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2022/01/15

狗張子卷之一 北條甚五郞出家 / 狗張子卷之一~了

 

   ○北條甚五郞出家

 

Jingoruosytuke

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本のものをトリミング補正し、かなり念入りに清拭した。右幅は地獄の書記官司録と司命を左右に控えさせた閻魔大王。その閻魔の左には定番アイテムの生前の善悪の行為が総て再現映像される浄玻璃の鏡。その後ろには私の大好きな人頭杖(にんとうじょう)。若い女の首が生前に悪事を、男の首が善行を語るという。閻魔の前に、甚五郎と、亡者として鬼卒に引っ立てられてきた哀れな母がいる。二幅の中央上部に地獄の業火が燃え、そこから二羽の鳥が飛び来っている。左幅の右中央に甚五郎へ遺恨激しい赤斑(あかまだ)らの犬。その下方にある奇妙なものが、どうも地獄と現世を通底する穴であるようだ。中央下方に、この世に帰還した甚五郎、その前に地獄へ赴かんとする武具に身を包んだ「忍(おし)の長七」の亡霊が描かれてある。挿絵としての面白さが満載だ。]

 

 長尾謙信の家老北條丹後守は、越後の國橡生(とちふ)の城代として、大剛(《たい》かう)の名あり。

 其弟甚五郞は、年、いまだ二十あまりなり。兄におとらぬ勇士なり。

 天正元年[やぶちゃん注:一五七三年。]の春二月、心地わづらひ、俄かに死(しに)けり。平生、佛(ぶつ)とも、法《ほふ》とも、しらず、死するや、直(すぐ)に、琰魔王界(えんまわうかい)におもむく。

 大王、出《いで》て、の給はく、

「汝、世にありし時、いづれの功德(くどく)をいたせしや。罪科(つみとが)は山のごとしといへども、壽(いのち)の算(さん)、いまだ、あり。ゆるして、二たび、人間(にんげん)にかへすべし。去《さり》ながら、汝が母、すでに、地ごくにあり、よびよせて、對面せさすべし。よみがへりなば、よく、跡をとぶらふべきなり。」

とて、司錄に仰せてめしけるに、まことにやせつかれたるありさま、みしにもあらぬを[やぶちゃん注:未だ嘗て見たこともないほどのありさまであるのに。]、手かせ・首かせをいれて、庭のおもてに引すゑたり。

 母は、甚五郞を見て、淚を流し、

「我、世にありし時は、人の色よき小袖をうらやみ、馬物の具・鎧・太刀までも、よくしてあたへ、『和殿(わとの)を、世にたて、いかめしく見ばや。』とのみ思ひくらし、佛法の事は、外《ほか》の事に聞《きき》なし、むなしくなりて、賴(たのむ)べき功德も善根もあらばこそ、死しては直(すぐ)に地ごくにおもむき、つるぎの山をこえ、あかがねの湯につき入《いれ》られ、しばしのあひだも、くるしみのやすらかなる事、なし。汝は、『二たび、人間に歸る。』と、きく。わが跡、よくよく、とぶらへや。」

と、いひもはてぬに、おそろしき獄卒、その母を引たてつれて、ゆくゆく、泣さけぶ聲、はるかに聞えしかば、甚五郞、悲しさ、身にあまりて、淚のおつる事、雨の如し。

 琰王(ゑんわう)、仰《おほせ》られけるやう、

「汝、よく見て歸り、その跡とふ事を、わするべからず。とくとく、歸れ。」

と仰ける所に、もろもろの鳥・けだもの、きたりあつまりて、甚五郞を目がけて、懸りけるを、琰王、のたまはく、

「娑婆に歸らば、汝等がために、功德をいとなみ、皆、人間に生《しやう》をうくべし。はやくゆるして、歸せや。」

と、あり。

 もろもろの鳥・けだものは、みな、しりぞくに、あかく斑(まだら)なる狗(いぬ)、ひとつ殘りて、甚五郞が衣をくひとめて、放たず。

「いかに。」

と問ひ給ふに[やぶちゃん注:主語は閻魔大王。]、こたへて申すやう、

「我(わが)業因(ごふいん)、つたなくして、狗と生まれ、此家に、とらへられたり。甚五郞は、軍(いくさ)のいとまには、鵜(う)・鷹(たか)のあそびに日をおくり、鷹のために、我をくゝくりて、さらば、ころしもやらず、股(もも)の皮を剝(はぎ)かけて、用ひるにしたがひて、切り鎩(そ)ぎて、鷹の餌(ゑ)に、せらる。その痛(いた)み、くるしむ事、心も、こと葉も、絕《たえ》て、誰(たれ)に訴ふべきたよりもなく、悲しき中に死(しに)けるは、いつの世に、わするべき。そのうらみを、はうぜん[やぶちゃん注:「報ぜん」。]ためなり。」

といふ。

 琰王、さまざま、なだめて、司命に仰(おほせ)て歸し給ふ。

 路(みち)にして、「忍(をし)の長七」とて、この程、敵(てき)にうたれし傍輩(はうばい)に逢《あひ》たり。

 長七、すでに甚五郞が袖をひかへて、

「我は、只今、地ごくにおもむくなり。我が父母に、『「跡とぶらひて給はれ」と言傅(ことづて)せし』と、屆けてたべ。」

といふ。

「いかに屆け侍べるとも、しるしなくては、まことしからずや。」

と云ひければ、腰より、ひとつの「かうがい」を取出《とりいだ》し、

「これを、しるしに。」

とて、なくなく、わかれけり。

 送りける司命の、をしへけるやう、

「たとひ、とぶらひのため、經をうつし、佛(ほとけ)をつくりても、非道に得たる金銀にていたしては、さらに亡者の功德に成《なり》がたし。その亡者の祕藏に思ひし物こそ、たしかには、とゞけ。」

とぞ、かたりける。

 甚五郞、道にすゝみ、大《おほき》なる穴に行《ゆき》かゝり、此中《このなか》に落つると、おぼえて、よみがえり、忍(をし)が、ことづてたりし「かうがい」は、手に、あり。

 その家に、つかはしければ、

「長七うたれし、そのかばねをはうぶりし時に、棺に入て、送りし物なり。何のうたがひ、なし。」

とて、父母、なくなく、とぶらひ、「くやう」をいたしけり。

 甚五郞は、

「今は。出家の身とならばや。」

と、つらつら打案《いつあん》ずる中《うち》に、弓矢とる身の習ひ、かかる世の亂れをうしろになし、獨りのがるゝは、君《くん》のためには、不忠となり、親のためには、家をうしなふの不孝の子なり。天神地祇(てんしんぢぎ)も、さこそは、にくみ給ひ、世上の人にも、笑はれ、恥かしめを、死後までも名をさらすなるべしや。さりながら、『恩をすてゝ無爲に入(いる)をば、まことの「はうおん」[やぶちゃん注:「報恩」。]なり。』と、佛(ほとけ)もとき給へば、世の望みを忘れ、慾をはなれ、抖藪行脚(とさうあんぎや)の身とならば、人も、思ひゆるし、君も、捨え給う習ひ也(なり)。させる所帶もなく、妻子もなき我なり。髻(もとゞり)に何の心をか殘すべき。後世(ごせ)こそ大事なれ。とかくの事は、用、なし。」

とて、さまを替へて、家を出つゝ、諸國をめぐる修行者とぞ成にける。

 

 狗波利子卷一終

 

[やぶちゃん注:「謙信の家老北條丹後守」早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本では題名の「北條」に普通に「ほうてふ」(=ほうでふ(但し、「ほうでう」が歴史的仮名遣としては正しい)と読みを添えているが、この姓は「きたじょう」が正しい。戦国から織豊時代の武将で越後刈羽郡北条(きたじょう:現在の新潟県柏崎市北条(きたじょう:グーグル・マップ・データ。以下同じ))の領主北条高広(きたじょうたかひろ 生没年未詳)である。上杉謙信配下の上野厩橋(うまやばし)城主(永禄六(一五六三)年任命)として、十八年の長きに亙って謙信の関東経略に関与した。但し、彼は実は過去とこの後に、二度も謙信を裏切っており、最初は天文二三(一五五四)年に長尾氏に敵対する甲斐国の武田信玄と通じ、当時の居城であった北条城で、主君長尾景虎(後の上杉謙信)に対し、反乱を起こしたものの、翌年、長尾軍の反攻を受けて降伏、景虎に再び仕えて奉行として活躍した。二度目は永禄一〇(一五六七)年で、今度は北条氏康に通じて謙信に背いたが、翌年に上杉氏と後北条氏との間で越相同盟が結ばれて両勢力は和解してしまい、宙に浮いた立場となった高広は北条氏政の仲介を受けて、性懲りもなく、再び上杉家に帰参し、以後は上杉氏の家臣として仕えたというトンデモ経緯がある。謙信の死後は、厩橋領に土着し、武田勝頼・滝川一益(かずます)・北条氏直(ほうじょううじなお)と主家を変えている。天正一五(一五八七)年までは生存したことが確認されている。なお、本姓は毛利であった。但し、例の江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(一)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)では、彼或いは彼の子である北条景広(?~天正七(一五七九)年)とする。

「越後の國橡生(とちふ)の城代」。同じく江本氏の論文注で、『越後国古志郡(現新潟県栃尾市)栃尾城か』とされ(ここ)、『高広は永禄六年(一五六三)から上野国厩橋城の城代に抜擢される』が、後の『天正六年(一五七八)に御館の乱』(おたてのらん:同年三月十三日の謙信急死後、上杉家の家督の後継をめぐって、ともに謙信の養子であった上杉景勝(長尾政景の実子)と上杉景虎(北条氏康の実子)との間で起こった越後のお家騒動。景勝が勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となり、後に米沢藩初代藩主となった。景虎及び彼に加担した山内上杉家元当主上杉憲政らは敗死した)『が勃発すると、御館救援の準備のため景広は本拠地北条城へ移った。『北越軍談』二十六には、「北条丹後守長国(注…高広の誤り)厩橋の城代に補せられ、二千貫文の分限と成れり。…長国が父安芸守長朝は越後刈羽郡北条の所士にして、長尾家譜代の郎従たり。輝虎公古志の山家に放逐せられ玉し時、長朝殊に看養を加へまいらせ、打続て忠勤更々怠なきに依て、古志郡栃尾の城代に補せられ、其後関東の総軍人として那波城を守り、謙忠が介副を勤む。され共衰老軍事に倦が故、骸骨を乞て、先年栃尾へ帰り、職事を丹後守に与奪す」とある。』とある。「骸骨を乞ふ」というのは。「仕官中に主君に捧げた自身の身の残骸を乞い受ける」の意から、「 官を退くこと」「致仕を乞う」ことを言う。

「其弟甚五郞」江本氏の注に、『『北越軍談」二十六に『丹後守未だ弥五郎と号し、若武者たりし時』とあるが、そこからとるか。』とされる。ウィキの「北条高広」を見ると、別名に弥五郎と見える。

「琰魔王界」「琰魔」は「閻魔」「焔魔」に同じ。閻魔庁。閻魔大王の裁判を執行する宮殿。

「司錄」「司命」地獄の裁判に於いては「司命(しみょう)」と「司録(しろく)」という書記官が必要な実務処理を担当する。現世での堕獄した者の行いを漏れなく記し、閻魔王を始めとする十王の各冥官の判決文を録する。

「手かせ・首かせ」手枷・首枷。

「むなしくなりて」いざ、死んでみたら。

「もろもろの鳥・けだもの、きたりあつまりて、甚五郞を目がけて、懸りける」江本氏は注で「往生要集」の衆合地獄との類似性を指摘されているが、私は寧ろ、殺生何するものぞの荒武者の勇士となれば、以下を読まずとも、鳥打ち・鷹狩・猪鹿(しし)狩などを好んだに相違なく、それら、甚五郎が殺した鳥獣の亡魂が、彼を責めんと押し寄せてきたと読んだ方が自然である。

「あかく斑(まだら)なる狗(いぬ)」江本氏の注に、『「往生嬰集」(絵入り、寛文三年刊)挿絵には斑の犬が描かれている。』とある。

「鵜(う)・鷹(たか)のあそび」甚五郎は鵜飼漁もやっていたのである。

「鷹のために、我をくゝくりて、さらば、ころしもやらず、股(もも)の皮を剝(はぎ)かけて、用ひるにしたがひて、切り鎩(そ)ぎて、鷹の餌(ゑ)に、せらる」生餌を与えるための残酷極まりない仕儀である。これを知ると、甚五郎が人間界へ帰還するのは私は許せない。

「忍(をし)の長七」江本氏の注に、「忍」は『武蔵国埼玉郡忍(現埼王県行田市)。延徳三年(一四九一)成田親泰築城の忍城がある。』とあり(ここ)、「長七」については、『忍城城主成田長泰からとるか。』とある。成田長泰(明応四(一四九五)年?~天正元(一五七四)年)は当初は関東管領上杉憲政に属したが、後に北条氏康に従った。永禄四(一五六一)年の長尾景虎(謙信)の関東出兵に際し、景虎について、氏康が拠る小田原城を責めた。その後も長尾・北条両氏の間で向背を繰り返したが、最後は謙信についた。同八年、子の氏長と不和になり、翌年、隠居した(以上の解説は講談社「日本人名大辞典」に従ったが、生没年は当該ウィキのそれを引いた)。

「かうがい」「笄」。読みは「髪掻(かみかき)」の変化したもの。本来は、髪を掻き上げるのに用いる細長い道具で、男女ともに用いた。箸に似て、根もとが平たく、先端は細く、通常は象牙や銀で作った。また、ここでは或いは、同名で、刀の鞘の付属品の一つで、金属で作り、刀の差表(さしおもて:刀を差した際に外側を向く)に鍔を通して挿しておき、髪を撫でつけたり、手裏剣代りに用いた(但し、中世以降のものは殆どが実用性を持たず、装飾品として添えられていたともいう)それを指しているものかものかも知れない。

「抖藪(とさう)」は衣食住に対する欲望を払いのけて身心を清浄にすることを言う。]

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