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2022/01/02

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) 「マクベス」の硏究 /「四」~「六」

 

           

 マクベス夫人は、一寸見ると、マクベスよりも遙かに犯罪性に富んで居るやうに見える。彼女は獨白に於て、まわりくどい言葉を使わないで、手つ取り早く、ありの儘を述べて居る。良人の功名心をして目的を達せしめようとするならば、良人をして惡心を持たしめなければならない。たつた一つだけ犯罪を敢てしさへすれば、王冠は必ず得られるのだから。かう考へた彼女は何の躊躇もなく良人の共犯者にならうと決心したのである。『さ、早く此處へおいでなさい。わたしの精神を貴郞[やぶちゃん注:ここは底本は「當郞」。直ぐ後の表記と国書刊行会本で訂した。]の耳の中へ注込むから。さうして、運命や不思議な援助が貴郞に授けようとしてゐる黃金の冠りの邪魔になるものを此舌の力で、叱り飛ばしてくれるから……』ただこゝに注意して置かねばならぬことは、彼女もまた、運命の力を信ずるが如き迷信的性情を持つて居たことである。

 さて使者役のものは國王の突然の行幸を夫人に告げる。夫人は驚いてそんな筈はないといふ。すると使者は、『失禮ながら、全くで御座います。殿さまもお歸りでございます。同役の者が一人、大急ぎでお先觸に參りましたが、殆ど息を切て、やつとの事で、お使ひの趣旨だけを申し述べました。』と答へる。これによつてマクベスは、手紙と使者と自分自身との三重の手段で夫人の協力を求めたことがわかる。さうして夫人は初めて、國王の行幸が容易ならぬ報道であることを知つたのである。知ると同時に彼女は國王暗殺を心で決しその獨特な感情がむらむらと湧いて來た。『鴉さえ嗄《しやが》れ聲をして、不運なダンカンが予の城へ來るのを知らせる。……さアさ怖しい企事《くはだてごと》の分添《かいぞへ》をする精靈共よ、早く來て予を女でなくしてくれ、頭から足の爪先まで、酷い、殘忍な心で充溢《いつぱい》にしてくれ! 予の血を凝結《こごら》せてくれ、憫む心なんかゞ働いて酷い企《くはだて》をぐらつかせたり、實行の邪魔をしたりしない爲に! さあ、この女の胸へ入つて來てくれ、やい、人殺《ひとごろし》を職《しごと》にする精靈共よ、此の甘たるい乳を苫い膽汁に變ツちまつてくれ、目に見えない姿をして、人間の惡事を手傳ふ汝等、今何處《どこ》に居るか知らんが! さあ、眞闇《まつくら》な夜よ、汝も來て、黑闇地獄《こくあんぢごく》の黑煙で、押包んでしまつてくれ、予の鋭い劍に己《おの》が切る創口《きずぐち》を見せないために、天が黑闇《こくあん》の幕越しに隙見をして、「待て待て!」と呼ぶようなことのないために……。』

 殺人に就てのかやうな自己敎唆は、(ことに女の口を籍《か》りての)沙翁獨特のものである。この婦人の獨白を通じて私たちは、マクベス劇に高調されて居るぺーソスを見逃してはならない。沙翁はスコツトランドの高地の人々の感情生活を、翁自身のさびしさ、憂欝さをもつて遺憾なきまでに表現して居るのである。これを讀むと、私たち自身がスコツトランドの迷信的雰圍氣を彷徨するやうな氣持になるのである。幽靈や殺人鬼や地獄が引つ張り出されて頗る複雜な言葉になつて居るが、要するに、夫人が自分の手にあまることを精神力によつて敢行しようとして居ることがわかる。

 マクベスはいよいよ歸つて來た。彼女は『コードアどの』と昇進した名で呼んで狂わしげに抱擁する。その抱擁の中には犯行の成功を祈る心が充ちて居る。マクベスもその心を知つて『なあ、お前さん。』と呼び、『ダンカン王が今夜ここへ來られるんだ。』と告げる。

 夫人が『さうして何時《なんどき》御立ちなさるのです?』ときくと、マクベスは、いかにも彼女をそゝのかすように、『明日《あす》といふ豫定だ』。と答へる。『おゝその明日をば、決して太陽に見せますまいぞ!』と叫び、マクベスの顏付を見て『目にも手にも舌にも歡迎の意を示して、罪のない草花と見せかけて、其蔭の蝮《まむし》になつてゐなくちやいけません。』と忠告する。さうして、『さ、來る人の待受けをせにやなりますまい。今夜の大切な仕事は萬事わたしにお任せなさいまし。』といふのである。夫人のこの言葉によつてマクベスは國王殺しの凡ての準備が整つたことを知つた。然しそれはあまりに早かつた。彼自身はそれ程突然決心することが出來なかつたのである。彼はそれ迄考へに考へて來たのであつて、彼は夫人のこの言葉をむしろ意外に思つたにちがひなかつた。むしろゆつくり夫人が相談してくれたら、或は彼はもつと積極的な態度を取つたかも知れなかつた。けれど夫人はさうしたことの無益であることをよく知つて居た。彼女は良人の弱點を知り拔いて居たからである。こゝに於てマクベスは聊かたじろぎ氣味であつたが、夫人の言葉に深く動かされ、『尙とくと相談しよう。』といい放つたのである。

 

        

 さて、マクベスは、心の重荷のために國王を迎ひに出ることが出來ず、夫人が挨拶に出ねばならなかつた。王はこれを見て不審に思ひ、『コードアの領主は?』とたづね『奧さん、今夜は御厄介になりますぞ。』というと、夫人は妙な、まるで木に竹をついだやうな返事をする。やがて歡迎の宴が開かれると、マクベスは王がまだ食事最中であるにも拘はらず食卓を離れる。卽ちこれ、彼が自制心を失つた證據である。

 それから有名な彼の獨白が始まるのである。暗殺という一網で、一切の結果を掬《すく》つてしまふことが出來れば未來なんか少しも關《かま》はないから敢てやつつけるべきであるが、さう思ひ乍ら彼は現世に於ける應報が恐ろしかつたのである。さうして彼は前に述べた如く、外觀に重きを置く性質であるから、心か靜めて考へると、自分の從兄であり國王であり又賓客であるダンカンを殺すことは如何にも忍びなかつた。而もダンカンは寬仁《くわんじん》で穩和な性質であるから、もし彼を殺した日には、王の德が、喇叭舌《らつぱじた》の天使のやうに怨《うらみ》を述べるに違ひない。かう考へて彼は陰鬱なぺーソスに陷るのである。然し彼は自分の功名心だけは、どうしても抑へつけることが出來ず、自分の野心の跳飛を認めざるを得なかつた。卽ちその獨白の最後に彼は、『予が乘つて居るこの企謀を剌戟する拍車は一つもない、ただ跳上《とびあが》る大野心めが、おのが分際を超越して、とんでもない方へ墜落《お》ちようとしてゐる……』と叫んで居るのである。

 このことは沙翁の作中にあらはれるすべての大犯罪者に特有な性質である。彼等は決して自分自身を欺かないのであつて、いつも客觀的に自己判斷をやつて居る。が、これは沙翁の作物全體に亙る批評であるから、ここでは省略するとして、さて、マクベスに續いてマクベス夫人があらはれ來り、先づ王樣の食事のすまぬうちに食卓を離れたことを非難し、次で有名な口說を始めるのである。丁度、マクベスの心が澄んで居たときであるから、夫人の言葉は强く彼の心に響いた。彼は夫人に向つて、王がいろいろの榮譽をくれたから、むざむざ棄《すて》るのも惜しく、あのことはもうやるまいよといつたが、夫人はその理由の極めて薄弱なことを知つた。さうして夫人は彼の意志に反對で三箇條の急所を擧げて彼を說服しようとしたのである。

 第一に、王にならうといふ望みを抱いて居りながら、實行をしないで、たゞその望みに陶醉して居るといふのだつたらマクベス夫人に對する愛情もそれと同一視すべきであつて、たゞ戀愛といふ觀念に溺れて居るに過ぎないので、眞實夫人を愛しては居ないのだ。とかう解釋しなければならぬと夫人は詰《なじ》るのであつた。

 第二に夫人は、英雄としての彼を非難した。望みだけ抱いてそれを實行する勇氣がなかつたならば、英雄ではなくて臆病者といはなければならぬといふのである。それに對してマクベスは、『まゝ、しづかに、男子のすべきことなら、何でもやつて見せるが、その以外のことをするのは男子でない。』と答へる。『人非人である。』と彼は言ひたかつたのであらう。この反對論はさすがに夫人を弱らせたと見え、彼女はずつと低い標準から良人を攻めにかゝつた。卽ち、『ぢや獸《けだもの》か何かでしたか。』と彼女はいふのである。この皮肉にはさすがに彼もたぢろがざるを得なかつたが、その時更に夫人は世にも恐ろしい言葉を述べ立てたのである。『わたしは乳汁《ちち》を飮ませたことがありますから、赤兒の可愛さは善く知つています、けれども、若しわたしが、貴郞がお誓ひなすつたやうに、一旦斯うしようと誓つたなら、其赤兒がわたしの顏を見て、莞爾《にこにこ》して居る最中にだつて、そのぶよぶよした齒齦《はぐき》から無理やりに乳首を引奪つて、その腦髓を叩きつけて微塵にして御覽に入れます。』

 この言葉も前の『愛情』に關する言葉と等しく、夫人の性的生活の一端を示すものであつて、マクベスが夫人の計畫の委細をきいて、『男の兒ばかりをお生みなさい、その不敵な精神ぢや男性の他を製《こしら》へることは出來まい。』と答へたところを見ると、夫人が心理的には男性的女性であつたことを見逃してはならない。マクダフ(マクベス劇中の人物)の言葉から察すると、マクベスには子がなかつたといふのであるのに、夫人が赤兒に授乳した經驗のあることを物語るのは、夫人がマクベスに嫁する前に他の軍人に嫁して居たといふ沙翁硏究者たちの說を信ずべきであるかも知れないけれど、沙翁は劇中にそのことを一言も述べていないから、むしろ、マクベスとの間にかつて赤兒を設け、それが早世したと考へる方が妥當であるかも知れない。

 女にとつて最も神聖なる母性愛をも犧牲にするといつた夫人の言葉は、たしかにマクベスを動かすことが出來た。彼は今や兇行を敢てすべく餘儀なくされることを感じ、『だが若し仕損じるといふと?』と、心配の言葉を洩すに至つた。

 そこで夫人は第三の急所を述べたてたのである。卽ち彼女は、さやうな仕損じのないやうな計畫の委細を物語つたのである。王がよく眠つた時分に二人の侍從に藥酒をすゝめて、醉倒れさせれば、王の命は私たちの手のうちにあるのも同樣。又侍從どもに弑逆罪を被《き》せることも出來る。といふのが夫人の計畫なのである。

 これをきいたマクベスは、しつかりした地盤の上にのせられた氣持がした。さうして、『同じ室に臥て居る其二人に血を塗附けてさうして短劍も其奴らのを使ふことにすれば、奴等がした事のやうに思はれさうなもんぢやないか?』と、もはやその決心もついてしまつたのである。夫人は愈よ良人を說服し得たことを喜び、『さう思ひませうとも、わたしたちは業々《げふげふ》しく聲を揚げて王の變死を歎いて騷ぎ立てましせうから。』といふ。これでマクベスの心配はすつかりなくなつた譯である。二人の神經は異常に緊張した。

 

          

 愈よ凶行の夜が來た。マクベスは極度に興奮した。彼は柄が此方へ向いて居る短劍の幻影を見た。卽ち、彼はさういふ道具を使はなければならぬと思つて居たからである。幻影はなほもそのまゝ留まつたばかりか、刄《は》や欛《つか》には生血《なまち》がついて居るのが見えるやうになつた。然し乍らマクベスは、それが錯覺であることをよく知つて居た。『いや、そんな物ありはしない。殘忍《むご》い事をしようとしてゐるからあんな物が目に入るのだ。』と、彼はその錯覺を自分で支配するやうになつた。そして兇行に對する内外兩方面の準備に移つた。『今世界の半面では萬物が死んだようになつて居る。帳中の眠《ねむり》も惡夢に襲はれて居る。魔術使の女共は、蒼白《あをざ》めた顏のヒカトに供物をする、樵悴《やつ》れた殺人者は、その見張役を勤めて吠える狼の聲に促されて、ま、こんな風に拔足して、荒淫無慚なタークインの足附《あしつき》で、其目的の方へ、幽靈のように近づく。……やい、堅牢な地面よ、予の足が何方《いづこ》へ往かうと、其音を聞くなよ、其邊の石共が予の居處を口走つて恰《ちやう》ど今の場合にふさはしい此物凄さを失《しつ》してしまつてはならんから。』この最後の言葉は殘忍性に陶醉するものの心を遺憾なくあらはして居つて、マクベスの心の進展が目に見えるやうである。

[やぶちゃん注:以上は第二幕第一場の最後のマクベスの台詞。「ヒカト」はギリシア神話のティタン神の一人で大地母神。後に冥界と結びつき、夜・魔術・妖怪の支配者とされ、三つ辻には三面三体の像が立てられ、犬の肉などが供えられた。月神セレネやアルテミスと同一視されることもある。「タークイン」は「タークィン」(Tarquin)で、ローマ王タルクィニウス・スペルブスの子セクストゥス・タルクィニウスの英語表記。ウィキの「ルークリース凌辱」によれば、紀元前五〇九年、『彼は王の家臣で貴族のルキウス・タルクィニウス・コッラティヌス(コラタイン)の妻ルクレーティア(ルークリース)を強姦した。ルクレーティアは自殺し、王の甥ルキウス・ユニウス・ブルートゥスはその遺体を公共広場フォロ・ロマーノに運んだ。このことでタルクィニウスに対する反乱が起き、王族は追放され、共和政ローマが確立した』とある。]

 夫人はかねて約束して置いた合圖の鐘を鳴らす、マクベスは手に劍を携へて王の寢室へ登つて行く。夫人は階下にあらわれる。彼女は侍從共を藥酒で醉はせ、短劍を準備し、扉をさへ開けて置いたのである。若し國王の寢顏が彼女の父の顏に似て居なかつたら、恐らく自分で國王を殺したにちがひなかつた。このことは、一見、彼女の心を了解せしめ難からしめるが、沙翁は前に彼女の口から母性愛について語らしめたやうに、こゝでは兩親に對する愛情を語らしめて、彼女の心に存する人間愛を示さうとしたのである。

 マクベスは兇行を遂げて降りて來た。と、彼の身のまはりに不思議なことが起つた。次の間にドナルべインがその從者と共に眠つて居たが、彼等は惡夢にうなされ、一人が眠りながら笑ふと、もう一人が『人殺し』と叫んだ。さうして二人とも祈禱をはじめ、最後に『アーメン』と言つたが、その言葉に彼は非常な壓迫を感じた。さうして彼自身『アーメン』と言はうとしたが、どうしても言葉が出て來なかつた。と、その時彼は聽覺の幻想を經驗した。『もう安眠は出來んぞ! マクベスが安眠を殺しツちまふ』と何處かで人聲がした。ところが、こんどは彼はその幻覺を、前の短劍の幻覺のやうに支配することは出來なかつた。彼は侍從の劍に血を塗ることを忘れたり、劍を持つて降りて來るやうなヘマをやつた。夫人は彼の手から劍を奪つた。彼女は極めて冷靜であつた。『いくぢのない! 其劍をおよこしなさい。眠《ねむつ》てる者や死んでる者は、畫像同樣です。畫に書いた鬼を怖がるのは子供です。……血が出てゐたらそれを罪と一しよに侍從共の顏へ、塗附けて來よう』。さうして、戶口を誰かゞ叩く音をきいて、『室に戾りましせう。水で一寸洗ひさへすれば、爲《し》た事は消えツちまひますの。造作は無いぢやありませんか! 貴郞は、度胸を何處へか去ツちまつたんですね。』

[やぶちゃん注:以上は第二幕第二場。「ドナルべイン」は後のスコットランド王(在位:一〇九三年~一〇九四年五月、及び、一〇九四年十一月~一〇九七年)ドナルドⅢ世(Domnall mac Donnchada 一〇三三年~一〇九九年)のこと。ここで殺害されたダンカンⅠ世(Duncan IDonnchad mac Crínáin)とノーサンブリア伯シューアドの妹シビルの次男で、後に出るマルカムⅢ世(Máel Coluim III mac DonnchadaMalcolm III 一〇三一年 ~一〇九三年)の実弟。肌が白かったことから、「白皙」を意味する「ドナルド・ベイン」(Donald Bane)とも呼ばれた。悲惨な晩年は当該ウィキを参照されたい。なお、この奇体なシークエンスは総て、王を殺害した後に中庭で行き合ったマクベス夫人にマクベスが語る形で示されている。]

 然しマクベスはすつかり心の混亂に陷つてしまつた。『爲た事を憶い出すとすると……茫然しているのが一番可い。……ダンカンを叩き起してくれ! さうして貰ひたい、出來るものなら!』と彼は叫んだ。けれど彼は自制した。愈よ犯罪者になり終つたとき、彼の心の奧にまどろんで居た狡猾と欺瞞とは一時に眼ざめた。彼は自分が主犯者で、妻はほんの手助けに過ぎないことを自覺した。なほ又明かな朝の光は彼の神經を力强くした。その後に於ても、幻想が彼を襲うのは主として夜分のことであつた。

 彼は王を起す役目を仰せつかつて居たマクダフを王のところへ連れて行かうと言つた。一切の事物に對して、彼は偉大なる沈着ぶりを發揮し、これまでの種々の弱點を補はうとした。彼は酒に醉ひつぶれた侍從を刺し殺し、亡き王に對するはげしい愛情のために、思はずも殺したのであると言つた。さうして彼は、こんな悲しい目に逢ふなら、王の殺されなさつた一時間前に死んで居た方がよかつたといふのであつた。夫人はこれを、勝ち誇つた心できいて居た。そして突然人事不省に陷つた。この有樣を目擊しては誰だつてマクベス夫婦が下手人であるとは思はない。たゞバンコー一人は内心大に疑惑を抱いて居たが、彼は別に何とも言ひ出さなかつた。

 この犯罪はいふ迄もなくマクベス夫人の手で計畫されたものであるが、毒酒を作る考へは女子の犯罪として誠にふさはしいものといはねばならない。何となれば古來、毒殺は女子の一手販賣とされて居たくらゐであるからである。酩酊者に犯行を塗りつけるといふこともまた極めて巧みな考へであつた。敵に買收されて、酒の勢ひで大逆を犯すといふことは、全くありさうなことであつた。シェクスピーアがアルコホルの作用を十分理解して居たことは門番の會話の中に明かに認めることが出來る。『酒によつて三つのものが募る。小便と鼻の赤くなることゝ眠くなることである。淫情は募りもするが衰えもする』というが如きアルコオルの生理的作用を遺憾なく言ひ表はして居る。侍從たちはまつたく酩酊して、何を行つたか、又どんなことが起つたかを少しも知らなかつた。ことにマルコム、ドナルベインの二王子がそつと脫走をしたので、嫌疑がその方にかゝつて、マクベスは有利の地位に置かれた。

[やぶちゃん注:酒の効果の台詞は第二幕第三場の初めのマグダフと門番の会話で門番が語る内容である。]

 が、若しも、あの際侍從の訊問といふやうなことが行はれたならば、或は些細なことからマクベスに嫌疑がかゝるやうになつたかも知れない。侍從が血痕のついた劍を、そのまゝ自分の傍に置いて、眠りつゞけるなどといふことは、甚だ疑はしいことである。又、酒のために本當に無感覺になつて居たかどうかも怪しいことで、マクベスは、この怖ろしい缺點を償ふために、咄嵯の間に決心して、侍從を殺したのである。侍從を亡きものにすれば最早マクベスには誰も嫌疑をかけるものはない筈である。國王のために榮位を貰つたばかりのマクベスが、國王を弑しようとは誰も考へ及ばない。ただバンコー一人だけは妖婆の豫言があまりにも早く實現されたことに驚いたにちがひない。かくて、夫人の計畫は、犯罪學的にいへば決して拙いものではなかつたが、女子の計畫に屢ば見られる如く、其處に大きなギヤツプが出來て居たのである。それをマクベスが實地に當つて完全に補つた譯である。これは沙翁の周到な用意から發した描寫であつて、沙翁はこの二人の犯罪者に、どこまでも人間味を帶ばせようとしたからである。

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