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2022/01/14

ブログ・アクセス1,660,000突破記念 梅崎春生 雀荘

 
[やぶちゃん注:昭和二八(一九五三)年六月発行の『群像』増刊号に発表された。後、昭和三〇(一九五五)年十一月近代生活社刊の作品集「春日尾行」に所収された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第三巻」を用いた。

 最初に言っておくと、読み始めれば直に判るが、この題名は「ジャンそう」ではない。麻雀好きの読者が、ロクに立ち読みもしないで、早とちりして麻雀・雀荘小説だと思い込んで買ってしまったケースも当時は相当に多かったろう。春生も確信犯で題名を附けた可能性も拭えない気がする。

 文中に簡単な注を入れた。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、本日、先ほど、1,660,000アクセスを突破した記念として公開する。最速の15日であるが、1月12日の1,012回というのは一部がbotの可能性もあるが、ともかくも相応に読まれていることには間違いなく、感謝申し上げる。【20211231日 藪野直史】] 

 

   雀  荘

 

 先ず、順序として、鬼丸修道のことから始めよう。

 鬼丸の祖先は、幕府時代の某大藩の一番家老で、鬼丸修道はその直系子孫にあたり、今でもその地方では名門とされている。と本人がまあそう言うのだが、真偽のほどは今もって判らない。最初からこの男の言うことには、一体に眉唾(まゆつば)な節(ふし)が多かった。しかし当人は、口の端に唾をいっぱいためて、さも真実らしく弁じ立てる。

「土蔵の中には、南蛮(なんばん)鉄のよろいかぶと、黄金づくりの太刀や小太刀。そりゃ豪勢なもんだったな。今でも眼に見えるようだよ。一度見せたかったなあ。もう売ったり戦災にかかったりして、なくなってしまったけれども」

 鬼丸の歳恰好(かっこう)は四十五六で、背丈も五尺七寸[やぶちゃん注:一メートル七十三センチメートル弱。]ぐらいあった。瘦せて頰骨の出た顔に、太いベッコウ縁の眼鏡をかけている。それは顔に全然似合わないし、ものものしい感じすら人に与える。声は浪花節(なにわぶし)語りみたいに潰(つぶ)れた声だ。この鬼丸夫妻がスズメ荘の最後の入居者だった。これで部屋が全部ふさがったことになる。

 鬼丸の最初のふれ込みは、自分は共産主義の信奉者だということだった。最初と言っても、入居して一週間目ぐらいの時だ。何かの話のついでに、鬼丸がそう僕に打ち明けたのだ。

「へえ。あんたがですか」

 と僕はすこし驚いて言った。終戦の翌年のことだから、共産主義に驚きはしなかったが、この男もそうだとは、やや意外だった。すると鬼丸は顎を引いて、おもおもしく頷(うなず)いた。

「そうですよ。もう三十年来の信念だ。マルキシズムは敗戦日本を牧う唯一の道だねえ」

 これはまた別の時だが、マルキシズムを信奉するに到った動機を、鬼丸が僕に話して呉れたことがある。スズメ荘の前を流れる小川のほとりで、二人並んで洗濯していた時だ。鬼丸の洗濯の仕方は、実に手慣れたもので、僕が二枚洗う間に、五枚ぐらいは洗い上げてしまう。同じ石鹼が、鬼丸の手にかかると、面白いほど泡立ってくるのだ。

「僕はその頃、高等学校の生徒でねえ、弊衣(へいい)破帽、服も帽子も破れ放題さ。ところが夏休みなどの帰省のたびに、その恰好で二等車に乗る」[やぶちゃん注:「弊衣」破れてぼろぼろになった衣服。]

 地方でも名門だから、三等車などに乗ってはいけないと、親爺から厳命されていたのだと言う。名門出は先刻御承知だから、僕は黙って聞いている。

「すると二等車には、貴婦人などが乗っているな。そいつらが僕の恰好をじろじろ見て、中には露骨に顔をしかめる奴もいる。その頃は僕も純情で気が弱かったからねえ、いたたまれずに外に出て、行くところもないからデッキでしゃがんでいる。ばかな話さ。二等切符は持ってるのに、二等車に坐れない。そして考えたね。こんな社会は改革しなけりゃいけない。是が非でも革命を起さねばならないとね」

 ちょっと奇妙な論理だとは思ったが、僕は異も立てず聞いていた。春風の音を聞いて出家遁世(とんせい)を志した人もあるそうだから、或いはそんなこともあり得るだろう。くちばしを入れるにも及ぶまい。ことに僕はその頃、人や物に逆らわず、無抵抗に生きて行こうと考えていたのだ。その方がラクだったからだ。その僕の信条が、やがて僕の生活に祟(たた)ってくるようになるのだが、それは後の話だ。

 鬼丸夫妻は終戦後の満州からの引揚者だった。引揚者のわりには、荷物をたくさん持っていた。頑丈な大行李が、七八個ほど、部屋の中にでんと積み重ねてある。遠路はるばるどうやって持って帰ったのか、よほどうまいこと立ち廻ったに違いない。とにかくこのスズメ荘の中では、鬼丸が一番の物特ちだった。スズメ荘の名にふさわしくない。スズメというのは、やはりここの住人の吉良六郎の命名で、キタキリスズメの宿というほどの意味だったからだ。僕自身も、もちろんその種のスズメだった。僕の全財産は、小トランク一つに過ぎなかった。あとの連中も似たり寄ったりだ。

 スズメ荘の住人を紹介する前に、ここの環境のことをすこし書いて置こう。この建物は小田急沿線の、稲田登戸という町の町外(はず)れにあった。以前は小料理屋かつれ込み宿だったらしく、真中に一間[やぶちゃん注:一メートル八十二センチメートル弱。]幅の廊下がつき抜けていて、六畳の間が右に三つ、左に三つ並んでいる。玄関は土間で、その横に帳場風(ふう)の三畳間がある。その部屋には以前、江草という中年の女が住んでいたのだが、僕らから入居の権利金を全部取立てると、そのままどこかに逐電(ちくでん)してしまったのだ。そこで家主が怒って、その部屋を釘付けにふさいでしまったから、立入りが不可能になっている。[やぶちゃん注:「稲田登戸」現在の神奈川県川崎市多摩区登戸(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。梅崎春生は昭和二〇(一九四五)年の敗戦の翌月、九州から上京し、出征の際に本を託していた友人が、この登戸から少し上流にある南武線の稲田堤に下宿していたのを頼って、転がり込んで五ヶ月ほどいたから、土地勘があった。]

 とにかくこれは古ぼけて、ガタガタの建物だった。天井はすすけているし、壁は落ちているし、まったく荒れ放題だ。終戦直後のことだから、修繕するにも資材がない。なんでも戦争中軍に徴用され、軍人夫[やぶちゃん注:「ぐんにんぷ」。]の宿舎にあてられていたそうで、襖(ふすま)も障子も所定の数の三分の一ぐらいしかない。と言うことは、この六つの部屋は仕切りが充分でなく、通り抜け自在だということだ。たとえば、僕の部屋は左側の一番奥の部屋で、鬼丸夫妻は左側の中央の部屋、つまり隣り合っているのだが、この二つの部屋を仕切るのは、一枚の襖だけである。部屋と部屋の仕切りは、もっぱら敷居と鴨居(かもい)によるほかはない。そんな具合だから、ふつうの下宿やアパートみたいに、隣室と隔絶して生活するという訳には行かないのだ。

 スズメ荘の前には、道を隔てて幅が五メートルほどの小川が流れている。大へんきれいな水で、しかもかなりの速さで流れているから、洗濯には好適だった。洗濯に都合がいいように、踏板なども取付けてある。洗濯屋なんてそんな気の利(き)いたものはないから、皆この川水を利用する。小魚も泳いでいたが、なかなか人ずれがしていて、糸を垂れても全然引っかからない。いつか吉良と知念(ちねん)と僕の三人で、半日釣ろうと努力したが、一匹も引っかからなかった。なにも慰みのためでなく、動物性蛋白質を得ようという意図からだったが、魚の方がすこし悧巧過ぎたようだ。

 そういう僕らの試みを、鬼丸夫人がしばらく佇(た)って眺めていたが、あとで知念を呼んで注意したそうだ。

「大の男が三人もかかって、生き物苛(いじ)めはお止し遊ばせね」

 鬼丸夫人は亭主と違って、ふかし立てのパンのように肥った女で、色も白くふかふかしている。あまり表情が動かないので、彼女が何を考えているか、彼女の情緒がどんな動き方をしているのか、ちょっと見には絶対に判らない。無表情のまま、言いにくいことをハッキリ言ったりする。あの女は頭のネジが一本抜けているのじゃないか、という見方もあったけれども、あながちそうとばかりは言えない節もあった。年の頃は三十前後で、つまり僕や吉良と同年輩だ。だからアプレ(この言葉はまだその頃流行していなかったが)という年代でもない。歳から言えば、知念の方がアプレにぴったりする。

 知念はその頃二十三歳、沖繩生れの青年で、戦争中は某自動車会社の工員だった。眉毛が濃く、なかなか精悍な顔付をしていたが、体格はそう良くない。終戦の年の八月十日に召集され、五日間軍隊生活をして、沢山の物品を背負って帰って来たという。彼の部屋はスズメ荘の一番奥で、つまり廊下を隔てて僕の部屋と向き合っている。廊下は隔てていても、襖障子がないから、やはりお互いの生活は丸見えだ。

 知念はよく僕に向って終戦後あの会社を辞めるんじゃなかったと、愚痴をこぼした。辞めて以来、生活に困りこそすれ、得をしたことは全然ないというのである。生活に困ることは判り切っているのに、じゃ何故辞めたかというと、当時その会社の労務主任をしていた吉良六郎が、こんなボロ会社は辞めてしまえ、俺が面倒を見てやる、とそう言ってそそのかしたとのことだ。だから知念青年は、吉良が辞表を出して間もなく、自分も辞表を出す決心をしたという話なのだ。

 

 ところが一方吉良の話を聞くと、絶対にそんなことを言った覚えはないという。俺が辞めると、あとを慕って勝手に辞めて来たというのだが、僕の考えでは、どうも知念の言うことの方が本当らしい。吉良六郎という男は、三十そこそこなのに親分風を吹かせる癖があって、何でも鷹揚(おうよう)にうなずいたり、頼みごとを安請合(うけあ)いしたりする癖がある。そうした関係で、知念の身柄を安請合いして、すっかり忘れてしまったらしいのだ。吉良とはそんな男だ。

 吉良は五尺一寸[やぶちゃん注:四メートル五十四・五センチメートル。]ばかりの小男で、その代りに肩が渋団扇(しぶうちわ)のように張っている。左の頰ぺたに大きな疣(いぼ)があって、それをいじくりながら訥々(とつとつ)と話す。しゃべり方に一種の癖がある。つまり右翼の青年に共通した国士風(ふう)のしゃべり方だ。左翼青年にも共通した癖があるが、右翼の方にもある。僕は最初吉良と話を交した時、直ぐそのことに気がついた。吉良の部屋は、右側中央で、鬼丸夫妻の部屋と廊下ごしに向き合っている。[やぶちゃん注:「渋団扇」表面に柿渋を塗った、丈夫で実用的な団扇。貧乏神が持つとされた。扇の上の角が角張っているものが多い。]

 表の二部屋の中、右は椿(つばき)という六十がらみの爺さん、左は河合という五十前後の婆さんだ。二人とも老人だから、僕などとはあまり生活の交渉はなかった。椿爺さんはもっぱらモク拾いで生計を立てていたし、河合婆さんはよく判らないが、小さなヤミか何かで糊口(ここう)の道を立てていたのだろうと思う。

 以上がスズメ荘の住人の全部だが、今考えるとちょっと不思議なようだが、この七人の中で正業についているのは一人もなかった。それで皆どうにか生きていたから妙なものだ。もっとも終戦翌年のことだから、なまじ正業についていれば、かえって餓死する憂いもあった。僕はと言えば、復員の時持って帰ったものを売ったり、貯金をすこしずつおろしたりして、細々と生活していた。応召前勤めていた会社は、戻って見ると焼野原に変っていて、どこへ行ったかも判らず、退職金も貰えないような有様だ。やむなく友人や親類宅を転々と居侯して歩いている中、ある日登戸付近に芋の買出しに出かけ、路傍の電柱に貼られた小さな貼紙で、このスズメ荘の空部屋を知ったわけだ。それにはこう書いてあった。[やぶちゃん注:「応召前勤めていた会社」梅崎春生自身は、昭和一九(一九四四)年三月、東京帝大卒業後、勤めていた東京市教育局教育研究所を徴用を恐れて辞職し、東京芝浦電気通信工業支社に入社したが、『役所と違って仕事がきついので三カ月の静養が必要であるとの診断書を医者に頼んで書いてもらい、月給だけ貰って喜んでいたところ、六月、海軍に召集され、佐世保相ノ浦海兵団に入団』している(引用は中井正義「梅崎春生――「桜島」から「幻化」への道程――」の年譜より)。]

 

  貨室 権利金二千円 賃五十円

 

 そして所番地、江草と記してある。当時の二千円とは、相当の大金だったが、居侯生活もイヤな顔をされるばかりなので、思い切ってここを借りることにした。江草というのは、玄関脇の三畳間にいた中年の女で、僕はもちろんこの女の持ち家だとばかり思って二千円を払ったのだが、実は家主は別にいて、江草はここの管理人に過ぎなかったのだ。本当の家主は、経堂あたりに住んでいる鈴木という老人で、この老人がやって来た時には、江草はすでに六部屋分一万二千円の権利金を持って、どこかに逃亡したあとだった。鈴木老人はじだんだを踏んで口惜しがり、かつ怒った。[やぶちゃん注:「経堂」「きょうどう」。現在の東京都世田谷区経堂。]

「そんな莫迦(ばか)な話があるもんか。これはわたしの家ですぞ。皆すぐ出て行って貰おう」

 出て行けと言ったって、こちらは多額の権利金を払ってしまったし、出ても別に住居のあてもないので、出て行かない。一致団結して拒否する。五日に一度ぐらい、鈴木家主は怒鳴り込みに来るのだが、こちらは七人、向うは一人、多勢に無勢(ぶぜい)で、老人はいつも言い負かされて帰って行く。

 これはあとで聞いた話で、真偽のほども不明だが、江草という女は本当は鈴木家主の妾で、それで戦後この家の管理を委(まか)されていたのだという。ところが戦後、鈴木の方の経済がガタガタになって、ろくに江草に手当を出さなくなったものだから、江草が怒って権利金を集め、情夫をつくってかけおちをしたという話。そう言えばそうかも知れないと僕は思う。権利金の割に、部屋代が安過ぎる。つまり江草にとっては、権利金かき集めだけが目的で、部屋代などは問題でなかったのだろう。僕が江草と同じ屋根の下にいたのは、三日か四日間に過ぎないが、中年ながら下ぶくれの顔に、ちょいとした色気があって、渋皮のむけた感じの女だった。この女が逃亡したと判った時、鈴木家主は頭から湯気を立てて、板片(いたぎれ)と釘をどこからかエッサエッサと運び込み、三畳間を釘付けにしてしまったが、あれはどういう気持からだったのだろう。江草が憎かったのか、あるいはその部屋にまた他人に入られては困るという気持からか。とにかくこの鈴木家主は、言動にも分裂症的なところが多かった。玄関でがんがん怒鳴っていたかと思うと、次の瞬間けろりとした表情になって、とことこ戻って行ったりするのだ。白髪頭の、ちょっと狸(たぬき)を思わせるような老人で、議論はしごく下手糞だった。感情的で、論理がうまく通らないのだ。鈴木老人がやって来ると、居合わせた者はすぐ玄関に飛び出して行って応対する。この時だけは、スズメ荘の居住人はたちまち一致団結して、共同の敵にあたった。一致団結するのは、この時だけで、ふつうの時はおおむねバラバラであり、時には感情の小ぜり合いのようなものもないではなかった。たとえば知念と吉良との感情のもつれなどだ。[やぶちゃん注:「分裂症」旧「精神分裂症」。現在は人格否定的な差別疾患名として、二〇〇二年八月に「日本精神神経学会」が疾患名を変更、それに伴って厚生労働省が「統合失調症」に変更するように通知した。]

 

 先に書いたように、面倒を見るからということで、知念は会社を辞め、吉良にくっついてここに入居したのだが、吉良の方では何から何まで面倒を見てやるわけにも行かない。この二人は部屋を隣り合わせ、大体共同生活をしていて、炊事や洗濯や掃除は全部知念の役目である。つまり下男か女中の待遇なのだ。食費ぐらいは吉良が持っているらしいのだが、あとは何もして呉れない。

「俺はもう厭になっちゃったよ」

 と知念は僕の部屋にやって来てこぼしたりする。

「もう吉良さんもあてにならないから、俺はカツギ屋にでもなって、独立したいよ」

「そうかい。それもいいだろうね。君がカツギ屋をやるんなら、僕も一緒にやってもいいよ」

 と僕は答えた。これは何も僕が、知念の境遇に同情したり賛同したわけでなく、そろそろ僕の経済生活も危機に瀕(ひん)していて、うっかりすると餓死するおそれもあったからだ。外食券の食事だけでは、生命を維持するには不足なので、どうしてもヤミの芋とか米とか、またヤミの外食券を買い入れねばならぬ関係上、貯金が見る見る減ってゆく。鬼丸夫人にも、米三升に芋五貫目[やぶちゃん注:十八・七五キログラム。]ばかりの借りが出来た。鬼丸の部屋のすみには、大きな茶箱があって、米だの芋だの砂糖だの、色んなものが入っているらしいのだ。僕が自分の部屋でぽつねんとしていると、夫人が顔を出して。

「外食では、お腹がお空(す)きになるでしょうねえ。いつでもおっしゃれば、有合わせでよろしかったら、お貸し致しますわよ」

 れいの無表情のまま、そんなことを言ったりするものだから、腹が減っている時には(何時も減ってはいるが)渡りに舟と、すこしずつ貸して貰う。いったん貸して貰うと、貯金をおろして現物を買い求めて返却することは、なかなか出来ないもので、ついに借りがこんなに嵩(かさ)んでしまった。まっとうな勤め口もなかなかないし、カツギ屋でも始めなければ追付かないのだ。[やぶちゃん注:「カツギ屋」第二次世界大戦の戦中・戦後、米などの統制配給物資を正規の手続きによらずに、こっそりと買い入れ、担いできて、売り渡すヤミ業者を指す。]

 一方、吉良の方は、よく出て歩き、時にはどこかに泊って来たりする。右翼関係の残存団体があちこちにあるらしく、吉良の口ぶりでは、そんなところに出かけて行くらしいのだ。金廻りもだんだん良くなってくる風で、ヤミ市から洋服などを買ったりしている。こんな時代に衣料にまで手が廻るのは、大したことだった。知念の方は、よれよれの工員服一着だけだから、面白くないに決っている。しかも仕事は下男の役割だ。

 吉良は金廻りはいい筈なのに、生活を充実させることはほとんどしない。金が入ればパッパッと使ってしまうたちらしく、時には知念からも借りたりするらしい。借りたって戻しはしないのだ。吉良の言うところによれば、彼がもくろんでいるのは、理論的右翼の再編成で、今までのようなカンナガラの道ではとても共産党に対抗出来ないのだという。だから、マルキシズムの方式などを採り入れた新国家主義の確立が彼の目標なので、あちこちの同志と会ったり話したりして、一路邁進(まいしん)に努めていると言うのだが、そんな夢のようなことをやるだけで金が入ってくるとは、僕にとっては羨しいことだった。もっとも僕は右翼思想などを持ち合わせないから、吉良の真似をするわけにも行かない。ふしぎなからくりを遠くから眺めて、感心しているだけだ。

 その中に、吉良は外廻りするだけでなく、家にじっとしていると、客が訪ねて来るようになって来た。僕らがここに入居してから、二箇月か三箇月経った頃からだ。時にはそれらの客と酒宴をひらき、そのまま客が泊って行ったりする。酒宴と言っても、ドブロクか密造焼酎(しょうちゅう)で、大いに右翼的気焰を上げるのだ。そして客が泊るともなれば、知念は布団を徴発されて、毛布一枚で畳の上にごろ寝ということになる。季節は六月頃だから、寒くはないが、せっせと肴(さかな)をつくらされ、酒は飲まして貰えず、しかも布団を徴発されるなんて、知念にとっていい役割ではなかったろう。やがて知念は、だんだんと、隠微な不服従の気配を示し始めたのだ。たとえば夕飯を自分の分だけつくり、それをさっさと食べて寝てしまう。吉良が帰って来ても、飯がないという訳だ。

 もうその頃は、知念は僕と組んでヤミ米の買出しなどに出かけていた。殺人的な列車の混み方だし、重いリュックサックをかついで歩くのも、相当な辛苦だったが、一度カツギに出掛ければ、とにかくいくらかのサヤが取れる。出掛けない訳には行かない。僕はもう貯金も使い尽し、売る物もあらかた売り尽していたのだ。いわば背水の陣の気構えだった。[やぶちゃん注:「サヤ」「鞘」。利鞘(りざや)。取引市場で売買取引によって得た差額の利益金。手数料。マージン(margin:英語の原義は「余白・余裕・余地・差」など)。江戸時代の米相場に関する説では、米相場の価格差のことを「差也(さや)」と表記した事が語源とする説、米商人の帳簿上の額と、実売額の差異を語源とする説などがあるらしいが、腑には落ちない。]

 吉良と知念の感情は、こうして少しずつ疎隔(そかく)していたが、一方吉良と鬼丸との間はと言うと、これは最初の中は親しみもせず、隔てもせず、不即不離の関係を保っているようだった。このスズメ荘においては、この二人は両巨頭という感じだったし、片や右翼のぱりぱり、片やマルクス信奉者と来るので、うっかりは近付き合えなかったのだろう。

 鬼丸修道は、入居当時は一番新参者であったし、引揚げ直後で内地の風土人情にも慣れていなかったせいもあって、僕らにもなかなか調子よく、風貌に似合わぬ気さくな小父さんという感じであったが、一箇月も過ぎる頃から、少しずつ地金が出て、横柄な傾向を示すようになってきた。どういう点が横柄かと、ハッキリ指摘も出来ないが、何となくそういう気配を示し始めたのだ。表二部屋の爺さん婆さんを除けば、鬼丸が一等年長だから、一々若い者と対等につき合うのが面倒になったのかも知れない。

 鬼丸はスズメ荘随一の物特ちとは言え、引揚者のことだから、どうして生活のめどを立てているのだろう。鬼丸修道は二日に一ペん位どこかに外出する。どこへ行くのか判らないし、もちろん正業についているとは思えない。とすれば、どこから生活の資を得ているのだろう。隣室に住んでいながら、そんなことは全然僕に判らなかった。僕は他人の生活に興味をもつ余裕や趣味もなかったし、また鬼丸も自分の生活を語るようなことはなかったからだ。まさかマルクス信奉者だとは言え、その方面から生活の資を得ていたわけではなかろう。その頃僕はそう推察していた。第一鬼丸の風貌言動は、左翼の闘士という柄ではない。むしろその生活感情は、その反対のものであった。

 先に書いたように、この六部屋の中で、二人住まいは鬼丸夫妻だけだ。しかも部屋の半分ぐらいは行李や荷物と来ている。鬼丸は長身だし、夫人は肥大しているし、窮屈であるには違いない、鬼丸は最初の頃、つまりまだ調子がよかった頃、部屋が狭いから女房と重なり合って寝る他はないなどと、冗談まじりにこぼしたりしていたが(今思うと何か下心があったらしいのだが)僕があまり取り合わないものだから、彼もそのことはあまり口に出さなくなって来た。そしてその代りに、と言うのも変だが、妙な現象が僕の部屋にあらわれて来た。

 妙な現象と言っても、それはかんたんなことだ。つまり、僕の部屋と鬼丸の部屋を仕切るのは、襖(ふすま)がないから敷居だけだが、そこに鬼丸のトランクや行李が積み重ねてある。その行李の城壁が、一日に一センチか二センチほど移動する。もちろん僕の部屋に向って、少しずつ侵入して来るのだ。初めのうちは僕も全然気がつかなかった。なんだか部屋が少し狭くなったなと感じた時には、もうその城壁は五寸ばかりも僕の部屋に食い込んでいたのだ。これには僕も、蒙古が襲来した時の鎌倉武士みたいにびっくりした。無抵抗を信条としていたとは言え、毎日注意して眺めていると、行李の城壁は一糎[やぶちゃん注:「センチ」。]ぐらいずつ侵攻してくるようなのだ。このまま放って置けば、やがて僕の部屋は半分になり、更に三分の一、四分の一になって行くだろう。これはどうしたものかと考えているうちに、鬼丸夫人と表の方の隣室の河合婆さんが大喧嘩するという事件が持ち上った。

 河合婆さんというのは、牛蒡(ごぼう)のように色の黒い、しなびたような婆さんだが、どこか偏執的なおもむきがあって、部屋の一隅に神棚を祭り、暇さえあれば鐘をチンチン叩いて、御詠歌(ごえいか)のようなものをうたっている。極度に孤立的で、スズメ荘のどの人間ともほとんど口を利(き)かない。この婆さんも、どんな境遇なのか、どうして生活の資を得ているのかさっぱり判らないが、大きな信玄袋をぶら下げて毎日ちょこちょこ外出するところを見ると、やはりヤミ的仕事に従事しているらしい。電熱器と鍋一つ、それだけでつつましやかな食事をつくり、ひとりで食べている。外界を拒否して生きて行こうというような、なかなか芯(しん)の強そうな婆さんだった。この婆さんの部屋に向っても、鬼丸の行李の城壁が侵入を開始したらしいのだ。

 

 六月の真昼のことだった。玄関の方にあたって、金切声みたいな女声がこもごも聞えてくるので、昼寝をしていた僕と知念はびっくりして起き上り、すぐ飛んで行った。吉良も鬼丸も椿老人も留守で、男は僕ら二人だけだった。

「何ですとは何だい。ここはあたしの部屋だよ。そんなに行李を押して来れば、あたしの部屋は狭くなっちまうじゃないか」

「けちけちなさるもんじゃないわ」

 と受けたのは鬼丸夫人だ。河合婆さんは玄関の土間に立ち、鬼丸夫人は上(あが)り框(かまち)に腰をおろしていた。

「少しぐらいめり込んだって、それが何ですか。あたしんとこは二人ですよ。あんたは一人で、身体も小さいし、荷物もゼンゼン無いし――」

「身体が小さけりゃ、何だってんだよっ。ちゃんとこちらも権利金払って入ったんだからね」

「でもお宅は、電熱器使ってんでしょ。あれは大へん電力を食うんですよ。おかげで皆さん、電気代に困ってるわ。少しくらい場所をよこしたって、いいじゃないの。なにさ、お婆さんの癖に」

 河合婆さんは、とたんに憤怒の叫び声を立てて、鬼丸夫人に飛びかかった。僕は知念と顔を見合わせた。とたんににやりと笑いを交して、暗黙の中にこの事件に介入しないことに決定したのだ。二人の肉体は、土間で埃(ほこり)を立ててもみ合っている。唸(うな)り声や悲鳴なども混る。鬼丸夫人はさすがに若いし、身体も大きいので、ついに河合婆さんの身体を二つに折り曲げるようにして、土間にどしんと突き倒した。婆さんはウッと呻(うめ)いて転がった。

「暴力はお止し遊ばせ。弱いくせに」

 鬼丸夫人は白パンのような頰や咽喉(のど)を、はあはあはずませながら、そう捨台辞(すてぜりふ)を残し、框(かまち)へ上ろうとした。こういう危急の場合でも、夫人の表情はほとんど喜怒哀楽を示さないのだから、感心する。

 その瞬間、河合婆さんが土間の隅から、むくりと起き上った。そして細い叫声を上げて、鬼丸夫人の背後から、山猫のように敏速に飛びかかった。婆さんの両手の指は、夫人の髪にしがみついた。夫人も流石(さすが)に悲鳴を立てて、そのまま土間に引きずり落された。髪は女にとっては相当な急所らしいのだ。

 婆さんは夫人の髪を掌に巻きつけるようにして、エイエイと懸声をかけながら、道路に出た。夫人の身体も悶えながら、それについて行く。川べりに来た。婆さんは髪から手を離すと、勢いよく夫人めがけて体当りを試みた。夫人の肥軀(ひく)はたちまち中心を失って、ふわっと風船爆弾のように空を泳ぎ、水煙りを上げて水面に落下した。この小川は流れは早いのだが、深さは三尺ばかりしかないので、夫人は一二間[やぶちゃん注:一・八二~三・六四メートル。]流されただけで、ばしゃばしゃと立ち上った。

 介入しないと言っても、こうなると放って置けないので、僕は走りよって岸から手を伸ばし、夫人を引っぱり上げた。薄いワンピースがべったりと身体に貼りついて、肉体のふくらみや線がはっきりとあらわれる。知念青年は眼をまぶしそうに外らして、そのままトコトコと家の中に入ってしまった。河合婆さんの姿は見えない。夫人を導いて、スズメ荘の内に入ると、チンチンチンと鐘の音がし、河合婆さんが部屋のすみにしゃがみこんで、一心に御詠歌を唱(とな)えている後姿が見えた。ちらと一瞥(いちべつ)したところによると、婆さんの部屋に侵入した鬼丸家の城壁は、算を乱して元の敷居の線まで押し返されていたようだ。その部屋の前の廊下を、全身から水をぼたぼたしたたらせながら、鬼丸夫人は表情を凝(こ)らして通り過ぎた。河合婆さんの後姿に、もう飛びかかって行く気持もないようだった。

「ちょっと、脱ぐのに加勢して」

 部屋に戻ると、夫人は僕に命令するように言った。布が肌に貼りついて、ひとりでは脱ぎにくいのだ。断るわけにも行かないで、僕は脱衣に協力した。やがて濡れた真白い肌があらわれ、乳房やそんなものまでがあからさまに僕の眼前にあった。手を束(つか)ねて眺めているわけにも行かないので、僕は脱ぎ捨てた濡れ衣を窓の外でしぼり、窓框(まどがまち)に干してやったりしていると、背後から夫人の声が、

「あなたには少し貸しがあったわね。お米が五升、それに芋だったかしら」

「五升も借りませんよ。たしか三升ですよ」

「そうだったかしら」

 僕はふりむいた。夫人は丁度浴衣(ゆかた)を羽織ろうとするとこだった。全身がまっすぐに白々とこちらを向いているので、僕は鼻白んだが、夫人は平気な表情で口を開いた。

「そうでしたわね。今日は力になって貰ったから、今晩御馳走してあげるわ」

 結局、夫人を川から引き上げたこと、脱衣の手助けをしたこと、そしてその晩鬼丸夫妻から御馳走になったことなどで、僕は侵入して来た鬼丸の荷物を押し返すキッカケを失ってしまったのだ。幾分か、なめられもしたらしい。

 その夜の御馳走には、知念青年も招待された。知念を呼んだのはどういう訳なのか、よく判らないが、アルコールも出て、面白いことには鬼丸修道には清酒、僕らには水割りアルコールの怪しげな代物(しろもの)だった。僕らは貧乏していて、久しぶりだったから、そんな代物だって有難かった。僕らはいい気持に酔い、鬼丸も適当に酔っぱらって、僕らに共産主義的な談話などを試みた。今思うと、その談話にははっきりした下心があったらしいが、つまりこの世には不合理が満ち満ちている、それを協力して除かねばならないという趣旨で、そのたとえとして、一人で大きな家にのさばっているのもいるし、数人が一部屋に窮屈に住んでいるのもいる、そんな状態はよろしくないから、相ゆずり相助けて平均させなくてはいけないというようなことだ。理窟の上からは僕も賛成だし、御馳走の手前反駁(はんばく)も出来ないから、適当に相槌(あいづち)を打ったりしていたが、夫人もそばから時々口をそえる。それが教え訓す[やぶちゃん注:「さとす」。]ような口調なので、どうも様子が少し変だった。とにかくいい加減に酔い、ギンメシなどを馳走になり、礼を言って引き上げた。河合婆さんの部屋は、その間終始ひっそりとしていたようだ。

 二三日経って、僕が夕方カツギから戻って来て、裸になって汗を拭いながらふと見ると、かの城壁が一挙に五寸ばかり僕の方に食い込んでいたから、びっくりした。六畳の中、一一畳近く侵略されているのだ。さてはあの夜の談話がそうだったんだな、と気が付いたが、もう気持の上でひるみが出来ているので、どうしようもない。今でこそ何でもないが、あの頃御馳走になるということは、大へんな恩恵なので、しかも夫人の裸をじろじろ眺めた弱味もある。向うでは見せびらかしたつもりかも知れないが、こちらも平静な眼で見たわけではないし、そこを突込まれたら少々困るのだ。あれこれ思案した結果、やはりここで最小限度の抵抗をしなければ元も子もないと思い、新宿のヤミ市から五寸釘を十本ばかり買い求め、畳と畳の隙間に刺し込むことにした。荷物が押し寄せても、そこで食い止めようという寸法だ。いくら鬼丸夫妻といえども、僕の部屋に入って来て、このバリケードを除去するわけにも行くまい。

 そんな風にして、一週間ほど過ぎた。行李は毎日徐々に進行して、ついに五寸釘の線に達した。あとは押しても、動かないことが判ったらしく、城壁の移動はそこでピタリと停止した。釘は押されて傷ついているが、鉄特有の頑張りを見せて、頑強に支えている。

 

 僕と知念青年を、吉良六郎が千葉県松戸のヤミ料理屋に招待したのも、そんな頃のことだ。この招待が、鬼丸夫妻のやり方と何か関係があるのか、そこらはよく判らない。吉良の言い分では、松戸に割に安く牛肉を食わせるところがあるから、スズメ荘有志で親睦の会を開こうというのだが、吉良を除けば結局有志というのは、僕と知念だけだった。費用は吉良が持つというので、よろこんで志を有したわけだ。吉良としては、近頃知念がすねているので、それを懐柔しようという心算もあったかも知れない。[やぶちゃん注:「松戸」当時、既に千葉県松戸市。現在、江戸川を挟んで東京都江戸川区及び葛飾区と隣接する。]

 松戸の料理屋というのは、料理屋らしくなく、へんてつもないしもた屋だった。スズメ荘の方がよっぽど料理屋じみている。軒の低い入口をくぐり、奥座敷に通され、そこの主人も加えて牛鍋を囲んだ。主人の話では、これは密殺の牛だけれど、素姓は確かなものだという。切り方も荒っぽい、硬くごりごりした肉だったが、けっこう旨く、僕らは大いに食べ、大いに濁酒(どぶろく)を飲んだ。主人というのは三十七八の、よく口の廻る男で、戦争中は南方に軍属として行き、いろいろ活躍したという話。南方各地の話などをして聞かせている中に、だんだん吉良と調子が合うようになり、僕らをのけものにして、しきりに旧日本軍隊の悪口を言い始めた。軍隊の悪口なら僕も一口乗りたいところだったが、その中その議論が妙な風(ふう)に発展して、戦後の日本はもちろん旧指導者ではダメだし、共産党はもってのほか、新しい理念による日本精神によるしか方法はないというところで、二人は完全に一致したようだった。僕は飲み食いに忙しく、その議論の変転や推移に一々心を止める暇はなかったが、やがてその頃から吉良も酔ったらしく、すこしずつ大きな口を利(き)き始めた。大きな口を利いても、ポーズがポーズなので、知らない人はうっかりひっかかる。

「い、いまの中に雌伏してですな、青年の教育に当ったがよろしい。私はしばらく、登戸の今の住居を開放して、塾を開こうと思っております。家主の承諾も得ているし、大体九月頃からのつもりですが――」

 ついにそんなことまで言い出したので、僕もすこし驚いた。知念はうつむくようにして、ただ食べる一方だ。しかしその吉良の話しぶりに、主人はすっかり感心したらしく、塾が出来たら自分も一度参加させてほしいとか、松戸に支部をつくるならこの建物を提供してもいいとか、すこし酔ってはいたらしいが、そんなことになってしまった。しかも、その夜飲み食いした分は、主人の御馳走ということになり、午後十時近く僕らはその松戸亭を辞した。僕は吉良の弁舌や手腕にたいそう感心したが、吉良は吉良でいい気持だったらしく、帰途僕に向って、カツギ屋などを止めてすこしこの方面の勉強でもしたらどうかと、勧めたりした。僕はいい加減に受け答えをし、知念は終始黙りこくって、月夜の道を登戸まで戻って来た。皆酔って、廊下を踏みならして歩いたものだから、鬼丸修道がびっくりしたような顔を部屋から突き出した。

 二三日後、カツギに出る途次、知念が思い余ったような表情で、もう何もかも面白くないから、いっそ共産党にでも入ろうか、などと言う。僕にも入らないかとすすめるから、鬼丸から何か言われたのかと訊ねると、そうじゃないと答える。それからこの間の吉良の話になり、塾を開くことを鈴木家主が承諾したかどうか、そのことになると、その可能性はあると知念が断言した。

 知念の言によると、一箇月ばかり前知念が一人スズメ荘にいる時、鈴木家主が訪ねて来た。そして知念一人だと知ると、急に懐柔的な態度になって、スズメ荘の住人を皆立退かせて呉れれば、一万円のお礼と、スズメ荘の一部屋に永代居住権を与えると誘ったと言うのだ。もちろん知念はそれを断った。それは一種の裏切りだし、また知念にその実力もなかったからだ。知念の推定では、そういう懐柔策乃至(ないし)離間策を、鈴木家主は個々に試みているに違いないと言う。そう言えば、そうかも知れない。以前は五日に一度は怒鳴りこみにやって来てたのが、近頃ではほとんど姿を見せない。あのタヌキのような小男は、何か企んでいるに相違なかろう。鬼丸や吉良にも、個々に働きかけているかも知れない。どうも鬼丸の侵略ぶりも露骨で、常識では解釈出来かねる節(ふし)があった。

 

 あの大喧嘩以来、鬼丸夫妻は河合婆さんの部屋に侵攻するのを一時中止したらしく、そのかわり着々と僕の方に入って来たが、五寸釘のバリケードにぶつかって、とたんにその進行は停止した。すこしは侵略されたが、三分の二は確保したんだからまあ安心だと思っていると、必ずしもそうでもないことが、だんだん判って来た。

 先にも書いたように、季節は初夏となり、毎日いい天気がつづく。あの日以来鬼丸夫妻は、僕に妙になれなれしく、ニヤニヤと近付いて来る気配がある。味方に引入れるつもりではないかと思われる節もあったが、片方では侵略をつづけていたのだから、まだ油断はならない。ことに、五寸釘にはばまれて以来、鬼丸家では城壁の一部を撤去して、三尺幅の空気抜きみたいなものを両部屋の間に設けた。夫人などはそこから自由に僕の部屋に出入して、世間話をしにやって来る。ところが、季節は季節だし、どうも鬼丸夫人は露出狂の傾向があったのか、並外れた薄着で、しかも立居ふるまいがよろしくない。これには困らされた。

 鬼丸夫人が好んで着用しているのは、生地(きじ)の名は知らないが、大へん薄地のワンピース、と言うよりアッパッパのたぐいで、本来ならばその上にボレロの類を羽織るような仕立てになっている。それなのに夫人はボレロなしで横行する。初夏ともなれば、夫人の肌はますますきめが細かく、牛乳色に脂ぎって来る風なので、三尺の通路からいきなり部屋に入って来られると、ぎょっとするほどだ。その上、肥っているせいもあって、坐り込んだりすると膝や脛(すね)が窮屈らしく、自然と横坐りになったり、時には立て膝になったりするのだ。終戦翌年のことだから、この頃は一番食物に不自由な時で、世上には栄養失調がごろごろしている時代なのに、夫人はむくむくと憎らしいほど肥っている。僕もいくらか失調気味で、色気よりもちろん食い気の方が先なのだが、やはり眼の前に見せつけられると、刺戟を受けざるを得ない。川の中から救い上げたとは言え、そんなに慣れ慣れしくされては、僕は迷惑なのだ。ことに立て膝は困る。僕の部屋にやってきて立て膝をして、仕方なく僕が窓外の景色などを眺めていると、夫人は油断を見すまして、畳から五寸釘を引抜いて持ってゆく。どうも計画的な立て膝らしいのだ。[やぶちゃん注:「アッパッパ」古く第一次世界大戦後の大正末から昭和初期にかけて普及した、日本で初めての婦人既製服に名づけられた関西風の俗称。半袖のゆるやかな夏用ワンピースで、日本の気候に合致した簡便さと合理性が人気を呼び、全国的に広まった。地味な一重の木綿製で、一般にはウエストに共布(ともぬの)のベルトが附いている。この服の普及は、女性大衆の洋装化にとって、風俗史上、意義を持つ一方、国民的創意と西欧文化への順応を示したものとして注目される(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。個人ブログ「ほばーりんぐ・とと」の「あっぱっぱってなぁに?」が解説(作り方)も詳しく、イラストもよい。]

 そんなこともあるし、また夜になると、鬼丸夫妻の交情がにわかに濃密になる風(ふう)で、そんな気配がひしひしと僕の感覚を惑乱させる。今まではそんなことはなかったのに、僕の感覚が惑乱するというのも、僕の感覚がするどくなったわけではなく、因は向う側にあるらしい。つまり夫妻の歓声狎語(こうご)[やぶちゃん注:馴れ合った戯れ言。]も、ふだんより誇張されて、わざと僕に聞かせようというおもむきがある。夫妻の寝床は、部屋の真中ではなく、行李の壁に密着して敷いてある。つまり僕に見せつけるためらしいのだ。今思うと、うまい戦術を考えついたものだ。この戦術は、河合婆さんや椿老人には利き目はないが、僕や知念などには、確実な効果を持つにきまっている。昼は昼でカツギ屋に出かけるし、夜は夜でそんな具合だから、さすがの僕も、いつしか神経衰弱的な症状となり、どうでもいいやという少しやけっぱちな気分にもなって来た。知念に事情を打ち明けて、二三度夜だけ部屋をかわって貰ったりしたが、知念だって若いのだから、やはりひどくこたえるらしく、翌朝になるとすっかり消耗(しょうもう)している。そしてしきりに僕に同情する。その同情にすがって、夜だけは知念の部屋に寝かせて貰うことに頼み込み、そういう具合な生活をしている中に、いつの間にか五寸釘は全部夫人によって持ち去られたらしい。それらの釘は全部鬼丸の部屋の鴨居(かもい)に打ちこまれ、帽子掛けや着物掛けになってしまった。折角新宿から買って来たのに、何の役にも立たなかった。釘が全部なくなった頃から、鬼丸の城壁はふたたび進軍を開始した。開始しながら、しだいに城壁は左右に展開して、つまり行李は個々ばらばらになって僕の部屋に位置を占め、二つの部屋は全然吹き通しとなり、僕の部屋か鬼丸の部屋か判らないような状態になってしまった。もちろんそこは僕の部屋だから、住もうと思えば住んでおれるけれども、鬼丸夫妻が勝手にずかずかと出入りするし、自分の部屋のような気がしない。それに夫人と来たら、一日に一度ぐらいは、あなたに米と芋の貸しがありましたね、とこと新しく念を押す。それだけならばいいけれども、僕が生来虫のたぐいを嫌いなことを知ったらしく、部屋の中にミミズや毛虫を持ちこんで、写生したりする。一度などは、鬼丸修道が大きな蛾(が)をつかまえて来て、お土産だと僕に呉れたりして、僕を戦慄させた。その他あれやこれやあって、とうとう僕は部屋を明け渡し、ついに知念の部屋にころがり込むような破目になってしまった。無抵抗主義の敗北である。

 

 この鬼丸修道がその主義信奉を捨て、吉良六郎とすっかり手を握り合ったのも、大体その頃のことらしい。それまでは、この両巨頭はにらみ合いに似た状態だったのに、急にこんなに近付いたいきさつは、僕にもよく判らない。ある日突然、吉良が知念に言ったそうだ。

「これからもう食事の支度はしなくていいよ。鬼丸の奥さんにやって貰うことになったから」

 その日から、吉良は朝晩の食事時、鬼丸の部屋に出かけて行くようになった。吉良は鬼丸を、鬼丸は吉良を、それぞれ利用価値があると認めたのだろう。

 それまでにも吉良のもくろみは着々進行しているらしく、来客も日々に多い。声をひそめて何かものものしく相談したり、盃(さかずき)を上げて共産党を罵倒したり、いよいよスズメ荘は右翼色が濃厚になって来たが、鬼丸修道がそれに加わったのは、やはり僕には意外なことだった。意外というより、心外と言った方がいい。しかし、鬼丸の部屋の乗取り方は、共産主義的方法でなく、帝国主義的方法だったことを思うと、彼の転身も当然だと言えるだろう。知念は憤慨した。

「何だい、あいつ。共産党みたいな口を利(き)いてて、もう吉良と仲良くなってる。エロ婆ぁには尻にしかれてさ」

 鬼丸修道が夫人に尻にしかれているという評言は、一面当っていないわけではない。たとえば洗濯の件だ。鬼丸家の洗濯の役割は、もっぱら修道が担当している。夫人の下着までもだ。鬼丸はすべてをきれいに洗い上げて、いそいそとスズメ荘の裏の空地に乾す。洗濯そのものが楽しい風(ふう)でもあった。

 前の小川で一緒になった時、僕はいくらか皮肉をこめて、鬼丸に訊ねてみた。

「もう鬼丸さんは、共産主義は止めたんですかね?」

「なぜ?」

 鬼丸は洗濯の手を休めて、太縁(ふとぶち)の眼鏡ごしにじろりと僕を見た。

「だって近頃、吉良君と仲良くしてるでしょう。あれはフアツショだから――」

「いや、それは間違っとる」

 と鬼丸は憤然とさえぎった。

「吉良君はフアッショじゃないよ。あれは日本的共産主義と言った方がいい。主義主張において、僕も近頃共鳴を感じてるな」

 鬼丸は夫人のシュミーズをじゃぶじゃぶとすすぎながら、僕に勢いこんで説明を始めた。たいへんむずかしい、ひねりにひねった説明なので、僕はよく理解出来なかったし、また真面目に聞く気持もなかった。その中に僕の方の洗濯が終ってしまったので、説明も尻切れとんぼになってしまった。しかし、主義を捨てたと指摘されて、鬼丸が内心怒ったのは事実のようである。ちょっと痛いところだったのだろう。

 僕のスズメ荘での生活の第一期は、ここで終る。

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