フォト

カテゴリー

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 吾輩ハ僕ノ頗ル氣ニ入ツタ教ヘ子ノ猫デアル
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から
無料ブログはココログ

« 毛利梅園「梅園介譜」 水蟲類 朝鮮ガニ / モクズガニ? | トップページ | 萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 荒寥地方 »

2022/02/01

狗張子卷之二 原隼人左謫仙

 

[やぶちゃん注:挿絵は今回は底本(昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編「同全集第一期「江戶文藝之部」第十巻の「怪談名作集」)のものをトリミング補正して、適切と思われるところに挿入した。

 なお、事前に言っておくと、本篇は先行する「伽婢子卷之五 原隼人佐(はらはやとのすけ)鬼胎(きたい)」の登場人物と設定が一緒であり、正統なるその続編として了意が確信犯で書いたものと判断出来る。そちらを未読の方や忘れてしまった方は、まず、そちらを読まれたい。そちらで注した内容を、繰り返し、注するつもりもない。なお、標題の「謫仙」を「だくせん」と読んでいるのはママ。普通は「たくせん」と清音で、濁音は今まで見たことはない。或いは、了意の、読者の目を引くための確信犯かも知れぬ。]

 

   〇原隼人佐(はらはやとのすけ)謫仙(だくせん)

 原加賀守は武田譜代の家臣、世にかくれなき武勇の侍大將なり。

 秋山伯耆守が妹を、妻として、そひけるに、久しく子といふ者もなかりしに、ある時、たゞならず、わづらひ出しけるを、醫師(くすし)を賴みて、さまざまにれうぢすれども、しるし、なし。

 ある人、來りて、

「是は。正(まさ)しく、懷妊なり。さのみに藥をあたふるに、及ばず。」

と、いひければ、

「さては、めでたき事なり。」

とて、月のみつるを待ちけるに、すでに十月(《と》つき)に成(な)れども、子も、うまれず。

 やまひ、いよいよ、おもくなり、十六月(《じふろく》つき)にあたりて、母、つひに、はかなくなりたり。

 惠林寺(ゑりんじ)におくりて、塚の主とぞ、なしける。

[やぶちゃん注:「秋山伯耆守」秋山信友(享禄二(一五二九)年?~天正三(一五七五)年)武田信玄・勝頼父子に仕えた。秋山氏は武田氏の一族加賀美遠光の後裔と伝える。信玄による信濃国攻略。特に伊那郡の計略に功があり、高遠城、次いで、飯田城を預かった。西方への領国拡張期には、伊那郡の兵を率いて、遠江・三河・美濃に転戦した。元亀元(一五七〇)年、遠山景任の守る東美濃の岩村城を攻めたが、敗退、同三年、城主景任が病没すると、再び、これを包囲した。織田信長は東の押さえとして、この城を重視し、五男御房丸(勝長)を城に入れ、景任の未亡人おつやの方(信長の叔母)に後見させていたが、信友の攻勢を前に、城方は、おつやが信友に嫁すことなどを条件に、和議を申し入れた。信友は、これを受諾し、以後、おつやを妻としてここに在城し、御房丸は人質として甲府に送られた。天正三(一五七五)年五月の「長篠の合戦」では、武田勝頼を破ったのを機に織田氏が攻勢に転ずると、岩村城は翌六月より、信長の嫡男信忠の猛攻を受けた。籠城は五ヶ月に及んだが、遂に開城となり、信友は捕えられ、岐阜長良川の河原で磔刑に処せられた。妻おつやも信長の手により、斬首されている。信友は永禄一一(一五六八)年に、武田・織田両氏が和議を結び、信忠と信玄の六女松姫の婚約が整った際、使者として岐阜へ赴き、信長の歓待を受けている。その後、和談は破れ、信友と信長・信忠父子の再会は悲劇的な形で実現したのであった(以上は「朝日日本歴史人物事典」の堀内亨の解説に拠った)

「惠林寺」現在の山梨県甲州市塩山小屋敷(えんざんおやしき)にある臨済宗妙心寺派の乾徳山(けんとくさん)恵林寺(グーグル・マップ・データ)。甲斐武田氏の菩提寺として知られる。]

 

Takusen1

 

 其夜しも、月、あかゝりけるに、塚の内に、小兒(せうに)のなく聲、聞こえしかば、寺僧、あやしみて、塚をひらきければ、うつくしき子の、今、生まれて、母のかばねにすがりつきて、啼(なき)けるを、父のもとへ、いひつかはしければ、いそぎ、迎へとり、乳母(おち)めのとをつけて、生立(そだて)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]しに、たくましく生(おひ)たち、程なく成人して、器量・こつがら、人なみならず、心ね、しぶとく、利根(りこん)なり。年十五より、初陣《うひじん》して、度度の軍(いくさ)に手がらをあらはしければ、信玄も、祕藏(ひざう)のものにぞ、思はれける。

[やぶちゃん注:「乳母(おち)めのと」畳語。「おち」は「御乳」で「御乳の人」の略であり、「貴人の乳母」を指すが、「乳母」(うば)は同時に「めのと」と読むからである。]

 ある時、信玄、仰せけるは、

「汝が父加賀守は、前代從五位下左京大夫信虎公の時より、武勇のほまれ、忠節のはたらき、武田譜代の侍にて、かたがた、心やすく思ふなり。その子として、父が餘蔭(よいん)に靠(より)かかりて、自分のはたらきに、おこたること、なかれ。武道の巧者に近づきて、よき事を聞習(《きき》なら)ふべし。智慧ありとも、聞(きく)事、少なければ、物知(《もの》しる)事、博(ひろ)からず。その上には、國法、よく守るべし。國法・軍法をそむくものは、臆病不忠の科人(とがにん)なり。主君の御影(《お》かげ)にて、命をつなぎ、妻子をはごくみ、心やすく身をたてながら、其家《そのいへ》の法をそむき、御恩をはうずる心ざしを忘れ、わたしくの遺恨をもつて、身命(しんみよう)をうちはたすは、主君の御用にもたゝず、只、國家の盜人(ぬすびと)ならずや。かゝる不覺人(ふかく《にん》)は、生きてあれども、義理をしらず、恥をもしらぬ故に、大事の虎口を、にげくづして、味方の負(まけ)をさするものなり。先祖・親・祖父(おほぢ)は、たとひ、よし、とても、子孫、かならずよかるべきには、あらず。自分の行跡(かうせき)・よき働き、なくば、世に名は聞ゆべからず。隼人佐(はやとのすけ)は、父には、ことの外に、すぐれてみゆ。兎に角に、心を正直に、家を、をさめ、百姓をあわれみ、忠節を宗(むね)とすべし。」

とぞ、の給ひける。

[やぶちゃん注:「餘蔭」先人の後に残された恩恵。余光。余徳。

「靠(より)かかりて」「その余蔭をよいことに、努力をせず、それに、ただ、すっかり寄り懸かって楽をし。」。

「不覺人」覚悟の確かでない者。臆病な奴。卑怯者。「ふかくじん」と読んでもよい。]

 然るに、隼人佐は武勇(ぶよう)・才智・遠慮・分別・首尾、さうおう[やぶちゃん注:「相應」。]のものゝふ也。こと更に、自門(じもん)・他家(たけ)に、比類なき一能、あり。

 父は、もと、甲斐國高畠といふ所の人なり。武篇に名だかく、※方(かうよう)の陣どりを得ものにて、「樂(がく)のたう」とゆふ事を仕(し)いだし、たびたび、勝利をあらはせり。

[やぶちゃん注:「※方(かうよう)の陣」「※」は(「向」―「口」+「山」)の字体。先に紹介した江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(二)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)によれば、『「かうよう」は「ほうよう」の誤刻。陣法の一種。敵が鋒矢の備え』(陣立ての一つである「鋒矢(ほうし)の陣」。足軽を「∧」の形に並べ、その後ろに騎馬武者を「一」の字を縦にした形に揃え、機をみて足軽が左右に開き、騎馬武者が突進するものを言う)『で突進してくるとき、これを包んで討つか、左右に外すための備え』とあり、「※」の『字は明暦二年版「甲陽軍鑑」品四三などに見られる』とある。

「樂(がく)のたう」前掲の江本氏の注に、『陣所に設けた小屋。見張りの番人を置くところ。「楽堂 ガクノドウ 陣営ニ用フル所。禁庭建ツル所ノ幄屋之制ニ準拠ス」(書言字考)』とある。]

 子息隼人佐にむかひ、

「それ、侍は何にても、弓矢の道に、ひとつの『得もの』あるように、つとめて、たしなむべし。」

と、いひおきけり。

[やぶちゃん注:「ひとつの『得もの』あるように」極めて哲学的な謂いのように、感じられる。所謂、実戦の実利ではなく、武芸のあらゆる局面に於いて、そのことから得られた有益な確固たるオリジナルな私的思想が必ずあるように心懸けよ、と言っているように思われるのである。]

 さればにや、隼人佐は、他國にゆきても、たつきもしらぬ山中《さんちゆう》の道、いまだふみみぬ所をも、見つもりして、ふみわくる事、陣どり合戰の場、山河のあひだ、更に、その國の案内者を、からず。隼人が、

「よき。」

と申すは、諸卒、大小上下、心よくうたがひなく、みな、したがひゆくに、たがふ所、なし。

[やぶちゃん注:「陣どり合戦の場、山河のあひだ……」以下について、江本氏は、『このあたりの記述は「甲陽軍鑑」品十七「原隼人佐は、敵の国ふかく御働の時は、一入』(ひとしほ)『後備へに被成候。子細は、陣取の場所見合する事、御家中の諸大将衆にすぐれたり。他国にて山中など、道のしれざる所をも、此隼人佐見積り、道をふみ分くる事、前代より今にいたるまで、武田の家にも此の人一人也。去程に、陣取の場所、合戦の場所、山河の案内なき所を、原隼人よきと被申れば、諸人上下大小共に、心よく存る也」による』とある。国立国会図書館デジタルコレクションの明治二六(一八九三)年温故堂刊の同書で調べたところ、ここの右ページ十行目中程から、以上の文章が確認出来る。

 昔、平家の一門、都を落ちて、津の國一の谷の城にこもりし時、九郞義經、責めくだり、鵯越(ひよどりごえ)におもむき、

「此山中に、案内(あん《ない》)知《しつ》たるものや、ある。」

と、の給ひしかば、武藏國の住人、平山の武者所(むしやどころ)、すゝみ出で、

「季重、よく、在知候《ぞんじさふらふ。》」

と申す。土肥・畠山、とりどりに、

「武藏國の人、はじめて、此山をとほり、津の國・播磨のさかひなる山の案内、いかでか、知るべき。」

と笑ひしに、平山、いふやう、

「鹿のつく山は、獵師が、しり、鳥のつく野は、鷹師が、しり、魚(うを)よる浦は、漁(すなどり)の、しる。芳野(よしの)・泊瀨(はつせ)の花の色、須磨や、あかしの月影は、その里人は、しらねども、數奇(すき)ものは、しる、ならひなり。『色をも、香(か)をも、知人《しるひと》ぞしる。』と、いへり。桃季ものいはず、下(しも)、おのづから蹊(みち)をなす、とかや。敵をまねく城のうち、軍をこめたる山中には、剛(かう)のものこそ、案内者よ。」

とて、鞭をあげて、先陣にすすみけり、と、いへり。

[やぶちゃん注:「昔、平家の一門、都を落ちて、津の國一の谷の城にこもりし時……」以下は、知られた「平家物語」巻第九の「老馬」の一節。例えば、国立国会図書館デジタルコレクションの昭和一七(一九四二)年明治書院刊の内海弘蔵著「平家物語評釋」のここの右ページ九行目からを読まれたい。

「季重」平山季重(保延六(一一四〇)年?~建暦二(一二一二)年?)。武蔵七党の一つである「西党」(にしとう:日奉(ひまつり)氏)の武将。多西(たさい)郡舟木田荘(ふなきだのしょう)平山郷(現在の東京都日野市平山)を領した。また、院武者所に伺候したため、「平山武者所」と呼ばれた。武蔵国平山生まれ。保元元(一一五六)年の「保元の乱」では源義朝に従い、平治元(一一五九)年の「平治の乱」では義朝の長男義平に従い、待賢門での戦闘で平重盛の軍勢五百騎に僅か十七騎で戦いを挑んでいる。義朝の敗死後は平家に従い、在地領主として平穏な日々を過ごしたが、治承四(一一八〇)年、頼朝が挙兵するや、それに従い、その弟源義経に従って、「富士川の戦い」・「佐竹氏征伐」にも従軍している。特に「佐竹氏征伐」のに於ける「金砂城の戦い」では、同僚の熊谷直実とともに抜群の戦功を挙げている。寿永三(一一八四)年には、義経率いる木曾義仲追討軍に従って上洛、「宇治川の戦い」で根井行親・楯親忠を撃破し、京へと入った。同年の「一ノ谷の戦い」でも義経に従って、奇襲部隊に参加、同僚の熊谷直実とともに一ノ谷の平家軍に突入し、勝利の口火を切った。翌元暦二(一一八五)年の「屋島の戦い」・「壇ノ浦の戦い」でも常に先陣を切り、勇猛果敢に戦った。戦後、後白河法皇によって右衛門尉に任ぜられたが、無断任官であったため、頼朝の怒りを買った。「吾妻鏡」に他の無断任官者とともに、「平山季重、顔はふわふわとして、とんでもない任官である」と頼朝に罵られた記述が残っている(原文は「吾妻鏡」元暦二(一一八五)四月十五日附の「東國住人任官輩㕝」(「㕝」は「事」の異体字)のリスト中で、『右衛門尉季重【久日源三郎顏ハフワフワトシテ。希有之任官哉。】』とあり、訓読すると、『右衛門尉季重 久日源三郞 顏は、ふわふわとして、希有(けう)の任官かな。』である。但し、この「久日(「くじつ」か?)源三郞」という名は不明である)。なお、この頃、筑前国三笠郡原田荘の地頭職を得ている。文治五(一一八九)年の「奥州合戦」にも息子の平山小太郎重村と参戦、そこでも戦功を挙げ、鎌倉幕府の元老として取り立てられた。建久三(一一九二)年の源実朝誕生の際、鳴弦の大役も務めている(以上は主文を当該ウィキに拠ったが、「吾妻鏡」は独自に原文を挿入した)。

「土肥」土肥実平。

「畠山」畠山重忠。私は鎌倉史は守備範囲で、彼らに注をするほど、素人ではない。悪しからず。]

 其道に心をいれて、よく工夫いたさば、などか、いたらざらん。いにしえ、もろこし胡國の路(みち)に、管仲が、老馬を先に立《たて》て歸りしは、ためしなき事にも、あらず。

[やぶちゃん注:「管仲が、老馬を先に立て歸りし」所謂、「老馬の智」。「韓非子」の「說林(ぜいりん)上」に出る、

   *

管仲隰朋從於桓公伐孤竹、春往冬反、迷惑失道、管仲曰、「老馬之智可用也。」。乃放老馬而隨之、遂得道。

(管仲と隰朋(すふはう)、桓公に從ひて孤竹を伐つ。春、往(ゆ)きて、冬、反(かへ)る。迷惑し、道を失ふ。管仲曰く、「老馬の智、用ふべし。」と。乃(すなは)ち、老馬を放ちて、之れに隨ひ、遂(つひ)に道を得たり。)

   *]

 

Takusen2

 

 天正八年かのえ辰九月下旬に、武田四郞勝賴、東上野(ひがしかうづけ)に出《いで》て巡見せられけるに、太湖山地延(《たい》こ《さん》ちぜん)の城(じやう)より、しかけたるに、武田方、徒膚(すはだ)にて、戰(たゝ)かひ、城は、のりとりけれども、人數《にんず》は、おほく、うたれたり。

[やぶちゃん注:「天正八年かのえ」(庚)「辰九月下旬……」江本氏の注に、『「天正八年九月……原隼人佐と申す侍大将は、我が備にて一番に乗こみ、かうべにかたなきず、ふかでおひ、帰陣ありて、やがて甲府にて死去なり』(「甲陽軍鑑」品五六)とある。しかし隼人佐が没したのは、天正三年(一五七五)の長篠の戦いであるとする説もあり、本作は歴史的背景を「甲陽軍鑑」に求め、天正八年(一五八〇)を没年としている。また、『関八州古戦録』十一「武田勝頼乗楠上州善ノ城事」にある隼人佐晟期の場面は『狗張子』の記事によったものか。』とある。先の「甲陽軍鑑」のここの左ページ十一行目下末から、以上の記載が読める。

「太湖山地延の城」不詳。江本氏の注にもない。

「徒膚(すはだ)」「徒肌者」で「かちはだもの」と読み、「甲冑を装着せずに徒歩で戦場に出て戦う兵士」を指す。]

 中にも、

「侍大將原隼人佐(はやとのすけ)は、城兵(じやうへい)、七、八人にむかうて、たゝかひしに、小溝に、あしを、ふみいれ、頂(いたゞき)より、眉間(みけん)をかけて切つけられ、深手なりければ、打ちたふれしを、曲淵(まがりぶち)庄左衞門、肩に引かけ、城外に出《いで》て、郞等(らうどう)にわたし、甲府に歸りて、やがて死(しに)けり。」

と、世には沙汰ありけれども、まことには、隼人佐、心に、くやむ事あり、武田の家、長篠の後(おくれ)をとりしより、このかた、家老・諸侍(しょし)、みな、死にうせて、隼人佐、わずかに、只、獨り、生き殘り、長坂釣閑(ながさかてうかん)・跡部大炊(あとべ《おほひ》)の兩人が佞奸(ねいかん)に押されて、武田の家運、すゑになりし有さま、禍(わざはひ)、ちかきにある事を知りて、遠く范蠡(はんれい)がいにしえを思ひ、張良がむかしをしたうて、山ふかく、わけ入つつ、仙術の道を尋ね、長生の方(はう)をもとめ、つひに、大仙に逢ふて、そのおこなひを習ひ、白晝に天にのぼる。

 其のち、山人に行《ゆき》あうて、武田の家のほろぼされし事を聞《きき》て、うれへたる色、深く、

「我は、そのかみ、原隼人佐昌勝といはれしものなり。本(もと)は、天上にありけるを、少(すこし)あやまることありて、下界に流され、武田の家に、しばらく、身をかくして居たりしを、罪、ゆるされて、天上に歸りしなり。」

とて、足もとより、雲をおこし、あまつ空にのぼるとみえしが、隱々として、うせにけり。

[やぶちゃん注:「長坂釣閑」長坂光堅(永正一〇(一五一三)年~天正一〇(一五八二)年)。虎房。甲斐国武田氏の家臣で譜代家老衆。小笠原氏庶流。出家名は釣閑斎(ちょうかんさい)。出家後は「光堅」の字で「こうけん」と読ませたとされる。武田晴信の乳兄弟であったともされる。当該ウィキによれば、「甲陽軍鑑」では、天正三(一五七五)年の「長篠の戦い」において、信玄以来の家臣であった山県昌景・内藤昌豊・馬場信春ら、宿老たちが、敵の陣城や予想外の大兵力を理由に、撤退を進言したのに対し、釣閑斎は攻撃するように進言し、『武田軍惨敗の原因を作ったという記述がある』とある。最後は信長によって処刑された。

「跡部大炊」武田氏家臣跡部勝資(?~天正一〇(一五八二)年)当該ウィキによれば、「甲陽軍鑑」によれば勝資は三百騎持の『侍大将といわれ、武田家中では山県昌景・春日虎綱(高坂昌信)と並び』、『最大級の動員力』を持っていたという。永禄九(一五六六)年閏八月から、『「大炊助」の官途名に変わり』、『領国各地の国衆との取次を務めている』。「信長公記」によれば、天正十年三月十一日に『織田・徳川連合軍による甲斐侵攻において勝頼と』ともに死去したとする。「甲陽軍鑑」において、『勝資は勝頼期の側近である長坂光堅(釣閑斎)と』ともに、『武田家没落の原因となった奸臣として評されており、出頭人としての勝資と古参の武断派宿老との対立が』、『武田家滅亡の原因であるとしている』。前注で述べた通り、「長篠の戦い」において、勝資は、光堅とともに『勝頼に主戦論を主張し、大敗を招いたとして』おり、また、天正六(一五七八)年の「御館の乱」(おたてのらん:同年三月十三日の上杉謙信急死後、上杉家家督の後継を巡って、ともに謙信の養子であった上杉景勝(長尾政景の実子)と上杉景虎(北条氏康の実子)との間で起こった越後のお家騒動。景勝が勝利し、謙信の後継者として上杉家当主となり、後に米沢藩の初代藩主となった。景虎と彼に加担した山内上杉家元当主上杉憲政らは敗死した)に『おいては』、『光堅と』ともに、『景勝方から賄賂としての黄金を受け取ったとしており』、「三河物語」では、天正一〇(一五八二)年の『武田氏滅亡時には勝頼を見捨て』て『逃亡したとする逸話を記している』とある。

「范蠡」春秋末期の政治家・財政家。越王勾践に仕え、越が呉王夫差に敗北した後、その再建に努力し、紀元前四七三年、遂に夫差の呉を破って、「会稽の恥」を雪ぎ、勾践を五覇の一人にさせた。しかし、後に勾践を嫌って、一族と斉に移り、鴟夷子皮 (しいしひ) と名乗り、大富豪となった。やがて、斉の宰相となったものの、また、まもなく去って陶 (現在の山東省)に移り、陶朱公と称し、巨万の富を得た。実に十九年の間に、三度、千金を得、五度(たび)、散じたと「史記」は伝える。

「張良」(?~紀元前一六八年)は漢の高祖劉邦の功臣。その家柄は代々韓の宰相であったが、韓が秦に滅ぼされると、その仇を報じようと、巡幸中の始皇帝を博浪沙で襲撃するも、失敗、秦の追捕を逃れて下邳(かひ)に隠れた。この時、黄石公から太公望呂尚(りよしよう)の兵法書を授かったとされる。陳勝・呉広の挙兵に呼応して蜂起し、劉邦に従って、その軍師となった。秦軍を破って関中に入り、秦都咸陽を陥落させ、有名な「鴻門の会」では劉邦を危地から救い、さらに項羽を追撃、自害に追いやるまで、常に劉邦の帷幕にあって奇謀を巡らし、漢を勝利に導いた。高祖は破格の褒賞を与えようとしたが、彼は辞退し、初めて劉邦に逢った留のみを望み、留侯となった。彼は、生来、多病であったため、晩年は、道教の導引術を行い、穀物を断ち、門を閉ざして、神仙道を志したと伝える。

 最後に。江本氏は「余説」として、『『御婢子』五-四「原隼人佐鬼胎」の冒頒は「甲州武田信玄の家臣原隼人佐昌勝は、加賀守昌俊が子なり」とあり、前作で「鬼胎」によって誕生した「昌俊」は、つづく「狗張子」の該話ラストで「謫仙」されていたことがわかる。それによって「かの男子は原隼人佐なり。十八歳にて初陣せしより、よろづ神に通ぜし如く、奇特の事多かりしも、子細あることなり」という、「原隼人佐鬼胎」での謎も解けるという趣向である。このように、明らかに『御婢子』の続編として書かれているが、本作では明暦二年』(一六五六年)『版『甲陽軍鑑』の記事から流用していると思われる部分が多く見られる。つまり「御婢子」で異常出生した主人公の造形を「甲陽軍鑑」の記事によって補い、仙人譚として膨らませた作品と言える。』と述べておられる。まさにその通りで、当時の市井の怪奇談好きの読者、浅井了意ファンにとっては、出版上の続編としてのシリーズ性を遙かに越えて、ズバリ! 「御婢子」の「原隼人佐鬼胎」の絶対完全正統続編として、大いに受け入れられたに違いないと私は推察する。「狗張子」始まってより、神仙譚が有意に続いており、やや、マンネリ化して弛んだものを、ここで神仙譚としても、ギュッと締めて成功したという感じも強い。やったね! 了意!

« 毛利梅園「梅園介譜」 水蟲類 朝鮮ガニ / モクズガニ? | トップページ | 萩原朔太郎詩集「定本 靑猫」正規表現版 荒寥地方 »