伽婢子卷之十三 馬人語をなす恠異
[やぶちゃん注:本書最後の挿絵は「新日本古典文学大系」版をトリミング補正した。最後の絵でもあり、底本のものと比較しつつ、かなり念入りに清拭した。]
○馬(むま)、人語(にんご)をなす恠異
[やぶちゃん注:「新日本古典文学大系」版脚注によれば、右が河原毛で、左が蘆毛とある。中間らしき二人が同じ方向を振りむいて眉根を同じく顰めており、まさに怪異のその瞬間をスカルプティング・イン・タイムした挿絵となっている。]
延德元年三月、京の公方(くばう)征夷將軍從一位内大臣源義熈(よしてる)公は、佐々木判官《はうぐわん》高賴を、せめられんとて、軍兵《ぐんぴやう》を率(そつ)して、江州に下(くだ)り、栗太郡(くりもとのこほり)鈎(まがり)の里に陣を据ゑられ、爰(こゝ)にして、御病惱(《ごびやうなう》、重くおはしましつつ、同じき廿六日に薨(こう)じ給ふ。
其《その》前の夜、十五間の馬屋《むまや》に立《たち》並べたる馬《むま》の中に、第二間の厩に繫がれたる蘆毛(あしげ)の馬、怱ちに、人の如く、物、いふて、
「今は、叶(かな)はぬぞや。」
と、いふに、又、隣りの河原毛《かはらげ》の馬、聲を合《あは》せて、
「あら、悲しや。」
とぞ、いひける。
其《その》前には、馬取《むまと》り共、なみ居て、中間・小者、多く居(ゐ)たりける。
皆、是を聞くに、正《まさ》しく、馬共《むまども》の、物いひける事、疑ひ、なし。
身の毛よだちて、怖ろしく覺えしが、次の日、果(はた)して、義熈公、薨じ給ひし。
誠にふしぎの事也。
[やぶちゃん注:「人語(にんご)」「新日本古典文学大系」版脚注には、『この振仮名未詳。正しくは「じんご」か』とする。但し、元禄版でも「にんご」と振っている。
「延德元年」以下は実際には改元前の長享三年三月中のことである。長享三年八月二十一日(一四八九年九月十六日)に延徳に改元された。但し、史書では、改元があった場合には、その一月に遡って新元号を用いるのが普通である。
「京の公方征夷將軍從一位内大臣源義熈(よしてる)公」室町幕府第九代征夷大将軍(在職:文明五(一四七三)年~没日)足利義尚(よしひさ 寛正六(一四六五)年~長享三年三月二十六日(一四八九年四月二十六日)のこと。彼は亡くなる前年の長享二年に義尚から義煕(「熈」は同字)に改名しているが、一般的には義尚の名で語られることが多い。ここにある通り、近江の陣中で病死した。享年二十五(満二十三歳)。当該ウィキによれば、『死因は過度の酒色による脳溢血といわれるが、荒淫のためという説もある』とある。
「佐々木判官高賴」(寛正三(一四六二)年~永正一七(一五二〇)年)は六角高頼の名の方が知られる。近江守護。大膳大夫。長享元 (一四八七) 年七月、管内の社寺領や幕府近臣の所領を押領したため、同年九月、近江坂本に将軍足利義尚の征伐を受けた。高頼は同月二十日には観音寺城を幕府軍に攻略され、甲賀郡に逃れたが、同年十月、幕府軍が甲賀郡に攻め入ったため、さらに逃亡し、近江の国人に助けられた。延徳三(一五九一)年八月にも、第十代将軍足利義稙 (よしたね) に追伐されたが、後、義稙・義澄らに頼られ、これを援助した。
「栗太郡(くりもとのこほり)鈎(まがり)の里」現在の滋賀県栗東(りっとう)市上鈎(かみまがり)に陣屋跡が残る(グーグル・マップ・データ)。
「十五間の馬屋」「伽婢子卷之六 伊勢兵庫仙境に至る」の私の注の「十五間の厩(むまや)」の「新日本古典文学大系」版脚注からの引用を参照。
「蘆毛」馬の毛色の名。栗毛・青毛・鹿毛(かげ)の毛色に、年齢につれて白い毛がまじってくるもの。一般に灰色の毛色を呈している馬を指す。肌は黒っぽく、生えている毛は白いことが多い。「蘆」はアシ(=ヨシ)の芽生えの時の青白の色に因んだ呼称である。また、それを白葦毛・黒葦毛・連銭(れんぜん)葦毛などにも分ける。
「河原毛」被毛は淡い黄褐色から、艶のない亜麻色までを含み、長毛と四肢の下部は黒色を呈する馬を指す。
「馬取り」馬の口取り。馬丁。]