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2022/01/03

曲亭馬琴「兎園小説別集」上巻 内浦駒ケ嶽神馬紀事

 

[やぶちゃん注:かなり長い文書・書簡形式のものである。「内浦駒ケ嶽」は現在の北海道駒ヶ岳(グーグル・マップ・データ;標高千百三十一メートルの成層火山)の江戸時代の呼称。「内浦」は現在の噴火湾の旧称である。本篇は、六花(リカ)さんのブログ「四季徒然」の「駒ケ岳伝説」を事前に読んでおくとよろしいかと存ずる。それで、息子の興継が医員をしていた松前藩の、「兎園小説」では既にお馴染みの、前藩主で馬フリークの老公松前道広絡みの話(同山の伝説の神馬を捕捉しようというトンデモ企画関連)であることが、まず判る。]

 

   ○内浦駒ケ嶽神馬紀事

 箱館代官新井田金右衞門方より、松前近習頭

 八郞右衞門・滿三郞兩人方へ來り候書狀、寫。

  但松前より十月五日、柴田浦太、登之節、

  此書狀、屆畢。

一筆致啓上候。秋冷之節に御座候得共、兩御地、上々樣、益御機嫌宜被ㇾ爲ㇾ遊御座恐悅候。隨て、各樣、彌御安全披ㇾ成御勤役珍重御儀奉ㇾ存候。

一、最前蠣崎三七を以被仰出候。御隱居樣被ㇾ爲思召付、被ㇾ爲仰進候内浦駒ケ嶽神之馬之儀、慥に見請候者御座候はゞ相糺候上、御樣之[やぶちゃん注:底本は「し」であるが、おかしいので、吉川弘文館随筆大成版で訂した。]儀可ㇾ被ㇾ遊に付、取調可申上樣、蠣崎三七より御用狀を以被仰出其節申上候通、私儀兼て傳へ承り候儀に御座候間、萬萬相糺候處、何村之誰々は見し抔申者、追々呼出し相尋候得共、右駒ケ嶽に馬之數居候樣子にて、足跡は見候ものも御座候得共、右神之馬、聢と[やぶちゃん注:「しかと」。]見請候と申者も無ㇾ之、區々にて難ㇾ決、依ㇾ之村田龜之丞儀、兼て山上心掛居候由申に付、爲見屆申付遣候處、委細見分之趣、書取を以中達候。猶又、有增・麁繪圖取參候に付、藤田七郞御用先にて、山の樣子三方より見請候趣に付、夫彼見競爲ㇾ認候間[やぶちゃん注:「蠣崎三七」松前藩家老で、画家としても知られた蠣崎波響(宝暦一四(一七六四)年~文政九(一八二六)年)がおり、その一族の一人であろう。

「夫彼(それかれ)、見競(みくら)べ認(したた)め爲(な)し候ふ間(あひだ)」。]、差上申候。猶又外に慥に見請候もの有ㇾ之候はゞ差出可ㇾ申趣、六箇場所掛[やぶちゃん注:「かかり」。]高橋保平、出役席申付遣候所、當箱館美濃屋忠兵衞と申者、先年より掛り㵎へ出稼に罷越居[やぶちゃん注:「掛り㵎」は「かかりだに」で地名か?]、去巳年[やぶちゃん注:後の本文に出る「文政八年」(一八二五年)から、文政四(一八二一)年辛巳を指す。]五月五日、慥に見請候趣、場所役之者も申候由に付、則、保平より右忠兵衞差出候間相尋候處、是は慥に見請候趣に付、則別紙に申上候。尤其節、連に相成、同樣見請候者、此節、外場所へ稼に罷出不居合右忠兵衞一人計相尋候得共、跡三人儀同樣にて、聊相違無御座候段申達候間、此段申上候。宜御執繕御披露可ㇾ被ㇾ下候。依ㇾ之被仰出之通、明春に相成御樣も被仰付候はゞ、右圖面之記し候邊へ、抹等差置、女馬二三疋も繫置、鄕足輕[やぶちゃん注:所謂「郷士」(ごうし)に同じ。江戸時代、城下に居住した家中武士に対し、おもに郷村に定住して士以外の業に従いながら、武士としての待遇を受けた階層の総称。本来は正規の武士になるべき者が近世初頭又はその後に何らかの事情により、そうした地位になったもの。]又は心得候者兩三人、小家掛番に付置、能々用心等仕候方可ㇾ然哉と奉ㇾ存候。右等之趣奉ㇾ伺度、御含宜被仰上可ㇾ被ㇾ下候。右之段可ㇾ得御意如ㇾ此御座候。恐惶謹言。

 八月廿九日       新井田金右衞門

    工藤八郞右衞門殿

    松 前 滿 三 郞 殿

 文政八年十月五日、御國表より申來る。箱館、足輕村田龜之丞、見分、同年七月、

   内浦駒ケ嶽神馬一件

 七月十九日、内浦嶽之神馬見候と承候者相尋候書取。

           龜田村御百姓

              次兵衞【酉五十歲。】

 但、南部毛馬内瀨田石出生、一人は南部へ歸り、

 一人宇兵衞と申者、病死候由。

右之者、八年以前、五、三人連にて「樺はぎ」に、茅部[やぶちゃん注:「かやべ」。駒ヶ岳南東麓の海浜を含む一帯。「ひなたGPS」の旧地図が地名が多く載る。ここ。]街道「小下り」と申處に小屋かけ居候處、夜五ツ頃[やぶちゃん注:午後八時頃。]、小屋前をかけ通候者、有ㇾ之、熊に可ㇾ有ㇾ之哉と恐敷存候處、連之内、是は内浦御馬之由申候間、出見候得ば、馬二疋に御座候。翌朝、克[やぶちゃん注:「よく」。]見候處、靑毛一疋、栗毛一疋、何れも女馬にて、毛色うつくしく、髮[やぶちゃん注:鬣(たてがみ)であろう。]は一尺五寸計り下り、頭の髮も其位かぶり、尾は短く御座候。人を見候と、嶽へ鳥之如くかけ上り候。勢ひ誠に恐敷相見得申候。右は御山の「腰おし出し」と、「尾白内口」の小川へ、水呑に下り候趣に御座候。右二疋の女馬より、外に見請不ㇾ申候段申達す。

 七月廿三日

           鄕足輕 佐々木兼松

 右は、以前、樺はぎに度々參り候節、大き成馬之足跡、其外、餘程、馬の足跡見掛候得共、馬は一疋も見請不ㇾ甲候。

           七重村

             由太郞【酉四十五歲】

六年以前、忠次郞と申者と兩人、二月夏中樺山見立に參候節、茅部道の馬立場、内浦御山の半ぷくにて、黑鹿毛[やぶちゃん注:「くろかげ」。]の駒一疋見懸候間、もとち[やぶちゃん注:不詳。]を繼合、かけ繩に致し、かけ候得共、兩人にて中々及兼、引くゝりかたがた引候得共、ほどけ、山へかけ上り申候。右駒は大さ二番通り位の馬にて、髮は平首より餘程長く下り、かぶり居申候、右一疋計にて、其節外に見掛不ㇾ申候。

 内浦駒ケ嶽の儀相尋候得共、區々にて難相決候に付、爲見屆村田龜之丞差遺候處、山中見分の上、罷歸り申達候、書取、左之通に御座候。

一、七月廿三日、龜田村出立、峠下村より鹿部[やぶちゃん注:「しかべ」。駒ヶ岳東麓直下。「ひなたGPS」参照。]道罷通り、大沼[やぶちゃん注:駒ヶ岳南麓の大きな沼(国土地理院図)。]の落口鹿部川の水上、超□[やぶちゃん注:底本の判読不能字。]と申所を渡り越、駒ケ嶽の麓に野宿仕候。夜中より明ケ方迄、雷鳴稻光、幷、大雨降に御座候得共、樺剝の古小屋にて雨を凌、廿四日朝五時[やぶちゃん注:「あさいつどき」。午前七時頃。]頃に、山上の前山に登り、四方を見渡し候處、西は茅部山道より西付[やぶちゃん注:駒ヶ岳西方に付属するの意であろう。なお、同山西麓には「西山」(ひなたGPS)という地名もある。]の山々見得候。南は茅部山道の峠より見越し、當別の丸山・箱館山迄見渡し、小沼は目の下に御座候。夫より海道通りは、砂原村より東付の砂崎[やぶちゃん注:山の北麓の内浦湾に突き出た一帯の地名と岬の名(国土地理院図)。]と申處より、ヤツヤノ崎、出き澗村[やぶちゃん注:「できまむら」。ここ(国土地理院図)。]、本別村[やぶちゃん注:ここ(ひなたGPS)。拡大すると「本」には「ポン」とルビがある。現在は「ほんべつ」である。]、大沼より流れ出候鹿部川、幷に鹿部村、熊泊り村迄見下し申候。其餘は雲懸り候て見得不ㇾ申候。夫より前山を下り、御鉢[やぶちゃん注:駒ヶ岳の爆裂火口のことか。]の内の砂濱を見廻り候處、馬の足跡澤山に遊居候樣子に御座候、夫より新山と申候て、御鉢の内に有ㇾ之候御殿山の根元に、差渡し、七、八間も可ㇾ有ㇾ之哉、洞穴深さ十丈計も御座候と奉ㇾ存候。夫より新山を段々取着に登り候處、大岩計、打重り、平地にて御座候得共、嶮岨成事、申計も無御座候。處々の洞穴より燒煙立登り、硫黃沸上り候。岩の根元を見廻り、珍敷木一本掘取、(此下に下げ札、左の如し。)

 書面の内珍敷木一本と御座候は、「つこ」の樣

 成る至て小木に御座候。右は近日御庭爲ㇾ登

 候節、差上可ㇾ申と奉ㇾ存候。

[やぶちゃん注:「つこ」は吉川弘文館随筆大成版では『かつこ』であるが、孰れもどのような木を指すかは不詳。]

御殿山を下り、北付の岩山の下砂濱にて、大さ、五、六寸餘りの馬の足跡を見懸申候。是は出口より奧へ通り候樣子に御座候。夫より北付の岩山、砂原村の上へ登り候處、晴天、俄に曇り、足元も見得不ㇾ申候樣に相成り候故、暫休息仕居候處、黑雲の中にて誠に恐敷鳴音仕、南より北へ通り候。是は定て天狗の飛音にて御座候哉と奉ㇾ存候。次第に雲も晴候へば、茅部海岸、通り、幷向は阿武多、ウス・モロラン・ヱトモ峠迄見得申候。尤、砂原村・掛り澗村等は、巨細に見え候得共、何ケ成神馬にても、住居仕候場所は見得不ㇾ申候間、砂原村付通りし山々は、見分仕候には不ㇾ及と奉ㇾ存候。夫より、嶽の中段、通り、出き澗村の上へ相廻候處、御鉢の内より平地統にて、大廣場の砂濱にて休み、下通りを見下し候處、八九町程も下にて、出き澗村の上に、大成地森の根元に、燒砂濱の所に馬二疋見得申候。尤黑き馬と赤き馬に御座候得共、聢と見分り不ㇾ申候故、近寄能々見分仕度奉ㇾ存候得共、最早、日も七ツ時過[やぶちゃん注:午後四時過ぎ。]に相成、殊に雨も降り懸り、食物も無御座候。召巡候人足等は、空腹にも罷成候故、無ㇾ據麓の小屋へ心掛、段々、山を下り候處、中段より少々下にて日を暮し、漸々夜五ツ時頃[やぶちゃん注:午後八時頃。]に、小屋へ着仕候。翌廿五日は、馬を見掛の處へ參り、能々見分仕度奉ㇾ存候得共、雨の氣色も有ㇾ之、殊に飯米・わらじ等、切れ、御庭御用等も御座候間、一先、立歸り、右馬を見掛候趣、片時も早く申上度奉ㇾ存候故、野宿小屋を出立仕、晝頃に峠下村へ着仕、夫より大野村へ泊り、今廿六日歸着仕候。前文申上候馬の儀は、駒ケ嶽住居の馬に相違無御座候と奉ㇾ存候。東方の放馬等は、中々登り行候場所には御座、一體東方御百姓の紛失仕候馬も、嶽の中段より上へ登り候馬は、人の目にも懸り不ㇾ申候。尤、熊にも被ㇾ取不ㇾ申候。中段より下に居候馬は、多分、熊に被ㇾ喰候事に御座候。左候得ば[やぶちゃん注:「ささうらえば」。]駒ケ嶽は靈山の事故、山の德によつて熊にも被ㇾ取不ㇾ申、殊に人の目にも不ㇾ懸候事と奉ㇾ存候。且又駒ケ嶽東付は平地にて、砂原村の方は「から川」と申[やぶちゃん注:この名は見えないが、「ひなたGPS」のここを見ると、「イラ澤」・「馬擲澤」の名が見える。]、至て嶮岨の大澤有ㇾ之、夫より茅部の方へは、馬出行候事無御座候。又一方は鹿部川と申て、荒瀨の大川にて、馬の越渡り仕候場所無御座候。尤海岸に通るには熊澤山に御座候故、放し馬も御座候間、草の能事、此上も無御座候。海岸通りより奧へ引上り候て、處々大笹原御座候故、雪中の凌方も宜敷御座候と奉ㇾ存候。右は此度、駒ケ嶽、幷、昔より住居の神の馬、見分被仰付候間、出立より歸着迄の儀、以書付申上候。以上。

 七月            村田龜之丞

 内浦駒ケ嶽の神馬、見受候もの有ㇾ之候はゞ、

 差越可ㇾ申趣、六ケ處掛り高橋保平、出役に付

 申付遣候處、美濃屋忠兵衞と申者、先年、慥に

 見請候よし、場所役の者も申に付、則、差越候

 間、相尋候處、聊相違御座候趣申達候。尤、

 其節同道致候三人の者は、外稼にて不居合

 右忠兵衞計相尋候趣、左の通に御座候。

   箱館大町美農屋  忠兵衞【酉三十二歲。】

右之者、六箇場所掛り澗と申處に出稼に罷在候處、兼て年寄共咄に承り候内浦駒ケ嶽神之馬住居候由、何卒拜し申度存、巳の年五月五日、同所の仁三郞・長次・福松、外に二人、名、失念仕候。越前之者二人と、都合六人連、垢離を取、尤朝霧ふかく四ツ時過[やぶちゃん注:午前十時過ぎ。]に、砂原より御山へ登り見渡候處、とかり山の腰御鉢の内に、少々靑く草の御座候處に、馬一疋見え、凡二十【◎間の字脫カ。】計も隔候事故、聢と相分不ㇾ申候得共、鹿毛の樣に相見得申候間、是こそ承り候神の駒に御座候と難ㇾ有、連の者共に聲を上候得ば、頭をあげ候處、髮は長く、足の下迄下げ、尾も長く地を引候樣に相見え、遠方より見請候得共、常體の一番馬より大きく相見え、誠に難ㇾ有存、御神酒を上拜し申候。暫有ㇾ之、右御神酒を戴き旁[やぶちゃん注:「かたがた」か。]致居候得共、駒は其處に居候内、六人共、御山を下り申候。是迄、咄には承り候得共、聢と見請候と申ものも無ㇾ之、其節上り候私共計の樣に御座候間、誠に難ㇾ有奉ㇾ存候段申上候。

 八月二日

 右松前老候【美作守祐翁君[やぶちゃん注:松前道広のことであるが、「祐翁君」と言う尊号は知らない。]。】恩借の本【二册。】を以謄錄之今夕自酉中刻亥上刻卒業。時、文政八年乙酉冬十月二十九日。

        江戸神田隱士  瀧澤笠翁

 是餘、駒嶽圖一幅有ㇾ之、異日使興繼臨寫之

松前老侯書[やぶちゃん注:「松前老侯に奉れる書(ふみ)。」と読んでおく。以下、非常に長く、読み難い。また、注も挟みたいので、特異的に段落を成形する。]。

 老樹鳥獸の千歲を歷て靈あるもの、人もし、これを犯すときは、祟、あり。

 むかし、仲哀天皇は、海神の祟によりて崩御し給ひ、その御父日本武尊は、靈蛇を犯し踏て、薨じ給ひ、魏王曹操は、靈社の老樹を伐て遂に殂し[やぶちゃん注:「しし」。]、又、下河邊行平は、山の神の、野猪となりしを、「射ん」と欲して、獵箭、當らず、その夜、暴に[やぶちゃん注:「にはかに」。]死せしといふが如き、遠く和漢の事實をたづねば、いくばくも候べし。

[やぶちゃん注:「仲哀天皇」は日本武尊の子で神功皇后の夫。実在したとすれば、四世紀中頃と推定されるが、実在しなかった可能性が濃厚。当該ウィキによれば、即位して八年の時、『熊襲討伐のため』、『皇后とともに筑紫に赴き、神懸りした皇后から託宣を受けた』。『それは「熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて海を渡れば金銀財宝のある新羅を戦わずして得るだろう」という内容だった。しかし高い丘に登って大海を望んでも国など見えないため、この神は偽物ではないかと疑った。祖先はあらゆる神を祀っていたはずであり、未だ祀ってない神はいないはずでもあった。神は再度、皇后に神がかり』し、『「おまえは国を手に入れられず、妊娠した皇后が生む皇子が得るだろう」と託宣した』。『これを無視して』、『構わず』、『熊襲を攻めたものの』、『空しく敗走』し、翌年二月に『急死して神の怒りに触れたと見なされた』。「日本書紀」の内の一書や「天書紀」では、『熊襲の矢に当たり』、亡くなったとされる。

「日本武尊は、靈蛇を犯し踏て、薨じ給ひ」「日本書紀」の記載によるもの。当該ウィキによれば、『伊吹山の神の化身の大蛇は道を遮るが、日本武尊は「主神を殺すから、神の使いを相手にする必要はない」と、大蛇をまたいで進んでしまう。神は雲を興し、氷雨を降らせ、峯に霧をかけ』、『谷を曇らせた。そのため』、『日本武尊は意識が朦朧としたまま下山する。居醒泉』(いさめがい)で、『ようやく醒めた日本武尊だが、病身となり、尾津』(おつ)『から能褒野』(のぼの)『へ到る。ここから伊勢神宮に蝦夷の捕虜を献上し、天皇には吉備武彦を遣わして「自らの命は惜しくはありませんが、ただ御前に仕えられなくなる事のみが無念です」と奏上し、自らは能褒野の地で亡くなった。時に』未だ三十歳『であったという』とある。

「魏王曹操は、靈社の老樹を伐て遂に殂し」当該ウィキによれば、『魏武帝(曹操)が洛陽に建始殿を建てた』際、洛陽の北に再建した宮殿『濯龍園の木を伐採していたところ』、『血が流れでた。また』、『梨の木を移植しようとして根を傷つけたところ』、『血が流れ出た。武帝(曹操)は』、これを「縁起でもない」と『嫌な気持ちでいたが』、『やがて病に臥し』、『その月に亡くなってしまった』とある。

『下河邊行平は、山の神の、野猪となりしを、「射ん」と欲して、獵箭、當らず、その夜、暴に死せし』下河辺行平(しもこうべゆきひら)は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将で源頼朝の近臣となった御家人。「日本無双の弓取り」と称された下河辺行義の子で、下野小山氏の一門。父行義とともに以仁王と源頼政の挙兵に従った後、頼朝の信頼を得た。この馬琴の話、出所が判らない。識者の御教授を乞う。]

 しかれどもはるかなる昔の事、見ぬから國の事どもは、今も證據になしがたし。近世には右大臣平信長公、妙國寺の蘇鐵を愛玩のあまり、安土へ移し栽給ひしに、その夜よりして怪異の事あり。信長怕れて件の蘇鐵を寺へ還させ給ひにき。かくて、その次の年の夏六月、信長、都に於て落命あり。その禍は光秀が反逆によるといへども、世の人は猶妙國寺の蘇鐵の餘殃[やぶちゃん注:「よあう(よおう)」。悪事の報いとして起こる災禍。]といふものあり。

[やぶちゃん注:以上は、私の「諸國里人談卷之四 妙國寺蘇鉄」で注した。また、サイト「日本伝承大鑑」の「妙国寺の大蘇鉄」にも詳しいので見られたい。]

 又、寬永年中には、駿河大納言忠長卿、駿府において猿狩の御遊あり。しかるに、むかしより駿河の猿は、「淺間の使者なり」とて、これを捕ることなかりしに、今この御獵あるをもて、『然るべからず』と思ふもの、十人にして七人なれども、長臣は祿をおもふが故に諫め奉らず。外樣にして忠信方正の臣なきにあらねども、咫尺[やぶちゃん注:「しせき」。貴人などに近く寄ること。拝謁すること、「春秋左氏伝」の「僖公九年」の「天威不ㇾ違ㇾ顏咫尺」による意。]し奉るによしなければ、これも得諫め奉らず。遂に猿を獵しめ給ひしに、おん獲夥(えもの)しかりしとぞ。しかるに忠長卿、いく程もなく御心狂れて、御行狀、よろしからず、是により、終に御身上を果されて、左遷龍居のうへ、自刄し給ひしなり。これ、全く猿の祟と申傳へたり。又、土民のうへにも、是等の事あり。

[やぶちゃん注:「寬永年中」一六二四年~一六四四年。三代将軍徳川家光の治世。

「駿河大納言忠長卿」駿河国駿府藩藩主で、第二代将軍秀忠の三男にして第三代将軍家光の弟であった徳川忠長(慶長一一(一六〇六)年~寛永一〇(一六三四)年)。家光の命で自害させられた。『曲亭馬琴「兎園小説」(正編) 草加屋安兵衞娘之事』(文宝堂発表)の私の「駿河大納言」の注を参照。その問題行動から、人格異常が疑われる人物である。当該ウィキによれば、寛永七(一六三〇)年十一月、『浅間神社付近にある賎機山』(しずはたやま:ここ。グーグル・マップ・データ)『で猿狩りを行うも、殺生を禁止されている神社付近で行なった上に、そもそも賎機山では野猿が神獣として崇められ』、『殺す事自体が禁止されており、更にこの浅間神社は祖父家康が』十四『歳の時に元服した、徳川将軍家にとっても神聖な場所であった。そのような場所で猿狩りを行うのは』、『将軍家の血を引く者といえど』も『許されない事であったが、止めるよう懇願する神主に対し、忠長は自らが駿河の領主である事と、田畑を荒らす猿を駆除するという理由で反対を押し切って狩りを続け、この一件で忠長は』千二百四十『匹もの猿を殺したとされている』(これで本文の「おん獲夥(えもの)」の漢字と読みが腑に落ちる)。『更にその帰途の際に乗っていた駕籠の担ぎ手の尻を脇差で刺し、驚いて逃げ出したところを殺害する乱行に及び、これらを聞いた家光を激怒させ、咎められている』とある。]

 安永年中、下總印旛の沼を埋て、新田開發のおん催あり。元、この事は平賀源内が方寸[やぶちゃん注:心・考え。「蜀志」の「諸葛亮伝」に、昔、心臓の大きさは一寸四方と考えられていたことによる。]より出て、當時、御勘定奉行松本伊豆守へ「云々」と勸めしに起れり。かくて件の沼を埋んとせしに、昔より、大蛇、すみて、沼の主となりしよし、土民のいひ傳へ候が違ざるにや。さまざまの事ありて、數年に及べども、成就せず。かくて天明中、平賀源内は、いさゝかの事の怒によりて、人に傷けしより、牢舍して獄中に死し、又、松本氏は不良の御咎によりて、御役御免、知行も半減召放されて、小普請入・逼塞仰つけられ、生涯、赦免なくて、病死しけり。これも、世には「いんばの沼の主の祟ならん」といひ傳へ候。

[やぶちゃん注:「平賀源内」(享保一三(一七二八)年~安永八年十二月十八日(一七八〇年一月二十四日)はその博物学的才能もさることながら、政治的にはかなり謎めいた人物で、安永八(一七七九)年に、さる大名屋敷の修理を請け負った際、酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いし、大工の棟梁二人を殺傷したため、十一月二十一日に投獄され、十二月十八日に破傷風によって獄死した(享年五十二)というのが、表向きの話であるが、参照した当該ウィキによれば、『杉田玄白らの手により』、『葬儀が行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく』、『遺体もないままの葬儀となった』。但し、『晩年については諸説あり、上記の通り』、『大工の秋田屋九五郎を殺したとも、後年に逃げ延びて書類』上では『死亡したままで、田沼意次ないしは故郷高松藩(旧主である高松松平家)の庇護下に置かれて天寿を全うしたとも伝えられるが、いずれも詳細は不明』であるとある通りである。

「御勘定奉行松本伊豆守」は松本秀持(享保一五(一七三〇)年~寛政九(一七九七)年)。当該ウィキによれば、『代々天守番を務める身分の低い家柄であったが、勘定奉行にまで昇進した』。『田沼意次に才を認められ、天守番より勘定方に抜擢され、廩米』百俵五口を受け、明和三(一七六六)年には『勘定組頭』、後に『勘定吟味役となり』、安永八(一七七九)年、『勘定奉行に就任して』五百『石の知行を受けた』。天明二(一七八二)年からは、『田安家家老を兼帯した。下総国の印旛沼および手賀沼干拓などの事業や天明期の経済政策を行った』。『田沼意次に工藤平助』(私がブログ・カテゴリ「只野真葛」で電子化注している彼女の父)『の「赤蝦夷風説考」を添えて蝦夷地調査について上申し、初めての』二『回におよぶ調査隊を派遣した。そして、蝦夷地の開発に乗り出そうとしたが』、天明六(一七八六)年の『意次の失脚により頓挫してしまう。また、同年閏』十月五日、『田沼失脚にからみ』、『小普請に落とされ、逼塞となった。さらに越後買米事件の責を負わされ、知行地を減知の上、再び逼塞とな』ったが、天明八(一七八八)年五月に赦されているので、馬琴の記載は誤りである。]

 又、柳川侯の下谷の中屋敷には、大きなる蛇、雄雌あり、しかるを、誰も捕へ殺さんとせしものはなかりしに、當四月下旬、立花家の火消人足、千次郞といふもの、程五郞といふものと共に、大きなる蛇の媾合[やぶちゃん注:「こうがふ(こうごう)」。交尾。]したるを見つけて、さんざんに打擲し、遂に、その蛇、ふたつながら、打殺して、門前の溝へ捨けり。かくて五月のはじめに至て、千次郞・程五郞は奇病に犯され、日夜、「蛇に苦しめらるゝ」と叫び狂ひて、千次郞は五月十五日に身まかり、程五郞は六月朔日におなじくなり候。これらは、當夏中、御屋敷近邊の事々に候へば、隱れ有ㇾ之間敷[やぶちゃん注:「まじく」。]候。

[やぶちゃん注:この話は『「兎園小説」(正編) 附錄蛇祟』(海棠庵発表)に出ている。]

 如ㇾ此事共、あなぐり引出候はゞ、猶いくらも可ㇾ有ㇾ之候へども、一事を推て萬理に涉ると申事も候へば、さのみは記し盡し不ㇾ申候。

[やぶちゃん注:「あなぐる」「探る・索る」とも書き、「探し求める・探(さぐ)る」の意。]

 抑、この千次郞等は、無賴の匹夫にて、取るよしもなき者共に候得共、信長公は世の英雄にて、位從一位の右大臣たり。又、駿河忠長卿は金枝玉葉にて、かしこくも台德院樣[やぶちゃん注:第二代将軍秀忠のこと。]の御愛子にてわたらせ給ひき。又平賀源内、松本豆州も、一器量ある人々に候ひしが、物の祟を得免れざりし事、右の如し。或はいふ、

「人の禍福吉凶は、只、其行狀の善と不善にあり。物の祟といふことは、偶然なり。さるを有といふものは、法師・巫覡(かんなぎ)などの愚俗を懲艾する謀[やぶちゃん注:「はかりごと」。]のみ。信ずるに足らず。」

と。是、ゑせ學者の橫紙を破る一槩[やぶちゃん注:「既」の異体字。]の言に近し。

[やぶちゃん注:「懲艾」「ちようがい(ちょうがい)」で「懲乂」「懲㣻」などとも書く。酷い目に遭って二度としないぞと思うこと。懲りる。又は、制裁を与えていましめること、懲らしめるの意だが、ここは価値のない恐れさせるための脅迫・威嚇・脅威を与えることを言っていよう。]

 むかし、聖人、易を作る所以は、人に吉凶悔吝なからしめん爲なり。人のわろしといふことは、是、その凶兆の前にあらはるゝなり。宋の邵康節は方位時日を擇むことをせざりしに、その欲する事を、「わろし」といふものあれば、必、やめたり。ある人、その故を問しに、耶氏が云、

「われ、吉凶にこゝろなしといへども、人、われに敎へて、『わるし』といふ。是、則、凶兆のあらはるゝなり。若、是を犯さば、必、祟あらん。よりて、われはせず。」

と、いひしとぞ。

[やぶちゃん注:「邵康節」(せうこうせつ)は北宋の儒学者邵雍(しょうよう 一〇一二年~一〇七七年)の諡(おくりな)。当該ウィキによれば、『若い頃から自負心が強く』、『己の才能をもってすれば』、『先王の事業も実現できるとし、郷里に近い百源のほとりに庵をたてて刻苦勉励した。この間、宋初の隠者の陳摶』(ちんたん)『の系統をひく李之才(字は挺之)から』「易経」の『河図洛書と先天象数の学を伝授された。やがて自分の学問の狭さを自覚し、各地を遊歴して土地の学者に教えを請い』、『見聞を広めたが、道は外に求めて得られないと悟り、帰郷して易学について思索を深めた』。三十九『歳頃に洛陽に移住し、以後』、『亡くなるまでこの地で儒学を教えた』。『邵雍は貧しかったが』、『富弼・司馬光・程氏兄弟(程顥・程頤)・張載などの政学界の大物を知己とし、ものにこだわらない豪放洒脱な人柄から「風流の人豪」ともいわれ、洛陽の老若男女に慈父のように慕われた。晩年に天津橋上で杜鵑(ホトトギス)の声を聞き、王安石の出現と政界の混乱を予言した逸話』『は、邵雍の易学の一端をうかがわせる』。『中国人になじみの深い数を適宜に掛けあわせる数理計算によって、万物生成の過程や宇宙変遷の周期などを算出しようとした』。『数を通して理を考えようとした点は、朱熹の易学に影響を与えたと考えられる』とある。]

 若[やぶちゃん注:「もし」。]、已むことを得ざるときは、龜を燔き[やぶちゃん注:「やき」。]、卜笙に問ふて、其吉凶に從ふべし。凡、かくの如くするときは、庶くば、悔吝なからんことを。萬物千載に至るときは、必、靈、有。是を犯すもの、その祟なしと、いふべからず。そが中に、假令、千載を經て、靈あるものといふとも、民の害になることあらば、或は捕へてこれを檻にし、或は、速に、擊殺すも亦、可なり。いかにとならば、彼れ、已に民を害ふ[やぶちゃん注:「そこなふ」。]の罪あり。凡、民の父母たるもの、その罪を責て殺し給ふときは、彼、靈物なりといふとも、祟をなすことを得べからず。しかるに、その罪なきを捕へ、苦しむるは、不仁なり。その罪あるを誅罰し給ふは、不仁にあらず。先、よくこの理を辨じて後に、犯すべきものは、これを犯し、犯すべからざるものは、敬して遠ざけ給はゞ、恐れながら、咎祟悔吝あらせまじく候はんと奉ㇾ存候事、右申上候趣意は、此度、御領分内浦駒ケ嶽に、古來より、神の馬と唱へ候老馬二疋有ㇾ之、右之馬を御捕へさせ被ㇾ成候て、御厩に繋せ御覽彼ㇾ成度思召候に付、其段御在所表え被仰進候により、箱館に彼差置候御家臣達に御下知有ㇾ之、箱館より村田龜之丞を、右の山え、被ㇾ遣、其外、是迄、右の神の馬を見留候者に、虛實を被ㇾ尋候。箱館御代官新井田金右衞門より、被差上候、内浦駒ケ嶽神馬御亂御書付、幷に駒ケ嶽略繪圖等、私に御見せ被成下、難ㇾ有仕合奉ㇾ存候。然處、右神馬の儀は、私、壯年の頃より、粗[やぶちゃん注:「あらあら」。]風聞に承傳罷在候。數百年の靈馬にも可ㇾ有ㇾ之哉。右の高山を駒ケ嶽と唱へ候事、信濃の駒ケ嶽と同樣の儀と奉ㇾ存候。信濃の駒ケ嶽も至極の高山にて、昔より神馬二疋すまひ候に付、駒ケ嶽と呼びなし候由に御座候。依ㇾ之、昔より、稀に右の神馬を見候者御座候へ共、犯し捕へ候事抔は、決て不ㇾ仕由、兼て及ㇾ承候。御領分の駒ケ嶽も、右の神馬有ㇾ之候故の名にて可ㇾ有ㇾ之候。且、土俗、「神の馬」と唱候事、神靈有ㇾ之故にも有ㇾ之哉。然ば、右の神馬は俗に申、「其山の主」にて、昔、下河邊行平が射損じ候て祟を受候、富士の裾野の大野猪[やぶちゃん注:「だいやちよ」。]同樣の靈物に候やと推量仕候。左樣の靈物に候はゞ、或は御慰の爲、或は御武備の爲也とも、御捕へさせ被ㇾ成候事は、乍ㇾ恐無物體御儀と奉ㇾ存候。右、不ㇾ可ㇾ然と奉ㇾ存候愚意の趣は、前條に認候、故事引證、有ㇾ之候故に御座候。若[やぶちゃん注:「もし」。]、已むことを得させられず候はゞ、とくと龜卜を以、其吉凶を御考被ㇾ成候上にて、兎も角も被ㇾ遊候樣に奉ㇾ存候。

[やぶちゃん注:「咎祟悔吝」音読みするなら、「キウスイカイリン(キュウスイカイリン)」か(「咎」漢音は「カウ(コウ)」もある)。「吝」はこの場合「厭(いや)がる」の意であろう。

「信濃の駒ケ嶽」「神馬有ㇾ之」私のブログ・カテゴリ「柳田國男」の『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「馬蹄石」』の『「駒ケ嶽」』及び『「駒形權現」』(孰れも分割)に非常に詳しいので、是非、読まれたい。

 私儀は、元來、我儘者にて、禮儀をもわきまへ不ㇾ申候に付、貴人へ不ㇾ奉近付候。萬事失敬御宥免の由にて、奉ㇾ蒙御懇命候へ共、被ㇾ爲ㇾ召候御儀は無御座候に付、是迄一度も不罷出候處、未熟の忰儀、御扶持被下置、御家臣達同樣に思召候由、誠に以、冥加至極難ㇾ有儀と奉ㇾ存候。依ㇾ之私儀は不罷出候共、心は日々に御側に伺候仕罷在候同樣の心得を以、乍ㇾ恐、御當主樣幷に御令君樣、御武運長久、御老君樣、御壽命萬々歲と奉ㇾ祝候外、無ㇾ之候處、此度、内浦駒ケ嶽一儀承り候節、竊に奉打驚、萬分一の御爲にもと奉ㇾ存候に付、先日、忰宗伯を以、愚意の趣、爲申上候。御寬仁の御賢慮を以、御許容被成下、古より、右の神馬の如き者、捕へ候て、祟り有ㇾ之候と申引證を認候て、入御覽候樣被仰下、御意の趣奉ㇾ畏候。依ㇾ之、管見幷に愚意の趣、聊も無腹藏書付候て奉ㇾ入御覽候。此儀、御用ひ被二成下一候はゞ、難ㇾ有仕合に奉ㇾ存候。然上は、右駒ケ嶽の神の馬、彌[やぶちゃん注:「いよいよ」。]靈有ㇾ之者に候はゞ、此度、追捕を被思召止候御仁義を奉ㇾ感候て、御武運長久・御子孫繁昌の守護神とも可ㇾ成か。假令、左樣の儀は無ㇾ之共、御領分に右の如き靈馬すまひ候儀、則、御家武邊の御飾りにて、御厩に被差置候と同樣に有ㇾ之べくと奉ㇾ存候。兼て、宗伯に申含候條、如ㇾ斯御座候。誠惶謹言稽首再拜。

              瀧 澤  解

[やぶちゃん注:「御當主樣」道広の長男で第九代松前藩藩主松前章広(あきひろ)。馬琴はここで長命を言祝いでいるが、皮肉なことに、父道広(享年七十九)が亡くなった翌年の天保四(一八三三)年、五十九で亡くなっている。

「御令君樣」章広の長男松前見広(ちかひろ)はもっと悲惨に若死にで、この直ぐ後の文政一〇(一八二七)年に享年二十三で亡くなってしまう。家督は見広の長男良広が継いだ。

 以下、最後まで底本では全体が一字下げ。宗伯は興継の医号。]

 右は私父笠翁え、御尋之趣、乍ㇾ恐御答申上候に付、罷出候て可申上處、四、五日已前より、私儀、持病氣にて步行難ㇾ仕候。依ㇾ之、貴樣迄、御披露の儀奉ㇾ願候。略儀失敬何分御用捨彼成下、可ㇾ然御披露奉ㇾ賴候。以上。

    十月廿二日     瀧 澤 宗 伯

      牧村右門樣人々參

 右書面一册、宗伯、松前家え、致持參候處、老候下屋敷え、御出之由に付、近習の所え、賴、書面差置歸申候【十月廿四日。】也。翌廿五日、爲老候の使者牧村右門、來る。「昨日の差出候御書面の趣、隱居、甚感悅不ㇾ淺被ㇾ存候。右駒ケ嶽神之馬牧捕事は可ㇾ止ㇾ之。就ては、右山の麓え、碑を立度被ㇾ存候間、碑文の事、賴入候。」旨、口狀、傳達、予も亦、大慶之旨、御答申、且、碑文の事、當暮か、來春迄に稿案いたし、可ㇾ入御覽旨、申上おく。其後、雜談畢て、右門、歸去。

 

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