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2022/01/25

狗張子卷之二 死して二人となる

 

[やぶちゃん注:今回の挿絵は状態が最もよい現代思潮社版のそれをトリミングした。]

 

   ○死して二人(ふたり)となる

 

Doppe

 

 小田原城下のうちに、百姓のすみける一村あり。家中の侍も、少々、すみけり。

 北條早雲の時に、西岡又三郞とて、中間(ちうげん)、わづらひて、死(しに)けり。

 夕《ゆふ》さり、

「夜《よ》ふけがた、野原に埋(うづ)み、をさめん。」

とて、傍輩(はうばい)ども、あつまりて、日の暮《くる》るを待《まち》ける所に、見なれぬ男(おとこ)の來りて、人々には會釋(ゑしやく)もなく、死人(しにん)の前に坐して、聲をかぎりに、啼(なき)ける。

 あはれなるまでに聞えしかば、

「さだめて、ちかき親類、又は、したしき友なるべし。」

と、思ふところに、死(し)したる屍(かばね)、俄かに、

「むく」

と、おきあがる。

 此《この》人も、おなじく、立ちあがり、搏(つかみ)あひ、打ちあひけり。

 物をば、いはず、かなたこなたせしまゝ、あつまりし人々は、大《おほき》におどろきながら、すべきやうなくして、戶をさしこめ、出(いで)のきけり。

 二人、とぢこめられ、戶より内(うち)にて、打《うち》あひつゝ、日の暮《くれ》がたに、しづまりければ、人々、戶をひらくに、二人、おなじ枕に、ふして、あり。

 勢(せい)のたかさ・すがたかゝり・顏の有《あり》さま・鬢(びん)鬚(ひげ)、その身に着たる衣服までも、すこしも、替はること、なし。

 常に狎(なれ)たる傍輩も、いづれをそれと、見知るべからず。

 棺(くわん)をおなじく、二人を、ひとつにして、塚を築(つき)て、埋みけり。

[やぶちゃん注:二重身(ドッペルゲンガー:ドイツ語:Doppelgänger)の死体物というのは面白い。中国の伝奇小説で読んだ記憶がある。種本穿鑿はしない約束だが、やはり興味を押さえ切れず、江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(二)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)を拝見したところ、『出典』に、『「太平広記」三三九「李則」』とされ、『あらすじは次の通り』として、『唐の貞元(七八五~八〇五)の初め、河南の率則が死亡したところへ、蘇郎中と名乗る米色の衣を着た人が現れる。この人が激しく哀慟すると、死んだはずの李則が起きあがり、互いに』(江本氏の注では「摶」とあるが、これは音「タン・セン」で「まるい・まるめる」の意。「搏」(音「ハク」で「打つ・叩く・摑む」)でないとおかしい。江本氏の原文本文でも「摶」となっている。両者は判読し難い、誤り易い字ではある)『み合い殴り合う。騒ぎが静まり家人が様子をみると、姿形、衣服までも同じ二つの屍が横たわっていた。そこで二人を同じ棺に葬った。』とあった。「太平廣記」巻三百三十九「李則」は以下。「中國哲學書電子化計劃」の影印本のこちら(標題「李則」は前丁)から起こした。後の訓読は自然流。

   *

    李則

貞元初、河南少尹李則卒。未歛、有一朱衣人來、投刺申弔。自稱蘇郎中。既入哀慟尤甚。俄頃屍起、與之相搏。家人子驚走出堂、二人閉門毆擊、及暮方息。孝子乃敢入、見二尸共卧在牀。長短・形狀・姿貌・鬚髯・衣服、一無差異。於是聚族不能識。遂同棺葬之。【出「獨異志」。】

   *

    李則

 貞元の初め、河南の少尹(せういん:属官)李則、卒す。未だ歛(はふ)らざるに、一(ひとり)の朱衣の人、來たる有り、投刺(とうし)して弔ひを申す。自ら「蘇郎中」と稱す。既に入るに、哀慟、尤も甚だし。俄かにして、頃(このとき)、屍(かばね)、起きて、之れと相ひ搏(う)つ。家人や子、驚きて、走り、堂を出づるに、二人、門を閉ぢ、毆(なぐ)り擊ち、暮方(くれがた)に及びて息(や)む。孝子、乃(すなは)ち、敢へて入るに、二つの尸(かばね)、共に卧して牀に在るを見る。長短・形狀・姿貌・鬚髯(しゆぜん)・衣服、一つとして、差異、無し。是(ここ)に於いて、聚族、識ること能はず。遂に同じ棺に、之れを葬(は)ふれり。【「獨異志」に出づ。】

   *

「斂」は「亡骸を衣服で覆う」意で死者を葬ることを指す。「投刺」は「謁見を求める」の意。「獨異志」李冗(或いは李亢・李元・李冘)などとも綴る)撰。原本は十巻であったが、現存するものは三巻で、本篇は佚文ではなく、その「巻上」にある(「維基文庫」の「獨異志」で確認)。

「小田原城下の……」江本氏の注に、『相模国小田原城(現神奈川県小旧原市城山)。小田原城は明応四年(一四九五)北条早雲により攻略され、以後北条氏の関東進出の拠点となった。中世末期には、城下は武家屋敷と町人屋敷が混在していたが、近世に入り稲葉氏により整備された。「百姓のすみける一村」とは、「新編相模国風土記稿」二三に「城下町 城の東南を擁し凡十九町あり。此十九町を総て小田原宿と称す。…此外谷津付といへる村落あり。農民の住せし所にて宿駅の事に預らず。十九町一村を続て、小田原府内と称せり」とあり、谷津村(現神奈川県小田原市谷津)を指すか。なお、谷津村は小田原宿とは城を挟んで反対側に位置し、「城下のうら」とするのにも合う。』とある。「新編相模国風土記稿」の記載は国立国会図書館デジタルコレクションの「大日本地誌大系」第三十六巻末尾のここで読める。神奈川県小田原市谷津(やつ)はここ(グーグル・マップ・データ)。

「北條早雲」戦国大名で、室町幕府政所執事を務めた伊勢氏出身にして今川家家臣・後北条氏の祖(初代)の北条早雲こと、伊勢宗瑞(そうずい ?~永正一六年八月十五日(一五一九年九月八日):彼は終生「伊勢」を名乗り、「北条」は用いていない)。彼が小田原城を奪取したのは明応四(一四九五)年九月或いは翌明応五年以降であるから、設定時勢はその没年までの閉区間となる。

「西岡又三郞」不詳。

「夜ふけがた、野原に埋み、をさめん。」という台詞からは、中間の郷里も親しい親族もおらず、身分も低いので、その中間仲間が世話して、城外の野面に埋葬しようというのであろう。今では夜間の野辺の送りは異様だが、近代まで、地方では普通にあった。また、流行病等や異常死のケースでは、密やかに夜を待って行われたりもした。

「勢(せい)のたかさ」「背(せい)の高さ」。

「すがたかゝり」「姿懸(掛)り」。姿・形の様子・風情。]

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