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2022/01/16

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 田舍の時計

 

   田 舍 の 時 計

 

 田舍に於ては、すべての人々が先祖と共に生活してゐる。老人も、若者も、家婦も、子供も、すべての家族が同じ藁屋根の下に居て、祖先の煤黑い位牌を飾つた、古びた佛壇の前で臥起してゐる。

 さうした農家の裏山には、小高い冬枯れの墓丘があつて、彼等の家族の長い歷史が、あまたの白骨と共に眠つてゐる。やがて生きてゐる家族たちも、またその同じ墓地に葬られ、昔の曾祖母や祖父と共に、しづかな單調な夢を見るであらう。

 田舍に於ては、鄕黨のすべてが緣者であり、系圖の由緖ある血をひいてゐる。道に逢ふ人も、田畑に見る人も、隣家に住む老人夫妻も、遠きまたは近き血統で、互にすべての村人が緣邊する親戚であり、昔からつながる叔父や伯母の一族である。そこではだれもが家族であつて、歷史の古き、傳統する、因襲のつながる「家」の中で、鄕黨のあらゆる男女が、祖先の幽靈と共に生活してゐる。

 田舍に於ては、すべての家々の時計が動いてゐない。そこでは古びた柱時計が、遠い過去の曆の中で、先祖の幽靈が生きてゐた時の、同じ昔の指盤を指してゐる。見よ! そこには昔のままの村社があり、昔のままの白壁があり、昔のままの自然がある。そして遠い曾祖母の過去に於て、かれらの先祖が緣組をした如く、今も同じやうな緣組があり、のどかな村落の籬(まがき)の中では、昔のやうに、牛や鷄の聲がしてゐる。

 げに田舍に於ては、自然と共に悠々として實在してゐる、ただ一の永遠な「時間」がある。そこには過去もなく、現在もなく、未來もない。あらゆるすべての生命が、同じ家族の血すじであつて、冬のさびしい墓地の丘で、かれらの不滅の先祖と共に、一つの靈魂と共に生活してゐる。晝も、夜も、昔も、今も、その同じ農夫の生活が、無限に單調につづいてゐる。そこの環境には變化がない。すべての先祖のあつたやうに、先祖の持つた農具をもち、先祖の耕した仕方でもつて、不變に同じく、同じ時間を續けて行く。變化することは破滅であり、田舍の生活の沒落である。なぜならば時間が斷絕して、永遠に生きる實在から、それの鎻が切れてしまふ。彼等は先祖のそばに居り、必死に土地を離れることを欲しない。なぜならば土地を離れて、家鄕とすべき住家はないから。そこには擴がりもなく、觸りもなく、無限に實在してゐる空間がある。

 荒寥とした自然の中で、田舍の人生は孤立してゐる。婚姻も、出產も、葬式も、すべてが部落の壁の中で、仕切られた時空の中で行はれてゐる。村落は悲しげに寄り合ひ、蕭條たる山の麓で、人間の孤獨にふるへてゐる。そして眞暗な夜の空で、もろこしの葉がざわざわと風に鳴る時、農家の薄暗い背戶の厩に、かすかに蠟燭の光がもれてゐる。馬もまた、そこの暗闇にうづくまつて、先祖と共に眠つてゐるのだ。永遠に、永遠に、過去の遠い昔から居た如くに。

 

 

 田舍の時計  田舍の憂鬱は、無限の單調といふことである。或る露西亞の作家は、農夫の生活を蟻に譬へた。單に勤勉だといふ意味ではない。數千年、もしくは數萬年もの長い間、彼等の先祖が暮したやうに、その子孫もその子孫も、そのまた孫の子孫たちも、永遠に同じ生活を反覆してるといふことなのである。――田舍に於ては、すべての家々の時計が動いて居ない。[やぶちゃん注:巻末の「散文詩自註」にあるそれをここに配した。]

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「◎」。「血すじ」はママ。「鎻」は「鎖」の異体字。

「臥起してゐる」初出により「ふしおき」と訓ずる。

「觸りもなく、」個人的には、この第五段落末尾の意味が、今一つ、よく判らない。物理的に或いは自由な感情や或いは肉感的・性的欲求としての実体感・実在感としての交わり(「接触」=「觸り」)というものが存在しないということか。私は時々、萩原朔太郎には語を安易に弄んで、ありもしない付加価値を添えて事大主義的に悲愴な面(つら)をしたがる悪い癖があるように感じている。これはそうした厭な特異点の一箇所である。

「或る露西亞の作家は、農夫の生活を蟻に譬へた」誰の何か、不詳。識者の御教授を乞う。

初出は大正二(一九二七)年九月号『大調和』。以下に筑摩版全集を用いて示す。太字は傍点「」。第一段落「佛壇」(誤字か誤植)、第二段落「申所」(致命的誤植)と「親籍」、同じく第五段落「血すじ」と「かられ」(誤植錯字)、同段落目中央附近の「先祖の耗した仕方で」の「耗」(誤字或いは誤植)、最終段落の「ふるえてゐる」は総てママ。

   *

 

 田舍の時計

 

 田舍に於ては、すべての人々が先祖と共に生活してゐる。老人も、若者も、家婦も、子供も、すべての家族が同じ藁屋根の下に居て、祖先の煤黑い位牌を飾つた、古びた佛壇の前で臥起きしてゐる。

 さうした農家の裏山には、小高い冬枯れの墓丘があつて、彼等の家族の長い歷史が、あまたの白骨と共に眠つてゐる。やがて生きてゐる家族たちも、またその同じ墓地に葬られ、昔の曾祖母や祖父と共に、しづかな單調な夢を見るであらう。

 田舍に於ては、鄕黨のすべてが緣者であり、系圖の申所ある血をひいてゐる。道に逢ふ人も、田畑に見る人も、隣家に住む老人夫妻も、遠きまたは近き血統で、互にすべての村人が緣邊する親籍であり、昔からつながる叔父や伯母の一族である。そこではだれもが家族であつて、歷史の古き、傳統する、因襲のつながる「家」の中で、鄕黨のあらゆる男女が、祖先の幽靈と共に生活してゐる。

 田舍に於ては、すべての家々の時計が動いてゐない。そこでは古びた柱時計が、遠い過去の曆の中で、先祖の幽靈が生きてゐた時の、同じ昔の指盤を指してゐる。見よ! そこには昔のまゝの村社があり、昔のまゝの白壁があり、昔のまゝの自然がある。そして遠い曾祖母の過去に於て、かれらの先祖が緣組をした如く、今も同じやうな緣組があり、のどかな村落の籬の中では、昔のやうな牛や鷄の聲がしてゐる。

 げに田舍に於ては、自然と共に悠々として實在してゐる、たゞ一の永遠な「時間」がある。そこには過去もなく、現在もなく、未來もない。あらゆるすべての生命が、同じ家族の血すじであつて、冬のさびしい墓地の丘で、かられの不滅の先祖と共に、一つの靈魂と共に生活してゐる。晝も、夜も、昔も、今も、その同じ農夫の生活が、無限に單調につゞいてゐる。そこの環境には變化がない。すべての先祖のあつたやうに、先祖の持つた農具をもち、先祖の耗した仕方でもつて、不變に同じく、同じ時間を續けて行く。變化することは破滅であり、田舍の生活の沒落である。なぜならば時間が斷絕して、永遠に生きる實在から、それの鎻が切れてしまふ。彼等は先祖のそばに居り、必死に土地を離れることを欲しない。なぜならば土地を離れて、家鄕とすべき住家はないから。そこには擴がりもなく、觸りもなく、無限に實在してゐる空間がある。

 荒寥とした自然の中で、田舍の人生は孤立してゐる。婚姻も出產も、葬式も、すべてが部落の壁の中で、仕切られた時空の中で行はれてる。村落は悲しげにより合ひ、蕭條たる山の麓で人間の孤獨にふるえてゐる。そして眞暗な夜の空で、もろこしの葉がざわざわと風に鳴る時、農家の薄暗い背戶の厩に、かすかに蠟燭の光がもれてゐる。馬もまた、そこの暗闇にうづくまつて、先祖と共に眠つてゐるのだ。永遠に、永遠に、過去の遠い昔から居た如く。

 

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