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2022/01/25

狗張子卷之二 武庫山の女仙

 

[やぶちゃん注:挿絵は今回は底本(昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編「同全集第一期「江戶文藝之部」第十巻の「怪談名作集」)のものをトリミング補正して、適切と思われるところに挿入した。]

 

    ○武庫山(むこやま)の女仙(によせん)

 

 天正年中に、京都七條わたりに、小野民部(みんぶ)小輔(せう)とて、もとは然《しか》るべき人のすゑと聞こえし。

 世に、おちぶれて、京のすまひも物うくて、津の國冠(かふり)の里に、したしき人を賴み、かしこにくだりて、住みけり。

 

Minnbu1

 

 さびしき田舍のすまひ、我とひとしき友もなく、春の日のうらゝかなるに、いざなはれて、心にまかせて、武庫の山もとにいたり、

 見渡せばすみのえ遠しむこ山の

       浦づたひして出る舟人

と、うちずむじて、谷ひとつ、わたりて、あなたの茂みにさし入ければ、年のほど、はたちあまりの女、只、ひとり、立(たち)てあり。

 花をたづねてあそぶにも、あらず、妻木(つまぎ)をひろふ賤(しづ)のめとも、みえず。

 身には、木の葉をつゞりながらも、いやしからぬ有さま、民部、あやしく思ひて、近くあゆみよりつゝ、

「君は、いかなる人なれば、かゝる山中(やまなか)に、只ひとり、おはすらん。」

と問ひければ、女、うちゑみて、

 

Minnbu2

 

「我は、もとより、此山に年月をかさねしものなり。昔をかたりて、聞せまゐらせん。古(いに)しへ、神功皇后は(じんぐうくわうごう)、高麗(こま)・もろこし・新羅(しらぎ)の國をうちしたがへ、此日のもとに歸陣(かいぢん)あり。弓矢(ゆみや)・鉾(ほこ)・劒(つるぎ)・よろひ甲(かぶと)、あらゆる武具を、此山にうづみ給ひしによりて、『武庫の山』とは名づけられけり。そののち、天長のみかどの御時に、第二の妃(きさき)、この山に入《いり》給ひ、『如意輪觀音の法』をおこなひ給ふ。故に『如意の尼』と申奉りけり。こゝは辨財天の住所、廣田(ひろた)の明神、つねに、まもり給ふ。白き龍に變じてあらはれ、石となりて御形(《おほん》かたち)を殘し、猶、今も、此山にましませり。空海和尙(くわしやう)、この所にして、『如意實珠の法』を修(しゆ)せられしに、辨財天女、あらはれ給ひ、

「我、此山にとゞまりて、あらゆる貧人(ひんにん)のために、たからをあたへん。」

と、ちかひ給へり。如意の尼、すでに伽藍を建立(こんりう)し、如意輪の陀羅尼(だらに)を誦(じゆ)し、空海和尙を請(しやう)じて、祕密灌頂(ひみつくわんぢやう)をうけ給へり。此年、天下、大に日でりせしかば、守敏(しゆびん)・空海、雨ごひのいのり、有りけるに、如意尼、もとよりもち給ひし『浦島子(うらしまこ)が箱』を、空海、これを借りて、大祕法をおこなひ、雨ふりて、天下をうるほし給ひけり。此山の上に、大《おほい》なる櫻木、有《あり》て、朝(あした)ゆふべには、光さして、かゝやきけるを、空海に仰せて、此木を伐(きり)て、佛像をつくり、『浦島子が箱』をば、佛(ほとけ)の中に、つくりこめ給ふ。御后(きさき)、此山に入《いり》給ひし御時《おほんとき》、二人の女官(によくわん)をめしつれ給ふ。一人は、これ、從四位上和氣眞綱(わけのまつな)のむすめ豐子(とよこ)といひ、今一人は相馬將門(さうままさかど)のむすめ將子(まさこ)といふ。今の我身、これなり。如意尼につかへ奉る事、露ばかりも、おこたり、なし。我は、常に瀧の水をくみて、閼伽(あか)のそなへとす。ある時、瀧の水のもとに、いとけなき兒(こ)の、いまだ二歲にもたらざるやうにて、色白く、うつくしきが、匍出(はひい)で、我を見て、うれしげに笑ひけるを、いとをしく、愛して、時のうつりて、おそく歸りしかば、

「いかに。けふは、おそかりし。」

と、とがめ給ふ。

「かうかうの事、侍り。」

と申す。

「その子、いだきて、歸りて、見せよ。」

と仰せけるを、又、瀧のもとにゆきければ、いたいけらしく、匐ひ出《いで》て、わらひけるを、かきいだきて歸るに、門に入《いり》しかば、此子、むなしく成《なり》て、枯木(かれき)の根(ね)のごとくにて、おもく覺えしを、如意尼、近くよせて御らんじければ、

「幾世(いくよ)へたりともしらず、大《おほい》なる茯苓(ぶくりやう)といふものなり。是れは、そのかみ、聞き及びし、仙人の靈藥なり。これを食(しよく)すれば、白晝(はくちう)に天にのぼるとかや。かぎりなき命を、のぶる、藥(くすり)なり。甑(こしき)に蒸(む)して、奉れ。」

とあり。柴(しば)三束(ぞく)を、燒(たき)つくして、すゝめ奉る。みずから、きこしめし、二人の女官にも給はり、みな、のこりなく、喰(くひ)つくしけり。これより、心はれやかに、身も凉しく、日をかさねて、如意の尼と、豐子、もろ友に、天に上《のぼ》り給ふ。我は、心、すこしおくれて、つれても、のぼり得ず、此山にとどまり、松の葉を食(じき)とし、數百年《すひやくねん》をおくりて、夏とても、熱(あつ)からず、冬もまた、寒からず。谷峯をわたれども、苦しくもなし。身はかろく、形(かたち)、おとろへず。さて、今は、いか成《なる》君のおさめ給ふ御代(みよ)成《なり》けるや。」

と問(とふ)に、民部は、

「かかるきどくの物がたり、又、ためしなき御事なり。天長の年よりこのかた、世、かはり、人、あらたまり、數(す)百歲をへだつるあひだに、人王(にんわう)は百七代にあたらせ給ふ。年號は、今は『天正』と改元あり。世の中、亂れて、暫らくも靜かならず、國、さはぎ、民、くるしみ、上下ともに、おだやかならねば、只、浮雲(うきくも)のごとし。あな、浦山《うらやま》しの有《あり》さま、眞(まこと)の地仙(ちせん)にて、おはしけり。」

とて、首(かしら)を地につけて、をがみけるあひだに、女仙は、行《ゆき》がたなく、うせにけり。

 民部、ふしぎに思ひ、ふもとの里に入《いり》て、

「只今、此山中にて、かゝる人に逢ひけり。年ごろも、此人に行逢(ゆきあふ)たるためしありや。」

と、たづねければ、あるじ、大《おほき》におどろきて、

「されば、此家の祖父(おゝぢ)、八十有餘なりしが、

『むかし、わかかりし時に、

「柴(しば)、刈(かる)。」

とて、山に入《いり》しかば、何とはしらず、廿(はたち)あまりの女の、顏、うるはしく、つやゝかなるが、身には、木の葉をつゞりかさね、岩のうへに、たちてありしを、

「あれは。」

といふ聲を聞て、飛ぶともなく、はしるともなく、嶺(みね)にのぼりて、うせさりぬ。』

と、かたられ、

『きつね・むじなの、ばけたるにや。』

と、いはれしを、聞《きき》おき侍べり。それより後には、見たる人も、侍べらず。」

とぞ、いひける。

 民部、

『きどくの事をも、みつる物かな。』

と、思ひつゞけて、歸りぬ。

[やぶちゃん注:「天正」一五七三年から一五九二年まで。国外では早期採用国では天正十(一五八二)年九月下旬以降、グレゴリオ暦となっている。

「小野民部(みんぶ)小輔(せう)」不詳。

「津の國冠(かふり)の里」大阪府高槻市大冠町(おおかんむりちょう:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「武庫の山」地名としては兵庫県宝塚市武庫山が残る。六甲山脈の東端の山麓。ウィキの「武庫」によれば、『武庫(むこ)とは兵庫県摂津地方の古地名で、尼崎から兵庫までの沿海部を言う。武庫の名は』「神功皇后紀」に『はじめて見え』、「務古」とも『書いた』。『武器を埋めたところ』(「元亨釈書」等)、『椋(むく)の』の木のある山(加茂真淵)、『御子(みこ)の訛』(「住吉大社解状」)、『向こうの意』(「冠辞考」)など、『諸説ある』。『上古文化の中心地である大和を出、難波から船を出さんとするとき、遥か対岸の地を望んで「向こう」と言ったとする説は無理の無い解釈として一般に認められている。しかしながら、はるか難波の対岸から見えない場所や河川名にまで、武庫の名がつけられていることから、疑問がないわけではなく、古くからいくつかの説がある。吉田東伍は「大日本地名辞書」』の「廣田神社」の『項で、祭神名天疎向津姫(あまさかるむかつひめ)に関して』、「向か津」は「武庫津」に『同じと指摘していることと、かつて』「向か津峰」と『呼ばれた武庫山=六甲山全山が往古、廣田神社の社領であったことは、考慮に値する』とあり、「摂津国風土記」『(逸文)は武庫の由来について次のように伝えている』。『「(神功)皇后は摂津の国の海浜の北岸の廣田の郷においでになった。いま廣田明神というのはこれである。その故にその海辺を名づけて御前(みさき)の浜といい、御前の沖という。またその兵器を埋めた場所を武庫(むこ)という。今は兵庫という。」』。『この伝承は、兵庫県の旧家である 北風家が』寛政七(一七九五)年まで『家宝として神功皇后の鎧を伝えていたことと整合する』とあった。

「見渡せばすみのえ遠しむこ山の浦づたひして出る舟人」江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(二)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)の注に、『類歌に「住吉のえなつにたちて見わたせば六児(むこ)のとまりをいづる舟人」(『歌枕名寄』泊一一二)がある。』とあった。以下、この歌やロケーションから、六甲山脈にそれなりに分け入っていないとおかしいから、凡そこの中央辺りが候補地か(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「妻木(つまぎ)」「爪木」とも書く。「爪先で折りとった木」の意とも、「木の端(つま)」の意とも言う。薪(たきぎ)にするための小枝。柴。

「木の葉をつゞりながらも、いやしからぬ有さま」挿絵を見るに、仙人のアイテムである木の葉綴りの服ながら、相応に豪華である。

「神功皇后は(じんぐうくわうごう)、高麗(こま)・もろこし・新羅(しらぎ)の國をうちしたがへ、……」以下については、江本氏の論文で、教科書的な注ではなく、本篇の構成と原拠について、詳細に優れた分析がなされてあり、本篇を読み解くに甚だ有益であるので、かなり長いが、以下に引用させて戴く。

   《引用開始》

「神功皇后」は、第十匹代仲哀天皇の后で名は気長足姫。しばしば託宣を受け、巫女の役剖も担っていた。以下の本文を五つの記事に分けると、「武庫山の白来」、「如意の尼」、「広田明神の霊験」、「空海の雨ごいと浦島子の箱」、「如意の尼の従者」となり、右は『元亭釈書』十八「如意尼」や『本朝神杜考』二「広田」、同五「浦島子」に載る。先行作品と本文との関わりについて述べると。本章の「如意の尼」では天長帝の「第二の妃」とするが、「神社考」一二「広田」では「天長ノ妃」とのみ、同五[浦島子]では「第匹ノ妃」、また『元亨釈書』では冒頭「天長帝ノ次ギノ妃」と記すのに対し、後出帝が得る霊夢の中では「大悲ノ真身ヲ見ト欲バ第四ノ妃即是也」と記し、同一記事内で「第二」と「第四」が混在する。いずれにせよ「第二」とするのは、管見の範囲では本書と『元亨釈書』冒頭部だけである。次に「空海の雨ごいと浦島子の箱」の記事は、日照りのあった年を本文では「此年天下に大に日でり」とし、如意尼が空海を招き秘密灌頂を受けた年と同じとするが、「元亨釈書」及び「神杜考」五では日照りがあったのは。「天長元年」、秘密灌頂を受けたのが「天長七年」とする。上記齟齬は、「元亨釈書」のいくつかのエピソードを、本書が順序を変えて利用したために起きたものか。ちなみに、本章前半を占める一連の記事が先行作品と明らかに異なる点は、例えば伽藍建立の年や秘密灌頂を受けた年などで、具体的な時間を示していないことである。次に「如意の尼の従者」について、女官が二人いることは「元亨釈書」に見られ、それぞれ「如一」、「如円」と記される。このうち「真綱之女」は本文に合うものの、上記の通り、名は「如一」で本文の「豊子」とは合致しない。またもう一人を「将門のむすめ将子」とする記事もない。ただし、将門の娘は、「如蔵尼」として知られ、「元亨釈書」では「如意尼」の次に「如蔵尼」の伝説を収載している。なお、「如一」、「如円」の記事は「神社考」には見えない。以上ここに述べた以外の、「武庫山の由来」、「広田明神の霊験」、「空海の雨ごいと浦島子の箱」の描写は先行作品をほぽ息実に採川する。

   《引用終了》

この内、私の食指が甚だしく動くのは、「浦島子の箱」である。林羅山道春著「本朝神社考」の注釈附きの昭和一七(一九四二)年改造社刊の当該箇所を国立国会図書館デジタルコレクションの画像で見られる。ここここで後者の一字下げの部分を了意がそっくり元にしていることがよく判るので、是非、見られたい。

「歸陣(かいぢん)」「がいじん」(凱陣)の当て読み。戦いに勝って軍隊を引き揚げ、自分の陣営に帰ること。凱旋。古くは事実、「かいじん」とも読んだから、相応しいルビである。

「天長のみかど」淳和(じゅんな)天皇(延暦五(七八六)年~ 承和七(八四〇)年/在位:弘仁一四(八二三)年~天長一〇(八三三)年)。桓武天皇の第七皇子。母は藤原百川(ももかわ)の娘旅子(たびこ)。先々代の平城天皇及び先代の嵯峨天皇は異母兄である。天長一〇(八三三)年二月に甥の淳和天皇に譲位して上皇となった。歴代天皇の中で、唯一散骨された人物である(死に際して「薄葬」を遺詔としたため。京都大原野西院で散骨が行われた)。

「如意輪觀音の法」江本氏の注に、『罪障を消すために、如意輪観音を本尊として行う修法。如意輪観音は一切の願いを成就させるという如意宝珠や宝輪などを持ち、多くは六臂を備え、右膝立ちの姿をしている(『仏像図彙』二)』とある。私の好きな菩薩で、鎌倉の西御門の来迎寺のものが素敵に素晴らしい。同寺公式サイトのこちらを見られたい。二十歳の頃、訪れた際は、古い小さな本堂の頃で、この像の前に、周囲のご老人たちが集まって茶話会を開かれており、茶菓子まで頂戴した。目と鼻の先で美しい尊像を拝めた。あの雰囲気が、私の中の失われた古き良き唯一の鎌倉であったと言ってよい。

「廣田(ひろた)の明神」江本氏の注に、『摂津国武庫郡(現兵庫県西宮市大社町)にあり、天照大神の荒魂を主神として祭る神社。二十二杜の一つ。平安期には、祈禱により官位が上がるという信仰があり、貴族の参拝が盛んであった。また、平安後期には社殿で歌合が催され、和歌に霊験のあることでも知られた』とある。ここ

「守敏(しゆびん)」(生没年未詳)は平安前期の僧。出自も不詳。「守敏僧都(しゅびんそうず)」と称された。当該ウィキによれば、『大和国石淵寺の勤操らに三論・法相を学び、真言密教にも通じた』。弘仁一四(八二三)年、『嵯峨天皇から空海に東寺が、守敏に西寺が与えられた』『が、空海と守敏とは何事にも対立していたとされる』。弘仁一五(八二四)年の旱魃の際、『神泉苑での雨乞いの儀式に於いて空海と法力を競った』。『空海に敗れたことに怒り、彼に矢を放ったが』、『地蔵菩薩に阻まれたと伝わる(これにちなみ現在、羅城門跡の傍らに「矢取地蔵」が祀られている)。同じくして西寺も寂れていったとされる』という話はとみに知られるエピソードである。私の「柴田宵曲 續妖異博物館 雨乞ひ」など参照されるもよろしかろう。

「從四位上和氣眞綱(わけのまつな)」(延暦二(七八三)年~承和一三(八四六)年)は公卿。かの道鏡の侵害を阻止し、平安遷都・水利事業に功のあった民部卿和気清麻呂の五男である。官位は従四位上・参議・贈正三位。当該ウィキによれば、『若くして大学寮で学び、史伝を読み漁った』。延暦二一(八〇二)年、二十歳で『文章生に補せられ』、延暦二十三年、『初めて官吏に登用されて内舎人に任ぜられる。平城朝では治部少丞・中務少丞を歴任』した。『嵯峨朝に入り』、『蔵人・春宮少進』などを経て、弘仁六(八一五)年、『従五位下・春宮大進に叙任される。その後、左右少弁・左右少将を経て、弘仁』十三年、『従五位上に』なってより、天長元年』(八二四年)『までに正五位下に叙せられた。また同年には、かつて父・和気清麻呂が建立し』、『桓武天皇により定額寺に列格されていた神願寺について、寺域が汚れているとして、高雄山寺の寺域と交換して、新たに神護国祚真言寺と称して改めて定額寺することを、弟・仲世』(なかよ)『と共に言上して許されている』。『その後、淳和朝から仁明朝にかけて』、『諸官を歴任し、重要な官職で就任しないものはなかったという』。承和七(八四〇)年、『参議に任ぜられ』、『公卿に列した』。『その後』、『右大弁として』、承和九(八四二)年に発生した「承和の変」(廃太子を伴う政変。藤原氏による最初の他氏排斥事件とされている)、承和一二(八四五)年に発生した「善愷(ぜんがい)訴訟事件」(法隆寺の僧善愷が、同寺の壇越である少納言登美直名(とみのただな)を告訴した事件)の『審理にあたるが、後者を巡って下僚である右少弁・伴善男の告発を受けて、自宅の門を閉じ、直後に憤死した。「塵の立つ道は人の目を遮ってしまう。不正な裁判の場で、一人で直言しても何の益があるだろうか。官職を辞めるべきだ。早く冥土に向かおう。」と憤慨しながら官職を追われて、この世を去ったと伝えられている』。『生まれつき人情に厚く、忠孝を兼ね備えていた。政務を執り行うにあたり、私利私欲や不正はなかった。素より仏教への信仰心があり、帰依していた。天台・真言両宗の立宗は、真綱と兄・広世の力によるものであるという』とある高潔な人物であった。

「豐子(とよこ)」不詳。

「相馬將門(さうままさかど)」かの平将門(延喜三(九〇三)年?~天慶三年二月十四日(九四〇年三月二十五日)。

「將子(まさこ)」不詳。江本氏の先の引用を見られたいが、江本氏はここにも注されて、『如蔵尼がこれにあたるか「如蔵尼ハ平将門第三之女也」(「元亨釈書」十八「如蔵尼」)。なお、和気真綱と平将門の生存年には、約百年の同きがあり、それぞれの娘が同時に「めしつれ」られたとは考えにくい』と指摘されておられる。

「茯苓(ぶくりやう)」「ブクリョウ」は菌界担子菌門真正担子菌綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科ウォルフィポリア属マツホド Wolfiporia extensa の漢方名。中国では食用としても好まれる。詳しくは「三州奇談卷之二 切通の茯苓」の私の冒頭注を参照。

「甑(こしき)」古く、米や豆などを蒸すのに用いた器。鉢形の瓦製で、底に湯気を通す幾つもの小穴を空け、湯釜に載せて蒸した。のち、方形又は丸形の木製とし、底に簀の子を敷いたものを蒸籠(せいろう)と呼ぶ。現在の「せいろ」である。

「松の葉を食(じき)とし」この食事も仙人お約束のアイテムである。

數百年《すひやくねん》をおくりて、夏とても、熱(あつ)からず、冬もまた、寒からず。谷峯をわたれども、苦しくもなし。身はかろく、形(かたち)、おとろへず。さて、今は、いか成《なる》君のおさめ給ふ御代(みよ)成《なり》けるや。」

「人王(にんわう)は百七代にあたらせ給ふ」実際には第百六代の正親町(おおぎまち)天皇(永正一四(一五一七)年~文禄二(一五九三)年/在位:弘治三(一五五七)年十一月十七日~天正十四年十一月七日(グレゴリオ暦一五八六年十二月十七日)。孫の和仁親王(後陽成天皇)に譲位して上皇となった。実に百二十年振りの上皇となった(上皇となるのには相応の資金が必要であり、これ以前のジリ貧の宮廷では、改元や儀式及び仙洞御所の建造などはとても出来ず、現役でいるほかなかったのである)。

「浦山《うらやま》し」「羨まし」の当て字であるが、本話では、「浦島子の箱」との洒落が嗅がせてある。

「地仙(ちせん)」地上(人間界)で暮らしている下級の仙人。]

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