「和漢三才圖會」巻第二十一「兵噐 征伐具」(五折)より「天墜砲(ほうろくびや)」
ほうろくびや 飛擊震天雷
天墜砲 大神銃
滅虜砲
一窩蜂
大蜂窠
登壇必究云天墜砲其大如斗用法外至半天墜於賊巢
震響如雷黑夜令賊自亂相殺内有火塊數十能燒賊之
營寨必不能救
△按天墜砲有數品名亦多矣本朝兵者家流著心以欲
其用之利或以木銃放出者其玉徑一尺三寸二分四
厘殆鉛子當百貫目之重者其至三百歩許通火機發
出熖塊者一千丸許以秘兵家是近世之製也
*
ほうろくびや 飛擊震天雷〔(ひげきしんてんらい)〕
天墜砲 大神銃
滅虜砲
一窩蜂〔(いつくわほう)〕
大蜂窠〔(だいほう〕
「登壇必究」に云はく、『天墜砲の其の大いさ、斗〔(と)〕のごとし。法を用ひて外〔(そと)〕せば、半天に至り、賊巢〔(ぞくさう)〕に墜ち、震響〔(ふるへひびく)〕こと、雷〔(かみなり)〕のごとし。黑夜、賊をして自〔(おのづか)〕ら亂らしめ、相ひ殺す。内に、火の塊(かたまり)、數十〔(すじふ)〕有り、能く賊の營寨〔(えいさい)〕を燒き、必ず、救ふこと能はず。』と。
△按ずるに、天墜砲、數品〔(すひん)〕有り、名も亦、多し、本朝の兵者・家流、心〔(しん)〕[やぶちゃん注:「芯」。雷管。]を著〔(つけ)〕て、以つて、其の用の利(と)からんことを欲す。或いは、木銃を以つて、放出す〔る〕者〔もあり〕。其の玉、徑(さしわた)し一尺三寸二分四厘。殆んど、鉛子(なまりのたま)、百貫目の重さの者に當る。其の至ること、三百歩許り。火機を通し、熖(ほのほ)の塊(かたまり)、發〔(はつ)し〕出〔(いづ)〕ること、一千丸〔(いつせんぐわん)〕許り。以つて、兵家に秘す。是れ、近世の製なり。
[やぶちゃん注:通常はある標題の左手端にある中国音カタカナ表記がない。
「天墜砲」後で砲丸に芯をつけるとあるタイプは、明らかに砲弾で、しかも時限信管装置附のものであることが窺える。「VOK Wiki」の「飛撃震天雷」を見ると、明らかにそうした高性能砲弾であることが判る。そこには『飛撃震天雷は壬辰祖国戦争の時、朝鮮人民がつくって使用した信管装置がついている砲弾です。壬辰祖国戦争は』一五九二年から一五九八年まで(天正二十年に始まって翌文禄二(一五九三)年に休戦した「文禄の役」と、慶長二(一五九七)年の講和交渉決裂によって再開されて慶長三(一五九八)年の豊臣秀吉の死によって日本軍の撤退で終結した「慶長の役」)『朝鮮人民が豊臣秀吉の侵略を退けた戦争です』。『飛震天雷、または地天雷とも呼びました。当時、飛撃震天雷は発射されると』、『その爆発の音が雷同然で、天地を揺るがしました。飛撃震天雷は三国時代から使ってきた火砲の発展の過程に作られたものですが、当時の火砲製造技術者のリ・ジャンソンさんによって始めて作られました』。『表はボールの形で、その外径と質量によって色々とありました。砲弾の中に穴を掘ってそこに火薬を入れました。火薬と鉄のかけらなどの装入が終わると、穴に鉄の蓋をして芯を結び付けました。飛撃震天雷は芯の長さによって爆発の時間を早く、又は遅くする時限爆弾のようなものでした』。『飛撃震天雷は色々な火砲を利用して発射しましたが、射程は』七百五十メートルから九百メートルまで『でした。飛撃震天雷は信管装置がついた砲弾の初の形として世界の火砲の歴史に記されています』。『この飛撃震天雷は壬辰祖国戦争の時に大きな威力を発揮し、侵略者を慄かせた火薬兵器の一つでした』。『社会科学院歴史研究所の主任である博士、助教授のカン・セグォンさんのお話です』。『「飛撃震天雷は、その以前から朝鮮の先祖たちによって使用された色々な火砲が発展して、できたものです。当時の火砲製造技術者のリ・ジャンソンによって初めて発明され、壬辰祖国戦争の時、キョンジュ城戦闘で使用されました。表はボールの形で、その外径と質量によって色々とありました」』とあり、砲丸及び打ち出す砲筒らしきものの写真もある。
「登壇必究」明の王鳴鶴の著になる兵法書。武官の昇進に必要な知識を纏めたもので一五九九年に刊行された。平凡社「東洋文庫」の注によれば、以上の引用は『第二十九巻火器』とある。「中國哲學書電子化計劃」の影印本のここで確認したが、厳密には「天墜」で「砲」はない。流星の如く天の星が墜ちるような激烈な効果を敵に与えられることを比喩的に述べている。福山岳彦氏のブログ「超凡抜俗」の『王鳴鶴「登壇必究」1599年』に写真入りで本書の紹介があり、『この書物のなかに収録された「日本国図」はユニークに描かれていて、本州・四国地方は実際の形状とはかけはなれています。しかし、九州西海岸一帯については比較的正確に描かれており、「平戸津」「五島」「男島」「衣島」「長岐(長崎)」「江津」「天草山」「坊津」「硫黄岳」などの地名が記入されています。これらの地域は「後期倭寇」の活動範囲と一致します。この「日本国図」も後期倭寇に対処するために作成されたのかもしれません』とある。
「斗」一斗樽。明代の「一斗」は十七リットルであるから、現代より一リットル小さい。
「法を用ひて外〔(そと)〕せば」決められた手技で外部へ打ち出せば。
「半天に至り」中天まで打ちあがっって。
「賊巢〔(ぞくさう)〕」反賊の巣窟。
「黑夜」闇夜。
「相ひ殺す」天地がひっくり返ったような激しい衝撃と損壊・延焼に、前後不覚の大混乱が生じて、同士討ちをしてしまうことを言う。
。内に、火の塊(かたまり)、數十〔(すじふ)〕有り、能く賊の營寨〔(えいさい)〕を燒き、必ず、救ふこと能はず。』と。
「其の用の利(と)からんことを欲す」その炸裂と破壊・延焼効果が、最大限、発揮出来るようにしようとする。
「一尺三寸二分四厘」ほぼ四十センチメートル。ちょっとこの前の部分の原文の訓点に不審があるが、ここは理屈が通るように、オリジナルに訓読した。
「鉛子」通常の火縄銃の玉。
「百貫目」三百七十五キログラム。
「三百歩」約百八十~二十一メートル。
「火機を通し、熖の塊、發出ること、一千丸許り」最大規模で短時間に一度で射出出来る実際攻撃可能なケースを示しているようである。]
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