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2022/01/19

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 神々の生活

 

   神 々 の 生 活

 

 ひどく窮乏に惱まされ、乞食のやうな生涯を終つた男が、熱心に或る神を信仰し、最後迄も疑はず、その全能を信じて居た。

「あなたもまた、この神樣を信仰なさい。疑ひもなく、屹度、御利益がありますから。」臨終の床の中でも、彼は逢ふ人每にそれを說いた。だが人々は可笑しく思ひ、彼の言ふことを信じなかつた。なぜと言つて、神がもし本當の全能なら、この不幸な貧しい男を、生涯の乞食にはしなかつたらう。信仰の御利益は、もつと早く、すくなくとも彼が死なない前に、多少の安樂な生活を惠んだらう。

「乞食もまた神の恩惠を信ずるか!」

 さう言つて人々は哄笑した。しかしその貧しい男は、手を振つて答辯し、神のあらたかな御利益につき、熱心になつて實證した。例へば彼は、今日の一日の仕事を得るべく、天が雨を降らさぬやうに、時時その神に向つて祈願した。或はまた金十錢の飯を食ふべく、それだけの收入が有り得るやうに、彼の善き神に向つて哀願した。そしてまた、時に合宿所の割寢床で、彼が溫き夜具の方へ、順番を好都合にしてもらへることを、密かにその神へ歎願した。そしてこれ等の祈願は、槪ねの場合に於て、神の聽き入れるところとなつた。いつでも彼は、それの信仰のために惠まれて居り、神の御利益から幸福だつた。もちろんその貧しい男は、より以上に「全能なもの」を考へ得ず、想像することもなかつた。

 人生について知られるのは、全能の神が一人でなく、到るところにあることである。それらの多くの神々たちは、野道の寂しい辻のほとりや、田舍の小さな森の影や、景色の荒寥とした山の上や、或は裏街の入り込んでゐる、貧乏な長屋の露路に祀られて居り、人間共の佗しげな世界の中で、しづかに情趣深く生活して居る。

 

 

 神々の生活  人間と同じく、神々にもまた種々の階級がある。そしてその階級の低いものは、無智な貧しい人々と共に、裏街の家の小さな神棚や、農家の暗い祭壇や、僅かばかりの小資本で、ささやかな物を賣つて生計してゐるところの、町々の隅の駄菓子屋、飮食店、待合、藝者屋などの神棚で、いつも佗しげに生活してゐる。日本の都會では、露路の至るところに、小さな佗しげな祠(ほこら)があり、狐や、猿や、大黑天や、鬼子母神や、その他の得體のわからぬ神々が、信心深く祭られてゐる。そして田舍には、尙一層多くの神々が居る。すべての農民等は、邸の中に氏神と地祖神を祭つて居り、田舍の寂しい街道には、行く所に地藏尊と馬頭觀音が安置され、暗い寂しい竹藪の陰や、田の畔(くろ)の畦道(あぜみち)每には、何人もかつてその名を知らないやうな、得體のわからぬ奇妙な神々が、その存在さへも氣付かれないほど、小さな貧しい祠(ほこら)で祀られてゐる。

 すべて此等の神々を拜むものは、その日の糧に苦しむほど、憐れに貧しい小作人の農夫等である。或はその家族の女共である。都會に於ても同じやうに、かうした神々に供物を捧げる人々は、槪ね皆社會の下層階級に屬するところの、無智で貧しい人々である。

「原則として」と小泉八雲のラフカヂオ・ヘルンが評してゐる。「かうした神々を信ずる人は、槪して皆正直で、純粹で、最も愛すべき善良な人々である。」と。それから尙ヘルンは、かかる神神を泥靴で蹴り、かかる信仰を讒罵し、かかる善良な人々を誘惑して、キリスト敎の僞善と惡魔を敎へようとする外人宣敎師を、仇敵のやうに痛罵してゐる。だがキリスト敎のことは別問題とし、かうした信仰に生きてゐる人々が、槪して皆單純で、正直で、善良な愛すべき人種に屬することは、たしかにヘルンの言ふ如く眞實である。此等の貧しい無智の人たちは、實にただ僅かばかりの物しか、その神々の恩寵に要求して居ないのである。田舍の寂しい畔道で、名も知れぬ村社の神の、小さな祠(ほこら)の前に額づいてゐる農夫の老婆は、その初孫の晴着を買ふために、今年の秋の收穫に少しばかりの餘裕を惠み給へと祈つてゐるのだ。そして都會の狹い露路裏に、稻荷の鳥居をくぐる藝者等は、彼等の弗箱である客や旦那等が、もつと足繁く通ふやうに乞うてるのである。何といふ寡慾な、可憐な、愼ましい祈願であらう。おそらく神々も祠の中で、可憐な人間共のエゴイズムに、微笑をもらしてゐることだらう。だがその神々もまた、さうした貧しい純良な人と共に、都會の裏街の露路の隅や、田舍の忘られた藪陰などで、佗しくしよんぼりと暮して居るのだ。常に至る所に、人間の生活があるところには、それと同じやうな階級に屬するところの、樣々の神々の生活がある。そしてその神々の祠(ほこら)は、それに祈願をかける人々の、欲望の大小に比例してゐる。ほんの僅かばかりの、愼(つつ)ましい祈願をかける人々の神々は、同じやうに愼(つつ)ましく、小さな些(ささ)やかな祠(ほこら)で出來てる。人生の薄暮をさ迷ひ步いて、物靜かな日陰の小路に、さうした佗しい神々の祠を見る時ほど、人間生活のいぢらしさ、悲しさ、果敢なさ、生の苦しさを、佗しく沁々と思はせることはないのである。[やぶちゃん注: 巻末の「散文詩自註」の当該部をここに配した。太字傍線「しよんぼり」は底本では傍点。因みに、ここで朔太郎が引用・略述している小泉八雲の言葉は、如何にも八雲の言いそうなことではあるが、その引用原本が何であるのか、私には不審なことによく判らない。私はネット上で、恐らく初めて、小泉八雲の来日以後の全作品(第一書房版「小泉八雲全集」に拠る)を元に全翻訳の電子化注をブログ・カテゴリ「小泉八雲」で二〇二〇年一月に完遂しているのだが、朔太郎が括弧書きで引用するような記載を今のところ見出すことが出来ない。判ったら、追記する。但し、小泉八雲がここに書かれているような本邦の信仰への強い親愛と、キリスト教への嫌悪感を持っていたことは確かである。因みに、萩原朔太郎には「小泉八雲の家庭生活 室生犀星と佐藤春夫の二詩友を偲びつつ」(昭和一六(一九四一)年九・十月号『日本女性』に連載)という作品がある(リンク先は二〇一三年五月一日に公開した私の古い電子テクスト)。]

 

[やぶちゃん注:本篇の太字「あらたかな」は底本では傍点「ヽ」。

 初出は昭和四(一九二九)年六月号『新文學準備俱樂部』。初出及び「虛妄の正義」では、「臨終の床の中でも、……」の部分が改行されて独立段落ある以外は大きな異同はない。]

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