萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 正規表現版 始動 /「附錄(散文詩自註)」・「散文詩について 序に代へて」・散文詩「ああ固い氷を破つて」
[やぶちゃん注:萩原朔太郎の生前最後の詩集「宿命」(昭和一四(一九三九)年九月十五日初版発行・創元社『創元選書』第二十四巻)の「散文詩」パートの正規表現版を始動する。本詩集の本文は「散文詩」パート全七十三篇と「抒情詩」パート全六十八篇で総詩数百四十一篇から成るが、「抒情詩」パートは全篇が既刊詩集からの再録であるから、カットし(但し、例によって彼の概ね老害と言わざるを得ない改変があり、異同がある)、「散文詩」パートのみを電子化注する。これについては、所持する筑摩版全集も同じように「抒情詩」パートを総て省略してある。但し、以下の序の「散文詩について」で述べているように、この「散文詩」も、「蟲」以下の「虛無の歌」・「貸家札」・「この手に限るよ」・「臥床の中で」・「物みなは歳日と共に亡び行く」の六篇を除いて、既刊の単行本のアフォリズム集「新しき欲情」・「虛妄の正義」・「絕望の逃走」からの再録である(異同有り)。これは各篇の私の注でその初出を示す。なお、私は先のブログ・カテゴリ「萩原朔太郎」でランダムに気に入ったアフォリズムを古くに筑摩版全集のアフォリズム集のパートを底本として電子化しているが、正字不全が多い。以上の底本に載るそれらは、これで決定版となる。
また、朔太郎は、最後に「附錄(散文詩自註)」パートを附し、この「散文詩」群の三十六篇について、これまた、散文詩的解説を施している。これは、底本のように最後に配したのでは使い勝手が甚だ悪いので、当該詩篇に付随させる仕儀を行った。その点では、正規表現版とは言えないのは、お許し戴きたい。以下にその「散文詩自註」の「前書」を先に示す。底本ではその「自註」本文はここからである。但し、この「自註」が開始されるのは巻頭から十五篇目の「パノラマ館」からであるので、『標題に嘘がある』などと早とちりなさらぬように。
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散 文 詩 自 註
前 書
詩の註釋といふことは、原則的に言へば蛇足にすぎない。なぜなら詩の本當の意味といふものは、言葉の音韻や表象以外に存在しない。そして此等のものは、感覺によつて直觀的に感受する外、說明の仕方がないからである。しかし或る種の詩には、特殊の必要からして、註解が求められる場合もある。たとへば我が萬葉集の歌の如き古典の詩歌。ダンテの神曲やニイチエのツァラトストラの如き思想詩には、古來幾多の註釋書が刊行されてる。この前者の場合は、古典の死語が今の讀者に解らない爲であり、この後の場合は、詩の内容してゐる深遠の哲學が、思想上の解說を要するからである。しかし原則的に言へば、此等の場合にもやはり註釋は蛇足である。なぜなら萬葉集の歌は、萬葉の歌言葉を離れて鑑賞することができないし、ニイチエの思想詩は、ツァラトストラの美しい詩語と韻律からのみ、直接に感受することができるからだ。ただしかしかうした類の思想詩は、純正詩である抒情詩に比して、比較的註釋し易く、またそれだけ註釋の意義があるわけである。なぜならこの類の詩では、その寓意する思想上の觀念性が、言葉の感性的要素以上に、内容の實質となつてるからだ。しかしこの種の觀念詩でも、作者の主觀上に於ては、やはり抒情詩と同じく、純なポエヂイとして心象されてることは勿論である。つまりその思想内容の觀念物が、主觀の藝術情操によつて淳化[やぶちゃん注:「じゆんくわ(じゅんか)」。雑駁なものを取捨選択して整理し、不純なものを除去すること。対象物から必要なものを抽出し、その本来の意義を発揮させること。「純化」に同じ。]され、高い律動表現の浪を呼び起すほど、實際に詩美化され、リリック化されてゐるのである。(もしさうでなかつたら、普通の觀念的散文<感想、隨筆の類>にすぎない。)本書に納めた私の散文詩も、勿論さうした種類の文學である。故にこの「自註」は、實には詩の註解と言ふべきものでなく、かうした若干の詩が生れるに至る迄の、作者の準備した心のノートを、讀者に公開したやうなものである。だからこの附錄は、正當には「散文詩自註」と言ふよりは、むしろ「散文詩覺え書」といふ方が當つてゐるのだ。
文學の作家が、その作品の準備された「覺え書」を公開するのは、奇術師が手品の種を見せるやうなものだ。それは或る讀者にとつて、興味を減殺することになるかも知れないが、或る他の讀者にとつては、別の意味で興味を二重にするであらう。「詩の評釋は、それ自身がまた詩であり、詩でなければならぬ。」とノヴアリスが言つてるが、この私の覺え書的自註の中にも、本文とは獨立して、それ自身にまた一個の文學的エツセイとなつてる者があるかも知れぬ。とにかくこの附錄は、本文の詩とは無關係に、また全然無關係でもなく、不卽不離の地位にある文章として、讀者の一讀を乞ひたいのである。
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因みに、筑摩版全集では以上の「ツァラトストラ」や「リリック」が校訂本文では、「ツアラトストラ」や「リリツク」に改変されている。こんなことは、恐らく萩原朔太郎でさえ苦虫を潰し、抗議するに違いないと私は思うのである。
底本は、初版が見当たらなかったので、国立国会図書館デジタルコレクションの戦後の昭和二二(一九四七)年十一月十五日再版本を視認した。なお、加工データとして「青空文庫」の「萩原朔太郞全集 第二卷」(昭和五一(一九七六)年三月二五日筑摩書房初版発行)底本のテキスト・ファイル・データ(入力・kompass氏/校正・ちはる氏/二〇一八年十二月四日修正版/ここの下方でダウン・ロード出来る)を利用させて貰った。ここに御礼申し上げる。本詩集は上記の通り、詩集と言っても、『創元選書』シリーズの一冊であるので、表紙その他はリンク先を見られたい。見返しの標題のみ電子化し、目次等は略す。字配・ポイントは必ずしも再現しておらず、下方インデントなどはブログ・ブラウザの不具合を生ずるので、やはり再現していない。今まで通り、オリジナルに注を附し、初出形を示した。異同がなくても(微妙に概ねある)、初出は必ず添えた。【2022年1月14日始動 藪野直史】]
萩原朔太郞
詩集 宿 命
創 元 社
[やぶちゃん注:見返し。縦書。四角い罫線(角部分に飾り有り)で囲まれてある。以下、「目次」が続くが、カットする。
以下、「散文詩について 序に代へて」。ここから。]
散文詩について
序 に 代 へ て
散文詩とは何だらうか。西洋近代に於けるその文學の創見者は、普通にボードレエルだと言はれてゐるが、彼によれば、一定の韻律方則を無視し、自由の散文形式で書きながら、しかも全體に音樂的節奏が高く、且つ藝術美の香氣が高い文章を、散文詩と言ふことになるのである。そこでこの觀念からすると、今日我が國で普通に自由詩と呼んでる文學中での、特に秀れてやや上乘のもの――不出來のものは純粹の散文で、節奏もなければ藝術美もない――は、西洋詩家の所謂散文詩に該當するわけである。しかし普通に散文詩と呼んでるものは、さうした文學の形態以外に、どこか文學の内容上でも、普通の詩と異なる點があるやうに思はれる。ツルゲネフの散文詩でも、ボードレエルのそれでも、すべて散文詩と呼ばれるものは、一般に他の純正詩(抒情詩など)に比較して、内容上に觀念的、思想的の要素が多く、イマヂスチツクであるよりは、むしろエツセイ的、哲學的の特色を多量に持つてる如く思はれる。そこでこの點の特色から、他の抒情詩等に比較して、散文詩を思想詩、またはエツセイ詩と呼ぶこともできると思ふ。つまり日本の古文學中で、枕草子とか方丈記とか、または徒然草とかいつた類のものが、丁度西洋詩學の散文詩に當るわけなのである。
枕草子や方丈記は、無韻律の散文形式で書いてゐながら、文章それ自身が本質的にポエトリイで、優に節奏の高い律的の調べと、香氣の强い藝術美を具備して居り、しかも内容がエツセイ風で、作者の思想する自然觀や人生觀を獨創的にフイロソヒイしたものであるから、正にツルゲネフやボードレエルの散文詩と、文學の本質に於て一致してゐる。ただ日本では、昔から散文詩といふ言葉がないので、この種の文學を隨筆、もしくは美文といふ名で呼稱して來た。然るに明治以來近時になつて、日本の散文詩とも言ふべき、この種の傳統文學が中絕してしまつた。もちろん隨筆といふ名で呼ばれる文學は、今日も尙文壇の一隅にあるけれども、それは詩文としての節奏や藝術美を失つたもので、散文詩といふ觀念中には、到底所屬でき得ないものである。
自分は詩人としての出發以來、一方で抒情詩を書くかたはら、一方でエツセイ風の思想詩やアフオリズムを書きつづけて來た。それらの斷章中には、西洋詩家の所謂「散文詩」といふ名稱に、多少よく該當するものがないでもない。よつて此所に「散文詩集」と名づけ、過去に書いたものの中から、類種の者のみを集めて一册に編纂した。その集篇中の大分のものは、舊刊「新しき欲情」「虛妄の正義」「絕望の逃走」等から選んだけれども、篇尾に納めた若干のものは、比較的最近の作に屬し、單行本としては最初に發表するものである。尙、後半に合編した抒情詩は、「氷島」「靑猫」その他の既刊詩集から選出したものである。
昭和十四年八月 著 者
[やぶちゃん注:余談乍ら、私は海外作家では、イワン・ツルゲーネフを最も愛している。サイトの「心朽窩新館」では、萩原朔太郎が掲げた彼の「散文詩」(中山省三郎譯(全八十三篇・全挿絵附)を電子化注しており(偏愛する「猟人日記」の同じ中山氏の訳の電子化注も手掛けている)、また、ブログ・カテゴリ「Иван Сергеевич Тургенев」では、同「散文詩」の神西淸訳・上田敏訳・生田春月訳を完遂しているので、是非、読まれたい。]
散 文 詩
宇宙は意志の表現であり、
意志の本質は惱みである。
シヨペンハウエル
[やぶちゃん注:パート標題ページ。標題と引用の添え辞。]
ああ固い氷を破つて
ああ固い氷を破つて突進する、一つの寂しい帆船よ。あの高い空にひるがへる、浪々の固體した印象から、その隔離した地方の物佗しい冬の光線から、あはれに煤ぼけて見える小さな黑い獵鯨船よ。孤獨な環境の海に漂泊する船の羅針が、一つの鋭どい意志の尖角が、ああ如何に固い冬の氷を突き破つて爆進することよ。
[やぶちゃん注:巻頭詩篇。太字は底本では傍点「◎」。「爆進」はママ。初出は「新しき欲情」(大正一一(一九二二)年四月十五日アルス刊。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで視認出来る)の「第一放射線」パートの「作品番號」「34」。以下に以上の原本の当該部を視認して示す。以下、同じ仕儀をするので、以上は簡略化する。太字下線は傍点「●」である。
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34
ああ固い氷を破つて ああ固い氷を破つて突進する一つの寂しい帆船(はんせん)よ。あの高い空にひるがへる浪の固體した印象から、その隔離した地方の物佗しい冬の光線から、あはれに煤ぼけて見える小さな黑い獵鯨船よ。孤獨な環境の海に漂泊する船の羅針が、一つの鋭どい意志の尖角が、ああ如何に固い冬の氷を突き破つて爆進することよ。
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