「細川高国晴元争闘記」によれば、『柳本賢治』(かたはる:事績は当該ウィキを参照)『の暗殺を提案し』、『実行させたのは貴則といい、難攻不落と見られていた瀧山城・鷹尾城を謀略を以て陥落させ、村宗の指示を受けて天王寺川を背に』、『背水の陣を引かせるなど、村宗の宿老として活躍した。しかし』、享禄四(一五三一)年、「大物崩れ」で『赤松政村の裏切りにより細川高国・村宗の上洛軍は壊滅し、数千人が水死する壮絶な敗北となった。その中で』、『貴則の子は討死し、自身は敵二人を道連れに野里川』(後の中津川であるが、それもなくなっており、中津川跡はここ。大物の南東)『に沈んで憤死した』。『この凄まじい死に様は』「摂陽群談」の「島村左馬助戦場」に、「享禄年中の戦場、島村、敵二人を両脇に挟んで、河底に沈没す。此岸の蟹の甲、皆、鬼面を生ず。是、則、左馬助が勢ひ也とて、世に島村蟹と云伝へり」とあり、また、同書の「名物土産の部」には、「野里村の川面に多し。此蟹の甲、人の怒る面あり。細川高国家人島村左馬助、享禄年中、此川面に於いて戦死、其怨念を留ると云」と、『貴則の怨念が鬼面蟹と化したという島村蟹の伝承を生』んだとある。

「武篇」「武邊」に同じ。戦場で勇敢に戦うこと。武士道。

「しわみたる」「皺の寄っている感じの」であるが、ここは「怒りに眉目を顰め、睨むように歪んだような顔つき」を指す。

「橫ばしる蘆まのかにの雪ふればあなさむけとやいそぎかくるゝ」「夫木和歌抄」巻二十七の「雜九」ある源仲正(?~保延六(一一四〇)年前後(七十余歳?)?:かの源頼政の父。摂津(多田)源氏の棟梁で、下総守を経て晩年に兵庫頭となった。歌人として知られたの一首。但し、「日文研」の「和歌データベース」で確認すると(13158番)、

よこはしるあしまのかにのゆきふれはあなさむけにやいそきかくるる

で、「とや」ではなく、「にや」である

「治承の古へ、源三位賴政、むほんして、宇治川をへだてゝ源平の軍あり、うたれたるものの亡魂、螢になりて、今の世までも、年每の四月、五日には、平等院のまへに、數千萬の螢、あつまりて、光りをあらそうて、相たゝかふ」私の「和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 螢」の一節に、

   *

江州石山寺〔(いしやまでら)〕の溪谷(たに)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]【試(こゝろみ)の谷と名づく。】、螢、多くして、長さ、常の倍なり。因りて其處を呼びて螢谷と名づく。北は勢多橋に至る【二町許り。】。南は供江瀬〔(くがうのせ)〕に至る【二十五町。】其の間、群(むらが)り飛ぶこと、高さ十丈許り、火〔の〕熖(ほのを)のごとく、或いは、數百、塊(かたまり)を爲し、毎(まい)芒種の後(のち)五日より、夏至の後五日に至るまで【凡そ十五日。】、盛りと爲す。風雨無くして甚だ晴れざる夜、愈々多し。但し、北は橋を限り、東は川を限りて、甞て、之れ、有らず。又、時節を過ぐるときは、則ち、全く、之れ、無し。其の螢、下〔りて〕山州宇治川に到りて【約三里許り。】、夏至・小暑の間、盛りと爲〔す〕。然れども石山の多〔き〕には如〔(し)〕かず。此れも西は宇治橋を限りて下(さが)らざるなり。俱に一異と爲すなり。茅根〔(かやのね)〕・腐草の化する所は常なり。此の地は特に茅草〔(かやぐさ)〕の多からず、俗に以つて、源の頼政の亡魂と爲〔(す)〕るも亦、笑ふべし。此の時や、螢見の遊興、群集〔(ぐんじゆ)〕にして、天下の知る所なり。

   *

とある(太字下線は私が附した)。私はその「源の頼政の亡魂と爲〔(す)〕る」に注して、

   *

 概ね平家によって排された源氏の一党の中で中央政権で命脈を保ちながら、治承四(一一八)年に後白河天皇の皇子以仁王と結んで、平家討伐の挙兵を計画、諸国の源氏に平家打倒の令旨を伝えるも、平家の追討を受けて宇治平等院の戦いで敗れ自害した源三位頼政(長治元(一一〇四)年~治承四(一一八〇)年)。ウィキの「ゲンジボタル」には、『平家打倒の夢破れ、無念の最期を遂げた源頼政の思いが夜空に高く飛び舞う蛍に喩えられた』とあり、『平家に敗れた源頼政が亡霊になり蛍となって戦うと言う伝説があり、「源氏蛍」の名前もここに由来している』とほぼ断定的に言いつつ、その後で、『また、腹部が発光する(光る)ことを、「源氏物語」の主役光源氏にかけたことが由来という説もあり、こちらの場合は清和源氏とは関係はない』。『より小型の別種のホタルが、最終的に源平合戦に勝利した清和源氏と対比する意味で「ヘイケボタル」と名づけられたという説もある』と記す。なお、頼政の家集には、

 いざやその螢の數は知らねども玉江の蘆の見えぬ葉ぞなき

という大治四(一一二九)年の吟が残り、井上誠氏の論文「千丈川におけるホタル生息状況について」(PDFでネット上からダウン・ロード可能)では、或いは、この一首は石山寺のゲンジボタルを詠んだものではないかとされておられる。化生説を馬鹿の一つ覚えで繰り返す良安の「笑止」なんぞより、遙かに私には腑に落ち、共感したことを述べて終りとしよう。

   *

と記した。

『「化(くわ)して、異類となる。」と賈誼(かぎ)がこと葉』賈誼(紀元前二〇〇年~紀元前一六八年)は前漢の文帝の治世の政治家。洛陽出身。僅か二十余歳で博士・太中大夫(たいちゅうたいふ)となり、その才気を現したが、諸大臣に嫉まれて長沙王の太傅(たいふ)に左遷された。その後、再び文帝に召されて文帝の子の梁王の太傅となり、対匈奴政策・民生安定策や、諸侯王の統制策及び重農抑商策などの重要な献策を行ったが、三十三の若さで病死した。秦に続いて統一帝国を建てた前漢王朝が漸く安定し始めた時期にあたるが、建言のなかには、依然として対外的・対内的な社会不安が残されていたことが窺える。文人としても知られ、「鵩鳥賦」(ふくちょうふ)・「弔屈原賦」などが残る(ここまでは小学館「日本大百科全書」に拠った)。この言葉は、仏教が言うところの「四生」(ししょう)の「化生」(かしょう)であるが、この引用は、浄土真宗の僧でもあった了意自身の書いた仏教書「仏説十王経直談」の巻二の「二十五」にあることが、和田恭幸氏の論文「浅井了意の仏書とその周辺(二)――鼓吹物の変遷と怪異小説の素材源の変容――」(『国文学研究資料館紀要 文学研究篇』第二十四号(一九九八年三月発行)・「国文学研究資料館学術情報リポジトリ」のこちらでダウン・ロード可能)の『五、「賈誼がこと葉」の典拠』で解明されているので、読まれたい。]

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