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2022/01/23

萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 主よ。休息をあたへ給へ!

 

   主よ。休息をあたへ給へ!

 

 行く所に用ゐられず、飢ゑた獸のやうに零落して、支那の曠野を漂泊して居た孔子が、或る時河のほとりに立つて言つた。

「行くものはかくの如きか。晝夜をわかたず。」

 流れる水の悲しさは、休息が無いといふことである。夜(よる)、萬象が沈默し、人も、鳥も、木も、草も、すべてが深い眠りに落ちてる時、ただ獨り醒めて眠らず、夜(よる)も尙ほ水は流れて行く。寂しい、物音のない、眞暗な世界の中で、山を越え、谷を越え、無限の荒寥とした曠野を越えて、水はその旅を續けて行く。ああ、だれがその悲哀を知るか! 夜ひとり目醒めた人は、眠りのない枕の下に、水の澡々といふ響を聽く。――我が心いたく疲れたり。主よ休息をあたへ給へ!

 

 

 主よ。休息をあたへ給へ  詩人として生れつき、文學をする人の不幸は、心に休息がないといふことである。彼等はいつも、人生の眞實を追求して、孤獨な寂しい曠野を彷徨してゐる。家に居る時も、外に居る時も、讀書してる時も、寢そべつてる時も、仕事してる時も、怠けてゐる時も、起きてる時も、床にゐる時も、夜も晝も休みなく、絕えず何事かを考へ、不斷に感じ、思ひ、惱み、心を使ひ續けてゐるのである。眠れない夜の續く枕許に、休息のない水の流れの、夜(よる)更けて澡々といふ音をきく時、いかに多くの詩人たちが、受難者として生れたところの、自己の宿命を嘆くであらう。「主よ。もし御心に適ふならば、この苦き酒盃(さかづき)を離し給へ。されど爾(なんぢ)にして欲するならば、御心のままに爲し給へ。」といふ耶蘇の祈りの深い意味を、彼等はだれよりもよく知つてるのである。[やぶちゃん注:巻末の「散文詩自註」の当該部をここに配した。標題に「!」がないのはママ。]

 

[やぶちゃん注:「澡々」はママ。「澡」は「洗う・洗い清める」の意であるから、おかしい。水が音を立てて、よどみなく流れるさまであるから、「淙々」である。後掲する「絕望の逃走」では「淙々」となっているが、以上の通り、「自註」でも「澡々」となっており、初出もこれであるから、これは誤植ではなく、萩原朔太郎の原稿自体の誤字(偏執的思い込み)である。なお、筑摩版全集の「宿命」校訂本文は無論、「淙々」に修正されてある。

「行くものはかくの如きか。晝夜をわかたず。」「論語」の「子罕(しかん)第九」の「川上(せんじやう)の嘆(たん)」として有名な一節。

   *

子在川上曰、「逝者如斯夫。不舍晝夜。」。

(子、川の上(ほと)りに在りて曰はく、「逝(ゆ)く者は斯くのごときか、晝夜を舍(お)かず。」と。)

   *

「主よ。もし御心に適ふならば、この苦き酒盃(さかづき)を離し給へ。されど爾(なんぢ)にして欲するならば、御心のままに爲し給へ。」(「自註」)イエスのオリーブ山上の祈りの一節。「新約聖書」の私の好きな「ルカによる福音書」の「明治元譯新約聖書」(大正四(一九一五)年版の「路加傳福音書」第二十二章第四十二節から引く。

   *

父よ若(も)し聖旨(みこゝろ)に肯(かな)はば此(この)杯(さかづき)を我より離ち給へ然(され)ども我意(わがこゝろ)に非(あら)ずたゞ聖旨(みこゝろ)のまゝに成(なし)たまへ

   *

 初出は昭和九(一九三四)年十一月号『行動』。以下に示す。

   *

 

 主よ。休息をあたへ給へ!

 

 支那の曠野を漂泊して居た孔子が、或る時河のほとりに立つて言つた。

「行くものはかくの如きか。晝夜をわかたず。」

 流れる水の悲しさは、休息が無いといふことである。夜、萬象が沈默し、人も、鳥も、木も、草も、すべてが深い眠に落ちてる時、ただ獨り醒めて眠らず、夜も尙水は流れて行く。寂しい、物音のない、眞暗な世界の中で、山を越え、谷を越え、無限の荒寥とした曠野を越えて、水はその旅を續けて行く。ああ、だれがその悲哀を知るか! 夜ひとり目醒めた人は、眠りのない枕の下に、水の澡々といふ響を聽く。我が心いたく疲れたり。主よ休息をあたへ給へ!

 

   *

「絕望の逃走」版は、既に述べた通り、「淙々」に訂して、初出と同じである。則ち、本詩集所収に際して、朔太郎は冒頭に、『行く所に用ゐられず、飢ゑた獸のやうに零落して、』というリアリズムの映像を挿入したのである。これはまことに成功している加筆である。]

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