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2022/01/23

曲亭馬琴「兎園小説別集」上巻 文忌寸禰麿骨龕所掘圖說

 

[やぶちゃん注:本篇は底本のここであるが、御覧の通り、画像の解析度が低く、百%でダウン・ロードすると、画像に記された文字が擦れて甚だ読み難くなってしまう。そこで、ここは吉川弘文館随筆大成版の画像をトリミングして使用することとした。「文忌寸禰麿」は「ふみのいみきねまろ」と読む。飛鳥時代の官人で軍将の書根麻呂(ふみのねまろ ?~慶雲(きょううん)四(七〇七)年)。「壬申の乱」(天武天皇元(六七二)年)で東国に逃れた大海人皇子(後の天武天皇)に從った舎人(とねり)。後に村国男依(むらくにのおより)らとともに近江に攻め入った。まさにこの記事にある通り、天保二(一八三一)年九月二十九日(本記事の日付とは一ヶ月のタイム・ラグがある)、大和宇陀(うだ)郡(現在の奈良県宇陀市榛原八滝(はいばらやたき:グーグル・マップ・データ。以下同じ)で発見された墓誌には「將軍左衞士府督正四位上」とある。慶雲四年十月二十四日(墓誌では九月二十一日とする)に死去した。氏(うじ)の「ふみ」は「文」とも、後に「連」(むらじ)から「忌寸」(いき)と称した。名は「根麻呂」とも書く。当該ウィキでは、ここに記された金銅製骨壺及び銅箱緑瑠璃壺墓碑の現物(総て国宝)画像が見られる。「骨龕所掘圖說」は「骨龕所(こつがんしよ)を掘るの圖說」か。「骨龕所」という熟語は聴いたことがないが、「龕」は「死人を納める棺」の義がある。仏教の隆盛後は、仏像・名号・位牌などを安置するための厨子或いは壁面の凹んだ場所(ニッチ)又は小室として知られる。鎌倉御府内に限られる「やぐら」には、多くの龕を見ることが出来る。]

   ○文忌寸禰麿骨龕所掘圖說

【解云、曩得是圖、貼於第十七卷内餘紙、今亦得ㇾ看此圖說、因剿入是卷楮餘、再錄ㇾ之。】

[やぶちゃん注:実際には以上の割注は全体が四字半下げである。訓読してみる。「解(とく)云はく、『曩(さき)に是の圖を得(え)、第十七卷の内の餘りの紙に貼り、今、亦、此の圖說を看るを得(う)。因りて、是の卷の楮餘(ちよよ)に剿入(さうにふ)し[やぶちゃん注:掠め取って書入れ。]、再び、之れを錄す。』と。」。]

 

總 高さ 八 寸 九 分

總目方 一貫八百目

  銅壺縮圖

[やぶちゃん注:「八寸九分」二十六・九六センチメートル。「一貫八百目」六キロ七百五十グラム。]

 

Tubo

 

[やぶちゃん注:以下、壺に書き込まれたキャプションを判読する。上からで、右から左への順。上段の蓋の下方の本体の上縁に(この上縁部は以下のキャプションから見て取り外しが可能なようである。前にリンクさせた現物写真でも明らかに分離しそうである)、

葢(ふた)高(たかさ)

三寸四分(十・三センチメートル)

目方

五百

五十目(二キロ六十二・五グラム)

中段の本体上部に左から右に横転して、

指渡(さしわたし)七寸五分(二十二・七センチメートル)

高サ二寸八分(八・五センチメートル弱)

合(あはせ)テ共ニ

目方壱貫

二百五十目(四キロ六百九十六グラム弱)

下方右手壺底外に、高台の高さを、

五分(一・五センチメートル)

本体下部に左から右に横転して、

渡(わたり)三寸九分(十一・八センチメートル)

とある。]

 

蓋高さ九分蓋共高

五寸五分

  玻瓈壺縮圖

[やぶちゃん注:「玻瓈壺」「はりつぼ」。玻璃壺。「五寸五分」十六・六センチメートル。]

 

Haritubo

 

[やぶちゃん注:胴部分のキャプション。

高サ五寸(十五・一五センチメートル)

目方三百五十目(一キロ三百二十五・五グラム)

とある。

 以下は、底本では玻璃製壺の下方にある。]

 胴廻り一尺六

寸五分破裂爲

十二片

[やぶちゃん注:『「胴廻り一尺六寸五分」(約五十センチメートル)であるが、「破裂」して、「十二片」と「爲」(な)る。』であろう。先の現物でも割れた跡が判る。]

 

銅牌◎圖形省略。[やぶちゃん注:以下、罫線は、実際には転倒した下方に開いた「コ」の罫線である。底本を見られたい。]

┌─

│      長さ五寸五分 一寸一分五厘

│ 銅箱蓋裏       厚      目方百六十目

│      巾一寸九分  一分

└─

[やぶちゃん注:「五寸五分」十六・三センチメートル。「一寸一分五厘」三・五センチメートル弱。「百六十目」六〇〇グラム。「一寸九分」五・七五センチメートル。「一分」三ミリメートル。]

┌─

│ 箱 蓋 表

└─

 

│ 壬申年將軍左衞士府督正四位上文禰麻

│ 呂忌寸慶雲四年歲次丁未九月廿一日卒

[やぶちゃん注:以下は、前二行の下方にある割注。]

【長さ八寸六分。巾一寸四分。厚九厘。目方六十目。】

[やぶちゃん注:「一寸四分」四・一五センチメートル。「九厘」二・七ミリメートル。「六十目」二百二十五グラム。]

 

┌─

│      長サ九寸五分 目方四百五十目

│ 銅  箱

│      巾二分餘

[やぶちゃん注:「九寸五分」二十八・七八センチメートル。「四百五十目」一キロ六百七十五・五グラム。「二分餘」六ミリメートル強。]

 

和州八瀧村池内にて、古銅器掘し候儀に付、伺書。

                木村總左衞門

私御代官所、和州宇陀郡八瀧村地内【解云、八瀧村は「書紀」に所ㇾ云、八咫烏の舊地なり。「大和志」等、宜く考ふべし。】、字「笠松耕地」と唱候[やぶちゃん注:「となへさふらふ」。]畑地にて、同村常七、古銅器掘出候旨、訴出候間、早速爲見分吟味手代差遣候處、去月【天保二年十一月。】朔日八ツ時頃、常七儀、同人弟、幷に、同村甚助・佐助と申者、相雇、地面打返し罷在候砌、鍬先に銅板一枚掛り出候に付、猶最寄掘穿候處、銘文彫付候銅板一枚入候銅箱一つ、右脇に葢付の銅壺一つ有ㇾ之候間、蓋明相改候處[やぶちゃん注:「けだし、あきらかに、あひあらためさふらふところ」。]、硝子に似寄候[やぶちゃん注:「によりさふらふ」。]壺に灰入[やぶちゃん注:「はひ、いりて、」。]有ㇾ之。尤掘出扱候節、外と[やぶちゃん注:「ほかと」で「ほかの物と」の意であろう。]壺に當り、數多に破碎致候樣子にて、最初掘出候銅板は、銘牌入候箱之蓋にて、此外、銅壺、廻り、燒灰有之。其餘、聊の品も無ㇾ之。然處、右地所は檢地高[やぶちゃん注:不詳。その高が非常に古くから検地対象であったことをかく言っているか。]の内にて、開發の年曆、不相知、元祿十六未年[やぶちゃん注:一七〇三年。]、植村右衞門佐檢地の節より、常七本家善四郞所持致居候處、同人、追々、及困窮、年月覺不ㇾ申候由。凡五十ケ年程以前、同村次郞兵衞持地に相成、引續同人伜、當時、次郞兵衞致所持候得共、善四郞所持の砌より、常七祖父要助、常七、代々、下作仕來候[やぶちゃん注:「したさく、つかまつりきたりさふらふ」。「下作」は小作料を支払って地主から借りて耕作すること。]永小作[やぶちゃん注:「えいこさく」。小作人が長期の耕作権を有する小作関係。小作料は一般に低く、耕作権の譲渡・売買も許されており、小作人の権利が強い。江戸時代に始まる慣行で、多くは新田開発の際に発生した。]に有ㇾ之、掘出し候場所は、極山中村方[やぶちゃん注:「ごく、さんちう〔の〕、むらかた」。]にて候得ども、平地の砌、其最寄古塚、或は墓印又は樹木等有ㇾ之儀、老年の者も存不ㇾ申、申傳候儀も無ㇾ之旨申候間、掘出候品々、得と[やぶちゃん注:「とくと」。]御改候處、歷史に有ㇾ之候、文忌寸禰麻呂の納骨古墳の由。慶雲四年九月中、卒去の旨、銅牌に相記有ㇾ之候。右銅牌幷に箱の内、紺錆[やぶちゃん注:「こんしやう」と読んでおく。緑青。]、吹出、外に壺は外廻り一面に流金[やぶちゃん注:「ながしきん」か。金鍍金(めっき)のことか。]、又は燒集(つけ)[やぶちゃん注:底本の「集」へのルビ。「やきつけ」。熱を加えて鏝付けすることか。]にても御座候や、金色の上、靑錆色にて、「摺剝し」[やぶちゃん注:「すりはがし」。高級着物の金彩加工の技法の一つで、生地の上に糊をひいて、金箔を貼りつけるの手法を言う。]と申候姿に相成、何れも紫銅[やぶちゃん注:青銅。]と相見候。銅性、宜敷、牌之外、箱之蓋而已[やぶちゃん注:「のみ」。]。厚さ、不同、有ㇾ之、薄き方は、自然にて朽滅[やぶちゃん注:「くちめつし」。]候儀にて可ㇾ有ㇾ之や、外と壺等は、聊、朽損し[やぶちゃん注:「くちそんじ」。名詞。]、無ㇾ之、内に入有ㇾ之候壺は碧色にて、玻瓈にも可ㇾ有ㇾ之や、フラスコ同樣に相見え申候。中に入候灰は石灰の樣子にて、尤、骨形等は相見え不ㇾ申候處、外、掘出し候品、無ㇾ之、然處、右體、高位方之古墳、數年二便[やぶちゃん注:「にべん」。大便・小便。]其外の肥し等にて相穢し候段、畢竟不ㇾ存儀とは乍ㇾ申、今更、甚恐怖いたし、不本意の至、奉ㇾ存候間、此上、於村方掘出し候品々、大切に守護致度旨、一同申立候。右始末等、取調相伺候儀に付、御下知有ㇾ之候迄、掘出主は村役人え相預け、麁末無ㇾ之樣取計、他所え持出候儀は勿論、猥に見物等不ㇾ爲ㇾ致樣、且、如何敷[やぶちゃん注:「いかがはしき」。]風說等、申觸間敷旨、申渡置候。此上、如何取計可ㇾ申や、則、掘出候品々、別段、麁繪圖面三枚相添、御下知奉ㇾ伺候。以上。

 天保二卯年十二月    木村總左衞門印

[やぶちゃん注:以下、最後まで底本では一字下げ。]

私に云、當時の風聞に、村方のものども、「件の銅牌を神に祭るべし」など欲するといふ。「彼掘出したる處の畑地は、以後、年貢御免なるべし。」など、いへり。いかに命ぜられしにや、尋ぬべし。

解云、慶雲は文武天皇の年號、當時、大和州藤原宮にいませしなり。文忌寸禰麿の事は、「日本後紀」・「日本逸史」等に見えたり。追て抄錄すべし。慶雲四年丁未より天保二年辛卯まで、星霜一千一百二十五年也。三十五年に作りしは傳寫の訛り[やぶちゃん注:「あやまり」。]なり。この禰麻呂忌寸の墓碑牌は、文政三年庚辰[やぶちゃん注:一八二〇年。]の春、攝州眞上の光德村の民、六右衞門が掘出せし、石川年足朝臣の墓碑牌と、一對の古物なり。年足の墓碑は別記にあり。合せ見るべし。

[やぶちゃん注:『八瀧村は「書紀」に所ㇾ云、八咫烏』(やたがらす)『の舊地なり。「大和志」』神武天皇が大和へ東遷する折り、建角身命(かもたけつぬみのみこと)が八咫烏に化身し、熊野の山中で停滞する一行を大和へと道案内し、皇軍の勝利に貢献したと伝えられている。このロケーションの西直近の宇陀市榛原高塚(はいばらたかつか)には八咫烏神社がある。「大和志」は「五畿内志」、正式には「日本輿地通志畿内部」の内の畿内五ヶ国の地誌、則ち、「河内志」・「和泉志」・「攝津志」・「山城志」・「大和志」の最後を指す。同書は享保年間(一七一六年~一七三六年)に編纂され、江戸幕府による最初の幕撰地誌と看做され、近世の地誌編纂事業に多くの影響を与えた書である。現物画像を国文学資料館の原本画像で見たが、記載が痩せていて、馬琴が言うほどには、参考にならない。その代わり、奈良県教育会が大正三(一九一四)年に刊行した「大和志料」下巻を国立国会図書館デジタルコレクションの方が遙かに記載が豊かである。同神社はここで、しかも、同郡の記載の末の「舊蹟墳墓」に「文氏墓」として、この「文禰麻呂」の記載も読める。

「攝州眞上の光德村」大阪府高槻市真上町に近い月見町の荒神塚。「光德」は不詳。

「石川年足」(いしかわのとしたり 持統天皇二(六八八)年~天平宝字六(七六二)年)は飛鳥末期から奈良中期にかけての公卿・歌人。「壬申の乱」以降、蘇我氏嫡流となった少納言蘇我安麻呂の孫、権参議石川石足の長男。官位は正三位・御史大夫。事績は当該ウィキを参照されたい。「高槻市」公式サイト内の「インターネット歴史館」の「石川年足の墓」を見られたいが、彼の塚が掘り出された際、『木炭で囲われた木箱があり、なかに埋葬された人物について記した金銅板製の「墓誌」と人骨が納めてあったと伝えられ』、『墓誌は、長さ約』三十『センチメートル・幅約』十『センチメートル・厚さ』三ミリメートルの『銅板で、表面に年足の系譜や官職などを刻んで』、『周りを細かい唐草文様で飾り、表裏とも金メッキがほどこしてしてあ』ったとある。『この墓誌によって、埋葬された人物が石川年足であると特定され、また真上の地がかつて白髪郷と呼ばれていたことがわか』ったとある。こちらも国宝である。

「別記にあり。合せ見るべし」不詳。]

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