曲亭馬琴「兎園小説別集」上巻 松前家走馬の記 騎馬筒考(騎馬筒)
[やぶちゃん注:前話に引き続き、息子の興継が医員をしていた松前藩の、「兎園小説」では既にお馴染みの、先代藩主で馬フリークの老公松前道広の持ち馬絡みの話。「松前家走馬の記」と「騎馬筒考」(本文内では「騎馬筒」)は目録では別に項立ててあるのだが(但し、項標題を示す「○」が附されていない。これは吉川弘文館随筆大成版も同じ)、何より、それより前の「松前家走馬の記」の後半の部分に騎馬で鉄砲(図では太めの寸詰った手筒火砲)を放つ話が出ており、底本では前の「松前家走馬の記」の話中にその図が挿入されている(吉川弘文館随筆大成版では、「騎馬筒」の始まるページの下方に配されてある)ことから、二篇を分離するよりも、続けて示す方がよいと考え、特異的に続けた。但し、その結果として長くなり、読み難くなるので、今回は段落を成形し、また、記号も多く挿入し、さらに例外的に《 》で推定の読みを歴史的仮名遣で補った。なお、第八代松前藩藩主松前道広(宝暦四(一七五四)年~天保三(一八三二)年)は文化四(一八〇七)年五十四の時、藩主在任中の海防への取り組みの不全や、吉原の遊女を妾にするなどの素行の悪さ(遊興費が嵩み、商人からの借金が嵩み、藩の財政も窮乏していた)を咎められ、幕府から謹慎(永蟄居)を命ぜられていた(後の文政五(一八二一)年には謹慎は解かれた)。馬琴が最も親しい大名であった。]
○松前家走馬の記
老候は、其性《せい》、弱冠より、馬を好み給ひつ。老後に及《および》て、養馬の方《はう》を自得して、厩櫪《むまや》に板を布かず[やぶちゃん注:「櫪」は厩(うまや)の床下の横木。当て訓しておいた。]。土間にして、前に丸太二本を橫にしたるのみ。厩にては馬を繫ぐことも、なし。又、菽《しゆく》の乾葉【今、諸家にて用る抹《まぐさ》なり。「菽」はこの場合、広義のマメ科の植物の総称。】、ゆで豆、糠などを飼ふことをせず[やぶちゃん注:「などを以て」の脱字か。]。只、刈草と水を與《あたふ》るのみ。又、湯をもて四足を洗ふことを、せず【所云《いふところの》、「馬のスソ」なり。[やぶちゃん注:これは脚部全体を指すようである。]】。もし、汚なれば[やぶちゃん注:「れ」が衍字か或いは「汚れなば」の錯字か。]、水をそゝぎかけて、その泥土を洗ひおとすのみなり。こゝをもて、その馬、壯健にして病馬なし、といふ。
この兩三年已來、松前なる牧士、五、六人を、江戶の邸に召のぼし、かれらが馬を走らするを見て、みづから樂しみ、又、人にも觀するを樂みとし給ひけり。はじめは、馬場、廣らざりければ、去々年《おととし》より、兩度、「筋違外」及「櫻の馬場」にて牧士の走馬あり。これにより、世の人も、その騎馬の奇妙なるをしれり【當時、坊間の「にしき繪」といふものに、其騎馬の圖を版せし事あり。風聞によれる者なり。】。
[やぶちゃん注:「筋違外」不詳。筋違門外の馬場で切絵図を調べたが、馬場らしいものはない。
「櫻の馬場」個人サイト(但し、アーカイブ版)「旧道行脚」の「古地図で巡る江戸の馬場江戸の馬場」の冒頭に地図入りであり、『桜の馬場は御茶ノ水馬場ともいい、馬場の左右に桜もみじの大木があったと言う。江戸末の切絵図では江川太郎左エ門掛鉄砲鋳場となっている』。明治八(一八七五)年に『設立されたお茶の水女子大学の前身である東京女子師範学校があった。現在は東京医科歯科大学になっている』とある。ここでも「筋違外」らしきものは見当たらなかった。]
淺草千束村【大鳥《おほとり》明神の祠の向ふ也。】なる抱屋敷の厩中に有ㇾ之駿馬十五、六疋、老候みづから、其馬に名を命じ給ふもの、左の如し。
[やぶちゃん注:最初の割注は底本では「鳥大明神」となっているが、吉川弘文館随筆大成版で訂した。酉の市で知られる現在の鷲(おおとり)神社のこと。
以下、「無二無三」号と追加の二頭は割注のため、二行に分かった。太字「名未詳」は底本では囲み文字(吉川弘文館随筆大成版では傍点「ヽ」)。「駁」は「ぶち」で「駁毛(ぶちげ)」のこと。体に大きな白い斑があるものを言う。原毛色により「栗駁毛」・「鹿駁毛」と記載する。白色部が有色部に勝ったときは「駁栗毛」「駁鹿毛」と記載する。]
化物尺 矢作牧出 矢羽印 栗毛
蘇 駁 上野牧出 笠 印 駁
龍 卷 中野牧出 千鳥印 栗毛
小天狗 同 牧出 同 駁
無二無三【一名「無中實」。】
上野牧出 笠 印 駁
韋駄天 中野牧出 千鳥印 朽栗毛
赤 鬼 小間木牧出 分銅印 栗毛星
比叡颪 高田臺牧出 琴柱印 栗毛
駁夜叉 下野牧出 輪違印 駁
白 狼 印西牧出 瓢簞印 月毛
胡 豹 上野牧出 笠 印 同
自在船 同 牧出 同 駁
鬼面蛇 中野牧出 千鳥印 同
阿修羅王 上野牧出 笠 印 月毛
追 加
トミサバ【乙酉[やぶちゃん注:文政八年。一八二五年。]六月より。】
蝦夷產【トミサバといふ蝦夷の乘し馬也。】 鹿毛
名未詳【乙酉六月下旬、所ㇾ購《あがなはらる》。】
下總牧出 印
通計十六疋【この他、下谷の邸にも、馬、六、七疋あり。】
文政八年酉夏四月十四日、老候みづから、淺草なる別莊に趣きて、松前の牧士松五郞に、「十里乘切り」といふことをさせて、これを見給ひけり。所云《いふところの》、「十里乘切」は、百七十五間[やぶちゃん注:約三百十八メートル。]の馬場を、一馬にて、小休をせず、百三十三遍、乘廻せしなり。此路程を量るに、凡そ十里に當といふ。騎馬の達者、これにて想像すべし。馬も亦、駿足ならざれば、斃《たふ》るべきものなり。
同年五月廿六日、右の馬場にて、
「牧士等の稽古、騎馬あり。」
とて、其前日に藩中の醫師牧村右門、奉札[やぶちゃん注:書簡。]をもて、予に老候の命を傳へ、
「ゆきて見給はずや。」
と、いはれしかば、本日、未牌[やぶちゃん注:正午頃を指す漢語。]のころより、予は宗伯[やぶちゃん注:息子興継の医号。]と共に、千束村なる下屋敷に趣きて、是を見たり。下屋敷守り、大野幸次郞【勘定役。】、煎茶・菓子をもて、饗さる。この日、諸方より來り見る者、三百餘人、皆、歷々の武家、及、陪臣等なり。騎馬の牧士五人、各《おのおの》、革の半天を被《き》たり。これ、落馬しても身を傷《き》らじとの爲也。その牧士は【各、三鞍、乘ㇾ之、松五郞、四鞍、乘ㇾ之。】
窪田松五郞 廿五歲に見ゆ
代 助 十八歲
三 次 郞 三十歲許
房 吉 二十餘歲
龜 吉 二十歲許
此中、松五郞を第一とす。此他、淸藏といふ者、有ㇾ之。亦、上手と稱らる。然るに、今玆《こんじ》の春、壯年にして病死せしとぞ。惜むべし。
かくて未の下刻[やぶちゃん注:午後二時半過ぎ。]より、右の牧士等、十餘疋の馬を、乘かへ、乘かへ、走らすること、目を驚《おどろか》すばかりなり。其馬、すべて鞍・泥障《あふり》を用ひず[やぶちゃん注:「泥障」は下鞍(したぐら)が小型の大和鞍や水干鞍を使う際、泥が飛びはね、衣服を汚すのを防ぐため、下鞍の間に垂らす大型の皮革を指す。]。みな、裸馬なり。はじめ、轡《くつわ》をかけたるを、馬上にて、其くつわを外して捨、又、馬上より、其鑣《くつわ》[やぶちゃん注:「轡」と同じ。]を、拾ひとりて、馬にかけ、或は、馬の背に立《たち》て、手をひらき、手をたゝきながら、走らせ、或は、兩馬を相並ベて、ひとしく走らせ、左右おのおの、遲遠なく、走らせながら、馬を乘《のり》かへ、或は、
「敵が、敵が。」
と唱へて、走馬の背に乘《のる》人の足の甲をかけて、倒《さかさま》にさがりつゝ、馬のわき腹に、かくれて、走らするなど、馬上の自在、形樣すベくもあらず。駿足・逸歸、其疾きこと、颷風《へうふう》[やぶちゃん注:「ひょうふう」は旋風(つむじかぜ)或いは疾風(はやて)のこと。]の砂をまくが如く、數十間の馬場を往返する事、只、瞬間にあり。觀るもの、嘆賞せざるはなし。下晡《かほ》日沒のころ、事果しかば、予は大野生等に謝して、宗伯と共に、その宵、家にかへれり。[やぶちゃん注:「下晡」は「晡下」が一般的で「晡」は、「申の刻」「七つ下がり」のことで、午後四時過ぎを指す。]
同年六月十五日、又同所にて牧士の騎馬、鳥銃の稽古乘《けいこのり》あり。これより先、牧村右門、奉札をもて、老候の命を予に傳へて云、
「炎暑の折なれば、途中もいとはしく思はるべけれども、日かげ傾きて、哺時のころに來給へ。馬上筒は足下に見せまほし。」
と、老候の宣するとなん、傳《つたへ》らる。是により、近きわたりの友人の、かねてより「見まほし」といはれしもあれば、本日の未後《びご》[やぶちゃん注:午後二時過ぎ。]、是彼《これかれ》を誘ひあはして、又、かの下屋敷へ赴く程に、宗伯は午後より先だちて、三絃堀の邸へまゐりて、老候に當日のことほぎを述《のべ》まうし、それより、千束村にゆきて、下屋敷にて、我等を待てをり。この日は他の見物、まじへられず。これ、よくその騎を見せん、とてなり。この日、餘が同伴の人には、屋代輪池堂【大郞。】、關潢南【忠藏。】、其子、關東陽【源吉。】、中井乾齋【準之助。吉田候家臣。】、屋代又太郞、山路岩次郞【輪池堂塾生。】、前原三藏【屋代親類、本所より來也。】、大久保七之助【高田候家臣。】、長崎屋美成【新兵衞。】等なり。この日も、走馬、前月の如し。おのおの、裸馬の上に立ながら乘り、走らして、火炮《ひづつ》を放つに、その馬、少しも駭《おどろ》き騷がず。走ること、ますます、速《すみやか》なり。目錄、左の如し。
一トシサバ【但、鞍を置。】地カケ一、小筒一、百匁玉一。
老候附近習 牧田七郞右衞門
一白狼、立乘一、同一、轡捨一、無轡立乘り【但、落馬す。】。
松前牧士 三 次 郞
一無中貫、立乘一、同一【脇腹下り。】、立乘一。
同 龜 吉
一白狼【敵がくれ。】一、兩馬乘移り【相手、松五郞。】
同 代 助
一無中貫、立乘一、同一【乘廻し。】、一【乘下り乘廻し。】、一。
同 松 五 郞
一自在船、地乘一、馬上小筒。
同 代 助
一同、百匁玉一。 同 松 五 郞
一鬼面蛇、小筒一、百匁玉一。
同 同
一向不見、同、同。 同 同
一白狼、同、同。 同 同
一無中貫【立乘り小筒。】一、同。
同 同
一赤鬼、小筒一、同。 同 同
一蘇駁、同、同。 同 同
右六月十五日、未下刻より至二申下刻一乘終、又、予父子、及、同行の友人、この宵二更前各還二于家一。
[やぶちゃん注:「百匁」三百七十五グラム。実に直径凡そ四・五センチメートルもある砲弾である。
「申下刻」午後四時半過ぎ。]
是より前後、諸家の懇望によりて、牧士を、その邸につかはして、乘らしめ給ふこと、しばしばなり。六月已後、馬上火炮の稽古、ますます怠りなきにより、牧士代助、立乘をして、百匁玉を放つことを得たり。老候、よろこびの餘り、其圖を北馬に畫《かか》して、板して、馬術熱心の武家に送り給ふ程に、予父子にも、五、六枚給はりしかば、屋代翁をはじめ、同行の人にわかち與へたり。その藏版の圖を左に貼す。
[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの大正二(一九一三)年国書刊行会編刊の「新燕石十種 第四」のこちらにある挿絵をトリミング補正した。]
解云、泰平久しきの幸ひを得てしより、人々、馬上の火炮などは、絕て、見るよし、なかりしに、松前老候、武備の爲に、この事をおもひ起し給ひしより、漸くに成就して、世の耳目を新にす。二百年來、大江戶に、是、未曾有の奇觀と、いはまし。抑《そもそも》、老候の志、これ只、自己の慰のみならず、家臣に是を習して、松前海邊《かいへん》の備《そなへ》とし、且、其非常に充《あて》んが爲也。こゝをもて冀《ねがは》くは、養馬の方《はう》、馬上の進退、諸家、みな、我に倣《ならは》んことをし給ふと聞えたり。昔、戰陣に騎馬の火炮ありし事は、「武家編年記」・「武林往昔記」・「明君德光錄」、その他の書にも、往々に見えたり。その抄錄は別本とす[やぶちゃん注:不詳。]。よりてこゝに贅せず。
文政八年乙酉秋七月上旬 瀧澤笠翁識
[やぶちゃん注:以下の乾斎の漢詩は、全体が二字下げ二段組みだが、一段とし、引き上げた。「□」は底本の判読不能字。吉川弘文館随筆大成版でも同じ。因みに彼は中井姓。]
看走馬
田畔奮來自駱驄
空拳直跨萬夫雄
人間始試王良術
天下爾看伯樂工
龍尾輕過翻自練
駿蹄高拂發淸風
奔跲千里戰場利
鋭耳何驚飛火中
乾齋□氏草稿
[やぶちゃん注:我流で訓読してみる。
*
走馬を看る
田畔(でんはん) 奮ひ來たるは 自(おのづか)ら駱驄(らくさう)
空拳 直跨(ちよくこ) 萬夫(まんぷ)の雄
人間 始めて試むは 王良の術
天下 爾(ここに)看る 伯樂の工
龍尾 輕く過ぐること 自づと練(ねり)のごとく翻へり
駿蹄 高く拂ふこと 淸風を發す
奔(はし)りて跲(つまづ)くは千里にして 戰場の利
鋭耳 何ぞ驚かん 飛火(ひくわ)の中(うち)
*
「駱驄」の「駱」は鬣(たてがみ)の黒い馬で、「驄」は葦毛であることを指す。「王良」は春秋時代の晋の当主趙襄子(ちょうじょうし)の御者。優れた馬術家であったと伝わる。
以下が、次項の「騎馬筒考」(目録の表記。本文では「騎馬筒」)。御覧の通り、標題の「○」がない。一行空けた。]
騎馬筒【受二老候之命一、家嚴手錄與二管見一而錄ㇾ之、以普ㇾ之。[やぶちゃん注:「老侯の命を受け、家嚴」(父馬琴)「が手錄と、管見」(自分が見たもの)「とをして、之れを錄し、以つて、之れを普(ひろ)む。」か。]】
瀧澤興繼宗伯錄
「明君德光錄」【卷五。】に云、『享保十五年[やぶちゃん注:一七三〇。]の三月、靑山大膳亮が靑山の下屋敷え、明君【有德院樣[やぶちゃん注:徳川吉宗の法号。]御事也。】披ㇾ爲ㇾ成、猪狩被二仰付一候節、逞《たくまし》き猪、御馬先え、出候に付、御馬上にて、御鐵炮の火蓋を被ㇾ爲ㇾ切候處、加納遠江守、不圖、御筒先へ乘出さㇾ候故、あはやと存候間も無ㇾ之、御鐵炮を、空ざまに被ㇾ爲ㇾ拂候へば、玉は空中に入、遠江守は、人馬とも少しも怪我無ㇾ之』由、危急至極の御場所にて、右の如き早業は、實に神氣御融通被ㇾ遊候御事なり。同書【同卷。】に、又、曰、『明君には、至て、御雄偉に被ㇾ成二御座一、「鶉勢子」の節は、七百人程、圍縮候中にて、明君計、諸人の頭より、はるか上に見上げ候。然ば、御身の長《たけ》六尺餘被ㇾ爲ㇾ渡候やと申傳候。又、遠方御成の節は、右御手に十六貫匁の御鐵炮を被ㇾ爲ㇾ提、御手を被ㇾ爲ㇾ振候て、御步行被ㇾ遊候。脇より見上げ候へば、唯、御杖などを被ㇾ爲ㇾ持候樣に有ㇾ之、是に依て、御多力の程、難ㇾ計候也。又、御壯年の頃にや、指《さ》し箭《や》を被ㇾ遊候處、御一肩に六千本通り候よし、昔、源家の始祖鎖守府將軍義家公、騎射、神の如し、といへるに、連綿被ㇾ成候御事と可ㇾ奉ㇾ申や。』【已上、「明君德光錄」に見えたり。】。[やぶちゃん注:以上の引用符は原本に当たったわけではなく、私の推定に過ぎない。以下も同じ。]
「武林往昔日記」に云、『攝州大坂合戰の時、寄手方より、心がけの武者三人は、進退の足場を見ん爲に物見に出る。細き流れの小川ありて、漸々、人の腰だけ立や不ㇾ立程の川なりしが、其川端の向ひの岸に、一つの石佛あり。寄せ手の方、三人のうち、二人は鑓をもちて、今一人は馬上筒を持たり』云々【この一條は、屋代氏の抄錄によれり。】。
一書に云、『臺德院樣[やぶちゃん注:徳川秀忠の法号。]、品川え、被ㇾ爲ㇾ成候節、「鈴の森」邊にて【このとき、「鈴の森」は、いまだ刑場にならざりしか。】、御馬上に小筒を被ㇾ爲ㇾ持、御手づから、烏を打せられ處[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版では、ここに『(脫アラン)』と編者注らしき傍注がある。]、あやまたず、烏は、玉に應じて落けるを、御自讃にて、「譽《ほめ》よ、譽よ。」と仰《おほせ》あれば、御側の御小姓衆、ほめ奉る。その聲を聞て、遙に扣《ひかへ》たる人々も、思はず、同音に「ドツ」と譽奉りし聲、いさましく、品川濱名橋の邊まで聞えし。』となり【この事、何の書に出たるにや。書名を書とめおかざりければ、忘れて思ひ出されず。暗記の事なれば、たがへる所もあるべし。なほ、この書名をたづぬべし。】。
「武家編年記」に云、慶長十九年[やぶちゃん注:一六一四年。]十一月廿二日、難波冬御陣に、大樹御進獻の驪騅《くろむま[やぶちゃん注:私の勝手な当て訓。]》を牽來れば、城の方に向て嘶《いなな》く。神君は、「敵陣に向《むかひ》て嘶く馬、珍鋪《めづらしき》」由、御詫あり[やぶちゃん注:「詫」は「託」の誤字で、貴人の言葉・感想の意であろうか。或いは以下の台詞からは「託言」(かこちごと:不満を呟くこと)でそのままでいいのかも知れぬ。]。藤堂高虎、寔《まこと》に「吉兆」の旨を述《のぶ》る。御喜色の餘り、地道一返馳[やぶちゃん注:「地道(ちだう)一返馳(いちへんち)」か。迷うことなくさっと走らせて返ることで、以下と畳語強調であろう。]に返乘《かへりの》らせ給ふ。大名、皆々、蹲踞稽首して拜見す。時に上意あり。「壯年の頃は、戰場に於て、馬上に鐵炮を放し、箭を發して、敵を拒《ふせ》ぎ、平日は、騎上に鷹を肱《ひぢ》にし、終日、馳驅しけるに、老齡の今は、常馭さへ、輒《たや》すからず。」と云々。藤堂高虎、「今、以、强盛の御事。」と稱譽す。斯《かく》て、住吉に還御。難波夏御陣、元和元乙卯[やぶちゃん注:一六一五年。]年五月六日、難波に於て、伊達家の陣法、二騎戰を好みければ、兼々《かねがね》、諸士の庶子、壯健なるを撰《えらみ》て、領内の駿馬を與へ、八百の騎隊となし、戰場に於て、火炮を馬上より一列に發し、熖硝の煙の下より、間に髮を容れず、轡を並《ならべ》、馳破りければ、「如何成《いかなる》剛敵・堅隊成《なり》とも、頽《くづ》れざる事を得ず。今日、其一備《その、ひとそなへ》、一、二町、進み出《いづ》れば、眞田《さなだ》は先陣に乘《のれ》り。爰を堪《たへ》よ。敵、火炮を發する時、一足も引《ひか》ば、忽、馬蹄に蹂躙せられ、塵に成べき。」旨、下知云々。
「眞名太闇傳」、「播州三木合戰」の條に云、『天正七年[やぶちゃん注:一五八五年。]二月五日早朝、三木諸將、來會』中略。『秀吉勢、追ㇾ北、疾、三木大將別所小八郞、返合々々、踏止、近習侍百五十騎、返合、以二馬上鐵炮一五間・六間打、無二流失一』云々【追考、「中國太平記」卷十一「三木合戰」の段、騎馬鐵炮、與二「太闇傳」一、所ㇾ誌、同。】
[やぶちゃん注:「三木合戰」は天正六年三月二十九日(一五七八年五月五日)から天正八年一月十七日(一五八〇年二月二日)にかけて行われた織田氏と別所氏の合戦。詳しくは当該ウィキを参照されたい。]
「神器譜《しんきふ》」卷三、「騎馬帶二三眼銃一圖說」曰、『騎兵五名、各、帶二弓矢一、或、帶二三眼銃一、斫刀鐵簡悶棍、隨二人、當時、習學慣熟一者、從ㇾ便携帶【八丁の左。】。』。圖あり。
[やぶちゃん注:「神器譜」明の趙士禎が著わした、鉄砲の構造や使用法を解説した技術書。全五巻。一六〇三年頃の成立。明は十六世紀半ば頃、倭寇に脅かされ、特に日本の鉄砲の威力を知った。著者は、これに対抗する策を考え、新兵器としての鉄砲の重要性を説いたものであった(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。国立国会図書館デジタルコレクションの文化五 (一八〇八)年刊の訓点附きで、以上の本文はここの右丁で読める。但し、「三眼銃」の図や馬上でのそれは巻二のここに出る。三眼銃は上里隆史氏のブログ「目からウロコの琉球・沖縄史」の「中国式火砲の撃ちかた」に同形式の再現が成されており。短い動画があるが、これ、最早、鉄砲ではなく、爆裂音といい、携帯式小火砲というべきものである。そこにリンクされている韓国のサイトのこちらに現物の三眼銃の画像がある。]
「淸正記」云【「文慶長記外傳」と相同じ。略ㇾ之。】。
「慶長記外傳」、「宇土の一揆」の條に云、『木山彈正《きやまだんじやう》は志岐が爲に伯母聟なり。且、力量・軍術、技群の者なれば、加藤・小西の如き、「小冠者」と常にあなどりて』云々。『「いか樣にも一夜打して、宇土の奇手を追ちらしてこそ、城中へ入らめ。」と工夫し、わが下部に下知して、後の山手へおしまはせしに、一揆の運や、盡たりけん、其夜、汐合《しほあひ》の變じて、入川《いりかは》の處へ、大汐《おほしほ》、込入《こみい》り、一步も行がたく、かれ是するうち、夜、明ければ、彈正、下知して、「兎角、山中の繁りたる處に行《ゆき》、かくれて、今日をくらし、夜、合戰をはじむべし。」と、先手の勢八十人を、まづ、山に推登《おしのぼら》せ、殘る勢は、迹より、まはりて、兵を遣るに、折ふし、加藤淸正が兵を進《すすむ》る時に當れば、本陣より、志岐が、後の山ヘ兵をまはすけしき見えけるにぞ、淸正、目ばやき大將なれば、「是は一揆の加勢と覺《おぼゆ》るぞ。要害を取定《とりさだ》めさせては、味方、むづかしかるべし。」とて、旗本を以、一騎がけに追かけ、向ふに、木山が勢は、先陣・後陣の眞中を、橫切にとりきられて、働き得ず。木山彈正、後陣の兵を、大音にはげまし、「汝等、一足も退《しりぞ》く時は、山上、先手の味方を捨殺《すてごろ》すなり。我に、つゞけ。」と、眞先かけて、古木の如くなる大身の鎗をもつて、淸正が先がけの兵士千餘人を薙倒《なぎたふ》す。加藤が後陣、入《いれ》かはつて進むを、木山彈正、馬上をかためて、十匁玉の大筒を以《もつて》、中《なか》だめに、込返《こめかへ》し、うち出《いだ》せば、忽、七、八人、打倒す。其頃迄は、馬上、鐵炮をうつ人なかりしに【解云、馬上鐵炮は、これよりはるかさきなる「播州三木合戰」に見えたれば、「宇土一揆」のころは、なほ、あるべし。しかるを、『馬上、鐵炮をうつ人なかりし。』と記せしは、記者のあやまりたり。】、天草島は、鐵炮の名人、居《を》る處にて、妙を得たれば、寄手は、是におどろきて、雜兵等は、「人か、神か。」と詈《ののし》りさはぎて、前軍の後《うしろ》より、崩れ、立て退くを、木山が後陣、天草伊豆、兵をはせて、かけ落す。こゝに於て、加藤の總軍、崩れんとす。淸正、是を見て、齒がみをなすに、其音、數間にひびき、髮・髭、さかさまに立《たて》て、物をも、いはず。退く味方を、しり目にかけ、十文字の鎗を、引すぼめて、進まるゝに、諸軍、下知なしといへども、その威風に引立《ひつたて》られて、思はず、取《とつ》て返す。淸正、伊豆が陣に向《むかひ》て、鎗をふるひ、大勇をあらはして、七、八人を、つき落せば、伊豆が陣中、震動して、又、きたなくも、引退く。淸正、つゞいて、おめき進み、仁木坂へ乘上《のりあげ》られしに、木山彈正、ちつとも、退かず。彼大筒の鐵炮を、馬上にかまヘて、しづかにうつを、淸正、はやく、聲をかけ、「あつぱれ、大將、名は何と。」。「木山彈正にて候。加藤淸正殿と見受て候。一手仕《いつてつかまつる》べきや。」といふ。淸正、「尤に候。しかし、飛道具は、ひきやうなり。鎗にて、まゐらん。」といふ。彈正、「心得たり。」とて、鐵炮を捨んとするを、後にありし志岐兵部、いさめて曰、「淸正は大事の敵也。鐵炮にて、うち給へ。」といふ。彈正、聞《きき》て、「我、連歌を好みし時、家臣、異見をいひしに、『我、一生、人の異見をきかじ。』と誓ひて、連歌を、やめざりき。しかれば、今、汝が異見も、用ひがたし。」とて、鐵炮を捨て、大身の鎗を「ひらひら」と、そらなりさせて、坂を飛《とび》をり、突《つい》てかゝれば、淸正、十文字の鎗をもつて』云々【卷の四「木山彈正討死の段」に見えたり。】。この餘、猶、あらん。考ふべし。
[やぶちゃん注:「木山彈正」木山正親(まさちか ?~天正一七(一五八九)年)は肥後国の国人。「彈正」は通称。当該ウィキによれば、『龍造寺氏の影響下にあった阿蘇氏の客将で、近隣に知れ渡る程の剛勇の士であったと伝えられる。龍造寺隆信の跡を継いだ龍造寺政家との関係が悪化したために、縁戚である天草種元に客将として迎えられた』。天正十七年、『豊臣秀吉によって九州が平定された後、小西氏の与力とされていた天草衆が、小西行長の築城普請を拒否するという事態が発生し、加藤清正・小西行長らの討伐軍が攻め寄せると、正親は志岐麟泉』(りんせん:元の名は鎮経(しげつね))『と共にこれを迎え撃った。ところが、麟泉は討伐軍の兵力の多さの前に戦意を喪失し、戦わずして撤退すると、正親は一戦も交えずして退却はできぬと、兵』五百『を率いて』、『清正の軍に』、『早朝、奇襲をかけた。単騎で敵将・清正を求めて、敵中深く突入し、清正を見つけると一騎討ちを挑んだが』、『討ち取られた(同合戦で正親の長男も戦死している。)』。『清正との一騎討ちの経緯はいくつか説がある。清正を組み敷き』、『首級を挙げんというところまで追い詰めたものの、主君危うしと駆けつけた正親の家来に「下か上か」と訪ねられ』、吃音症『のあった正親より先に』、『清正が「下だ!」と叫んだために、誤って家臣の槍にかかり死亡したという説と、清正が太刀で戦おうと正親に呼びかけ、清正が槍を捨て』、『決闘に応じた正親が弓を置くと、清正はすかさず』、『槍を拾い、正親を討ち取ったという説がある』とある。]
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