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2022/01/22

狗張子卷之二 交野忠次郞發心

 

[やぶちゃん注:今回の挿絵は状態が最もよい現代思潮社版のそれをトリミング補正・清拭し、左右を近接させて合成した。右幅が水崎の辻斬り強盗のシークエンスで。左幅がその直後に水崎が戻った後の最後の場面。下方に、妻に呆れ果てて発心し、立ち去らんとする水崎の姿。家の中に既に推し斬った髻(もとどり)が見える。]

 

   ○ 交野(かたの)忠次郞發心(ほつしん)

 

Katano

 

 河内の國かた野の里に、水崎(みさき)忠次郞宣重(のぶしげ)と聞えしは、もとは駿河國今川家にありしが、牢浪して河内に來り、交野のわたりに引こもり、思ひかけず、妻をかたらひて、すみけり。本(もと)より武家の奉公人なれば、耕作・商買の所作(しよさ)もしらず、只、

『然るべき君を賴みて、軍陣に手がらをもふるひ、世にたち、名をも、とらばや。』

とのみ思ひて、あかしくらすほどに、身(しんしやう)上、ことの外にまづしく、朝(あした)ゆふべの烟(けふり)を、たてかねたり。

 ある夜のあかつき、忠次郞、ねぶりさめて、妻にかたりけるは、

「いか成《なる》先世(ぜんせ)のむくいにや、かゝるまづしき身となりはて、わびしき目をみせ侍べる事、返す返すも、面目(めんぼく)なき有さまなり。もし、世にも出《いづ》るならば、又、おもしろき世にも逢瀨(あふせ)のあるべし。」

と、かたる。

[やぶちゃん注:「河内の國かた野」旧交野郡。現在の交野市全域・枚方市の大部分と、寝屋川市の一部に相当する。この附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。淀川上流左岸。当該ウィキによれば、『交野郡の大部分は「交野ヶ原」と呼ばれる台地・丘陵地で、耕作には適さなかったが、鳥獣が多く棲息し、かつ京からも近いことから貴族の狩場となっていた。桓武天皇の時代には離宮が置かれた他、天皇の狩場(天皇以外の狩猟は禁止された)があったことにちなむ禁野(枚方市)の地名が残る。また、交野ヶ原は桜の名所としても知られ、交野郡にあった惟喬親王の渚院で在原業平が「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」と詠んでいる』とある。

「水崎忠次郞宣重」不詳。

「妻をかたらひて」「語らふ」は男女が契りを結ぶの意。妻を迎えて。

「先世」「前世」に同じ。

「世にも出るならば、又、おもしろき世にも逢瀨のあるべし。」まどろっこしい謂いだが、「これよりどなたかの家人となって功名を挙げ、戦場で命を落としたとしたなら、きっと、相応に面白い後世(ごぜ)に於いて、二人は、再び、逢瀬を持って夫婦(めおと)となるに違いない。」ということであろう。作品内時制は永禄一二(一五六九)年の今川家滅亡の前後辺りの戦国時代。]

 妻、聞《きき》て、

「かゝるわびしき所にきて、幾世(いくよ)をへたりとも、いかめしき事のあるべしとも思はず。營(いとなみ)とて、すべき業(わざ)も、なし。かくて年月をおくりて後(のち)は、道のかたはら、細溝(ほそみぞ)の中に、たふれて、飢死するより外は、有《ある》べからず。せめては、野ばらのすゑ、往來の道すぢに出つゝ、手ごろのものの行過(ゆくすぐ)るをうかゞひ、うちころして、はぎとり、追ひたふして、うばひとり、我にも、ゆるやかなる心をも、つけて給(たべ)。」

とぞ、いひける。

[やぶちゃん注:「いかめしき事」功名を立てて立身出世すること。「幾世をへたりとも」とさえ言っているところから、彼の妻は、ここでの発案から、後のおぞましい行動・形振りから見ても、凡そ非情極まりない現実主義者であることが判る。

「ゆるやかなる心」物理的に満たされた満足感。]

 忠次郞、うち聞て、我、年ごろは、侍の道をたてゝ、『まさなき事は露ばかりもせじ』とこそ、嗜(たしな)みけれ、さりとも、かゝるわびしき中に、情けをかけて、ふかく契りしあひだを、去り別れんも悲しく、妻がこと葉につきて、思ひたちつゝ、夜のあくるを待かね、朝霧のまぎれに、刀(かたな)をわきばさみ、人ばなれとほき野のすゑ、草むらにかくれて待ける所に、年のほど、十七、八かと覺えし女性(によしやう)の、ちひさきめのわらはに、小袋(こぶくろ)をもたせてうち過《すぐ》るを、折ふし後さきに人氣(ひとけ)も、なし。刀をぬきて、かけ出《いで》つゝ、そのまゝ、うちころし、二人の女のきる物、はぎとり、小袋ともに持ちそへて、家に、はしり歸り、

「よき仕合(しあはせ)いたしぬ。」

とて、妻にあたへ、

「年のほど、十七、八かとみえたる、世にうつくしき女性なりけるぞや。いかなる里の誰人(たれびと)の妻なるらん、いたはしながら、うちころしける、あはれさよ。」

と、かたるに、妻、これを聞ながら、あはれとも思へるけしきもなく、井のもとのあたりにゆきて、水をくみつゝ、うれしげにわらひながら、小袖につきたる血を、あらひける顏つき、心ねのおそろしさ、鬼のごとくおもはれ、あきれたる中に、うとみはて、

『半時(はんとき)にても、わが妻とて、そふべきものか。情けなの心や。』

と、是《これ》を、「ぼだいのたね」として、もとゆひ、おしきり、家を出で、あしにまかせて諸國を修行して、三年(みとせ)にあたる比(ころ)ほひ、大和國よし野にめぐりきて、日、すでに暮《くれ》しかば、

『山本(やまもと)の里に宿(やど)をからばや。』

と思ふに、道のほとりに、軒(のき)あばらなる茅屋(かや《や》)のうちに、ともし火、かすかに、みえし。

[やぶちゃん注:コペルニクス的転回点の部分が、微妙に上手く書けていない。「忠次郞、うち聞て、」とあって、ここで直接話法の心内語となって、「我、年ごろは、侍の道をたてゝ、『まさなき事は露ばかりもせじ』とこそ、嗜(たしな)みけれ、」(『「こそ」~(已然形)、……』の逆接用法)「さりとも、かゝるわびしき中に、情けをかけて、ふかく契りしあひだを、去り別れんも悲し。」「と思ひて、」とジョイントしてこそ、おぞましい凶行の起動が際立ってくるところなのに、その心内語の尻が、うやむやに地の文に変質してしまい、メリハリがなくなって、ずるずるした、逆にたるんだ長回しになってしまっているのである。惜しい。

「山本の里」現在の奈良県橿原市山本町附近。]

 立《たち》よりて、戶をたゝくに、内より、わかき法師の出《いで》て、

「誰人《たれびと》ぞ。」

と云ふ。

「諸國修行の聖(ひじり)にて候。日の暮たれば、宿かし給へ。」

といふ。

「やすきほどの事。一夜をあかし給へ。」

とて、内によび入たり。

 粟飯(あはいひ)とり出で、

「是にて、旅のつかれをやすめ給へ。」

とて、我身は持佛堂にうちむかひ、念佛しけるあひだに、淚をぬぐふ事、幾(いく)しきりなり。

[やぶちゃん注:「粟飯」粟と米とを混ぜて作った飯。]

 忠次郞入道、此有さまをみつゝ、やうやう、粟飯、くひはてゝ、持佛堂にまゐり、もろ友に念佛しけるが、何となく物あはれにおぼえて、そゞろに淚のおちけるを、念佛はてゝ後(のち)、あるじの法師と、只、二人、うちむかひ、物がたりせしまゝ、

「さて、只今、念佛のあひだに、しきりに淚をおとし給ふは、いか成《なる》子細の候やらん。」

と、とひければ、あるじのほうし、こたへけるは、

「かたるにつけては悲しさの、かゝる身になりても、わすれがたき事の侍べり。我は、そのかみ、三好日向守の家人(けにん)なり。いとけなくして父におくれ、母かたの祖父(おゝぢ)は有德(うとく)なりける故に、その家にやしなはれ、人となりてのち、

『武家も、ものうき世の中なれば、只、わが名跡(みやうせき)をつぎて、世をやすくせよ。』

とて、ちかきあたり、田宮の里にすみわたり、北條村より、妻をむかへしを、いくほどなく、盜人(ぬすびと)のためにころされて、悲しくも、口をしさ、今更に、かぎりなし。その俤(おもかげ)の、わすられず、あまりの事には、

『かの盜人のありかをきかば、たとひ、虎ふす野べ、鯨(くじら)よる浦といふ共、只一人ゆきむかひ、妻の敵(かたき)はうつべきものを。』

と、別れをしたふ淚さへ、しばしがほども留らず、袂のかはく、隙(ひま)も、なし。かゝる時に、

『世をすてずは、生死(しやうじ)のちまたも覺束なく、まよひの夢も、さめがたかるべし。うき世の中は、これまでなり。佛道に身をすてゝ、はかなき妻のぼだいをも、とぶらひ、來生(らいしやう)には、さりとも、ひとつ「はちす」の契りを、むすばん。』

と、おもひ定め、此《この》山もとに、こもりて、念佛して居(ゐ)侍べり。今日(けふ)はこと更に、別れしつまの、三とせに歸るを思ひ出《いで》て、佛に花香(けかう)を奉り、むなしき後(あと)をとぶらふ中に、

 うらめしく又なつかしき月日かな

      別れみとせのけふと思へば

すつる身ながらも、猶、わすれかねて、かく思ひつゞけ侍べり。そなたにも、おなし世をそむきし人なれば、逆緣(ぎやくえん)ながら、とぶらひてたべ。」

とぞ、かたりける。

 忠次入道、つくづくと聞て、

「年ふればわすれ草もや生(おひ)ぬらん

     みとせのけふと思はれもせぬ

此もの語を聞《きく》につけて、恥かしき事こそ侍べれ。その女性を、ころせしものは、それがしなり。」

とて、初終(はじめをはり)の事、つぶさにかたり、

「我も、これゆゑ、世をそむきて、諸國をめぐる身の、とりわき、こよひ、此庵(いほ)にきたりしは、運のきはめとは、いひながら、嬉しう侍べり。その、うしなひし折からは、さこそ、悲しく、口をしからめ。かたきは、我なり。とくとく、かうべをはねて、本望(ほんまう)、とげ給へ。」

とて、首をのべて、さしむかひけり。

 あるじの法師、手をうちて、いふやう、

「年月(としつき)、念佛の隙(ひま)には、『妻のかたきのあり所を、しらさせ給へ。』と、神ほとけにも、いのり侍べりしに、こよひしも、こゝにめぐり來れる事も、心ざしのまことあるゆゑぞかし。今は、ねがひの花、ひらけ、妄念の雲、晴れたり。此事なくば、そなたも我も、いかでか「ぼだい」の道にいらん。『佛種(ぶつしゆ)は緣(えん)よりおこる』と、佛のとき給ふは、これなるべし。今は、うらみも、のこりなく、よろこびの種(たね)となり、一味(《いち》み)の雨の沾(うる)ほひける。九品(ぼん)の「うてな」のえんをむすび、おなじ蓮(はちす)の契りとなりし、嬉しさよ。」

とて、二人の法師、ひたひをあはせて、歡喜(くわんき)の淚、おきどころ、なし。

「此上は、何かへだてのあるべき。しばらく、こゝにとゞまり、念佛申て、とぶらひ給へ。」

とて、十日ばかりは、二人、おなじくおこなひしが、忠次入道、いとまごひして、出《いで》けり。

 後《のち》に、そのゆくすゑを、しらず。

 あるじの法師も、それより四年ののち、七日ばかり、やまひせしを、あたりちかき村人、かはるがはる、きたりて、かんびやうせしに、さのみに、くるしき色もなく、後世(ごせ)の事、物語りいたして、つひに「りんじふ」めでたく、念佛の息(いき)、もろ友に、正念に往生す。

 人々、とりまかなふて、塚にうづみ、しるしの木を、うゑて、男女(なんによ)あつまり、念佛して、とぶらひけりとかや。

[やぶちゃん注:「三好日向守」三好長逸(ながゆき 生没年未詳)。三好三人衆の一人で長老格。松永久秀と協力し、宗家の三好義継を後見した。のち久秀・義継の同盟軍と対立,奈良を中心に交戦をくりかえす。織田信長の畿内制圧で阿波に逃れ、しばしば反攻したが、天正元(一五七三)年の敗走後は不明。

「田宮の里」旧交野郡田宮村。現在の大阪府枚方市の枚方市駅南方直近の田宮本町を中心とする一帯であろう(ここは「今昔マップ」で示した)。

「北條村」現在の大阪府大東市北条交野郡外の南方だが、近い。

「今日(けふ)はこと更に、別れしつまの、三とせに歸るを思ひ出《いで》て」奇しくも、この庵に忠次郎が一宿を乞うたその日が、嘗て彼がこの法師の妻を強殺した日、彼女の祥月命日だったのである。則ち、四回忌当日だったのである。

「うらめしく又なつかしき月日かな別れみとせのけふと思へば」例の江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(二)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)によれば、本篇の種本の一つである「二人比丘尼」(鈴木正三著の仮名草子。但し、ストーリーの親和性は薄いとある)の「上」に出る、

 うらめしく又なつかしき月日かな

    わかれし人のけふとおもへば

が近い、とする。幸い、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらと二コマ後の原本画像で当該歌が確認出来る。

「逆緣」普段、縁のない者が、偶然の縁で、死者に回向することを言う。これは、しかし、結果として、驚愕の事実が水崎によって語られることとなるのであった。

「年ふればわすれ草もや生(おひ)ぬらんみとせのけふと思はれもせぬ」江本氏の注釈でも『未詳』とする。

「一味(《いち》み)の雨」雨が一様に草木をうるおすように、仏の教えがどのような人々にも行き亙ることを比喩した仏語。

 なお、先の江本氏の論文によれば、本篇は「沙石集」の十七「悪を縁として発心したる事」が、『構成、結末、表現など、多くの点で一致し、本話の典拠といえる』とあるとある通りで、寧ろ、その『先行作品を、構成でほぼそのまま取り入れ、やや独自性に欠けるか』とも評しておられる。これは「沙石集」好きの私も多少、鼻白んだところではあった(但し、映像的には了意の方が遙かに上手い。特に後半で)。されば、原拠には原則、触れないという規定から外れて、ここでは以下に、所持する「岩波日本古典文学大系」本(一九六六年刊)を参考に直接話法などを改行し、カタカナはひらがなに直し、漢文部は読み下して、電子化しておく。

   *

    (七)惡を緣として發心したる事

 洛陽に貧して世を度(わた)るものありけり。妻(め)、夫に云ひけるは、

「かく貧く心苦しき世間、堪へ忍ぶべくも覺えず。人のせぬ事にもあらず。強盜(がうだう)・引剝(ひつぱぎ)ばしもして、我をもして、養ひ給へかし。」

と云ひけれども、

「人の貧しきは常の事也。いかゞ左樣のわざをば、すべき。」

と云ふに、妻、恨みくねり、打ち泣きなどして、

「さらば、暇(いとま)をたべ。いかなる人をも憑(たの)みて、すぎん。」

と云ひける時、さすがに、志もあさからざりけるまゝに、うち野の方へ行きて伺ひける程に、日の暮方に、女人の女童(めわらは)一人具したる、とほりけるを、折節、人も見へざりければ、走り寄りて打ち殺して、二人が「き物」を、はぎて歸りぬ。血付たる小袖共を、

「これこそ、しかじかの事して、まうけたれ。」

とて、妻にとらせければ、

「さこそ云ひしかども、かはゆき事かな。」

なども云ふべきに、えみまげて、よに嬉げなる顏氣色(かほきそく)也。

 あまりにうとましく覺えければ、日來(ひごろ)の情けも志しもわすられて、軈(やが)て、指し出でて[やぶちゃん注:間髪を入れず、家を飛び出して。]、本鳥(もとどり)押し切りて、或る僧坊にて出家して高野へ上りぬ。

 さて、一筋に後世の勤め、怠らず。よしなく殺しゝ罪、ふかく覺えて、且つは、彼の後世をも訪(とぶら)ひけり[やぶちゃん注:殺した者の冥福を祈った。]。

 或る時、同じやうなる入道、語らひ寄りて、物語しけるは、

「御發心(ごほつしん)の因緣、ゆかしく、誰も申さむ、仰(おほ)せられよ。これは、都にすみ侍りしが、歎く事ありて、すみなれし都(みやこ)、心、とゞまらず、あくがれ出でゝ、此の山へ上(のぼ)りて。」

といふ。

「これも、都のものにて侍るが、思ひの外の緣にあひて、出家して侍るなり。」

と云ふ。

「然るべき因緣にこそまゐりあひて侍るらめ。委しく仰せられよ。」

と云へば、いとつゝましげには、ありながら、しゐて問ひければ、申しけるは、

「相ひ語らひて侍りし者にすゝめられて、思の外の事をなむして侍りし。」

と、ありのまゝに語りければ、

「いつの比(ころ)にて侍し。又、女人の小袖の色、年の程なむど、こまごまと問ひけるを、ありのまゝに申ければ、此の入道、手を、

「はた」

と打ちて、

「さては。御邊(ごへん)は某(それがし)が善知識にてこそ、おはすれ。彼女は志(こころざし)ふかく侍りし者なり。其の日、後(おく)れて後、やがて出家して侍るなり。斯(かか)る緣なくは、爭(いかで)か、佛道修行のかたき道に思ひ入るべき。然(しか)るべき善知識にこそ。御邊より外の同行(どうぎやう)、有るべからず。共に彼の菩提を助け、今度(このたび)、出離の道に思ひ入るべし。」

とて、同じく勤め行ひて、一人は已に、臨終正念にて、おはりにけり。看病なんど、丁寧にしけるなり。或る人、聞きて語りき。今一人は、當時も侍るにや。

 人の世にある、歎き愁へ、後(おく)れ先き立つ習ひ、多けれども、人每(ごと)に、發心する事や侍る。賢(かし)こかりける心ざまなり。生死(しやうじ)の長夜(ちやうや)には、會離(ゑり)のかなしみたえぬ習ひと知りながら、愛をすて、道に入る人のなきこそ、愚かなれ。歎きあらむ人、此の跡を忍びて、永く衆苦充滿の世界を捨てて、早く快樂不退の淨土を願ふべし。

   *]

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