萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 正規表現版 宿醉の朝に
宿 醉 の 朝 に
泥醉の翌朝に於けるしらじらしい悔恨は、病んで舌をたれた犬のやうで、魂の最も痛々しいところに嚙みついてくる。夜に於ての恥かしいこと、醜態を極めたこと、みさげはてたること、野卑と愚劣との外の何物でもないやうな記憶の再現は、砒毒のやうな激烈さで骨の髓まで紫色に變色する。げに宿醉の朝に於ては、どんな酒にも嘔吐を催すばかりである。ふたたびもはや、我等は酒場を訪はないであらう。我等の生涯に於て、あれらの忌々しい悔恨を繰返さないやうに、斷じて私自身を警戒するであらう。と彼等は腹立たしく決心する。けれどもその日の夕刻がきて、薄暮のわびしい光線がちらばふ頃には、ある故しらぬ孤獨の寂しさが、彼等を場末の巷に徘徊させ、また新しい別の酒場の中に、醉つた幸福を眺めさせる。思へそこでの電燈がどんなに明るく、そこでの世界がどんなに輝やいて見えることぞ。そこでこそ彼は眞に生甲斐のある、ただそればかりが眞理であるところの、唯一の新しい生活を知つたと感ずるであらう。しかもまたその翌朝に於ての悔恨が、いかに苦々しく腹立たしいものであるかを忘れて。 げにかくの如きは、あの幸福な飮んだくれの生活ではない。それこそは我等「詩人」の不幸な生活である。ああ泥醉と悔恨と、悔恨と泥醉と。いかに惱ましき人生の雨景を蹌踉することよ。
[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「◎」。「思へそこでの電燈がどんなに明るく、」はママ。以下に見る通り、初出も同じ。筑摩版全集校訂本文は強制的に読点を打って「思へ、そこでの電燈がどんなに明るく、」とする。読みに躓かないという点では、穏当な措置ではある。終りの方の「いかに苦々しく腹立たしいものであるかを忘れて。 」の有意な字空けはママで、これは以下に示した初出でも同じであるから、確信犯のブレイク仕儀と読むべきである。
「宿醉」は「しゆくすい」と音で読んでいるか、「ふつかよひ」と訓じているかは、判断がつかない。「泥醉」とのバランスと本篇全体の事大主義的書き振りからは、私が朗読するなら、迷わず、「しゅくすい」と読む。「ふつかよひ」は如何にも間延びしていしまい、リズムが崩れるからである。筑摩版全集の「拾遺詩篇」にもろに「宿醉」という詩篇があるが(この注のために先ほど電子化しておいた)、その詩全体のやや文語調の語り口、第二連冒頭にある「宿醉の胸苦し」の同連内での音数律のバランスから見て、「しゆくすい」と読んでいる判断される(因みに筑摩版全集の作品索引では初出も本「宿命」所収の孰れもサ行の「シ」の中にある)。『萩原朔太郎「ソライロノハナ」より「午後」(4) たそがれ Ⅰ』には、「宿醉のあしたの床にふと思ふそのたまゆらの鈍き悲しみ」の一首があるが、短歌のせいもあるが、これを「ふつかよい」と朗読しては、如何にもおかしいことが判る。
「忌々しい」には「いまいましい」「ゆゆしい」の二つの読み方があるが、前者で採る。
「蹌踉」(さうらう(そうろう)は、足もとの確かでないさま、ふらふらとよろめくさまを言う。
初出は「新しき欲情」の「第三放射線」パートの「作品番號」「105」。以下に示す。太字下線は底本では傍点「●」。なお、以下の初出での「巷」の字は(こちらの右ページ二行目の二字目)「巷」の異体字であるこれ(「グリフウィキ」)であるが、表記出来ないので、「巷」で代替した。「いかに苦々しく腹立たしいものであるかを忘れて。」の後の字空けは、本篇と異なり、見かけ上は一字分ではなく、二字分、空いているように見えるので、再現しておいた(但し、これは句読点の後に有意な空きが生ずるように活字が成っているタイプのものによる錯覚である可能性が高い)。『それこそは我等の 我等「詩人」の不幸な生活である。』もママである。筑摩版全集では、所収する第二巻・第四巻孰れも『それこそは我等の、我等「詩人」の不幸な生活である。』と字空けではなく、読点を打っているが、底本を如何に拡大して見ても、読点の跡は、微塵もないので、字空けとした。
*
105
宿醉の朝に 泥醉の翌朝に於けるしらじらしい悔恨は、病んで舌をたれた犬のやうで、魂の最も傷々しいところに嚙みついてくる。夜に於ての恥かしいこと、醜態を極めたこと、みさげはてたること、野卑と愚劣との外の何物でもないやうな記憶の再現は、砒毒のやうな激烈さで骨の骨まで紫色に變色する。げに宿醉の朝に於ては、どんな酒にも嘔吐を催すばかりである。ふたたびもはや、我等は酒場を訪はないであらう、我等の生涯に於て、あれらの忌々しい悔恨を繰返さないやうに、斷じて私自身を警戒するであらう。と彼等は腹立たしく決心する。けれどもその日の夕刻がきて、薄暮のわびしい光線がちらばふ頃には、ある故しらぬ孤獨の寂しさが、彼等を場末の巷に徘徊させ、また新しい別の酒場の中に、醉つた幸福を眺めさせる。思へそこでの電燈がどんなに明るく、そこでの世界がどんなに輝やいて見えることぞ。そこでこそ彼は眞に生甲斐のある、ただそればかりが眞理であるところの、唯一の新しい生活を知つたと感ずるであらう。しかもまたその翌朝に於ての悔恨が、いかに苦々しく腹立たしいものであるかを忘れて。 げにかくの如きは、あの幸福な飮んだくれの生活ではない。それこそは我等の 我等「詩人」の不幸な生活である。ああ泥醉と悔恨と、悔恨と泥醉と。いかに惱ましき人生の雨景を蹌踉することよ。
*
ここでの「思へそこでの電燈がどんなに明るく、」を原本で見ると、「思へ」が行末であることが判る。当時の版組みでは、行末の後に句読点を打てないケースがあり、或いはそのための仕儀を面倒なために植字工や校正者が外してしまうケースも多かったから、これは原稿は読点であった可能性がある。それを朔太郎は忘れて読点をカットしてしまった可能性もある。]
« 萩原朔太郎 宿醉 | トップページ | 萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 正規表現版 夜汽車の窓で »

