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2022/01/16

毛利梅園「梅園介譜」 水蟲類 蝦(テナガエビ) / テナガエビ


[やぶちゃん注:一年弱放置していたカテゴリ『毛利梅園「梅園介譜」』を再開し、全種・全文の電子化注を目指すこととする。最近、ちょっと大物の電子化注をしても、何をしても、今一つ、嘗てのような達成感を感じない。但し、今現在の主な作業の大きな一つである萩原朔太郎の全詩集のメランコリックな詩篇の全電子化注をものそうとしているせいでは――ない。それはどうも――偏愛する海産無脊椎動物と、永らく、ご無沙汰しているためのような気が強くしてきた。当初は、ホヤやナマコのパブリック・ドメインの著作を電子化しようと思ったが、ちょっと探したが、なかなか合点出来るものが見当たらない。さればこそ、この毛利梅園の「介譜」を冒頭から順にテツテ的にやっつけるに若くはないと考えた。しかし、目録は二百二十六を数え、未だ済んだのは二十二ほどだから、まあ、毎日、少しずつやっても、半年はかかりそうだな(なお、途中、既電子化の箇所に至るとともに、再点検を行い、修正する)。

 底本は今まで、実は私は、国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園介譜」と、同じ国立国会図書館デジタルコレクションの毛利梅園の「介譜」の二つをごっちゃにして使用してきたのであったが(別本としての意識は、無論、あった)、今回、調べたところ、後者が梅園の自筆であることが確認出来た(国立国会図書館デジタルコレクションの私の敬愛する磯野直秀先生の論文「『梅園画譜』とその周辺」参照されたい。なお、お恥ずかしいことに国立国会図書館デジタルコレクションの当該書誌情報にも『自筆』とあるのであった)ので、後者を用いることとする(前掲写本も図をよく写してはいるのだが、如何せん、発色が後者の方が遙かによい)。凡例は今までの、一行字数合致だと、読み難い箇所が生ずるので、繋がる文は繋げた。既に公開したものも、漸次、そのように作り替える。

 

[やぶちゃん注:ここが底本全図(以下の説明はリンク先を別ウィンドウで開いて見られんことをお薦めする)。「水蟲類」は、巻頭のパート標題だが、ここで電子化した。因みに、トリミングした図の下方にちょっと覗いて見えるのは、既電子化注した『毛利梅園「梅園介譜」 海鼠』(厳密には既に述べた通り、毛利梅園の自筆「介譜」)の尾部であり、左の画面外から伸びている鉗脚二本と六本の鬚(第一・第二触角の分岐した先端)は、左上にある「※」【一種。モクチ。】(「※」=「虫」+「殳」。「蝦」の異体略字)とあるエビの一種のそれ。また、本種の左の長い第二歩脚の先に書かれてある「癸巳林鐘四日眞寫」(「林鐘」は陰暦六月の異名)は、その左上に描かれている異名「モクチ」の絵の臨書写の日付であるから、無関係である。]

Tenagaebi

        水蟲類

 

蝦〔てながゑび〕〔◦筑州方言、「杖つきゑび」と云ふ。◦「草蝦」〔てながゑび。〕。「八閩通志」に出づ。〕

 

乙未(きのとひつじ)六月三伏(さんぷく)廿七日、葛飾領に於いて、釣りを埀れ、之れを得、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:本種はその特異な第二歩脚の長さ、分布域と見事に描かれたその形状から、名にし負う、

節足動物門軟甲綱ホンエビ上目十脚目テナガエビ科テナガエビ亜科テナガエビ属テナガエビ Macrobrachium nipponense

に同定して間違いない。梅園は丁寧で、小さな左第一歩脚もちゃんと描き込んである。ウィキの「テナガエビ」(広義)の本種の解説によれば、『体長』十センチメートル『ほど。朝鮮半島南部、中国北岸、台湾、本州、四国、九州に分布するが、九州ではヒラテテナガエビ』(Macrobrachium japonicum )『やミナミテナガエビ』(Macrobrachium formosense :同ウィキでは『九州や沖縄で「テナガエビ」といえば』、『この種類を指すことが多い』とある)『の方が多い』。鉗脚が『非常に細長く、オスでは体長の』一・八『倍に達する。地方によっては淡水でも成長できる河川残留型(陸封型)となり、湖やダムで繁殖する個体群もいる』とあるので、本個体は♂個体である可能性が高い。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページでは、食用としての『移植が盛んで、滋賀県琵琶湖には大正』六(一九一七)年から八『年頃、茨城県霞ヶ浦から』百五十六『匹が放流されて定着。福井県三方湖にも移植されて定着している』とあり、『スジエビ』(テナガエビ科スジエビ属スジエビ Palaemon paucidens )『とともに一般には「川エビ」などといわれ』、『流通しているもの。本種をスルメなどを餌に釣る光景は都会化が進んだ現在でも見られる。汚染には強いようだ』。『市場には茨城県や青森県、北海道から入荷する。特に霞ヶ浦からくるものは』、『元気に生きていて値段も高い。霞ヶ浦といえば』、『古くから「えびたる漁」というのが盛んであったという。これは『霞ヶ浦風土記』(佐賀純一著 常陽新聞社)にあるが、テナガエビ漁だけで暮らしていけるほど』、『漁獲量が多かった時代は遥かに遠い』とあり、『利用法はスジエビと同じで飲食店などで唐揚げなどになる』とある。但し、調べて見ると、これは漁法ではなく、保存・移送法のようである。「霞ヶ浦への招待 ファイル20 §19 霞ケ浦の漁業」(PDF)によれば、明治一八(一八八五) 年に『書かれた「霞ヶ浦魚漁通信」(茨城県勧業報告第』三十三『号)には「霞ヶ浦の漁はワカサギ、エビを第一とする。近年は桜エビと称するものを製造するようになって子持ちのエビを獲るので収穫は激減した。土用』三十『日を禁漁にすれば』、『エビの収穫は増すだろう。桜エビは乾燥したものを樽(たる)に詰め』、『空気をふさぐと』、『色が変らず』、『味が良くなる。販路は東京または海外輸出」(意訳)と書かれており、桜蝦は』、翌明治十九年に『上野公園で開かれた「大日本水産共進会」(県下で』百三十『品を出品)北浦の笹浸し漁』で五『等銅賞(乾公魚は褒状)、明治』二十一『年の「宮城県主催水産共進会」で』四等・五等(乾公魚は五等)に『入賞しています』とあったからである。この「桜蝦」こそが、霞ヶ浦の幻の豊漁のテナガエビだったのであろう。

「筑州」筑紫。しかしこれは面白い異名としてただ挙げただけである。毛利梅園は旗本である(文政五(一八二二)年十二月二十四日に書院番諏訪備前守組に加わっている)。

「草蝦」テナガエビの成体個体の色は全身が緑褐色から灰褐色を呈する。

「八閩通志」(はちびんつうし)明の黄仲昭の編になる福建省(「閩」(びん)は同省の略古称)の地誌。福建省は宋代に福州・建州・泉州・漳州・汀州・南剣州の六州と邵武・興化の二郡に分かれていたことから、かくも称される。一四九〇年跋。全八十七巻。巻之二十五に『蝦其類不一。草蝦、頭大身促、前兩足大而長、生池譯中。』とある。

「乙未」天保六(一八三五)年。

「六月三伏(さんぷく)廿七日」「三伏」は「夏の最も暑い時期」を指す長期期間の呼称。具体的には夏至の後の第三庚(かのえ)までを「初伏」、以下、第四の庚までを「中伏」、立秋後の初めての庚までを「末伏」と称し、その初・中・末の伏の総称であるが、ここで同年の夏至を調べて見ると、陰暦五月二十七日(グレゴリオ暦六月二十二日)で、「中伏」が陰暦七月二日に当たる(グレゴリオ暦七月二十七日)であるから、この陰暦六月二十七日(グレゴリオ暦七月二十二日)は初伏の終り近くにあたる。

「葛飾領」この謂いがよく判らぬが、ウィキの「葛飾郡」によれば、『江戸幕府の支配の下で、当郡内のうち』、『江戸城に近い本所や深川は江戸市街地の一部を構成し、町人地区は町奉行の支配下に置かれた』。『一方、利根川に面する軍事・交通上の要衝である古河や関宿には譜代大名が配置された』(古河藩〔☜〕・関宿藩)。『初期には山崎』(現在の野田市)や栗原(現在の船橋市)、藤心(「ふじごころ」或いは相馬郡舟戸。ともに現在の柏市)に『規模の小さな藩が置かれていたこともある(下総山崎藩、栗原藩、舟戸藩)。しかし、これらの藩の領地はいずれも当郡の一部を占めるのみであり、郡内の多くの村は関東郡代支配下の幕府直轄領(天領)または旗本支配地とされた』とあるから、葛飾の天領ということか。まあ、旗本だから、問題はない。ただ、現在、事績が乏しい梅園であるが、当該ウィキによれば、享和三(一八〇三)年、『木挽町築地の拝領屋敷』五百坪が『旗本寄合席有馬熊五郎へ譲られ』たため、梅園は『白山鶏声ヶ窪』(けいせいがくぼ)にあった〔☞〕『古河藩土井家屋敷内』の八百五十二坪の『地に転居した』とあるのがちょっとだけ気になった。この中央附近(グーグル・マップ・データ)に土居家屋敷はあった。ここに当時いたかどうかは判らぬが、東北に六・五キロメートルほどで、旧葛飾郡(ただ古河は遙か北ではある)荒川を隔てて近い。アシナガエビは淡水産であるから、ここで獲れても何ら問題はない。

「釣りを埀れ、之れを得、眞寫す」先の磯野先生の『梅園画譜』とその周辺」によれば、毛利梅園は、「梅園魚譜」(私の『毛利梅園「梅園魚譜」』ももっと進んでいません。悪しからず)の(コンマを読点に代えた)『注記によると自分で釣った魚が少なくない。釣の場所は尾久川、綾瀬川、戸田川、王子川、不忍池、飛鳥山下、大森辺の海辺など。出入りの魚屋に日本橋の魚河岸を探索させるなど、魚商を通じて入手した例もかなりある』とある。]

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