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2022/02/28

萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 吹雪

 

 吹雪

       わが故郷前橋の町は赤城山の麓にあ
       り、その家並は低くして甚だ暗し。

 

ふもとぢに雪とけ、

ふもとぢに綠もえそむれど、

いただきの雪しろじろと、

ひねもすけふも光れるぞ、

ああいちめんに吹雪かけ、

吹雪しかけ、

ふるさとのまちまちほのぐらみ、

かの火見やぐらの遠見に、

はぜ賣るこゑもきれぎれ、

ここの道路のしろじろに、

うなひらのくらく呼ばへる家並に、

吹雪かけ、

吹雪しかけ、

日もはや吹きめぐり、

赤城をこえてふぶきしかけ。

             ―郷土景物詩―

 

[やぶちゃん注:大正五(一九一六)年五月発行の『時代』に発表された。「うなひ」はママ。

・「ふもとぢ」「麓地」であろう。所謂、赤城山麓の土地、その辺りの一般名詞の謂いと読む。

・「はぜ」不詳。作中の時制と以下の『「うな」ゐ「ら」』から、雛の節句の菓子ともした、餅米を煎って爆(は)ぜさせたあの菓子のことであろうかと推察はした。漢字では「粶」「爆米」「葩煎」等と書く。

・「うなゐ」は「髫」「髫髮(うなゐがみ)」で、元は昔、七、八歳の童児の髪を項(うなじ)の辺りで結んで垂らしたもの、或いは、女児の髪を襟首の辺りで切り下げておいた髪型を言った(語源は「項(うな)居(ゐ)」の意かとされる)。ここは広義のその髪形にしているような童児、単なる「幼い子ども」の意である。

 底本の『草稿詩篇「拾遺詩篇」』に載る以下の「赤城山の雪」という草稿一種がある。誤字・歴史的仮名遣の誤りは総てママ。

   *

 

  赤城山の雪

 

もと路も雪とけ

ふともに綠もえそむれど

いたゞきの雪しろじろと

けふも □□ひねもすけふも光るに

山□□あゝふゞきかけ

ふゞきしかけ

ふるさとの町うすらほのぐらやみに □にしも

かの火見やぐらの遠見に

道路にうなひは叫び

戶障子の ひゞきからから

ハゼうる聲も遠音にきれぎれにきこゆぎれ

ああうなひらよ

前橋連雀新堅町の道路 をいで

わがいにしえの少女子をわが古き家(や)の門邊をすぎて

とほき赤城 をこえ のふもとをこゑ

ああくらき古きのれんの辻々に

┃ああうなひらのよばへる這路をいでこゑ

┃とほき赤城の麓に

┃夕ざりともしびの灯を點じ

┃ほのぐらき夕餉の魚ははこばれぬ、

┃うなひらの雪とよばへる

┃ここの道路をこゑ

┃遠きふともをこゑさりて

┃われがちゝはゝの家にしも

┃ほのぐらき夕餉はき

 

   *

最後の「┃」と「↕」は私が附した。前の四行と後の四行が併置残存していることを示す。

・「前橋連雀」連雀町(れんじゃくちょう)は前橋市の旧町名。現在の本町二丁目(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の一部。次で判る萩原朔太郎生家跡の南東直近である。

・「新堅町」不詳。竪町(たつまち)ならば、前橋市の旧町名で、現在の前橋市千代田町二丁目と三丁目の各一部に相当する。この中央部附近。拡大すると判るが、現在の「朔太郎通り」の千代田町二丁目の角が萩原朔太郎の生家跡である。

・「少女子」「をとめご」と訓じておく。

・「夕ざり」「ゆふざり」或いは「よざり」かも知れぬ。「夜去り」で古語の名詞。「夜」の意。「去り」は古語の「去る」で「来る」の意の名詞化したものである。私が中学・高校を過ごした富山県高岡市伏木では、「夜」のことを「よさり」と言う。]

『萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版』の「春日詠嘆調」について


萩原朔太郞「拾遺詩篇」の初出形・正規表現版は底本全集の順序では「春日詠嘆調」となるが、これは既に、

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 述懷 (「春日詠嘆調」の草稿)

で電子化しており、また、

「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第二(淨罪詩篇)」 罪の巡禮

では、同篇を含む四篇の詩が記された原稿の復元もしているので、それらを、是非、読まれたい。

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 海盤車 / ハスノハカシパン

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。ここにある全十六図(同一個体の裏・表でもそれぞれを一つと数えて)は右下方に「此數品武江本鄕住某氏町醫所持見ㇾ自予寫ヿヲカフ故天保五年九月初一日眞寫」(此の數品(すひん)、武江本鄕住(ぢゆう)、某氏、町醫の所持より見つ。予、寫すことを願がふ。故(ゆゑ)、天保五甲午(きのえむま)年九月初一日(しよついたち)、眞寫す。)と、写生対象についての経緯及びクレジットがある。グレゴリオ暦で一八三四年十月三日である。]

 

Takonomakura

 

海盤車(カイバンシヤ)

 人手(ひとで)【相馬。】

 「盲亀(まうき)の浮木(ふぼく/うきぎ)」と云ふ。

 

「怡顏齊介品(いがんさいかいひん)」に出づ。

 『海燕(カイエン)の、圓(まどか)にして、輕-虚(かる)うして、微細毛(びさいまう)ある者を「海盤車」』と云ふは、是れなり。

     表

 

[やぶちゃん注:これは、「蛤蚌類」ならぬ、透かしがないことと、背部の紋様及び腹部の形状から、

棘皮動物門ウニ綱タコノマクラ目ヨウミャクカシパン科ハスノハカシパン属ハスノハカシパン Scaphechinus mirabilis

の殻と比定してよかろう。りかわ氏のブログ「海洋生物図鑑(仮)」の「ハスノハカシパン」が、写真が豊富で、解説も専門的に詳しく、素晴らしい! 超お薦め!!

「怡顏齊介品」複数回既出既注。既に先の「紅葉貝(モミジガイ) / トゲモミジガイ(表・裏二図)」で同書の当該部「海燕附海盤車」全文を電子化してあるので参照されたい。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本の下PDF一括版)の13コマ目から14コマ目にかけてがそれで(HTML単独画像ではここと、ここ)、附図があるが、そこでも注意した通り、かなり稚拙で、見ない方がマシなレベルである。「海燕」は30コマ目左丁の下段(「海」とある「」は「燕」の異体字。同じくHTML単独画像ではここ)であるが、寧ろ、ここでは、右丁の右中央にある「蛸の枕」が、実は本種である可能性は、結構、高いようにも思われる。

「海盤車」私が敢えて音読みで示したのは、脇に添えた「人手」と差別化するためである。漢籍の本草書で、ウニ・ヒトデ類及びその他の奇体な形状の棘皮動物を、広く、「海盤車」と呼称したことは確かだが、それを「ひとで」と読んだのでは、ヒトデ類に限ってしまい、本種は含まれなくなってしまうからである。しかも、この狭義の現在のタコノマクラ類やカシパン類などは、「人手」ではなく、文字通りの「海盤車」の文字列と、「カイバンシャ」という響きの方が遙かに相応しい形状を語っているではないか! 因みに、ネット上で『何で「燕」なのか判らない』という記載をしている方を見かけたのだが、これ、「人手」も「海燕」も同(おんな)じで、棘皮動物の典型的な「五」放射状の体制を、手の「五」本の指の分岐に、また、鳥のツバメの「頭」と「左右の翼」と「尾羽の先の分岐」を数えての「五」放射形に、それぞれ寄せたものに決まってると私は思うんだがねぇ……

「盲亀(まうき)の浮木(ふぼく/うきぎ)」この原義を知らない人のために、ここで注を附しておく。これは、「海中の底から百年に一度しか浮かび上がってこない盲目のカメが、海面に首を出した際、たまたま流れ漂っている浮き木(ぎ)の、たった一つしかない穴に、そのカメの首が、ちょうど、すっぽりと嵌る」という「雑阿含経」・「涅槃経」などにある話から、「仏或いは仏の教えに正しく向き合うことが難しいこと」の喩えとし、広く「互いに会うことが極めて難しいこと」や「滅多にないこと」。「浮き木に会える亀(かめ)」とも言う。ここは、凡そ、海浜に暮らす漁民でもない限り、タコノマクラやカシパンのような奇妙な形を成した物に日常に於いて遭遇することは滅多にないからであろう。

「微細毛」実際にはウニであるから、微細な短棘、或いは、触手及び管足ということになる。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 苧手巻貝(ヲダマキ) / カニモリガイ・アサガオガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。ここにある全十六図(同一個体の裏・表でもそれぞれを一つと数えて)は右下方に「此數品武江本鄕住某氏町醫所持見ㇾ自予寫ヿヲカフ故天保五年九月初一日眞寫」(此の數品(すひん)、武江本鄕住(ぢゆう)、某氏、町醫の所持より見つ。予、寫すことを願がふ。故(ゆゑ)、天保五甲午(きのえむま)年九月初一日(しよついたち)、眞寫す。)と、写生対象についての経緯及びクレジットがある。グレゴリオ暦で一八三四年十月三日である。]

 

Wodamakigai

 

苧手巻貝(をだまきがひ)

 

[やぶちゃん注:まず、左の個体は、

腹足綱前鰓亜綱中腹足目オニノツノガイ超科オニノツノガイ科タケノコカニモリ属カニモリガイ Rhinoclavis kochi

でよかろう。

 右が困った。小さくて、図も繊細ではない。

 そこで私は標題の「苧手巻貝(ヲダマキ)」をこれに適用してみたくなった。「をだまき(おだまき)」の原義は「苧環(をだまき:歴史的仮名遣)」で、「麻糸を空洞の玉状、或いは、環状に巻いた物」を指す。布を織る初期過程に於いて作る材料形態であるが、そこは巻貝の形態それだけを指すのでは芸がない。

 とすると、今一つの「おだまき」である、

モクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科オダマキ属 Aquilegia

を想起したのだ。そうして、教員時代は山岳部の顧問をしていた関係上、私は自動的に――紫色――の可憐なあの、

オダマキ属オダマキ変種ミヤマオダマキAquilegia flabellata var. pumila

を第一に思い浮かべてしまったのである。これは私の経験から致し方ない。しかし、これ、原画を拡大して見ると、紫色っぽく見えるのである。梅園のものを、誰かが写本した(相当に画力レベルが高い優れた模写本である)方の明るい国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園介譜」のそれを見られたいのだ! はっきりと明るい紫色に塗っていることが判るのである! その瞬間、私はある一種しか頭に浮かばなかったのである。そう、

前鰓亜綱翼舌目アサガオガイ超科アサガオガイ科アサガオガイ属アサガオガイCommon Janthina

である。私は生体を見たことがないのだが、由比ヶ浜で拾ったことは何度かある。アサガオガイ属には、よく似た近縁種がいるが、殻頂がここまで平たいのは、私はアサガオガイ以外にはないと考える。吉良図鑑によれば(コンマを読点に代えた)、『アサガオガイ類は大洋上に浮遊生活をなすもので』、『足部に浮囊』(うきぶくろ)『を具え、殻薄く蝸牛形で、動物』(軟体全部のこと)『には目もなく蓋もない。卵は浮囊に産みつける。これが風のまにまに漂っているが、一朝暴風にあえば多数』、『海岸に打上げられる。故に産地の限界はない』。『アサガオガイは螺塔低く、底面臍部に白色帯がある』とある。ひっくり返した図も梅園が描いていて呉れたらなぁ、と、ちょっと思う。同属は、その生態の特殊性から判る通り、クラゲを摂餌対象としている。また、この美しい青紫色は海の擬態色(ブルー・バック効果)で、鳥類や雑食・肉食性の魚類目を誤魔化す保護色である。

 無論、こうした巻きが円状に強くて、貝表面が紫色を呈した種は他にもいるから、別種を比定される方もおられるであろうことは、重々承知之助である。本音を言うと、私は私の秘かな嗜好的願望から、この個体をアサガオガイに比定したかったのである。「鳥羽水族館」公式サイトの「ギャラリー」の「アサガオガイ・イトカケガイ・クルマガイの仲間」の本種の画像を見られたい。ほんまに! この色で、わては、ノック・アウトやねん❣

「苧環貝」現在は、嘗てヨーロッパの博物学者が人工物と断じた、マニアの好きなイトカケガイ直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目イトカケガイ科の、Depressiscala Depressiscala auritaに「オダマキ」が与えられてある。]

萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 もみじ

 

 もみじ

 

霜つききたり

木ぬれをそむると

おもひしものを

庭にあづまやの

遠見をそめ

うすべにさせる

魚をそめ

わかるるきみの

くちをそめ

 

[やぶちゃん注:大正四(一九一五)年九月号『沙羅樹』に発表された。「もみじ」はママ。底本の「習作集第八卷」に以下の草稿がある。

   *

 

 もみぢ

 

しもつききたり

木ぬれをそむるとおもひしものを

庭にあづまやの遠見をそめ

うすべにさせる魚をそめ

わかるゝきみのくちをそめ

あはれもみぢは

さびしきわれのいのちをそめ、

 

   *

 また、底本の『草稿詩篇「拾遺詩篇」』にも、以下の草稿一篇が載る。

   *

 

 もみぢ

 

しもつききたり

木ぬれをそむるとおもひしものを

庭にあづまやの遠見をそめ

うすべきさせる魚をそめ

わかるゝきみのくちをそめ

あはれもみぢは

さびしきわれのいのちをそめ。

 

   *

最後までコーダの「さびしきわれのいのちをそめ」に拘って、後、削除したことが判る。]

『萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版』の「三人目の患者」と「叙情小曲」について

 

萩原朔太郞「拾遺詩篇」の初出形・正規表現版は底本全集の順序では、

「三人目の患者」

「叙情小曲」

の二篇が続くが、これらは既に先に以上のリンク先の記事内で電子化注しているので、そちらを読まれたい。

萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 芽

 

 

 

いたましき芽は伸びゆけり、

春まだあさき土壤より、

いとけなき草の芽生はうまれいで、

そのこゑごゑはかしましく、

はるる日中(ひなか)の、

大空ふかくかがやけり。

 

[やぶちゃん注:大正四(一九一五)年六月発行の『街上』に発表。底本の『草稿詩篇「拾遺詩篇」』に載る以下の無題の草稿一種がある。「大空たかく」であろう誤字はママ。

   *

 

  

いたましき芽はうまる、のびゆけり

春まだあさき土の中より壤より

いとけなき草の芽生はのびゆけりうまれいで

その聲聲はおほ空にかけとどろきぬかしましく

はるる日中の

大空かたくかがやきぬ、ふかくかがやきにけれ、→け□□。きにけれ。

  *

後に編者注があり、欄外に、

  *

いたましき芽は伸びゆけり

春まだ

  *

という二行がある旨の記載がある。]

『萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形正規表現版』の「夜景」・「たびよりかへれる巡禮のうた」・「祈禱」・「小春」について

 

萩原朔太郞「拾遺詩篇」の初出形・正規表現版は底本全集の順序では、

「夜景」

「たびよりかへれる巡禮のうた」

「祈禱」

「小春」

の四篇が続くが、これらは既に先に以上のリンク先の記事内で電子化注しているので、そちらを読まれたい。

萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 竹の根の先を掘るひと

 

 竹の根の先を掘るひと

 

病氣はげしくなり

いよいよ哀しくなり

三ケ月空にくもり

病人の患部に竹が生え

肩にも生え

手にも生え

腰からしたにもそれが生え

ゆびのさきから根がけぶり

根には纎毛がもえいで

血管の巢は身體いちめんなり

ああ巢がしめやかにかすみかけ

しぜんに哀しみふかくなりて憔悴れさせ

絹糸のごとく毛が光り

ますます鋭どくして耐えられず

ついにすつぱだかとなつてしまひ

竹の根にすがりつき、すがりつき

かなしみ心頭にさけび

いよいよいよいよ竹の根の先を掘り。

 

[やぶちゃん注:大正四(一九一五)年二月号『卓上噴水』に発表された。

・「三ケ月」は「三日月」。

・「憔悴れさせ」は「やつれさせ」と私は二字に当て訓して読む。以下の草稿を見よ。

 さて、本篇も「竹」詩篇関連で何回も電子化し、言及もしているのだが、本篇自体の一つの草稿を電子化していなかった。それを以下に示す。筑摩版全集の『草稿詩篇「拾遺詩篇」』に載る以下の無題のもの二種である。歴史的仮名遣の誤りや誤字は総てママ。

   *

 

  

 

病氣おもくなりはげしくなり

いよいよ哀しくなり

月は三ケ月そらにうすぐもりにくもり

人の氣のからだぢう肢體に竹が根え

その肩にも竹が生え

手にも生え

指のさきから根がけぶり

はだかになれば

迷走神走の血管中にの巢は身體いちめんなり

みよみよすでに

ああすでに哀しみきはまりて

ああじつにおとろへますます哀しみつらくなり

すでにすつぱだかになりて

竹の根にすがりつき、すがりつき、

いよいよいよいよ哀しくなり。

あきらめほそきあきらめ竹の根のさきを掘

 

 

  

 

病氣はげしくなり、

はつ春ちかく、(いよいよ悲しくなり)

三ケ月空にうすくもり、

病氣の肢體 の患部に に竹が生え、(病入の患部に竹が生え)

肩にも竹が生え

手にも生え

腰からしたにもそれが生え

指のさきから根がけぶり

根には纖毛がけぶりもいで

絹糸のごとく毛が光り

血管の巣は身體いちめんなり、

ああ巢がしめやかにはびこりかすみかけ、

しづにしづにそれが自分を

しぜんに哀しみふかくなりて全身わが身を★憔悴//やつれ★させ

[やぶちゃん注:「★」「//」は私が附した。「憔悴」と「やつれ」が併置残存していることを示す。]

ますます、鋭どくしてたえられず

ついにすつぱだかとなつてしま へば

竹の根にすがりつきすがりつき

いよいよいよ われがさびしく なり なりてなみだぐみ哀しくなり、

あきらめ、あきらめ竹の根の尖を堀り。

絹糸のごとく毛が光り。

 

   *

 なお、萩原朔太郎の病的な広義の竹や竹の根をモチーフとした「竹」関連詩群は、これだけで一冊の研究書や病跡学書が書けるもので、私の記事を集成したものとしては、

萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 巢

の注がよかろうかとは存ずる。見られたい。]

萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 竹

 

 

 

竹は直角、

人のくびより根が生え、

根がうすくひろごり、

ほのかにけぶる。

           ――大正四年元旦――

 

[やぶちゃん注:大正四年二月号『詩歌』に発表された。謂わば、萩原朔太郎の最も有名な病的な「竹」詩群の皮切りであり、既に私は、

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 竹

萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 竹 (同題異篇)

また、

竹 萩原朔太郎 (「月に吠える」の「竹」別ヴァージョン+「竹」二篇初出形)

萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 『蝶を夢む』拾遺 竹

などを電子化しており、本篇も、複数回、電子化しているのであるが、この本篇自体の一つの草稿を電子化していなかった。それを以下に示す。筑摩版全集の『草稿詩篇「拾遺詩篇」』に載る以下の無題のものである(もう一種存在するらしいが、活字化されていない)。

   *

 

  

 

竹はりうりう

くびより

竹はするする→直→り りうりうすつきり

ひとのくびより根が生え

┃┏その根はけぶる

┃┗うすくけぶ

┃┏根がうすくなりらみ

┃┗ほのかにけぶる

 

   *

最後の罫線記号「┃」「┏」「┗」は私が附した。前の二行と後ろの二行が併置残存していることを示してある。]

ブログ・アクセス1,690,000突破記念 梅崎春生 一時期

 

[やぶちゃん注:昭和二三(一九四八)年九月号『文芸首都』に発表された。生前の単行本には所収されていない。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。太字は底本では傍点「ヽ」である。

 文中に簡単な注を入れた。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、本未明、1,690,000アクセスを突破した記念として公開する。【2022228日 藪野直史】]

 

   一 時 期

 

 その頃、一日一日を、僕はやっと生きていた。夢道病者のように一日中ぼんやり動いていた。しかし生活してゆくための、不快な手ごたえと、ざらざらした抵抗感は、遠くから確実に僕をおびやかしていた。とにかく一日が終ればいい、時々たちどまって、僕はそう考えた。明日のことは、明日心配したらいいだろう。

 そんな具合に、強いて自分の心の眼をつむらせる瞬間が、日に何度か来た。それはそのときの状況や行動と関係なく、いきなり胸にこみあげてきた。歩いているとき、椅子にかげているとき、便所にしやがんでいるとき、人と話しているとき、などに、それはいきなり僕の心を揺った。僕はあわてて、自分を言いなだめる言葉を、さがさねばならなかった。

 夜、眠りにつくときは、それでも大ていよかった。おおむね僕は泥酔していたから。そんな思念が胸にしのび入る余裕はなかった。しのび入っても、僕はそれをせせらわらうことが出来た。困るのはむしろ朝の寝覚めであった。

 僕は本郷のある下宿に住んでいた。高台の鼻にたてられた三階建の下宿で、二階や三階は見晴しがよかったが、僕の部屋は附下の一番日当りの悪い部屋で、帳場にごく近い、書生部屋に類する位置にあった。下宿料もそのせいで、一等安かった。その部屋で、僕は毎朝、女中に呼びおこされた。

「もう七時ですよ。起きないと役所におくれますよ」

 唐紙(からかみ)をすこしあけて、声がそこから飛びこんでくる。それで僕は眼をさます。布団の襟(えり)ごしに、唐紙のすきまから女中の顔が見える。それが僕の一日の最初にみる人間の顔であった。その顔もたいてい唐紙にさえぎられて、眼がひとつと鼻の半分位しか見えなかった。

「もう七時過ぎますよ。早く起きなさいよ」

 この下宿には、女中が三人いた。名前はそれぞれ持っていたが、何度きいても僕は覚えられなかった。だから綽名(あだな)で僕は三人を区別していた。それはウシとネズミとキツネという分け方だった。おおむね顔や身体つきの類推で、木堂がつけた綽名であった。木堂はときどき酔ったあげく僕の部屋にとまりこんだから、女中たちをすぐ見覚えて、そんな絆名をつけたのであった。そんな名前をつけられても、女中たちは別に気にする風にも見えなかった。むしろよろこんでいるようにも見えた。[やぶちゃん注:「木堂」「きどう」と読んでおく。姓にある。]

 (おネズさんの顔だな)とか(今日はおウシさんだな)とか、僕の一日の意識は、ここから始まるわけであった。

 この下宿に、僕は三年越しにすんでいた。そんなに長く住んでいるくせに、これが自分の部屋であるという実感が、どうしても湧いてこないのであった。僕はいつも一晩どまりで安宿にとまっているような気持ばかりしていた。四角なうすぐらい部屋で、床の間もなかった。狭い押入れがついているだけで、その他には何もなかった。窓をあけると黒い塀があり、窓の下には錆(さ)びたブリキの便器やこわれた牛乳瓶などがすててあるのが見えた。そして展望は全然利かなかった。

 下宿というのは停留場に似ていて、いつもいっぱい人はいるけれども、常に同じ人々ではなく、次々変ってゆくものらしかった。同宿の人たちとも、毎朝食堂で顔を合せているわけだが、いつも初めて会うような顔ばかりで、いっこう親しめなかった。昔は部屋部屋に食膳をもってきたのだから、同宿とも顔を合せる機会はなかったが、戦争に入って配給制度になると、手を省(はぶ)くために食堂をつくって、そこで皆が飯をくうようになっていた。同宿の顔に見覚えがあるのは、二三人だけであった。毎日顔を合せているのに覚えないというのも、僕の弁別力や記憶力がとみに薄弱になっているせいかも知れなかった。皆といっしょに食堂で、だまりこくって食う飯は、ひとりでぼそぼそ食う飯より不味(まず)かった。こんなに沢山いて、同じ量の飯を、同一のおかずで食べるということ、それが眼に見えているだけに面白くなかった。面白くないのは、僕だけでもないらしかった。食堂では、みな沈欝な顔で飯をたべた。

 この下宿は僕みたいな勤め人と、学生が半々位であった。毎朝玄関をでてゆく服装でそれは判った。ときどき下宿人のひとりに召集令状がきて、おウシさんかおネズさんが、餞別の回章をもって廻った。召集がくるのは、たいてい学校を卒業した勤め人の筈であった。ときには十日ほどの間に、二人も三人もつづけて来ることがあった。[やぶちゃん注:「回章」(かいしょう)順々に回して見せる回覧文。]

 僕をつめたく脅やかしているもののひとつは、たしかにこれであった。十全に生活する張りをうしなって、やっと生きているというのも、ひとつには、何時このような赤紙が、僕の現在をうちくだくかも知れないという不安があるためでもあった。回章をみる度にその不運な同宿人に、僕ははげしい同情をかんじた。その感じはそのまま、明日しれぬ僕の運命にくらくつながっていた。

 しかしそれがなんだろう。餞別を女中に手わたしながら、僕はいつもそう考えた。くよくよしても始まらぬじゃないか。とにかく一日一日が終ればいい。

 不運な同宿人がこっそりいなくなると、またあたらしい下宿人がいつの間にかその部屋を占めていた。歯がぬけるとすぐ義歯を入れるように、それは至極(しごく)なめらかに行った。そして前の人の名は、女中たちからも忘れられた。それはへんに中途はんぱな感じを僕におこさせた。

 それらはすべて、人間の生態というより、色褪(あ)せた現象のように僕に見えた。僕をとりまく現実は、あの映写幕のなかのように、ぼんやり灰色がかっていた。そのなかにうごく僕の姿も、すでに色彩をうしなっているらしかった。

 生活する感動を、いつのまにか、僕はすっかり無くしていた。

 そのような僕に、ある日木堂が言った。

「おれたちはだんだん、つまらんことばかりに興味を持ってくるような気がするな。役所の仕事は全然おもしろくなしくせに、役にたたんことには、むやみと情熱が湧いてくる」

 その時僕らは、酒場の行列に加わっていた。五時からの開場を待つために、長蛇の列をつくって待っている人々のなかに、僕らもならんでいたのである。

「そうだな。役所の仕事も、いい加減重苦しくなったな。もともと出世したいと思いもしないし――」

「そういう考え方が、役人としては落第なんだな。出世したくないなどと、役人としては大それたことだよ」

「それの方が、気楽は気楽なんだけれどね」

「だからさ。一杯の酒にありつくために、三時間も行列する方が面白いだろ。役所をさぼってまでね。おれたちはいつまで経(た)っても、雇いという身分なのさ。それをたのしんでいるようなところがあるだろう」

 木堂も、役所の雇員であった。局は異っていたが、僕同様わりあい暇なポストで(暇だといっても、仕事はあることはあったが、それをやらないだけの話であった)だから僕といっしょに、昼間から酒場の行列にも加わることができるのであった。もともと探偵小説などを書いている男だが、戦時のこんな状態では、手も足も出ないから、役所にもぐりこんで、糊口(ここう)をしのいでいるという恰好であった。このような中途半端な連中が、役所のなかに、なんとなく幾人もいた。僕と気息があうのは、おおむねこのような男たちであった。そういう連中は、ほとんど雇員という職名を頭にかぶせていた。

 

 僕が毎日勤めているところは、東京都の教育に関係した役所であった。それも事務関係というのではなく、一種の外郭みたいな、なにをしているのか判らないような、変な具合の役所で、場所も本局とは離れていて、四谷の方にあった。あそこらは今すっかり焼けてしまったけれども、混凝土(コンクリート)四階建のそれだけは、今でも残っていて、中央線を新宿の方から乗ってくると、トンネルに入る寸前に、左手の風景の高台のかげから、その一部分をちらと見せる。他の電車とすれちがうときは、さえぎられて見えない。電車であそこを通るとき、僕は今でも気になって、その建物が今にも見えるかと注意するのだが、すれちがう電車にさえぎられて見そこなう場合もあるし、その灰色の一部を、ちらと眼に収めることもある。僕にとって、電車の窓からみるこの建物の姿は、永久に jinx となるだろう。そこに毎日僕はかよっていた。[やぶちゃん注:「jinx」ジンクス。英語で「縁起の悪い人・物」を意味する語。良し悪しの区別なく、縁起を担(かつ)ぐ対象となる対象或いはその行為を指す。「東京都の教育に関係した役所」事実、梅崎春生は東京帝国大学卒業後(昭和一五(一九四〇)年三月)は東京市教育局教育研究所に勤務しており、昭和十七年一月に召集を受けて対馬重砲隊に入隊するものの、肺疾患のために即日帰郷となり、以後療養するも、同研究所に暫くいた(その後、徴用を逃れようと、昭和十九年の三月には東京芝浦電気通信工業支社に転職しているが、その三ヶ月後の同年六月に応召され、佐世保相ノ浦海兵団入りした)。]

 僕も勿論、ここでは雇いということになっていた。

 この職場における僕を決定する、この雇員という名称が、僕にはなかば気に入っていた。名前の上に雇員と刷りこんだ名刺を、多量に注文して持っていたが、それを使用する機会はなかなか少かった。名刺というものは、もすこし偉くならなければ、必要なものではないらしかった。それほど責任のある地位に僕がいないこと、そして雇員という名称の、「雇われている」という感じが、僕をほっと肩落す気持にさせていた。

 僕がそこであたえられていた仕事は、「東京都の教育」という写真のパンフレットを製作することであった。はじめ所長(ここの長は所長と呼ばれていた)から命ぜられたときは、その担当も僕と小竹主事補の二人になっていたのだが、一月も経たないのにどんな具合か小竹主事補は他の仕事にまわされて、あとは僕ひとりの担当になっていた。それはつまり、大東京の教育状況の写真をあつめ、それを一冊に編輯(へんしゅう)する仕事で、その意図はもっぱら、東亜の諸国にそれを頒布(はんぷ)し、もって教育における大東京の威容を誇示しようとするつもりであるらしかった。

 だから写真を選定するにしても、汚ない校舎や貧弱な備品や、みじめな恰好の生徒がいる場面は、厳にさけねばならなかった。視学あがりのいかにも俗物という感じの所長が、僕をよんで言った。[やぶちゃん注:「視学」ざっくり言ってしまうと、文部省の視学官や地方教育委員会の指導主事相当職。]

「つまり皇都のだね、子弟たちがこんな立派な枚舎と設備のなかでみごとに皇民として錬成されていることを、海外にもひろめてやろうというんだよ。わかったね」

 わかることにおいては、僕は聞かない前からわかっていた。どのみち役人が思いつくのはこの程度のことなので、こんなことでもして予算を費消して、一仕事した気になるのが、東京都の役人の精いっぱいの智慧であった。ことに教育関係の役人の主だった連中は、どういうものか、極めて頭のわるい連中ばかりで、皇国民の錬成だとか、ミソギ教育だとか、馬鹿のひとつ覚えにそんなことばかり言っていて、ここの所長もその例には洩(も)れないのであった。できそこなった玄米パンのような顔をしたこの所長は、野暮(やぼ)ったい眼鏡の底から、僕をみつめて、

「小竹君も仕事の関係でよそへ廻り、君ひとりにこれをやらせる訳(わけ)だが、君は雇いとはいえ、充分仕事ができる人であるとは、かねがねから思っている。そのうち折を見て、主事補にも推薦したいと思っているから、まあしっかりやってもらいたい」

 べつだん主事補にはなりたくないのだと、口まで出そうになったのを、僕はやっと我慢した。雇いで満足している心境を、こんな所長に話してもしかたがないのである。

 こんな具合で、この仕事が僕の担当ということになっていた。しかし命ぜられて数箇月経っているにもかかわらず、仕事はほとんど進捗(しんちょく)しなかった。

 僕は毎朝役所に出かけてゆく。出勤簿に印を押す。とたんに仕事への情熱がなくなってしまうのだ。今日という一日を、こんなやくざな仕事でつぶすのかと思うと、情けなくなってしまう。この「東京都の教育」は、僕にとって、極くやりがいのない仕事であった。東京都教育状況の、ありのままを写せというなら、まあ話もわかるけれども、いいところばかり写せというのでは、気持の入れようもなかった。だいいち情けないことには、どの程度の予算がこれに組んであるかといえば、お話にならないほど少くて、専属の写真屋をつれて写してあるくには、とても足りない小額であった。こんな予算でどうするのかと所長に訊ねたら、雑誌社や新聞社や写真協会から、すでに写された適当な写真をかりてきて、それでつくればいいというのである。おそろしくしみったれた仕事であった。つまり予算をとった手前の、申し訳みたいな仕事なので、しぜん担当も「雇員」の僕におしつけられたという訳らしかった。

 で、出勤簿に印を押すと、すぐ僕は都内出張の手続きをして、たとえば写真協会に資料蒐集という具合にして、四谷の建物を出てゆくのである。そして道をあるきながら、一日をどんな風に終らせようかと考えるのであった。新聞社や雑誌社を廻るのも憂欝であったし、写真協会にゆくのも気が進まない。写真協会のせまい閲覧室で一枚一枚写真を繰るのは、まったく面白くない仕事であった。そして何となく電車に乗り、何となく電車から降り、何となく木堂のいる役所の建物に足をむけるのが、僕の毎日のならわしのようになっていた。

 

 役所というものの機構や実態は、僕には今でも判然としない。四年近く役人生活かしていながら、錯綜した迷路のなかにいたような漠然たる感じがのこっているだけで、どこの仕事がどういう具合にうごいていたか、そんなことは全然理解にとどまっていない。まるで内臓のように復雑な仕組になっていて、意識して覚えようとするならともかく、僕のように興味をそこに置かないものにとっては、永遠に不可解な仕組にちがいなかった。

 しかし、それにしても役所というところは、おそろしく忙がしい部分とおそろしく暇な部分が、なんとばらばらに混っていたことだろう。まるで心臓や肺臓のように一日中いそがしい部署があるかと思えぱ、胃や大腸のように、ときどきいそがしい部署もあるという具合であった。窓口事務で執務している同僚の役人をながめたりするにつけ、僕は自分の部署が、全体からみて、極めて暇な部分にあたることを、感じないわけにはゆかなかった。僕のところはこれらに比べると、まるで扁桃腺か虫様突起みたいに暇であった。[やぶちゃん注:「虫様突起」(ちゅうようとっき)は虫垂(盲腸)の旧称。]

 このような虫様突起が、役所のあちこちに何となくぶら下っているらしく、木堂が属している課も、やはりそんな具合で、何時僕が訪ねても、誰も仕事をしている気配はなかった。みな机の前でぼんやり煙草すっているか、騒々しく雑談しているか、いつもそんな風(ふう)であった。僕のいる部署の風景にそっくりであった。戦争をやっていて、役所においても、人手が足りない足りないといっているのに、こんな空洞が何故あちこちにあるのか、僕には判らなかった。僕に判っているのは、このような空洞が確かに存在し、そのひとつに自分がいるということ、そしてそれを利用する姿勢に自分がなっていることなどであった。早瀬のなかにところどころ、嘘(うそ)のように淀みの箇所をみることがあるが、僕らの部署もそんなものかも知れなかった。そんな淀みのなかに、流れてきた藻がとどまり、そのまま腐っているのを、子供のとき、小川で、僕は何度もみたことがあった。僕はときどきそれを聯想(れんそう)した。子供の僕は、なぜあの藻がいつまでも流れないのかといぶかったものだが。

「虫様突起というものではないだろう」

 僕がそんな話をしたとき、木堂はちょっと厭な顔をして言った。そうして、しばらくかんがえて、

「耳たぶ、という具合には考えられないか」

「耳たぶも、しかし今では無用の長物なんだろう」

「しかし、虫様突起ほど、病的な感じはしないからな」

 病的とは何だろう。また健康とは、どういう形であるものだろう。今の時代において、僕はそれらを理解できなくなっていた。自らが時代からはみでたコブのようなものであることは感じていたが、そうかと言って、コブであることに腹立てたり、恥かしがったりする神経は、とっくに失っていた。しかし、生きてゆくについての、不快な手ごたえと、ざらざらした抵抗感は、おおむねそこから出ていることも、僕は同時にかんじていた。すると木堂はまた言った。

「耳たぶ自身は役には立たないが、眼鏡を通じて、眼に奉仕しているだろう」[やぶちゃん注:ここで木堂が言っている「耳たぶ」とは耳介全体を指している。]

「酒をのんだり、ばくちをうったり、奉仕もないじゃないか」

 そう言って、僕はわらった。

 僕らは執務時間中に、ばくちを打つようになっていた。それはやはり役所のなかにある倉庫みたいな建物で、椅子や机の廃棄品やこわれた立看板などが、ごちゃごちゃにおしこまれた部屋部屋の一番奥に、六畳敷ほどの広さの物置じみた空部屋があって、各局の各課から、僕や木堂みたいなあぶれた余計者が、昼週ぎになると何となくぞろぞろとあつまってきた。ばくちがそこで開帳されるというわけであった。

 しかしばくちといっても、花札や麻雀(マージャン)のような大がかりのものではなく、あぶれ者の僕たちにふさわしい、しみったれたばくちであった。新聞紙を縦に細かく切って、その一枚ずつをとり、その文字のなかに含まれた金額の大小によって、勝負がきまる仕組になっていた。予算の記事のきれはしがあたり、六百五十億円などという数字があたれば、場銭をその男が取ってしまうことになる。時には(定価一円二十銭)などという小額でも、他の連中に金額文字がなければ、勝をしめることもあった。場銭もすくなく、他愛もない勝負であったけれども、それだけに僕らの情熱をかきたてるものがあった。もしルーレットや花札のようなものであれば、僕らは興味をこれほどそそられることはなかっただろう。細長い紙片を、上から下へしらべる手付や感じから、このばくちはフィルムという名がついていた。[やぶちゃん注:「場銭」「ばせん」と読む。賭博をしているその場にあるだけの金銭を指す。]

 たいていその部屋に行けば、五六人の男たちがこのフィルムをやっていた。部屋のすみからこわれた椅子を引きよせて、だまって場銭を出して加わればいいのである。場銭は、踏みこまれたときの要心に、本物の紙幣ではなく、個人が発行する金札をあてていた。人間はなんという詰らぬところに凝るものだろうと思うが、その金札[やぶちゃん注:ここは底本は「金礼」となっているが、誤植と断じて訂した。]もいろいろ工夫をこらして、ボール紙を四角に切って毛筆で丁寧(ていねい)に書いたのもあれば、どうごまかして押したのか、自分が属する局長印をれいれいしく押したのもあるのであった。極秘などという印をおしたのもあって、それが勝負にしたがってやりとりされ、後で清算されることになる。退庁時間がくると、かならず勝負が終ることになっていた。やくざな僕らではあったけれども、役人のはしくれであるからには、この辺はきわめて几帳面(きちょうめん)であった。

 とにかく現職の役人たちが、昼日中、仕事をさぼって、こんな物置部屋でばくちを打っているということは、国民精神総動員の趣旨には至極外(はず)れたもののようであった。げんに隣の部屋には、その手の立看板の古びたのが、山とつまれてあって、ここに出入するたびに僕らはそれを眺めているわけであった。ここにあつまる連中の部署は雑多で、口うるさい男たちであったけれども、この部屋のことについては、秘密はよく保たれていた。僕らはすべて、脱落したような表情をうかべて、硝子窓に日射しがうすれるまで、フィルムをつづけるのであった。

 この部屋にあつまる常連を、しかし僕はここで見知っているばかりで、どんな仕事をしているのか、どんな経歴をもっているのか、僕は全然知らなかった。このフィルムにうちこむ情熱の点だけで、僕は彼等と親近感をわかっていた。彼等も病める虫様突起にちがいなかったし、外的な力で破れ去る予感が、こんなフィルムにうちこむ原動力になっていると、僕は漠然と感じていたから。

 

「だれも戦争に反対する、そんな強い気持はないんだ。ほんとに反対するなら、あんな顔つきでフィルムなどやっているものか。潮の流れから、自分も知らないうちに、はみでてしまっただけなのさ。そのいきさつも、自分では判っていないんだ。だから、似てるだろう。飲屋にならんでいる連中とさ。そっくりのつらつきだよ」

 いつか木堂がそう言ったように、そういえば両者はまことに似ていた。この頃酒の方はしだいに窮屈になっていて、莫大な金を出せばいざ知らず、飲食税のかからぬ範囲で飲もうとすれば、広い東京でもその数はかぎられていて、それも早くから行列しなければ不可能であった。とにかく一回の勘定が税のかからぬ金額内であるから酔うためには、二回も三回も行列の背後に廻らねばならぬ。その回数をかせぐためには、どうしても早くから行って並ぶ必要があった。

 しかし早くから並ぶ必要があるとしても、五時開店だというのに、昼ごろからならぶような情熱を、皆はどこで支えていたのだろう。実際に、嘘ではなく、正午頃には行列がすでに出来ていたのである。このような酒場はさすがに、ごく安くて、いい品質の酒をのませる店であったけれども。

 そしてそこに顔をつらねている常連が、フィルムの常連と、その感じが非常に似ているというわけであった。もちろんフィルムの常連は、一応は小役人だから、身なりにしてもそうくずれたところはなく、ちやんと「防空服装」をまとっていたが、飲屋の常連はもすこしくずれていて、吹きよせられた落葉のような連中が多かった。しかし不思議なことには、たとえば木堂にしても、この行列に混ればちゃんと処を得て、一色にやすやすととけ入るようであった。防空服装も、ここに入ればたちまち、しおたれた印象をはなってくるのである。もちろん僕自身も、そうであるにちがいなかった。僕もこの行列の中では、わらの中に寝るような気易さをいつも感じていた。酒を飲む喜びにつながる、行列の喜びといったものを、僕は確実に体得していた。正午からならぶということも、僕にはその気持がはっきりわかっていた。しばしば僕らも、昼頃から並んだりしていたから。

 僕は行列に混り、開店をまちながら、煙草をすったり、前後の人々と話を交したりする。僕はたいてい木堂といっしょであったが、時にはひとりでも出かけた。行列の会話というのも、たいてい他愛もない世間話で、どこそこの飲屋は盛りがいいとか、どこそこは札(ふだ)を何時から呉れるとか、そんな知識の交換などである。戦争末期に存在したこの種の安酒屋を、僕は今でも二十や三十憶い出せるが、浅草のカミヤバーとか新橋の三河屋のような大きな店をのぞくと、大抵(たってい)横町とか裏町とか、そんな侘(わび)しい場所にあって、自然そこにあつまる連中も、そんな風景にふさわしい男たちなのであった。身体のどこかが脱落したような、ふしぎな臭いを漠然とただよわせていて、声は酒のためか必ずしゃがれていて、木堂の言葉によると、こんな声を、gin-and-water voice と言うのだそうであった。こんな役にも立たない言葉を、木堂はいくつも知っていた。[やぶちゃん注:「浅草のカミヤバー」現存する老舗(公式サイト)で、「電気ブラン」でよく知られる。「新橋の三河屋」現在、銀座などで手広くやっている和食飲み屋と同名店かどうかは不詳。「gin-and-water voice」私は不学にしてこの成語を四十年前にこの小説で知った。]

 やがて店が開く。行列がすこしずつ動き出して、自分が入口へゆるゆる移動してゆくのが、言いようなく楽しい感じであった。しばらくすると、飲み終えたらしい人影が店の入口から出て、こちらに走ってくる。もちろん第二回を飲むために、行列の後ろへ走ってくるのである。その走り方は、ふしぎなことには、そろって幾分身体を傾斜させ、びっこを引くような走り方であった。まっとうな走り方をする者は、ほとんどなかった。そしてそれは、連日の酩酊(めいてい)からくる身体の変調からでもあっただろうが、むしろ精神的な理由に起因しているように、僕には感じられた。やっと入場して、あわてて飲みほす。そして僕も木堂も入口を飛び出す。さて駈けるという段になると、僕らの走り方も自然とそんな具合になるのであった。そんな走り方をしながら、ずらずらとならんだ一列の眼を、逆にこすりあげながら、後ろの方にかけてゆく。ある複雑な表情を面にうかべながら。

 後方へ走ってゆく連中は、すべて僕と同じ表情をうかベているわけであった。それらの表情は、復雑なニュアンスを含んでいるのでうまく表現しにくいが、ふたつの相反したものがごっちゃになって、強く顔に出ているという感じであった。喜びとかなしみと、あるいは誇りと自卑と、また親近と反撥と、それらがなまのまま組合わさって、なにか惨(みじ)めな色をふくんでいるのであった。それはもちろん行列の眼を意識することから起るものにちがいなかったが、またそれを超えた個人個人の奥のものでもあった。このような時に、飲屋の常連は、もっとも常連らしい色を濃く打ちだした。

 この広い東京のなかから、夕方近くになると、こんな風に集ってくる人々は何だろう。そのひとりひとりを探れば、いずれ僕みたいに、その日その日の終了のみをたのしむ人々には違いないだろうが、さて街をあるいてみると、烈しい文句の立看板が立っていたり、防空壕がものものしく掘られていたりして、そんな脱落の表情をうかべているのは、僕ひとりのような気がするのであった。それが不安なので、僕はどうしても飲屋の行列に加わるために、あらゆる手段をつくさないわけには行かなかった。そして僕の内部で、酒への嗜好(しこう)が一種の倒錯をおこしていて、酒をのむために行列するのか、行列したから酒をのむのか、はっきりしなくなっていた。三時間も四時間も、じっと行列して待っていることが、自分に退屈であり苦痛であるのか、またそれに生甲斐を感じているのか、それもはっきり判らなかった。

 しかしそれは、フィルムの件についても、同じであった。

 

 フィルムに打ちこむ情熱という点で、僕は彼等と親近をわかっていたものの、その親近感も一皮むけば、ある嫌悪に支えられていることも否めないことであった。自分と同じ気持のものがいることは力強いことでもあったが、同時に不快なことでもあった。フィルムをやりながら、疲れてくると(三時間もつづけてやっていると、これはひどく疲れる仕事であった)僕は自分が不機嫌になってくるのが判った。そしてそれは、皆も同じらしかった。それをどんなにごまかしてゆくかが、いわば僕らの生き方のようなものであった。

 僕にはっきり判っていることは、とにかく今の時代が居心地よくないということだけであった。そういう最大公約数を皆と分ち合っていた。どうすれば居心地よくなるかということは、僕には判らなかった。またこんな状態がいつまでつづくかということも、判らなかった。僕をおびやかしているものも、遠くはるかな形のないものをのぞけば、下宿料がたまっていることとか、「東京都の教育」をほとんど手をつけていないこととか、そんなつまらないことばかりであった。こんな詰らないことが、僕に鎖のように重かった。「東京都の教育」についても、僕は再三所長から催促されていた。命令されてから、もう半年近く経(た)っていた。進行中だとか何とか、ごまかし切れないところまで来ていた。

 フィルムの部屋にあつまってくるのは、こんな僕と同じような中ぶらりんな位置にあるらしかった。執務時間中にこんなところに来るのも、どこかで無理をしていないわけはないので、勤務という点では皆うしろ暗いところがあるわけであった。だからこそ、フィルムに全情熱をかたむけ得るとも言えた。

「――課長がおれを呼んでね、今のままで一体どうする気か、つとめる気持あるのか、と聞きやがるから、おれは黙っていたんだ。だって返答できないからね」

 そんなことを、フィルムの常連のひとりが言った。三十四五にもなるのに、まだ雇いで、背の高いやせた男であった。

 「すると、君はなにかイズムを信じているんじゃないか。イズムをね。と言いやがった。なにもかも判ってるぞという顔をしやがったから、おれも困ってね。おれにも判りゃしねえんだ。仕方がないから、しばらくして、イズムといえば Masochism を信じていますと答えてやったよ。ヘんな顔をしてたよ」[やぶちゃん注:「Masochism」マゾヒズム。被虐嗜好性性欲。]

 僕らはそれで大へん笑ったりしたけれども、実は僕も所長にそんな目にあっていた。ある日、出て行こうとするのを呼びとめて、所長が僕を小使室につれて行った。どういうつもりで小使室に呼び入れたのか知らないが、くだけて話するという気勢を示したかったものと思う。そして、君の勤務状況はあまり良くないが、何か不満でもあるのか、と問いつめられて、僕は大へん困惑した。仕事がおもしろくないのだと答えれば、何故おもしろくないのかと聞くにきまっている。そうなれば僕の理解を絶したことだから、うまいこと答えが出来るわけはないのだ。だからだまっていると、所長は黒縁の眼鏡ごしに、

「君は、学生時代にだね、何か、その方の運動でもやったことはないかね」

「はあ」と僕はいきおいこんでこたえた。「運動は、バスケットボールの選手でした」

 所長はすこし呆れたような顔になって、僕を見ていたが、道理で背が高くていい体格なんだね、と言いながら、仕方なさそうに笑った。それでその日は済んだけれども、又いずれ問いつめられるにきまっている。「東京都の教育」の写真にしても、まだ四五枚しか集めていないことがわかったら、僕としても申し開きが立たない。半年近くも、只で給料貰っていることになる。そんな僕にむかって、木堂が言った。

「おれは近頃、ますますフィルムと酒の行列に生甲斐をかんじるようになったな。しゃにむにという感じがする」

 木堂はもともと背の小さなやせた男だが、近頃ますますしなびて、眼だけがキラキラ光るようになっていた。僕とほぼ同じ頃役所に入ったのだが、僕よりも出世がおそい風(ふう)であった。近頃、あまり勤務成績があがらないから、他の課に廻す、と課長からおどされて、面白くない様子であった。

 こういう木堂にしても僕にしても、生きてゆく情熱をすりかえて一点に凝集させるものを、毎日切に欲していた。それでいちばん手っとり早いのは、酩酊(めいてい)であった。ともすれば頭をもたげる心配をつぶす上にも、これは絶対に必要であった。

 

 僕らはたいてい毎夜酔っていた。資金をどうにか調達して、毎日いそいそと行列に加わった。

 五時に店が始まる。行列の前の方からざわめきが伝わってきて、もうその時は、前方の連中は店の内に入っている。そしてポツリポツリと傾いた人影が走ってくると、そろそろ列がうごき出す。ある陶酔が、すでに列全体を支配してゆくのが判る。

 僕らはおおむね、強い酒をこのんだ。酒の味をたのしみに行くのではなかったから。いち早く酩酊をよびよせるために、そして今日という日をそれで終らせるために、泡盛(あわもり)とか焼酎をとくに好んだ。皆も同じ気持であることには、店が開いて、その日の品物が日本酒であることが判ると、列をぬけて他の店に走ってゆく連中もいた位であった。そしてウィスキーも不評であった。値段にくらべて量がすくなく、酔うまでに大へんだったから。

 やがて一回目が終って、二回目の先頭がふたたび店に入るころから、行列はなんとなく華やいでくる。この長い大蛇のような人の列に、ひとわたり酒が行きわたって、昼の間の緊張をときほぐすような黄昏(たそがれ)のいろとあいまって、あの何ともいえない親しい温和な雰囲気にあふれてくる。この瞬間を、僕は何ものにもかえがたく愛した。黄昏とは、何といいものだろう。その黄昏の風物を――三河屋で見た夕月や、飯塚の柳や、堀留橋の蝙蝠(こうもり)や、カミヤバーの夕霧を、僕はいまでもなつかしく思い出す。今大急ぎであおった酒が、また列に加わっているうちに、ほのぼのと発してきて、風景は柔かくうるんでくるのだ。この時僕は始めて、自分を、人間を、深く愛していることに気がつく。それはひとつの衝動のようにやってくる。[やぶちゃん注:「飯塚」不詳。「堀留橋」江戸初期の神田川開削の際、日本橋川の神田川からの分流点より堀留橋までの区間が埋めたてられ、この付近が堀の終点となっていたことから「堀留」の名がある。明治三六(一九〇三)年に再びこの区間が開削され、日本橋川となった。現在の橋は関東大震災後の震災復興橋梁の一つ。「こおろぎ橋」の別名もあった。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 それにしても人々は、僕もふくめて、何と性急に酒をあおるのだろう。あの強い焼酎を、ほとんど二口か三口でコップを乾し(まるで飲むことの責苦から一刻も早くのがれようとするかのように)そして外にとび出して、かけ出すのである。まるで自分の身体を、カクテルセーカーにしたように、傾き揺れながら走ってゆく。ある復雑な表情をうかべながら。

 そして二回目三回目とすすむにつれて、温良な和(なご)やかさが騒然とくずれてきて、あたりはすっかり暗くなってくるのだ。酔っぱらっただみ声が、あちこちで聞え、僕らの頭のなかでも、酔いがゼンマイのように弾(はじ)け上ってくる。そうして僕らもすっかり酔っている。「東京都の教育」のこともフィルムのことも、すっかり頭から消えている。

 泥酔した木堂をかかえて、僕はしばしば僕の下宿にもどったし、また僕がかかえられて、木堂の下宿にとまりに行った。そしてそのまま眠ってしまうと、朝までは何も判らなかった。朝になって眼を開いてから、昨夜の記憶をいそがしくたどり上げるのであった。それはなにかにがにがしいものを、おびただしく含んでいた。今日という一日が、また始まるという重苦しい気分が、それにかさなるのであった。すこし開いた唐紙(からかみ)のかげから、おウシさんかおネズさんの眼玉がひとつのぞいて、

「もう七時ですよ。起きないとおくれますよ。おや、昨夜も木堂さんといっしょ?」

 そんな時、木堂は僕のわきで寝ている。血の気のない、紙のように白くなって眠っている。

「早く起きて御飯たべないと、役所に間に合いませんよ」

 毎朝そうやって眼覚めるたびに、此の部屋が僕の部屋ではないような気がするのであった。壁のいろにしても部屋の形にしても、なにかなじめなく、よそよそしい感じであった。まるで他人の部屋にとまっているような感じであった。

 そしてこんな一日を、また夢遊病者のように、役所からフィルム部屋へ、また夜は飲屋へ廻る自分の姿が、もはやありありと予想されるのであった。

 しかしそれでもいいじゃないか。僕は重い頭を支えて起き上りながら考える。とにかくまた今日を過せばいい。明日は明日でどうにかなるだろう。こんな状態がいつまでつづくのか知らないが、こういう一時期を、こんな形で生きてきたということも、それ以外に生き方が見つからなかったからだ。そいつは仕方のないことだ。

 自分の心をなだめなだめしながら、僕はやっとのことで生きていた。太平洋戦争は少しずつ負けかかっていて、僕はもうすぐ三十歳になろうとしていた。

[やぶちゃん注:終戦の年で梅崎春生は数え三十一歳であった。]

2022/02/27

萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 南の海へ行きます

 

 南の海へ行きます

 

ながい疾患のいたみも消えさり、

淺間の山の雪も消え、

みんなお客さまたちは都におかへり、

酒はせんすゐにふきあげ、

ちらちら緋鯉もおよぎそめしが、

私はひとりぽつちとなり、

なにか知らねど泣きたくなり、

せんちめんたるの夕ぐれとなり、

しくしくとものをおもへば、

仲よしの友だちうちつれきたり、

卵のごときもの、

菓子のごときもの、

林檎のごときものを捧げてまくらべにもたらせり、

ああ、けれども私はさびしく、

いまはひとりで旅に行く行く、

ながい病氣の巢からはなれて、

つばきの花咲く南の嶋へと行かねばならぬ、

つばめのやうに快活に、

とんでゆく、とんでゆく。

 

けふ利根川のほとりに來てみれば、

しだいに春のめぐみを感じ、

雪わり草のふくめるやうに、

つちはうららにもえあがり、

西も東も雪とけながれ、

めんめんとして山狹(はざま)にながれ、

光り光れる山頂(いただき)さへ、

ひろごる桑の畑をさへ、

さびしい病人の淚をさそうよ、

しみじみとおもへば、

故鄕(ふるさと)の冬空はれ、寂しくて寂しくてたえざれば、

いまはいつさいのものと別れをつげ、

あしたはれいの背廣を着、

いつもの輕い靴をはき、

まだ見も知らぬ南の海へあそばうよ、

その心もちも快活に、

みなさんたちに別れをつげ、

きさらぎなかばのかしまだち

小鳥ぴよぴよと空に鳴きつれ。

            ――二月一日――

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。大正四(一九一五)年二月号『侏儒』に発表された。「山狹(はざま)」の「狹」、「ひろごる桑の畑をさへ」の「を」、「淚をさそうよ」「さそう」、「たえざれば」「たえ」(「堪へ」であるから誤り)はママ。最後から二行目の「きさらぎなかばのかしまだち」に読点がないのは、誤記か誤植であろう。

・「かしまだち」「鹿島立ち」は単に「旅行に出発すること・旅立ち・門出」の意。本邦の伝承に於いて、鹿島と香取の二神が国土を平定した故事からとも、また、防人(さきもり)や士が旅立つ際、道中の無事を鹿島神宮に祈願したところからとも言う非常に古い古語である。

 なお、本篇には萩原朔太郎の年譜的事実に照らした時、不審がある。本詩の中で、朔太郎は「淺間の山の雪も消え」ているのを遠く臨み、「けふ利根川のほとりに來てみ」たりしているので、前橋らしき場所にいるのであるが、しかし、「ああ、けれども私はさびしく、/いまはひとりで旅に行く行く、/ながい病氣の巢からはなれて、/つばきの花咲く南の島へと行かねばならぬ、/つばめのやうに快活に、/とんでゆく、とんでゆく。」と詠じている。「つばきの花咲く南の島」とは、当然、大島と考えてよい。この詩は大正四(一九一五)年二月号『侏儒』に発表されたもので、詩篇末尾には『――二月一日――』というが記されてあるのである。

 ところが、この詩の発表及び最終クレジットによって調べてみても、大正四年はおろか、それ以前にも、大島に行ったという記事は年譜には、ない、のである。彼が大島に行ったことが、年譜上、確認出来るのは、ずっと晩年の満四十九の折りの昭和一一(一九三六)年一月十一日の条に、『丸山薰と伊豆大島に行く』とあって、『丸山薰が案内役となって、十一日夜、橘丸(千七百トン)で靈岸島を出航。途中下田に寄港、同地を見物。十二日夕刻、大島着。波浮港の「湊屋旅館」に一泊。宿近くの店でアンコ娘の大島節をきき』、『酒を酌む。十三日、藤倉學園』(現在もある障害者支援施設)『を見學して歸京』とあった後に、『この折の紀行文「大島行」で「僕は昔、十年程前、一度大島へ行つたことがある」と記しており、「春の旅」にも、以前に一人で大島に行ったことが書かれてある』と注記があるのであるが、以上で述べた通り、この昭和十一年より前の年譜には、大島に行ったという記載は、どこにも、全く、ないのである。

 無論、「彼がこの詩篇を書いた時はそのつもりだったが、結局、大島に行かなかっただけじゃないの?」という御仁もあろう。しかし、その「大島行」というエッセイの「十年程前」というのは、一九二五年前後で、大正末頃のとなり、時間概念が萩原朔太郎によく見られる非一般的感覚時制であるなら、ぎりぎり十九年前でも「アリ」かも知れぬ。何より「春の旅」で「一人で大島に行つた」とあるのは、「南の海に行きます」の「私はさびしく、」「いまはひとりで旅に行く」、「つばきの花咲く南の島へと行かねばならぬ」という謂いと、これ、よく共鳴するのである。

 年譜頼みは私の本意でないので、このためだけに、先ほど、ブログで「大島行」と「春の旅」を電子化しておいたので、読まれたい。

 さて、底本全集の『草稿詩篇「拾遺詩篇」』に以下の無題の本篇草稿が載る。『(原稿一種二枚)』とあるので、これだけである。歴史的仮名遣の誤り誤字等は総てママ。添書の「侏儒(こびと)」は発表された同人雑誌名。この前年大正三(一九一四)年八月に前橋の「侏儒社」から発行されるも、この大正四年に終刊した詩歌雑誌で、誌名は朔太郎の命名。朔太郎の下に集った若い歌人たちが中心となって刊行されたもので、朔太郎は指導者的立場にあったとされる。同人は北原放二・木下謙吉・金井津根吉・河原侃二・梅沢英之助・奈良宇太治・倉田健次らで、他に北原白秋・室生犀星・山村暮鳥・前田夕暮・尾山篤二郎らも作品を発表しており、群馬の近代詩歌史に於いて先駆的役割を果たした。編集発行人は梅沢英之助(以上は「前橋文学館」のブログの『2017年12月26日 「ヒツクリコ ガツクリコ」展のもとになった詩』の記事に拠った)。

   *

 

  

     ――侏儒の諸君に――

 

私は旅に出て行く

私の病氣ながい疾患のいたみも消えさり

このごろ淺間の雪も消え

みんなお客さまたちは都にかへり

酒はせんすゐにふきあげ

私はぼつちとなり

なにかしらねど哀しくなり

せんちめんたるの夕ぐれ方となり

しくしとと物思へば

友の□□□ お友だちに林檎をもた□

さくさくと

ほんの見舞のおしるしにとて

哀しい都かへりのお友だちは林檎をもつてきてくれた、 くれた ました、もたらせり

ああけれども私は旅に出てゆく

ながい病氣の巢からはなれて

あつたかい南の方の海へゆく

つばめのやうに快活に

とんでゆくぞえとんでゆくぞえ

けふ利根川のほとりに來てみれば

したいに春のけしき→芽生めぐみを感じ

雪ふりぐさのふくめるやうに

つちはうららにもえあがり

西も東も雪どけながれ

榛名北原

しんしんめんめんとして山峽になかれ

光り光れるいたゝぎにさヘ

また桑の畑さヘ

哀しい やつれたさびしい病人の涙をさそうよ

なにがなし ああかく□□りしもああ故鄕の冬がさびしく りたればてたえざれば

いまはいつさいのものがあぢきなくと別れをつげ

私はれいの背廣をき

れいの帽子いつもの靴をはき

遠い遠いまだ見も知らぬ南の海へ行かうよあそばうよ

その心もちも快活に

□□ 二月(きさらぎ)はじめの 旅に→□の→かしまだちを 旅立ち

みなさん送つて

みなさんに別れをつげて

二月中旬のはやかしまだち

小鳥ちらちらぴよぴよと空に鳴★きそめ//くころ★。

[やぶちゃん注:「★」「//」は私が附したもので、「きそめ」と「くころ」が「鳴」の後に並置残存していることを示す。]

 

   *

後に注があり、『二行目上方欄外に、「三疋の魚」と書き、抹消されている。』とある。

 さて、この草稿のお蔭で、もし、事実、萩原朔太郎が椿の咲く大島に向かったとすれば、その

――出立予定は大正四(一九一五)年二月中旬――

であったと推定出来る。そこで年譜を見てみると、大正四年一月は、九日に北原白秋が前橋に彼を訪ねて来て、萩原家に滞在し、同月十三日には白秋を追って、歌人で国文学者でもあった尾山篤二郎もやって来て、二人は一月十五日に帰京したが、その日の晩から、『朔太郎は発熱し、二月初めまで病臥』とあった後、二月の記事は『下旬から三月一日にかけて上京。その間に白秋を』『一日のうちに二度三度と』『訪ね』たらしく、『また』、『この間に小田原で何一かを過ごしている』とあり、また、この上京中、朔太郎は『洋酒に醉って電信柱の登りっこの眞似をしたりした。』とあるからには、二月中旬には、すっかり元気になっていたと考えるべきで、そこに何らの生活事項の記載が欠落しているのはかえって目に留まるのである。

 二月初旬に発熱(知恵熱か?)から回復した朔太郎が、この時、突然、大島に独りで旅したとしても、これ、何ら不思議はないのである。]

萩原朔太郎が大島へ以前に一度行ったことがあると証言している随筆二篇「大島行」及び「春の旅」の電子化

 

[やぶちゃん注:本電子化の経緯及び萩原朔太郎の現在までに確認されている大島への旅については、私の記事「萩原朔太郎が大島に二度行っている事実を迂遠に検証することとする」を参照されたい。

 前者の「大島行」は昭和一一(一九三六)年四月号『モダン日本』に発表されたもので、後者の「春の旅」は、晩年、国粋主義者として批判される一因となった昭和一三(一九三九)年三月白水社刊の萩原朔太郎の随筆集「日本への囘歸」に収録されたもので、初出誌は未詳である。両者は作品としては別々なものであるので、間に「*」を入れて分けた。

 底本は筑摩版全集(前者・第十一巻/後者・第十巻)の校訂本文を用いた(後者には集編者によって修正が加えられているが、「校異」を見る限り、概ね穏当と判断した。但し、後者の川田順の短歌の「大島」は出典原本の「大嶋」に訂した。詩の場合とエッセイでは、自ずと私自身の側に有意な温度差があり、あまり拘る気はない)。

 太字は底本では傍点「ヽ」。急遽、行うことにしたので、注は附さない。]

 

  大島行

 

 汽船會社から往復切符をもらつたので、大島へ行きませんかといふ案内を、詩人の丸山薰君から受けた。僕は昔、十年程前、一度大島へ行つたことがある。その時は三百噸位の小さな船で、途中ひどいシケを喰ひ、海水びたしの船室を轉がり𢌞つて、死ぬやうなひどい目に逢はされた。しかし今では、千何百噸からある豪華の船が、堂々として出帆するといふのであるから、海ぎらひの僕も安心して行くことにした。

 靈岸島を出帆したのは、夜の十時であつた。汽船發着所の待合室で、丸山君を待つてゐる間、僕は旅客の風采を觀察して、色々なことを考へて居た。一月下旬の寒い季節に、大島あたりへ旅行するのは、大體どういふ種類の人たちだらう。暗い煤ぼけた電氣の下で、旅客たちは獸のやうに寄りかたまつて居た。皆黑つぽい着物を着て、憂鬱に悲しげな顏をして居た。モヂリ外套を着た男、絆纏を着た男、荷物を抱えた女、蜜柑を食つてる子供。すべてその生活の背後に人生の疲勞した濃い影を、意味深く感じさせるやうな人たちだつた。中に混つて、二三人の洋服を着たモダンガールが、若い學生風の男と連れ立つて居た。しかし汽船發着所の電氣の下では、彼等もまた暗い移民風景の一員だつた。一人の若い娘が、入口に立つて長いこと人を待つてた。多分約束した男を待つのだらう。その入口の扉(ドア)は、潮風に吹かれてガタガタと寂しく鳴つてた。

 船は千七百噸の橘丸であつた。流線型の新造船で、設備も中々完全して居た。ホテル同樣な貨切室もあり、浴場もあり、食堂もあつた。しかし船室の廣間には、荷物を抱へたおかみさんや、銀杏返しに結つた娘たちが、賣られて行く女のやうに、メランコリツクな寂しい顏をして、隅の方に不安らしく寢轉つて居た。若い男とモダンガールは、船室のどこにも姿を見せなかつた。ベツドのある貸切室の中に入つてしまつたのである。

 ふと西洋人の一組が這入つて來た。何か快活にしやべりながら、ボーイを對手に談判して居る。それで船の中の氣分が、すつかり明るく一變した。西洋人といふ人種は、不思議に船の空氣や構造と調和する。汽船なんてものは、彼等にとつて常住の家のやうなものであり、すべての洋風の設備が、日常生活の延長であるからだらう。之れに反して日本人は、皆が借りて來た猫のやうに、船の中では不調和におどおどして小さくなつてる。すべての乘客が、移民のやうに見えるのはその爲である。

 途中下田に寄つて見物し、夕刻大島へ前いた。丸山君の發議で波浮へ宿ることにした。元村から波浮まで、雨の中を自動車で走つた。椿は殆んど凋(しを)れて居たが、海の色と赤松とは、目ざめるやうに靑々して居た。途中で若い島の娘、卽ち所謂アンコが同乘した。昔僕の行つた時は、彼女等は皆紺飛白の木綿物を着、頭に手拭を卷いて居たが、今では派手な絹物を着、頭の布も贅澤で、美術的な刺繡などしてゐるのに驚いた。「島もすつかり變りましたよ。娘が一番先に變るでなア。」と、同乘の翁(ぢい)さんがつくづく嘆息して、過去十數年來の變轉を語つてくれた。しかし島の娘は、流石に健康で生々とし、野獸の美しい仔を思はすやうな、エネルギツシユの魅力に充ち溢れて居た。「此頃ぢや旦那。東京の好いお客が來て、きれいなアンコを皆連れて行くでな。アンコは東京へ出たがつてるし、島ぢや若い兄さんたらが、可憫(かは)いさうに皆獨身者さね。」と、輕口な翁(ぢい)さんがしやべることにも、笑談ではない哀愁が感じられた。

 雨の中の渡しを呼んで、港屋といふ旅館へついた。宿の二階から見た波浮の港は、どこかエキゾチツクで小長崎といふ感じがする。飮食店ばかりの小さな町も、石段があつたり路地があつたりして、南國情緖が濃厚である。

 

 

   *   *   *

 

 

  春の旅

 

 旅行のシーズンと言ふと、人はすぐ春と秋とを言ふ。春秋の二季が、旅行の好季節であることは言ふ迄もないが、冬の旅行もまた仲々好いものである。特に早春、漸く梅の花がほころびる頃、厚い外套の中にウイスキイの瓶など入れて旅行するのは、とりわけ樂しいものである。(一年の中で、僕は夏といふ季節がいちばん嫌ひである。夏の暑い時の旅行は、考へるだけでも苦しく、絕對に閉口である。)

 よほど前の事であるが、自動車で天城を越えて、伊豆の湯ケ島溫泉へ行つたことがある。東京はまだ冬の嚴寒の眞中であつたが、伊豆には既に春が來て、天城の山の谷間には、麗らかな陽ざしが流れ、所々に山櫻が咲いて居た。僕は櫻といふ花を、それまで都會でしか見たことがなかつた。都會で見る櫻といふ花は、妙に白つぽけて薄汚く、群集の雜閙の中で埃にまみれ咲いてゐるところの、不快な病的の印象をあたへるので、僕の大嫌ひの花であつたが、天城の山中で見た山櫻は、僕の櫻に關する先入見を、すつかり一變させたほど美しく優雅であつた。「久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ」なんて歌の情趣もその時初めて納得された。都會の櫻を見て居ては、到底こんな詩想は浮べられない。

 湯ケ島の旅館で、窓から見た前庭の石楠花も忘られない。その部屋は母屋から獨立して奧深く小ぢんまりとした六疊だつたが、若山牧水が久しく滯留してゐた部屋だと言ふ。その部屋の窓から、前庭の花を見て、旅泊の侘しさを慰めてゐた牧水のことを考へ、僕もふしぎな旅の侘しさを惑じた。一體、旅館の中庭に咲いてる花といふものは、石楠花に限らず、すべて妙に物なつかしく、印象的で、旅の侘しさを感じさせるものである。先年、關西の田舍に旅行して、或る貧しい村の汚ない旅館に宿泊したが、その農家風の家の中庭に赤々と咲いてる鷄頭の花を見て、言ひ知れず侘しい旅愁を深く感じた。

 これも可成り昔であるが、一人で大島へ行つたことがある。その頃は今とちがつて、三百噸位の小船しか往復しなかつた。丁度海が荒れる頃だつたので、途中でひどいシケを食つてしまつた。川蒸氣の大型位しかない小さな船が、山のやうな浪の中を、天に登つたり地にもぐつたりした。それでも上陸した時は天氣になつた。椿の花が到る所に咲き亂れて居た。山の蔭で牛が鳴いて居た。三原山は、その頃まだ今のやうに有名でなく、登山者もない島の眞晝に、長閑な煙を空に噴いてゐた。紺飛白の筒袖をきて、頭に布を卷いた島の若い娘たちは、僕の洋服姿を珍らしがつて、行き逢ふ每に丁寧に挨拶をした。多分、東京から出張した技師か役人かとでも思つたのだらう。その時分には、畫家か病人でもなければ、大島へ行く人が無かつたから。

 最近また、詩人の丸山薰君と二人で大島へ行き、變化のあまり烈しいのに驚いた。交通が便利になり、船も申し分なく立派になつた。そして島そのものが、都人の遊園地のやうになつてしまつた。娘たちの風俗だけは、外見上に昔の形を殘してゐるが、木綿の紺飛白は華美な絹の着物になり、頭に卷いてる布には、派手な美しい模樣が描いてある。島の娘全體が、今では旅行者のガイドになり、サーヴイスガールになつてゐるのだ。垢じみた田舍臭い娘を見るより、この方がずつと目に美しく、僕等の旅行者に樂しく感じられるのは事實である。しかし一方で、昔の純朴さと島のローカル・カラーを失ひ、全國一律の都會的公式化したのは寂しいことだ。

 子供の時、よく祖父に連れられて梅見に行つた。祖父は梅が好きで、わざわざその爲に水戸の公園まで連れて行つてくれたこともある。早春の旅行に出て、梅を見るのは實に樂しく好いものである。

 

  松嶋の春に我が來て見しものは臨濟の寺の二株の梅

 

 これは現壇の俊才、川田順氏の歌であるが、早春の旅の侘しい思ひが、寺の庭に散らばふ梅の木影や、力のない空の日光やと融け合つて、しみじみとした旅愁を感じさせる。この歌をよんで、僕も一度、梅の咲く頃に松島へ旅行してみたくなつた。

 

萩原朔太郎が大島に二度行っている事実を迂遠に検証することとする

 次の『萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版」は「南の海に行きます」なのだが、その詩の中で、朔太郎は淺間の山の雪も消え」ているのを遠く臨み、「けふ利根川のほとりに來てみ」たりしているので、前橋らしき場所にいるのであるが、しかし、「ああ、けれども私はさびしく、/いまはひとりで旅に行く行く、/ながい病氣の巢からはなれて、/つばきの花咲く南の島へと行かねばならぬ、/つばめのやうに快活に、/とんでゆく、とんでゆく。」と詠じている。「つばきの花咲く南の島」とは、当然、大島と考えてよい。この詩は大正四(一九一五)年二月号『侏儒』に発表されたもので、詩篇末尾には『――二月一日――』というクレジットが記されてあるのである。

 ところが、大正四年はおろか、それ以前にも、大島に行ったという記事は年譜には、ない。彼が大島に行ったことが、年譜上で確認出来るのは、ずっと後の、晩年の満四十九の昭和一一(一九三六)年一月十一日の条に、『丸山薰と伊豆大島に行く』とあって、『丸山薰が案内役となって、十一日夜、橘丸(千七百トン)で靈岸島を出航。途中下田に寄港、同地を見物。十二日夕刻、大島着。波浮港の「湊屋旅館」に一泊。宿近くの店でアンコ娘の大島節をきき』、『酒を酌む。十三日、藤倉學園』(現在もある障害者支援施設)『を見學して歸京』とあった後に、『この折の紀行文「大島行」で「僕は昔、十年程前、一度大島へ行つたことがある」と記しており、「春の旅」にも、以前に一人で大島に行ったことが書かれてある』と注記があるのであるが、以上で述べた通り、この昭和十一年より前の年譜には、その記載は全くないのである。

 彼がこの詩篇を書いた時――そのつもりだったが、結局、大島に行かなかった――という可能性もあろう。その「大島行」というエッセイの「十年程前」というのは、一九二五年前後で、大正末頃のとなり、時間概念が萩原朔太郎によく見られる非一般的感覚時制であるなら、ぎりぎり十九年前でも「アリ」かも知れぬ。何より「春の旅」で「一人で大島に行つた」とあるのは、「南の海に行きます」の「私はさびしく、」「いまはひとりで旅に行く」、「つばきの花咲く南の島へと行かねばならぬ」という謂いとよく共鳴するのである。

 年譜頼みは、私の本意でない。

 いっそ、その二篇にエッセイを電子化して示すに若くはない。ネット上には電子化したものはないようだから、これも何時か誰かの役にも立つやも知れぬ。これより取り掛かることとする。

『萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版』の「山頂」について

 

萩原朔太郞「拾遺詩篇」の初出形・正規表現版は底本全集の順序では、「山頂」となるが、これらは既に『萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第一(「愛憐詩篇」時代)」 山頂』の注で電子化注しているので、そちらを読まれたい。

萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 岩淸水

 

 岩淸水

 

いろ靑ざめて谷間をはしり、

夕ぐれかけてただひとり、

岩をよぢのぼれるの手は鋼鐵(はがね)なり、

ときすべて液體空氣の觸覺に、

山山は茜(あかね)さし、

遠樹(とき)に光る、

わが偏狂の銀の魚、

したたるいたみ、

谷間を走りひたばしる、

わが哀傷の岩淸水、

そのうすやみのつめたさに、

やぶるるごとく齒をぬらす、

やぶるるごとく齒をぬらす。

 

[やぶちゃん注:大正四(一九一五)年一月刊の『銀磬』に発表された。「遠樹(とき)」はママ。]

『萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版』の「玩具箱」・「冬を待つひと」・「疾患光路」・「合唄」について

 

萩原朔太郞「拾遺詩篇」の初出形・正規表現版は底本全集の順序では、以下の、

「玩具箱」

「冬を待つひと」

「疾患光路」

「合唄」(初出の表記。筑摩版全集校訂本文の標題は「合唱」。)

三篇となるが、これらは既に先に以上のリンク先の記事内で電子化注しているので、そちらを読まれたい。

『萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版』の以下の十三篇について

 

萩原朔太郞「拾遺詩篇」の初出形・正規表現版は底本全集の順序では、以下の(漢字表記は総て初出表示に合わせてある)、

「和讃類纂」

「情慾」

「月蝕皆既」

「磨かれたる金屬の手」

「靑いゆき」

「蒼天」

「靈智」

「秘佛」

「永日和讃」

「ぎたる彈くひと」

「巡禮紀行」

「螢狩」(私が古くから拘った詩篇であるため、草稿類は注内のリンクで別記事としてあるので、そちらも見られたい。)

「孝子實傳――室生犀星に――」(これは相当に念を入れて電子化注したものであるが、先ほど見たら、唯一、底本の『草稿詩篇「拾遺詩篇」』に載る草稿一種を落していた。これより直ちに追加する。【本日8:32】追加を終了した。)

十三篇が続くが、これらは既に先に以上のリンク先の記事内で電子化注しているので、そちらを読まれたい。

萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 感傷品・眞如

 

 

 感傷品

 

ほつねんなれば

魚にとへ

しんじつなれば

耶蘇にとへ

 

 

 眞如

 

金のみ佛

金の足

一列流涕なしたまふ

光る白日(まひる)のうなべりに

とをのおゆびを血はながれ

いたみてほそき瀧ながれ

したゝるものは血のしづく

われの戀魚の血のしづく

光る眞如のうなべりに

金のみ佛

金の足

一列流涕なしたまふ

 

[やぶちゃん注:孰れも独立した詩篇であるが、詩想に強き共時性と親和性があり、しかも二篇並べて大正三(一九一四)年十月号『風景』に発表しているので、特にセットで電子化した。

「感傷品」あたかも仏典の中に「かんしやうぼん」なる経典があるように読めるが、私は知らない。ネット検索でもかかってこない。朔太郎の仮想のそれであろう。

 なお、底本に草稿指示はない。]

『萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版』の以下の「純銀の賽」・「鑛夫の歌」・「厩」三篇について

 

萩原朔太郞「拾遺詩篇」の初出形・正規表現版は底本全集の順序では、以下の、

「純銀の賽」

「鑛夫の歌」

「厩」

の三篇が続くが、これらは既に先に以上のリンク先の記事内で電子化注しているので、そちらを読まれたい。

萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 光る風景

 

 光る風景

 

靑ざめしわれの淫樂われの肉、

感傷の指の銀のするどさよ、

それ、ひるも偏狂の谷に淚をながし、

よるは裸形に螢を點じ、

しきりに哀しみいたみて、

おみなをさいなみきづつくのわれ、

ああ、われの肉われをして、

かくもかくも炎天にいぢらしく泳がしむるの日。

みよ空にまぼろしの島うかびて、

樹木いつさいに峯にかゞやき、

憂愁の瀑ながれもやまず、

われけふのおとろへし手を伸べ、

しきりに齒がみをなし、

光る無禮(ぶらい)の風景をにくむ。

ああ汝の肖像、

われらおよばぬ至上にあり、

金屬の中にそが性の秘密はかくさる、

よしわれ祈らば、

よしやきみを殺さんとても、

つねにねがはくば、

われが樂慾の墓塲をうかがふなかれ、

手はましろき死體にのび、

光る風景のそがひにかくる。

ああ、われのみの、

われのみの聖なる遊戯、

知るひととてもありやなしや、

怒れば足深空に跳り、

その靴もきらめききらめき、

淚のみくちなはのごとく地をはしる。

 

[やぶちゃん注:大正三(一九一四)年十月号『詩歌』に発表された。「おみな」「きづつく」はママ。底本には草稿指示はない。]

2022/02/26

狗張子卷之五 今川氏眞沒落 附三浦右衞門最後

 

[やぶちゃん注:挿絵は今回は、一枚目の二幅の細部がよく判る底本(昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編「同全集第一期「江戶文藝之部」第十巻の「怪談名作集」)のものをトリミング補正して、適切と思われる箇所に挿入した。最初のものは、二枚の幅が傾いているので、合成したが、後者はそのままとした。]


  ○今川氏眞沒落 附《つけたり》三浦右衞門最後

 駿河國今川義元は、織田信長公に討れ、その子息氏眞(うぢざね)、その跡をつぎ、國を守りて恙(つゝが)なかりし所に、永祿の初年より、家風、ことの外におとろへ、武道の事はすたれて、風流の奢(おごり)をきはめ、武藤新三郞(むとうしんざぶろう)とて、白面(はくめん)の佞幸(でいかう)あり、氏眞、限りなく愛(めで)まどひて、日夜、席を同して、酒宴・遊興に月をわたり、亂舞・淫樂に年を送り、和歌の道、鞠のたはぶれに、いとまなし。

[やぶちゃん注:「氏眞」今川氏第十二代当主今川氏真(天文七(一五三八)年~慶長一九(一六一五)年)。当該ウィキ(非常に詳しい)によれば、父『今川義元が桶狭間の戦いで織田信長によって討たれ、その後、今川家の当主を継ぐが』、『武田信玄と徳川家康による駿河侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。その後は同盟者でもあり』、『妻の早川殿の実家である後北条氏を頼り、最終的には』「桶狭間の戦い」で『今川家を離反した徳川家康と和議を結んで臣従し』、『庇護を受けることになった。氏真以後の今川家の子孫は徳川家に高家待遇で迎えられ、江戸幕府で代々の将軍に仕えて存続した』とある。

「永祿」一五五八年から一五七〇年までの十三年足らず。永禄三(一五六〇)年五月十九日、尾張に侵攻した父義元が「桶狭間の戦い」で織田信長に討たれたため、氏真は今川家の領国を継承することとなったが、続く永禄年間、氏真は相次ぐ離反に遭った。当該ウィキ(非常に詳しい)によれば、永禄一二(一五六九)年五月十七日、『氏真は家臣の助命と引き換えに掛川城を開城した。この時』、氏真と、徳川家康及び北条『氏康の間で、武田勢力を駿河から追い払った後は、氏真を再び駿河の国主とするという盟約が成立』している。『しかし、この盟約は結果的に履行されることはなく、氏真及びその子孫が領主の座に戻らなかったことから、一般的には、この掛川城の開城を以』って、『戦国大名としての今川氏の滅亡(統治権の喪失)と解釈されている』とある。

「武藤新三郞」三浦真明(さねあき ?~永禄一一(一五六八)年)。当該ウィキによれば、『今川氏の家臣。大原資良』(すけよし)『の子で駿河三浦氏の傍流の』一『つに養子に入ったとみられる』。『通称は右衛門大夫』。『軍記物などでは』、「右衛門佐義鎮(よししげ)」の『名で登場するが、後になって実名入りの発給文書が発見されて』、『一旦は実名は「直明」とされた』ものの、『その後』、『「真明」の誤写・誤読とする意見が出され、現在では真明が実名であったと考えられている(「真」は今川氏真からの偏諱とみられている)』。「桶狭間の戦い」『以降、今川氏真の側近として急速に台頭する。初期には父である大原資良(三河国吉田城城将)と共に松平元康(徳川家康)ら三河における反今川の動きに対する対応を行っていた』。永禄五(一五六二)年に『今川氏真が三河に出陣した際には牧野氏を従えて参戦している。その後も氏真側近として訴訟の披露などを行っている』。永禄一一(一五六九)年、『武田信玄の駿河侵攻に際しては、父と共に駿河国花沢城にて抵抗していたが、遠江国高天神城に逃れた後』、『徳川家康と内応した小笠原氏助に父と共に殺された』(「松平記」)とされ、「甲陽軍鑑」でも『今川氏から離反しようとしたため』、『高天神城にて殺害されたと伝えられている。父の大原資良に関しては』、『その後も存命したとする説もあるが、真明の死亡した場所(高天神城)が諸書で一致し、かつ妻の死も同日に死去したと伝えられていることから、真明が妻と共に殺害されたのは事実とみられる。なお、小笠原氏助は後に龍巣院(静岡県袋井市)へ真明夫妻のために寄進を行っているため、氏助がその死に関わっていた可能性も高い』。「松平記」・「甲陽軍鑑」等の『軍記物では、今川氏真を誑かして』、『多くの重臣を讒言し』たとし、『その結果として』、『武田・徳川の侵攻の際』、『多くの重臣が今川氏を裏切ったと伝えられているが』、『事実関係は不明である。ただし、大原資良が他国出身でありながら今川氏に重用された経緯があり、次の世代にあたる真明は筆頭重臣格の三浦氏の傍流を継いで、今川氏の重臣と同様の役割を担ったことが』、『今川家中において反発された可能性はある』とある。本篇では、彼の年齢をかなり若く設定して、氏真の若衆道の相手のような雰囲気を漂わせてある。

「白面」色白の顔で、多くは「若い男」に言う語。

「佞幸」通常は「ねいかう(ねいこう)」と読むが、「ネイ」は慣用音で本来は「デイ」である。諂(へつら)って相手の気に入られること。また、その人。追従(ついしょう)者。]

 新三郞、漸く成長しければ、三浦右衞門佐(すけ)になされ、又、茶湯(ちやのゆ)の會をくはだて、風顚山居(ふうてんさんきよ)の幽景をしたひ、路次(ろじ)がかり、築山(つきやま)のありさま、泉水の遣水(やりみづ)、うゑ木の枝つきまで、

「かゝりあれ。」

と作りなし、三浦が心にかなふをもつて、よろこびとし、和泉の境に聞えし紹鷗(せうおう)がもちたる高麗茶碗(かうらいちゃわん)を、三千貫に買とり、連歌の名匠宗祇(そうぎ)のひざうせし白鳧(はくふ)の香爐を五千貫を出してうけ求め、その外、夢窻(むさう)國師の天龍寺の靑磁の花入(はないれ)、忍性(にんしやう)上人の鎌倉の柹色(かきいろ)の眞壺(まつぼ)、あるひは茄子(なす)の肩衝(かたつき)、綠葉(りようくえう)の香合(かうばこ)、又は香匙(きやじ)・火筋(こじ)・卓机(しよくつくゑ)にいたるまで、「唐(から)の」「日本(やまと)の名物」とだにいへば、財寶を惜しまず、買ひもとめ、綾錦(あやにしき)を裁縫(たちぬ)ふて袋とし、沈檀(ちんだん)玳瑁(たいまい)を、けづり瑩(みが)きて、室(いへ)とす。

 そのつひゆる所、いく千萬とも限りなし。

[やぶちゃん注:「風顚山居の幽景」市井の日常から遠く隔たった風流三昧の山中の幽邃な感じの屋敷や庭作りをすること。陶淵明の「飮酒」其の五の有名な冒頭、「結廬在人境 而無車馬喧 問君何能爾 心遠地自偏」(廬を結んで人境に在り 而も車馬の喧(かまびす)しき無し 君問ふ何ぞ能く爾(しか)るやと 心遠ければ地自(おのづか)ら偏(へん)なり)で、京や堺の商人が茶の湯を嗜む際、「市中の山居」という心を大切にしたとも言う。市中の喧騒の真っ只中に居ながら、数寄屋造の茶室を緑蔭に組み、隠遁の閑居を示現させることである。

「路次(ろじ)がかり」ここは茶室へと辿る外界と遮断された風雅に満ちた庭の様子やその造りを指す。

「かゝりあれ。」ここは「そうした幽邃を現前化するために『かくあれかし』と望む」仕方に庭や茶室・屋敷を造作することを指している。

「紹鷗」武野紹鷗(たけのじょうおう 文亀二(一五〇二)年~弘治元(一五五五)年)は室町末期の茶人。通称は新五郎、号を一閑居士。紹鷗は法名。侘茶の開祖村田珠光の茶風を仰ぎ、茶の湯の簡素化・草体化をさらに進め、多くの門弟を得て、珠光の茶の湯を広めた。その中には、後に侘茶の大成者とも茶聖とも謳われた千利休がいる。紹鷗の伝歴は必ずしも明細でないが、若狭の守護大名武田氏の一族で、祖父仲清は「応仁の乱」で戦死し、父信久は諸国流浪の果てに泉州堺に住みつき、姓を武野に改めたという。

「白鳧」白い水鳥を指す語。香炉の肌に白鶺鴒(ハクセキレイ)のように見える模様が入っていたものか。

「夢窻國師」鎌倉末から南北朝・室町初期にかけての臨済宗の禅僧にして作庭家としても知られた夢窓疎石(建治元(一二七五)年~正平六/観応二(一三五一)年)。伊勢出身。

「忍性上人」(建保五(一二一七)年~乾元二(一三〇三)年)は鎌倉時代の真言律宗の名僧。「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 極樂寺」の私の注を参照されたい。

「眞壺」大型の舶来の茶壺。ウィキの「茶壺」によれば、『石臼で擂りつぶす前の抹茶、すなわち碾茶(葉茶)を保管するために用いられる陶器製の壺(葉茶壺)である。古くは抹茶を入れる茶入を「小壺」と呼んだことに対して大壺とも称された』。『現在でこそ飾り気の無い地味な陶器のように思われるが、中世の日本ではこのような釉薬のかかった壺は輸入に頼らざるを得なかった。その中で、形や作行の優れたものが尊ばれていたのだろう。特にフィリピンのルソン経由でもたらされたものを』「呂宋(るそん)」と『呼んでおり』、茶壺の『中でも重要視されている。さらに呂宋壺の中で文字や紋様のないものが真壺(まつぼ)となる。なお』、『茶道具の中ではこの呂宋壺は「島物」に分類される』。『こうした立派な壺は鑑賞の対象であり、室町時代には茶道具の中で最も重要視されていた』とある。

「茄子の肩衝」茶入れの形の一つ。肩の部分が張っているもの。肩衝茶入れ。茄子の実に似ていることから、かく呼称した。

「綠葉の香合」緑の葉をあしらった香を収納する蓋附きの小さな容器。茶道具の一種。

「香匙」現代仮名遣「きょうじ」。「かうさじ」「かうすくひ」とも。香道具の一つ。香を掬い取る匙。

「火筋」香道の際に使用する、木製の柄のついた金属製の火箸。香を香盤についだり、灰を搔き混ぜたり、炭団(たどん)を摑むのに用いる。

「卓机」「ショク」は唐宋音。本来は、仏前に置いて香・花・灯・燭などを供える机であるが、茶の湯や香道にも用いられた。

「沈檀」沈香(じんこう:「伽婢子卷之八 長鬚國」の私の同注を参照されたい)と白檀(びゃくだん。ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum albumウィキの「ビャクダン」を参照されたい。)。

「玳瑁」ウミガメのタイマイ。私の『毛利梅園「梅園介譜」 龜鼈類  瑇瑁(タイマイ) / タイマイ(附・付着せるサラフジツボ?)』を参照。

「室」江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(四)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)に、『小さい道具をいれておく箱のこと。茶道では茶人の器類の容器。』とあった。]

 天より降(ふる)にもあらず、地より湧くにもあらず、土民百姓をむさぼり、賦斂(ふれん)おもく、課役(くわやく)しげく、責めとり、虐(はたり)取《とり》て、積みあつめ、これを、ちらしつかふ事、砂をまくがごとし。

 譜代忠功の侍といへども、少しの科(とが)あれば、所領をおさへ、職を追ひあげ、家中《かちゆう》の制道、内外(うちと)のことは、みな、これ、三浦がはからひにてありしかば、權威、高くかゝやき、上下、飽きはてゝ、大かた、もてあつかうてぞ、おぼえける。

[やぶちゃん注:「もてあつかうて」「持て扱うて」。「もて余す」の意。]

 

Miura111

 

 三浦が申す旨に依(より)て、武田信玄のためには、氏眞は、まさしき甥《をひ》ながら、中《なか》、あしくなり、今川の老臣朝比奈兵衞大夫と、三浦右衞門佐(すけ)と、心よからず、諸侍(しょし)、みな、三浦をにくみ、うとみけるほどに、武田がた、此有さまを見すかし、永祿十年十二月六日、武田信玄三萬五千餘騎にて、駿府(すんぷ)に、をしよせける。

[やぶちゃん注:「甥」今川氏真の母である今川義元の正室定恵院(じょうけいいん 永正一六(一五一九)年~天文一九(一五五〇)年)は武田信虎の長女で、武田信玄の姉に当たる。

「朝比奈兵衞大夫」朝比奈信置(享禄元(一五二八)年~天正一〇(一五八二)年)。この当時は、まだ今川氏家臣であったが、以下に見る通り、直後の信玄の駿河侵攻に際し、武田方に寝返った。]

 氏眞、聞きつけて、庵原左馬頭(いはらさまのかみ)を先手(さきて)として、岡部・小倉《おぐら》七千餘騎、氏眞は二萬五千を率(そつ)して出向はれしに、朝比奈、心替りして、引入れしかば、諸陣、何とはしらず、引きはらひて、駿府に歸る。

[やぶちゃん注:「庵原左馬頭」庵原忠胤(いはらただたね 生没年未詳)は今川氏の家臣。駿河国庵原城主。

「岡部」岡部直規(?~天正三(一五七五)年)。改姓して土屋、名は貞綱とも。今川氏家臣から甲斐武田氏の家臣に降った。水軍を率いた海賊衆として知られる。「長篠の戦い」で討死した。

「小倉」小倉勝久(生没年未詳)。今川氏家臣で三浦とともに権勢を揮った人物らしい。]

 氏眞の旗本、色を失なひ、落支度(おちじたく)をいたせしかば、力なく、淸見寺《せいけんじ》の本陣、皆、くづれて、府中に歸られけり。

[やぶちゃん注:「淸見寺」現在の静岡市清水区興津清見寺町(せいけんじちょう)にある臨済宗妙心寺派巨鼇山(こごうさん)求王(ぐおう)院清見興国禅寺。徳川家康は今川氏に人質としてあった頃、『当寺の住職太原雪斎に師事し、当寺で勉強していた。交通の要衝であり、武田氏による駿河侵攻の際には、今川氏真が本陣を構えたものの』、「薩埵峠の戦い」による『家臣の相次ぐ離反、武田方への内通により』、『戦わずして駿府城に撤退している』と当該ウィキにあった。]

 諸侍、みな、色をたて、別心(べつしん)をおこし、たがひに目を見合せ、一言(ごん)の評議にも及ばず、只今、敵のよするにも、防がんとおもふ義勢もなし。

[やぶちゃん注:「義勢もなし」見せかけのそれさえも見せないことを言う。]

 氏眞は、

「城にこもりて、打死せん。」

と思ひ切(きり)給ふ所に、三浦、申けるやうは、

「砥城(とさ)の山家へ引こもり、時をまちて、軍(ぐん)をおこし、本意(ほんい)をとげ給へ。」

と、申《まうし》すゝむるに依(より)て、小原備前守・朝比奈備中守・長谷川次郞左衞門等がはからいにて、わづかに五十餘騎ばかりにて、懸川の城に入給ふ。

[やぶちゃん注:「砥城」江本氏の注に、『砥城は地名。戦国史料叢書所収の『甲陽軍鑑』注では砥城又は土岐で、志田郡徳山村にあり、静岡の西八里にあるとする。また「砥城」は、鵇[やぶちゃん注:「とき」。鳥の朱鷺。]氏をさすか。鵇氏は静岡県榛原』(はいばら)『郡中川根町にある徳山城を築いた在地土豪で(『日本城郭大系九』)、通説では、信玄の大軍に攻められた氏真は、安部川を越えて羽鳥』(はとり)『の建穂寺』(たきょうじ)『に逃れ』、『そこから藁科川を遡行し、伊久美郡の犬間城に入り、さらに徳山郷堀之内の土岐一族の拠る徳山城を経て、遠江の水川(榛原郡中川根町)から掛川城に入ったとする。(『戦国合戦大事典』)。』とあった。どうも現在は比定地がないようである。

「小原備前守」今川家家臣小原鎮実(しげざね ?~永禄一一(一五六八)年?)。

「朝比奈備中守」今川家家臣朝比奈泰朝(天文七(一五三八)年?~?)。当該ウィキによれば、『義元の横死後、三河国・遠江国の今川領内では動揺が拡大、離反する諸将もある中で、今川氏真を支える姿勢を貫いた』。永禄五(一五六二)年三月には、『小野道好の讒言により謀反の疑いのかかった井伊直親を氏真の命により殺害している』。『永禄期には三浦氏満と共に越後国の上杉氏との交渉に当たった』。この『信玄が同盟を一方的に破棄して駿河国に侵攻』し、『それによって』、『氏真が駿河を追われると、泰朝は氏真を掛川城に迎えて保護した。同年末には三河の徳川家康が遠江に攻め寄せて』、『曳馬城を陥落させるなど』、『順調に遠州を制圧し、掛川城を攻囲した。こうした状況の下で、今川氏の重臣の大半は』、『氏真を見限って』、『甲斐武田氏や徳川氏に寝返ったが、泰朝は今川氏に最後まで忠義を尽くしている』。『掛川城を守る泰朝は』五『ヶ月に亘って奮戦したが、援軍の見込めぬ中での戦いには限りがあ』り、永禄一二(一五六九)年五月十七日、『氏真は開城要求を受け入れ、伊豆国に退去することとなったが、この時も泰朝は氏真に供奉し、伊豆へ同行している。氏真は北条氏の庇護の下に入ったが、泰朝は上杉謙信の家臣・山吉氏に援助を要請するなどの活動を行っている』。元亀二(一五七一)年十二月、『氏真は家康を頼って浜松城に出向くものの、泰朝はこれには従わなかった』。『泰朝のその後の消息は不明だが、一説には、徳川家臣の酒井忠次に仕えたとされる』とあった。

「長谷川次郞左衞門」ウィキの「長谷川正長」に、『長谷川能長(次郎左衛門)が』今川氏真に仕えた長谷川家『宗家の当主と考えられて』おり、『この能長は武田信玄の侵攻直後の』永禄一二(一五六九)年に『武田軍に内通して所領を安堵され、これに同調しなかった一族の藤九郎が徳一色城(田中城)に籠城したために攻城戦になったとみられ、この藤九郎が正長のことと考えられている』とある今川を見限った長谷川能長が、彼であるらしい。

「懸川の城」掛川城・]

 城中、七千餘騎、いづれも聞ゆる兵共なり。

 武田がた、その跡におしかけ、駿府の館(たち)に火をかけしに、折ふし、嵐は、はげしく吹て、雲煙(くもけむり)と、やけあがる。

 さしも、年比《としごろ》、つくりみがきし大廈(《たい》か)のかまへ、一時(《いち》じ)に灰燼と成《なり》はてたり。

[やぶちゃん注:「駿府の館」後の駿府城の南西の静岡市屋形町にあった今川氏の居館。]

 次の日、御館(みたち)の燒跡に、かくぞ、よみて立てたる。

 甲斐もなき大僧正の官賊が

    欲(よく)にするがのおひたふすみよ

[やぶちゃん注:江本氏はこの落書の狂歌に注して、『(歌意…正当な理由もなく、武田信玄の奸賊が欲の為に駿河国を倒してしまうのを見よ)(『鎌倉公方九代記』)。「甲斐もなき」は「甲斐無し」と「甲斐国」を掛ける。「大僧正」は僧綱のひとつで、僧正の上位。ここでは武田信玄のこと。「天文升年辛亥に、武田信濃守大膳太夫晴信法心(ほつしん)なされ、「法性院機山信玄」と申す。……永禄九年ひのえ寅の正月元日より、七年の間ハ、一入清僧のごとくに、ごま・くわんじやうをなされ候て後は、びしやもんだうを御たてあり。大僧正になり給ふゆへ……」(『甲陽軍鑑』品第四)。「官賊」は奸賊の意。「するがの」は「為」と「駿河国」を掛ける。』と記しておられる。若い読者のために老婆心で言っておくと、最終句は「追ひ倒す見よ」である。]

 三浦右衞門は、一朝に威をうしなひ、軍(いくさ)といふ事のおそらしさに、手、ふるひ、足、わなゝき、物の心も辨(わき)まへず、鎧・甲・馬・物の具、きらびやかに、氏眞と、つれて、駿府のしろをば、出《いで》たりしかども、ゆくさき、道、せばく、

『いかにもして、身をかくし、命をたすからばや。』

と思ひ、さしも重恩をうけたる主君を打すて、只一人、かけおち、したり。

 世が世の時にこそ、駿河・遠江・三河のあひだには、いか成(なる)大身(たいしん)・舊功の輩(ともがら)も、三浦にむかひては、手をつかね、腰ををり、媚諂(こびへつ)らひ、機(き)をとり、色をうかゞひしに、數年(すねん)の積惡(せきあく)、こゝにあらはれ、天に背(せ)くぐまり、地にぬきあしす、といふがごとく、世を忍び、人にかくれ、雷(らい)をいたゞきて、江(え)をわたり、薪(たきゞ)を負ふて、燒野(やけの)を通るおそれをなし、馬をはやめて通る所に、

「すはや、落人(おちうど)の行《ゆく》ぞ。」

と呼ばはりしかば、村々より、出《いで》あふ百姓ども、垢(さび)たる鑓(やり)、長刀(なぎなた)をもちつれて、はしりよる。

「これは、三浦右衞門ぞ。あやまちすな。」

と、こと葉をかくれば、

「何條、その三浦をとらへて、年比(としごろ)のうらみを、思ひしらせよ。」

といふ。

「只、剝(はぎ)むくりて、赤裸(あかはだか)になし、突出(つき《だ》)して、恥をさらせよ。」

といふ。

 前後、とりまはし、

「己(おのれ)、來年(ねんらい)、主君の寵(ちやう)にほこり、百姓をむさぼり、我らの妻子・家財までも沽却(こきやく)せさせ、責めとり、こぎとり、ある時は簀卷(すまき)・水牢(みづらう)、ある時は打擲揉躙(ちやうちやくじうりん)、又は、人夫(にんぶ)をさして、つらめしく責めつかひしそのむくいは、來世(らいせ)までもなく、こゝにて思ひ知らせ、なぶりごろしにせよや。」

とて、馬より、引おとし、鎧・甲・下(した)の小袖まで引むくり、剝ぎとり、赤裸(あかはだか)になしければ、三浦は、百姓どもにむかひ、手を合《あは》せ、

「その小袖ひとつは、得させたべ。」

といふ。

 わかき者どもは、

「しやつに、物な、いはせそ。高手小手(たかてこて)にくゝりあげ、木のもとに結(ゆひ)つけて、おもふまゝに、打ころせ。」

と、のゝしりけるを、年よりたる者どもは、かはゆげに、

「さのみは、なせそ。只、ゆるして追ひやれ。」

とて、繩をときて、つきはなす。

[やぶちゃん注:「手をつかね」「手を束(つか)ね」で、「手を組んで、手出しをしないことを示して敬意・謝罪・恭順の意を表わすこと。また、両手を揃えて最上の礼をすることを指す。

「雷をいたゞきて」「落雷を頭上に受けるような心地で」の意か。

「しやつ」「奴」。三人称代名詞。第三者を罵って言う語。「きゃつ」。

「高手小手」「高手」は肘(ひじ)から肩までの称。人を縛りあげる時に言う言葉。「小手」は手首から肘(ひじ)までを指す語。両手を背の後ろに回し、首から肘・手首にかけて、厳重に縛り上げること。]

 

Miura222

 

 三浦は、命斗(ばかり)はたすかりけれども、赤はだかなりければ、破(やぶ)れたる菅笠(すげがさ)を前にあて、ちぎれたる古薦(ふるごも)を腰にまとひ、泣々、夜もすがら、道にもあらぬ田の畝(あぜ)をつたひ、そこともしらぬ山路(やまぢ)をたどれば、手は荊(いばら)にかきさき、足は石に蹴破(けやぶ)り、朱(あけ)になりて、やうやう、三河の高(たか)天神の城にかゝぐりつきて、小笠原與八郞を賴みけり。

[やぶちゃん注:「三河の高天神の城」ここ。掛川城の南南東九キロメートル弱。

「小笠原與八郞」小笠原信興(のぶおき 生没年未詳)今川氏家臣で遠江高天神城主。当該ウィキによれば、『武田氏による大規模な遠江・三河侵攻の戦役の際、武田信玄軍が大軍を率いて高天神城に攻めて来るが、信興はわずかな兵力で籠城し、この時は武田軍を撃退した。直後の』「三方ヶ原の戦い」にも『参加している。これらの経歴から、信興は決して無能な指揮官ではないことがわかる』とある。後の天正二(一五七四)年六月には『武田勝頼が大軍を率いて再び高天神城に攻めて来た』。「信長公記」では、『守将の「長忠」が堪えたものの、織田信長や家康による援軍が到着するより先に「氏助」が寝返ったために城が陥落した、とされている。実際は守将の信興らが』、『家康に援軍を要請したが、家康はこの要請に応えず、家康は信長に援軍を要請したが、信長も援軍を全く出さなかった』。二『か月ほどの籠城戦で城は武田方の力攻めのために郭がひとつ、またひとつと陥落し』、『将兵も多く戦死、城は主郭を残すのみとなったため、将兵の命と引き換えに信興は勝頼に降伏し、城は開城となった。勝頼は開城後の将兵を寛大に扱い、武田に帰属する気になった者は配下に加え、徳川に帰参を希望した者はその身柄を自由にさせた。信興らは援軍を出さなかった徳川氏を見限り』、『武田方に降り、駿河国庵原郡・富士郡(鸚鵡栖)において』一『万貫』『に領地替えされている』。『高天神城主を離れて以降は、駿河東部における動向が確認されるのみで文書には見られず、勝頼に降伏した後、ほどなくして病死したとも言われている』。但し、天正六(一五七八)年九月、『勝頼が高天神城に輸送を行おうとし、これを阻止するために家康と松平信康が馬伏塚城に進出し』、『牽制した。武田方は大須賀康高が守る横須賀城を攻めたが、この際の武田勢の先鋒が小笠原信興だったとされる』。また、「北条記」によれば、天正一〇(一五八二)年の『武田氏滅亡後、北条氏政を頼って小田原に逃れたが、ここで織田信長の命令を受けた氏政によって殺されたとされている。別の資料では氏政の庇護を受けたものの』、天正一八(一五九〇)年に『北条氏が滅亡したとき、家康によって捕らえられ、過去の降伏の罪を咎められ』、『処刑されたとされている。これとは別に』、「小牧・長久手の戦い」などの『羽柴秀吉と徳川家康が緊張状態にあった頃、徳川氏は北条氏が同盟関係を結び、縁戚関係となった頃、信興が北条氏に匿われ』、『鎌倉に隠棲していることを知った家康の要望により、北条氏の手により処分された、とされる説がある。いずれにせよ、末期を証明する確たる史料は見つかっていない』とある。]

 興八郞、はじめのほどは、世の變をうかがひ、三浦を呼びいれ、小袖・刀・脇指(わきざし)まで出《いだ》しあたへ、暫らく、いたはる體(てい)にもてなしけるが、

「氏眞、すでに懸川を開(あけ)のきて、小田原へ行《ゆき》つゝ、人數(にんじゆ)、ちりぢりに成《なり》し。」

と聞えしほどに、小笠原與八郞、たちまちに心替(こゝろがは)り、色《いろ》に出《いで》たり。

 城飼郡(きかうぐん)を押領(おうりやう)し、三浦右衞門をからめとり、

「とし月、わがまゝをはたらき、諸人に慮外無禮をいたし、土民を困窮せしめ、傍輩(はうばい)の諸侍(しよさぶらひ)一門の貴族といへども、己(おの)が心に叶はねば、知行(ちぎやう)をおさへ、職を打あげ、凡下(ぼんげ)のものをも、わが機に入《いら》ぬれば、取たてつゝ、君《くん》をくらまし、家をみだり、上下、恨みをふくむ事、いふ斗(ばかり)なし。今、すでに主君の運、かたぶき、國家、ほろぶるにいたりて、恩をわすれ、君を見はなし、天地佛神の冥慮(みやうりよ)にはづれ、人望(にんばう)にそむく、惡逆無道の恥しらずを、命いけておき、娑婆ふさげになさんより、疾(とく)して迷塗(めいど)につかはし、閻魔の裁許(さいきよ)にまかせん。」

とて、人夫(にんぶ)どもに仰せて、廣庭(ひろには)に引出《ひきだ》させければ、三浦右衞門、大《おほき》におどろき、

「是れは。そも、情けなきはからひかな。親とも、兄とも、賴み入りてぞ思ひしに、せめて命斗りは、たすけ給へ。」

とて、霰(あられ)のごとくなる淚を雨の如くに流して、よばひ、さけび、嘆きければ、小笠原が侍(さぶらひ)「足助(あすけ)長七」といふもの、切手(きりて)にて、傍(そば)に立《たち》より、

「さらば、何《なに》とぞ申《まうし》いれて、命ばかりは、たすけてとらすべし。その代りには、鼻をそぎ、片耳を切りて許すとも、それとても、命が、惜しきか。」

と問ひければ、

「たとひ耳鼻をそがれてなりとも、命をだに、たすけられなば、限りなき御恩なるべし。」

と、こたへたり。

 是を聞ける人々、

「惡(あし)き奴(やつ)が心ばせかな。あのきたなき根性故《ゆゑ》にこそ、重恩の主(しゆ)をすてゝ、これまでは落ち來りけれ、とくとく、首をはねて、不忠不義の佞臣(ねいしん)の、こらしめにせよや。」

と、いへば、三浦右衞門、身をもみ、足ずりして、聲をばかりに啼きさけび、おきふし、嘆きけるを、最後は、

「只今ぞ。念佛、申せ。」

と、いへども、前後ふかくに取みだして、太刀のあて所もも定まらず、太刀取りも不敏(ふびん)ながら、うつぶきに踏み倒し、搔首(かきくび)にぞ、したりける。

 尸骸(しがい)を野べにすてたりければ、鳶・烏、あつまり、眼(まなこ)をつかみ、はらわたを啄《つい》ばみ、犬・狼、むらがりて、手足を引ちらし、臠(しゝむら)をあらそふ。

 往來(ゆきゝ)の人、是を見ては、哀(あはれ)とはいはずして、

「因果のむくいは、かくこそ、あらめ。」

と、彈指(つまはじき)して打通る。

 運に乘じて威をふるふ時は、大龍(《だい》りう)の雲にのぼり、猛虎の風に嘯(うそぶ)くがごとく成《なり》しも、一旦に、果報、盡きて、屍(かばね)を草むらにさらし、恥を殘すこそ、哀れなれ。

[やぶちゃん注:「城飼郡」(きこうぐん/きかふのこおり)は、後の城東郡(きとうぐん)。現在の菊川市の全域と御前崎市の大部分と、島田市・掛川市・袋井市の一部に当たる。近代初期の郡域は当該ウィキの地図を見られたい。

「足助長七」不詳。

 本話は怪談仕立てではないが、一切の同情を感じさせない救い難い三浦のテツテ的な凋落無慚が描かれて、なかなかに猟奇的に面白い。なお、本篇を元に書かれた菊池寛の小説「三浦右衛門の最後」(大正五(一九一六)年十一月発行の第四次『新思潮』初出)年が「青空文庫」のここで読める。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 簾貝 / スダレガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。ここにある全十六図(同一個体の裏・表でもそれぞれを一つと数えて)は右下方に「此數品武江本鄕住某氏町醫所持見ㇾ自予寫ヿヲカフ故天保五年九月初一日眞寫」(此の數品(すひん)、武江本鄕住(ぢゆう)、某氏、町醫の所持より見つ。予、寫すことを願がふ。故(ゆゑ)、天保五甲午(きのえむま)年九月初一日(しよついたち)、眞寫す。)と、写生対象についての経緯及びクレジットがある。グレゴリオ暦で一八三四年十月三日である。]

 

Sudaregai

 

「前歌仙貝三十六品」の内、

    簾貝【「すだれがい」。】

 「山家集」

波かくる吹山の濵のすだれ貝

  風もぞをろすいそぎ拾はん

        「後歌仙集」同歌

 

此の者、蛤貝(はまぐり)に似て、厚く、扁(ひらた)し。其の紋理(もんり)、木を㓮(ほ)たるがごとし。

 

[やぶちゃん注:名称・形状・紋理から、文句なしで、

斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ超科マルスダレガイ科 Paphia 属スダレガイ Paphia euglypta

である。サイト「貝の図鑑」の同種のページによれば、殻長は約八・五センチメートルで、長めの楕円形を成し、肉眼でも分かるほどの幅がある輪肋の間には、細かい模様が見られ、輪肋の上には殻頂から伸びた暗色の大きな模様が入るとあり、また、軟体部の斧『足が鮮やかなオレンジ色をしている事もスダレガイの特徴のひとつとして知られています』とある。『スダレガイは水深』十~五十メートル『程度の深さの海の砂底に住む二枚貝で、貝殻の表面に四角いうね』(畝)『が強くでている事が大きな特徴となっています。また、食用貝として市場に出回る事はあまりありませんが、一部では食用として食べられている地域もあるようです』。『また、関東になどで出回っているアケガイ』(Paphia 属アケガイ Paphia vernicosa )『の殆どは実はスダレガイだという情報もあります』(アケガイは「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページを参照。同サイトの「スダレガイ」と比較されたいが、アケガイは貝殻の模様が多様で、スダレガイよりも派手な個体が多いようである)。『スダレガイは本州の房総半島よりも南の地域や四国、九州などに分布しているとされていますが、北海道南部よりも南の地域には生息しているという情報もあります』。『海外においては朝鮮半島や中国などに分布しています』。『スダレガイの貝殻は海岸にうち上げられている事も多く、ビーチ』・『コーミングなどで拾う機会も多い貝ですが、漁師が使う漁網で得られる事の方が多いと言われています』とあった。このサイトは非常に丁寧な解説に好感が持てる。

「前歌仙貝三十六品」寛延二(一七四九)年に刊行された本邦に於いて最初に印刷された貝類書である香道家大枝流芳の著になる「貝盡(かいづくし)浦の錦」(二巻)の上巻に載る「前歌仙貝三十六品評」のことと思われる。Terumichi Kimura's Shell site」の「貝の和名と貝書」によれば、同書は『貝に関連する趣味的な事が記されて』おり、『著者自ら後に序して、「大和本草その他もろこしの諸書介名多しといえども是れ食用物産のために記す。この書はただ戯弄のために記せしものなれば玩とならざる類は是を載せず」と言っている』とある。「貝盡浦の錦」の「前歌仙貝三十六品評」(国立国会図書館デジタルコレクションの当該作のここの画像を視認)、によると、冒頭に配され、梅園は判読を誤っている

   *

   簾介(すだれかい) 左一

「山家集」

波かくる吹上(ふきあげ)の濱(はま)のすだれ貝(かい)風(かぜ)もぞおろすいそぎ拾(ひろ)はむ

   *

「日文研」の「和歌データベース」の「山家集」(01193番)を見ると、詞書があり、

   *

  内にかひあはせせんとせさせ給ひけるに、人にかはりて

   *

とある。「吹上の濱」昔、和歌山の紀ノ川河口から南に伸びていた砂浜海岸。風光明媚な地として、古来からよく知られた歌枕であったが、現在は和歌山城の南側で完全な内陸となって宅地化してしまっており、見る影もない。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「後歌仙集」同前の書の「歌仙貝三十六種後集」のこと。ここ。]

萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 感傷の塔

 

 感傷の塔

 

塔は額にきづかる、

螢をもつて窓をあかるくし、

塔はするどく靑らみ空に立つ、

ああ我が塔をきづくの額は血みどろ、

肉やぶれいたみふんすゐすれども、

なやましき感傷の塔は光に向ひて伸長す、

いやさらに伸長し、

その愁も靑空にとがりたり。

 

あまりに哀しく、

きのふきみのくちびる吸ひてきづゝけ、

かへれば琥珀の石もて魚をかこひ、

かの風景をして水盤に泳がしむるの日、

遠望の魚鳥ゆゑなきに消え、

塔をきづくの額は研がれて、

はや秋は晶玉の死を窓にかけたり。

 

[やぶちゃん注:大正三(一九一四)年十月号『詩歌』に発表された。「ふんすゐ」「きづゝけ」はママ。底本の『草稿詩篇「拾遺詩篇」』に無題の草稿原稿断片が載る(『(本原稿三種三枚)』とあるから、その内の一種のみが活字化されている)。以下に示す。歴史的仮名遣・誤字は総てママ。

   *

 

  ○

 

なやみの→感傷の晶玉の塔は額にきづかる

塔はなやみの胸

窓には→塔は螢をもて 明るくし窓を明るくし

わが塔はいや高くするどく靑らみて額に立つ空にきづかる

ああわがやるせなき感傷の□塔 を立つるの日

ああ塔を立つるの額は血みどろ

いたみやぶれ、いたみふんすゐすれども

  なやましき

わが     感傷の塔は光に向ひ伸長す、

  やるせなき

いやさらに空に愁ひはとがりたり

われあまりにかなしく

きのふきのきみのくち吸ひてきづゝけ

哀しくなりて山を おりしも→下れば くだりしが

かへれば琥珀の石もて魚をかこひ

かの風景をして水盤に洗がしむるたはむれも われはさびしやの日

遠望の魚鳥すべて故なくさえ

塔をきづくの額とがれて

はや秋は晶玉の姿を水に→うれひをひやゝかに

┃  窓にかく。

┃淚を

┃  つめたくうつす。

┃  つめたくうつせり。

┃光を

┃  うつしいだせり。

 

   *

最後の「┃」は私が附したもので「淚を」で始まる二候補、「光を」で始まる二候補が併置残存していることを示す。]

萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 决鬪

 

 决鬪

 

空(そら)と地(つち)とは綠はうまる、

綠をふみてわが行くところ、

靴は光る魚ともなり、

よろこび樹蔭におよぎ、

手に輕き薄刄(やいば)はさげられたり。

 

ああ、するどき薄刄(やいば)をさげ、

左手をもつて敵手(かたき)に揖す、

はや東雲(しののめ)あくる楢の林に、

小鳥うたうたひ、

きよらにわれの血はながれ、

ましろき朝餉をうみなむとす。

 

みよ我がてぶくろのうへにしも、

愛のくちづけあざやかなれども、

いまはやみどりはみどりを生み、

わがたましひは芽ばへ光をかんず、

すでに伸長し、

つるぎをぬきておごりたかぶるのわれ、

おさな兒の怒り昇天し、

烈しくして空氣をやぶらんとす、

土地(つち)より生るゝ敵手のまへ、

わが肉の歡喜(よろこび)ふるへ、

感傷のひとみ、あざやかに空にひらかる。

 

ああ、いまするどく鋭刄(やいば)を合せ、

手はしろがねとなり、

われの額きづゝき、

劍術は靑らみついにらじうむとなる。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。一行目「空(そら)と地(つち)とは綠はうまる、」はこなれない表現で、校訂本文は「空(そら)と地(つち)とは綠にうまる、」とする(但し、以下の草稿断片ではママである)。「芽ばへ」「おさな兒」「きづゝき」「ついに」はママ。

・第二連末の「ましろき朝餉をうみなむとす。」というのは、「自然と大気が、最上の朝餉として、まさに私に与えられようとしている。」といった換喩表現であろう。

 底本の『草稿詩篇「拾遺詩篇」』に第一連の草稿原稿断片が載る。以下に示す。「さげらたり」はママ。「※」は「刅」の右の「ヽ」のない「刃」「刄」の異体字。

   *

 

  決鬪

 

空と地とは綠(みどり)はうまる

綠をふみてわがゆくところ

靴は光る魚となり

歡喜(よろこ)び樹蔭におよぎ

手に輕き利※(やいば)はさげらたり

 

   *]

萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 畑

 

 

 

しよんぼり立つた麥畑、

われのせちなさやるせなき、

みぎむきや穗が光る、

ひだりむきや穗が光る、

しんじつわが身をどうせうぞ。

           ――滯鄕哀語篇――

 

[やぶちゃん注:前の「旅上」とともに、大正三(一九一四)年十月号『アララギ』に発表された。この号には「再會」と三篇を合わせて発表している。]

萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 旅上

 

 旅上

 

けぶれる空に麥ながれ、

麥ながれ、

うれひをのせて汽車は行く。

たづきも知らに、

わが喰むむぎの蒼さより、

あはれはるばる、

み空をながれ汽車は行く。

 

[やぶちゃん注:大正三(一九一四)年十月号『アララギ』に発表された。]

2022/02/25

萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 岩魚

 

 岩魚

    ――哀しきわがエレナにさゝぐ――

 

瀨川ながれを早み、

しんしんと魚らくだる、

あゝ岩魚(いはな)ぞはしる、

谷あひふかに、秋の風光り、

紫苑はなしぼみ、

木末(こずゑ)にうれひをかく、

えれなよ、

信仰は空に影さす、

かならずみよ、おんみが靜けき額にあり、

よしやここは運くとも、

わが巡禮は鈴ならしつつ君にいたらむ、

いまうれひは瀧をとどめず、

かなしみ山路をくだり、

せちにせちにおんみをしたひ、

ひさしく手を岩魚(いはな)のうへにおく。

       ――一九一五、八、八――

 

[やぶちゃん注:大正三(一九一四)年九月号『異端』に発表された。なお、前の「若き尼たちの步む路」の私の注を参照のこと。「一九一五」はママ。無論、「一九一四」が正しい。

「紫苑」双子葉植物綱キク目キク科キク亜科シオン連シオン属シオン Aster tataricus

 なお、底本全集の『草稿詩篇「補遺」』に「全文抹消草稿」というパートがあり(まず、普通の読者はなかなか目を止めないパートだろう。何故なら、大方、「見よ注」さえも附されていないからである)、そこに無題で二篇、本「岩魚」の全文が最後には抹消された草稿が載る。以下に示す。『(本篇原稿二種一枚)』とするものである。脱字と思しい箇所は総てママ。「湯泉」はママ。第二草稿のアラビア数字は朔太郎が附したもの。

   *

 

  ○

ああはや秋とな→はみづがねとなり、わが四肢は靑らみ

ああ靈智をもて魚を泳がせ現す

ああ夕べとなれば はや すでにあしたとなれば ああ草の花 七草をつみてかへるの路

ああ樹木をけむり

あかるく 湯泉に 吾妻の山はみづがね

おんみに 河鹿瀨川にけぶり はや□□□くれ

ああしんしんとしてかへる山路

なんぢのため

河鹿月にけぶりわが靈は新らしき瀧をいたくぬれしが

わが靈は峯をすべりつゝ

ぬれぬれて

みよ峯に新らしき瀧は光れり

 

 

   ○

はや秋となり

1おんみよ

すで岩魚を かくも→靈智は 追つて

2われは谷間ふかにくなればはしり

わが手をも はやきみが瀧をきく□□

3靈智もて瀧をきづきた

わが四肢肉はみどりをふく

すでに われの靈智 をもて魚を泳がすのゆうべ をするどくして魚を釣り

ゆうべ 秋草をつみてかへるの山路 谷間をくだりゆきし

すでにすでに岩魚を泳がしむ

ああおんみのため

わが肌はいたみいたくぬれてきづつしが

みよ峯にみよさらに新らしき瀧はかゝれり

 

   *]

萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 立秋

 

 立秋

 

洞窟の壁にふんすゐあり、

さかづきをあぐる一聯(れん)のひと、

秋ちかければ玻璃ながれ、

空氣は谷間をくだる。

 

[やぶちゃん注:大正三(一九一四)年九月号『異端』に発表された。なお、前の「若き尼たちの步む路」の私の注を参照のこと。

「ふんすゐ」「噴水」だが、ごく近代まで、「水」は「すゐ」が歴史的仮名遣として正しいとされてきたのだが、中国の中古音韻の研究が進む中で、現在では歴史的仮名遣は「すい」が正しいことが判っている。筑摩版全集校訂本文は「ふんすゐ」のままである。なんで消毒しない? 鼻白むね。]

萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 螢

 

 

 

ああきみは情慾のにほふ月ぐさ、

われははた憂愁の瀨川の螢、

いきづかふ舟ばたの光をみれば、

ゆふぐれのおめがの瞳(め)にて、

たれかまたあるはをしらむ、

さゞなみさやぎ、

くちびるはそらをながるる。

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。大正三(一九一四)年九月号『異端』に発表された。なお、前の「若き尼たちの步む路」の私の注を参照のこと。

「いきづかふ舟ばたの光」船端の光りが揺れるさまを「息使ふ」と擬人法で表現したもの。

おめが」オメガ。「Ω」「ω」。ギリシア文字の第二十四番目の最後の文字。

あるは」アルファ。「Α」「α」。ギリシア文字の第一番目の文字。「新約聖書」の「ヨハネの黙示録」で、再臨した主イエス・キリストの言葉として「わたしはアルファであり、オメガである」という言葉が三ヶ所に登場し、その内の二回は「最初であり、最後である」という言葉が続いていることはとみに知られる。]

萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 若き尼たちの步む路

 

 若き尼たちの步む路

 

この列をなす少女らのため、

うるはしき都會の窓ぞひらかるる、

みよいまし遠望の海は鳴りいで、

なめいしを皿はすべりて、

さかづきは步道にこぼれふんすゐす。

こはよき朝のめざめなり、

をとめらのさんたまりやの祈禱なり、

みな少女、

素足あしなみそろへ行く手に、

ちよこれいと銀紙に卷かれ、

くだものは並木の柵栅に飾られぬ。

ああ、いづこぞ夢の序樂のぽろねえず

會社は河岸に淚をひたし、

花店の飾窓つゆにぬれたり、

しばしまたつりがね鳴らむ、

あさまだきにほふ葉影に、

しろじろとかざし泳がせ、

この列をなす少女らあゆむ。

         ――樂曲風、情景詩――

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。大正三(一九一四)年九月号『異端』に発表された。但し、編者注があり、『揭載誌未入手のため、右は殘っている筆寫によった。以下、「螢」「立秋」「岩魚」も同じ。』とある。『筆寫』というのは、筆写した人物が何のためにどこで写したものなのか、明らかにされておらず、甚だ謎めいて、不親切である。]

2022/02/24

『萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版』の「立秋 ―大沼竹太郞氏ニ捧グル詩―」・「偏狂」について

 

萩原朔太郞「拾遺詩篇」の初出形・正規表現版は底本全集の順序では、以下の、

「立秋 ―大沼竹太郞氏ニ捧グル詩―

と、

「偏狂」

の二篇となるが、これらは既に先に以上のリンク先の記事内で電子化注しているので、そちらを読まれたい。

萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 瀧

 

 

 

みどりをつらぬきはしる蛇、

瀨川(せがは)ながれをはやみゆき、

ゆめと流(なが)れて瀧(たき)はおつ、

たうたうたる瀧(たき)の水音(みづおと)、

音(ね)なみさえ、

主(しゆ)も遠(とを)きより視(み)たまへば、

銀(しろがね)の十字(じ)をかけまつる、

我(われ)しもひとり瀧水(たきみづ)の、

若葉(わかば)に靴(くつ)を泳(およ)がして、

念願(ねんがん)せちに淚(なんだ)たる、

念願(ねんがん)せちに淚(なんだ)たる。

 

[やぶちゃん注:大正三(一九一四)年八月号『侏儒』(創刊号)に発表された。「蛇」「十」にはルビがない。漢数字にルビを附けないのは当時の極めて普通の慣習だが、「蛇」にないのはちょっと不審。植字工が附け忘れたものであろう(以前に述べたが、当時、総ルビは作者が附したものではない。ここでは推定するに「しろがね」「なんだ」だけが朔太郎の附したものと考える。「遠(とを)き」及び二ヶ所の「念願(ねんがん)」のルビはママ。]

『萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版』の以下の二十一篇について

 

萩原朔太郞「拾遺詩篇」の初出形・正規表現版は底本全集の順序では、以下の、

「歡魚夜曲」

「秋日行語」(先の「秋日行語」とは同題異篇)

「郊外」

「麥」

「雨の降る日(兄のうたへる)」

「晚秋哀語」

「からたちの垣根」

「街道」

「春の來る頃」

「早春」

「鐵橋々下」

「春日」

「黎明と樹木」

「遠望」

「浮名」

「利根川の岸邊より」

「幼き妹に」

「初夏の祈禱」

「交歡記誌」

「供養」

「受難日」

の二十一篇が続くが、これらは既に先に以上のリンク先の記事内で電子化注しているので、そちらを読まれたい。

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 釜貝 / シュモクガイの後方翼状の欠損破片か

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。ここにある全十六図(同一個体の裏・表でもそれぞれを一つと数えて)は右下方に「此數品武江本鄕住某氏町醫所持見ㇾ自予寫ヿヲカフ故天保五年九月初一日眞寫」(此の數品(すひん)、武江本鄕住(ぢゆう)、某氏、町醫の所持より見つ。予、寫すことを願がふ。故(ゆゑ)、天保五甲午(きのえむま)年九月初一日(しよついたち)、眞寫す。)と、写生対象についての経緯及びクレジットがある。グレゴリオ暦で一八三四年十月三日である。]

 

Kanagai

 

「百貝圖」

  釜貝

 

[やぶちゃん注:いかにも奇形で、図もしょぼく、解説もないので、当初は不詳としてペンディングしようと思ったが、ふと、『もしかすると……奇体な形のシュモクガイの仲間の断片では?』と思って調べたところ、どうも、それらしい感じがしてきた。

斧足綱翼形亜綱ウグイスガイ目ウグイスガイウグイスガイ超科シュモクガイ科シュモクガイ属クロシュミセン Malleus malleus

或いは、

シュモクガイ属シュモクガイ Malleus albus

の前後の撞木状部分の欠損したもの、又は、それが翼状には伸びない寸胴の、

シュモクガイ属ニワトリガキ Malleus regula

ではなかろうか? と考えた。同属の学名の画像検索を試みたところ、英文サイト「Natusfera」の「Genus Malleus の左から二番目の画像が、まずそれに近く見えたのである。さらに、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の「ニワトリガキ」のページの二枚目の左右の殻を外した画像を見て、ますますそれらしく感じた。但し、この最も一致するように見えるニワトリガキの分布は、奄美大島以南で、梅園にこれらを見せた町医者が入手し得る範囲とは思われない点で外さざるを得ないか。そうすると、上記二種の孰れかの翼状部が欠損し、内側表面が摩耗した部分破片ということになろうか。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のシュモクガイのページを見ると判るが、内側は『乳白色と黒紫色の文様が走』り、『とても美しい』とあるからである。クロシュミセンも同様の模様を持つようである。但し、小学館「日本大百科全書」のシュモクガイの奥谷喬司先生の記載によれば、シュモクガイは房総半島以南、クロシュミセンは紀伊半島以南の分布とするので、私は取り敢えず、シュモクガイの破片を最有力候補としたい。無論、西日本の藩や薩摩藩の関係者からクロシュミセン或いはニワトリガキが齎されたという可能性も否定は出来ない。なお、形状やシュモクガイの異名「シュモクガキ」から誤認しそうになるのだが、彼らはこのT字型のまま、海底に横たわって棲息している(所持する「東京大学コレクションⅩⅤ 貝の博物誌」に拠る)。但し、ニワトリガキは、潮通しのよいリーフ水路等の岩礫下の、低潮線直下の岩礁の隙間や転石の裏に足糸によって固着して棲息する(こちらの画像附き解説PDF)に拠った。なお、そこでは学名を「 Malvufundus regula 」とするが、これはニワトリガキのシノニムである)。

「百貝圖」寛保元(一七四一)年の序を持つ「貝藻塩草」という本に、「百介図」というのが含まれており、介百品の着色図が載る。小倉百人一首の歌人に貝を当てたものという(磯野直秀先生の論文「日本博物学史覚え書」に拠った)が、それか。但し、「貝の和名と貝書」によれば、「浄貞五百貝圖」に「釜介」が載る。但し、孰れも原図を確認出来ないので、本図の種と同じかどうかは判らない。]

萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 神に捧ぐる歌 爪

 

 神に捧ぐる歌

               夢みるひと

 

あしきおこなひをする勿(なか)れ

われはやさしきひとなれば

よるも楊柳(やなぎ)の木影(こかげ)にうち伏(ふ)し

ひとり居(ゐ)てダビテの詩(うた)をうたひなむ

われは巡禮(じゆんれい)

悲(かな)しき旅路(たびぢ)にあるとも

わが身(み)にそへる星(ほし)をたのみて

よこしまの道(みち)をな步(あゆ)みそ

たとしへなく寂(さび)しけれども

よきひとはみなかくある者(もの)ぞかし

われはいとし子(ご)

み神(かみ)よ、めぐみをたれさせ給(たま)へ

 

 

 

               夢みるひと

 

靑(あを)くしなへる我(わ)が指(ゆび)の

リキユール、グラスにふるゝとき

生(うま)れつきとは思(おも)へども

佗(わび)しく見(み)ゆる爪形(つめがた)を

さしも憎(にく)しと思(おも)ふなり

 

[やぶちゃん注:孰れも大正二(一九一三)年十月十二日附『上毛新聞』に発表されたもので、しかも草稿でも近接位置にある親和性の強い詩篇なので、二つ纏めて電子化した。但し、ペン・ネームがそれぞれに配されてあったかは確認出来ないので、仮にそれぞれに附しておいた。

・「ダビテの詩(うた)」「旧約聖書の「詩篇」のこと。イスラエル王国第二代の王ダビデ(在位・紀元前一〇〇〇年頃~紀元前九六〇年)以前(紀元前十一世紀)からマカベア期 (紀元前一世紀)までの長期に及ぶ歌を収集したもので、作者はその多くがダビデに帰せられているものの、実際には共同体の祭儀のためにエルサレムの祭司などが作ったものらしい。主流をなすものは神への賛美であるが、嘆願の歌が最も多い。「ヨブ記」とともに私の好きな旧約の一篇である。

 まず、前者「神に捧ぐる歌」の草稿は「習作集第九巻(愛憐詩篇ノート)」にある同じ標題の以下である。

   *

 

 神に捧ぐる歌

 

あしきおこなひをする勿れ

われはやさしきひとなれば

よるも楊柳(やなぎ)の木影にうち伏し

ひとり居てダビテのうたをうたひなん

われは巡禮

悲しき旅路にあるとも

わが身にそへる星をたのみて

よこしまの道をな步みそ

たとしへなく寂しけれども

よきひとはみなかくある者ぞかし

われはいとし子

み神よめぐみをたれさせ給へ

 

   *

 次に、後者「爪」の草稿は同前のノートにある「小曲集」の中の一篇であるが、この「小曲集」は前の「神に捧ぐる歌」の草稿の直前に配されてある。なお、それは既に『萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 秋日行語』の注で全篇を電子化してあるので参照されたい。その「Ⅳ」が本篇の草稿である。]

萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 うすやみ

 

 うすやみ

               夢みるひと

 

うすやみに光(ひか)れる皿(さら)あり

皿(さら)の底(そこ)に虫(むし)かくれ居(ゐ)て啜(すゝ)り鳴(な)く

晝(ひる)はさびしく居間(ゐま)にひそみて

鉛筆(えんぴつ)の心(しん)をけづるに疲(つか)れ

夜(よる)は酒場(さけば)の椅子(ゐす)にもたれて

想(おも)ひにひたせる我(わ)が身(み)の上(うへ)こそ悲(かな)しけれ

 

[やぶちゃん注:大正二(一九一三)年十月十一日附『上毛新聞』に発表された。五行目のルビの「さけば」「ゐす」はママ。草稿は「習作集第九巻(愛憐詩篇ノート)」の巻頭に「一九一三、九 習作集第九卷」という大標題の後に、

   *

 

 うすやみ

 

うすやみに光れる皿あり

皿の底に蟲かくれ居てすゝり泣く

晝はさびしく居間にひそみて

鉛筆の心をけづるに疲れ

夜は酒場の椅子にもたれて

想ひにひたせる我が身の上こそ悲しけれ

 

   *

とある。]

萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 便なき幼兒のうたへる歌 くさばな

 

 便なき幼兒のうたへる歌

               夢みるひと

 

うすらさびしき我(わ)が身(み)こそ

利根(とね)の河原)かはら)の石(いし)ひろひ

ひとり岸邊(きしべ)をさまよひて

今日(けふ)も小石(こいし)をひらふほど

七(なゝ)つ八(やつ)つとなりにけり

 

 

 くさばな

               夢みるひと

 

君(きみ)はそれとも知(し)らざれど

我(わ)が手(て)に持(も)てる草(くさ)ばなの

薄(うす)くにじめる淚(なみだ)にも

男(をとこ)ごゝろのやるせなき

愁(うれひ)の節(ふし)はこもりたり

 

[やぶちゃん注:孰れも大正二(一九一三)年十月九日附『上毛新聞』に発表されたもので、しかも草稿でも「小曲集」に含まれる親和性の強い詩篇なので、二つ纏めて電子化した。但し、ペン・ネームがそれぞれに配されてあったかは確認出来ないので、仮にそれぞれに附しておいた。草稿は「習作集第九巻(愛憐詩篇ノート)」にある「小曲集」であるが、それは既に『萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 秋日行語』の注で全篇を電子化してあるので参照されたい。その「Ⅴ」と「Ⅵ」が本二篇の草稿である。老婆心乍ら、前の詩篇の標題の「便なき」は「たよりなき」である。]

萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 虫

 

 

 

いとしや

いとしや

この身(み)の影(かげ)に鳴(な)く虫(むし)の

ねんねんころりと鳴(な)きにけり

たれに抱(だ)かれて寢(ね)る身(み)ぞや

眞實(しんじつ)我身(わがみ)は獨(ひと)りもの

三十になるといふ

その事(こと)の寂(さび)しさよ

勘平(かんぺい)さんにはあらねども

せつぷくしても果(は)つべきか

ても因業(ゐんがう)なくつわ虫(むし)

 

[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。「因業(ゐんがう)」のルビはママ(「いんごう」の歴史的仮名遣は「いんごふ」である)。大正二(一九一三)年十月八日附『上毛新聞』に発表された。

・浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」(竹田出雲共作・初演寛延元(一七四八)年大坂嵐座初演)の登場人物の一人である早野勘平。塩谷判官(えんやはんがん)の家臣。判官の大事に遅れをとり、妻お軽(かる)の故郷山崎村で猟師に身をやつしていた折り、猪を狙い、誤って舅(しゅうと)を殺した定九郎を撃ち殺す。それを誤って舅を殺したと思い、切腹して死ぬ、と解説してもつまらない。文楽で通し狂言で見られよ。私は大阪と東京で二回見たが、通しは面白いものの、かなりの体力と覚悟がいる。]

萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 秋日行語

 

 秋日行語

               夢みるひと

 

ちまた、ちまたを步(あゆ)むとも

ちまた、ちまたに散(ち)らばへる

秋(あき)の光(きかり)をいかにせむ

たそがれどきのさしぐめる

我(わ)が愁(うれひ)をばいかにせむ

 

捨身(すてみ)に思(おも)ふ我(わ)が身(み)こそ

びいどろ造(づく)りと成(な)りてまし

うすき女(をんな)の移(うつ)り香(か)も

今朝(けさ)の野分(のわき)に吹(ふ)き散(ち)りて

水(みづ)は凉(すゞ)しく流(なが)れたり

薄荷(はつか)に似(に)たるうす淚(なみだ)

 

[やぶちゃん注:大正二(一九一三)年十月七日附『上毛新聞』に発表された。標題は「しうじつかうご」と読んでおく。「習作集第九巻(愛憐詩篇ノート)」に「小曲集」という草稿があり、その中に、本篇の草稿がある。全部を示す。

   *

 

 小曲集

 

すて身に思ふわが身こそ

びいどろつくりとなりてまし

うすき女の侈り香

けさの野分に吹きちりて

水はすゞしく流れたり

薄荷に似たるうす淚

 

     Ⅱ

 

ちまたちまたを步むとも

ちまたちまたに散らばへる

秋の光をいかにせむ

夕ぐれときのさしぐめる

かゝるうれひをいかにせむ

 

     Ⅲ

夕日も海にかぎろへば

一むら雀つらなめて

空の高きをすぎ行けり

我はうれひにしづみつゝ

遠き坂をば降りて行く

 

     Ⅳ

 

靑くしなへる我が指の

リキュールグラスにふるゝとき

生れつきとは思へども

佗しく見ゆく爪形を

さしもにくしと思ふなり

 

     V

 

        (便なき幼子のうたへる、)

うすらさびしき我が身こそ

利根の河原の石ひろひ

ひとり岸浪をさまよひて

今日も小石を拾ふほど

七つ八つとなりにけり

 

     Ⅵ

 

君はそれとも知らざれど

わが手にもてる草花の

うすくにぢめる淚にも

男ごゝろのやるせなき

うれひの節(ふし)はこもりたり

 

   *

「Ⅰ」に当たる標題はない。その第一連三行目の「侈り香」はママ。「Ⅳ」の四行目「見ゆく」は「見ゆる」の誤字か。「Ⅵ」の三行目の「にぢめる」はママ。

 第一連と「Ⅱ」を反転させて手を入れてある。但し、実はこの本篇の第一連(草稿の「Ⅱ」)だけを見ると、これは以上の草稿に先行する「習作集第八巻(愛憐詩篇ノート)」の巻末目次で「稚子他二篇」とする内の最後の一篇と、読点まで完全に一致する相同詩篇が見出される。その「稚子他二篇」は、『昭和二三(一九四八)年小學館刊 「萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」 電子化注始動 / 表紙・背・裏表紙・扉・「遺稿詩集に就て」(編者前書) / 「第一(「愛憐詩篇」時代)」 鳥』の詩篇「鳥」の注の中で全部電子化してあるので参照されたい。

『萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版』の「ふるさと」について

萩原朔太郞「拾遺詩篇」の初出形・正規表現版は底本全集の順序では、次は「ふるさと」となるが、これは既に「萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 偶成」の注で電子化しているので、そちらを読まれたい。

2022/02/23

曲亭馬琴「兎園小説別集」上巻 柳川家臣水馬の記

 

[やぶちゃん注:暫く休んでいたので、底本は国立国会図書館デジタルコレクションのここから。以下は柳川藩藩士による現地での騎行鍛錬の記録。当時の藩主は第八代立花鑑壽(たちばなあきひさ 明和六(一七六九)年~文政三(一八二〇)年:享年五十二)。下方の人名ががたついているのはブラウザの関係で、原稿では綺麗に並べてあるのだ。直す気にもならない。悪しからず。]

 

   ○柳川家臣水馬の記

十二月三日より同七日迄、百里遠乘。毛附。往來二十里宛、長洲・田主丸・大淵・松崎、諸國廻り、每朝、正八時、出立。

高根           立花當五郞殿

栗毛良馬、            由布常太郞

宮城野              立花猪十郞

既 望             小野 岩三

靑 毛御預馬、           立花鹿之助

靑毛手馬、            山崎鐵之助

東 雲              矢島重次郞

粟 毛御預馬、           笠間七郞治

月 毛御預馬、           山崎乙次郞

栗 毛御預馬、           由布松三郞

【十時内匠。御役馬】      十時志摩肋

【田島辰三郞。御預馬】     足達 半治

雪 吹             武藤卯三郞

   以 上

[やぶちゃん注:「毛附」「けづけ」。馬の毛色を書き留めること。又は、その文書、又は。その役目を指すが、ここは以上の文書を指すのであろう。このリストは概ね毛色であるが、中に「高根」「宮城野」「既望」(十六夜月を指す)「東雲」(しののめ)など、固有の名を与えられているものがある。

「往來二十里宛」本篇の後で、当地では一里を三十六町(三・九二七メートル)とするとあるから、現在の一里と同じ。何故、そう注を入れたか不審の向きもあろうが、実は当時の江戸ではそれとはずっと短い「坂東里」(ばんどうり:「田舎道の里程」の意で、奈良時代に中国から伝来した唐尺に基づくもので一里=六町=六百五十四メートルでしかなかった。これは特に鎌倉時代に関東で好んで用いたため、江戸でこの単位をよく用いた)が、結構、使われていたからである。往復延べ百五十六キロメートル。

「長洲」以下地名。熊本県玉名郡長洲町(ながすまち:グーグル・マップ・データ。以下同じ)か。

「田主丸」福岡県久留米市田主丸町(たぬしまるまち)田主丸

「大淵」福岡県八女市黒木町大淵か。

「松崎」福岡県小郡(おごおり)市松崎か。

「正八時」「しやうやつどき」。午後二時。

「手馬」自身が所有している馬。

「御預馬」藩主の持ち馬で命ぜられてその者が預かっている馬。

「十時内匠」姓は「とどき」或いは「ととき」。「内匠」は「たくみ」で通称。

「御役馬」藩内の役職上、頂戴している馬。]

武藩、去碕鎭三十六里、今玆爲ㇾ試馬力、往還七十二里、限二十時矣。其名如ㇾ左。

 立花能登源爲淸        宮城野鹿毛

 立花但馬源親博        白龍月毛

 由布藏人大神惟元       常磐靑毛

 蔣野彌十郞丹治增明      夕霧栗毛

 後藤新太郞藤原種能      小鼓鹿毛

 吉弘伊織助源鎭曉       白幣月毛

  文化十一甲戌年三月廿一日

   師、後藤市彌太藤原種房

[やぶちゃん注:「武藩」先祖代々正しき武士にして柳川藩藩士という謂いか。

「碕鎭」「きちん」。「碕」は「尖った先」、「鎭」は鎮守府で柳川城のことであろう。

「今玆」「こんじ」。今年。

「爲ㇾ試馬力往還七十二里、限二十時矣。其名如ㇾ左。」「馬力(ばりよく)を試みんと爲(し)て、往還、七十二里、二十時」(四十時間)「に限れり。其の」競技に參加せし者の「名、左のごとし。」。

「鹿毛」「かげ」と読む。一般に我々が想起しやすい茶褐色の毛を持つ馬のこと。

「月毛」クリーム色から淡い黄白色、さらに、長毛が白色に近い個体も含む。最後の「白幣」(しらにぎて:榊 (さかき) の枝に掛けて、神前にささげる麻や楮で織った布のうち、梶の木の皮の繊維で織った白布を指す)や、後に出る「白瀧」という名の馬は「月毛」とあるので、大方が白く見える毛色の個体と推定される。

「靑毛」基本的に黒色のものだが、季節によって毛の先が褐色に見える個体もある。

「蔣野」恐らく「こもの」と読む。

「吉弘」「よしひろ」であろう。大友氏の家臣に同姓がある。

「鎭曉」「しづあき」であろう。]

期刻本書之通御座候處、廿日暮六時、出立、廿一日夕八時、一同、長崎着、同夜四時、長崎出立、廿二日暮六時過より五時迄、追々歸着。

[やぶちゃん注:「期刻」「期(き)せる刻(とき)」。

「本書之通」「本書(もとがき)」(既に記したもの)「の通りに」。

「暮六時」「くれむつ」。午後六時前後。

「夕八時」「ゆふやつどき」。しかし、この言い方は普通は使わないので不審。不定時法の昼七つの夕七つに近い午後四時近くか。しかし「文化十一甲戌」(きのえいぬ)「年三月廿一日」はグレゴリ暦で一八一四年五月十日で日没は七時七分でとても夕暮れではない。

「夜四時」「よるよつどき」。不定時法で午後十時過ぎ。

「暮」「五時」午後八時前後。]

我藩至于小倉道程二十八里、今玆爲ㇾ試馳驅躡蹀于此往還五十六里、以十五時爲ㇾ期矣。其名列于左

 立花能登源爲淸        宮城野鹿毛

 立花造酒源種博        白瀧月毛

 由布藏人大神惟元       常磐靑毛

 吉弘貞之進源廣明       大車鹿毛

 吉弘伊織助源鎭曉       白幣月毛

  時文化十三丙子年九月望

   師、後藤市彌太藤原種芳

[やぶちゃん注:「二十八里」約百十キロメートル。

「馳驅躡蹀」「ちくでふてふ(ちくじょうちょう)」馳せ駆けらせ、踏ん張らせて早く至らせること。

「造酒」「みき」。

「文化十三丙子年九月望」グレゴリオ暦一八一六年十一月十四日。]

期刻本書の通御座候處、十五日曉九時、出立、同晝八時、小倉ヘ一同着。同夕七時、小倉出立、翌十六日歸着、左之通。

 廣明・鎭曉、一番、十六日辰中刻、歸着。

 種博、二番、巳上刻。惟元、三番、巳中刻。

 爲淸、四番、午上刻。

[やぶちゃん注:「曉九時」「あかつきここのつ」。定時法でも不定時法でも午前零時。

「晝八時」不定時法でこの時期なら午後二時。

「夕七時」同前で三時半頃。

「辰中刻」午前八時。

「巳上刻」午前九時。

「巳中刻」午前十時。

「午上刻」午前十一時。]

夫臣人者、恭敬忠直、輔ㇾ君治ㇾ國、莊卿大夫之職也。其奉使於列國、不ㇾ辱君命。葢列士之任也。其心平素存於此者、當亂世粉骨碎身、以退ㇾ敵保ㇾ君、固也、亂思ㇾ忠、忠不ㇾ忘ㇾ亂者。其操不亦美乎。文化十三丙子年秋九月日、筑後州柳川侯之臣五人、爲ㇾ試馬蹄遠路、到於我藩、如前所記一其日也、五人士連鑣而至、紅塵四起、蹄響遠轟、倐然來矣、忽焉去矣。觀者惟喫了一驚。余、時聞ㇾ之、五士皆柳藩顯家也。雖ㇾ不ㇾ知平常志操如何。身皆貴重於其國。遠試馬蹄、二日間、往還六百里許。可ㇾ謂治不ㇾ忘ㇾ亂之士也。「詩」曰、『赳々武夫 公侯之城』。亦此輩之謂乎。「魏志」曰、『人中有呂布、馬中有赤兎。』。於ㇾ人於ㇾ畜得其良、過傑出於世、自ㇾ古所ㇾ稀。今也五士、其馬之良固可ㇾ知矣。其人之器亦可ㇾ美矣。柳侯而得二此五士、豈得士少哉。我藩安部某者、柳侯旅亭主也。渥蒙國恩、於此擧寫五士前所示國社祠前姓名上、以珍藏於家。一日來請余題數言於其紙尾。余、不ㇾ辭不敏、因云爾。

             小笠原長常跋

 右小倉藩の公族大夫の由御座候。

[やぶちゃん注:訓読を試みる。一部は返り点に従わなかった。

   *

 夫(そ)れ、臣たる人は、恭敬・忠直、君(くん)を輔(たす)け、國を治めて、莊卿(さうけい)[やぶちゃん注:厳めしい重臣。]・大夫(たいふ)[やぶちゃん注:江戸時代で言う旗本に同じ。]の職なり。其れ、列國に奉使(はうし)し[やぶちゃん注:正規の他の強国への当該国の使者となり。]、君命を辱(はづかし)めず。葢(けだ)し、列士の任なり。其の心、平素、此(ここ)に於いて存せる者は、亂世(らんせい)に當らば、粉骨碎身、以つて、敵を退(しりぞ)け、君を保(やす)んずるは、固(もと)より、亂(らん)に忠を思ひ、忠は、亂を忘れざれば、其の操(みさを)、亦、美ならずや。文化十三丙子(ひのえね)年秋九月の日、筑後の州(くに)柳川侯の臣、五人、馬蹄遠路を試みんと爲(な)し、我が藩に到れり。前(さき)に所記(しよき)するごとく、其の日や、五人の士、鑣(くつばみ)を連ねて至り、紅塵四起、蹄響遠轟、倐然(しゆくぜん)として[やぶちゃん注:「忽然として」に同じ。]來たり、忽焉(こつえん)として去る。觀る者、惟だ了一驚(りやういつきやう)[やぶちゃん注:すっかり驚くこと。]を喫す。余、時に、之れを聞くに、五士、皆、柳藩(りうはん)の顯家(けんか)[やぶちゃん注:名高い名家。]なり。平常の志操の如何(いかん)を知らずと雖も、身、皆、其の國に於いて貴重なり。遠く馬蹄を試むこと、二日間、往還、六百里許(ばか)り。治めて、亂を忘れざるの士と謂ふべきなり。「詩」に曰はく、『赳々(きうきう)たる武夫(ぶふ) 公侯の干城』と。亦、此の輩の謂ひか。「魏志」に曰はく、『人中に呂布(りよふ)有り、馬中に赤兎(せきと)有り。』と。人に於いても、畜に於いても其の良きを得(え)、過ぐすに、世に傑出するは、古へより、稀れなる所(ところとな)せり。今や、五士、其の馬の良きこと、固(もと)より、知るべし。其の人の器(うつは)も亦、美(び)なるべし。柳侯にして此の五士ある、豈に士の少なきを得たるかな。我が藩安部某なる者、柳侯が旅亭の主(あるじ)なり。渥(あつ)く國恩を蒙(かふむ)り、此の擧(きよ)に於いて、五士の前(まへ)を國の社祠の前に標(しる)して所示(しよじ)し、姓名を謄寫し、以つて、家に珍藏す。一日(いちじつ)、來たり、余に數言(すげん)を其の紙尾に題すを請はる。余、不敏(ふびん)を辭せず、因み云ふのみ。

・「赳々(きうきう)たる武夫(ぶふ) 公侯の干城」「詩経」の「周南」の諸侯に仕える武人を讃えた詩「兔罝(としや)」の三・四句目。「赳々」(きゅうきゅう)は「筋肉が引き締まって強いさま。たくましく進むさま。偉丈夫の意とも。「公侯」ここは諸侯を指す。「干城」「干」は「垣」仮借で「垣城」は城郭の意だから「重要な護衛役」の意(以上は恩師であった故乾一夫氏の解説に拠った)。

・「魏志」史書「三国志」の内、魏の国に関する史実を記した部分の通称。全三十巻。 「蜀志」「呉志」とともに晋の陳寿の著。

・「呂布」(?~一九九年)後漢末期の武将・群雄の一人。現在の内モンゴル自治区包頭市の生まれ。「三国志」巻七「呂布伝」や「後漢書」「列伝六十五呂布伝」などに記録があり、剛勇を以って知られる。最初に丁原に仕えたが、彼を殺害し、後に董卓に仕えるが、やはり殺害して放浪した。最期は曹操との戦いに敗れて処刑された。参照した当該ウィキによれば、『呂布は、董卓を討った事を袁術が感謝しているだろうと思い、彼を頼ったが受け入れられず、次に袁紹を頼った。袁紹は黒山賊の張燕と戦っているときであったので、呂布を迎え入れ、共に常山の張燕を攻撃した。張燕は精兵』一『万と騎馬数千匹を率いて勢威を振るっていたが、赤兎馬』(せきとば)『に乗った呂布と、呂布配下の勇将・成廉、魏越が指揮する数十騎が』一日の内に三度も四度も『突撃して次々に張燕軍を討ち取ったため、数十日後に遂に敗れ、以後』、『黒山賊は離散した』。『この戦いの後』、『愛馬である赤兎とともに「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と賞されたという』とある。なお、「赤兎」ウィキの「赤兎馬」によれば、「赤兎馬」は「三国志」及び「三国志演義」に登場する馬で、「演義」では『西方との交易で得た汗血馬といわれている。「赤い毛色を持ち、兎のように素早い馬」の意とも。柿沼陽平によれば、①漢代簡牘に馬高』一メートル四十センチ『前後の複数の馬を「赤兎」とよんでいる事例があること、当時の』人々が『ウサギの頭のかたちをした馬を名馬としていたことから、「赤兔馬」自体は固有名詞でなく、「ウサギ頭の赤毛馬」をさす一般名詞であり、当時』、『赤兔馬にまたがっていたのは呂布だけではない』とある。

・「前」名前であろう。

「不敏」才能に乏しいこと。]

今玆講騎者數人、議早米來之海岸、濟於黑崎、人咸以兩岸曠遠、風濤暴起、且潮汐之所廻盪激渦危ㇾ之。是時師後藤翁、疾未ㇾ痊。恐其有敗失、使壽賰・春樹督護其事、先ㇾ是先師今村川流翁、欲ㇾ濟此水久矣。以人馬之未一ㇾ於大水輟。其後偏閱境内巨川長流、未曾有敗失。故後藤翁及壽賰春樹、亦欲ㇾ終先師遺志一、廼贊成其事云。於ㇾ是騎者刻日抵其海濱。督護二人、與同志十許人、艤二船于薙刀洲、官使下二[やぶちゃん注:ママ。]十時惟和、率艨艟數艘上ㇾ之。且日天晴海穩、督護在ㇾ船、鳴ㇾ鼓吹ㇾ螺、以壯其勢。觀者滿ㇾ岸。六騎廼循ㇾ潮縱ㇾ馬。競ㇾ先而進ㇾ船。悉從ㇾ之。既而先後登黑崎之岸、水程三里許【以我邦三十六町一里。】。其頃刻一時餘矣、唯四個所長景。馬瘏[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版は『屠』とする。]量ㇾ不ㇾ能ㇾ到黑崎、就近于高洲云。先ㇾ是吾輩謁神祠、禱襄其事也。騎者、

 立花能登源爲淸       宮城野鹿毛

 立花造酒源種博       游龍栗毛

 立花虎之助源種備      既望月毛

 吉弘貞之進源廣明      曙鹿毛

 四箇所七兵衞藤原長景    白瀧月毛

 今村鐵之助藤原備堅     大車鹿毛

督護、立花内膳源壽賰、大村主馬、多々良春樹。

師、後藤市彌太藤原種芳。

 時文化十四丁丑年八月既望

 朝五時、一同乘込、四時過、左之通、追々乘上、

一番、種博。二番、爲淸。半里程後れ、三番備堅。十町程後れ、四番種備・廣明。二町程後れ、二騎一同。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が最後まで一字下げ。]

立花侯藩中、吉弘貞之進、遠乘・水馬、好にて、右毛附、御南樣、御慰に入御覽度、同藩西京新左衞門備請、小膳方迄、差越候書付寫也。

 于時文政二己卯三月二日

[やぶちゃん注:さてもここで初めて標題の「水馬」の意味が明らかとなるのである。

「講騎者」乗馬の稽古をする者。

「早米來」福岡県大牟田市早米来町(ぞうきめきまち)。

「黑崎」早米来町の北の福岡県大牟田市岬に黒崎玉垂(くろさきたまたれ)神社があり、ここは神功皇后が三韓征伐より凱旋の際、ここに着船して行宮を創立したとする由緒ある神社で、黒崎観世音塚古墳など古墳もあるから、ここであろう。現在は干拓で内陸になっているが、「今昔マップ」で見ると、流石に「岬」の地名、海岸の岬である。早米来の海岸から海沿いに北上して、ここに至って、そこでこの「黑崎」の隈川を騎馬で「濟」(わたる)=渉(わ)たる計画であったのである。ところが、至って見ると、黒崎の隈川周辺は「兩岸曠遠、風濤暴起、且潮汐之所廻盪激渦危ㇾ之」(河口の両岸は広く遠く離れており、強風と波濤が暴れ起こり、なお且つ、丁度潮汐のピークに当たっていたために河口からずっと湧き返って激しく渦巻き、騎馬で渡るには、これ、甚だ危うい難所と化していたのであった。有明海の潮汐時間を調べなかったのは迂闊である。

「人咸」「ひとみな」。

「是時師後藤翁、疾未ㇾ痊」さらに加えて、騎馬訓練の師(総指揮者)であった後藤「市彌太」(いちやた)「藤原種芳」氏は、この時、何かの「病ひ、未だ痊(い)えず」という状態だったのである。

「恐其有敗失」その病気のためにこの騎馬軍行にあらぬ失敗が生ずることを恐れたのである。

「壽賰」後に「督護」(騎馬隊の監督・後藤氏の護衛役)とある「立花内膳源壽賰」。彼は当時、柳河藩家老であった立花寿賰(たちばな ひさとみ 宝暦一二(一七六二)年~文政八(一八二五)年)である。立花政俊を祖とする重臣家立花両家の一つ、立花内膳家(石高一千石)の第六代目当主でもあった。諱は当初は種輔であったが、後に、義弟でこの当時の藩主であった立花鑑壽から偏諱を賜り、寿徳(ひさとみ)・寿賰に改名した。参照した当該ウィキによれば、『「武の家」と言われた立花内膳家の当主だけに、家川念流剣術を皆伝し、宝蔵院流槍術の目録を取得した他、越後流兵学に精通していた。また財政・経済通であったとされる』。『柳川藩重臣の立花内膳家当主・立花種房(相模)の子として出生』し、寛政四(一七九二)年、『家老に就任。義兄弟の立花通栄』(なおちか)らと、「豪傑組」を『組織して藩政改革を行う。しかし』、寛政一〇(一七九八)年に立花鑑壽に『信任された小野勘解由により、通栄らは家老職を一時免職される(豪傑崩れ)が』、『寿賰は処罰対象ではなかったとされる。その後は内証方上聞役や花畠御用掛となるが、その後』、『辞職とな』った。文政七(一八二四)年に隠居し翌年に亡くなった。

「先ㇾ是先師今村川流翁、欲ㇾ濟此水久矣。以人馬之未一ㇾ於大水輟。其後偏閱境内巨川長流、未曾有敗失」頭の「是れより先」で、過去に(今は故人。以下の出る)今村川流(せんりゅう)翁は、永くこの流れを騎馬で渡ろうとされたが、人馬ともに大きな流れに慣れていないことから、「輟」(「やめ」。止め。)中止した経緯があった。その後も偏(ひとえ)に国境などにある大きな川の流れをよく観察され、それ以後は他の川では嘗て一度たりとも騎馬での川越えに失敗されたことはなかった、というのであろう。則ち、故今村師にとっては唯一渡河を諦めた因縁のある川だったのである。さればこそ、現在の師後藤も壽賰も春樹も、「先師の遺志を終はらしめんことを欲」し、「廼(すなは)ち、其の事に「贊成す」と云ふ」たのである。

「刻日」「刻日(こくじつ)して」か。「渡河を試みる時間をあらかじめ制限して」ということであろう。長引けば、足を取られて水没し、人馬ともに危ういからである。

「艤二船于薙刀洲」「船を薙刀洲(なぎなたず)に艤(ぎ)して」。思うに、隈川の河口にある砂州が薙刀の形をしていて、当地でそう呼ばれていたものであろう。万一、流された者がいた時の救助ために船をそこに漕ぎ出させたのである。

「官使下二[やぶちゃん注:ママ。]十時惟和、率艨艟數艘上ㇾ之。」こんな返り点は生まれて初めて見た。「官、十時惟和(とときこれかず)をして、艨艟(もうどう)數艘(すさう)を率(ひきい)て、之れを監せしむ。」。「艨艟」「もうしよう(もうしょう)」とも読む。昔の戦艦。堅固で細長く、敵の船中に突入するのに用いる。ただ、ここで急にそれを調達する訳には行かないだろうから、ここは漁師の舟を代用したのを、かこ格好をつけて言ったものと私は思う。

「且日天晴海穩、督護在ㇾ船、鳴ㇾ鼓吹ㇾ螺、以壯其勢。觀者滿ㇾ岸。六騎廼循ㇾ潮縱ㇾ馬。競ㇾ先而進ㇾ船。悉從ㇾ之。既而先後登黑崎之岸、水程三里許【以我邦三十六町一里。】。其頃刻一時餘矣、唯四個所長景。馬瘏[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版は『屠』とする。]量ㇾ不ㇾ能ㇾ到黑崎、就近于高洲云。先ㇾ是吾輩謁神祠、禱襄其事、也。」折角のクライマックスだから、訓読しておく。

   *

 且つ、日天、晴れ海、穩かに、督護せる船在り、鼓(つづみ)を鳴らし、螺(ほら)を吹き、以つて其の勢(せい)や、壯たり。觀る者、岸に滿つ。六騎、廼(すなは)ち、潮を循(めぐ)りて、馬(むま)を縱(ほしいまま)にす。先を競へば、而して、船を進む。悉く、此れ、從にす。既にして、先後(せんご)、黑崎の岸に登る。水程(すいてい)三里許り【我が邦は「三十六町」を以つて「一里」爲(な)す。】。其の頃、刻(こく)一時(いつとき)餘り、唯だ四個所に長景たり。馬瘏(ばと)の、黑崎に到ること能はざるを量りて、近くなる高洲に就(つ)かすと云へる。是れに先んじて、吾輩、神祠に謁して、其の事を禱襄(たうじやう)せしなり。

   *

・「唯だ四個所に長景たり」騎馬群は、河口から一里ばかりの広さで、四つの部隊に分かれて広がって見えた。

・「馬瘏」疲弊した馬。

・「禱襄」祈り祓うこと。

「文化十四丁丑」(ひのとうし)「年八月既望」八月十六日。グレゴリオ暦一八一七年九月二十六日。

「朝五時」(あさいつつどき)は不定時法でこの頃なら午前七時。

「十町」一キロ九十一メートル。

「二町」二百十八メートル。

「種備」「たねもと」と読んでおく。

「吉弘貞之進」筑後国柳河藩の次の第九代藩主立花鑑賢(あきかた)のウィキに、用人とて、小姓組で高四百石とする、同名の人物が載る。同じ人物であろう。第八代の鑑壽はこの文書が書かれた翌年に没しているからである。

「好にて」「このみにて」。

「御南樣」聴き馴れないが(読み不詳)、「北の方」の対、或いは「君子は南面して座す」で藩主のことであろう。

「度」「たく」。

「文政二己卯三月二日」一八一九年三月二十七日。]

2022/02/22

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 巻絹(マキギヌ・キヌタ) / ベニガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。左中央と下方に「簾貝」の図と解説が食い込んでいるので、マスキングした。なお、この前の見開き丁にあるホラガイと、サザエは、既にそれぞれ電子化注済みで、また、本右丁の左寄り中央にあるヒガイも同じく電子化済みである。最後に、ここにある全十六図(同一個体の裏・表でもそれぞれを一つと数えて)は、以下に示す通り、右下方に、「此數品武江本鄕住某氏町醫所持見ㇾ自予寫ヿヲカフ故天保五年九月初一日眞寫」(此の數品(すひん)、武江本鄕住(ぢゆう)、某氏、町醫の所持より見つ。予、寫すことを願がふ。故(ゆゑ)、天保五甲午(きのえむま)年九月初一日(しよついたち)、眞寫す。)と、写生対象についての経緯及びクレジットがある。グレゴリオ暦で一八三四年十月三日である。

 

Makiginu

 

巻絹(まきぎぬ)【又、「きぬた」とも云ふ。】

 

「六々貝合和哥」

『     左六番

       きぬた貝

 ちぎり置し衣の裏の秋ふけて

  うてるきぬたの貝もなかりき』

     とするの説、非なり。別種あり。

 

此の數品(すひん)、武江本鄕住(ぢゆう)、某氏、町醫の所持より見つ。予、寫すことを願(ね)がふ。故(ゆゑ)、天保五甲午(きのえむま)年九月初一日(しよついたち)、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:あまり上手く描けておらず、立体感がないが、形状から、

斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目ニッコウガイ超科ニッコウガイ科ベニガイ属ベニガイ Pharaonella sieboldii

の左殻である。本州の津軽海峡沿岸から九州に分布し、潮間帯から水深十メートルの細砂底に棲息する。殻長は大きい個体で五・五センチ、殻高二・三センチ、殻幅は九ミリメートルに達し、細長く扁平で薄質。後方へ吻状に細く長くなるが、右へ僅かに曲がる。殻表は紅色で、内面の外套線は深く湾入する。左殻を下にして砂中に潜る。肉は橙色で、煮ると、色が溶けて出る。水管は細く長い(小学館「日本大百科全書」の奥谷喬司先生の記載に拠った)。……そう……遠い昔……あなたに贈った美しいあの紅貝だ……

「巻絹(まきぎぬ)」綺麗な異名だが、調べたところでは、腹足綱異鰓上目汎有肺目嚢舌亜目トウガタガイ上科イソチドリ科 Monotygma 属ヒメゴウナ Monotygma eximia の異名としてあるようだ。学名のグーグル画像検索をリンクさせておく。う~ん、確かに。こっちの方が何し負う感じだな。

「きぬた」ずんぐりした砧ではなく、バット状にやや長くスマートな砧なら、この長めのに後部が伸びるそれは、腑に落ちる。キヌタガイの異名は異歯亜綱マルスダレガイ目シオサザナミガイ/リュウキュウマスオガイ科シオサザナミ属ウスベニマスオ Gari anomala の異名として比定されてあるが(学術データで確認済み)、Mozu氏のブログ「潮騒の宝箱」の本種のページを見ると、『とても薄く脆い貝』とあり、画像の形状がやはり後部に長いことが判る。学術データによれば、殼の色は淡いクリーム色で、殻頂から桃色の鮮明な放射状色帯を、多数、走らせるとあるので、ベニガイの褪せたものと見間違えることはありそうだ。もし、梅園が以下で、このウスベニマスオを「キヌタガイ」と比定し、本ベニガイとは異種だと言っているのだとすると、これは、ちょっと非常な観察眼と評価出来るように思う。

「六々貝合和哥」「ろくろくかひあはせわか」は複数回既出既注。潜蜑子(かずきのあまのこ)の撰になる元禄三(一六九〇)年刊の、当時辺りから流行った三十六歌仙に擬えた歌仙貝選定本。三十六品の貝と、それぞれの貝名を詠みこんだ和歌三十六首を選んだもの。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで見られる。作者のそれは実際には「同」であるが、前の歌のそれを写した。

   *

  左六番

       きぬた貝

「歌合」契りをきし衣のうらの秋ふけてよみ人しらす

  うてるきぬたのかひもなかりき

   *

「歌合」は調べてはみたが、孰れのそれかは不詳。さて。「きぬた貝」の図はここの右下端にあるが、殻頂からの有意な縦白帯が、二本、走っている。これは! 先のウスベニマスオにこそ、まさに顕著に見られるそれではないか!?!

萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 ありや二曲

 

 ありや二曲

              ゆめみるひと

 

   ×

 

えこそ忘(わす)れめや

そのくちづけのあとやさき

流(なが)るゝ水(みづ)をせき止(と)めし

わかれの際(きは)の靑(あほ)き月(つき)の出(で)

 

   ×

 

雨(あめ)落(おち)し來らんとして

沖(おき)につぱなの花(はな)咲(さ)き

海月(くらげ)は渚(みぎは)にきて靑(あほ)く光(ひか)れり

砂丘(おか)に登(のぼ)りて遠(とほ)きを望(のぞ)む

いま我(わ)が身(み)の上(うへ)に

好(よ)しと思(おも)ふことのありけり

 

[やぶちゃん注:大正二(一九一三)年十月五日附『上毛新聞』に発表された。前の「暮春詠嘆調」の翌日の同紙上である。

・「靑(あほ)」二ヶ所はママ。

・「つぱな」はママ。「つばな」の誤植。前回、注した通り、この「沖につばなの花咲き」というのはちょっと躓く。「つばな」は「茅花」でチガヤの花穂を指すからだが、前の「雨おとし來らんとして」から、海が荒れて白波が立っているのをかく比喩したものと読める。或いはそれを「津花」と洒落たのかも知れぬ。

・「砂丘(おか)」は二字のルビで「おか」はママ。萩原朔太郎自身の原稿ルビであろう。

五月蠅いので、今回は読みで躓く「落(おち)し」の「ち」を外に出し、明白な誤植である「つぱな」を訂し、読みの振れるもの以外を除去した版を示しておく。

   *

 

 ありや二曲

 

 

   ×

 

えこそ忘れめや

そのくちづけのあとやさき

流るゝ水をせき止(と)めし

わかれの際の靑き月の出

 

   ×

 

雨落ちし來らんとして

沖につばなの花咲き

海月は渚(みぎは)にきて靑く光れり

砂丘に登りて遠きを望む

いま我が身の上に

好しと思ふことのありけり

 

   *

 「習作集第八巻(愛憐詩篇ノート)」に「ゆく春のうたありや」という草稿があり、その中に、本篇の草稿があるが、前回、既にその全草稿を電子化してあるので、そちらを見られたい。最後の二連が本篇の草稿である。

萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 暮春詠嘆調

 

 暮春詠嘆調

               夢みるひと

 

   ×

 

年(とし)ひさしくなりぬれば

すべてのことを忘(わす)れはてたり

むざんなる哉(かな)

かばかりのもよほしにさへ

淚(なみだ)も今(いま)はみなもとをば忘(わす)れたり

 

   ×

 

人目(ひとめ)を忍(しの)びて何處(いづこ)に行(ゆ)かん

感(かん)ずれば我(わ)が身(み)も老(お)ひたり

さんさんと柳(やなぎ)の葉(は)は落(お)ち來(く)る

駒下駄(こまげた)の鼻緖(はなを)の上(うへ)に落日(おちび)は白(しろ)くつめたし

 

[やぶちゃん注:大正二(一九一三)年十月四日附『上毛新聞』に発表された。

・「淚(なみだ)も今(いま)はみなもとをば忘(わす)れたり」は「淚も今は/みな/もとをば忘れたり」(淚も今は皆元をば忘れたり)ではなく、「淚も今は/みなもとをば/忘れたり」)淚も今は源をば忘れたり)であろう。

・「老(お)ひたり」はママ。

言っておくが、この発表時、萩原朔太郎は満二十六歳である。

 五月蠅いので、読みの除去版を示す。

   *

 

 暮春詠嘆調

               夢みるひと

 

   ×

 

年ひさしくなりぬれば

すべてのことを忘れはてたり

むざんなる哉

かばかりのもよほしにさへ

淚も今はみなもとをば忘れたり

 

   ×

 

人目を忍びて何處に行かん

感ずれば我が身も老ひたり

さんさんと柳の葉は落ち來る

駒下駄の鼻緖の上に落日は白くつめたし

 

   *

 なお、「習作集第八巻(愛憐詩篇ノート)」に「ゆく春のうたありや」(太字は底本では傍点「﹅」。言わずもがなであるが、「ありや」は「アリア」のこと)という草稿があり、その中に、本篇の草稿がある。しかも、編者注によれば、ノート『卷末の目次では「暮春詠嘆調」という題名を附している』とある。以下に同草稿全部を示す。

   *

 

 ゆく春のうたありや

 

としひさしくなりぬれば

すべてのことを忘れはてたり

むざんなるかな

かばかりのもよほしにさヘ

淚もそのいまはみなもとをば忘れたり

 

     ×

 

ひとりありて何をか思ふ

けふもまたそのあかき書(ふみ)を讀まんとする

けふもまた哀しきまなこもて

その赤き書(ふみ)を讀まんとするか

ひとまをいでゝ遠きを見よ

いま初夏きたり、あめつちこぞりて明るきに靑明なり

 

     ×

 

夕ぐれとなりてものみなは形をうしなひ

ちまたのうち

露路のかげより人步み來る

かゝるとき

ものゝにほひに淚をながしつゝ

われはまだ知らぬ戀にこがれ行く

 

     ×

 

人目をしのびていづこに行かむ

感ずればわが身も老ひたり

さんさんと柳の葉は落ち來る

駒下駄の鼻緖うへに落日は白くつめたし

 

     ×

 

えこそわすれめや

そのくちづけのあとやさき

流るゝみづをせきとめし

われかのきはの靑き月の出

 

     ×

 

雨おとし來らんとして

沖につばなの花咲き

くらげは渚にきて靑く光れり

砂丘にのぼりて一人遠きを望む

いまわが身のうへに好しと思ふことありけり、

 

   *

「老ひ」はママ。第一連と第四連が本篇の草稿である。最終連の「沖につばなの花咲き」というのはちょっと躓く。「つばな」は「茅花」でチガヤの花穂を指すからだが、前の「雨おとし來らんとして」から、海が荒れて白波が立っているのをかく比喩したものと読める。或いはそれを「津花」と洒落たのかも知れぬ。なお、本詩篇は間違いなく「エレナ」詩篇である。まず、第二連の「あかき」「赤き」「書(ふみ)」である。萩原朔太郎自作製本になる「ソライロノハナ」(リンク先は私のマニアックな注附きの一括縦書PDF版)は現物を展覧会で見たが、本文の一部に薄い赤い斑の下地紙を用いているのである。「われはまだ知らぬ戀にこがれ行く」とは、終生、彼が幻像として聖なるものに昇華・個執化させたエレナへのそれ(心傷)以外には考えられず、而して最終連のそれはまさに「ソライロノハナ」で描かれた大磯のシークエンスを髣髴させるからである。なお、次の「ありや二曲」も参照のこと。

萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 放蕩の虫

 

 放蕩の虫

               夢みるひと

 

放蕩(はうだう)の虫(むし)は玉虫(たまむし)

そつと來(き)て心(こゝろ)の底(そこ)で泣(な)く虫(むし)

夜(よる)としなればすゞろにも

リキユールグラスの端(へり)を這(は)ふ虫(むし)

放蕩(ほうとう)の虫(むし)はいとほしや

 

放蕩(ほうとう)の虫(むし)は玉虫(たまむし)

靑(あを)いこゝろでひんやりと

色街(いろまち)の薄(うす)らあかりに鳴(な)く虫(むし)

三味線(さみせん)の撥(ばち)にきて光る虫(むし)

放蕩(ほうとう)の虫(むし)はせんなや

 

[やぶちゃん注:大正二(一九一三)年十月三日附『上毛新聞』に発表された。

・「放蕩」の全ルビ「はうどう」「はうとう」は総てママ。歴史的仮名遣は「はうたう」が正しい。

 当時の新聞のルビは新聞社で勝手に附した傾向が甚だ強い。この誤植も総ては朔太郎のあずかり知らぬものであろう。次いで言っておくと、新聞では拗音表記を無視した(読み難くなるだけだから)傾向もあり、以下の草稿を見ても、或いは、朔太郎の原稿は「リキュールグラス」となっていた可能性も高い。五月蠅いだけなので、読みの除去版を以下に示す。

   *

 

 放蕩の虫

               夢みるひと

 

放蕩の虫は玉虫

そつと來て心の底で泣く虫

夜としなればすゞろにも

リキユールグラスの端を這ふ虫

放蕩の虫はいとほしや

 

放蕩の虫は玉虫

靑いこゝろでひんやりと

色街の薄らあかりに鳴く虫

三味線の撥にきて光る虫

放蕩の虫はせんなや

 

   *

 なお、「習作集第八巻(愛憐詩篇ノート)」に同名の草稿がある。以下に示す。

   *

 

 放蕩の蟲

            (一九一三、二)

 

放蕩の蟲は玉蟲

そつと來て心の底で泣く蟲

夜としなればすゞろにも

リキュールグラスの緣(へり)を這ふ蟲

放蕩の蟲はいとほしや

 

放蕩の蟲は玉蟲

靑いこゝろでひんやりに

色街の薄ら明りに鳴く蟲

三味線の撥にきて光る蟲

放蕩の蟲はせんなや

 

   *]

萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 小曲集(前回のものとは別)

 

 小曲集

               夢みるひと

 

   ×

 

千鳥(ちどり)あし

やつこらさと來(き)て見(み)れば

にくい伯母御(おばご)にしめ出され

泣(な)くに泣(な)かれずちんちろり

柳(やなぎ)の下(した)でひとくさり

 

   ×

 

隣(となり)きんじよのお根(こ)ん性(ぜう)に

打(う)たれ抓(つ)められくすぐられ

ぢつと淚をかみしめる

靑(あを)い毛絲(けいと)の指(ゆび)ざはり

 

[やぶちゃん注:大正二(一九一三)年十月二日附『上毛新聞』に発表された。太字は底本では傍点「ヽ」。

・「伯母御(おばご)」のルビの「お」はママ。

・「性(ぜう)」のルビはママ。

・「ぢつと」はママ。

編者注があり、掲載紙では、『この後に短歌「あひゞき」五首を掲載。』とある。当該短歌を同底本の短歌パートから以下に掲げておく。太字は同前。

   *

 

   あひゞき

               夢みるひと

 

あいりすのにほひぶくろの身(み)にしみて忘(わす)れかねたる夜(よる)のあひゞき

 

しなだれてはにかみぐさも物(もの)は言(い)へこのもかのものあひゞきのそら

 

夏(なつ)くれば君(きみ)が矢車(やぐるま)みづいろの浴衣(ゆかた)の肩(かた)ににほふ新月(にひづき)

 

なにを蒔(ま)く姫(ひめ)ひぐるまの種(たね)を蒔(ま)く君(きみ)を思(おも)へと淚(なみだ)してまく

 

いかばかり芥子(けし)の花(はな)びら指(ゆび)さきに泌(し)みて光(ひか)るがさびしかるらむ

             (一九一三、四)

 

   *

この内、四首目は大正二(一九一三)年四月発行の『朱欒』(「ザンボア」と読む。北原白秋の編集になる文芸雑誌。明治四四(一九一一)年十一月からこの翌月大正二(一九一三)年五月までで全一九冊を刊行した)に萩原咲二名義で載せた三首の内の一首、

 

なにを蒔くひめぐるまの種を蒔く君を思へと淚してまく

 

(「ひめぐるま」は「ひめひぐるま」の脱字であろう)の再掲である。因みに、この大正二(一九一三)年四月というのは萩原朔太郎の詩人人生の一つの大きな特異点である。それは、かの「エレナ」への絶唱、生涯唯一と思われる自筆歌集(散文附き)「ソライロノハナ」を制作した月だからである(リンク先は私の注附きPDF縦書一括版)。なお、私は「やぶちゃん版萩原朔太郎全歌集 附やぶちゃん注 PDF縦書版」も公開している。

   *

 なお、「習作集第八巻(愛憐詩篇ノート)」に「いろはがるた」という草稿があり、その中に、

   *

     ×

千鳥あし

やつこらさと來てみれば

にくい伯母御にしめ出され

泣くになかれずちんちろり

柳の下でひとくさり、

     ×

となりきんじよのおこんぢよに

うたれつめられくすぐられ

ぢつと淚をかみしめる

靑い毛絲の指ざはり

     ×

 

   *

というパートが続いて出る。草稿「いろはがるた」(標題には頭に「△」が打たれ、決定標題ではない)の全篇は「いろはがるた 萩原朔太郎」で既に電子化注してあるので参照されたい。]

2022/02/21

萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 小曲集

 

 小曲集

               夢みるひと

 

   ×

 

ほゝづきよ

ひとつ思(おも)ひに泣(な)けよかし

女(をんな)のくちにふくまれて

男(をとこ)ごゝろのさびしさを

さも忍び音に泣けよかし

 

   ×

 

ほんのふとした一言(ひとこと)から

人(ひと)が憎(にく)うてならぬぞへ

ほんのその日(ひ)の出來(でき)ごゝろ

つい張(は)りつめた男氣(をとこき)が

しんぞ可愛(かは)ゆてならぬぞへ

 

[やぶちゃん注:大正二(一九一三)年十月一日附『上毛新聞』に発表された。

・二箇所の「ならぬぞへ」はママ

・「男氣(をとこき)」のルビの「き」はママ。無論「をとこぎ」が正しい。但し、新聞なので、ルビは勝手に新聞社が附したものと考えた方が無難。

 読みが五月蠅いので、除去版を以下に示す。

   *

 

 小曲集

               夢みるひと

 

   ×

 

ほゝづきよ

ひとつ思ひに泣けよかし

女のくちにふくまれて

男ごゝろのさびしさを

さも忍び音に泣けよかし

 

   ×

 

ほんのふとした一言から

人が憎うてならぬぞへ

ほんのその日の出來ごゝろ

つい張りつめた男氣が

しんぞ可愛ゆてならぬぞへ

 

   *

 なお、底本全集第二巻の「習作集第八卷(愛憐詩篇ノート)」の中に本篇の草稿が別々にある。以下に示す。後者は無題だが、ノート『卷末の目次では「えちうど」との題を附している』と編者注がある。

   *

 

 ほゝづき

 

ほゝづきよ

ひとつ思ひに泣けよかし

女のくちにふくまれて

男ごゝろのかなしさを

さも忍び音に泣けよかし

 

   *

 

 △

 

ほんのふとした一言(ひとこと)から

ひとが憎うてならぬぞへ

ほんのその日の出來ごゝろ

つい張りつめた男氣が

しんぞ可愛ゆてならぬぞへ

 

   *]

『萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版』の「宿醉」・「なにか知らねど」・「秋」・「ものごゝろ」・「ふゞき」・「鳥」について


萩原朔太郞「拾遺詩篇」の初出形・正規表現版は底本全集の順序では、以下の、

「宿醉」

「なにか知らねど」

「秋」

「ものごゝろ」

「ふゞき」

「鳥」

六篇が続くが、これらは既に先に以上のリンク先の記事内で電子化注しているので、そちらを読まれたい。


毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 蛤蜊(ハマグリ) / ハマグリ(四個体)・チョウセンハマグリ(三個体)

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。頭の名称は総て改行した。]

 

Hamaguri

 

「多識扁」

 蛤蜊(はまぐり)

 擔羅(タンラ)【しろき「はまくさ」。】

 車螯(シヤガウ)【「大はまくり」。】

 蜃(シン)

「料理綱目」

 ※【「はまくり」。】

[やぶちゃん注:「※」=「虫」+「濵」。]

「兼名苑」に曰はく、

 蛘蛤【「はまくり」。】。一名「含漿」。

蜃 「潛確類書」に曰はく、『狀(かたち)、螭龍(ちりやう)に似て、角、有るのみ。』と。「埤雅(ひが)」に曰はく、『蜃の氣、樓臺を作(な)す。將に雨(あめふ)らんとするに、卽ち、見る、丹碧(たんぺき)、隱然として、烟霧のうちに在るがごとし。今の俗、之れを「蜃氣樓」と謂ふ。』と。「史記」に、『海傍(かいぼう)の蜃の氣、樓臺を成す。』と。「括筆談」に曰はく、『登州の海中、時に雲氣有り、宮室(きうしつ)・臺觀・臺觀(たいくわん)・城堞(じようちよう)・人物・車馬・冠葢(くわんがい)の狀(かたち)のごとく、之れを「海市」と謂ふ。或いは「蛟蜃(かうしん)の氣」と云ふ。』と。「本草」の時珍曰はく、『「蛟」の屬に、「蜃」、有り。其の狀(かたち)、亦、虵(へび)に似て、大なり。角、有り、龍の狀のごとし。』、『能く氣を吁(は)きて、樓臺・城郭の狀を成す』と。

◦又、「月令(がつりやう)」に、『孟冬の月、「雉(きじ)」、大水(だいすい)に入りて、「蜃」と爲る。註に、「蜃」は「大蛤」なり。』と。

◦「蜃氣、樓臺を爲す」の「蜃」は、龍の類(たぐひ)なり。日本に、之れ、無し。「月令」に記(しる)せし「雉」の化する「蜃」は「大蛤(おほはまぐり)」なり。樓臺を倣(みな)すの「蜃」に、非ず。「合璧事類」等に曰はく、『大蛤。一名「蜄」。能く氣を吐きて、樓臺を爲す。』と云ふ。考ふべきか。

 

[やぶちゃん注:以下は、頭の標題(釈名)群の下方のもの。]

蛤、勢州桑名を名産とす。紀州「和歌の浦」・江戸品川の産、之れに次ぐ。北の海、稀れにあり。本邦、三月雛祭りに、家〻に、かく事なく、用ゆ。

 

[やぶちゃん注:以下は下部中央のもの。]

「方諸(はうしよ)」[やぶちゃん注:大蛤で作った杯盤を言う語。]。高誘の曰はく、『陰燧(インスイ)は大蛤なり。熟摩(じゆくま)して、月に向へば、則ち、水、生ず。大蛤の殻を、よくすりて、煖(あたたか)にならしめ、月、盛んなる時に、向へて、水を、とる。水、數滴(すてき)下(くだ)る。是れを「方諸」と云ふ。水晶にて、日に向ひ、火を取るがごとし。』云〻。

 

[やぶちゃん注:以下は左中央のもの。]

此の者を「烏貝(からすがひ)」と云ふ。

 

[やぶちゃん注:以下は左下のもの。]

「六々貝合和哥」 左十七番

   「山家」         西行

         伊勢

     今ぞ知る二見の浦の蛤を

      貝合せとぞ思ふなりけり

 

[やぶちゃん注:以下、中央のクレジット。]

壬辰(みづのえたつ)八月十四日、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:七個体の内、右上の二個体と右下の大ぶりな一個体は、

斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ科ハマグリ亜科ハマグリ Meretrix lusoria

と比定してよいと思う。

 また、梅園がわざわざ「烏貝」と異名を特に記している焦げ茶色の一個体と、左上の特有の墨を擦ったような斑点を持つ二個体は、私は、ハマグリの近縁種で、殻の模様がハマグリ同様、個体変異が多い、

ハマグリ属チョウセンハマグリ Meretrix lamarckii

に比定したい。例えば、ウィキの「チョウセンハマグリ」によれば、『殻の表面の外見は淡褐色を典型』としつつ、『個体差が大きく、全体にチョコレート色になる』(以上が梅園の「烏貝」と名指すものに一致する)『ものなどもある。幼貝のうちは筆でかすったような褐色斑が現れることもあるが、老成すると模様の鮮明な個体は少なくなる』。『斑紋があっても淡くぼんやりとして目立たない』とあって、この後者が左上の二個体とよく一致するからである。一番、それが判る「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のチョウセンハマグリのページの九個体が写っている写真をクリックされると、私の比定が納得されるものと思う。因みに、そこに書かれてもいるのであるが、この現在の和名は最初に名指した武蔵石寿(むさし せきじゅ 明和三(一七六六)年~万延元(一八六一)年の「目八譜」(天保一四(一八四三)年に完成させた全十五巻十三冊からなる本邦の貝類書の大作。九百九十一種を収録した図鑑。図は服部雪斎の筆になる。採集場所は五十一ヶ国二百五十余所に及ぶ。現在の日本における貝の和名は、この図鑑で命名されたものが多い)による和名なのであるが、江戸時代に於いては、「朝鮮」という言葉が、本種の場合、ぼうずコンニャク氏曰わく、『身近なところにいる(内湾の)ハマグリと似ているが、やや遠い場所(外洋に面した浜)にいる、という意味だと思う。明治・大正・昭和になると』、文字通り、『模式標本が朝鮮半島である場合や、実際に朝鮮半島で多産するためだが、江戸時代の「朝鮮」は』、『あきらかに別の意味合い』なのである。則ち、「一般に知られている特定の種と似ているか、或いは、似て非なるもの」というニュアンスが「チョウセン」という部分和名には含まれてしまっているのである。以前から思っているのであるが、これは朝鮮に人々にとって、明らかに差別的な用法であって、「イザリウオ」を「カエルアンコウ」と是正改名するくらいなら(この改名はヒドいもので、新和名を考えた人間のセンスが疑われるものである。カエルやアンコウが理解出来たら、意義を唱えて裁判沙汰になるレベルと大真面目に考えている)、この「チョウセンハマグリ」や「バカガイ」などをこそ、早く差別和名として改名すべきであると真剣に主張するものである。

 話を同定に戻す。一つ残した中央下部の最大型個体の左側にある貝は、一見すると、蝶番部分の形状や縦横の放射状の模様がちょっと疑わしい気はする。しかし、これは他の描かれた図と比較して小さく、稚貝であると考えてよい。複数のハマグリの稚貝の写真をとくと見たところ、少し離れて見ると、この絵のように見える個体が幾らもあった。されば、特にこれも結論としては、ハマグリに同定することとした。

 なお、ハマグリは本邦では北海道南部~九州にかけてで、他に朝鮮半島・台湾・中国大陸沿岸に棲息し、チョウセンハマグリは房総半島以南の太平洋側と能登半島以南の日本海側の他、韓国・台湾・海南島・フィリピン等に棲息する。

 さて、本解説は一見、リキが入っているように見えるけれども、残念乍ら、メインの「蜃」についての長いそれは、その殆んどが、またしても、貝原益軒の「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 蜃」からの借用である。まあ、比較して見んさいよ! 終りのところを、あたかも自分が原点に当たってきたかのように記し、「考ふべきか」などと言い添えているのは、鼻白んでしまうのだ! 「大和本草」からの引用を示していれば、最近、絵が優れているので、かなり好きになりかけている梅園だから、許してやろうという気にもなるのだがねぇ。しょぼん……尤も、実は益軒も、そこでは「埤雅」の「蜃」の記載を、一部省略しながら、巧みに切貼・転写して書いているので、案外、益軒も怒って挙げた拳を振り下ろせぬかも知れんな……

「多識扁」複数回既出既注。林羅山道春が書いた辞書「多識編」。慶安二(一六四九)年の刊本があり、それが早稲田大学図書館「古典総合データベース」にあったので、調べたところ、「卷四」のこちらにあった。

   *

蛤蜊【波末久里】

 蛤蜊粉【波末久(マグ)利加伊乃波伊】[やぶちゃん注:「はまぐりかいの灰」で貝灰のこと。]

 酒蛤蜊【左加豆゙計乃派波末久利】[やぶちゃん注:「酒漬(さかづ)けの蛤」。]

 海粉【宇美加゙伊乃波伊】[やぶちゃん注:「海貝(うみがい)の灰」。ハマグリが主体であったらしい。]

   *

「擔羅」「本草綱目」の巻四十六の「介之二」に、ハマグリ類を示す「蛤蜊」とは別に立項されている。そこには、

   *

擔羅【「拾遺」。】

集解【藏器曰はく、『蛤の類なり。新羅國に生ず。彼(か)の人、之れを食ふ』と。】

   *

とあった。また、この名で漢方薬とする記載も中文サイトの中にはあった。ただ、新羅(しらぎ)という辺りは、チョウセンハマグリを想起したくはなる。しかし、これ、判らない。ただのこの記載だけだと、全く無縁な別名二枚貝の種の可能性も大いにある。

「車螯」「螯」第一義を「蟹」或いは「蟹の鋏」とするが、この「車螯」で、「大きな蛤(はまぐり)」を指す。但し、その場合の「おおはまぐり」というのは、ハマグリの大型個体に留まらず、一般の個体より大きな二枚貝一般を総称するものとなり、遂には、妖獣としての以下に語られるファタ・モルガナ(Fata Morgana:イタリア語)みたようなもの見せる「蜃」へと肥大化することとなるのである。その辺りも、「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 蜃」で既に注した。

「料理綱目」嘯夕軒宗堅(しょうせきけんそうけん)が享保一五(一七三〇)年に板行した料理書「料理網目調味抄」。国立国会図書館デジタルコレクションの、その第一巻の目録の「魚之部正字大畧」のここに(左丁最終行中央)、『蛤(はまくり)【※】』(「※」=「虫」+「濵」)とある(「仝」は「同」の異体字)。なお、この「※」の字は「はまぐり」の「はま」の和訓から思いついた和製漢字ではないかと推測する。

『「兼名苑」に曰はく、蛘蛤【「はまくり」。】。一名「含漿」』これは「倭名類聚鈔」の巻十九の「鱗介部第三十龜貝類第二百三十八」の(例の国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを参考にして起こした)、

   *

蚌蛤(ハマクリ) 「兼名苑」に云はく、『蚌蛤【「放」・「甲」の二音。「蚌」或いは「蜯」に作る。和名「波万久理(はまくり)」。】は、一名は「舎漿」。

   *

を引いただけ。「兼名苑」は唐の釈遠年撰とされる字書体語彙集だが、散佚して現存しない。

『蜃 「潛確類書」に曰はく……』既に述べた通りで、「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 蜃」で既に以下の内容は詳しく注してあるので、見られたい。ここにまた引くほど、俺は暇じゃない。

「三月雛祭りに、家〻に、かく事なく、用ゆ」今じゃ「はまぐりのお吸い物」を雛祭りで食べもしないし、その習俗を知らない人も増えてきたかも知れないので注する。「真多呂人形」公式サイトの「雛祭りとはまぐりの関係」の「雛祭りにはまぐりのお吸い物を食べる理由」から引用する。『雛祭りには今でも、はまぐりのお吸い物を食べますが、それにはいくつかの理由があります。はまぐりをはじめとする二枚貝は、昔はお姫様を意味していていました。 この時期に一番美味しい貝類の中でも、特に、はまぐりは二枚の貝がぴったり合って、他のはまぐりの貝殻とは絶対に合うことがないため、「女の美徳や幸せ」につながるとされたのです。このようなことから、「はまぐり」は「夫婦和合・夫婦円満」の象徴とされ、生涯一人の人と添い遂げて幸せな人生を送りますようにと、結婚式にも縁起物として出されるようになりました』。『女の子が生まれたときには、お雛様を購入して雛祭りに飾りますが、女の子は結婚するときに誰でもお姫様となるように、結婚まで飾るお雛様に、その思いを込めて、はまぐりが食べられるようになったのです』ということだ。因みに、私の家の十畳の居間の四分の一は既に三日前から巨大な雛段に占領されている(写真は二〇一三年のもの)。私は雛人形が大好きなのだ。

「高誘」は後漢末年の士大夫で学者でもあった人物。「淮南子」・「呂氏春秋」・「戦国策」の注で知られる。以下は「淮南子」の注を大体の元にした記載だな。劉安・高誘らの「淮南子」の注を集めた「淮南鴻烈解」の影印原本の当該部が「中國哲學書電子化計劃」のこちらで見られる。

「陰燧」は大蛤(先に言ったように必ずしもハマグリとは限らない。寧ろ、私は以下に説明する内容から真珠光沢を有するアワビ等の大型個体を想起する)を丁寧に擦り上げて(=「熟摩」)鏡にしたものを指す。対語が「陽燧」で、これは銅で拵えた凹面鏡で、そこの光りの交点に艾(もぐさ)を掲げ置けば、火を得られるという寸法だ。後の水晶でも可能だが、陰陽の対が同じ鏡様のもので、こっちの方が相性がよりいいわな。

「煖(あたたか)にならしめ」先の影印の原文では「令熱」で「熱くせしめ」だ。高温にした鏡を月夜に出せば、次第に結露し、夜露も下って、鏡面盃の中に水が得られるという寸法だ。「貴重な火を太陽(自然)から得るというその神聖さはよく判るが、少量の水を月から得てどないするんや?」と言う御仁は阿呆か? 「承露盤」を知らんかい? 漢の武帝が建章宮に設けた銅製の盤さ。不老長寿の霊水である神仙の「天露」を得ようとしたんだよ。月

「烏貝」カラスのように黒っぽいく見えるからだろう。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のチョウセンハマグリのページの九個体が写っている写真の一番右端の個体が海水中にいるときは、黒く見えましょうぞ。前の「馬刀(バタウ)・ミゾ貝・カラス貝・ドフ(ドブ)貝 / カラスガイ」の斧足綱イシガイ(石貝)目イシガイ科カラスガイ(烏貝)属カラスガイ Cristaria plicata とは何の関係もありんせん!

「六々貝合和哥」「ろくろくかひあはせわか」は複数回既出既注。潜蜑子(かずきのあまのこ)の撰になる元禄三(一六九〇)年刊の、当時辺りから流行った三十六歌仙に擬えた歌仙貝選定本。三十六品の貝と、それぞれの貝名を詠みこんだ和歌三十六首を選んだもの。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで見られる。

   *

   左十七 はまぐり

「山家」

  今そしるふたみの浦のはまくりを 西行

  貝あはせとそおほふなりけり

   *

言わずもがな、「思ふ」ではなく、「覆ふ」が正しい。まあ、崩しの判読の最も難しい「ほ」と「も」で仕方がないにしても(実際、ぱっと見で私も「も」にしか見えなかった)、和歌として「思ふ」じゃ意味が通ぜんだろ? 一抹もそれを感じなかった梅園は、かなりイタいぞ! 本歌については私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 掉尾 蛤のふたみへわかれ行く秋ぞ』の注を見られたい。珍しく拙訳も記しておったわ。

「壬辰(みづのえたつ)八月十四日」天保三年。グレゴリオ暦一八三二年九月十四日。]

萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 秋の日

 

 秋の日

               萩原美棹

 

眼を惱(なや)む山雀(やまがら)の

愁を分けて、秋の日

乳母(うば)の里、梨寺に

稚日(ちゞつ)想(おもひ)をなやみぬ

 

花びら

地に落つる音

艾子(けし)ちるか

秋なるに

 

はた山なるに

いと淋しや

宵(よひ)、また籠をいだいて

憂(うれ)ひぬ、鳥の病に

 

あゝ疑ふ

死せざらんや、いかで

さて風ふかば、いかで

聞かざらんや

豆の葉の鳴る日を

 

野面(のもせ)、雪に埋れし

木枯あらばいかに

淋しとて

泣くこゝろ、鳥にかあらまし

人なればとて、いはんや

 

かばかりいたむ心ぞ、君

口吃(くこも)る男を癖(くせ)とみしも

(昨日か)

思ふに淚はかくこそ流れん

わりなや

 

秋風(あきかぜ)、肌(はだへ)に寒しとてや山雀

いといと切(せち)なる振(ふり)に鳴(な)くも

なにかは

我は山住み

今(こ)の日笑顏(ゑがほ)の乳母(うば)を見て

知んぬ平和の愛着

 

目を病むも

老ひたるも

人たるも鳥たるも

(さはいへ)

さびしからまし

日は照るに

とこしなへ

 

籠を抱いて

夜すがら

鳥と愁へぬ。

あかつき

覺(さ)めにけり

菊の露

 

[やぶちゃん注:前の「絕句四章」と同じく明治三八(一九〇五)年七月発行の『坂東太郞』に発表された。

・「乳母(うば)」不詳。

・「梨寺」不詳。

・「艾子(けし)」はママ。校訂本文は「芥子(けし)」と訂する。

・「口吃(くこも)る」校訂本文は「口籠(くごも)る」する。

・「老ひたるも」はママ。]

萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 絕句四章

 

 絕句四章

               みづのひと

 

色白の姉に具されて。今日もまた昔談や。

 あれいま。逍遙うんじて歸る山路。

 遠音に渡るかほとゝぎすの。

 

つみとりてそゞろ心や

      くちづけさはに

 願ふは君が鬚ぐさ飾るやさし七草。

 

あかつきや破れし鐘樓に。肩ねびし人と登りぬ

 見よ君。指ざす方に日は出らめ。

 あゝかの野路こそいと戀ひしや。

 

行きづりの小草の中に。床し小扇

      唯がすさみぞや

 これ優しぐさ『秋の恨み』と。

 

[やぶちゃん注:明治三八(一九〇五)年七月発行の『坂東太郞』に発表された。底本編者注によれば、『他の作者の四章とともに掲載』されたという記載がある。なお、本群馬県立前橋中学校校友雑誌『坂東太郞』第四十二号は、同年四月に校友会幹事の改正で雑誌部幹事(別に講演部幹事も兼ねた)になっていた朔太郎自身が部長町田英とともに編集したものであった。全集年譜によれば、彼の関わったこの年の同誌については、『中學校友會誌として新鮮な編集で内容も充實しているが、あまりにも文藝的であると、先輩から非難も受けた』とある。

「色白の姉」萩原朔太郎には姉テイがいるが、朔太郎が生まれる二年前の明治一七(一八八四)年一月に亡くなっているので、この「姉」は仮想の存在か、或いは年上の親しい女性をかく言ったものか。なお、後の「小扇」の注も参照。因みに発表当時の朔太郎は満十八歳で、この年の四月に先に示した落第した五年に進級している。

・「昔談」「むかしばなし」と訓じていよう。

・「鬚」は不審。校訂本文は「髮」に訂されてある。誤植であろう。自分の編集なのだから、校正不良も甚だしい。

・「肩ねびし」肩の感じが年をとって見える、大人びて見えるの謂いであろう。

・「行きづり」はママ。校訂本文は「行きずり」。

・「小草」「をぐさ」と読みたい。

・「小扇」「こあふぎ(こおうぎ)」と読んでいよう。因みに、これは、この前年の明治三七(一九〇四)年一月に刊行された与謝野晶子の歌集の書名でもある(同歌集は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全篇が読める。或いはその中に本篇と通底する短歌を見出せるのかも知れないが、私は短歌嫌いなので、悪いが、探す気はない。どなたか晶子ファンの方の御意見をお聴きしたい気はする)。さすれば、或いは、先の「姉」とは暗に晶子をイメージしたものかも知れない。晶子は萩原朔太郎より七つ年上に当たる。朔太郎は、この前橋中学校在学中の三年次の明治三五(一九〇二)年十二月に先に出した町田ら級友とともに『野守』という回覧雑誌を出し、短歌を発表しており、ウィキの「萩原朔太郎」によれば、『作品には与謝野晶子の影響が見られ』、翌明治三十六年七月には、『与謝野鉄幹主宰の『明星』に短歌三首掲載され、石川啄木らと共に「新詩社」の同人とな』っており、全集年譜を見ると、明治三十七年には、新詩社の「赤城山吟行」の群馬県地方社友の申込み係りにもなっている(但し、この吟行には鉄幹は行っているが、晶子は参加していない模様である。個人ブログ「Peaks&Garden」の「長七郎山・地蔵岳5(地蔵岳から句碑の道を歩く)」の記事の中の「赤城を訪れた文人達」の年表を参照)。しかも晶子の「君死にたまふことなかれ」はこの明治三十七年九月に『明星』に発表されたものであった。朔太郎が実際に與謝野晶子と初めて逢ったのを年譜上で縦覧したが、確認は出来なかった。しかし、彼は、かの「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年刊)を晶子に贈呈している。さすれば、この「姉」が晶子のイメージである可能性はすこぶる高いように思われるのだが、如何?

・「すさみ」慰みごと。

・「優しぐさ」「風雅な優しい仕種(しぐさ)」に「小草」の「草」を掛けたものか。]

萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 蛇いちご

 

 蛇いちご

                みづの人

 

實は成りぬ

草葉かげ

さゝやかに

赤きもの

名も知らぬ

實はなりぬ。

 

大空みれば

日は遠しや

輝々たる夏の午(ひる)さがり

野路にかくれて

唱ふもの。

 

魔よ

名を蛇と呼ばれて

執者(すねもの)の

のろひ歌

節なれたり。

 

野に生ひて

光なき身の

運命(さだめ)かなしや

世を逆(さかしま)に

感じては。

 

呪はれし

夏の日を

妖艷の

蠱物(まじもの)と

口吻(くちづけ)交す蛇莓。

 

[やぶちゃん注:以上は明治三八(一九〇五)年七月発行の『坂東太郞』に発表された。但し、その二ヶ月後の同年九月下旬号の『文庫』に「美棹」のペン・ネームで再録されている。しかし、再録時に作者によって改変が加えられており、この初出とは見た目の印象がかなり違う。それは、二〇一三年二月二十五日附のブログで、本底本である筑摩書房版全集第三巻の「拾遺詩篇」(十五から十七頁)の校訂本文に拠りつつ、全集編者によってなされた消毒改変を元の状態の復元して示し(一連及び二連の読点)、さらに初出にあった「蠱物(まじもの)」の読みを附し、最終行の「交す」に初出で平仮名表記になっている「かはす」の読みを附したりして、原形に最も近づき、且つ、読み易いものにしたものを既に電子化してある(今回、さらに不全部分を修正した)ので、そちらと比較されたい。なお、なぜこれを選んで、その時、電子化したかって? 私はあのヘビイチゴが奇体に好きだからさ!

・「執者(すねもの)」はママ。リンク先の再録版では「拗者(すねもの)」となっている。

萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 ゆく春

 

 ゆく春

                萩原美棹

 

をきつ邊かつ鳴る海靑なぎ

今手に動づる胸をおせば

哀愁ことごと浮び出でゝ

たぎつ瀨淚の八千尋沼

 

あゝ世は神秘の影にみちて

興ある歌もつ子等もあるに

何をか若きに眉根ひそめ

執着泣くべくえ堪んや

 

例へば人あり花に醉ひて

秋雲流るゝ夕づゝに

樂觀すぎしを思ひ如く

足ぶみせんなき煩ひかや

 

  信なき一人に戀かさで

  今年もさびしう春は行きぬ

 

[やぶちゃん注:明治三八(一九〇五)年六月号『白虹』に発表。

・「をきつ邊」ママ。校訂本文は「おきつ邊」。「おきつへ」と読んでおく。

・「動づる」ママ。校訂本文は「動ずる」。

・「八千尋沼」「やちひろぬま」。晩春の輝く外洋の深さを連想し、孤独な詩人の内奥の深く暗い憂愁の深淵を喩えた。

・「え堪んや」ママ。校訂本文は「え堪へんや」。

・「思ひ如く」ママ。校訂本文は「思ふ如く」。

・「戀かさで」ママ。校訂本文は「戀しさで」。なお、この最終連の二字下げ二行はママである。]

萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 煤掃

 

 煤掃

               萩原美棹

 

井桁古びた天井に

鼠の夢を驚かして

今朝年越しの煤拂ひ、

主人七兵衛いそいそと

店の小者を引具して

事に堪うべく見えにけり。

 

さて若衆のいでたちや

奴冠りに筒袖の

半纒すがた意氣なるに

帶ぶや棕梠の木竹箒、

事あり顏に見代して

物々しくも構へたり。

 

お花、梅吉、喜三郞

ことし十五の小性とて

娘お蝶がませぶりを

さげすみしたる樣もなく

家々の重寶を

そつと小椽に運ぶ哉。

 

要所、要所の手くばりも

あらましこゝにすみぬれば

手代が下知の一聲に

家臺(やたい)をゆする物音や

たまたま晝の閑寂に

庭の椿の落つる頃。

 

木遣男(きやりをとこ)の勇者等も

仕事師ばらの援軍も

いま力戰の眞最中(まもなか)や

たち上りたる、もうぢんの

中に交りて一しきり

陣鼓ときめく凄まじさ。

 

煤の埃の中にして

捨松こゝに思ふ樣

老店(しにせ)の主人三代の

布簾(のれん)をくゞる町人は

幾度同じ夢を見て

繰り返したる榮落に

街の繁華は見たるなり。

 

耳を聾する亂調に

入興ありたる擧動(ふるまい)や

お竹つらづら思ふ樣

こは夕暮を酒にして

主人(あるじ)の笑を見んと也

忠義ぶりなる店の子が

賢かりける可笑しさよ。』

 

一重筵の上にして

蒔繪の盆や草双紙

さては厨の煤鍋が

入り亂れたる狂態を

水竿やれし古雛の

こは狼藉ととがめすや。

 

庭狹きまでに散り亂れ

さしも並びし家財等の

一つ一つに處えて

二度もとの店の中

帳塲格子の間より

手習双紙見る頃を。

 

宵の酒宴(うたざけ)の可笑しさよ

娘が運ぶ瓶子より

もるゝ灯影(ほかげ)にかしこまる

左右(さう)の破顏を反り見て

七兵衛獨り忻々たり。

 

[やぶちゃん注:明治三八(一九〇五)年三月発行『坂東太郞』に発表。

 さて、看過出来ない一点の重大な問題がある。第五連の一行目「木遣男(きやりをとこ)の勇者等も」である。これ、底本の筑摩版全集の初出形では、「木遺男(きやりをとこ)の勇者等も」となっているが、誤字指示がなされていない。それどころか、校訂本文も「木遺男(きやりをとこ)」のままに示されている。江戸時代、主に鳶を中心として広汎な肉体労働の業種で唄われた労働歌である「きやり」を「木遺」と書くことは絶対に、ない。従って、これは誤りであることは言を俟たない。初出が誤字・誤植であったのか、或いは、底本自体の校訂本文と合わせてトンデモ誤植であるのかは判らないが、ともかくも誤りであることは論を俟たない。されば、私は最後の筑摩版のトンデモ誤植説を採り、特異的に「木遣」に訂した。なお、木遣唄については、「江戸消防記念会」公式サイト内の「木遣 東京都指定無形文化財」に、『きやりは元来が作業唄で、複数の人員で仕事をする時、その力を一つにまとめるための掛け声、合図として唄われたものであります。また、きやりには』二『種類があり、その①は材木等の重量物を移動するときに唄われる木引き木遣りであり、その②は土地を突き固めるいわゆる地形の際に唄われる木遣りとがあります』。『鳶の木遣りはこのうち②の地形木遣りの範疇に属します』。『現代では作業そのものが動力化し、人力に頼ることも少なくなり』、『これにつれて木遣りも作業唄から離れて儀式化し、また』、『一部俗謡化するなど聴かせるための木遣りへと変貌していきました』。『このように鳶木遣りはそれ自体』、『鳶職人の唄として生まれたものですが、町火消が鳶職人を中心に編成されたため』、『木遣りも自然のうちに町火消の中に溶け込み、受け継がれていったといわれています。曲は真鶴のほか、地・くさり物・追掛け物・手休め物・流れ物・端物・大間など』八種百十『曲があ』るとある。

・「煤掃」「すすはらひ」。

・「井桁」「ゐげた」。ここは「井」の字の形に材を組み合わせた「根がらみ」のこと。天井などの継ぎ組みに見られる。

・「主人七兵衛」(「衛」が「衞」でないのはママ。近代までこの使用は普通に見られる。例えば、私の所持している「國史大系」本「吾妻鏡」は総て「衛」である)以下、「お花」・「梅吉」・「喜三郞」・「お蝶」・「捨松」・「お竹」というお店(たな)のオール・スター・キャストの名が出るが、特に特定の浄瑠璃・歌舞伎の外題のどれそれを元にしているというわけではないようである。

・「堪う」はママ。

見えにけり。

・「棕梠」「しゆろ」。通常の表記は「棕櫚」で、ヤシ科シュロ属の常緑高木。ここではワジュロ(和棕櫚: Trachycarpus fortunei )とトウジュロ(唐棕櫚: Trachycarpus wagnerianus )の両方を挙げておく(両者の区別は前者が葉が折れて垂れるのに対して、後者は優位に葉柄が短く、葉が折れず、垂れない)。

・「木竹箒」「きだけばうき」「きだかばうき」。「箒」部分は「はばき」とも読む。

・「見代して」校訂本文は「見交して」とする。

・「小性」「こしやう」。小姓に同じ。中世からこの表記はある。

・「重寶」「ちようほう」でもよいが、「ぢゆうほう」と読んでおく。

・「さげずみしたる」ママ。校訂本文は「さげすみしたる」とする。

・「小椽」校訂本文は「小緣」に訂正する。確かに誤字であるが、こんな修正は近代以前の作家の作品に応用したら、とんでもないことになる。「椽」は「垂木」の意だが、芥川龍之介を始めとして多くの大作家が、またぞろ、「緣」を「椽」と書き、誰の全集でもそれをこんな滅菌消毒などしていないし、実際、し切れない。広汎な作家の慣用使用によって立派な市民権を得てしまった用字である。私など、まともに「緣側」などとでてくると、思わず、逆に原文を確認するほどである。

・「仕事師」土工又は土建工事に従事する人。江戸時代から、多く組を作って「火消し」を兼ねた。「鳶の者」「鳶」「仕事衆」。

「ばら」接尾語。人を表わす名詞に附けて「~の仲間・~ども」の複数形を示す。通常は敬意を欠く表現である。古く中古から広く用いられ、後、「殿ばら」「奴(やつ)ばら」など数種の特定の語につくようになった。

・「力戰」「ちからいくさ」。

・「もうぢん」「蒙塵」。

・「布簾(のれん)」校訂本文は「暖簾(のれん)」と消毒する。「暖簾」の代字として私には何らの違和感も感じないし(寧ろ「暖簾」より事実に即している表記である)、他の作家の使用例も見られる。

・「入興」「にふきよう」と読んでおく。

・「擧動(ふるまい)」ルビはママ。校訂本文は「擧動(ふるまひ)」。

・「つらづら」ママ。校訂本文は「つらづら」。

・「笑」「ゑみ」。

・「店」「たな」。

・「一重筵」「ひとへむしろ」。

・「草双紙」校訂本文は後のものも含めて「草雙紙」と書き変えてある。

・「厨」「くりや」。校訂本文は「廚」と書き変えてある。

・「煤鍋」「すすなべ」。

・「水竿」意味不明で不審。校訂本文は「水干」と書き変える。これは正当。煤払いの最中、仕舞ってあった古い雛人形を一時出してあるのを見たら、水干衣裳がすっかり「やれし」(破(や)れし)=ほころんでしまっていたのである。

古雛の

・「とがめすや」ママ。校訂本文は「とがめずや」。

・「一つ一つに處えて」それぞれがそれぞれのあるべき一つところに所を得て。

・「二度もとの店の中」「ふたたびもとのたなのうち」と読んでおく。

・「瓶子」「へいし」或いは「へいじ」。酒を入れ、杯につぐ器。丸い壺形の胴に細首の口をつけた徳利形のもの。

・「忻々たり」「きんきんたり」。喜ぶさま。「欣々」「欣然」に同じ。]

2022/02/20

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 𩲗蛤(アカヽイ) / アカガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。左上に近縁種の「朗光(サルボウ)」のクレジットが食い込んでいるのでマスキングした。冒頭に並ぶ漢名異名は総て改行した。]

 

Akagai

 

𩲗蛤(あかゞい)

【古名「きさかい」。】

𩲗陸【「別録」。】

※壟子(グワロウシ)

蚶(カン/きさ)【一つ、「魽」に作る。】

[やぶちゃん注:「カン/きさ」は右/左のルビ。]

※屋子(グワヲクシ)【「嶺表録」。】

伏老(フクラウ)

空慈子(クウジシ)

[やぶちゃん注:「※」は「瓦」の異体字のこれ(「グリフウィキ」)。]

 

「※壟子(グワロウシ)」「※屋子」の名、蚶(あかゞい)。其の殻、※屋根(かはらやね)に似たり。故に名とす。奥州に「蚶泻(きさがた)」と云ふ名所あり。「きさ」の名、古し。「和名抄」に「蚶(きさ)」と云ふ。

「古事記」、「𧏛貝【「きざ」。】」。 男貝(をがひ)【佐州。】

 

壬辰(みづのえたつ)年壬十一月九日、寫(うつ)す。

 

[やぶちゃん注:翼形亜綱フネガイ目フネガイ上科フネガイ科アカガイ Anadara broughtonii

二個体。梅園は「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「蚶(あかがひ)」と、「大和本草卷之十四 水蟲 介類 蚶(アカガイ)」を参考にしている。特に後者の書き換え感が強い。比較されたい。本図は生貝の殻の様子を非常に巧みに描いていて素晴らしい。

「𩲗」は音・意味ともに不詳。なお、寺島も貝原も「魁」とする。というより、「本草綱目」でも「魁蛤」である。「漢籍リポジトリ」の巻四十六の「介之二」の「魁蛤」(異名で「蚶」と出る)([108-20b])を影印本ともに参照されたい。

「別録」時珍が同書で頻繁に引くもので、漢方医学の最重要古典の一つである「神農本草経」(次注参照)とほぼ同時代(一~三世紀頃)に中国で作られた、同書と並び称される本草書「名医別録」のこと。植物(葉・根・茎・花)は勿論、鉱物・昆虫・動物生薬など五百六十三種の生薬の効能や使用目標などが掲載されている。作者は不詳。原本は散佚したが、六朝時代の医学者・科学者にして道教茅山派の開祖でもあった、「本草綱目」でも出ずっぱりの感のある陶弘景(四五六年~五三六年)が一部を諸本の抜粋から集成し、校訂も加えている。

「呉普」「三国志」で知られる医師華佗の弟子呉普が撰した「呉普本草」。二〇八年から二三九年の間に書かれた。

「※壟子」(「※」は「瓦」の異体字のこれ(「グリフウィキ」))「壟」は「土を小高く盛った所・畝(うね)」の意で、本種の殻表面の四十二本或いは四十三本の強い放射肋を指したもの。

「嶺表録」「嶺表錄異」とも。唐の劉恂(りゅうじゅん)撰になる中国南方の風土産物を図入りで説いた風土・物産誌。

「伏老」「本草綱目」の「魁蛤」の「釋名」の最後に、

   *

伏老【頌(しやう)曰はく、「說文」に云はく、『老いたる伏翼(ふくよく)、化して「魁蛤」と爲(な)る。故に「伏老」と名づく。』と。】

   *

とある。「伏翼」は蝙蝠(コウモリ)のこと。成貝は殻の外側に茶色い毛が有意に生えており、見た目は黒く見えるので、腑に落ちる化生説である。

「空慈子」同じく「本草綱目」の「魁蛤」の「釋名」中に、

   *

案ずるに、「嶺表錄異」に云はく、『南人、「空慈子」名づく。』と。

   *

とある。語源は知らないが、法政大学出版局のシリーズ「ものと人間の文化史」の白井祥平氏の著になる三冊本「貝」(一九九七年刊)の「Ⅲ」の「第二十章 アカガイ(赤貝)類」で人見必大の「本朝食鑑」の「注」で、アカガイの調理法のパートを引き、そこに異名として『シシガヒ』があるのに対して、この「シシガイ」は『慈子貝』で、『わが国でも方言にあるが、アカガイ類のこと』とあった。但し、これは、所持する東洋文庫版の島田勇雄氏の注である。その二にある、向井元升(げんしょう)の「庖厨備用倭名本草」からの引用であった。なかなか面白い話なので、引用しよう。向井元升(慶長一四(一六〇九)年~延宝五(一六七七)年)は医師・儒学者。名を玄松と称したが、晩年に元升と改めた。二十歳で開業し、筑前の黒田侯、続いて皇族の病気を治療し、名声を揚げた。私塾「輔仁堂」を建て、堂内に孔子の聖廟を祀って、儒学を教えた。かの貝原益軒は彼の門人であった。承応三(一六五四)年と明暦三(一六五七)年の二度、幕府の命を受けて通詞を介して長崎在留のオランダ人医師ステビンから西洋医術を聴き取り、「紅毛流外科秘要」(七巻)に纏めて提出した。天文学・本草学にも通じた博物学者であった。「庖廚備用倭名本草」(全十三巻)は加賀藩家老の依頼を受けて纏めた藩主の食膳用の膨大にして子細な参考文献で、動植物食品四百種を和名で記し、薬物の起源・名実の異同を論述した江戸時代最初の本格本草書とされる。没後に刊行された。なお、彼は、かの蕉門の向井去来の実父でもある。国立国会図書館デジタルコレクションの貞享元(一六八四)年板本の当該部を視認して電子化する。カタカナをひらがなに代え、漢文部は訓読し、推定で歴史的仮名遣で読みも添えた。送り仮名・記号・濁点を打った箇所もある。歴史的仮名遣の誤りは総てママである。

   *

魁蛤(くわいかう/あかゞい[やぶちゃん注:右/左のルビ。以下同じ。]「和名抄」に「きさ」。「蚶」の字を用ふ。「多識篇」に「あかがひ」。○元升曰はく、今、俗、皆、「あかゞひ」と云ふ。「きさ」と云ふ名を、しるもの、なし。是れ、物の名の、古今、かはりたるゆへなり。「あかゞひ」の、栗の大きさほどなる殼、あつく、いらか、たかきをば、関東にて、「さるぼう」と云ふ。西国にては、「ししがひ」といふ。其のうちにも、又、大小あり。さて、「あかゞひ」と云ふは、大にして、殼、やや、うすく、いらかも、ひきし[やぶちゃん注:「低し」に同じ。]。「本艸」[やぶちゃん注:「本草綱目」。]を考ふるに、『一名は「蚶(かん)」、一名は「瓦屋(ぐわをく)子」、一名は「瓦聾子(ぐわろうし)」。其のなりあひ、小蛤(せうがう)に似て、まるく、あつし。「臨海異物志(りんかいいぶつし)」に云く。蚶の大きなる者、わたり四寸、背上の溝(みぞ)の文(もん)は、瓦屋(かはらやね)の「うね」のごとし。肉味、極めてよし。今ま浙東以近に海田に是を種(う)ふ。これを「蚶田(かんでん)」と云ふ。糟(かす)にかくして[やぶちゃん注:保存のために「粕漬けにして」の意であろう。]、四方にうりものにす。海中の珍品(ちんひん)たり○元升曰はく、唐人は「ししがひ」をよくあらひ、略(ほぼ)、湯-煮(ゆに)をして、からのひらけざる内に、からながら、座に出(いだ)し、主客、手づから、殼(から)をひらきて、食す。「血液(けつえき)を存して、くすり也。」と、いへり。

魁蛤、味、辛、性、平。毒なし。痿痺(いひ/なゆ しびる)・洩痢便(せつりべん)・膿血(のうけつ)をつかさどる。五臟をうるほし、消渇(しやうけち)をとゞめ、關節を利す。丹石[やぶちゃん注:漢方薬に「辰砂」のことであろう。硫化水銀。]を服すれば、食すべし。瘡腫(さうしゆ)・熱を生ぜず。心腹の冷氣、腰脊の冷氣に、よし。五臟を利し、胃をすくよかにして、よく食せしめ、中(ちゆう)をあたゝめ、食を消し[やぶちゃん注:食物の消化を促進させ。]、陽を起こし、顏色を、ます。あぶり、食すれば、益、あり。○凡そ、食療を用ふるには、食し終はつて、飯を以て、これを、をす。しからざれば、口ちを、かはかす。又、多く食すれば、気をふさぐ。殼は治病の功あり。[やぶちゃん注:この段落は先にリンクさせた「本草綱目」の「魁蛤」の、主に「主治」の部分を和訳したものである。比較されたい。]

   *

「蚶泻(きさがた)」「大和本草卷之十四 水蟲 介類 蚶(アカガイ)」でちょっと面白い注を附してあるので、参照されたい。益軒がそこで象潟に言及しているのは、実は師匠の子が蕉門の知られた去来であることを意識しているようにも見えてきて、これまた、面白いではないか。

『「和名抄」に「蚶(きさ)」と云ふ』「和名類聚鈔」の巻十九「鱗介部第三十」の「龜貝類第二百三十八に(国立国会図書館デジタルコレクションのこちらを参考に視認して訓読した)、

   *

蚶(きさ) 「唐韻」に云はく、『蚶【「乎」と「談」の反。「弁色立成」に云はく、『和名、「木佐(きさ)」。』と。】蚌の屬、狀(かたち)、蛤(がふ)のごとく、円(まどか)にして厚し。外(そと)に理(すぢめ)の縱橫(じゆうわう)有り。卽ち、今の魽(きさ)なり。

   *

「古事記」「𧏛貝【「きざ」。】」「古事記」の「上つ卷」の、大国主(=「大穴牟遲神(おほあなむちのかみ)」)の有名な「因幡の白兎」の話の直後に出る。前の話のおしまいで、救われた兎が予言した通り、八上比賣(やかみひめ)が八十神(やそがみ)の命令に従わず、大国主と結婚しようとしため、

   *

 爾(かれ)[やぶちゃん注:そのため。後の「故」も同じ。]、八十神、怒りて、大穴牟遲神を殺さむと、共(あ)ひ議(はか)りて、伯岐(ほほき)の國の手間(てま)の山本(やまもと)に至りて云はく、

「此の山に赤猪(あかゐ)在り、故(かれ)、我共(われどち)、追ひ下しなば、汝、待ち、取れ。若(も)し、待ち取とらずば、必ず、汝(なんぢ)を殺さむ。」

と云ひて、火、以つて猪に似たる大石(おほいし)燒きて、轉(まろ)ばし落としき。爾(ここ)に追ひ下(くだ)し取る時、卽ち、其の石に燒き著(つ)かえて死せたまひき。爾(ここ)に、其の御祖(みおや)の命[やぶちゃん注:大国主の母。]、哭き患へて、天に參(まゐ)上(のぼ)りて、神產巢日(かむむすひ)の命(みこと)に請(まを)したまひふ時、乃(すなは)ち、𧏛貝比賣(きさがひひめ)と蛤貝比賣(うむがひひめ)を遣(や)りて、作り活(い)かさせにめたまひき。爾(ここ)に、𧏛貝比賣、きさげ集めて[やぶちゃん注:「きさがひ」の殻を搔き削り集めて。]、蛤貝比賣、待ち承(う)けて、母(おも)の乳汁(ちしる)と塗しかば、麗はしき壯夫(をとこ)と成りて、出で遊-行(ある)きき。

   *

とある「𧏛貝比賣」を指す。これがアカガイであり、「蛤貝比賣」がハマグリである。おらぁ、「古事記」が大好きだね! 海産生物の宝庫だからね! なんたってさ! 本邦の国土開闢の初めに「水母(くらげ)なす」ってんでぇ! おいら、高校生の時に古文で蟹谷徹先生におせえてもらってから、それっきし、文字通り、「痺れ」ちまったんさ!!!

「男貝」これはアカガイが女性の生殖器の似ていることに起因する忌避の反転異名であろう。

「壬辰年十一月九日」天保三年壬辰十一月壬子(みづのえね:月の干支)十五日(参考までに、この日の干支は「丁巳(ひのとみ)」。一八三二年十二月六日。]

萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 君が家

 

 君が家

                萩原美棹

 

あ〻戀人の家なれば

幾度そこを行き〻づり

空しくかへるたそがれの

雲つれなきを恨みんや

 

水は流れて南する

ゆかしき庭にそ〻゙けども

たが放ちたる花中の

艷なる戀もしらでやは

 

垣み見ゆるほほづきの

赤きを人の唇に

情なくふくむ日もあらば

悲しき子等はいかにせん

 

例へば森に烏(からす)なき

朝ざむ告ぐる冬の日も

さびしき興に言(こと)よせて

行く子ありとは知るやしらずや

 

ああ空しくて往來(いき〻)づり

狂者(きやうさ)に似たるふりは知るも

からたちの垣深うして

君がうれいのと〻゙きあへず。

 

[やぶちゃん注:明治三七(一九〇四)年十二月号『白虹』(本来は短歌をメインとした雑誌と思われる)に発表。萩原朔太郎満十八歳。

・「行き〻づり」ママ。最終連一行目も同じくママ。底本校訂本文は「行ききずり」。「行き過ぎり」の意。

・「ゆかしき庭」「静謐で落ち着いた庭」に「訪ねたい女のいる家の庭」の意を掛けていよう。

・「そ〻゙けども」ママ。校訂本文は「そそげども」。この踊り字に傍点を組み合わせるのを選び、しかも前を「そ」とする植字工はそうはいない。原稿の誤りの可能性が高いか。

・「垣み見ゆる」ママ。校訂本文は「垣間み見ゆる」。

・「赤きを人の唇に」校訂本文は「赤きを人の脣に」。こういう正字消毒が私が筑摩版全集に対して嫌悪するものなのである。私は生理的に「にくづき」のこの漢字は自分では絶対使わない。気持ちが悪いからである。唇が爛れて内側がめくれて見えているみたような気がしてならないからである。

・「狂者(きやうさ)」古語としては「風雅に徹した人・風狂の人」や「ふざけたことを言う人」・「狂言師」の意があるが、ここは文字通りの「狂人」「大馬鹿者」の意。但し、「狂者(きやうさ)に似たるふり」で「佯狂」(ようきょう)の意で用いている。「者」を「さ」と読むのは古語の「從者(ずさ)」で普通に知られる。

・「うれい」ママ。

 

 底本の編者注及び同全集年譜(第十五巻)によれば、本篇は後の『靑蘭集』(明治三九(一九〇六)年九月十五日発行。柏原奎文堂刊。この本は雑誌『白虹』に掲載された詩を集めた入澤凉月の編になるアンソロジーで、他に川路柳虹・三木露風ら萩原美棹を含めて二十八名の詩を収録している)に再録されたものには異同があるとある。その通りに変更したものを示す。

   *

 

 君が家

                萩原美棹

 

あ〻戀人の家なれば

いたびそこを行きふり

空しくかへるたそがれの

雲つれなきを恨みんや

 

水は流れて南する

ゆかしき庭にそゝげども

たが放ちたる花中の

艷なる戀もしらでやは

 

垣み見ゆるほほづきの

赤きを人の唇に

情なくふくむ日もあらば

悲しき子等はいかにせん

 

例へば森に烏(からす)なき

朝ざむ告ぐる冬の日も

さびしき興に言(こと)よせて

行く子ありとは知るやしらずや

 

あゝ空しくて往來(いきき)づり

狂者(きやうさ)に似たるふりは知るも

からたちの垣深うして

君がうれいのど〻きあへず。

 

   *

最終行で、がっくり、だな。]

筑摩書房「萩原朔太郞全集」(初版)「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 始動 / 絕句二篇 感謝 古盃

 

[やぶちゃん注:本ブログでは既にカテゴリ「萩原朔太郎」及び「萩原朔太郎Ⅱ」によって、既刊単行詩集(諸出版社の生前の萩原朔太郎監修による作品集にのみに所収した詩篇を含む)の正規表現版を総て電子化注し終えている。されば、萩原朔太郎が生前に単行詩集に収録しなかった詩篇を筑摩書房「萩原朔太郞全集」(初版)の初出形の正規表現版(誤字・誤植を含む)で、以下、ゆるゆると電子化注を開始し、私の憂鬱を完成させることとする。

 底本は基本を筑摩書房「萩原朔太郞全集 第三卷」(昭和五二(五月三十日発行)初版)の消毒されて無菌化されてしまった校訂本文の下に、ポイント落ちで示された〈正しい〉初出形を元とする。則ち、正字正仮名で、しかも、異体字は勿論、誤字・歴史的仮名遣の誤り・誤植等も総てそのまま電子化するということである。但し、踊り字「〱」「〲」は正字化した。なお、一部で加工データとして「青空文庫」の「萩原朔太郎」で単体で電子化されている同全集の校訂本文の不完全な正字化ものを利用させて戴いた(例えば、本詩篇の場合はこれこれ)。ここに「感謝」申し上げる。

 誤字や不審な箇所及び躓いた語句に就いては注を附し、時に作詩時の萩原朔太郎について同全集年譜等によって附言する。また、草稿のあるもの、或いは強い関連を認める詩篇(詩作ノートを含む)などに就いても必要があれば言及する。

 標題(題名)は底本では、ややポイント上げであるが、有意に大きくした。ペン・ネームを使用している場合は、仮に標題の次に配した。

 但し、私は既に古くにカテゴリ「萩原朔太郎」で、幾つかの詩篇を気儘にオリジナルに電子化しており、それらは、旧電子化注記事を正規表現に直し、必要に応じて注を添えて修正する仕儀に留めることとし、さらにび「萩原朔太郎Ⅱ」にも含めて、ある詩篇の注の中で必要があって既に電子化注しているケースもあるので、それらは、当該詩篇相当の部分でその旨の記事を挟み、リンクを添えるることで代替することとし、それを以って過去の惨めな私の仕事への幽かな遺愛を表することとするものである。2022220日始動 藪野直史】]

 

 

絕句二篇

                  美棹

 

 感謝

 

野のはて夕暮雲かへりて

しだいに落ちくる夕雲雀の

有心(うしん)の調さへしづみゆけば

かすかに頰(ほふ)うつ香ひありて

夜の闇頒ちる幕(とばり)くだる。

 

自然は地にみつ光なりや

今日はめぐりて山に入れど

見よかの大空姿優(ゆう)に

夜の守月姬宮をいでて

唱ふをきかずや人の子等は。

 

ああ君倦(う)んづる額をあげて

不滅の生命(いのち)をさとり得なば

胸うちたゝいて大神には

讃美と感謝をさゝげてずや。

 

 

 古盃

 

小人若うて道に倦(う)んじ

走りて隱者を得しが如く

今われ山路の歸さ來つゝ

木蔭に形(かた)よき汝をえたり。

表面(おもて)は蛟龍雲を吐はいて

神有(じんう)の秘密をそめて見うや

裏面(うら)には冷人額(ぬか)をたれて

物思(ものも)ひ煩ふなよび姿

才か浰々たる眼(まな)ざしには

工匠(たくみ)が怨(うら)みもこもりけんよ。

こは君逸品(いつぴん)古色ありと

抱いて歸れば有情なりや

味よきしづくの淺紫(せんじ)なるに

け高き千古の春を知りぬ。

 

[やぶちゃん注:明治三七年(一九〇四)年三月発行の『坂東太郞』第三十八号に発表した二篇。同誌は、彼が、当時、朔太郎が在学していた群馬県立前橋中学校の校友雑誌。なお、この年の同月、朔太郎は同中学五年生に落第している。萩原朔太郎は明治一九(一八八六)年十一月一日生まれで、当時は満十七歳であった。

 筑摩書房全集の第十二巻「ノート」の「二」は大正三(一九一四)年から翌四年(詩集『月に吠える』は大正六年二月)にかけて書かれた彼の私物の手書きノートであるが、そこに朔太郎は、既に「月に吠える」の一連の「竹」シリーズの草稿が四篇記されてある、その前に、

   *

   靑い紐

    「線」ノ講義

 絹糸ヨリモ細イ、蜘蛛ノ巢ヨリモズツト細イ、女ノ髮ノ萬分ノ一ヨリモツトモツト細イ、トテモ肉眼デハ見エナイ、顯微鏡デモミエナイ、恐ラクダレニモ見エナイ、ソンナ妙ナモノガ宇宙ニアツテ無限無窮ニ延長シテヰル。諸君コレヲ幾何學上デ「線」ト名ヅケマス。

 私ハソノ敎師ノ靑イ顔ヲ今デモ覺エテ居マス。モシ「線」ナンテモノガ世ノ中ニナカツタラ中學ヲ落第セズニ優等デ卒業ガデキタノデス。私ハ一學期間「線」ニツイテノミ考ヘテ居リマシタ。

 不思議ナ話デスガ、コレハ本當デス。

   *

と朔太郎は記している。

 彼が落第した理由は不明だが、私はこれを読みながら、自身のまさに十七歳の高校時代の一コマを鮮やかに思い出す。私は苦手な数学の授業で、不図、「曲線の傾きを持ちながら、座標軸に確実に近づいて行く漸近線は、どうして永久に接しないのですか?」と教師に質問した時、「無限遠で接するんだよ! お前はそんなことを考えているから、ちっとも数学の成績が良くならんのだ!」と一喝されたことを。私はそう叱られながら、私は内心、『「無限遠で接する」というのは論理的ではない言い方だな? さて。接したように見えても、そこを顕微鏡で見れば、間隙があるだろう。仮想された座標軸にも漸近線にも太さはない。とすれば、その都度、そこを間断なく拡大させ続ければ、それは接しないということになるな。』などと、一人、合点していた自分がいたことを、である。

 本篇は短歌を除く現存する最古の公開詩篇とされるものである(彼は前年に本誌や『文庫』『明星』『白百合』に計六十五首(名義は「みさを」「美棹」「萩原みさを」「萩原 朔」「萩原美棹」「萩原朔郞」を投稿しており、他に『新聲』に美文「花あやめ」一篇を「萩原みさを」名義で発表している)。

 

 語注する。まず「感謝」から。

・「頰(ほふ)」ママ。底本校訂本文は「ほほ」。

・「頒ちる」ママ。校訂本文は問答無用で「頒ちて」とする。私はこれは誤植ではない可能性を感じている。萩原朔太郎は偏執的な誤用の繰り返しをよくするからである。

・「優(ゆう)に」ママ。校訂本文は「いう」。

・「夜の守月姬宮をいでて」「よのまもりづき/ひめみやをいでて」であろう。「姬宮」はかくや「姬」の月の「宮」を想起したものか。

・「倦(う)んづる」ママ。校訂本文は「倦(う)んずる」。

 

 以下、「古盃」(「こはい」と読んでいるようである)。

・「小人」後の「隱者を得し」から「せうじん」(しょうじん)。

・「蛟龍」「かうりやう」(こうりょう)。中国古代の想像上の動物。水中に潜み、雲雨に会えば、それに乗じて天上に昇って龍になるとされる。「みずち」・「こうりゅう」(「龍」の「りゆう(りゅう)」は本来は慣用読みで正しくない)。

・「神有(じんう)の秘密」神々のましました神代の秘蹟。

・「そめて」「初めて」であろう。

・「見うや」ママ。校訂本文は「見るや」。

・「裏面(うら)」二字へのルビ。

・「冷人」ママ。校訂本文は「伶人」。楽人。これはひどい誤植だ。

・「なよび姿」なよなよとしたさま。柔らかくしなやかな様子。

・「才か」「才華」。校訂本文も、そう、訂する。「華やかに外に現れた才能・気質・美貌」。

・「浰々たる」ママ。「浰」は音「リ・レン」で「水の流れが速いさま」を言う。校訂本文は「悧悧」。「悧々(りり)たる」は「賢そうな」「小賢しげな」の意。後の「工匠(たくみ)が怨(うら)みもこもりけんよ」からは後者の含みがよい。

・「抱いて」音数律から「いだいて」。

・「淺紫(せんじ)」ルビはママ。校訂本文はルビが「せんし」。薄紫色。

 

 なお、渡辺和靖氏の論文「近代詩史試論―朔太郎の詩を理解する前提として―」(『愛知教育大学研究報告』三十七巻・一九八八年・「愛知教育大学学術情報リポジトリ」のこちらPDFでダウン・ロード可能)の注の「9」で、後者の「古盃」について、『すでに勝田和学氏が「朔太郎の明治期の詩――先行詩摂取をめぐって(上)」(『国文学 言語と文芸』第九四号』・『昭和五八年七月)において指摘しているところであるが』とことわって、『あきらかに』薄田『泣董の「盃賦」に触発されたものである』とされ、本篇を引いた後で(コンマを読点に代えた)、『これで見ると、朔太郎は、象徴を空疎に展開していく藤村→泣董のラインに位置しながらも、泣董のように際限なく物語を拡大するというのではなく、「け高き千古の春を知りぬ。」という最終行に示されるような、ある一点(とりわけ内面の心情)に象徴を凝集させる傾向があるといえる。』と評されておられる。]

2022/02/19

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 鹽吹貝(シヲフキ) / シオフキ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、そこに一つ残した「キケウ貝」は未だに全く種を比定出来ないので、ペンディングして後を続けることとする。]

 

Siwohuki

 

鹽吹貝(しをふき)

 

癸巳(みづのとみ)初夏十四日、眞写す。

 

[やぶちゃん注:斧足綱異歯亜綱バカガイ科バカガイ属シオフキ Mactra veneriformis

である。私のサイト版「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「蛤蜊(しほふき)」、及びブログの「大和本草卷之十四 水蟲 介類 鹽吹貝」を参照されたい。前者では、和名について、『其の大いさ、二寸ばかり、圓く、灰白色。花文無く、紫の唇。殻、薄く、光滑〔=光沢〕無く、横、同色の文理(もんり)、有り。其の肌、鹽粉を吹き出せるがごとし。故に鹽吹貝と名づく』という私にとっては目から鱗の解説が載っているのである。勢いよく水管から潮水を吹き出すからじゃあ、ないんだな、これが!

「癸巳(みづのとみ)初夏十四日」天保四年四月十四日。一八三三年六月一日。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 寄居蟲(ガウナ) / ウミニナの殻に入ったヤドカリ類

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。]

 

Gauna_20220219114601

 

王世愍(わうせいびん)「閩部疏(びんぶそ)」に曰はく、

   寄居(キキヨ)

 

「本綱」及び「大和本草」に曰はく、

   寄居蟲(がうな)【順が「和名抄」に「かみな」「かにもり」「やどかり」。琉球に「あんまく」。】

 

此の者、小螺の貝壳(かひがら)に入りて、寄居(よりゐ)す。故に「やどかり」と云ふ。「寄居(がうな)」は「はだか虫」、海虫なり。然(しか)れども、国俗、此の貝を以つて「やどかり」と云ふ。貌(かたち)、蜘蛛に似たり。

 

甲午(きのえむま)孟春十一日、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:ビーチ・コーミングではよく拾え、ヤドカリが入っていることも確かに多い、名にし負う腹足綱前鰓亜綱中腹足目オニノツノガイ超科オニノツノガイ科タケノコカニモリ属カニモリガイ Rhinoclavis kochi の殻が知られるが、どうもこの二個ともに緑色をしているというのが、カニモリガイらしくない。カニモリガイは褐色の螺条と褐色斑があるのを特徴とするからである。藻類が付着して緑色になることはあるが、ヤドカリが住み家として運動するならば、寧ろ、それらは剝げるし、二個体ともに全部が緑色というのは不審で、この貝殻は、私は、体色の個体変異が多い、

腹足綱吸腔目カニモリガイ上科ウミニナ科ウミニナ属ウミニナ Batillaria multiformis に入ったヤドカリ類

としたい。そうすると、入っているヤドカリは、生息域がウミニナと共通する、

抱卵亜目異尾下目ヤドカリ上科ヤドカリ科ヨコバサミ属ツメナガヨコバサミ Clibanarius longitarsus

ホンヤドカリ科ホンヤドカリ属ユビナガホンヤドカリ Pagurus minutus

辺りが候補となるか。上の個体のヤドカリが脚に白い線を持っているのを描いている可能性があり、そうだとすると、ユビナガホンヤドカリの可能性が浮上するかも知れない。但し、孰れにせよ、このヤドカリは若い個体である。なお、開口部に見える様子を描いているところから、この二個体のヤドカリは生体と思われる。されば、貝は描かれていても、これは「蛤蚌類」ではなく、前の「水蟲類」に載せるべきであった。

「王世懋」(一五三六年~一五八八年)は明の漢民族出身の政治家で文人。

「閩部疏」「閩」は現在の福建省の広域旧称で、同地の地誌。原文は以下。「中國哲學書電子化計劃」の影印本で起こした。

   *

寄生最奇、海上枯蠃殼存者、寄生其中、戴之而行、形味似蝦。細視之、有四足兩螯、又似蟹類。得之者不煩剔取、曳之卽出、以肉不附也。炒食之、味亦脆美。天地間何所不有。

   *

これは中・大形のヤドカリ(ヤドカリ科オニヤドカリAniculus aniculus など)であろう。ここには「寄居」の文字はない。但し、調べているうちに、素敵なページを発見した。中文の「維基文庫」の「欽定古今圖書集成」の「博物彙編」・「禽蟲典」の第百六十四巻だ。これは図入りで素敵だ。「郎君子部紀事」の「寄居蟲圖」もある! その下方に、「閩部疏」が引かれ。「寄生蟲」として、上記の部分が引かれてある。しかしやはり、「寄生」であって、「寄居」ではない。梅園の誤りであろう。

「本綱」巻四十六の「介之二【蛤蚌類二十九種・附一種】」の「寄居蟲」である。何時もの国立国会図書館デジタルコレクションのここを参考に訓読する。

   *

寄居蟲【「拾遺」】

釋名 寄生蟲

集解藏器曰はく、陶、「蝸牛」に註して云はく、『海邊に有り、大いさ、蝸牛(かたつむり)に似たり。火にて炙れば、殻より、便(すなは)ち、走り出だす。之れを食へば、人に益あり。按ずるに、寄居(ききよ)、螺殻の間に在り、螺に非ざるなり。螺蛤(らごふ)の開(くちあ)くるを候(まちさふら)ふて、卽ち、自(おのづか)ら出でて、螺蛤を食ふ。合(あは)さんと欲すれば、已に殻の中へ還る。海族、多く、其れに寄せらる。又、南海の一種、蜘蛛に似て、螺殻の中に入りて、殻を負ひて、走る。之れに觸るれば、卽ち、縮みて螺のごとし。火にて炙れば、乃(すなは)ち出づ。一名「蝏」。别に、功用、無し。時珍曰はく、案ずるに、孫愐(そんめん)云はく、「寄居、龜の殻の中に在る者を、名づけて、「蝞則寄居(びそくききよ)」と曰ふも、亦、一種に非ざるなり。】

氣味【缺】。

主治 顏色を益し、心志を美(うるは)しくす【弘景。】。

   *

ここで言っている、「蝞則寄居」というのは、恐らく、カメの頸や手足に吸着寄生するヒルの一種である環形動物門有帯綱吻蛭(ふんてつ)目エラビル科エラビル属ヌマエラビルOzobranchus jantseanus のことを言っているものと思う。

「大和本草」私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 寄居蟲(カミナ/ヤドカリ)」を参照。

『順が「和名抄」に「かみな」「かにもり」「やどかり」』「倭名類聚鈔」巻十九の「鱗介部第三十」の「龜貝類第二百三十八」に(何時もの国立国会図書館デジタルコレクションのここを視認した)、

   *

寄居子(カミナ) 「本草」に云はく、『寄居子【和名「加美奈(かみな)」。俗、「蟹」・「蜷」の二字を假(か)り用ふ。】は、貌(かたち)、蜘蛛に似たる者なり。』と。

『琉球に「あんまく」』現行、沖縄方言では、異尾下目ヤドカリ上科オカヤドカリ科 Coenobitidaeのオカヤドカリ類の総称、或いは、同科ヤシガニ属ヤシガニ Birgus latro の古称として用いている。小野蘭山の「本草綱目啓蒙」の「寄居蟲」に「アマン」とあるが、梅園の表記「アンマク」は現代の音写表記と同じである。ちょっと見直したぞ! 梅園先生!

「甲午(きのむま)孟春十一日」天保五年一月十一日。グレゴリオ暦一八三四年二月十六日。]

譚海 卷之四 備中國尾の道天滿宮幷吉備大臣墳の事 附あり渡・未渡・船山・二萬塚等の事

 

[やぶちゃん注:標題は「備中國(びつちゆう)尾(お)の道(みち)天滿宮幷(ならびに)吉備大臣(きびのおとど の)墳(ふん)の事 附(つけたり)「あり渡(ど)」・「未渡(みど)」・「船山(ふなやま)」・「二萬塚(にまづか)」等(など)の事」と読んでおく(船山のみ現行の読みが確認出来なかった)。少し長めで、複数の内容を書いているので、段落を成形した。その関係上、特異的に読点や記号を追加してある。全く行ったことがない場所なので、注に手間取った。]

 

○「備中の『をのみち』と云(いふ)所は、むかし、『玉の浦』といへる所なり。北野の御神(おんかみ)、筑紫へ下り給ひし時、此浦の金屋某なるものの先祖の家に、一夜(ひとよ)やどらせ給ひし事、有(あり)。其時、『はたきのもちい』、奉りしと也。其(その)やどらせ給ふ家、今に、其家に、もちつたへて、其家の上に、『うは外家(そとのいへ)』を作りかまへて、神前になしてある。」

と也。

 御神淚(ごしんるい)を硯(すずり)にうけて、其(その)水にて、かゝせ給ふ御影を、「淚のみえい」とて、其家に、つたへ、もてり。

 後世(こうせい)、金屋氏子孫、豪富となり、「をのみち」と云(いふ)疊(たたみ)のおもては、みな、此家より織出(おりいだ)して、天下に流布する事也。

「神德の、とほく及ぶ惠(めぐみ)なるべし。」

と、いへり。

 又、備中の奧、備後の境(さかひ)に「相渡(ありど)村」といふ所の山は、兩山(ふたつのやま)の峯、合して石橋(いしばし)となり、そのうへを往來する也。其下は、瀧川、たぎり落(おち)て、誠に人工の物にあらず。

 又、其鄰(となり)の村に「未渡(みど)村」といふ所の山は、石橋のかたち、半分、出來たるあり、依(より)て「未渡」と讀(よま)するとぞ。

 又、同國「船山」と云(いふ)所には、田を植(うう)るとき、田の水へ、朝日のさす比(ころ)、山のかたち、うつりて、帆をかけたる舟の如く、うつる也。それが、時によりて、二つも、三つも、うつる事、あり、「今朝は、二艘、出たり。」、「三艘、出たりの。」と、その所のものは、いふ事也。

 同國「さかさ枝」といふ所の池、一とせ、夏の比(ころ)、血の色に成(なり)たる事、有(あり)。朝暮(てうぼ)は、しからず、日中より、夕かたまで、殊に水の色、紅(くれなゐ)に變ずる事、四十餘日に及べり。

 又、同國、下(しもつ)みち郡(のこほり)八田(はつた)といふ所に吉備大臣(きびのおとど)の御墓(おんはか)、有り。すなはち、別當(べつたう)を吉備寺(きびじ)といふ。其御墓の側(そば)に土輪(はには)[やぶちゃん注:底本自体の特異点のルビ。]といふ物あり、往古(わうこ)、大臣(だいじん)已上(いじやう)の墓には、みな、あるものなり。瀨戶物の壺のやうなる形にして、上下に、穴、有て、行(ゆき)ぬけ也。尤(もつとも)「すやき」のもの也。「祭器の用に製せしものか。」と、いへり。

 其(その)墓、ちかき山より、十町[やぶちゃん注:約一キロ九十一メートル。]ほど奥に、「琴彈岩(ことびきいは)」といふ有(あり)。夫(それ)に「やざこのさくら」とて、「吉備公、手自(てづか)ら、うゑられたる樹也といへり。二萬(にま)[やぶちゃん注:底本自体の特異点のルビ。]の里へも半里ほどあり、そこにまた、「二萬塚」といふあり。「二萬人、伏兵(ふくへい)、出(いで)たるゆゑ。」といへども、左(さ)にはあらざるべし。吉備の中山は、備前と備中の際(きは)にある山にて、則(すなはち)、細谷川(ほそたにがは)、其(その)國境(くにざかひ)也。

 

[やぶちゃん注:「備中の『をのみち』」尾道は旧備後国。

「玉の浦」尾道の名刹で、尾道市街と瀬戸内海の尾道水道・向島(むかいじま)などが一望できる真言宗大宝山(たいほうざん)千光寺(ここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)の公式サイトの「歴史」に、『境内中央の巨岩「玉の岩」は昔この岩の頂に如意宝珠があって、夜毎に海上を照らしていたので』、『この地を「玉の浦」と呼ぶとか』とある。

「北野の御神」菅原道真。

「金屋某」広島県尾道市に鎮座する御袖(みそで)天満宮(千光寺の東北直近)のウィキによれば、延喜元(九〇一)年、道真が『藤原時平の讒言によって左遷され』、『大宰府へ船で向かう際、尾道に上陸すると』、『土地の人々から麦飯と醴酒』(こさけ:甘酒)『を馳走されたので、これに感謝して』、『自らの着物の片袖を破り』、『自身の姿を描いて与えたが』、道真の薨去の後(延喜三年二月二十五日(九〇三年三月二十六日))の『延久年間』(一〇六九年~一〇七四年)、『天神坊』(後述)『の境内に』、『その袖を「御袖の御影」と称して祀る祠を建立したのが創祀で、「御袖」を祀る事から「御袖天満宮」と称されたという』。『なお、天神坊は後に大山寺となって明治の神仏分離まで別当寺として当神社を管掌し、現も境内に隣接している』(ここ)。後に御霊(ごりょう)となって天満宮に祭神となる道真が『寄泊したと』する『伝承は』、『中国地方の瀬戸内海沿岸各地に広く分布するが、当神社の創祀伝承に祭神を接待したのは金屋某という者であったとの伝えもあり、その「金屋」という家号から』、『中世末から近世期にかけて活躍した金融資本家が自家の豪勢さを誇るために神社縁起に介入した可能性がある。金屋家は江戸時代の化政期』(十九世紀前葉)『には尾道港の繁栄を背景に資産を積み、頼山陽や菅茶山を招いて当神社に関する記念碑を書かせたり、祭神接待に供した醴酒を醸す』ため『の麦を作ったという畑を所持していた。なお、金屋は絶家し、昭和の中頃』(二十世紀半ば)『まで存在した麦畑も荒廃に帰した』とある。なお、この神社の階段は大林宣彦監督になる、かの「転校生」で二人が転落して心が入れ替わるシークエンスの撮影が行われたところとしてよく知られる。

「はたきのもちい」「粢」(はたき・おはたき)は生米を水に浸して柔らかくし、搗き砕いて作った食べ物。「もちい」は「もちひ」で「餅」の古形。古書では、一般には神祭の供え物(神饌)の一種に用いられている記載があるが、東北地方では米のほかに粟や稗を用いたそれがあり、日常の食べ物でもあった。

「うは外家」御寄泊なされた部分の家屋の外側全体を、鞘堂でさらに覆って、保護したことを指すものと思われる。

「淚のみえい」現存しない模様。

「をのみちと云疊のおもて」「備後表」(びんごおもて)のこと。広島・福山両藩の備後地方の藺草で織った畳表で、主産地を形成する備後国(広島県)沼隈(ぬまくま)・御調(みつぎ)郡地方では、すでに戦国時代の天文・弘治年間(一五三二年~一五五八年)に「引通(ひきとおし)表」(継ぎ目がなく、長い藺草一本で横を引き通した畳表)が織られていた。福福島正則が入国支配(一六〇〇年~一六一九年)の頃の沼隈郡では二十七ヶ村で七百七十二機の畳表織機があり、中継ぎ織りをした「中指(なかさし)表」も織り出された。毎年の幕府献上品三千百枚は、畳表改役(あらためやく)によって製品管理が厳重に行われた。福山藩主が水野氏になると、献上表は幕府買上げの御用表となり、正保四(一六四七)年、「備後表座」と呼ぶ独自の買上げ機構が設けられた。畳表生産の大部分を占める商用表は、国産第一の品として、領外市場の信用確保のため、「九か条御定法」を定めて、品質管理・流通統制を厳重にした。広島藩における御調郡産の畳表も、藩は、毎年、一万枚を御用表として買い上げ、商用表は、運上銀を納めて、尾道町表問屋の手を経て、販売された。表問屋の金屋取扱いの畳表は、元禄一六(一七〇三)年で四万六千九百枚、宝永七(一七一〇)年で五万余枚に達している。廃藩後は諸制度が廃され、畳表製造業者・問屋が激増して自由販売となったが、明治一九(一八八六)年には、「備後本口(ほんぐち)畳表同業組合」(沼隈・深安)・「備後本口尾道藺蓆(いむしろ)組合」(御調)が設立され、自主検査するようになった(小学館「日本大百科全書」に拠ったが、これだけを見ても、津村の記した豪商金屋氏の繁栄は事実であることが判る)

「此家より織出(おりいだ)して、天下に流布する事也」問屋だから、ちょっと言い方がおかしい。

「相渡(ありど)村」現在の広島県神石(じんせき)郡神石高原町(ちょう)相渡(あいど)

「兩山の峯、合して石橋となり、そのうへを往來する也。其下は、瀧川、たぎり落(おち)て、誠に人工の物にあらず」これは現在の「帝釈峡」を共有する、相渡と北で接する広島県庄原(しょうばら)市東城町(ちょう)帝釈未渡(たいしゃくみど)の「雄橋(おのばし)」のこと。ここ。同サイド・パネルのこの写真を見られたい。サイト「じゃらんニュース」の「雄橋(上帝釈)」も参照されたい。それによれば、この石橋は溪水の浸食作用で形成されたもので、高さ約四十メートルの天然橋であり、「神の橋」とも呼ばれ、『「世界三大天然橋」の一つに数えられる』ともあった。

「未渡村といふ所の山は、石橋のかたち、半分、出來たるあり、依(より)て「未渡」と讀(よま)するとぞ」ここにきて始めて地名が腑に落ちた。而して先の「雄橋」のサイド・パネルの「案内板」に、雄橋の上流に「唐門(からもん)」というのがあり、その上の写真が、「唐門」の解説板である。ネット画像を調べたところ、「グルコミ」の「鬼の唐門」がよい。その解説によれば、『鍾乳洞が風雨に侵食されて崩れ落ちた跡』とある。

「船山」この名は広島県内に少なくとも三ヶ所あるが、これまでの叙述された地区の動きからみて、広島県庄原市高野町(たかのちょう)高暮(こうぼ)にある船山及び船山神社附近が当該地ではないかと推理した。違うとなら、御指摘あれかし。

「さかさ枝」いろいろなフレーズで調べて見たが、お手上げ。識者の御教授を乞う。

「下みち郡八田といふ所に吉備大臣の御墓有り」岡山県倉敷市真備町(まびちょう)下二万(しもにま)にある「二万大塚古墳」。一方に造り出しをもつ二段築成の前方後円墳。墳丘長三十八メートルで、後円部の南側に全長九・一メートルの両袖式横穴式石室の開口が確認されている。六 世紀中頃の築造で、造り出し上での祭祀の状況が明らかになった。横穴式石室から多量の副葬品が出土している。参照した奈良文化財研究所の「全国遺跡報告総覧」の「二万大塚古墳」に拠った。詳しい発掘調査結果は以上のページのPDFをダウン・ロードして参照されたい。埋葬者は吉備真備を輩出した下道(しもつみち)氏一族の墓と見られているが、造立推定年代から、真備自身の墳墓というのは伝承に過ぎないようである。

「吉備大臣」吉備真備(持統天皇七年(六九三)或いは九年~宝亀六(七七五)年)は奈良時代の学者で政治家。氏姓は下道(しもつみち)朝臣で、後に吉備朝臣を名乗った。霊亀二 (七一六) 年に留学生として入唐(にっとう)し、天平七 (七三五) 年に帰朝、「唐礼」(とうれい)・「大衍暦経」など、多くの書籍・器物を本邦に将来した。同九年、藤原氏の公卿が相次いで疫死したため、次第に宮廷内に重きを成した。同十二年に発生した「藤原広嗣の乱」は真備らの追放を口実としている。天平勝宝二(七五〇)年に筑前守に左遷されたが,翌年、入唐使として再び渡唐し、同六年に帰朝した。天平宝字八 (七六四) 年に「恵美押勝(藤原仲麻呂) の乱)に功があり、従三位・参議・中衛大将を経て、天平神護二(七六六)年に右大臣となった。神護景雲三 (七六九)年に「刪定律令」を編纂、正二位となった。宝亀二(七七一)年に致仕した(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「吉備寺」岡山県倉敷市真備町にある真言宗御室派鏡林山吉備寺(きびじ)。本尊は薬師如来で行基作と伝えられ、秘仏。「二万大塚古墳」は南東二キロ半ほどの位置にある。

「土輪(はには)」先のに示した奈良文化財研究所の「全国遺跡報告総覧」の「二万大塚古墳」に拠った。詳しい発掘調査結果は以上のページのPDFにある(写真・図有り)「脚付長頸壺」とあるものを指すもの思われる。

「上下に、穴、有て、行(ゆき)ぬけ也」不審。破損物を見たものか。同前の資料図では、壺の上部の杯部には底があり、抜けてはいない。

「其墓、ちかき山より、十町[やぶちゃん注:約一キロ九十一メートル。]ほど奥に、琴彈岩といふ有」岡山県倉敷市真備町妹(せ)に現存する。サイド・パネルの画像を見られたいが、その解説板(倉敷市教育委員会名義)に、『奈良時代に右大臣として中央政界で活躍した吉備真備(きびのまきび)公が、晩年父祖の地に帰り、中秋の名月の夜に、小田川に望むこの岩の上で琴を弾かれたと伝えられているところから琴弾岩と呼ばれている。昭和』二四(一九四九)『年以来、毎年中秋の名月の夜にこの岩に集(つど)い、真備公の故事にちなんで弾琴祭(だんきんさい)を催し、岩上で琴・尺八を演奏して公の遺徳をしのんでいる。』とある。現在、指定されている「吉備公館址(きびこうかんし)」からは、西南西に四キロ強離れている。「ちかき山」という起点は距離から見て、弥高山(やたかやま)か(国土地理院図)。

「やざこのさくら」現存しない。それを記念した「まきびさくら公園」が、琴弾岩の東北東二キロ弱の小田川と井原線に沿ったところに設置されている。

「二萬(にま)の里へも半里ほどあり。そこにまた、「二萬塚」といふあり」これは先と同じ「二万大塚古墳」を指しているとしか思われない。しかし、事弾岩と現在の二万の町域は、五キロ弱離れており、どうも計測値が合わない。この数値に合う古墳は小田川対岸の「黒宮大塚弥生墳丘墓」があるが、これか? 或いは古くはここいらの広域を「二萬」と呼んでいたものかも知れない。

「吉備の中山」「吉備の中山みち」はここ。南西部に吉備真備を配しておいた。

「細谷川」ここ。吉備津神社の東を流れる。歌枕として有名。]

2022/02/18

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 淺利貝(アサリ) / アサリ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。右下部に先に電子化注した「紅葉貝」の図の一部が食い込んでいるため、マスキングした。]

 

Asari

 

淺利貝【漢名不詳。】 又 蜊【「あさり」。】

 

 「六々貝合和哥」 左十四番 蜊

     伊勢せの浦の汐干にあさりもとめたる

       貝をばたもつ身をば捨つ〻

 

癸巳發春初三日、眞写す。筆始めの図。

 

[やぶちゃん注:これは、昨今、衝撃的な中国産偽装(輸入した同種のものを、直接、流通に載せ、数日でさえも本邦の砂浜で畜養していなかったのだから、最早、致命的である)店頭から姿を消している、

マルスダレガイ科アサリ亜科アサリ属アサリ Ruditapes philippinarum

であるが、或いは、中にはアサリよりも殻幅・殻の厚み・外套湾入が若干小さい、アサリ属ヒメアサリ Ruditapes variegatus も含まれていないとは言えない。流通では現在も区別していない。それほど、貝の見た目では一般人には判別はつかない。但し、本種は潮間帯から水深五メートルの外洋に面した岩礁域の岩や石などの間の砂地に棲息し(アサリより相対的には棲息域の水深がやや深い)、アサリのようには多量に採取することは出来ないから、まあ、外しておいてよかろう。アサリについては、「大和本草卷之十四 水蟲 介類 淺利貝」の本文と私の注を参照されたい。今の事態を聴いたら、福岡藩侍医であった益軒は、さぞかし、憤ることであろう。

「六々貝合和哥」「ろくろくかひあはせわか」は複数回既出既注。潜蜑子(かずきのあまのこ)の撰になる元禄三(一六九〇)年刊の、当時辺りから流行った三十六歌仙に擬えた歌仙貝選定本。三十六品の貝と、それぞれの貝名を詠みこんだ和歌三十六首を選んだもの。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで見られる。

   *

  左十四 あさり

いせのうらのしほひにあさりもとめたる 光俊

かいをはたもつ身をはすてつゝ

   *

と、確かにある。これは「新撰和歌六帖」(別名「新撰六帖題和歌」で寛元二(一二四三)年成立)の「第二 佛事」の載るのであるが、しかし、「日文研」の「和歌データベース」の当該歌集」で調べると(01160番)、

   *

いせのあまのしほひにあさりもとめたる

   かひをそまもるみをはすてつつ

   *

で、整序すると、

   *

伊勢の蜑(あま)の潮干(しほひ)に淺蜊求めたる

   貝(かひ)をぞ守る身ば捨てつつ

   *

で異なる。「潮干(しほひ)」は引き潮のこと。「貝」には「甲斐」を掛ける。作者は鎌倉時代の公家で歌人の葉室光俊(はむろみつとし 建仁三(一二〇三)年~建治二(一二七六)年。事績は当該ウィキを見られたい。

「癸巳發春初三日」天保四年癸巳一月三日。グレゴリオ暦一八三三年二月二十二日。

「筆始」既出既注。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 紅葉貝(モミジガイ) / トゲモミジガイ(表・裏二図)

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。左上部と中部上部に「淺利貝」のキャプションが食い込んでいるため、マスキングした。]

 

Momijigai

 

紅葉貝(もみぢがい) 

 

表・脊

 

裏・腹

 

壬辰(みづのえたつ)蠟月廿三日、寫す。

 

「松𫝍介品」、

    海燕【「をにひとで」。兵庫津(ひやうごのつ)。】

      【「白ひとで」。】

      【「たこのまくら」。】

      【「てぐさり」。敦賀。】

 

[やぶちゃん字注:「𫝍」は「岡」の異体字。なお、冒頭の「紅葉貝(もみぢがい)」の左下には、明らかに漢字二字と下方にカタカナが書かれてあるが、意図的に消されてあり、判読は出来ない。梅園自身が書き込んだが、後に異名として誤りであることが判り、紙片を当てて擦り消したものと思われる。

 

[やぶちゃん注:これは、無論、「蛤蚌類」ではなく、名前と形状及び背側(反口側)の色彩から、

棘皮動物門ヒトデ綱アカヒトデ上目モミジガイ目モミジガイ科モミジガイ属トゲモミジガイ Astropecten polyacanthus

と同定してよいと思う。全体に同種にしてはスリムで、棘(とげ)が上手く描かれていないのは、これが乾燥標本で、棘が体表に接触してしまっているか、或いは、大方、先頭部が欠け落ちているからであろうと推察する。当該ウィキによれば、漢字表記は「棘紅葉貝」で、『輻長約』七~十センチメートル』で、『褐色』から『黒色』を呈する。言わずもがなであるが、『「カイ」と名付けられているが、ヒトデ』(ヒトデ綱 Asteroidea)『の仲間である』。『日本では中部(房総半島・相模湾)以南のごく浅い砂浜や干潟、潮下帯などに広く生息』し、『インド洋、西太平洋などにも分布する。通常は砂や泥の中に棲み、夜明けや夕方などの薄暗い時間帯に活動する』。『反口側(背側)と口側の双方に多くの棘を持ち、通常』、『反口側は暗褐色で、口側は白』から『黄土色』を呈するが、『個体により』、『色と形に大きな差がある。よく似た種にモミジガイ』Astropecten scoparius 『があるが、モミジガイには反口側の棘がない。見かけからは想像しにくいが、水中での移動速度はかなり速く、先端に吸盤を持たない管足で砂を蹴るようにして歩く。体内にはフグ毒と同じテトロドトキシン』(tetrodotoxinTTX:嫌気性菌のプロテオバクテリア門Proteobacteriaガンマプロテオバクテリア綱Gammaproteobacteriaビブリオ目 Vibrionalesビブリオ科ビブリオ属 Vibrioや、グラム陰性好気性桿菌のガンマプロテオバクテリア綱シュードモナス目Pseudomonadalesシュードモナス科シュードモナス属Pseudomonas などの一部の真正細菌によって生産される猛毒のアルカロイド。解毒剤はない)『を含有しており、食すると』、『中毒を起こすため』、『注意』が必要である(☜重要!)。また、『表皮に』腹足綱前鰓亜綱翼舌目ハナゴウナ超科ハナゴウナ科ウニヤドリニナ属トゲモミジヒトデヤドリニナ Vitreobalcis astropectenicola 『が寄生することが多い』(嘗て私が観察した個体でも、大抵、寄生されていた)。

「壬辰(みづのえたつ)蠟月廿三日」天保三年十二月二十三日。グレゴリオ暦一八三三年二月十二日。天保三年には閏十一月があり、陽暦との差が激しい。

「松𫝍介品」松岡玄達著の貝類解説書(最後に一部の奇品種の図が附される)「怡顏齋介品」(いがんさいかいひん:現代仮名遣)全二巻。板行は宝暦八(一七五八)年。著者の序は元文五(一七四〇)年。画期的な同類書として知られる本邦で最初に板行された「貝盡浦の錦」よりも完成は早い。蛤類二十九種・螺類十四種・和品七十二種・蟹類十八種・蝦類十一種の他、本種のような雑種十三種が掲載されてある。参照したTerumichi Kimura氏の貝類サイト「@TKS」の「貝の和名と貝書」の同書の解説によれば、『主として実地の見聞に基づいて編まれており、書中』四十『余種の新出項目を有し』、「貝盡浦の錦」と『ともに我が国貝類学上』、『多大の衝動を与えたものである』とある。この本は、いつか電子化注したいと思っているのだが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本の下PDF一括版)の13コマ目から14コマ目にかけての「海燕」を視認して、電子化する。漢文部は訓読し、カタカナはひらがなに代えた。句読点・濁点を添え、一部に歴史的仮名遣で推定される読みを添えた。

   *

海燕(かいえん)【海盤車(かいばんしや)を附す。】 ○達、按ずるに、「海燕」、俗に、「章魚(たこのまくら)」と云ふ。越前敦賀・若狹小濵にて、「手ぐさり」と云ふ。形、楓葉(かいて)[やぶちゃん注:「かえでの葉」に同じ。]に似たり。圓(まどか)にして輕-虛(かる)く、㣲--毛ある者は「海盤車」なり。是(これ)を俗に「盲亀(めくらがめ)の浮木(うきき)」と云ふ。尼﨑、海濵沙地(すなぢ)に多し。甚だ腥臭(なまぐさ)し。其の曝(ざ)れたものは、外皮、及び、毛、脫(と)れ、して、鮫(さめ)の如く、文(もん)あり。其の脚、折れて、形、圓(まどか)なり。生(せい)なる寸(とき)[やぶちゃん注:「時」の略字。]は五色の紋采(いろどり)あり。相馬(さうま)にて、「人手(ひとで)」と云ふ。圓(まどか)なるを、「圓𫝶(ゑん)ひと手(で)」[やぶちゃん注:「𫝶」は「座」の異体字。]と云ふ。

   *

なお、附図があり(かなり稚拙で、がっくりくるので覚悟されたい)、「海燕」は30コマ目左丁の下段(「海㷼」とある「㷼」は「燕」の異体字)で、これは、あまりに惨いが、それでも近縁種を探すなら、本種以北に棲息するモミジガイ目イバラヒトデ科Cheiraster 属ホソトゲイバラヒトデ Cheiraster (Christopheraster) oxyacanthus が近いか。また、「海盤車」は、それより手前の27コマ目の左丁の左最上段にある。これも子ども描いたイラストみたようだが、感じとしてはクモヒトデの仲間で千メートルほどの深海底に棲息する、棘皮動物門クモヒトデ(蛇尾)綱カワクモヒトデ(革蛇尾)目テヅルモヅル亜目テヅルモヅル科オキノテヅルモヅルGorgonocephalus eucnemis に似ているように思われるものである。オキノテヅルモヅルについては私の栗本丹洲「栗氏千蟲譜」巻九がお薦めなのだが、携帯で手軽に見られたい向きには、私の『博物学古記録翻刻訳注 ■17 橘崑崙「北越奇談」の「卷之三」に現われたる珊瑚及び擬珊瑚状生物』がよい。画像だけでいいという怠惰お方には、ほら! これだ! 但し、この奇体な奴の成体は深海性でそうそう見つかるものではない。松岡が見たのは、形から見ると、テヅルモヅル科Gorgonocephalinae 亜科 Astroboa 属サメハダテヅルモヅル Astroboa arctos あたりか。さても。しかし、これらは、孰れもモミジガイとは凡そ異なったヒトデやクモヒトデであって、凡そこのトゲモミジガイの異名とするべきものではない。梅園は本書の本文の「形、楓葉(かいて)に似たり」の部分だけを見て、ろくにちゃんと本文を読んでいないし、図譜も見ていないことが、またしても――バレた――のだ。こういう書誌情報の不正確にして安易な引用転用が梅園の最大最悪の弱点なのである。

「海燕」中国では、知られたヒトデ綱アカヒトデ目イトマキヒトデ科イトマキヒトデ属イトマキヒトデ Patiria pectinifera の乾燥品を漢方薬として「海燕」の名で使うようだ。五放射の体制を持つヒトデ類は広く、鳥のツバメの形に比され、本草書では、よく使われる。

「をにひとで」全身の棘からの異名であろう。現代では、珊瑚食いの嫌われもので、棘の毒も強い厄介なヒトデ綱アカヒトデ目オニヒトデ科オニヒトデ属オニヒトデ Acanthaster planci の標準和名である。

「兵庫津(ひやうごのつ)」現在の兵庫県神戸港の母胎となった中世から近世にかけての港津(こうしん)。古代の大輪田泊(おおわだのとまり)の後身で、中世には「兵庫関」「兵庫島」などとも呼ばれ、東大寺領の「兵庫北関」、興福寺領の「兵庫南関」があった。前者では、瀬戸内沿岸各地からの上船から関銭を徴収し、東大寺ではこれを諸堂宇の修造費用に充てていた。東大寺の室町時代の関所経営は概ね請け負い制であったが,文安二(一四四五)年に直営となり、その年の「兵庫北関入船納帳」が伝存する。この納帳からは十五世紀の瀬戸内経済圏の状況が詳細に読み取ることが出来、室町時代の流通史研究の基本史料とされている(以上は平凡社「マイペディア」に拠った)。

「白ひとで」モミジガイ類のヒトデは、裏(口側)が口吻部を除いて白っぽいので腑に落ちる異名ではある。よくお世話になる鈴木雅大氏のサイト「生きもの好きの語る自然誌」の「モミジガイ」(モミジガイ属モミジガイ Astropecten scoparius )のページの三枚目の写真を見られたい。

「たこのまくら」これも目に入ったものを当てずっぽで附した感じがする誤りだ。ご存知の通り、現在は棘皮動物門ウニ綱タコノマクラ目タコノマクラ科タコノマクラ属タコノマクラ Clypeaster japonicus の正式な標準和名であり、だいたいがだ! 梅園! この形でどうして蛸の枕たり得るかを考えみろ! 迂闊者が! これはだな、先に出したイトマキヒトデの異名なんだよ! 益軒の「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海燕」で、ちゃんと、も見てるはずなのに! ダメだ、こりゃ!!!

「てぐさり」「手鎖り」であろうが、これは「怡顏齋介品」の図の通りで、テヅルモヅル系にして初めて有効となる異名であり、棘だらけだからと言っても、「手鎖り」には見えない。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 田螺(タニシ) / オオタニシとマルタニシか

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。先の「蚫」二個体の左下部に場違いに配されてある。上部に「アワビ」の解説の一部が食い込んでいるため、そこで切ると、頭が狭くなってしまうので、マスキングした。]

 

Tanisi

 

 田蠃【「たにし」。】

「邵武府志」、

 田螺【「たにし」。】

 「たつひ」【「和名抄」。】

 「たつぼ」【「東雅」。】

 「たのした虫」【畿内。】

 「つぼ」   【越後。】

 「たみな」  【薩州。】

 

癸巳(みづのとみ)初夏十一日、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:殻表面の色彩と分布域から、本邦に、本来、棲息するタニシ類中でも最大種である、

腹足綱前鰓亜綱原始紐舌目タニシ超科タニシ科タニシ属タニシ科タニシ属オオタニシ Bellamya japonica

に比定する。但し、地が暗いため(そこはオオタニシらしい)、螺層数が正確に数えられない(オオタニシは約七層)憾みがあるが、螺層が約六層である、小型(殻高三・五センチメートルで、写欲をあまりそそらないとも思われる)のヒメタニシ(Bellamya quadrata histrica )や、中型のマルタニシ(シナタニシ亜種マルタニシBellamya chinensis laeta )の場合は殻が孰れも緑褐色を呈し、これよりも明るいはずだからである(孰れも全国的に分布する)。但し、よく見ると、この二個体、下方のそれは、上の個体に比すと、殻がやや明るく描かれており、或いは、こちらは、

シナタニシ亜種マルタニシBellamya chinensis laeta

である可能性を示唆するものかも知れない。

なお、タニシについては、「本朝食鑑 鱗介部之三 田螺」、及び、「大和本草卷之十四 水蟲 介類 田螺」(二者はブログ単体)、また、サイト版の「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「田螺(たにし たつび)」を電子化注してあるが、「本草食鑑」が詳細でとどめを刺すので、参照されたい。……私は幼少期、裏山の藤沢市渡内の貯水池と、そこに広がる田圃で、タニシを盛んに採って来ては、水槽で育てたものだった。……今は……池も田も全く消滅して、池はちっぽけな公園になり、田圃と、その先の、地名通り、フジが生い茂った幽邃な渓谷も……今や、完全な住宅地と暗渠となってしまい、全く存在しない。……これが、その池の排水口でカワエビを採っている私で、また、これはその池で釣りをする私と父を描いた小学校二年生の夏休みの絵日記である。以上の写真や絵は、「1964年7月26日の僕の絵日記 43年前の今日 または 忘れ得ぬ人々17 エル」という記事にも載せてある。遠い日の、僕の至福の一瞬であった…………

「邵武府志」複数回既出既注。面倒なだけなので、再掲する。邵武府(しょうぶふ)は元末から民国初年にかけて、現在の福建省南平市西部と三明市北部に跨る地域に設置された行政単位。この附近(グーグル・マップ・データ)。ばっちり、内陸で、閩江が貫流する。同書は明代に陳譲によって編纂された同地方の地誌。

『「たつひ」【「和名抄」。】』「倭名類聚抄」の巻十九の「鱗介部第三十」の「龜貝類第二百三十八」に(国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板本の当該条を参考にして訓読した)、

   *

田中螺(たつひ) 「拾遺本草」に云はく、『田中の螺、其の稜(かど)有る者、之れを「螭螺(ちら)」と謂ふ。』と【和名「太都比(たつひ)」。「螭」は音「知」。「龍魚類」を見よ。】。

   *

「拾遺本草」唐の陳蔵器の「本草拾遺」(七三九年)のことか。散佚して原本は残らないが、「本草綱目」などで盛んに引かれてある。さて、私は先に示した「本朝食鑑」で、

   *

・「螭螺」不詳。順(したごう)が「和名類聚鈔」でなぜこの奇体な熟語を持ち出しているのかがまず不審である。本草書類にはこの語は見かけない。なお、「螭」の原義は角のない黄色い小さな龍或いは龍の子の意である。海岸で採取される螺塔の高いカニモリガイのようなものか。しかしだとすると、海螺(ウミニナ)に似ていると言った方がピンとくるのだが、これは川螺(カワニナ)との近似性を嫌った謂いか。にしても、後の「小さきなる者は小螭螺のごとし」というのはこの自己同一性とは矛盾するものである。順には悪いが、形は小さな時は「小螭螺」に似ているのであって、あくまで中国本草書では「螭螺」はタニシではないことは明白である。

   *

と述べたが、ややこの見解に修正を加えたい気がしている。太い螺層を持ち、尖りがないタニシ類は、実は、昇天する螭龍に相応しいと、今は感じてあけているからであり、とすれば、この記載は「田中の螺」であるからには、確かに本邦のマルタニシの原名亜種で中国大陸に分布するチュウシヒメタニシ(中支姫田螺)Bellamya quadrata quadrata と考えてよいと思われるからである。

『「たつぼ」【「東雅」。】』かの新井白石(明暦三(一六五七)年~享保一〇(一七二五)年)の著になる語源書。享保二(一七一七)年成立で同四年に改編している。但し、本格的に刊行されたのは明治三六(一九〇三)年である。但し、作者がかく引用しているから、多くの筆写本が作られたものらしい。書名は現存する中国最古の字書「爾雅」(著者不詳。秦・漢初の頃に編纂されたらしく、前漢の武帝(在位:紀元前一四〇年~紀元前八七年)の時代には既にあった)に基づき、『東方の「爾雅」』の意。名詞を十五部門に分け、まず、漢字を示し、カタカナで訓を附し、古書を挙げて、語源解釈をしたもの。解釈に際しては、時代性と音韻を重視することを説く。こじつけも多いものの、「きぬ」は漢語の「絹」が古期朝鮮語を経て、日本語に入ったものとするなど、逸早く日本語と朝鮮語との関係に言及した注目すべき意見なども述べている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。当該部は、国立国会図書館デジタルコレクションのこちら。しかし、

   *

田中螺(タツビ) 「倭名鈔」に「拾遺本草」を引て、田中螺は「タツビ」と註せり。今、俗に「タツボ」とも、「タニシ」といふは、卽(すなはち)、田螺也。

   *

とあるだけで、梅園の示す「たのした虫」というのは出ない。不審。「タノシタムシ」というのは聴いたことがない。小野蘭山の「本草綱目啓蒙」の「田蠃」(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの文化二(一八〇五)年跋の板本)にも、この異名は載らない。「田の下蟲」或いは「田の舌蟲」か? 引用元について識者の御教授を乞う。

「つぼ」恐らく「壺」ではなく、「つび」(螺)の越後方言であろう。

「たみな」「田螺」の音変化として腑に落ちる。「みな」は方言ではなく、「にな」(蜷)の古名である。「にな」はお馴染みの淡水産のカニモリガイ上科カワニナ科Pleuroceridaeカワニナ属カワニナ Semisulcospira libertina 或いは、その近縁種を指す。

「癸巳(みづのとみ)初夏十一日」天保四年癸巳四月十一日。グレゴリオ暦一八三三年五月二十九日。]

2022/02/17

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 石决明雌貝(アワビノメガイ)・石决明雄貝(アワビノヲカイ) / クロアワビの個体変異の著しい二個体 或いは メガイアワビとクロアワビ 或いは メガタワビとマダカアワビ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。左下端に場違いな「田螺(タニシ)」の図とキャプションがあるため、マスキングした。右手の標題兼引用を含むそれは、後半部分が三段ほどになり、かなりごちゃついているので、それぞれを別個に引き上げて電子化した。なお、この二図は、実は全く別な折りに写生したものであるので注意されたい(上の図が早く、下の図は、それよりも半年余り後に描かれたものである)。]

 

Awabi

 

「四聲字苑」に云はく、

  鰒(フク)【「阿波比(あはび)」。】。魚(ギヨ)[やぶちゃん注:広義の魚介類の意。]の名。蛿(カン/ゴン)に似て、偏にして、石に著(つ)く。肉、乾して食ふべし。青州の海中に出づ。「本草」に云はく、『鮑。一名「鰒」。』と。崔禹錫が「食經」に云はく、『石决明【和名、同上。】は、之れを食へば、心目、聡了(そうれう)たり。亦、石に附きて生ず。故に以つて之れを名づく。』と。

「多識編」

  石决明(セキケツメイ)【「あはび」。】 九孔螺(キウコウラ)【「日華」。】 殻を「千里光(センリコウ)」・「鰒魚甲(フクギヨカウ)」と名づく。

  蚫(あはび) 「料理綱目」※【「あはび」。】【九孔とて穴の九つ有るを、藥力(やくりき)の上(じやう)とす。或いは七孔の者を用ゆ。十孔以上は用ひず。】

[やぶちゃん注:「※」=「魚」+「変」。]

 

環(くわん)[やぶちゃん注:毛利梅園の号の一つ。]曰はく、弘景・蘇恭は、「石决明」と「鰒魚」を一物とす。蘇頌(そしよう)と時珍は一種二種と云ふ。本邦、蚫は、二種は無し。此れ、雄(をす)雌(めす)を以つて、二種と爲すか。「鮑-魚(あはび)」は、則ち、「蚫(あはび)」の殻の名なり。

 

石决明雌貝(「あわび」の「めがい」)

[やぶちゃん注:上図個体への狭義のキャプション。「あわび」「めがい」の表記はママ。]

 

癸巳(みずのとみ)六月廿九日、眞寫す。

[やぶちゃん注:上図『石决明雌貝(「あわび」の「めがい」)』個体の写生クレジット。]

 

環、曰はく、「石决明」、雌雄(しゆう)の二種。雌貝(めがひ)は、色、淡い黃色、雄貝(をがひ)は、色、黒緑色。雌雄の貝二つに、貝にて合はせ貝のまゝ、黒燒にして孕婦(はらみめ)、滿つる月の十日前、一度に白湯(さゆ)にて用ふ。乳の出で兼ぬる者、之れを用ゆる。功、有り、妙なり。「本草」に此の功を載せず。

 

石决明雄貝(「あわび」の「をかい」)

[やぶちゃん注:下図個体への狭義のキャプション。表記は同前。]

 

甲午(きのえむま)正月廿日、眞寫す。

[やぶちゃん注:下図『石决明雄貝(「あわび」の「をかい」)』個体の写生クレジット。]

 

「六々貝合和歌」

    左十二番

       百首

        なへてよの戀路にいかで

        うつしけん

        蚫の貝のをのが思ひを

              牡丹花

 

「前歌仙介三十六品」の内、

    伊せのあまの朝な夕なにかつくてう

     あわびの貝の片思ひして

 

[やぶちゃん注:これは、私の標題の通り、候補として頭に浮かんだ順(有力な順ではない)に示すと、

①腹足綱直腹足亜綱古腹足上目原始腹足目ミミガイ科アワビ属クロアワビ Haliotis discus discus の軟体部の脱色或いは白化様個体(上図)と通常個体(下図)

或いは、

②アワビ属メガイアワビ Haliotis gigantea (上図)と、同前のクロアワビ Haliotis discus discus

或いは、

③アワビ属メガイアワビ Haliotis gigantea (上図)と、マダカアワビ Haliotis madaka

とする。

 上下両個体が、同時に魚店から持ち込まれて描かれたものであるならば、当時の海女・海人による採取と(ある程度まで水深が同じ場所で採取される可能性が高い。メガイアワビはクロアワビよりも相対的に深い場所に棲息しているから)、江戸での流通(例えば、アワビなら、複数の漁師や仲買人が獲った産地の異なる個体を、一緒くたにして売ることは、当時としてはちょっと考え難いと思う)を考えると、同一海域の同一水深で捕獲されたものと考えるのが妥当であり、前者のクロアワビの、有意に軟体部が白っぽい個体と、通常の黒っぽい個体で問題ないのであるが(摂餌した海藻や棲息場所による個体変異は確かにある)、既に冒頭の注で述べた通り、この二図は、全く別に描かれた生貝或いは死亡直後の個体で、しかもそれは、半年以上も隔たっているものなのである。

 加えて、クロアワビの♀♂の違いは、盛んに言われるのだけれども、写真では学術的に信用出来るものが見つからなかった。漁協や販売業者の写真なら、いくらもあるのだが、その有意に白っぽいものが、メガイアワビでないという保証を見出せるものが一つもなかった(彼らは両種をともに漁獲・販売しているからである。「黒あわび」と掲げていても、解説を読むと、メガイアワビも扱っているのである)。

 いや、そもそもが、実はクロアワビの腹足部が白いというのは、私は疑わしいものと考えている。相対的に黒味が薄いか、灰色っぽい感じの個体(♀♂の違いではなく、である)は確かにいる。しかし、ウィキの「アワビ」には、そもそもアワビ類の『雌雄の判別は外見からではほぼ不可能で、肝ではなく』、『生殖腺の色で見分ける。生殖腺が緑のものがメスで、白っぽいものがオスである』とあって、実は剖検しない限りは決定的な♂♀の違いは判らないのである)。

 さればこそ、例えば、上図の「雌貝」(めがい)の場合、死亡後かなり時間が経過して、外套膜が収縮してしまい(しまっている)、さらに腹足部全体の体色が有意に褪せて白っぽくなった可能性、逆に下図の「雄貝」(おがい)も同様の経時変化を起こして、逆に黒味が濃くなり、内臓や外套膜の初期腐敗が発生し、肉が盛り上がっている可能性も捨てきれない(匍匐帯が雑に黒く塗られており、角度の問題があるが、右手上方に向かって膨れ上がっているようにも見える。生貝で活きがよければ、このような弛んだ様態は、普通、アワビ類は見せないと思う)。それが、ざっくり短縮すると、①の「クロアワビの個体変異の著しい二個体」という比定候補である。

 

 しかし、余りにもこの二図は違いが目立ち過ぎる。されば、そうした死後の軟体部変質による違いという条件を外して、別種として検討するとなら、生貝で腹足が有意に白っぽく見えるメガイアワビを上図に当て、有意に黒っぽいそれをクロアワビに当てるというのが、まあ、妥当な比定ではあろうかと――当初は――考え、それ一本でもいいのではないかとまで経決しかけた。それが、②の「メガイアワビ(上図)とクロアワビ(下図)」という比定候補である。民俗誌的にも、ウィキの「アワビ」にも書かれてあるが、メガイアワビは、供給される産地が限られており、漁獲量や消費量も少ないため、黒いクロアワビ(但し、この場合は語源自体は「殻の色が黒い」のである)の、「雌の貝」と認識されてきた経緯がある。また、メガイアワビは異名を「ビワガイ」とも言うが、これは腹足部がやや明るい黄土色(枇杷色)をしていることに由来している。解説の中で、梅園は「雌貝(めがひ)は、色、淡い黃色」と言っているのとも見事に符合するのである。

 

 ところが、虚心に梅園の図を眺めているうち、一つ、気になること出てきたのである。それは、下図の殻表面に並ぶ開孔部(機能や数は後述する)の隆起が、異様に高く見える点であった。而して、これは、実は、殻長二十五センチメートルを超えるアワビ中の最大種である、

アワビ属マダカアワビ Haliotis madaka

に有意に見られる特徴なのである。「マダカ」は「目高」で、これはその殼表の開孔部の捲(めく)れ上がった周縁部分が、まるで成層火山の噴火口のように高く突き出ていることによるものである(「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のマダカアワビのページの画像を参照されたい)。しかし、或いは、その写真を見ると、「同種は殻全体が高く膨れていて、上から見ると、ひどく丸っこく見えるじゃないか?」と文句を言われる御仁がいるであろう。しかし、下の図をよく見て貰いたい。この個体の殻――実は普通のアワビのような楕円形ではなく――なんだか――実は――ひどく丸く見えはしないか? さても、これが最後の③「メガタワビとマダカアワビ」という比定候補である。

 以上から、私は三候補とした。なお、メカイアワビの画像は「旬の魚介百科」のこちらがよい(軟体部写真が複数枚有る。外套膜の内側の腹足部が有意に淡いクリーム色を呈しているのが判る)。私は以上の通り、綜合的に見て、三候補の後者二つの孰れかを支持したい気がしていることを告白しておく。ただ、もし、下図の殻が、上図の殻とは異なり、円形にやや近いマダカアワビのそれであったとしたなら、梅園はきっとその違いを解説で附記したであろうとも思われるのである。されば、私の認識では、順位は、

    >

としたい。

 なお、アワビ類については、私のサイト版の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「鰒(あはび)」(冒頭を占有しているのですぐ判る)、及び、ブログの「大和本草卷之十四 水蟲 介類 石決明 (アワビ)」や、「日本山海名産図会 第三巻 伊勢鰒」を見られたい。特にそれらに附け加えて言うべきことはない。

 以下、語注に入る。

 

『「四聲字苑」に云はく、鰒(フク)【「阿波比(あはび)」。】。魚(ギヨ)[やぶちゃん注:広義の魚介類の意。]の名。蛿(カン/ゴン)に似て、偏にして、石に著(つ)く。肉、乾して食ふべし。青州の海中に出づ。「本草」に云はく、『鮑。一名「鰒」。』と。崔禹錫が「食經」に云はく、『石决明【和名、同上。】は、之れを食へば、心目、聡了(そうれう)たり。亦、石に附きて生ず。故に以つて之れを名づく。』と。』実はこれは源順の「和名類聚鈔」の巻十九の「鱗介部第三十」の「龜貝類第二百三十八」の以下の記載の引用に過ぎない。原文白文と訓読(補正を加えた)を国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年の板本の当該部を参考にして示す。

   *

鰒 四聲字苑云鰒【蒲角反與雹同今案一音伏見本草音義】魚名似蛿偏著石肉乾可食出靑州海中矣本草云鮑一名鰒【鮑音抱和名阿波比】崔禹錫食經云石決明【和名上同】食之心目聰了亦附石生故以名之

   *

鰒(あはび) 「四聲字苑」に云はく、『鰒【「蒲」「角」の反。「雹」と同じ。今、案ずるに、一音は「伏(フク)」。「本草音義」に見えたり。】。魚(ギヨ)の名。蛿(カン/ゴン)に似て、偏(へん)にして、石に著(つ)く。肉、乾して食ふべし。靑州の海中に出づ。』と。「本草」に云はく、『鮑。一名「鰒」【「鮑」の音は「抱」。和名「阿波比(あはび)」。】。崔禹錫が「食經」に云はく、「石決明【和名は上に同じ。】。之れを食へば、心目、聰了(さうれう)たり。亦、石に附きて生ず。故に以つて之れを名づく。」と。』と。

   *   *   *

・「四聲字苑」「倭名類聚鈔」に多く引用される本邦の古字書らしいが、 亡佚しており、不詳である。

・「本草音義」は漢籍であるが、やはり、亡佚、不詳である。

・「蛿」「広辞苑」に「おう」で「蛿・白貝」とし歴史的仮名遣を「オフ」とし、『ウバガイの古名』とあり、出典は「倭名類聚鈔」である。同じ「龜貝類第二百三十八」に(同前と同じ画像で確認出来る)、

   ★   ★

白貝(をふ)[やぶちゃん注:ママ。] 「唐韻」に云はく、『蛿【「古」「三」の反。一音は「含」。「辨色立成」に云はく、『「冨本朝式」の文に於いて、「白貝」の二字を用ゆ。』と。】「爾雅」に云はく、『貝の水に在るを「蛿」と云ふなり。』と。

   ★   ★

とあるが、さっぱり判らぬ。「ウバガイ」というのは、バカガイ科ウバガイ属ウバガイ Pseudocardium sachalinense を指し、アワビとは似ても似つかぬものであるからである。

・「靑州」現在の山東省。

・「本草」は「本草和名」(ほんぞうわみょう)のことで、深根輔仁(ふかねのすけひと)撰になる本邦現存最古の薬物辞典。醍醐天皇に侍医・権医博士として仕えた深根により延喜年間の九一八年に編纂された。唐の「新修本草」を範に取り、その他、漢籍の医学・本草書に書かれた薬物に倭名を当てて、本邦での産出の有無及び産地を記している。長く不明になっていたが、江戸幕府の医家多紀元簡が紅葉山文庫で上下二巻で全十八編からなる古写本を発見、再び世に伝えられるようになった。多紀により発見された古写本の現在の所在は不明であるが、多紀が寛政八(一七九六)年に校訂を行って刊行し、六年後に民間にも出された版本が存在するほか、古写本を影写した江戸後期から明治時代にかけての医師で書誌学者の森立之(りっし)の蔵本が、台湾の国立故宮博物院に現存する(以上は当該ウィキに拠った)。

・『崔禹錫が「食經」』「崔禹錫食経」(さいうしゃくしょくきょう(けい))は唐の崔禹錫撰になる食物本草書。「倭名類聚鈔」に多く引用されるが、現在は散佚。後代の引用から、時節の食の禁忌・食い合わせ・飲用水の選び方等を記した総論部と、一品ごとに味覚・毒の有無・主治や効能を記した各論部から構成されていたと推測される。

・「心目」精神と視覚。

・「聰了」(そうりょう)は「はっきりすること」。確かにアワビの殻の粉末は中日孰れに於いても漢方薬として、煎じて眼病などに用いられる。本来は「石決明」(せきけつめい)はそれを指す。

   *   *   *

「多識編」既出既出の林羅山道春が書いた辞書「多識編」。慶安二(一六四九)年の刊本があり、それが早稲田大学図書館「古典総合データベース」にあったので、調べたところ、「卷四」のこちら(第二冊一括版PDF)の31コマ目に、

   *

石决明【阿和比】

 千里光【阿和比加良(ラ)[やぶちゃん注:「あはびのから」。]】

 紫貝【牟良左岐加伊[やぶちゃん注:「むらさきがい」。アワビの殻の真珠光沢を指すものと思われる。]】 𩼵魚【阿和比】[やぶちゃん注:「𩼵」の字は擦れてよく見えないが、「鰒」の異体字のそれに似ているように見えるので、それを当てておいた。]

 糟决明【今-案加須豆計(ケ)乃阿和比】[やぶちゃん注:割注部は「今、案ずるに、『かすづけのあはび』。」で、「アワビの身の粕漬け」のことであろう。]

   *

とあった。

「九孔螺(キウコウラ)」「孔」はアワビが含まれるミミガイ科 Haliotidaeの殻の背面に空いた複数の排出孔のこと。これは鰓呼吸のために外套腔に吸い込んで不要となった水や、排泄物、及び、卵や精子を放出するための装置で、殻の成長に従って、順次、形成された孔は古いものから塞がってゆき、常に一定の範囲の数個の穴が開いている。これが、アワビでは開孔しているものが、四~五個であるのに対し、例えば、知られた小型のアワビのように見える同科のトコブシ属フクトコブシ亜種トコブシ Sulculus diversicolor supertexta では、六~八個と多く、それでアワビの幼体とは容易に識別が出来る。また、アワビでは、この孔の周囲が、隆起して捲(めく)れ上がって、穴の直径も大きいのに対し、トコブシでは、穴の周囲は捲れず、また、開孔径も大きくない。

「日華」北宋の大明の撰になる「日中華子諸家本草」。散佚したが、その内容は後の「本草綱目」等の本草書に引かれて残る。

「料理綱目」嘯夕軒宗堅(しょうせきけんそうけん)が享保一五(一七三〇)年に板行した料理書「料理網目調味抄」。国立国会図書館デジタルコレクションの、その第一巻の目録の「魚之部正字大畧」のここに(左丁後ろから二行目中央)、『※(あはび)【蚫仝・明】』とある(「仝」は「同」の異体字)。なお、「※」(「※」=「魚」+「変」)は思うに、原著者が「鰒」の異体字である「𩺽」或いは「𩼵」の字を見間違えてかく書いたものと思われる。なお、本文も縦覧したが、この「※」はアワビのパートでは使っていないようである。

「九孔とて穴の九つ有るを、藥力(やくりき)の上(じやう)とす。或いは七孔の者を用ゆ。十孔以上は用ひず」既に注した通り、アワビに開孔した孔は七つさえも空かない。或いはこの孔は塞がった穴も数えているものであろう。老成した大型個体のアワビの殻は薬用とはしないということであろう。

「環(くわん)」梅園の号には他に「蘆環瑛(ろくわんえい)」というのもある。

「弘景」六朝時代の医師で本草学者道士の陶弘景。明の李時珍の「本草綱目」によく引かれるが、そもそもここで梅園が言っていること自体が、その「本草綱目」の巻四十六「介之二」の「石决明」の「集解」の内容である。「漢籍リポジトリ」のこちら[108-11b]を参照されたい。訓点附きなら、寛文九(一六六九)年板本が国立国会図書館デジタルコレクションのここで読める。

「蘇恭」蘇敬(五九九年~六七四年)の別称。初唐の官人で本草家。

「蘇頌」(そしょう 一〇二〇年~一一〇一年)は北宋の科学者で宰相。時珍の引くのは恐らく一〇六一年に完成した「本草図経」である。もとは二十巻だったが、散佚した。但し、「証類本草」に引用されたものを元にして作られた輯逸本が残る。

「本邦、蚫は、二種は無し」誤り。実は既に示したクロアワビ・メガイアワビ・マダカアワビの他に、当時の感覚からは、先に出したトコブシも、「アワビの子だろう」ぐらいに思われていたに違いないのである。他にアワビ属ミミガイ Haliotis asinine など類縁種が数種いるが、それらは本州南部以南や南西諸島が分布域であるから、ここでは挙げない。なお、アワビ属クロアワビ亜種エゾアワビ Haliotis discus hannai (クロアワビの北方亜種。但し、同一種という説もある)もいる。

「此れ、雄(をす)雌(めす)を以つて、二種と爲すか」前に注した通り、見分けるためには、剖検しなくてはならない。ここで梅園の言っているのは、古典的な典型的形態分類でしかなく、それは最早、信用出来ず、無効である。それこそ個体差の色違いに過ぎぬ。

「癸巳(みずのとみ)六月廿九日」天保四年。グレゴリオ暦一八三三年八月十四日

[やぶちゃん注:上図『石决明雌貝(「あわび」の「めがい」)』個体の写生クレジット。]

「雌雄の貝二つに、貝にて合はせ貝のまゝ、黒燒にして」これは、この雌雄の貝を孰れも貝殻から剥き身にせずに、そのまま、腹足部を合わせて、薄く剝いだ竹串などで巻き、そのまま、竃や七輪で黒焼きにするのであろう。

「孕婦(はらみめ)……乳の出で兼ぬる者、之れを用ゆる。功、有り、妙なり」これは、二人目以降の出産の妊婦で、それ以前の哺乳の際に乳の出が悪かった妊婦に事前に食わせると効果覿面というのであろう。梅園は『「本草」に此の功を載せず』と注意喚起までしているが、ちゃんとあった! 「妊娠中、あわびの味噌汁を飲むと母乳の出がよくなる」と、「ユニ・チャーム」公式サイト内の「ムーニー」の大鷹美子氏監修の「妊娠中にアワビが良い?オススメな理由」だ。貴重な動物蛋白質だもんね!

「甲午(きのえむま)正月廿日」天保五年。グレゴリオ暦一八三四年二月二十八日

「六々貝合和歌」既出だが、再掲する。元禄三(一六九〇)年序で潜蜑子(せんたんし)撰。大和屋十左衛門板行。国立国会図書館デジタルコレクションで視認出来る。和歌はここ。整序すると、

 なべて世の戀路にいかで映しけむ

   あはびの貝の己が思ひを

か。「百首」という原拠は不詳。識者の御教授を乞う。「牡丹花」は作者の号。ネットで調べたところ、ブログ「Harunobu Project」のこちらに、鈴木春信画の「貝つくし」の「あハび」に、「なべて世の戀路にいかてうつしけん あはひのかいのおのか思ひを」として、「西川祐信 絵本貝歌仙 十三番」とあった。

「前歌仙介三十六品」「六々貝合和歌」と同じ「潜蜑子」と署名された、やはり元禄三年の序を持つ。当該ウィキによれば、それ『以外、編者や成立年代については明らかでない。古今和歌集仮名序を模した序に続き、三十六番歌合形式による』七十二『首、及び貝に関するその他の歌』四十一『首を掲載する』とあり、十二番左が「あはひ」で、作者は前の歌と同じ「牡丹花」となっているとある。しかしここに出る和歌は、「万葉集」第十一巻の作者不詳の一首(二七九八番)、

   *

 伊勢の白水郞(あま)の

     朝な夕なに

    潛(かづ)くとふ

  鰒(あはび)の貝の

      片思(かたもひ)にして

   *

である。]

2022/02/16

甲子夜話卷之六 38 安藝侯の家風、敬上を專とする事

 

6―38

藝侯淺野氏は、もと豐臣家の臣といへども、國家の厚眷を以て大封となりしとて、敬上報國の道に於は、佗家よりも分て心を盡せる家訓なりとぞ。獻上物件の内にても、葉茶は洗ふこともならぬものとて、壺に盛るとき自身匕を執て盛る。その時は前夕より齋戒して禮服を着け、おも立たる有司列居る所にて爲ると云。又西條柿も其事同じとて、自ら見張り居て、事を執るもの匣に詰め、直の目張をするまで自身見屆ると云。城下に神君の御宮あり。月參のとき、大抵の病ありとも、强て浴澡剃頭して必拜するを法とす。其他おのづから下に及んで、藩臣の主を奉ずる志の厚も、他家よりは勝るとなり。元祿中末家赤穗侯の遺臣、復讐の事世に喧傳するに至るも、自然その家法の薰染に出ると云。

■やぶちゃんの呟き

「藝侯淺野氏」広島藩浅野家の初代藩主浅野長晟(ながあきら)は豊臣政権の五奉行の内で最大の大名であった浅野長政の次男。文禄三(一五九四)年に豊臣秀吉に仕えて三千石を与えられた。「関ヶ原の戦い」以後は徳川家康に従い、秀忠の小姓を務めている。

「厚眷」国家政権の重要な眷属として遇されたことを指す。

「佗家」「たけ」。「他家」に同じ。

「分て」「わきて」。別して。

「匕」「さじ」。「匙」に同じ。

「執て」「とりて」。

「おも立たる」「おもだちたる」。

「列居る」「ならびをる」。

「爲る」「なせる」。

「西條柿」広島県の西条(現在の東広島市)が原産とされる渋柿。伝承によれば、八百年も昔からあったとされているらしい。この頃は、専ら、干し柿として食べられていた。

「匣」「はこ」。

「直」「ぢき」。

「目張「めばり」。

「見屆る」「みとどくる」。

「城下に神君の御宮あり」広島東照宮(グーグル・マップ・データ)。原子爆弾投下の際にも全壊を免れており、現存する被爆建物の貴重な一つである。私の電子化注である原民喜「一匹の馬」を、是非、読まれたい。

「月參」「つきまゐり」。

「浴澡」「よくさう」。からだを洗い清めること。

「必拜するを」「かならず、はいするを」。

「厚も」「あつきも」。

「薰染」「くんせん」よい感化を受けることを指す。

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 西※舌(コバカ)[「※」=「方」+「色」。]・馬軻螺(大バカ) / アリソガイ・バカガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。右上部に前の「キシャゴ」の図が侵入しているため、マスキングした。]

 

Bakagai

 

西舌一種

[やぶちゃん注:「」=「方」+「色」。「施」の異体字。]

 

癸巳(みづのとみ)孟春三日、筆始めに、眞寫す。

 

 

馬軻螺【「本草」に出づ。「ばかがい」。「大(おほ)ばか」。】

 

癸巳初夏五日、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:「西舌」は「西施舌(セイシゼツ)」で、これは、本邦では有意に多くの異名記載にミルクイ(斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目バカガイ科オオトリガイ亜科ミルクイ属ミルクイ Tresus keenae )とするが、ここでは殻の形からド素人でもそれが無効なことが判然とする。而してそれは誰かと問われれば、中文サイトの「西施舌」が正解を伝えて呉れる(しかも同ウィキの日本語版は存在しないという甚だ啞然とせざるを得ない「ていたらく」だ)。さてもその学名 Mactra antiquata は、

斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目バカガイ科バカガイ亜科アリソガイ属アリソガイ Coelomactra antiquata

のシノニムである。アリソガイ(有磯貝)は殻長約十二センチメートル程度に大成し、殻は亜三角形で、やや膨らみを持つ。殻は薄く、生体では、殻頂部は淡紫色で、他の部分は白色を呈する。本種は水質汚濁に弱く、ホンビノスガイ等の侵入(バラスト水や業者の人為移入)などもあって、本邦の砂浜海岸から急速に姿を消しつつあり、健全な個体群は全国的にも珍しいとされる。現在、絶滅危惧Ⅱ類(VU)に指定されている。私自身、浜辺で生貝を見たのは、小学校二、三年生の秋、大型台風襲撃後の由比ヶ浜の時のたった一回だけだろう(多量のバカガイ・アカガイ・サルボウ・ツメタガイがバケツ三杯ほど捕れたが、つい美味くてツメタガイの煮物を多量に食って、翌日、腹をこわしたのもよ~く覚えている)。とーま氏のブログ「アリソガイ」で、天然に成貝の殻や美しい幼貝の殻(紫色で薄く割れやすいとある)の写真が見られる。梅園が写生したものは、クレジットの特異点から見て、流通していた生貝ではないのように思われ、死貝の合わせ標本であろう(実はアリソガイ自体はそれほど美味とされておらず、古くも、本格的な食用の多量採取も行われていなかった可能性もあるか)。しかも、比較的若い個体と思われる。でなければ、下方の「大バカ」より図が小さいのが、逆に不審となるからでもある

 さて。この殻が円満で歪みのないそれが「コバカ」(小馬鹿)なら、下方の「オオバカ」(大馬鹿)は無論、真正の、馬鹿貝たる、

バカガイ亜科バカガイ属バカガイ Mactra chinensis

であることは言を俟たない。但し、大きいから大馬鹿なわけではない。所謂、人に捕捉された際、斧足や水管を収納しきれぬ内に貝を閉じてしまい、馬鹿のように「べろん」と舌を垂らしているという点で馬鹿なのである(但し、これは単なる語源に一説に過ぎない。しかし、私はこの差別命名が、一番、腑には落ちるのである)。バカガイは図鑑類でも、大き目に示されたものでも殻長を十センチメートル前後とするからである(概ね八センチメートルとするものが多い。則ち、本気のアリソガイの成貝の方が大きくなるということになる)。なお、図の右個体の殻頂からの黒い線は、当初は、合わせ標本の糸かと思ったのだが、或いは、同種の個体は薄いベージュであるが、時に放射線状の褐色の筋が殻頂から何本も入るケースがあり(例えば、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の「バカガイ」のページの写真を参照)、或いは、梅園はそうした個体を見つけ、それを描き込もうとして、上手くいかないでやめたために生じた筆跡痕のようにも思えてきた。

「癸巳(みづのとみ)孟春三日」天保四年癸巳一月三日。グレゴリオ暦一八三三年二月二十二日。]

「筆始め」陰暦時代は一月二日が「書初め」とされた。現在のクレジットは現代のそれ(一月三日)と同日である。

「馬軻螺」以下の割注の『【「本草」に出づ。】』というのは、時珍の「本草綱目」の巻四十六の「介之二」「蛤蚌類」の「珂」の項に出現する異名を指している。「漢籍リポジトリ」のここ[108-25b]を見られたいが、実はこれは、安易に「馬軻」を日本語の「ばか」と読み、無批判に本邦の「バカガイ」を当ててしまった✕――大馬鹿の大錯誤――なのである。以下に寛文九年板本の訓点を参考に自然流で「本草綱目」の当該項の必要な前半部分を読み下してみよう。

   *

【「唐本草」。】

釋名「馬軻螺(バカラ)」【「綱目」。】。「珬」【「恤(ジユ)」。時珍曰、珂は馬勒の飭(かざり)なり。此の貝、之れに似たり。故に「徐𠂻」[やぶちゃん注:「𠂻」読み・意味ともに不詳。]と名づく。「馬珂」と作(な)す。「通典」(つてん)に云はく、『老鵰(らうてう)[やぶちゃん注:「ロウチョウ」で「老いたクマタカ」を指す。]、海に入りて、珬と爲(な)る。卽ち、軻なり。』と。】。

集解「别錄」に曰はく、『珂、南海に生ず。采(と)るに、時、無く、白くして、蚌のごとし。』と。恭(きよう)曰はく、『珂は貝類なり。大いさ、鰒(あはび)のごとく、皮、黃黒にして、骨、白く、以つて、飭りと爲すに堪へたり。』。時珍曰はく、『按ずるに、徐表が「異物志」に云はく、『馬軻螺は、大なる者、圍(めぐ)り九寸、細き者の圍り、七、八寸。長さ三、四寸。』と。

   *

さて。この「勒」というのは、馬の頭に懸けて、馬を馭する革製の帯。馬の銜(くつわ)を附ける補助具である「おもがい」を指し、「絡頭」とも言う。その漢字から判る通り、デジタル「大辞泉」の「はな‐がわ〔‐がは〕【鼻革】」の「馬具」の画像をクリックされると判るように、「銜」と「手綱」を除く、馬の頭部を巡る「~革」とある部分全部が「絡頭」なのである。さても、この部分は乗馬の際にそのまま表に見える部分である。されば、高貴な騎乗者の馬では、ここに飾りが不可欠なのである。一読すると、「白くして、蚌のごとし」とあるから、アリソガイなどの仲間のように思われるかも知れぬが、それは大ハズレなのである。

「だって、蚌でしょ?」――という御仁に言おうじゃないか!

斧足類(二枚貝)でないのに――かといって腹足類(巻貝)にちょっと見えない貝で――「鰒(あはび)」のように貝の巻きが緩くしかも大きくて――生時には「皮」(=外套膜)がその周りを全部覆っていて「黃黒」であり――しかし――その肉を縮めると――「骨」=貝殻が現われ――それは「白く、以つて、飭(かざ)りと爲(な)すに堪へ』る美麗な貝が――

あるでしょうガッツ!!!

そうですよ!

貝フリークの垂涎の的である、

宝貝(腹足綱直腹足亜綱 Apogastropoda 下綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビ下目タカラガイ超科タカラガイ科 Cypraeidae)の仲間ですよ!

もう、イッチョ! 言おう!

――そうして、この「馬軻螺」を種同定した人がいる――のである。法政大学出版局のシリーズ「ものと人間の文化史」で三冊の大著「貝」(一九九七年刊)をものされた白井祥平氏である。その「Ⅲ」の「第三章 タカラガイ(宝貝)類」で、貝蒐集家なら、必ず何個も持っており、ビーチ・コーミングでも私も何度も拾ったことがある、

タカラガイ科コモンダカラ亜科キイロダカラ属ハナビラダカラ Monetaria annulus

を、まさに白石氏は「馬軻螺」に同定されておられるのである(同書209ページ)。同種の分布域は日本海側で男鹿半島以南、太平洋側で房総半島以南で、タカラガイの中でもごく普通に見られる種である。学名のグーグル画像検索をリンクさせておく。淡い灰色の背の部分に、オレンジ色の輪の形になった模様があり、これが花弁のように見えるのが和名の由来である。私も幾つも持っていたが、皆、生徒にあげてしまった。

「癸巳初夏五日」天保四年四月五日。五月二十三日。]

狗張子卷之四 不孝の子の雷にうたる / 狗張子卷之四~了

 

[やぶちゃん注:今回の挿絵は、兄の断末魔の顔が一番はっきり出ている底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編になる同全集の第一期の「江戶文藝之部」の第十巻である「怪談名作集」(正字正仮名)をトリミング補正し、以下に配した。]

 

Yukoukaminari

 

   ○不孝の子の雷(いかづち)にうたる

 慶長の初め、大宮(おほみや)七條のわたりに、「丸(まる)や彌介(やすけ)」とて、商人(あきうど)の有りける。二人の子を、もちたり。

 彌介は、むなしくなり、兄は彌二郞とて、おやの跡をつぎ、身體(しんだい)、ともかうもいたし、弟(おとゝ)は彌三郞とて、三條堀河にすみて、耕作を營みするに、手まへの貧しさ、朝な夕なを明暮(あけくれ)すだにも、わびしさ、限りなし。

[やぶちゃん注:「慶長の初め」「慶長」は一五九六年から一六一五年までで二十年続くから、その初めというのは、せいぜい慶長三、四年頃(一五九六年から一六〇〇年年初)までであろう。同元年十二月十九日に「長崎二十六聖人殉教事件」があり、同二年一月には「 慶長の役」が始まっている。同三年八月十八日に豊臣秀吉が死去し、同四年九月二十八日、徳川家康が大坂城西の丸に入城している。

「大宮七條」江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(三)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能。本文は大妻女子大学蔵後印本底本)よれば、『現京都府下京区木屋町』(きやまち)『付近。大宮通と七条通が交差するあたり。七条通を西に行くと、丹波街道へ通じ』、『隣国に接する交通の要衝で、本章で、商人として生計をたてるとする兄弥二郎の設定には無理がない。』とある。この中央附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「ともかうもいたし」「やっとのことで」或いは「どうにかこうにか」親の商売の身代を辛うじて続けて。

「三條堀河」江本氏の注に、以下に続く叙述を受けて、『現京都府中京区堀川通三条付近。堀川通と三条通が交差するあたり。なお、本章で兄弥二郎の住む大宮七条から三条堀川までは四キロメートル弱の距離があり、老母が供も無しに十日ごとに行き来するのは、かなり困難を伴うか。』と注しておられる。この附近。但し、私は何度も実測してみたが、長く見積もっても、三キロメートル弱の感じである。]

 母はやもめになり、年、かたぶきたり。

 兄彌二郞、いひけるは、

「我家ばかりにて、やしなふべき事に、あらず。弟のかたにもゆきて、やしなはれ、兄弟ふたり、十日がはりに、さだむべし。」

とて、朔日(ついたち)より十日のあひだは、彌二郞がもとにあり、中(なか)十日は堀河に行《ゆき》て、下の十日は、又、大宮より歸る。

 かやうにせし内にも、まづしき弟のかたは、ありやすく、兄のもとは、ふかうにして、新婦(よめ)さへ、すげなく侍《は》べる故に、母も、すみうき事に思ひけり。

[やぶちゃん注:「ふかう」「不孝」。]

 ある時、母、いまだ、弟のもとにありて、上(かみ)の八日、その家《いへ》、失食(しつじき)して、まいらすべき物、なし。

「さだめたりし日數(ひかず)、いま二日あれども、この體(てい)なれば、兄彌二郞かたへゆきて給はれ。」

といふ。

 九日の朝、母を出《いだ》したてゝ、七條大宮にやりけり。

 兄彌二郞、門(かど)に出《いで》むかひ、

「いまだ二日は、彌三郞かたにあるべき事なるに、何しに、はやくは來たれるぞ。とく、とく歸りて、二日をすぎてのちにこそ。」

とて、門の内へも、いれたてず。

[やぶちゃん注:「いれたてず」立ち入らせない。]

 母は、悲しくて、新婦(よめ)にむかひて、

「弟のかたには、食物(くひもの)絕(たえ)て、我は、はやく、來れり。今二日の事、何か、さのみに、とがむべき。」

といふに、

「いやいや、さだめのごとく、日ぎりをきはめて、來たられよ。一日にても、かなふべからず。」

といふ折ふし、朝飯(あさいひ)の出《で》きたり、と、みゆ。

「道も遠ければ、それを、少し、あたへよ。つかれをなぐさめて、弟がもとへ歸らん。」

といふに、新婦(よめ)は、返事(かへりごと)をもせず、飯(いひ)の上に、物をおほひて隱し、彌二郞は、あらけなくも、つらめしくも、いひのゝしりて、追ひもどしければ、母、なくなく出《いで》て、彌三郞が方(かた)へたちもどるに、いまだ五町[やぶちゃん注:約五百四十五メートル半。]ばかりも過ぎざるに、天に、くろ雲、おほひわたり、雷(かみたり)、しきりに鳴りわたり、彌二郞が家に落ちて、新婦(よめ)は、門口(かどぐち)まで、引出《ひきいだ》して、うちころし、又、いかづち、おちて、彌二郞がかうべ、くだけて、隱しける飯(いひ)をば、町中(まちなか)にうちまき、淺まし共云計(ともいふばかり)なく、一時(《いち》じ)のうちに、家、たえたり。

 

狗波利子卷之四終

[やぶちゃん注:かなり凄絶な報いを受けるのだが、胸が透く気がする。これで、よい。]

狗張子卷之四 母に不孝の子 狗となる

狗張子卷之四 母に不孝の子狗となる

   ○母に不孝の子、狗(いぬ)となる

 永正《えいしやう》年中に、都の西、鳴瀧(なるたき)といふ所に、彥太夫(ひこ《だいふ》)とて、百姓あり、有德(うとく)にはあらねども、又、世をわたるに、人なみの身すぎをいたせし。田畠(たはた)、よく、つくりて、住《すみ》けり。

 その生れつき、無道にして、神佛の事、更にうやまひ貴(たふ)とむ心、なし。

 さるまゝに、あたりちかき寺にも、いりたる事もなく、乞食(こつじき)・非人の來(きた)るをも、あらけなく、のゝしり、すこしのめぐみを、ほどこしあたふる事を、しらず。

 母をやしなふに、不孝なる事、いふばかりなし。

 只、明暮(あけくれ)、つらめしくあたりて、わづかにも心にたがふ事あれば、ことの外に、いひ恥かしめ、母の、年のかたぶきて、よろづ、つたなきを見ては、

「はやく死して、隙《ひま》をあけよかし。娑婆(しやば)ふさげに、無用の長生きかな。」

と、のろひ、いましむる事、每日なり。

 母、これを聞《きく》に、物うさ、限りなく、

「汝は、誰(たが)うみそだてゝ、かくは聞《きこ》ゆらん。つれなく、命の生(いき)ける事よ。」

と、我身を恨みて、淚をおとさぬ日も、なし。

 母、やまひにかゝりて、食(しよく)のあぢはひ、心よからず、新婦(よめ)をたのみて、ひとへの衣(きぬ)をうりて、そのあたひを彥太夫にわたし、

「これにて、魚(いを)を買ひもとめてくれよ。」

と、いひしを、魚のあたひは、取りながら、魚は、更にもとめあたへず。

 隣りの人、あはれがりて、鯉の羹(あつ)ものをつくりて、來りあたふるに、母には、まいら[やぶちゃん注:ママ。]せずして、おのれ、ぬすみて、みな、くひつくしけり。

 たちまちに、腹をいたみ、さまざま、藥(くすり)をもちゆれども、そのいたみ、少《すこし》もやみたるけしきなく、吟臥(によひふし)て、くらき閨(ねや)のうちに籠(こも)り、夜晝(よるひる)五日のうち、うめきけるを、人、行《ゆき》て、

「いかに。」

と問ふに、その身、變じて、狗(いぬ)となり、蹲(かゞ)まりて、恥かしげにみえけるを、食ひものをあたふれども、くはず。

 百日を經て、死にけり。

「不孝のむくい、目の前にあり。」

と、たがひに、おそれおどろき、親ある人は、皆、かうかうを、いたしけるとぞ。

 

[やぶちゃん注:挿絵はない。

「永正《えいしやう》年中」一五〇四年から一五二一年まで。室町幕府将軍は足利義澄・足利義稙(よしたね)。室町中期であるが、実質上の戦国時代初期で、時制が、再び巻き戻っているが、これは、江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(三)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能。本文は大妻女子大学蔵後印本底本)よれば、先に出した元禄二(一六八九)年板行の説話集「本朝故事因緑集」(著者未詳)の第五巻の百四十二の「洛外人(ラクグワイノヒト)爲犬《いぬとなる》」で、その時制設定が「天正」だからに過ぎないことが判る。「国文学研究資料館」公式サイト内の原板本の当該部でリンクさせておく。その本文は僅か百四字で、甚だ短く、不孝の対象は父母で、特に父に対する仕打ちであり、本篇のようなリアリズムが殆んど全くなく、至って面白くない(評が後に附され、漢籍からの類話の和訳が載りはする)。

「鳴瀧(なるたき)」京都府京都市右京区の鳴滝地区であろう(グーグル・マップ・データ)。

「あらけなく」「荒けなく」で、「荒々しく・乱暴に」の意。

「つらめしく」如何にも相手に対して、つらく思わせるような感じで。

「隙《ひま》をあけよ」「暇(ひま)を明(あ)けよ」で、「ひまにして呉れ」「忙しくないようにせよ」で、一般には「浮き世の暇を明けよ」の形で、「さっさと死んじまえ」の意で用いる。

「娑婆(しやば)ふさげ」「娑婆塞ぎ」に同じ。「生きているというだけで、なんの役にも「のろひ、いましむる」「呪ひ、戒むる」で、呪詛するように罵詈雑言を吐き、激しい叱咤を加えること。

「かくは聞《きこ》ゆらん」「どうしたら、そのようなひどい言葉を私に聞かすことができるのじゃろう!」の意の反語。

「つれなく」彦太夫のふるまいが「人の心を汲もうともせず、ひややかである。情け知らずで無情だ」の意を示すとともに、「全く思うにまかせず、かくも不幸せに」の意を以って「命の生(いき)ける事よ」への形容ともなっている。

と、我身を恨みて、淚をおとさぬ日も、なし。

 母、やまひにかゝりて、食(しよく)のあぢはひ、心よからず、新婦(よめ)をたのみて、ひとへの衣(きぬ)をうりて、そのあたひを彥太夫にわたし、

「これにて、魚(いを)を買ひもとめてくれよ。」

「鯉の羹(あつ)もの」コイと野菜を煮込んだ熱いスープ。古くより、コイは精をつける薬餌として重宝された。

『人、行《ゆき》て、「いかに。」と問ふに』「心配した彦太夫の知人が、彼の家を訪ねて、「どうだ?」と彼の寝ている部屋に声をかけたところが」という怪異出来の大事なシークエンスなのだが、どうも表現が上手くない。もっと映像的にリアルにカットを入れるべきところである。「了意、老いたり。」の感が激しくする。「蹲(かゞ)まりて、恥かしげにみえけるを、食ひものをあたふれども、くはず。」という描写をもっとタメて、漸層的に見せるべき怪異譚のキモが外れてしまっている。

「かうかう」「孝行」。]

狗張子卷之四 木嶋加伯

 

[やぶちゃん注:今回の挿絵も状態が最もよい現代思潮社版のそれをトリミングして適切と思われる箇所に挿入した。なお、底本(昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編になる同全集の第一期の「江戶文藝之部」の第十巻である「怪談名作集」)の本文は「木島」であるものの、「目錄」では「木島」が「木嶋」であり、参考にしている早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原板本の本文(早稲田大学図書館蔵)も、所持する現代思潮社版も、また、江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(三)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能。本文は大妻女子大学蔵後印本底本)でも、総てが「木嶋」であることから、特異的にそちらに総てを訂した。

 

   ○木嶋加伯(こじまかはく)

 京都誓願寺本堂の南のかたに、隔子(かうし)の内に佛壇をかまへ、地獄の變相(へんさう)を繪圖にあらはして懸けたり。安養寺とかや、名づく。

 京田舍の子どもの死たる、その衣類、または、もてあそびしものを、

「家におきて見るも、かなしく、親の思ひの堪えがたさに、こゝにおくりて、佛に奉り、せめて、なげきをわするゝや。」

と、ものすれども、恩愛のうれひは、いやまさるなり。

 或る人、いとほしき子におくれて、かなしさのまゝ、その子の衣(ころも)を安養寺につかはして、佛にくやうし、後《のち》にまいりて、是をみるに、撫子(なでしこ)を摺縫(すりぬひ)にしける衣なりけり。淚とともに、かくぞ、よみける。

 なでしこの花の衣はうつ蟬の

    もぬけし殼とみるぞかなしき

 元和《げんな》年中に、長門(ながとの)國萩(はぎ)といふ所に、木嶋加伯とて、慾心無道の人、此人、世には、

「黃金(わうごん)五千兩の分限(ぶげん)。」

とぞ沙汰しける。

 孫に、子、ありしかども、みな、死にはてゝ、今は、家をゆづるべき女子(によし)だにも、なし。

 年は、かたぶきぬ。夫婦、

「只、うき世の思ひでに、心のまゝに、たのしみをきはめ、年を、あそび暮し侍べらん。」

とて、めづらしき肴(さかな)、名ある酒をもとめ、腹に飽き、醉《ゑひ》に和(くわ)しながらも、他人には、あたへず、ふうふのみ、ひたひをあはせて、飮み食ひて、たのしみとす。

 

Kojimakahaku

 

 其夜、鬼のかたちのごとくなるもの來りて、夫婦の喉(のんど)をつかみて、いはく、

「汝、いかなれば、我らの脂(あぶら)をしぼり、剝ぎとりける金銀をもつて、身のえいえうにつかひすつる事の、惡(にく)さよ。」

と、いふを、加伯、

「今より、肴を、くはじ。酒をも、のむべからず。衣類の美をも、かざるまじ。家をも、つくるまじ。わびてすむ身とおなじものにして、世をすごすべし。」

と、さまざま、怠狀(たいじやう)するに、鬼は、立ちのく、と、おぼえて、夢のやうに覺(さめ)ながら、猶、おもかげは、はなれず、おそろしさ、かりぎなし。

 これより後も、若(もし)は、花の下(もと)、月の前に、肴をもとめ、酒をおきて、興を催し、あそばんとすれば、鬼、又、きたりて、責め、いかりければ、加伯、いまは、せんかたなく、ある貴(たつ)とき僧に逢ふて、この事を、かたる。

 僧のいはく、

「それ、大欲をもつて、理(り)の外《ほか》の財寶をむさぼるものは、佛の道にそむき、神の諚《おきて》に、たがふ。天地の中に我身をたつる所なく、その守りを失なふが故に、禍(わざはひ)、かならず、來り、惡鬼(あくき)、すなはち、つきそふをもつて、よこしま、いよいよ、かさなり、もろもろのうれへ、悲しみ、絕《たゆ》る事、なし。只、慈悲をもつて、物をめぐみ、『佛・ぽふ・僧』の三寶(《さん》ぼう)をうやまひ、信(しん)をおこして、後(のち)の世の事、よく、もとめて、何事をも、むかしをくやみ、今の心をあらためられよ。」

と、ねんごろにすゝめられければ、夫婦ながら、心とけて、年比(としごろ)の事を懺悔(さんげ)し、それより、都にのぼり、誓願寺にまいり、堂塔を修造(しゆざう)し、一心念佛の行者となり、安養寺にかけられたる地ごくの變相を見て、いよいよ、後世を大事と思ひ、夫婦ながら髮(かみ)をそり、すなはち、夫婦の座像をつくらせ、壇上に、たておきたり。

 今も猶、その有さまをかたりつたへて、木像をみるにつけて、發心する人もあり、とかや。

[やぶちゃん注:「木嶋加伯(こじまかはく)」不詳。但し、私は「伽婢子」以来、原拠考証は扱わない原則だが、本篇の典拠は前掲の江本氏のそれによれば、先に出した元禄二(一六八九)年板行の説話集「本朝故事因緑集」(著者未詳)の第二巻の五十四の「長門國木嶋加伯(コジマカハク)利慾(リヨク)因果(イングワ)」であるとあるから、そこからそのまま引いた名に過ぎないことが判る。「国文学研究資料館」公式サイト内の原板本の当該部でリンクさせておく。先のものもそうだが、種本のインスパイアという強いオリジナリティはあまり見られない。各シークエンスを膨らまして、映像的に見せる手法は了意の得意なところとして評価出来るが、「伽婢子」の頃の鮮やかな換骨奪胎の力量に明らかな減衰が感じられ、ちょっと寂しくはある。

「京都誓願寺」現在の京都市中京区新京極通にある浄土宗西山深草派総本山である深草山誓願寺。本尊は阿弥陀如来。

「隔子(かうし)」「格子」に同じ。

「安養寺とかや」「名づく」ところの「誓願寺本堂の」境内の中の「南のかた」と読めるので、誓願寺の庵か塔頭(附属する小寺か末寺)と読めるが、江本氏の注には、『未詳。『京羽二重』四の誓願寺の条に塔頭十八、末寺六が載るが、安養寺の寺社名はない。『雍州府志』四「安養寺京極三条南ニ在り、浄土宗西山流之内西谷派ナリ」を指すか。現中京区新京極通蛸薬師下ル東側。浄土宗西山禅林寺派。』とあり、この附近で、現在の誓願寺から南南東に二百メートル圏内であり、ウィキの「誓願寺」によれば、天正元(一五七三)年の『火災で荒廃していたが』(前史・宗旨変遷はリンク先を読まれたい)、天正一九(一五九一)年二月には『豊臣秀吉の命を受けて現在の新京極へ移転し、秀吉の側室であった京極竜子(松の丸殿)とその生家の京極氏から広い敷地が与えられた。京極竜子は堂塔の再興にも尽力し、木食応其の勧進もあって慶長』二(一五九七)年三月に『落慶法要が行われ、高野衆』五十『人が参列したという』。『安永年間』(一七七二年~一七八一年)『には塔頭』十八『ヵ寺の他、三重塔まで存在し、境内には芝居小屋、見せ物小屋』まで『立ち並』ぶという盛況であった『が、天明、弘化、元治年間に三度』の大火を蒙り、『さらに明治維新とそれに続く廃仏毀釈』、明治五(一八七二)年から『始まった新京極通の整備で寺地を公収され』、『境内は狭隘となった』とあるから、その今はなき安養寺は西山派とあるが、誓願寺は嘗て西山派が発祥・発展した寺院でもあり、誓願寺が現在、西山深草派で異なって見えても、なんら問題はない。

「ものすれども」「物す」平安以降の汎用代動詞。ここは「そのような形で『供養』と称して亡き愛児の物を遠ざけたものの」の意

「摺縫(すりぬひ)」「縫摺(ぬひずり)」刺繍に摺り絵(染め草又は染料を摺りつけて模様を表わすこと)を加えた装飾。

「なでしこの花の衣はうつ蟬のもぬけし殼とみるぞかなしき」江本氏注に、『典拠未詳。撫でるように可愛いがった幼い我が子に先立たれ、撫子の花模様を摺縫いにした子供の着物が、この世に残された抜殼のように見えて一層哀しいことだ、の意。』とある。

「元和《げんな》年中」慶長の後で、寛永の前。一六一五年から一六二四年まで。徳川秀忠・家光の治世。

「分限(ぶげん)」分限者。金持ち。

「我らの脂(あぶら)をしぼり、剝ぎとりける金銀をもつて」この鬼形(きぎょう)のそれは、放蕩三昧をする木嶋に対する庶民の嫉み・怒りが物の怪と化したものと読める。

「えいえう」「榮耀」。ここは「贅沢を蕩尽すること」の意。

「怠狀(たいじやう)」もとは、平安後期から鎌倉時代にかけて罪人に提出させた謝罪状で「過状」とも言った。転じて、「詫び証文」や「過ちを詫びること・謝罪」の意となった。ここは、その後者。

「大欲」「たいよく」「だいよく」で、非常に欲の深いこと。

「『佛・ぽふ・僧』の三寶(《さん》ぼう)」「仏」と、「その仏が説いた教え」と、「その教えを奉ずる僧或いは教団」で、仏法に於いて最も尊ばねばならない三つの宝とされる「三宝」を指す。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 光螺(キシヤゴ・キサゴ) / キサゴ(イボキサゴ・ダンベイキサゴをも含む可能性有り)四個体+同属種の殻に入ったヤドカリ(生体)一個体

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。右下部に前の「バイ」のクレジットが侵入しているため、マスキングした。なお、本図にはクレジットがない(これについては注で考証した)。]

 

Kisyago

 

「閩書(びんしよ)」

 光螺(クワウラ)【「きしやご」。大なる者を、國俗、「だんべいきしやご」と云ふ。】

  細蠃(サイラ)【「きさご」。】

   其の身、蝦に似て、よく歩行す。

 

[やぶちゃん注:これは、

腹足綱原始腹足目ニシキウズガイ科キサゴ亜科キサゴ属キサゴUmbonium costatum

 同属イボキサゴUmbonium moniliferum

或いは、大型種である、

 同属ダンベイキサゴ Umbonium giganteum の若年個体

と同定される。小学館「日本大百科全書」の奥谷喬司先生の「キサゴ」の解説によれば、漢字表記「喜佐古」「細螺」「扁螺」で、『地方によってキシャゴ、シタダミ、ゼゼガイ、ナガラミなどの地方名がある。北海道南部以南の日本全土から台湾、中国沿岸に分布し、外洋の浅海砂底に群生する。普通殻高』は二センチメートル、殻径は二・五センチメートル『ほどである。殻は背の低いそろばん玉形で、殻表は光沢が強く、太くて低い螺肋(らろく)がある。灰青色と黄色の絣(かすり)模様の個体が多いが、個体変異が多く、白っぽいものや』、『周縁に淡紅色の帯のあるものなど』、『多様である。体は、足裏が広く』、『後端は』、『とがり、左右に』四『対の上足突起があり』、『触角と柄(え)のある目があって、入水管の入口に触毛がある。潮が引いてくると』、『砂の上に出て』、『活動して餌』『をあさり、干上がると』、『砂中に潜る。産卵期は晩秋で、海中に放卵する。肉は食用とされるが、いくらか苦味がある。殻は貝細工の材料やおはじきなどの玩具』『にする』。『近縁種のイボキサゴU. moniliferumは本種よりやや小形で』、『内湾的環境の潮間帯に大きな個体群をもつ。殻底の臍盤(せいばん)が広いので』、『キサゴとただちに区別がつく。ダンベイキサゴU. giganteumはキサゴといっしょにすみ、大形で螺肋はなく』、『平滑。「ナガラミ」などとよばれて食用にされ、殻は細工用に利用される』とある。なお、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のキサゴのページによれば、「きさご」の「きさ」とは『木目のことで』、『木目状の模様のある巻き貝の意味』とあった。なお、引用はしないが、ウィキの「キサゴ」、及び、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の「イボキサゴ」(同種の殻上面の色彩と紋様がいかに多様であるかが判っていただける。また、貝表面に疣状の突起があることからの命名だが、同種には「いぼ」のあるものと、ないものがあり、それ自体は同定の決め手とは全くならない)、そうして、ウィキの「ダンベイキサゴ」をリンクさせておく。孰れの種も、ビーチ・コーミングで採取するのも、また、食べるのも大好きな種である。

 さて、右下のヤドカリであるが、ネットのQAの自宅の水槽にいたキサゴの殻に入っているヤドカリの同定依頼の回答記事、及び、サイト「1.023world - ヤドカリパークとマリンアクアリウム -」の以下の種の記載、及び、同サイトの類似の他種の記載を較べて見るに、

異尾下目ヤドカリ上科ヤドカリ科ツノヤドカリ属テナガツノヤドカリ Diogenes nitidimanus

が、一つ、候補とはなろうかとは思われた。

「閩書」明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南産志」。

「其の身、蝦に似て、よく歩行す。」この解説を、虚心に読むに、少なくともこの写生をした際のヤドカリの入ったもの以外は死貝で、しかも、梅園は、これを、その瞬間には、貝とも蝦ともつかぬ生物として捉えていたことが判る。しかし、同じ丁の「蛤蚌類 海蠃(バイ) / バイ」の解説で、梅園は『小螺ハ「バイ」ニモカギラズ、「河貝子(ニナ)」、「鳴戸ボラ」、「寄生蟲(ヤトカリ)」、ナトノ螺ノ小ナル惣名也』と述べており、さらに本篇では本種を正規の「蛤蚌類」パートに入れ、また、本図譜のずっと後にも、今一度、今度は「ダンベイキシアゴ」として「貝」として描いているから、彼がヤドカリ類を認識していなかったわけではなく、本種も立派な貝(エビの仲間が貝のような甲羅を持ったものではなく、である)として認識していたことは、確かである。このやや不審な書き方は、やや手が滑ったものと見るべきか? 或いは、キサゴ類の殻の上面が整然とした石畳状で、色彩の個体変異が甚だしいところから、昔、描いた時(だからクレジットがない(忘れた)のではないか? そう考えて見た時、この丁でこの「キシヤゴ」の絵が立体感に欠けており、他の絵に見劣りすることが判り、これは、まだ、絵の勉強をちゃんとしていない頃のものではないか? 但し、生きたヤドカリの頭部部分は頑張って描いているとは思う)、若き梅園の頭を、ちらと、『この貝のようなものは、実は、エビめいたこの生き物が自分で作り上げた自前の殻なのではないか?』と、乏しい知識の中で誤認した可能性がなかったとは言えない。そうした過去の印象が記された記録として読むことも可能であろう。いや、その方が腑に落ちるのである。

狗張子卷之四 霞谷の妖物

 

   ○霞谷(かすみだに)の妖物(ばけもの)

 伏見開道(ふしみかいだう)、稻荷の北のかたに、小橋あり、世に「朽木橋(くちきばし)」と名づく。

 橋のつめに、農人(のうにん)喜衞門といふもの、年比(としごろ)、住《すみ》わたりれり。

 「藤(ふぢ)の森(もり)」に、知人、ありて、麻(あさ)の種(たね)を、もとめにいきけり。

 とかくするほどに、日、すでに暮になりて、酒には醉(えひ)て、心おもしろく、

「うら道より、野(の)どほりに、家に歸る。」

とて、小歌、うたふて、ゆくゆくみれば、手燭(てしよく)に、蠟燭(らうそく)をたてゝ、立《たち》たり。

 あやしみながら、ちかく、あゆみよりて見るに、法師、二人、あり。

 身には、衣をも着ず、手には、數珠(じゆず)も、なし。

 一人は、色靑き小袖を着(ちやく)し、今一人は、その比《ころ》、はやりし「龜(かめ)や嶋《じま》」の小袖を、はぎ高(だか)にきなし、喜衞門を見て、

「けしかる男かな。農人とみえて、鋤(すき)をかたげたりな。夜(よる)、此道をゆくもの、たやすくは、とほすまじ。こなたへ、こよ。」

とて、喜衞門がかひなをとりて、引《ひき》たてゝゆく。

 法師のたけは、九尺[やぶちゃん注:二メートル七十三センチ弱。]ばかりにて、しかも、力のつよき。

 聲をたつれども、出あふ人も、なし、引たてられて、山に入《いり》つゝ、奧ふかく、ゆきて、「霞の谷」にぞ、くだりける。

 傍らなる洞穴(ほらあな)につきいれて、二人の法師、その口にさしむかひて、まもり居(ゐ)たるを、いかにもすべきやうも、なし。柴かる人も、みえず。

『立出《たちいで》ん。』

と、すれば、更につきいれて、うごかさず。

 二夜三日、ものをもくはず、守り居(を)る法師のおそろしさに、洞(ほら)のうちにうづくまりて、

『いかにせん。』

と案ずる間に、法師も、つかれぬらん、坐(ざ)しながら、ねぶりけるを、すきまを見て、手にもちたる鋤(すき)を取《とり》なほし、洞より、かけ出で、左右に、二人ながら、なぎたふし、足にまかせて、はしり歸り、閨(ねや)の内にかけこみ、夜の物、引かづきて、臥(ふし)たり。

 宿(やど)には、

「喜衞門の、行がたなく、うせたり。」

とて、あたりのともがら、あつまりて、尋ねに出べき用意せし所へ、はしり歸りしかば、

「いかにせし事ぞ。」

と、枕もとによりて、問ひけれども、いらへもせず。

 とかくして、夜もあけしかば、やうやうにして、おきあがり、

「かうかう。」

と、かたるに、

「さては。『霞の谷』にて妖物(ばけもの)にあひけり。洞の有さまこそ、心もとなけれ。ゆきて見よ。」

とて、あたりのわかきともがら、十人ばかり、弓や、「ちぎり木《ぎ》」・「さび鑓(やり)」を手ごとにもちて、「霞の谷」に行《ゆき》てみるに、洞(ほら)の口(くち)、兩《りやう》わきに、長(たけ)一尺ばかりの蟇(ひきがへる)と、おなじほどの龜と、ふたつながら、うちたふれて、死してあり。

 鋤(すき)にて、うたれたる痕(あと)あり。

 此ものの妖(ばけ)たる事、うたがひなし。

 其後(のち)、こと故《ゆゑ》も、なかりき。

 

[やぶちゃん注:挿絵はない。「妖物」二疋を描いて貰いたかったな。

「霞谷(かすみだに)」江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(三)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)に、『現京都府伏見区深草付近。藤の森』(ここには前の注で『現京都府伏見区深草鳥居崎町。「稲荷社ノ南ニ在リ 是レ早良親王ヲ祭ル所ナリ」(『雍州府志』三)。』とされる。地図ではここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ))『東側に位置する。「深草ニ在リ。凡ソ宝塔寺ノ後、山』、『緒(シヤ)赤』(セキ)『之地』、『惣テ霞ノ谷ト号ス。土人今霞ノ谷ト謂フ」(「雍州府志」九)。』とある。この附近(グーグル・マップ・データ航空写真。やたらに「谷」や「亀」のつく町名が多く、「深草桐ケ谷町」なんぞというのもある入り組んだ丘陵地帯である)であろう。

「伏見開道」伏見街道。京都市東部を南北に走る道路の呼び名。「五条通り」から南下し、伏見に通ずる。沿道に東福寺・伏見稲荷大社がある。全長約六キロメートル。

『稻荷の北のかたに、小橋あり、世に「朽木橋(くちきばし)」と名づく』調べて見たが、この名の橋は見当たらない。最後にシークエンスで喜衛門のことを心配した連中の住んでいる辺りを「宿(やど)」と読んでいる。とすれば、これは伏見稲荷に参詣する連中を泊める宿場があったと考えていいのではないか? とすれば、「今昔マップ」のこの辺り、則ち、喜衛門の家は現在の鴨川に架かる「陶化橋」辺りの橋詰めと想定していいのではあるまいか? ここは高瀬舟が運行される水運の要衝でもあった。

「麻(あさ)の種(たね)」江本氏の注に、『クワ科の一年草。高さ一~三メートル。実は「おのみ」と呼ばれ、灰色の卵円形。「一枝七葉或ハ九葉、五・六月細黄ノ花ヲ開キ、穂ヲ成スニ随ヒ即チ実ヲ結ブ。大ナルハ故荽子(こずゐし)ノ如ク、油ヲ取ルベシ。其皮ヲ剥ギテ麻ニモ作ル。」(『本草綱目』二二)。』とある。なお、嘗ては、バラ目 Rosalesクワ科 Moraceaeとされていたが、現在はDNAの類似性から、バラ目アサ科 Cannabaceaeアサ属アサ Cannabis sativa に分類し直されている。

「野(の)どほり」江本氏の注に、『野通り。野原を通る小道のことで、裏道より狭い』とある。

「龜(かめ)や嶋《じま》」「龜綾縞」「龜屋縞」で、前者の「かめあやじま」の変化した語。菱形の亀甲模様を、きめ細かく織り出した綾織の白羽二重(しろはぶたえ)、或いは、種々の色糸を入れて、女柄に織ったものを指す。一説に、当時、「亀屋」などという織元か、呉服屋から新たに売り出された格子縞などの縞柄の名称とも言う。「かめやおり」「かめや」

「はぎ高(だか)」「脛高」。衣服の丈が短く、脛(すね)の上まで現れていることを言う。

「けしかる」「怪しかる」(形容詞「怪(け)し」の連体形。「えたいの知れない・異様な」の意。こいつらに言われなくないよ!

「ちぎり木《ぎ》」」「千切り木」「乳切り木」で、両端を太く、中央をやや細く削った棒。物を担うほかに、護身用にも用いた。

「さび鑓(やり)」錆びた鎗(やり)。

「蟇(ひきがへる)」本邦には、

両生綱無尾目アマガエル上科ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル亜種ニホンヒキガエル Bufo japonicus japonicus (本邦の鈴鹿山脈以西の近畿地方南部から山陽地方・四国・九州・屋久島に自然分布する。体長は七~十七・六センチメートル。鼓膜は小型で、眼と鼓膜間の距離は鼓膜の直径とほぼ同じ)

同亜種アズマヒキガエル Bufo japonicus ormosus (本邦の東北地方から近畿地方・島根県東部までの山陰地方北部に自然分布する。体長六~十八センチメートル。鼓膜は大型で、眼と鼓膜間の距離よりも鼓膜の直径の方が大きい)

及び、

ヒキガエル属ナガレヒキガエル Bufo torrenticola 日本固有種で、北陸地方から紀伊半島にかけて自然分布し、体長はで七~十二・一センチメートル、で八・八~十六・八センチメートル)

が棲息するが、ロケーションからは後者二種の孰れかとなろう。怪奇談を含む博物誌は、私の「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蟾蜍(ひきがへる)」及び「大和本草卷十四 陸蟲 蟾蜍(ひきがへる) (ヒキガエル)」を参照されたい。]

2022/02/15

狗張子卷之四 塚中の契り

 

[やぶちゃん注:今回の挿絵も状態が最もよい現代思潮社版のそれをトリミングして適切と思われる箇所に挿入した。]

 

   ○  塚中(ちよちう)の契り

 西國、大伴家の侍淺原平六は、世に名を聞えし武篇のものなり。

 二人の娘を、もちたり。平六が弟平三郞は、身まかりて、これも、むすめの有《あり》しを、みなし子なれば、捨てがたく、平六が家にそだちて、三人のむすめ、おなじほどになりけるを、平六、まづ、我が娘ばかりを、ありつけて、平三郞がむすめの事は、何の用意もなく、沙汰にも及ばざりければ、うらみて、よめる、

 をし鳥のとりどりつがふつばさにも

     いかに我のみ獨りすむらん

 此娘、心ち、わづらひて、何とはなしに、瘦せ、つかれて、つひに、はかなく成《なり》たり。

 城(じやう)の東の野に葬(はう)ぶり、塚(つか)に埋(うづ)みて、僧(そう)をくやうし、經、よみ、念佛して、とぶらひけり。

 同じ家の隣りは、筒岡權七(つつをかごん《しち》)とて、年、いまだ二十《はたち》あまりなり。

 父、はやく死して、その跡かはらず、奉公をつとめしに、美男(びなん)なりければ、傍輩(はうばい)、いづれも、娘をもちたる人は、望みて、

「婿にせん。」

と、あらましけるに、いづちともなく、うせにけり。

 母は、こがれ、まどひて、人を賴みて、四方(《し》はう)を尋ぬるに、行がた、なし。

「物のために、かどはされぬらん。東の塚原(つかはら)、草村《くさむら》のあひだを、尋ねよ。」

とて、人を埋(うづ)みすてたる古塚(ふるつか)を、もとめける。

折ふし、雪ふりて、野は、白たへにつもりけるに、女の塚の、あたらしきに、くろき小袖のすその、土より、外に出《いで》て、みえたり。

「さればこそ。」

とて、引出《ひきいだ》しければ、土の底より、權七が聲として、

「何ものなれば、人のかたらひを、さますらん。」

といふ。

 


Tyotyuunotigiri

 

 いづかたより匐(は)ひ入りたるらん、棺(くわん)の中《うち》に、女と、權七と、ひとつに、ふして、女の屍(かばね)は、猶、生きたる人に、ことならず。

 臥したるしたに、杉原(すぎはら)に書きたるものあり。

 取《とり》あげみれば、歌(うた)なり。

 こと葉は、ひとつもなくて、

 流れてのうき名もらすな草がくれ

      結びし水の下(した)さはぐとも

 獨(ひとり)ねをならはぬ身にはあらねども

      君歸りにし床ぞさびしき

又、權七が手にて、書きける歌、

 契るてふ心のねより思ひそむ

      軒(のき)の忍ぶの茂りゆく袖

 笛による男鹿(をしか)もさぞな身にかへて

      思ひ絕《たえ》せぬ習ひ成(なる)らん

 此歌ども、取そへて、宿に歸りしかども、權七は、只、

「まうまう」

として、人心地《ひとごごち》もなし。

 山ぶしを賴みて、いのらせしかば、日をへて、もとのごとく成《なり》たり。

 半年ばかりの後(のち)に、めしつかふ小女(こをんな)に彼(かの)亡魂(ばうこん)、のりうつりて、

「あら、恨めし。つゝみし事の、あらはれて、うき名のもれし、恥かしさよ。前の世の然《しか》るべき緣(えん)ある故に、しばし、契りをかはしまの、水のあはれとも、いふべき人も、なし。はやく忘れし人に、二《ふた》たび、契る、ゆゑ、あり。」

とて、淚を流しける。

 その夜、俄かに、權七、むなしく成《なり》ければ、

「彼(かの)亡魂、二世を契る約束や、ありけん。」

とて、女の塚に、ひとつに合せて、つきこめけり。

[やぶちゃん注:「大伴家」豊後の守護大名大友家。ここは、もう了意が以前の話より、時制を江戸初期に巻き上げてしまっているので、戦国から安土桃山・江戸初期にかけての元戦国大名・武将で、大友宗麟の嫡男にして第二十二代当主であった大友義統(よしむね 永禄元(一五五八)年~慶長一五(一六一〇)年)とするしかない。戦国・安土桃山時代の武将。天正元(一五七三)年、家督と豊後以下六ヶ国を相続、叔父田原紹忍(たわらしょうにん)の補佐で、分国を統治するが、同六年、日向の「耳川(みみかわ)の戦い」で島津氏に大敗した後、反乱が続出、竜造寺・島津氏との戦いに明け暮れ、天正十四年には島津氏の侵攻を受けたが、翌年、豊臣秀吉が九州を平定すると、豊後を安堵された。秀吉より諱の一字を貰い、「吉統」と改名した。初め、キリシタンとなるが、「禁教令」が出されると、一転、その迫害に回った。しかし、文禄二(一五九三)年の「朝鮮出兵」の際、「平壌攻防戦」からの退却を譴責されて、改易となった。慶長五(一六〇〇)年の「関ケ原の戦い」前後では、西軍の将として出陣、豊後に上陸して国東半島の諸城を攻略した。九月の「石垣原の戦い」でも緒戦は優勢であったが、終盤では豊前の黒田如水と細川忠興(実働隊は豊後杵築城の細川家重臣松井康之に拠る)らの連合軍に敗れ、剃髪した後、妹婿であった黒田家の重臣母里友信の陣へ出頭して降伏、今度は徳川家から幽閉される身となった。「関ヶ原」後、東軍配下の細川家領の豊後杵築城を攻めた咎(とが)で、出羽の秋田実季預かりとなり、実季の転封に伴い、常陸国宍戸に流罪にされた。但し、大友家は彼の嫡男義乗(よしのり)が旗本として徳川家に召し抱えられ、鎌倉以来の高家(こうけ)として続いた。「凡庸で」「助言なしには何事もなしえない」とはフロイスの彼への評である(以上は晩年部分を当該ウィキで補った以外は主文を「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「淺原平六」不詳。

「をし鳥のとりどりつがふつばさにもいかに我のみ獨りすむらん」江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(三)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)には、『典拠未詳』とする。

「城(じやう)の東の野に葬(はう)ぶり」大友義統の事績を追っても、時期を限定することは出来ないが、先の秀吉からの改易の後、慶長三(一五九八)年の秀吉の死により、慶長四(一五九九)年に秀頼により特赦され、幽閉状態から脱し、大坂城下に屋敷を構えて、豊臣家に再び仕えた時期を一つの候補とするなら、この城は大坂城となろう。

「僧(そう)をくやうし」僧に対して相応の布施をして供養した上で、やおら、その僧を請じて。

「筒岡權七」不詳だが、以下の、『父、はやく死して、その跡かはらず、奉公をつとめしに、美男(びなん)なりければ、傍輩(はうばい)、いづれも、娘をもちたる人は、望みて、「婿にせん。」と、あらましける』(「あらましける」は「あって欲しいものだと思った」ことを言う)とあるので、誰か相応の武将に父の代から仕えていた中級の武士としか思えない。その証拠に、行方不明になった主人を捜しに出ている男二人も脇差を差しているし、墓から出てきた権七の服装もそれなりの高価そうではないか。

「草村《くさむら》のあひだを、尋ねよ」「草の根分けても、探し出すのじゃ!」。

「人を埋(うづ)みすてたる古塚(るつか)を、もとめける。」というのは、前の台詞があっても、「草葉の陰」っちゃあ、確かに「墓場の下」「あの世」ですけんど、流石にほんとに異様ですから、「人を埋みすてたる古塚をも、もとめける勢ひなり。」ぐらいが、いいんじゃ、あ~りませんか? 了意はん? その方が、後の事実で墓の中に見出すのが、逆に意外性がのうなってしまうように思いますがなぁ……。

「杉原」「杉原紙」(すぎはらがみ)。鎌倉時代、播磨国揖東郡杉原村(現在の兵庫県多可郡加美町)で産したとされる紙。奉書紙に似て、やや薄く、種類が豊富で、主に武家の公用紙として用いられた。後、一般に広く使われるようになると、各地で漉かれるようになった。近世から明治にかけて、色を白く、ふんわりと仕上げるために、米糊(こめのり)を加えて漉かれ、その頃からは「糊入れ紙」「糊入れ」とも称された。「すいばら」とも呼ぶ。

「こと葉は、ひとつもなくて」書信文は一切なくて、和歌のみが書かれていたことを言う。

「流れてのうき名もらすな草がくれ結びし水の下(した)さはぐとも」江本氏注に、『「流れて」と「結びし水」は縁語。和歌は「続拾遺和歌集」恋三に入集。『和歌題林愚抄』『明題和歌全集』にも所収。』おある。

「獨(ひとり)ねをならはぬ身にはあらねども君歸りにし床ぞさびしき」同前で、『類歌「ひとりねもならはぬ身にはあらねどもいもがかへれる床のさびしさ」(『新後拾遺和歌集』恋三)。『題林』『明題』等所収。』とある。

「契るてふ心のねより思ひそむ軒(のき)の忍ぶの茂りゆく袖」同前で、『類歌「ながめする心のねより思ひそめて軒の忍ぶのしげるなるべし」(『夫木和歌抄』雑部)。『題林』『明題』等所収。』とある。

「笛による男鹿(をしか)もさぞな身にかへて思ひ絕《たえ》せぬ習ひ成(なる)らん」同前で、『『白河殿七百首』『題林』『明題』等所収。』とある。

「まうまう」「朦々」だが、歴史的仮名遣は「もうもう」でよい。 意識が朦朧としているさま。

「山ぶし」「山伏」。

「前の世の然《しか》るべき緣(えん)ある故に」平安の昔から真に愛し合った男女は三世(さんぜ)に契るとさえされた。だから、この二人はその通りになるのである。最後の権七の母の、或いは、娘の伯父で隣りの屋敷の主人である浅原平六の台詞(女の塚に権七をともに埋葬するには彼の許可が絶対に必要だからである)で、「二世」と言っているのは、小女に憑依した亡き娘の真意を理解していない。この「前の世」とは、この話柄内の現実の当該現世の前世なのだ。だから、私は次の後世(ごぜ)と、この二人とも儚かった現世と合わせて「三世」なのである。

「しばし、契りをかはしまの、水のあはれとも、いふべき人も、なし」「かはしま」は「川島」で「水」「あは」(「憐れ」に「泡」を掛けてある)の縁語であり、言わずもがなだが、「川島」の「かはし」は「契りを交はし」に掛けてある。

「はやく忘れし人に、二《ふた》たび、契る、ゆゑ、あり」前々注の内容を示唆するものであると同時に、ここは、かの崇徳院の秀歌、

   *

 瀨をはやみ岩にせかるる瀧川の

    われても末にあはむと思ふ

   *

の「はや」を「はやく」に通わせ、「別(わ)れても末(すゑ)に」「二たび、契る」=「われても末にあはむと思ふ」と、確信犯のインスパイアをしているものと私は思う。ここはそれを考えれば、前の「しばし、契りをかはしまの、あはれとも、いふべき人も、なし」が強い親和性で「はやみ岩にせかるる瀧川の」という上句を連想させるようになっていると感ずるのである。

「つきこめり」「築き籠めけり」。新たに墓塚を築いて、二人の亡骸を丁重に埋葬した。]

狗張子卷之四 非道に人を殺す報

 

[やぶちゃん注:今回の挿絵は状態が最もよい現代思潮社版のそれをトリミングして、以下に挿入した。]

 

Hidou

 

   ○非道に人を殺す報(むくひ)

 寬永五年の秋八月の事にや、周防(すはうの)國野上(のかみ)の庄に關久兵衞尉兼元とて、武勇の侍あり。

 そのかみ、天正十八年に伊豆(いづの)國山中(やまなか)の城軍(じやういくさ)の時、比類なき手柄をあらはし、高名(かうみやう)あるをもつて、中國(ちうごく)にありつきけり。

 めしつかひける下人夫婦(げにんふうふ)有《あり》しが、さしたる科(とが)にもあらぬ事を、よこしまに、いひかけて、無理に打《うち》ころしけり。

 夫婦ながら、さいごに、のぞみて、

「我ら、さしたる科もなきに、ころさるゝ事、力(ちから)なし。年來(ねんらい)、私(わたくし)なく、めしつかはれしかども、今、かく、うきめをみる。此うらみ、いたりて、ふかし。來世の事なくば、是非に及ばず。未來にも、魂《たましひ》のあらば、思ひしらせまゐらせん。」

と、いうて、首を、うたれたり。

 家の西のかた十町[やぶちゃん注:約一キロ九十一メートル。]ばかり、廣野(ひろの)に埋(うづ)みけり。

 死して七日にあたりける夜より、その塚に、火のもえ出《いで》て、子の刻になれば、鞠のごとくになりて、野道をつたうて、關が家に、ゆく。

 初めは、軒(のき)にかゝりて、火の色、靑く、光り、すくなかりけるに、百箇日過《すぎ》てより、火の色、さかりに赤くなり、塚をはなれ出《いで》て、關が家に飛び來たり、門の戶は、つよくさしかためたるを、

「戶より、内に、入(いる)か。」

と、みえし。

 關が子、たちまちにおびえ、おどろき、絕え入りけり。

 家内、きもをけし、さわぎあひけるうちに、その火、やがて、出《いで》て歸れば、關が子、正氣に成《なり》て甦(よみ)がへる。

 蟇目(ひきめ)を射れども、用ひず。

 僧を賴み、經をよみ、山臥(やまぶし)をよびて、祈らせ、御封屋札(ごふうやふだ)を、おして、ふせげども、少《すこし》も、しるし、なし。

 每夜の事なれば、家うち、つかれ、草臥(くたびれ)たり。

 二人の子は、病出(やみだ)して、さながら、驚風(きやうふう)のごとし。

 醫者(ゐしや)にかけて、養性(やうじやう)[やぶちゃん注:「養生」に同じ。]すれども、漸ゝ(ぜんぜん)、よはりて、兄弟、おなじ日に、死にけり。

 しかれども、塚の火は、留(とゞ)まらず、妻、又、歎きの中《うち》より、わづらひ出《いだ》し、狂氣のやうになりて、狂ひ死(し)にけり。

 關も、ちからなく、自空長老(じくうちやうらう)とて活僧(くわつそう)の有しを、請じ、塚に卒都婆(そとば)をたてて、塚を、まつりしかば、亡魂(ばうこん)、これにや、しづまりけん、火は、もえやみしかども、關も、いくほどなく、死にければ、跡、つひに絕《たへ》たり。

[やぶちゃん注:「報(むくひ)」以前から、この歴史的仮名遣について言わねばならないと思っていたので、ここで言っておくと、「むくひ」も「むくい」も孰れも歴史的仮名遣としては正しい(私自身は、勝手に、かなり長い間、「むくひ」が正しいと思い込んでいた)。「報ふ」は「報ゆ」から生まれた動詞で(「酬ふ」も同じ)。ヤ行上二段活用(報いず・報いたり・報ゆ・報ゆる時・報ゆれば・報いよ)及びハ行四段活用(報はず・報ひて・報ふ・報ふ時・報へば・報へよ)の孰れもが、正しい歴史的仮名遣なのである。

「寬永五年の秋八月」同年八月一日はグレゴリオ暦で一六二八年八月二十九日。家光の治世。

「周防(すはうの)國野上(のかみ)の庄」現在の山口県周南市野上町(のがみちょう)附近(グーグル・マップ・データ)。

「關久兵衞尉兼元」現代仮名遣で「せききゅうひょうえのじょうかねもと」。不詳。江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(三)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)には、『未詳。『毛利氏八箇国御時代分限帳』(マツノ害店)で毛利氏の家臣としての「関氏」は確認できない。ただし』、本篇の『典拠の『本朝故事因緑集』には、「関久兵衛兼久」とある』とある。「本朝故事因緑集」は元禄二(一六八九)年板行の説話集。著者未詳で、説法談義に供される諸国奇談や因果話を収めたもの。全百五十六話。私は「伽婢子」以来、原拠は扱わない原則だが(私が学術研究者ではなく、単なる怪奇談蒐集家に過ぎない)、江本氏は解説で、そちらと深く関わって注されておられるので、例外的に原拠である同集の第五巻の百二十三の「墓火通(はかのひかよふ)」を、「国文学研究資料館」公式サイト内の原板本の当該部でリンクさせておく。

「天正十八年、伊豆(いづの)國山中(やまなか)の城軍(じやういくさ)」同前で、『天正十八(一五九〇)年の、豊臣秀吉による小田原征討の一戦。山中城は後北条氏の防衛の最前線となった城で、渡辺勘兵衛の一番槍の話が知られる。【余説】参照。』とあるので、その「余説」の項も引用させて戴く。『語釈でも触れたように、本章は元禄二年刊の出典にほとんど拠っている。また、登場する「関久兵衛」は、山中城の戦で「比類なき手柄をあらはし」たとされ、一般的には北条方の侍ではない可能性が高い。更にその後、周防の国へ住み着いたことを考えれば、毛利氏の家臣であるはずだが、小田原征討の際、毛利氏は水軍を率いて相模湾にいる。とすると、「関久兵衛」と「周防」との関わりが不透明になり、歴史的な事柄をふまえて述作する作者にしては、やや配慮を欠くか。』とある。

「中國(ちうごく)」山陽道と山陰道を合わせた広域の中国地方の謂い。

「蟇目(ひきめ)」弓を用いた呪術。「蟇目」とは朴(ほお)又は桐製の大形の鏑(かぶら)矢。犬追物(いぬおうもの)・笠懸けなどに於いて射る対象を傷つけないようにするために用いた矢の先が鈍体となったものを指す。矢先の本体には数個の穴が開けられてあって、射た際にこの穴から空気が入って音を発するところから、妖魔を退散させるとも考えられた。呼称は、射た際に音を響かせることに由来する「響目(ひびきめ)」の略とも、鏑の穴の形が蟇の目に似ているからともいう。私の「耳囊 卷之三 未熟の射藝に狐の落し事」及び同じ「耳囊」の「卷之九 剛勇伏狐祟事」や「卷之十 狐蟇目を恐るゝ事」の本文や私の注をも参照されたい。怪奇談集では、頗るポピュラーな物の怪退散の武家式のアイテムである。

「用ひず」ここは「効用」の「用」で「効果が全くない」の意。

「山臥(やまぶし)」「山伏」に同じ。

「御封(ごふう)」ここは邪気を避ける結界を作るための「護符」のことであろう。但し、こういう用字は見かけない。江本氏もそう言っておられる。

「屋札(やふだ)」これも見かけない語であるが、同前の目的で、家屋の扉や門に張り付ける御札のことであろう。

「驚風(きやうふう)」小児が「ひきつけ」を起こす病気の称。現在の癲癇(てんかん)症や髄膜炎の類に相当する。関の二人の男子は小さかったようである。

「自空長老(じくうちやうらう)」江本氏の注に、『未詳。「本朝故事因縁集」では、「自空和尚」とある。』とある。

「活僧(くわつそう)」知恵が豊かで、生き生きとした頼りになる僧。中世以降の用語のようである。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 蜆(シヽミ) / マシジミ或いはヤマトシジミ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。上部中央に前の「バイ」の一個体の図が侵入しているため、マスキングした。紙の劣化のため、それが判るので、右側の白紙の劣化部分も殆んどそれを施したため、仕儀が判ってしまうのはお許しあれ。]

 

Sijimi

 

「多識篇」。

  蜆【「しゞみ」。】 扁螺

 

大なる者を「なりひらしゞみ」と云ふ。武江亀井戸の産、佳しと爲す。

 

「六々貝和哥」

  右十七番   近江

   蜆とる堅田の浦のあま人に

    こまかにいわゝかひぞあるへき 爲尹

 

「湖中産物圖證」

  蜆   黃蜆【黃色の者。】 白蜆【白色の者。】

    烏蜆 黒蜆【二種共に黒色の者。】 螺【「通雅」。】

    金錂口【「南寧府志」。】 𧖙子【「訓蒙字會」。】

    𫟗【「八閩通志」。】 ※【同上。】 蜆凾【「珠璣藪」。殻の名。】

[やぶちゃん注:底本の「𧖙」の上部の「顯」は「顕」。「※」=「虫」+(つくり:(上)「人人」+(中)「一」+(下)「曰」)。読みも意味も不明。]

 

壬辰(みづのえたつ)閏十一月廿有五日、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:斧足綱マルスダレガイ目シジミ上科シジミ超科シジミ科Cyrenidaeに属する真正のシジミは一般的には、シジミ亜科シジミ属の、

ヤマトシジミ Corbicula japonica (日本全国の汽水の砂泥底に生息し、雌雄異体で卵生。殻の内面は、白紫色。ロシア極東、朝鮮半島にも分布)

マシジミ Corbicula leana (全国の淡水の砂礫底や砂底に生息し、雌雄同体。卵胎生で雄性発生をするが、繁殖様式は十分に解明されていない。殻の内面は、紫色。平均水温摂氏十九度程度以上で繁殖し、繁殖期間は四月から十月)

セタシジミ Corbicula sandai (琵琶湖固有種。水深十メートル程度までの砂礫底や砂泥底に生息し、寿命は七年から八年程度とされている。雌雄異体で卵生。殻の内面は濃紫色)

の三種が食用として古くから知られる(以上の解説はウィキの「シジミ」に拠ったが、より詳しいものとしてサイト「日本の旬・魚のお話」の蜆のページをお勧めする)。

 さて、問題は、本図に描かれた二個体であるが、どこで採取されたものか記されていない。亀井戸が地名として出るが、これは単に江戸の蜆の名産販売地(亀戸天神内やその周辺で定点で多く売られていた)を示したもので、本個体がそこで採取されたものと無批判に限定するわけには私は行かない。寧ろ、行商が朝早くに売りに来たものを用いたとなれば、採取地は遙かに江戸周縁に広がるからである。蜆売りは江戸の朝の風物としてよく知られたもので、剥き身、或いは、殻のまま藁苞(わらづと)にして売られていた。人形師岩下深雪氏のブログ「Edo-CoCo」の「旨し、うまし、寒蜆に」で、氏の作られた「江戸浮世人形」の亀戸天神の「初卯」の「業平蜆」の売られている素敵なそれを見ることが出来る。因みに、その最後にトリミングしてある零れた蜆を拾う小僧の絵は、歌川広重の画になる『江戸名所「亀井戸天満宮」』(弘化五~六年 (一八四八~一八四九年))のトリミングである。ブログ「東京のいいやん」の「浮世絵で見る亀戸天神の藤の花」で全画像が見られる。これである。但し、所持する三谷一馬氏の「江戸商売図絵」の蜆と蛤の「剥き身売り」では、確かに、はっきりと『亀戸でとれる蜆が有名でした』とある。だとすれば、当時の亀戸は南に凡そ三キロメートルも行けば、江戸湾湾奥の干潟であり、東西を中川と隅田川に挟まれており、この亀戸天神附近の水域は明らかに汽水域である(以下の「今昔マップ」を参照)。さすれば、ヤマトシジミとなるのであるが(東京都江東区亀戸(グーグル・マップ・データ)。「今昔マップ」で示すと、ここ)、さっきも言った通り、この写生対象にしたシジミが亀戸産とは限らないのである。

 しかも、そうなると、殻の外状から判断するしかないのであるが、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の、ヤマトシジミのページと、マシジミのページの画像を見比べて貰いたいのだが、本図はほぼ黒く、褐色を、一切、含んでいない。これは実は、マシジミの特徴なのである。されば、二種を挙げておくこととする。

なお、他に蜆の話でしみじみ心打たれたものは、「海老名市」公式サイト内の「泣き蜆の由来」(これはマシジミと思われる。但し、現在、神奈川県ではマシジミは絶滅が危惧されている。これは、人為的移入されてしまった外来侵入種シジミ属タイワンシジミ Corbicula fluminea が全国に分布を広げた結果である。同種は外見がよく似ているため、マシジミと誤認されることが多い)であった。是非、読まれたい。これは近代民俗誌として是非とも残したい話である。

「多識篇」林羅山道春が書いた辞書「多識編」。慶安二(一六四九)年の刊本があり、それが早稲田大学図書館「古典総合データベース」にあったので、調べたところ、「卷四」のこちらに「蜆」の項があり(左丁後ろから二行目)、そこに、

   *

蜆【今、案ずるに「志々(ジ)美」。】[異名]扁(ヘン)螺。

   *

とあった。

「なりひらしゞみ」先に出した「業平蜆」。先に示したサイト「日本の旬・魚のお話」の蜆のページに、「業平(なりひら)しじみ」として、『『魚鑑』に、「東都、角田川(隅田川)のものを業平しじみと呼ぶ、その肉、殻裏に満ちてうまし」とある。業平は六歌仙の一人、在原(ありはらの)業平のことで、小野小町と並ぶ美男美女の代表』。『その美男の名が江戸のシジミに付けられたのは、二条皇后との密事がバレて京を追放された業平の東下りに関係したのか、それとも都に残してきた女性を偲んで詠んだ業平の『都鳥』の歌に哀れをもよおした後世の酔人が付けたものかは、はっきりしない。江戸川柳には「色男 吾妻に貝の 名を残し」とある』とある。

「六々貝和哥」(ろくろくかひあはせわか)は既注だが、再掲すると、潜蜑子(かずきのあまのこ)の撰になる元禄三(一六九〇)年刊の、当時辺りから流行った三十六歌仙に擬えた歌仙貝選定本。三十六品の貝と、それぞれの貝名を詠みこんだ和歌三十六首を選んだもの。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで見られるが、例によって梅園は判読を誤っている(「近江」は梅園の「堅田ノ浦」への傍注)。上三句目は「あま人よ」であり、「イワヽ」は「いはゝ」(いはば)である。

   *

  右十七  志ゞみ貝

「千首」

志ゞみとるかたゝのうらのあま人よ 爲尹

こまかにいはゝかひそあるへき 

   *

これは室町時代の公卿で歌人の冷泉為尹(れいぜいためまさ/ためただ 康安元/正平一六(一三六一)年~応永二二(一四一七)年)家集「為尹千首」の「戀卷」に載る一首である(「日文研」の「和歌データベース」で(通しナンバー00796番)ひらがな読みを確認)。

   *

蜆(しじみ)採る堅田の浦の蜑人よ

     細かに言はばかひぞあるべき

   *

であろう。言わずもがなだが、「かひ」は「貝」に「甲斐」を掛けたもの。この和歌に詠まれたそれは、無論、セタシジミと同定してよかろう。

「湖中産物圖證」これも既出既注であるが、再掲すると、「こちゅうさんぶつずしょう」(現代仮名遣)と読み、藤居重啓なる人物によって文化一二(一八一五)年に書かれた、琵琶湖の水棲動物についての図説である。国立国会図書館デジタルコレクションで写本(複数巻)が視認でき、その「下」の「卷三上」のここで、梅園はそこを丸ごと引用したに過ぎず、漢籍のそれは現物を確認していないものと推察する。

「黃蜆」以下、読みを推定で示す。「きしじみ」。

「白蜆」「しろしじみ」。

「烏蜆 黒蜆」「からすしじみ くろしじみ」。以上は私はセタシジミの個体変異(殻摩耗・欠損を含む)と考える。「滋賀県」公式サイト内の「セタシジミ」の画像を参照されたい。

『螺【「通雅」。】』明の方以智撰になる語学書。「爾雅」の体裁に倣い、名物・象数・訓詁・音韻などの二十五門に分け、特に語源について詳しい考証がなされてある。但し、これは腹足類で、シジミを指してはいないと思う。

「金錂口」(キンリヨウコウ)『【「南寧府志」。】』「嘉靖南寧府志」は広西、現在の広西チワン族自治区南寧市(グーグル・マップ・データ)附近の地誌で、明の郭楠の纂修。一五三八年刻本。同書ではないが、中文サイトのこちらの元陳大震纂になる「大德南海志」という地誌に(一三〇四年刊。広州の地誌らしい)、『蜆:大小有三種,沙洲亦有之,惟泮塘海、南石頭海所產者為佳,名金錂口。劉鋹時取以自奉,禁民不得採。』とあった。「蜆」は漢語で「蓑虫」(みのむし)或いは本邦と同じシジミを指すので、これは、シジミの仲間である可能性はある。或いは「金錂口」とは、貝の殻の辺縁部が全体に鮮やかな黄金(こがね)色を呈することを指すことに由来するように思われ、その点でもシジミの仲間である可能性が窺える。試みに調べてみると、中文のシジミの中に「閃蜆」という種があり、学名を Corbicula nitens とする。広東省に分布が認められた。この学名をグーグル画像検索にかけたところ、こうなった。この種或いは近縁種かも知れない。

「𧖙子」「𧖙」は音「ゲン・ケン」でシジミ(或いは類似種)の仲間を総称する漢字である。

「訓蒙字會」李氏朝鮮の学者崔世珍(チェ セジン 一四七三年~一五四二年)が一五二七年に著した朝鮮の漢字学習書。三千六百の漢字に、ハングルで音と義を示したもので、朝鮮漢字音の重要な資料とされる。

「𫟗」「サツ」と音読しておくが、意味不明。

「八閩通志」(はちびんつうし)明の黄仲昭の編になる福建省(「閩」(びん)は同省の略古称)の地誌。福建省は宋代に福州・建州・泉州・漳州・汀州・南剣州の六州と邵武・興化の二郡に分かれていたことから、かくも称される。一四九〇年跋。全八十七巻。巻之二十五と二十六に「蜆」なら出る。前後の記載からシジミ様の貝の記述ではある。

「蜆凾」これも実は殻のことではないか?

「珠璣藪」殻は貝灰を作るのに用いたのであろう。

「壬辰閏十一月廿有五日」天保三年。グレゴリオ暦一八三三年一月十五日。]

2022/02/14

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 海蠃(バイ) / バイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。下部中央に「蜆」のキャプションが、左上部に「光螺(キシヤゴ)」のキャプションがあるので、マスキングした。]

 

Taiwanbai

 

海蠃(カイラ)【ばい。】 流螺【「圖經」。】 假豬螺(カチヨラ)【「交州記」。】

  金沢の人、「へなたり」と云ふ。

 

海蠃は「ばい」の大なる者。「甲香(カフカウ/かいかう)」は海蠃(ばい)[やぶちゃん注:底本でのルビ。]の※(ふた)を云ふ。「小甲香」は「ばい」の小なる者を云ふ。小螺(せうら)は「ばい」にもかぎらず、「河貝子(かはにな)」、「鳴戸(なると)ぼら」、「寄生蟲(やどかり)」、などの螺(にな)の小なる惣名なり。

[やぶちゃん注:「葐」(「蓋」の異体字)の「分」を「刀」にした字体。]

 

「漳州府志」、「梭螺(ひら)」、又、一種、「吹螺(すいら)」を、別に載す。「吹螺」は、「ほら」なり。「流螺」は「ながにし」なり。則ち、「ばい」は「小甲香」なり。

 

己亥(つちのとゐ)八月二日、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目Hypsogastropoda亜目新腹足下目アッキガイ上科バイ科バイ属バイ Babylonia japonica

の三個体。殻高七センチメートル、殻径四センチメートルに達する。殻は長卵形で、殻表は黄色の殻皮で覆われ、これを通して黒紫色の斑紋列や斑点列が見えるが、老成すると、殻皮が黒くなり、それらは見えなくなる。大きい斑紋は、体層では縫合の下と周縁とにある。殻口は卵形で、内側は青白色、臍孔は開く。蓋は革質で厚く、尖った下方に核がある。北海道南部から九州の潮間帯より水深二十メートルまでの砂底に棲息する。沖縄には近縁種のウスイロバイBabylonia kirana が分布する。バイの産卵期は五~八月で、四角形の薄い卵嚢を多数並べて産卵する。これが数多く集ると、水泡のように見えるので、「泡(アワ)ほおずき」と呼ばれる。軟体部は食用に供され、殻は貝細工の材料となる。採取は入口の小さいバイ籠に魚肉などを入れ、それを食べに集ったものを引き上げて獲る。近年では、船底の塗料として用いられてきたトリブチルチンなどの有機錫化合物による♀の不妊化現象によって個体数が著しく減少している。江戸時代にはこれを「べいごま」として遊んだ(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。但し、当該ウィキによれば、『しかし』、『その後の船舶塗料規制により』、二〇〇〇『年以降は一部の海域で復活しているともいわれ、特に日本海側では市場に出回るほどの漁獲がある。石川県などでは他の「~バイ」と区別するため、本種を殻の模様から』「小豆バイ(あずきばい)」『と呼んで区別する』とある。まずは、めでたい。

「圖經」宋代の科学者にして博物学者蘓頌(そしょう 一〇二〇年~一一〇一年)が一〇六二年に刊行した勅撰本草書「図経本草」。以下、梅園の記載の多くは、李時珍の「本草綱目」巻四十六「介之二」の「海螺」(吸腔目カニモリガイ上科ウミニナ科ウミニナ属ウミニナ Batillaria multiformis を始めとした尖塔形腹足類のお話にならない広称項目)の記載に拠るものである。「漢籍リポジトリ」のここ[108-27a]以降を参照されたい。

「假豬螺」バイ独特の火炎模様は猪の子「うり坊」の縞模様に似ているように思う。

「交州記」「交州眞物志」というようである。「交州」は中国の漢から唐にかけて置かれた行政区域で、現在のベトナム北部及び中華人民共和国広西チワン族自治区の一部などが含まれる。名称は前漢の武帝が置いた十三刺史部の一つである「交阯」(コウチ)に由来する。「漢籍リポジトリ」の清の康熙の四学者の一人何焯(かしゃく)撰になる類書「御定分類字錦」巻六十の「蟲魚」の「蠃貝第二十三」の「甲香」に([060-35a]の影印本画像を見よ)、

   *

「交州真物志」「假豬螺」曰、『南有之厴爲。』― ―「圖經本草」、『海螺、即、流螺厴曰― ―生南海。』

   *

とある。「厴」(音「アツ」)は「へた」で、直後に出る「へなたり」=「甲香」(この二字でも「へなたり」と読む)のことである。次注も参照のこと。

「金沢」加賀のそれではなく、今の横浜市の金沢文庫・金沢八景のそれである。私の「鎌倉攬勝考卷之十一附錄」の「六浦總說」の「產物 鮮魚 海藻」に、

   *

甲香(カヒカフ) 【「徒然草」】に、甲香、此浦より出る所のものは、「ヘナダリ」といふとかけり。或は夜鳴唄(ヤメイバイ)とも稱す。土人は、また、「バイ」ともいひ、「ツブ」とも唱ふ。其の圖、大小あること、右に出せしが如し[やぶちゃん注:図はリンク先を参照。それに別に注もつけている。]。すべて鼠色にて、内に赤色をふくめり。

[やぶちゃん注:「甲香(カヒカフ)」とは煉香(ねりこう)の調合及び香りを安定させるためにに用いる香料の一種。以下のような腹足類(巻貝)の蓋(へた)を原材料とすることから「貝甲」と当て字でも呼ぶ。

吸腔目カニモリガイ上科キバウミニナ科 Pirenella 属ヘナタリ Pirenella nipponica

 同 Pirenella 属カワアイ Pirenella pupiformi

新腹足目テングニシ科テングニシ Hemifusus tuba

新腹足目イトマキボラ科ナガニシ Fusinus perplexus

腹足綱吸腔目アッキガイ科アカニシ Rapana venosa

酒に漬込んだり、灰で煎じたりして処理を施した後に、乾燥させたこれらの蓋(へた)を粉末状にしたものを用いる。

「徒然草」の記載(第三十四段)は以下の通り。「ヘナダリ」という呼称の由来は不詳。]

   *   *   *

甲香(かひかふ)は、ほら貝のやうなるが、小さくて、口のほどの細長(ほそなが)にさし出でたる貝の蓋ふたなり。 武藏國金澤(かねさは)といふ浦にありしを、所の者は、「へなだりと申し侍る」とぞ言ひし。

   *   *   *

と注した。御覧の通り、なお、「ヘナタリ」という尖塔型の貝の標準和名が存在する。無論、この「甲香」由来である。ビーチ・コーミングでもよく見かける。当該ウィキをリンクさせておく。

『「小甲香」は「ばい」の小なる者を云ふ』逆輸入通称である。

「小螺(せうら)」ここは尖塔型腹足類の小型種・幼少個体を指す。

「河貝子(かはにな)」お馴染みの淡水産の: 腹足綱前鰓亜綱吸腔目カニモリガイ上科カニモリガイ上科カワニナ科カワニナ属カワニナ Semisulcospira libertina

「鳴戸(なると)ぼら」前鰓亜綱盤足目ヤツシロガイ超科オキニシ科オキニシ亜科ミヤコボラ属ミヤコボラ Bufonaria rana の異名と思われる。ご存知ない方のために「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の同種のページをリンクさせておく。

「寄生蟲(やどかり)」十脚目抱卵(エビ)亜目異尾下目ヤドカリ上科 Paguroidea に属する中で、主に腹足類(巻貝)の貝殻に体を収め、貝殻を背負って生活する種群の総称。古語は「かみな」で、転じて「かむな」「かうな」「がうな」「ごうな」などと呼ばれた。

「漳州府志」「漳州府志」(しょうしゅうふし:現代仮名遣。以下、概ね同じ)は、原型は明代の文人で福建省漳州府龍渓県(現在の福建省竜海市)出身の張燮(ちょうしょう 一五七四年~一六四〇年)が著したものであるが、その後、各時代に改稿され、ここのそれは清乾隆帝の代に成立した現在の福建省南東部に位置する漳州市一帯の地誌を指すものと思われる。

「梭螺」は判らぬでもない。コマ型のものは、織機の梭(ひ:シャトル)に喩えるのは一般的だからで、バイの流線形のボディには不足はないが、但し、もっとクリソツで素敵な、ズバり、「梭貝」の和名の、吸腔目高腹足亜目タマキビ下目タカラガイ上科ウミウサギガイ科ヒガイ属ヒガイ Volva volva habei がおり、本図譜の後に出るが、既にフライングして電子化してある。ヒガイの美しさを見てしまうと、バイにはバイバイしたくなる。ヒガイは三個体ほど持っていたが、皆、生徒に上げてしまった。

『「吹螺」は、「ほら」なり』腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目フジツガイ科ホラガイ属ホラガイ Charonia tritonis 。こちらも本図譜の後に出るが、フライングして電子化済みである。

『「流螺」は「ながにし」なり』腹足目イトマキボラ科 Fusinus 属ナガニシ(長辛螺)Fusinus perplexus 。長い水管溝を持ち、全殻高が甚だ高く、個体によるが、概ね螺肋の模様が旋状が非常にくっきりとしていて、流れるようなスマートさを持っている。当該ウィキをリンクさせておく。

「己亥八月二日」天保十年。グレゴリオ暦八月二十八日。]

狗張子卷之四  死骸舞をどる

 

[やぶちゃん注:今回の挿絵は状態が最もよい現代思潮社版のそれをトリミングして、適切と思われる位置に挿入した。]

 

   ○死骸(しかばね)《まひ》をどる

 文祿二年の春、山崎(やまざき)の庄屋宗五郞(そう《ごらう》)といふものの妻は、河内國高安の里の者なり。

 もとより、放逸無慙(はういつむざん)にして、後世(ごせ)の事、露ほども、心にかけず、年經て、住みけれども、子も、なし。

 日蓮宗の流れを汲みながら、題目一返をも、となへたる事も、なし。

 家の事、田地の事、牛馬(うしむま)の事、めしつかふ者にも、あはれみを思ふ情(なさけ)もなく、物いひ、はしたなく、つらめしく、いひののしり、朝ゆふに、只、世話を煎(いり)て、年月を送りけり。

 たまたま、人ありて、「後生(ごしやう)の大事」を、かたりいだせば、

「めにもみえぬ來世の事より、まづ、此世こそ、大事なれ。人をたふして、後生だてせんよりは、ねがはぬこそ、ましなれ。」

と、口にまかせて、おそろしげに、のゝしりければ、下百姓(した《びやく》しやう)のをとこ・女、ともに、つまはじきをして、にくみけり。

 かゝる人にも、のがれぬ無常の習ひ、かりそめにわづらひ出して、むなしくなりにけり。

「葬禮は、明日こそすべけれ。」

とて、屍(かばね)の前には香をたき、うとき、したしき、そのまはりに居(ゐ)て、寐(ね)もせで、あかすに、日も、すでに暮て、燈火(ともしび)をとり、しめやかに物悲しくおぼえけるに、遙かに、西のかたに、音樂の聞え、漸々(ぜんぜん)に、ちかく、ひゞきわたりて、庭の面(おもて)に來(きた)る。

 人々、『殊勝の事』に思ひけるに、妻の死骸(しがい)、うごき出《いで》たり。

 音樂、すでに、家の棟(むなぎ)の上に、あるが如し。

 妻の、尸(かばね)、

「むく」

と、おきて、樂の拍手に合せて、立ちあがり、手をあげ、足をふみて、舞ひをどる。

 人みな、肝(きも)をけして、跡にしざりて、まぼり居(ゐ)たりければ、樂の聲、又、家をはなれ、門より外へ出《いで》しかば、妻の尸も、ふしまろびながら、おなじく、門に出つゝ、樂の聲のゆくかたに、したがうて、あゆみゆく。

 家うち、おそれ、さはぎて、

「松明(たいまつ)よ。」

「ともし火よ。」

と、ひしめき、月だに、くらき、折ふしなり。

 宗五郞も、あきれまどひて、せんかたなし。

 庭の前なる桑の木の枝を、手ごろにきりて、杖につき、酒、うち飮みて醉《ゑひ》のまぎれに、跡をおうて尋ねゆくに、半里ばかり、野原(のばら)のすゑに、墓所(むしよ)あり。

 はえ茂りたる松原のうちに、樂の聲、しきりに聞ゆ。

 やうやく、近づきて見やれば、松のもとに、火、ありて、あかく、てらす。

 

Odorusitai

 

 屍は、そのまへに立《たち》て、舞をどりけるを、宗五郞、杖にて、打ちければ、屍は、たふれ、火も、きえ、樂の聲も、とゞまりぬ。

 屍を、かき負(おう)て、歸り、葬(はう)ぶる。

 何故《なにゆゑ》とも、知《しる》ことなし。

[やぶちゃん注:「文祿二年」一五九三年。豊臣秀吉の治世。「文禄の役」の一時休戦の年で、「太閤検地」の前年。

「山崎」現在の京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町(おおやまざきちょう:グーグル・マップ・データ。以下同じ)

「河内國高安」現在の大阪府八尾市の東部のこの附近これは明らかに「伊勢物語」の例の第二十三段の「筒井筒」の「男」が妻以外に通っていた女のいたところであり、その最後で、「まれまれかの高安に來てみれば、初めこそ心にくくもつくりけれ、今はうちとけて、手づから飯匙(いひがひ)取りて、笥子(けこ)のうつはものに盛りけるを見て、心憂(こころう)がりて行かずなりにけり」という田舎女の狎(な)れを致命的に厭うたというシークエンスを拡張・極悪に変質させたものであることが判る。ちょっとやり過ぎで、後味が何となくよくなく感ずる。しかし、来迎会よろしく妙なる楽の音(ね)が西方浄土の西の空より聴こえ、死体を踊らせるという趣向は、なかなか残酷で、怪奇談の趣向としては面白い。本篇の種本は私の好きな「酉陽雜俎」の巻十三「尸穸」(しせき:「穸」は「墓穴」の意)の一話で、「中國哲學書電子化計劃」の影印本のここの最後の行「處士鄭賓於言。嘗客河北有村正妻新死未殮……」から次の丁にかけてだが、これは音楽の来たる方向は示されず、寧ろ、全体に道教系の〈動き回る死体〉「殭屍」(キョンシー:広東語読み)のニュアンスが濃厚である。中国では古くから、生れ故郷に葬られないと、死者の霊は決して浮かばれることがないという強い信仰がある。この村長の妻はこの地の出身ではない可能性がある。本篇で了意は擬似的に来迎会を意識させ、より救い難い絶望的なシークエンスを確信犯(彼は真宗僧である)で狙っているのだが、う~ん……。

「つらめしく」「辛めしく」で、「如何にも憎々しく」の謂い。

「世話を煎(いり)て」「世話」は広義の「日常生活上の厄介なこと」全般を指し、「煎る」はそれに「気をいらいらさせて腹を立てる」の謂いのようだ。

「人をたふして」「人を倒して」だが、よく意味が分からない。後生を願うために、他の人よりも、より、祈願し、題目を唱え、布施をすることを言うか。強力な現実主義者ということらしい。

「後生だて」「後生立て」。来世を願うことを、わざわざ表に現わすこと。

「何故とも、知《しる》ことなし」仏道を完全に無視した彼女に因果応報のオチを敢えてつけなかったところも、寧ろ、踊らされた彼女に対して、ダメ押しで了意は冷酷無慚であるように私は思う。

狗張子卷之四  柿崎和泉守亡魂

 

   ○柿崎(かきざき)和泉守亡魂

 越後國長尾輝虎謙信の家臣柿崎和泉守は、世にかくれなき武篇の侍大將(さぶらひたいしやう)なり。

 一とせ、甲斐の信玄、河中島の軍(いくさ)の時も、柿崎を先手(さきて)として、手柄のはたらきありける故に、謙信、いよいよ、祕藏し給ひ、越中國に、さしおかれ、北越の諸侍(しよし)、みな、したしみつきて、その進退(しんだい)にしたがひけり。

 柿崎、ある時、京都へ賣馬(うりうま)をのぼせしに、きはめたる逸物沛艾(いちもつはいがい)の名馬なり。

 織田信長公、

「これ、柿崎が馬なり。」

と聞(きい)て、あたひを、たかく、買とり、又、その上に、柿崎かたへ御書(ごしよ)をつかはして、

「重ねても かやうのよき馬あらば 何時《なんどき》にても 上《のぼ》せらるべし」

と書(かき)て、吳服一重(《ひと》かさね)、さしそへて給はる。

 柿崎、いかゞ思ひたりけん、此事、謙信に聞《きか》せざりしを、程經て、聞き付け給ひ、大《おほき》に怒りて、柿崎を城中へよびよせ、是非なく、ころし給ひけり。

 その亡魂、口をしくや思ひぬらん、折々、出《いで》て、謙信にまみえて、いかれるありさま、すさまじかりしかば、さすがに武勇(ぶよう)の大將にて、物ともしたまはずとはいへ共、いく程なく謙信は、天正六年三月九日、卒中昏倒して、人事をかへりみず、痰喘(たんぜん)、聲をなし、喉(のんど)のうち、鼾睡(かんすゐ)のごとく、面(おもて)、赤くして、粧(よそふ)がごとく、汗、つゞりて、珠に似たり。

 家中の上下、手をにぎり、足を空(そら)になし、四方(はう)の醫師(くすし)、あつまり、「牛黃淸心蘇合圓(ごわうせいしんそがうゑん)」・「神仙妙香通關散(しんせんめうかうつうくわんさん)」をもつて、風痰(ふうたん)を追ひくだし、眞氣(しんき)を補なひ、「人中《じんちう》」・「合谷(がつこく)」に灸治(きうぢ)をくはへ、「百會(《ひやく》ゑ)」・「膻中(だんちう)」に鍼(はり)を刺(さす)といへども、露斗(つゆばかり)も驗(しるし)なく、同じき十三日、つひに、はかなく成《なり》給ふ。春秋四十九歲とぞ聞えし。

 時の人、みな、いふ。

「科(とが)もなき忠節の家臣をころし、その恨みによりて、いまだ、武略弓箭(ゆみや)の盛りに、柿崎がために、とりころされ給ひけり。」

とぞ、いひつたへける。

[やぶちゃん注:本話には挿絵はない。

「柿崎和泉守」柿崎景家(永正一〇(一五一三)年?~天正二(一五七四)年)は長尾(上杉)氏家臣。柿崎城・猿毛(さるげ)城城主。当該ウィキによれば、『越後の国人である柿崎利家の子として生まれたといわれる』。『はじめ長尾為景に仕え、為景死後は』、『その子・晴景に仕えた。晴景と長尾景虎(上杉謙信)が家督をめぐって争ったときには、景虎を支持し』た。『謙信の下では先手組』三百『騎の大将として重用され、永禄元』(一五五八)年に『春日山城の留守居役を務めている。永禄』四(一五六一)年の『小田原の』「北条攻め」にも『参加し、直後の甲斐武田氏との第四次』「川中島の戦い」では『先鋒を務め、八幡原』(はちまんばら)『の武田信玄の本陣を攻め、武田軍本隊を壊滅寸前にまで追い込ん』でいる。『また、斎藤朝信と共に奉行に任命されて上杉領内の諸役免除などの重要な施策に携わり、元亀元』(一五七〇)年の『北条氏康との越相同盟締結においても尽力し、子の晴家を人質として小田原城へ送るなど、内政や外交面でも活躍している。謙信からの信頼は絶大で、謙信の関東管領職の就任式の際には、斎藤朝信と共に太刀持ちを務めた』。天正二(一五七四)年十一月二十二日(ユリウス暦一五七四年十二月五日)に『病死』したが、『景家の死因については、今日まで罷り通っている俗説があり、これが半ば通説と化している。その内容は以下のようなものである』。「景勝公一代略記」によると、景家は天正三年十二月、『謙信に従って越中国水島に先手』三百『騎の大将として出陣していたが、ここで』影家が『織田信長と内通しているという噂が流れ、その噂を信じた謙信によって死罪に処されたという』。『ただし、子の晴家は謀反の罪に連座しておらず』、天正三年二月の「上杉家軍役帳」及び天正五(一五七七)年の『家臣名簿に柿崎家当主として晴家の名があること、また天正』三『年の段階ではまだ上杉・織田両家が交戦状態ではないこと、さらには』、『信任する景家を』、『その程度の理由』『で謙信が処刑するか』どうか『疑わしいことなど、疑問点が多く』、『信憑性に欠けている。なお』、『晴家にも天正』五『年に織田方に内通して処刑されたとする説が存在し、それを景家と混同したのではないかと見るむきもある。ちなみに、柿崎家は晴家の子・憲家を当主として』、「御館(おたて)の乱」後も『存続している』。「上杉将士書上」に『よると、謙信は『和泉守に分別があれば、越後七郡に敵う者があろうか』と評価していたという』。『勇将揃いの上杉軍でも屈指の戦』さ『上手であり、上杉軍の戦いでは常に先鋒を務め、その名を聞いただけで』、『敵は逃げ出したともされている』。『謙信が若いころ』(四十歳頃)、『敵将の娘である伊勢姫と恋仲になったと聞いた景家は、抗議して関係を絶たせ、伊勢姫はその後』、『出家し』、『自決した。これがきっかけとなり、謙信は生涯』、『妻を娶ることはなかったという説話がある』。『死罪の原因となったとされる信長内通疑惑の顛末は、景家が不要な馬を交流の有った上方の馬市に売りに出したところ「越後の馬は上質である」との理由で信長が高値でその馬を買い取り、贈品と共に礼状を送った。景家はこうした経緯を謙信に報告していなかったために、景家が直接信長に馬を売ったと思われ、謙信は景家が内通していると疑って殺したというものである』(本篇は以上を史実として採用したもの)。『謙信時代初期には筆頭格であったとされる。また、家格が高く、古式を理解し』、『機知や教養に富むものでなければ務まらない重任(外交使節の接待・供応など)を拝していた』とある。

「沛艾(はいがい)」馬の性質が荒く、跳ね狂うこと。馬が癇強く躍り上がること。馬が勇み立つこと。また、その馬。

「謙信は、天正六年三月九日、卒中昏倒して、人事をかへりみず」ウィキの「上杉謙信」によれば、天正五(一五七七)年十二月十八日、謙信は織田軍を撃破した「手取川の戦い」から『春日山城に帰還し』、十二月二十三日には『次なる遠征に向けての大動員令を発し』、天正六(一五七八)年三月十五日に『遠征を開始する予定』であった。『しかしその』六『日前である』三月九日、『遠征の準備中』、『春日山城内の厠で倒れ、昏睡状態に陥り、その後』、『意識が回復しないまま』、三月十三日の未の刻(午後』二『時)に死去した』。享年四十九であった。『倒れてからの昏睡状態により、死因は脳溢血』『との見方が強い。遺骸には鎧を着せ』、『太刀を帯びさせて甕の中へ納め、漆で密封した』。『この甕は上杉家が米沢に移った後も米沢城本丸一角に安置され』、『明治維新の後、歴代藩主が眠る御廟へと移された』。『生涯独身で』、『養子とした景勝・景虎のどちらを後継にするかを決めていなかった』ため、『上杉家の家督の後継をめぐって』「御館の乱」が勃発、『勝利した上杉景勝が、謙信の後継者として上杉家の当主となり、米沢藩の初代藩主となったが、血で血を洗う内乱によって』、『上杉家の勢力は大きく衰えることとな』った。『未遂に終わった遠征では』、『上洛して織田信長を打倒しようとしていたとも、関東に再度』、『侵攻しようとしていたとも推測されるが、詳細は不明である』とある。

「人事をかへりみず」人事不省となり。

「痰喘(たんぜん)」喘息の症状を言う。

「鼾睡(かんすゐ)」鼾(いびき)をかくこと。以下の「面(おもて)、赤くして、粧(よそふ)がごとく、汗、つゞりて、珠に似たり」と、総てが重篤な脳疾患の典型的症状である。

「足を空(そら)になし」了意が好んで使う成句。足が地に着かないほど、慌てふためくさまを言う。

「牛黃淸心蘇合圓(ごわうせいしんそがうゑん)」江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(三)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)に、『「牛黄」は牛の胆嚢に生じるという黄褐色の胆石。薬用として珍重された。「牛黄山 此薬大人・小児・中風・驚癇・卒倒・癲癇の気付によし」(『医道日用重宝記』)。「蘇合円」はマンサク科の蘇合香の樹皮から精製した蘇合香油を主剤とし、龍脳・木香・丁香・朮・縮砂・犀角などを混ぜて蜂蜜で固めた丸薬』。祛『痰・駆除剤・防腐剤などに用いられる。「蘇合香丸 卒中風或は小児の急驚・風痰塞がりたるものを冶す。諸の急証の気付に用ゆべし。多く服し久しく用ゆべからず」(『医道日用重宝記』)。』とある。

「神仙妙香通關散(しんせんめうかうつうくわんさん)」同前で『咽喉の散薬。「通関散 喉痺・腫痛・言語ことならざるを冶す。人参・白朮・茯苓・各一匁、防風・荊芥・薄荷・乾姜各五匁、桔梗一匁、甘草一匁、右九味、附子を加へ煎ず。これ喉痺・腫痛を冶する療冶の法也」(『医道日用重宝記』)。

「風痰」漢方のサイト「ハル薬局」のこちらによれば、『痰が内風とともに擾乱する病態』とある。

「眞氣(しんき)」サイト「家庭の中医学」のこちらに、『正気・元気ともいう。先天の原気と後天の水穀の精気が結合して生成される生命の動力物質』。『人体の各種の機能および抗病能力はすべて真気の現れである』。「霊枢・刺節真邪」には『「真気は、天より受くるところ、穀気と併』(あは)『さりて身を充すものなり」とある』とある。

「人中《じんちう》」鼻から上唇まで垂直に伸びる唇上部の溝の部分のツボの名称。

「合谷(がつこく)」現在は「ごうこく」と読まれている。「合」は、親指と人差し指が「出会う位置」という意で、「谷」は、親指と人差し指を開くと「深い谷」のように見えることに由来するツボ。別名を「虎口」とも言う。サイト「美容鍼・鍼灸サロンCALISTA」の「鍼灸を学ぶ・知る」の『美鍼にオススメのツボ「合谷」』に拠った。

「百會(《ひやく》ゑ)」頭の中央の天辺の位置にあるツボとしてよく知られる。

「膻中(だんちう)」左右の乳首を結んだ線が、体幹の垂直方向と交わる胸部中央にあるツボ。

「武略弓箭(ゆみや)の盛りに」武力による攻略の脂が載り切った折りに。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 馬刀(バタウ)・ミゾ貝・カラス貝・ドフ(ドブ)貝 / カラスガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。下部の解説の右方に前の「針刺貝(トゲガイ)」の水管部が侵入しているので、マスキングした。下地がかなり汚れているので、それが判ってしまうのはお許しあれ。二行目以降の縦に記された漢名異名五つは、全部、改行した。]

 

Mizogai

 

馬刀(バタウ)【「みぞ貝」。「からす貝」。】 馬蛤【「別録」。】 齊蛤(セイガフ)【「呉普」。】

  蜌【「爾雅」。】

  ※(ヒ)【「品(ヒン)」「脾(ヒ)」「排(ハイ)」三音。「周禮」に出づ。】

  蝏★(テイヒ)【音「亭(テイ)」「※(ヒ)」。】

  單母(センモ)

  *#(セイガン)

[やぶちゃん注:「※」(上)「庫」+(下)(「蟲」の下方の「虫」二つ)。「★」=「虫」+「並」。「*」=「火」+(つくり:(上)「亠」+(下)〈「申」の最終画の終りを左に有意に曲げたもの〉。「#」=「岸」-「干」+「手」。以上の奇体な漢字を含む異名は調べようがないので注しない。悪しからず。]

 

此の者、泥溝に生じて、海には、なし。色、黑き故、「烏貝(からすがい[やぶちゃん注:「がい」はママ。以下同じ。])」と云ふ。「蚌(どぶがい)」の一種にて、小なる者なり。蚌は、其の大なる者、七、八寸[やぶちゃん注:二十一~二十四センチメートル。]。此の者、四、五寸[やぶちゃん注:十二~十五センチメートル。]を「大なる」とす。馬刀を「まて」と訓ずは、非なり。「まて」は「蟶(まて)」なり。此の者に非(あ)らず。馬刀、其の身、蚶(あかゞひ)のごとし。白色。

 

「どぶ貝」「眞珠貝」。「繪貝」。「田貝」【越後。】。「だぼ貝」【近江。】。

 

甲午(きのえむま)三月廿七日、池の中より捕り、眞寫す。

 

【「六々貝合和哥(ろくろくかひあはせわか)」、

    右十六 溝(みそ)貝

      「夫木集」 江の濵の溝貝ひろふうなひ子が

              たわむれにだに問ふ人もなし 讀人不知】

 

[やぶちゃん注:後背縁が翼状に高まり、そこに波状襞を有する特有の殻形状から、本邦の淡水貝最大形(通常個体で殻長二十センチメートル前後だが、最大四十センチメートル近い個体も確認されている)である、

斧足綱イシガイ(石貝)目イシガイ科カラスガイ(烏貝)属カラスガイ Cristaria plicata

に同定してよい。よく似たカラスガイ属カラスガイ亜種メンカラスガイ(面烏貝)Cristaria plicata clessini がいるが、それは琵琶湖固有亜種であり、ここでは外してよい。また、見た目似て見える類似する種で、ここにも異名のような振る舞いで示されている、

イシガイ科ドブガイ(溝貝)属ヌマガイ(沼貝) Sinanodonta lauta(ドブガイA型/大型になる)

ドブガイ属タガイ(田貝) Sinanodonta japonica(ドブガイB型/小型)

は、別種であり、殻の後背縁に生ずる波状紋がないことと、何より、カラスガイは蝶番(縫合部)の左側の擬主歯はないが、右の後側歯はある(擬主歯及び後側歯は、貝の縫合部分に見られる突起)のに対し、以上の種には左側の擬主歯も右の後側歯もないことで識別出来る。なお、ここで冒頭に並べられた異名漢名は、実は、これ、寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「馬刀」の項の丸写しである。

   *

からすがい

かみそりがい

馬刀

マアヽ タウ

馬蛤 ※1※2[やぶちゃん字注:※1=「陛」の(こざとへん)を「虫」に換える。※2=(まだれ)の中の上部に「卑」、その下部の左右に「虫」。]

※3※4(ていはい)〔→ていはう〕 齋蛤[やぶちゃん字注:※3=「虫」+「亭」。※4=「虫」+「並」。]

※5岸(せいがん)〔→てふがん〕[やぶちゃん字注:※5=「火」+〔「挿」の(つくり)〕。]

【俗に烏貝と云ふ。又、剃刀貝と云ふ。】

   *

そこでは、私はカラスガイ・メンカラスガイに同定した(良安は大坂在住が長い)が、「大和本草卷之十四 水蟲 介類 馬刀」では、益軒が、

   *

馬刀(みぞがい/からすがい)[やぶちゃん注:右に「ミソガイ」、左に「カラスガイ」のルビ。] どぶ貝に似て、小なり。泥みぞに生ず。海には、なし。色、黑き故に烏貝とも云ふ。「本草」にも蚌に似て小なり、といへり。其の外、みぞ貝によく合へり。蚌と一類にて、小なり。馬刀を「まて」と訓ずるは、あやまれり。くろやきにして胡麻の油に和し、小兒の頭の白禿瘡〔(しらくも)〕に付ける。驗(しるし)あり。「本草」には此の方、のせず。

   *

と、「小なり」を三度も連発していることから、私は、有意に小さいという観点からイシガイ科ドブガイ属タガイ Sinanodonta japonica(ドブガイB型)に同定している。こうした和名の混乱がごく近年まで続いていたことは、吉良図鑑で吉良先生が「いしがい科 Unionidae」の最後にわざわざ『〔注意〕』として(コンマを読点に代えた)、『ドブガイ、ヌマガイ、タガイなどを一般にカラスガイと称することが多いが、前者は全く無歯で、カラスガイは側歯を有すること、後背部に波状襞を有することによって明らかに区別されるから決して混同してはならない』とわざわざ書いておられることからも伺われる(所持する吉良図鑑の改訂版は昭和三四(一九五九)年刊)。

「別録」時珍が同書で頻繁に引くもので、漢方医学の最重要古典の一つである「神農本草経」(次注参照)とほぼ同時代(一~三世紀頃)に中国で作られた、同書と並び称される本草書「名医別録」のこと。植物(葉・根・茎・花)は勿論、鉱物・昆虫・動物生薬など五百六十三種の生薬の効能や使用目標などが掲載されている。作者は不詳。原本は散佚したが、六朝時代の医学者・科学者にして道教茅山派の開祖でもあった、「本草綱目」でも出ずっぱりの感のある陶弘景(四五六年~五三六年)が一部を諸本の抜粋から集成し、校訂も加えている。

「呉普」「三国志」で知られる医師華佗の弟子呉普が撰した「呉普本草」。二〇八年から二三九年の間に書かれた。

『「まて」は「蟶(まて)」なり』言わずもがな乍ら、本邦の和名としてのマテガイは海産の斧足綱異歯亜綱 incertae 目マテガイ上科マテガイ科マテガイ Solen strictus である。

「蚶(あかゞひ)のごとし。白色」肉の味は斧足綱翼形亜綱フネガイ目フネガイ超科フネガイ科リュウキュウサルボウ属(アカガイ属)アカガイ Scapharca broughtonii の身に似ているが、白身であるということであろう。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のカラスガイのページによれば、『霞ヶ浦、琵琶湖などで常食されていたもの』であるが、『年々歳々、食用にされる機会が減ってきている』。但し、『琵琶湖周辺では』、『いまだに剥き貝が流通しており、佃煮など加工品が売られている』とされ、『地域限定的な食材で』『高値』とある。『選び方』は『薄いベージュ色のもので』、『ふっくらしているもの』を選べとあり、『味わい』の欄には、『軽くゆでたものは』、『やや泥臭い。じっくりゆでて泥臭みを取る』ことが肝心で、上手く茹でれば、『あまり硬くならず、旨みがたっぷりある』とある。私は残念なことに食したことがないが、あるテレビ番組で、二人の人物が池で採取した二十センチ大の二個体を焼いて食するのを見たことがあるが、少し食べて、あまりの泥臭さに、二人ともリタイアしていた。

「眞珠貝」ウィキの「カラスガイ」によれば、『中国では、淡水真珠の母貝として最重要の淡水貝とされる』『ほか、漢方においては』「珍珠母」『という生薬の原料となる』とあった。私は前者で作られた黒真珠のブローチを叔母にプレゼントしたことがある。

「繪貝」由来不詳。

『「だぼ貝」【近江。】』「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の「マルドブガイ」のページで、琵琶湖固有種のドブガイ属マルドブガイ Anodonta calipygos を「ダバガイ」「ダブガイ」(滋賀県安土町採取)と呼ぶとあったのと類似する。なお、そこには、剥き身で「カラスガイ」として販売している、とあって『薄いクリーム色のものを選ぶ。古くなると』、『褐色を帯びてくる』とあり、写真が載るのだが、これ、確かにアカガイの剥き身に似ている!

「甲午(きのえむま)三月廿七日」天保五年。グレゴリオ暦一八三四年五月五日。

「六々貝合和哥」「六々貝合和歌」。元禄三(一六九〇)年序で潜蜑子(せんたんし)撰。大和屋十左衛門板行。国立国会図書館デジタルコレクションで視認出来る。和歌はここだが、どうも梅園は崩し字の判読が苦手であったらしく、間違い複数がある。上五は「江の濵(はま)に」ではなく、「江の淀(よど)の」である。「たわむれ」も無論、誤りである。

   *

   右十六 溝貝

夫木江の淀にみそ貝ひろふうなひ子か

 たはふれにたにとふ人もなし  讀人不知

   *

「日文研」の「夫木和歌抄」16750番)、及び、矢野環氏と福田智子氏の共同制作になる資料論文「竹幽文庫蔵『香道籬之菊』の紹介和歌を主題とする組香(十一)(同志社大学人文科学研究所編『社会科学』所収・PDFでダウン・ロード可能)によって、作者は、かの源俊頼であることが判明し、

   *

江の淀(よど)に

  みぞ貝(がひ)ひろふ

 うなひ子(こ)が

     たはふれにだに

          問ふ人もなし

   *

が正しいことが確認された。但し、「うなひこ」の歴史的仮名遣は「うなゐこ」が正しい。「髫髪子(うなゐこ)」とは、「うない髪」(七、八歳の童児の髪を項(うなじ)の辺りで結んで垂らしたもの。また、女児の髪を襟首の辺りで切り下げておくもの)にした子女・元服前の少年・童のこと。後者資料に、

   《引用開始》

28)みぞ貝

(下・九丁・表、前歌仙三十六首和歌・一一番)

    溝介 左六

  江の淀にみぞ貝ひろふうなひこがたはふれにだに問人もなし

(下・十八丁・裏、歌仙貝三十六種歌後集・三二番)

    みぞ貝 右十六

 

  江の淀にみぞ貝ひろふうなひ子がたはふれにだに問人もなし

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が四字下げで、「▽」のみ二字下げであるが、再現しない。]

▽『散木奇歌集』(俊頼)第九、雑部上、一三五〇番(むかひの江にわらはのあそびたはぶるるをたづぬれば、みぞがひといふ物ひろふなりといふを聞きてよめる/「たはぶれにてもとふ人ぞなき」)

▽『田上集』(俊頼)七六番(むかひの江に、童のあそびたはぶるるを、尋ぬれば、みぞがひといふ物ひろふなりといふをききてよめる/「たはぶれにてもとふ人ぞなき」)

▽『夫木抄』巻第三十五、雑部十七、一六七五〇番(俊頼朝臣/〈左注〉此歌は、たなかみにてむかひのえにわらはべのあそびたはぶるるをたづぬれば、みそがひひろふといふをききてよめると云云)

   《引用終了》

これは頗る重要な資料となるのである。「六々貝合和歌」には前の方に合わせる貝の図が載り、それは、ここの左丁の一番左の下から三番目で、「右」の「十六」「みぞ貝」とあるのだが、ここに書かれた絵は、異様に細長いので、カラスガイではない。可能性としては、私は真っ先に琵琶湖固有種であるイシガイ属タテボシガイ(立烏帽子貝)Nodularia nipponensis を考えた。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のタテボシガイのページを見られたい。その写真と、この絵は、非常な合致を示すものと思う。そうして、以上の飼料の最後が肝心で、「たなかみ」と地名が出るのである。これは、近江国田上(たなかみ)で、滋賀県大津市南部の田上(たなかみ)地区であり、ここは瀬田・栗津方面と西方の山城宇治方面や伊賀・伊勢へ抜ける交通の要衝であった。この附近である。これはもう、タテボシガイで間違いないと言えるのである。

2022/02/13

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 針刺貝(トゲガイ) / ホネガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。上部に前の「ミナ」の解説が、左に「ミゾ貝」の図が食い込んでいるので、マスキングした。下地がかなり汚れているので、それが判ってしまうのはお許しあれ。]

 

Honegai

 

「百貝圖」に出づ。    「片部貝(かたべがい)」。「角片部(つのかたべ)」。

  𢙣鬼貝【「あつきがい」。】[やぶちゃん注:「𢙣」は「悪」の異体字。]

  針刺貝(とげがい) 「本草」に出づ。刺螺【和名「はつき貝」。】

予、曰はく、「はつき」は、其の壳(から)、刺歯(シシ/とがれる は)のごとし。「歯附(はつき)」なるべし。[やぶちゃん注:「壳」は「殼」の異体字。但し、実際の原本の字体は現在の「殻」の(へん)だけにしたものである。]

壬巳(みづのえみ)林鐘(りんしよう)四日、霊石園の藏すを、乞ひて、之れを眞寫す。

 

[やぶちゃん注:この角度の図一枚からでは、一種に同定するのが難しい。スケールを比較するものがなく、全体のサイズも判らないし、他人の蔵品で、採取されてから、どれくらい経過しているかも判らず、棘の本数も果して生時のままであるかどうか不明である。後補としては、

腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目Hypsogastropoda亜目新腹足下目アッキガイ上科アッキガイ科アッキガイ亜科アッキガイ属Murex

までは絞れるが、まずは以下が候補となる(種小名のアルファベット順)。

ホネガイ Murex pecten

アッキガイMurex troscheli

オニホネガイ Murex tribulus

他に、エンマノホネガイ Murex tenuirostrum がいるが、これは下方に伸びた水管上の棘がもっと疎らなので、外してよく、コアクキガイ Murex trapa に至っては、それがもっと少ないので除外出来る。キンスジアッキガイ Murex concinnusは当該和名のその色を認めないので、これも外す。蔵している正体不明の「霊石園」(「りやうせきえん(りょうせきえん)」と読んでおく。唐風の号であろう)がどこから手に入れたものか判らぬが、以上の種の分布は、ホネガイ(「骨貝」は魚の骨に似ていることが由来)とアッキガイ(文字通り「惡鬼貝」である)が孰れも本州中部以南で、オニホネガイ本州南部以南で、これが江戸からは一番遠い(と言ってもそれが限定する要素には全くならない)。この内、最も大きくなり、頑強な種はアッキガイであるが、同種は螺状脈上に褐色の線状の帯を有するので、候補から外していいように思われる。ホネガイはタイプ種として知られるが、実は上記三種に中では、小型で、しかも繊細な感じを最も与える種である(この図はその繊弱な雰囲気をよく醸し出しているように感ずる)。オニホネガイは水管上に三列の長棘列と間棘列する(図はそのようにも見えなくはないが、この方向からのみでは、チカチカしてよく判らない)。また、ホネガイよりも棘数が少なく、やや太く、さらに棘の間隔はホネガイよりも広いので、私は本図の候補としては、

ホネガイ Murex pecten

に分(ぶ)があるように感じているので、トップ表記は「ホネガイ」とした。他の種であるとなら、その根拠を解説してお教え下されたい。

「百貝圖」寛保元(一七四一)年の序を持つ「貝藻塩草」という本に、「百介図」というのが含まれており、介百品の着色図が載る。小倉百人一首の歌人に貝を当てたものという(磯野直秀先生の論文「日本博物学史覚え書」に拠った)。

「片部貝」「角片部」霊元天皇の命によって作られ、宮中に献納された、江戸初期の貞享五・元禄元(一六八八)年に、京の商人(呉服商か)吉文字屋浄貞(「きちもんじやじょうてい」と読んでおく)が描いた貝類図譜「浄貞五百介圖」があるが(序文は平賀源内)、Terumichi Kimura氏の貝類サイト「@TKS」の「貝の和名と貝書」の「浄貞五百貝圖」について、墨絵で描かれた図譜で、一葉の『中に沢山の貝をまとめて書いてある。それぞれの貝に名前を付けているが、解説は無い。名前は非常に独特で南方の産品が相当加わっている。貝および関連生物の名として』五百四十一品・四百六十七種『が出ている』とあって、同書所収の和名のリストがあり、そこに「角片部」と「片部介」が並んで出ている。何とも言えず、ホネガイっぽい和名だ。

「𢙣鬼貝【「あつきがい」。】」アッキガイ科 Muricidae。保育社の吉良哲明(てつあき)先生の「原色日本貝類図鑑」(私が高校の時に最初に買った本格貝類図鑑で、貝類収集家の間では超有名で「吉良図鑑」の愛称がある。これを手始めに私はに十冊近い貝類図鑑を所持している)によれば(コンマを読点に代えた)、『殻は大形より微小形に及び、塔状乃至紡錘形で、種々の突起を具えた縦張脈』(じゅうちょうろく:螺塔殻頂から下方に向かって縦に張り出した縦肋の内でも、著しく太く、成長に従って段差などが生ずる部分)『を有し』、『前溝』(口の下方の水管部分の前に開いた部分)『を具える。種類甚だ多い大群である』。本科の種群は性、『甚だ貪食で』、『中には牡蠣養殖に大害を与えるものがあ』る。『また』、『体内より浸出す』る『紫』色の『液は』、『昔』、『染料に供されていた』(「貝紫」(かいし)と呼ぶ)。『角質の蓋を具える』とある。我々に馴染みのある種は、アッキガイ科レイシガイ亜科レイシガイ属イボニシThais clavigera ・レイシガイ亜科レイシガイ属レイシReishia bronni ・ チリメンボラ亜科チリメンボラ属アカニシ Rapana venosa 、そしてこの奇体なホネガイであろう。

『「本草」に出づ』「刺螺【和名「はつき貝」。】」この「本草」は時珍の「本草綱目」ではなく、益軒の「大和本草」のこと。私の「大和本草卷之十四 水蟲 介類 刺螺」を見られたい。但し、私はそこで、「刺螺」をホネガイに同定せず、腹足綱前鰓亜綱古腹足目ニシキウズ超科リュウテンサザエ科リュウテン亜科リンボウガイ属Guildfordia に比定同定している。その判断を変える気は今もない。根拠はそちらの私の考証を読まれたい。

『予、曰はく、「はつき」は、其の壳(から)、刺歯(シシ/とがれる は)のごとし。「歯附(はつき)」なるべし。』面白!!! 梅園! ヒット!

「壬巳(みづのえみ)林鐘(りんしよう)四日」天保四年六月四日。グレゴリオ暦七月二十日。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類  河貝子(ニナ) / ウミニナ或いは近縁種或いは形状近似種・チリメンカワニナ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。下部に「針刺貝(トゲガイ)」の図が食い込んでいるので、マスキングした。下地がかなり汚れているので、それが判ってしまうのはお許しあれ。]

 

Nina

 

河貝子(みな)【俗、「蜷」の字を用ゆ。「河にな」・「轉めいな」・「みな」。】

「本草」に曰はく、

蝸蠃(クワラ) 一名螺螄(ラシ) 【「びな」・「びん」。佐州。】

「別録」に曰はく、

蝸螺(クワラ)

 

山谷の溪水・溝渠(こうきよ)の内、或いは、大木の傍(かたわら[やぶちゃん注:ママ。])に付きて、之れ、海河にも生ず。小螺なり。二種あり。一種、圖にして、殻葢(からぶた)厚し。一種、『殻葢薄し』と云ふ者、此(こゝ)に寫す物、是れなり。小螺(せうら)の、極めて米粒ほどなる有り。其の類、多し。蠃は溪澗の中に生ずる者、絶(きはめ)て小なり。苔を食ふて、潔(きよ)し。「蠃」、今、「螺」に作る。

 

「怡顏齋貝品(いがんさいかいひん)」 『螺螄、螢-火(ほたる)に化(け)す。腐草に限らず。今、審(つまびら)かにするに、石蠶(せきさん)、多く、「ほたる」に化す。』と。

 

甲午(きのうむま)三月廿七日、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:解説、及び、上下のそれぞれ二個体の全四個体は、上方と下方では、色と形状から全く種が異なるものと見做し得る。上方は、当初は、

腹足綱吸腔目カニモリガイ上科ウミニナ科 Batillariidaeウミニナ属ウミニナ Batillaria multiformis

或いは、その近縁種(ウミニナ及びウミニナ類についてはウィキの「ウミニナ」を参照されたい)の内の二種ではないかとは思ったのだが、この二個体、殻口部が有意に異なり、左個体が有意に丸くなっているのに対し、右は細い楕円形になっているから、明らかな別種である。候補としては、

右個体がウミニナ

で、左のそれは、実は似て非なる、

(左個体候補)カニモリガイ上科フトヘナタリ/キバウミニナ科PotamididaeカワアイPirenella alata

あたりではないかとも思われるのである(同種は嘗てはウミニナ科であったが、現在は上記のように変更されている。なお、カワアイは河口附近の汽水産である)。なお、この上の二種の貝表面の色や肋は、採取した時点で死貝であり、表面が削れて実個体の元も色や形状を成していないと私は考えている。

 一方、下方は、お馴染みの淡水産のカニモリガイ上科カワニナ科Pleuroceridaeカワニナ属カワニナ Semisulcospira libertina の近縁種で、縦肋がある、

チリメンカワニナ Semisulcospira reiniana

かと思われる。後者の同定には、西村氏の作成されたサイト「日本産カワニナ科図鑑」を使用した。チリメンカワニナのページはこちら。さて、しかし、梅園が解説の参考にしたことが明白な「大和本草卷之十四 水蟲 介類 河貝子」で、私はかなりリキを入れて注をしてあるので、そちらをまず読まれたいのだが、そこで益軒は、似て非なる尖塔型を成す、ありとある貝類、海産・淡水産だけでなく、ここで無批判に梅園が引いている「大木の傍に付きて」で判る通り、陸生有肺類(腹足綱有肺目キセルガイ科 Clausliidae辺り)をも含めてしまっているのである!

「河貝子(みな)」は古くより「カワニナ」の名であったと思われる。それは「和名類聚鈔」の巻十九の「鱗介部第三十」「龜貝類第二百三十八」で、

   *

河貝子(ミナ) 崔禹錫が「食經」に云はく、『河貝子【和名「美奈(みな)」。俗に「蜷」の字を用ゆるは、非なり。音「拳」。「連蜷」は「虫の屈(かがま)る貌(かたち)」なり。】は、殻の上、黒にして、小さく、狹く、長くして、人の身に似たる者なり。

   *

とあるからである(国立国会図書館デジタルコレクションの板本のここを元に訓読した)。『「連蜷」は「虫の屈(かがま)る貌(かたち)」なり』というのは、対象の虫が判然としないが、ヤスデやダンゴムシのようなものの丸くなる行動を指すものか? また、「みな」の語源は判らないが、この源順の言う「人の身に似たる者なり」という意味不明なものが(私は尖塔形の貝が人間の形には見えない)、何かを示唆しているようにも思われる。なお、私の「柳田國男 蝸牛考 初版(20) 物の名と智識(Ⅰ)」も参考になるので、是非、読まれたい。

「轉めいな」「ころ(び)めいな」? 読みも、現存する異名かどうかも不詳。

『「本草」に曰はく……』「本草綱目」の巻四十六の「介之二【蛤蚌類二十九種】」「漢籍リポジトリ」のこちら[108-32a]の前後。カワニナは広く東アジアに分布するので、違和感はない。記載にも、『蝸螺生江。夏溪水中小于田螺上有稜。時珍曰、處處湖溪有之。江夏漢沔尤多、大如指頭而殻厚於田螺。惟食泥水』とあり、違和感はない。但し、ここに出る「蝸蠃」及び「螺螄」(厳密には「天螺螄」)は、現在の漢方医学では、カタツムリの一種である有肺目真有肺亜目柄眼下目マイマイ上科オナジマイマイ科オナジマイマイ属オナジマイマイBradybaena similaris 及びその近縁種に同定されているので、問題があるとはいえる。

「溝渠」給水や排水のために土を掘った溝(みぞ)のこと。

「別録」既出既注

「苔を食ふて、潔(きよ)し」おやめなさい。カワニナには肺吸虫(分類は後述)・横川吸虫(吸虫綱二生(二生吸虫)亜綱後睾吸虫目後睾吸虫亜目後睾吸虫上科異形吸虫科 Metagonimus 属ヨコガワキュウチュウ Metagonimus yokogawai )等の第一中間宿主となることが報告されており、十分に熱を通さずに食すことは危険である(貝からヒトへの直接感染は現行では生じないとされている)。横川吸虫は自覚症状がなく、また、重症化のケースは知られていないが、カワニナを中間宿主とする吸虫綱二生亜綱斜睾吸虫目住胞吸虫亜目住胞吸虫上科肺吸虫科 Paragonimus 属ウェステルマンハイキュウチュウ Paragonimus westermanii(同種の三倍体個体群を、生態や感染性の相違から、別種のベルツハイキュウチュウ Paragonimus pulmonalis とする説もある)の場合は、肺に病巣を作ったり、脳への迷走感染をすると、死に至ることもあるので、食用には十全に熱を通す必要である。

「怡顏齋貝品(いがんさいかいひん)」「怡顏齋介品」。本草学者(博物学者と言ってよい)松岡恕庵(寛文八(一六六八)年~延享三(一七四六)年:名は玄達(げんたつ)。恕庵は通称、「怡顏齋」(いがんさい)は号。門弟には、かの「本草綱目啓蒙」を著わした小野蘭山がいる)が動植物や鉱物を九品目に分けて書いた「怡顔斎何品」の中の海産生物を記したもの。早稲田大学古典総合データベースのこちらで原本が視認でき(ああ! これも電子化注したい!)、その「下」の冒頭に「螺螄」がある(ここと、ここ)。電子化する(カタカナをひらがなに代え、一部に濁点を加えたほか、読みを補助し、〔 〕で補正した)。

   *

螺螄

達、按ずるに、「螺螄」、俗に「河(かは)にな」と云ふ。又、「轉めいな」とも、「みな」とも、云ふ。村-落(むら)〔の〕小渠(こみぞ)に生ず。或いは、云はく、「此の物、『螢-火〔ほたる〕』に化す。腐草に限らず。」と。今、審(つまびらか)にするに、「石蠶」、多く、「螢火」に化す。又、味噌[やぶちゃん注:原本では(つくり)は「曽」。]汁にて、煮、食ふ。児--痛(あとばら)を治す。

   *

「児枕痛(あとばら)」「ジチンツウ」は「後腹」と同義で、産後の腹痛を指す。腐った草が蛍に化生(けしょう)するという説は中国で古くからある俗説である。「石蠶」とは、昆虫綱毛翅上目トビケラ目 Trichoptera に属する昆虫類の幼虫を指す。同種は完全変態をし、幼虫は殆どの種が水生で、細長いイモムシ状だが、胸部の歩脚はよく発達する。頭胸部はやや硬いが、腹部は膨らんでいて柔らかい。また、腹部に気管鰓を持つものも多い。砂や植物片を自ら出す絹糸に絡めて円筒形その他の巣を作る種が多い。その巣の中で蛹化し、羽化の際には蛹自らが巣を切り開いて水面まで泳ぎ上がり、水面や水面上に突きだした石の上などで成虫となるものが多く、ここから、「石の蚕(かいこ)」の意の漢名が生じ、また、水中から飛ぶ虫となることから、ホタルと誤認したものである。

「甲午三月廿七日」天保五年。グレゴリオ暦一八三四年五月五日。]

2022/02/12

狗張子卷之四 田上の雪地藏

 

[やぶちゃん注:今回の挿絵は状態が最もよい現代思潮社版(昭和五五(一九八〇)年刊)のそれをトリミングして、適切と思われる位置に挿入した。]

 

   ○田上(たなかみ)の雪地藏《ゆきぢざう》

 元龜二年二月(きさらぎ)の半(なかば)、餘寒、はなはだしく、靑嵐(せいらん)、はしたなく吹きすさび、大雪、うつすがごとく降りつみたり。四方《よも》の山々、みな、白たへに、さながら、白銀世界(びやくごんせかい)となり、木々のこずゑは、花ならずして、色をかざり、春ながら、又、冬の空にたちかへるか、と、おぼえたり。

 近江の國田上(たなかみ)といふ所の子ども、あまた、雪をよろこびつゝ、出《いで》てあつまり、「雪轉(ゆきころばし)」してあそび、その中に雪地藏を作り、花(はな)・香(かう)の形(かた)まで、おなじく、雪にて作りたてつゝ、岩の上にすゑて[やぶちゃん注:原板本画像(左丁後ろから四行目)も『すへて』でこれも使えない。]、くやうの有さまを、いとなみけるに、年のほど、十二、三ばかりの童(わらは)を、「くやうの導師」と、さだめけるに、かの童、くやうの意趣を宣(のべ)て曰はく、

「そもそも、この地藏ぼさつの尊形(そんぎやう)をつくりて、くやうする心ざしは、もとより、これ、眞(まこと)の雪《ゆき》なり。六道のちまたに、雪地藏を本尊とする、此ぼさつの御ちかひの事をば、日《ひ》の長閑(のどか)にならん時に、殘りなく、とき申すべし。」

と、たはぶれたり。

 かりそめのたはぶれ事に似たれども、雪佛雪祖(せつぶつせつそ)の理(り)にかなへりとや。

 


Tanakamiyukijizou1

 

 この童、然《しか》るべき種(たね)にやありけん、後(のち)に法師になりて、ならびなき說法の師となり、明阿僧都(みやうあそうづ)とかや、聞えし學匠のほまれあり。

 天台の敎相(けうさう)、形(かた)のごとく學(がく)して、講師(かうじ)をもつとめしに、あるとき、心地わづらひて、俄かに絕え入りけるを、脇のした、あたゝかに、脈道(みやくだう)の、をどりければ、さうれいをもせず、弟子ども、守居(まもりゐ)たるに、一日一夜《いちにちいちや》をへて、よみがへりて、語りけるは、

「……過《すぎ》し夕暮、二人の冥官(めうくわん)に引立《ひきたて》られ、ある所に、いたる。

 玉《ぎよく》の階(みはし)を渡り、瑠璃(はり)の地を、あゆみゆくに、樓門、あり。内に入《いり》しかば、寶殿のいらか、黃金(わうごん)の垂木(たるき)、鳳(ほう)の瓦(かはら)、虹(にじ)のうつばり、此世には、見なれもせぬうゑ木の梢に、花、咲みだれたり。

『若(もし)、これ、天上にあらずば、又、いづれの淨土なるらん。』

と、あやしみながら見めぐらせば、御殿の左のかたに、幢(はたほこ)あり。その上に、人の頭(かしら)、ふたつを、のせたり。右のかたには、黃金(わうごん)のうてなに、大なる鏡(かゞみ)をたて、四方《しはう》に幡(はた)をたてゝ、半天にひるがへる。靑衣(せいい)の官人、玉の簾(すだれ)をまきあぐれば、内に七寶(《しつ》はう)の床(ゆか)あり。垣(かき)より外には、囚人(めしうど)、手がせ・くびがせを、いれられ、大《おほき》におそれ、かなしむ有さま、哀れなる事、限りなし。

 ここにおいて、

『炎魔王宮(えんまわうぐう)なり。』

とは知《しり》けり。……」

[やぶちゃん注:以下、個人的には直接話法で続けたいところだが、そこでは「明阿僧都」「僧都」という自称ではない形の三人称で彼が記されているため、そうすると微妙に違和感が生ずることから、泣く泣く地の文に変えることとした。所持する現代思潮社版は、本文が段落成形され、直接話法も独立段落になっている読み易いスタイルになっているが(但し、致命的に気持ちの悪い現代仮名遣変更版。まさかあり得ぬこの仕儀を知らずに注文して買ってしまった)、そこでは、やはり、以上のみを僧都の直接話法として、全体を一字下げにする手法が用いられてある。

 炎王、出《いで》て、玉の床に坐し給へば、冥官(みやうくわん)二人、明阿僧都を請じて、床に坐せしめ、

「新造の精舍(しやうじや)くやうのため、こゝに迎へたり。くやうをのべて、法事をおこなひ給へ。」

と、あり。

 僧都、中門の廊(らう)にかゝる所に、わかき法師の來りて、

「我は、是れ、そのかみ、くやうせし『雪地藏』なり。汝、かりそめに開眼(かいげん)せし功德(くどく)に依りて、辯舌・學道を得たり。炎王、感じて、精舍のくやうに迎へ給へり。汝に此《この》如意(によい)を、あたふるなり。此れを、あげて、妙法を說(と)きのべんに、辯舌、泉(いづみ)のごとくに涌きて、とゞこほる事、あるべからず。」

とて、去り給ふ。

 僧都、すでに精舍に入て、高座(こうざ)にのぼるに、炎王を初めとして、もろもろの冥官・司錄、おのおの、位(くらゐ)にしたがうて、つらなる。

 說法、初まりて、大空智々(《たい》くうちゝ)の眞際(しんさい)をのぶるに、聽聞(ちやうもん)のともがら、歡喜(くわんぎ)しけり。

「此上は、何にても、望みある事を申《まうし》給へ。」

と、あり。

 僧都、

「我、出家の身として名利(みやうり)を離れたれば、別(べち)に望む所、なし。ねがはくは、母の生所(しやうしよ)を見せしめ給へ。乳哺長養(にうほちやうやう)の恩をはうぜんと思ふばかりなり。」

と申せしかば、炎王、勅をくだして、檢(けん)するに、僧都の母、今、「叫喚地ごく」にあり。

 冥官一人をそへて、地ごくに、ゆかしむ。

 銅(あかがね)の築地(ついぢ)、鐵(くろがね)の門、もえのぼる猛火(みやうくわ)の音、鳴り下(くだ)る雷(いかづち)のひゞき、罪人の啼きさけぶ聲、肝(きも)たましひも、きゆる斗(ばかり)なり。

 冥官、くろがねの門に迎ひ、戶びらをたゝくに、獄卒、門をひらくに、猛火(みやうくわ)、ほとばしる。

 明阿上人の母を問ふに、炭頭(すみがしら)のごとくなる物を、鉾(ほこ)に貫きて、なげ、いだす。

 凉しき風、吹(ふき)ければ、炭頭、うごきつゝ、頃之(しばらく)して、人の形(かたち)となる。

 僧都の母なりけり。

 是を見るに、悲しき事、限りなく、ことの葉、絕えて、泣きしづめり。

 


Tanakamiyukijizou2

 

 地藏菩薩、あらはれて、の給はく、

「我、此母の歎くをみるに、すくはんとするに、力(ちから)、足らず。はやく娑婆に歸りて、「法華經」を書きて、とぶらふべし。」

と、ありけるを、夢のごとくにおぼえて、よみがへり。

 母のために、金字(こんじ)の「法華經」を書寫し、金色(こんじき)の地藏の形像(ぎやうさう)を作りて、くやうするに、其《その》終(はて)の日の夜、夢に見けるは、母の顏、よろこばしく、

「都率天(とそつてん)に生(うま)るゝなり。」

と。

 夢、さめて、僧都も、喜びの眉をひらき、いよいよ、道心、ふかく、修行、おこたらず。

 かの地藏は田上(たなかみ)の草堂におはせしを、うちつゞきたる世のみだれに、燒けうせ給ひしとかや。

 

[やぶちゃん注:構成を、明阿上人の幼年期の映像的に素敵なエピソードから始めて、閻魔王の懇請による上人の閻魔王宮新造供養のための冥界入りに一気に続け、そこに所縁の「雪菩薩」との再会を挟んで、叫喚地獄での無慚な実母との再会に転じ、地蔵菩薩の教えを得て、直ちに蘇生、「法華経」による供養のお蔭で母が弥勒菩薩が修業中の兜率天に目出度く往生するという、優れた形にとり、恐らく「狗張子」中の最初の豪華なオール・スター・キャストにして、優れた怪奇譚としても成功している作品である。先行する「伽婢子卷之四」に同じ堕獄と蘇生の類話「地獄を見て蘇」があるが、こちらの方が遙かによく書けている。

「元龜二年二月(きさらぎ)の半(なかば)」同二月は大の月で十五日はユリウス暦一五七一年三月十日。グレゴリオ暦換算で三月二十日である。この二月、第二次信長包囲網が展開されている中、信長は浅井長政配下の磯野員昌(かずまさ)を味方に引き入れ、近江国佐和山城を得ており、五月には五万の兵を率いて、伊勢長島に向け、出陣するも、攻めあぐね、兵を退いた。しかし、撤退中に一揆勢に襲撃され、柴田勝家が負傷、氏家直元が討死している。同月、三好義継・松永久秀が、大和や河内の支配を巡って筒井順慶や畠山昭高と対立、足利義昭が筒井・畠山を支援したことから、三好三人衆と結んで、義昭から離反して、信長とも対立関係となっていた。而して同年九月には、敵対する比叡山延暦寺を焼き討ちにしている(以上の信長の動きは当該ウィキに拠った)。

「靑嵐(せいらん)」不審。語としてのそれは、概ね、「初夏の青葉を揺すって吹き渡るやや強い風」を指し、季節が合わない。江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(三)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)では、『大風の意か』とある。以下の「はしたなく吹きすさび」(「はしたなし」は「程度がはなはだしい・ひどい・激しい」の意)からも、そういうことであろう。

「白たへ」「白栲」で、原義は「梶(カジノキ)や楮(コウゾ)の皮の繊維で織った白い布」で、転じて「白妙」で雲・霞・雪などの「白い色」や換喩に用いる。

「白銀世界(びやくごんせかい)」「びゃくごん」の「ごん」は「銀」の呉音。呉音は仏教語によく用いられるので本篇では違和感はない。

「近江の國田上(たなかみ)」、滋賀県大津市南部の田上(たなかみ)地区から大石地区に連なる標高四百~六百メートルの山並みの総称。「田神山」とも書く。主峰は不動寺のある太神山(たなかみやま)。ここ(グーグル・マップ・データ)。この山塊の一部からは、水晶やトパーズが産出される。江本氏の注に、『瀬田・栗津方面と西方の山城宇治方面や伊賀・伊勢へ抜ける交通の要衝』とある。上人の母が何故、叫喚地獄(八熱地獄の四番目。殺生・盗み・邪淫・飲酒を素因とする。「飲酒」とは、酒に毒を入れて人殺しをしたり、他人に酒を飲ませて悪事を働くように仕向けたりすることを指す。ウィキの「八大地獄」によれば、『熱湯の大釜(大鍋)の中で煮られたり、猛火の鉄室に入れられて号泣、叫喚する。その泣き喚き、許しを請い哀願する声を聞いた獄卒たちは』、『さらに怒り狂い、罪人を』、『ますます責めさいなむ。頭髪が金色、目から火を出し、赤い衣を身にまとった巨大な鬼たちが罪人を追い回して弓矢で射る。鬼たちは風のように速く走れる。罪人たちの体内からは』蛆『虫がわき出てきて』、『亡者たちのからだを食べつくす。他にも罪人たちは焼けた鉄の地面を走らされ、鉄の棒で打ち砕かれる』。『人間の』四百『歳を第四の兜率天の一日一夜とする。その兜率天の』四千『年を一日一夜として、この地獄における寿命は』四千『歳という。これは人間界の時間で』八百五十二兆六千四百『億年に当たる』とある)に墜ちねばならなかったかは、本篇では語られないが、この立地は、或いは何かを読者に示唆しているものかも知れない。

「雪轉(ゆきころばし)」雪の小さな塊りを雪の上で転がして、だんだん大きくする遊び。「ゆきまろばし」「ゆきまろげ」。

「此ぼさつの御ちかひの事をば、日《ひ》の長閑(のどか)にならん時に、殘りなく、とき申すべし。」江本氏はこの「とき」に注されて、『ここは、「ぼさつの御ちかひ」を「説く」と、「日の長閑ならん時」に雪地蔵が「溶ける」とを、掛けるか。』とあった。これは気づかなかった。なるほど!

「雪佛雪祖(せつぶつせつそ)の理(り)」「徒然草」の第百六十六段、

   *

 人間の、營み合へるわざを見るに、春の日に雪佛を作りて、そのために金銀・珠玉の飾りを營み、堂を建てんとするに似たり。その構へを待ちて、よく安置してんや。人の命ありと見るほども、下より消ゆること雪の如くなるうちに*、營み待つこと甚だ多し。

   *

を受けたものであろう。

「明阿僧都(みやうあそうづ)」不詳。仮想人物のようである。

「形(かた)のごとく」学僧の慣例に従って一通り。

「うつばり」「梁」。

「幢(はたほこ)」不審。小学館「日本国語大辞典」によれば、『① 竿の先端に、種々に彩色した布でつくった旗をつけたもの。軍陣などの指揮や、儀式に用いた。』とし、②として、』『より、魔軍を破摧する法(のり)の王である仏を象徴して仏・菩薩の荘厳具としたもの。龍や宝珠を上端につけて竿につるし、堂内の柱にかける。』とあり、さらに、『③ とばり。たれぎぬ。』とする。この以下の全体は、挿絵の閻魔王の左手に描かれている、私の大好きな地獄定番のアイテムである「人頭杖」(じんとうじょう)である。女の首と鬼の首が高台の上に置かれている。この首は生きており、前に亡者を控えさせると、生前の善行と悪行を総て喋るのである。しかも、それは意想外に、女の首が悪事を、鬼の首が良い行いを語るのである。さても、それが載るのは、断じて「幢」ではない。【2022年2月13日追記】知人より、旗のついた人頭杖(分離型)の情報を頂戴した。machiarukinote氏のおかやま街歩きノオト(雑記帳)」「東京 地獄めぐり③」の十枚目の画像のこれ深川の法乗院所蔵のものである。知人に心より感謝申し上げる。

「右のかたには、黃金(わうごん)のうてなに、大なる鏡(かゞみ)をたて」所謂、「浄玻璃の鏡」である。地獄の閻魔庁にあって、その前に立った死者の生前の善悪の所業をあますことなく映像として再現するという優れものの鏡である。絵師は閻魔の右手に描くことが難しかった(初期デッサンの時点で柱や幔幕に遮られてしまう)ので、人頭杖の隣りに並べて描かれてあるのはご愛嬌。

「靑衣(せいい)の官人」私はこうした服色の冥官は知らない。

「中門の廊(らう)」江本氏の注に、『廊寝殿造りで対の屋から南に出て釣殿に通じる渡殿』(わたどの)とされ、『挿絵参照』とある。一枚目の二幅の挿絵の右手奥に伸びるもの。よく見ると、確かに、下方に水面(みのも)の波が透けて見える。その渡殿の上に立つのが、かの「雪」地蔵菩薩で、左幅で扇を以って対峙しているのが、明阿上人。

「如意(によい)」仏僧が読経や説法の際などに手に持つ道具。孫の手のような形状をしており、笏と同様に権威や威儀を正すために用いられるようになった。「如意」とは「思いのまま」の意味。本来は孫の手の様に背中を掻く道具で、意の如く(思いのままに)痒い所に届くことから「如意」と呼ぶが、それが正法(しょうぼう)の核心を示唆することに敷衍したものであろう。画像は参考にした当該ウィキの画像を見られたい。但し、挿絵を視認出来るもの三種総て精査したが、地蔵菩薩は挿絵の中では如意棒を持っている痕跡はない。

「司錄」「狗張子卷之一 北條甚五郞出家」で既出既注。

「大空智々(《たい》くうちゝ)」江本氏の注に、『仏語。大空は十方界の一つで、時間や方向がない世界のこと。智々は、すべてを知り尽くす智恵のこと。』とあるが、一九八〇年現代思潮社刊の「古典文庫」の「狗張子」(神郡周(かんごおり あまね)校注)では、『大空は、大八空の一つ。物的諸現象(色法)は悉く地・水・火・風の四元素によってできた仮りのもので実性のないことをいう』とあり、私は後者の注が腑に落ちた。

「眞際(しんさい)」同前で江本氏は『真理。悟り。』とされ、神郡宇治は『智の中の智で、もっとも勝れた仏の智をいう』とある。これはまあ、同義であるので問題はない。

「母の生所(しやうしよ)」亡くなった実母が転生した様子。

「乳哺長養(にうほちやうやう)の恩」小児に乳を与えて大事に養育して呉れたことへの恩。

「炭頭(すみがしら)」炭化した人の首の意であろう。

「頃之(しばらく)して」江本氏は『この用字で、振り仮名が「しばらく」の用例は未詳。』とされるが、これは甚だ不審で、漢文訓読ではかなり頻繁に見られる和訓である。

「我、此母の歎くをみるに、すくはんとするに、力(ちから)、足らず」と地蔵菩薩が述懐する以上は、相当に重い罪であったことが窺われる。殺人か、重い事態を引き起こした邪淫か?

「うちつゞきたる世のみだれ」江本氏注に、『元亀元年(一五七〇)の姉川合戦や同二年の延暦寺焼打ち、同三年の小谷城落城など、戦国時代に近江地方で起こった戦乱をさすか。』とある。さらに江本氏は、話柄内時制の齟齬について、以下のように注しておられる。『「田上の草堂」が「焼うせ給」ったのが、「うちつゞきたる世のみだれ」のためとすると、注に示したように、ここでは戦国時代に近江地方で起こった戦乱をさすのが妥当であろう。ただし』、『本章を文字通り読むと、主人公の「一二』、『三の童」が成長して「明阿僧都」となり、さらに蘇生後も「修行をこたらず」とあって、冒頭に示される「元亀二年」から、少なくとも四』、『五十年は時間が経過している(とすると設定は一六二〇年代』(江戸初期の徳川秀忠・徳川家光の治世)『前後となる)ことになり、「世のみだれ」と齟齬する。つまり、これを後日談ととるならば、時間設定が合わないことになり、時運意識を持つ作者にしては、やや不用意か。』と記されてある。私もそれを感じていた。【2022年2月13日改稿】当初、私は最後の地蔵がよく判らんと、ボケまくった批判をここの注に記していたのだか、先の知人から、最後の『失われたお地蔵さまの尊像は、上人が甦りののちに、母上のために供養された「金色の地藏の形像」だと解しました』と応じられ、自分の阿呆さ加減に呆れてしまった。ここに改めて知人に感謝するものである。

2022/02/11

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類  牡蠣(カキ) / マガキ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。]

 

Magaki

 

蛤蚌類(カウハウルヰ)【凡そ、介類、甚だ多し。諸州の土地によりて、有無、あり。異品多し。究め知るべからず。其の十の一を以つて寫すのみ。】

 

「本草綱目」に曰はく、

  牡蠣(ボレイ)【「加幾(かき)」。】 牡蛤(ボカウ)【「別錄」。】 蠣蛤(かき)【「本經」。】 古賁(コフン)【「異物志」。】 蠔(カウ)

  蠣黃(レイワウ)【「かきのみ」。「かきのにく」。】

 

◦牡蠣(かき) 『海邉の石につきて、自然に生ず。海人、打ちくだきて、肉を取る。大小あり。冬・春、味、美なる故、取り商ふ。初夏より後、秋に至る迠(まで)、食はず。凡そ、介の類、皆、自然に胎生す。又、卵生あり。只、蠣(かき)のみ化生(かしやう)す』。「本草綱目」にも載せたり。又、「泉南雑志」に曰はく、『泉(せん)に、石灰、無し。蠣房(レイバウ)を燒きて、之れと爲(な)す。堅白(ケンパク)・細膩(サイジ)、久しく落ちず。』と。蠣粉(レイフン)を以つて、壁、或いは、池なぞを、ぬる事、日本、又、然り。蠣(かき)は石に付きて、一處(いつしよ)にありて、動かず。故に牝牡(ヒンボ/めすをす)の道、なし。子を産す、皆、牡なり。故に牡蠣と云ふ。陳藏噐、之れを說きて、『動かざるもの、蠣(レイ)の外(ほか)にはまれなり。』と。

 

甲午(きのえむま)九月六日、葛飾の某氏、手猟(てどり)と為(な)し、之れを送れるを、眞寫す。

 

[やぶちゃん注:これは、

斧足綱ウグイスガイ目イタボガキ科マガキ属マガキCrassostrea gigas

である。見た感じでは、恐らくは六個体(一つは身を表わしてあり、左端の小さな白っぽいそれは脱落した個体の破片)が集合しているように見える。私は強力なカキ・フリークで、その渾身の注を附した「大和本草卷之十四 水蟲 介類 牡蠣」を見られたいが、まさに梅園はそれを参考にして解説を記していることが判る。他に私の比較的最近の電子化注である「日本山海名産図会 第三巻 牡蠣」もお薦め!

「蛤蚌類(カウハウるゐ)」「蚌」を「バウ」と読むのは慣用読み。これは狭義には広く海産・淡水産の二枚貝を指す漢語である。「本草本綱」では巻四十六の「介之二【蛤蚌類二十九種・附一種】」の「蚌」の項で、

   *

蚌と蛤と、類を同じくして、形を異とす。長き者を、通じて、「蚌」と曰ひ、圓き者を、通じて、「蛤」と曰ふ。其の字【「丰(ハウ)」に从(したが)ひ、「合(カフ)」に从ふ。】、形に象(かたど)るなり。其の類、甚だ繁(おほ)し。江湖の渠瀆(きよとく)[やぶちゃん注:みぞ。どぶ。]の中に、之れ、有り。大なるは、長さ七寸、狀(かたち)、牡蠣(かき)の輩(うから)のごとく、小さきは、長さ三、四寸、狀、石決明(あはび)の輩のごとし。其の肉、食ふべし【甘鹹にして、冷。】。老蚌は珠を含む。其の殻、粉と爲し、錠(ぢやう)[やぶちゃん注:錠剤。]と成して、之れを市(う)る。之れを「蚌粉(はうふん)」と謂ふ。以つて墻[やぶちゃん注:「牆」に同じ。土塀。]壁(しやうへき)を飾り、墓壙(ぼくわう)を闉(ふさ)ぐ。如-今(いま)は石灰を用ふ。蚌の粉【鹹にして、寒。】は、疳を治し、痢幷びに嘔逆を止め、癰腫(ようしゆ)に塗る。

   *

と述べているが、ざっくり言ってしまうと、「蛤」は一般的には、斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ科ハマグリ亜科ハマグリ属ハマグリ Meretrix lusoria に代表される丸みを帯びた二枚貝全般(海産・淡水産を問わず)を指し、「蚌」は横長の淡水産のイシガイ科Unionidaeの大型のそれを総称するものと考えておけば、間違いはない。この大雑把でレベル的に釣り合わないのは、「本草綱目」で判る通り、中国の本草学の歴史に於いて、魚介類研究の対象が、概ね各王朝の首都が長く内陸にあったため、淡水産を主流としており、海産のそれらの生態観察を個別に親しく行えた本草学者は、そう多くなかったからである。というより、海産生物の個別名や識別が一般市民レベルで出来る国民は、世界的に見ても、現在でも日本人の平均的国民が圧倒的な知識量を持つ特異点であると言ってよいのである。より詳しくは、寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「蚌(ながたがひ どぶかい)」及び「文蛤(はまぐり)」の項の私の注を見られたい。

「其の十の一を以つて寫すのみ」「その計り知れない全種量の内、僅かな種を採り上げて、図示することしか私には出来ない。」の謂いである。

『「本草綱目」に曰はく、牡蠣……』「漢籍リポジトリ」の先に示した巻四十六の「介之二」の巻頭を飾っている。

「別錄」時珍が同書で頻繁に引くもので、漢方医学の最重要古典の一つである「神農本草経」(次注参照)とほぼ同時代(一~三世紀頃)に中国で作られた、同書と並び称される本草書「名医別録」のこと。植物(葉・根・茎・花)は勿論、鉱物・昆虫・動物生薬など五百六十三種の生薬の効能や使用目標などが掲載されている。作者は不詳。原本は散佚したが、六朝時代の医学者・科学者にして道教茅山派の開祖でもあった、「本草綱目」でも出ずっぱりの感のある陶弘景(四五六年~五三六年)が一部を諸本の抜粋から集成し、校訂も加えている。

「本經」「神農本草経」。後漢から三国の頃(紀元後二五年から二八〇年。但し、紀元後五世紀とする説もある)に成立した本草書で、伝説の神農氏の後人の作とされるが、実際の撰者は不詳である。個々の生薬について解説したもので、中国最古の薬物学書とされる。三百六十五種の薬物を上品・中品・下品(上薬・中薬・下薬とも称する)の三品に分類して記述しており、上品は、無毒で長期服用が可能な養命薬、中品は、毒にもなり得る養性薬、下品は、毒が強く長期服用が不可能な治病薬としている。五〇〇年に先に記した陶弘景が本書を底本として「神農本草経注」全三巻を撰し、さらに「本草経集注」全七巻を撰している。陶弘景は前の「名医別録」の佚文と合わせて、内容を七百三十種余りの薬物に増量している。本書はそれ以降、正統の本草書の位置を占めるようになったが、現在は敦煌写本の残巻や「太平御覧」への引用などに過ぎない(ここは当該ウィキを参考にした)

「異物志」「嶺南異物志」。唐代の吏員であった孟琯(もうかん)が撰した、嶺南(現在の広東省・広西チワン族自治区の全域と湖南省及び江西省の一部に相当する地域の古称)地方の珍奇な生物などについて記録した博物書。

「泉南雑志」明の陳懋仁(ちんもじん)の書いた現在の福建省泉州市附近(台湾の対岸。グーグル・マップ・データ)の地誌。

「蠣房」カキの身を除いた殻のこと。

「堅白」非常に堅く白いこと。

「細膩」(「膩」は「脂(あぶら)」の意で、「きめ細やかですべすべしていること」。

「陳藏噐」(生没年未詳)は唐の玄宗期の本草家で医師。彼の著した「本草拾遺」(七三九年前後の成立)は「本草綱目」にもよく引かれている。完本は伝わらないが、引用が多く残り、ある程度までの原本内容は判っている。

「甲午(きのえむま)九月六日」天保五年。グレゴリオ暦一八三四年十月六日。]

毛利梅園「梅園介譜」 龜鼈類  朱鼈(セニカメ)二種 / ニホンイシガメの幼体及びやや成長した若い個体

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした(右丁は前の「タイマイ」の解説)。実は、次の見開きには、「緑毛龜【「ミノカメ」。】」と記してあるのだが、図も解説もない。梅園が描いたものを挿入するつもりで、結局、絵も解説も描かず終わったものらしい。流石に画像は示さず、リンクのみにする。なお、この「緑毛龜」=「ミノカメ」というのは、「簑龜(みのがめ)」であり、それについては、前の「タイマイ」の「簑亀」の注で私が述べた以外には言い添える内容がない。そちらを見られたい。]

 

Zenigame

 

朱 鼈 【「ぜにかめ」。】二種。

 

浮游の圖

 

壬辰(みづのえたつ)八月廿八日、之れを捕らへ、眞写す。

 

[やぶちゃん注:以下、下方の小さな個体の方の写生クレジット。]

 

甲午(きのえむま)八月九日、之れを捕らへ、眞写す。

 

[やぶちゃん注:これは、既出の日本固有種である半淡水棲の陸カメである、

爬虫綱カメ目潜頸亜目リクガメ上科イシガメ科イシガメ属ニホンイシガメ Mauremys japonica

の幼体及びやや成長した若い個体である。既に述べた通り、現在、多くの外来種が人為的に放たれて、遺伝子プールが攪乱され、亜種も生じてしまっているが、本来の日本固有種は、このニホンイシガメと、イシガメ科ヤマガメ属リュウキュウヤマガメ Geoemyda japonica の二種のみである。「鼈」は「スッポンだろ?」と言う向きには、では、「ずっと古えから本草学で用いられている魚鼈(ギョベツ)たぁ、魚とスッポンだけかいな?」「鼈甲(ベッコウ)たぁ、スッポンから採れるんかね?」と反論しよう。「鼈」は広義のカメ類やウミガメを指す語でもあるのである。ここは前者で、「朱鼈」は「赤いカメ」の意に過ぎない。ニホニシガメの『背甲の色彩は橙褐色、黄褐色、褐色、灰褐色、暗褐色などと個体変異が大きく、一部に黄色や橙色の斑紋、暗色斑が入る個体もいる』と当該ウィキにあるので、赤くても何ら、問題はない。下方は同じニホンイシガメの幼体である。真の本邦の「銭亀」=「ゼニガメ」である。「あれって、クサガメの子じゃないの?」と言い返す御仁には、こう答えよう。「上で俺は日本固有種は二種だけだっていったでしょうが! これはね、クサガメの子である可能性は極めて低いんだな。」ってね。ウィキの「クサガメ」を見られたいが、クサガメは『日本の個体群に関しては化石の発見例がな』く、『最も古い文献でも』二百『年前に』やっと『登場し』、しかも『江戸時代中期以前には本種に関する確実な記録がな』く、『江戸時代や明治時代では』、『希少で』、『西日本や南日本にのみ分布するという記録があることなどから、朝鮮半島から人為的に移入されたと推定されている』とあるのだ。毛利梅園は旗本だ。江戸から簡単には出られない。本図の個体は、上が遊泳している成体個体の絵だ。下の子もへなってなくて、元気そうじゃないか。これが西日本から梅園のもとへ、わざわざ奇特な御仁が生きながら持ってきた可能性はないとは言えないけれど、下の可愛い子の甲羅の形状は、当時は稀種であったクサガメとは、違うと思うね。立派なニホンイシガメだ。後ね、上の個体、左右の喉甲板の間と、左右の肛甲板の間に切れこみが入ってるよね? クサガメにはこれはないんだ。だから、これも立派なニホンイシガメの若者なんさ!

「壬辰八月廿八日」天保三年。グレゴリオ暦一八三二年九月二十二日。

「甲午八月九日」天保五年。グレゴリオ暦一八三四年九月十一日。]

狗張子卷之四 味方原軍

 

[やぶちゃん注:今回の挿絵は状態が最もよい現代思潮社版のそれをトリミングして、適切と思われる位置に挿入した。]

 

   ○味方原軍(みかたがはらいくさ)

 永祿・天正のあひだ、天下、亂れ、近里遠境、たがひにあらそひ、隣國郡邑《ぐんいふ》を幷(あは)せとらんと、挑み戰ふ。臣として、君を謀り、君は又、臣をうたがひ、兄弟、敵(てき)となり、父子、怨(あた)をむすび、運にのりては、數國(すこく)をうばひ、勢ひ、つきぬれば、牢浪し、榮枯、地(ところ)をかへ、盛衰、日にあらたまれり。そのあひだに死するもの、いく千萬とも限りなし。兵亂(ひやうらん)、打ちつゞき、京も田舍も、靜かなる時、なし。かくては、世の中に人種(《ひとの》たね)も絕えはてんとぞ、思はれける。

 元龜三年十二月廿二日、甲斐の信玄、五萬よ騎にて、遠州濱松におもむき、味方原に押しつめらる。

 德川家には、信長公より加勢として平手監物(ひらてけんもつ)・大垣卜全(おほがきぼくぜん)・安藤伊賀守以下、九頭(《くの》かしら)をつかはさる。岡崎・白洲賀(しらすが)まで、甲(かぶと)の星をならべて、取《とり》つゞきたり。

 水野下野守・瀧河(たきがは)伊豫守・毛利河内守を初めて、備(そなへ)を堅(かたく)して待《まち》かけたり。

 かゝる所に、信玄のかたより、小山田兵衞、先陣にすゝみ、德川家の先手(さきて)内藤三左衞門と合戰を初め、小山田、追《おひ》くづされて、引《ひき》しりぞく。

 

Mikatagahara

 

 山縣三郞兵衞、つゞいて、かゝるを、酒井左衞門尉に、つきくづされて、あやうくみえしを、四郞勝賴、橫相(よこあひ)にかゝりて防ぎけるに、北條氏政の加勢、大藤式部少輔(だいとうしきぶのせう)、德川がたより、打ちかけし鐡炮に、むないたを打ぬかれて、馬より、倒(さかさま)におちて死にければ、德川家、勝(かつ)にのりて、突(つい)てかゝる。本田(ほんだ)平八・榊原小平太・安部(あべの)善九郞・大洲賀(おほすか)・菅沼(すがぬま)・櫻井・設樂(しだり)・足助(あすけ)の人々、すきまもなく責(せめ)つけしかば、武田がた、切立《きりたて》られ、濱松と「みかたが原」との間に、「犀(さい)ががけ」とて、深き谷あり、武田の軍勢、此《この》谷底にまくり落され、いやが上に重なり、己《おの》が太刀・かたなにつらぬかれて、死するもの、數しらず。

 信玄も、陣を佛(はらつ)て、歸らる。

 亡魂(ぼうこん)、谷底に殘りて、夜な夜な、啼きさけびけり。

 德川家より、僧に仰(おほせ)て、五色(《ご》しき)の絹にて、燈籠をはらせ、さまざまの作物(つくりもの)、もろもろの花、色々の備物(そなへもの)、七月十三日より十五日まで、盂蘭盆會(うらぼんゑ)を營み、念佛踊(ねんぶつをどり)を始められしに、啼き叫ぶ聲、止(やみ)にけり。

 それよりこのかた、「賓燈籠(ひんどうろう)」と名づけて、每年(としごと)の七月には、かならず、魂祭(たままつり)おこなはれ、「賓燈籠」の「念佛をどり」ありとかや。

[やぶちゃん注:挿絵は一九八〇年現代思潮社刊の「古典文庫」の「狗張子」のものをトリミングした。「伽婢子」及びここまでの「狗張子」の中で、最も面白くない一篇である。従って、細かな注記を附す気にならないので、非常に詳しい注の附された江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(三)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)をお読みになられたい。登場する武将について各個注記されてある(されば、私は一人を除いて一切省略させて貰う)。「三河一向一揆」・「伊賀越え」と並び、徳川家康の三大危機とされる「三方ヶ原の戦い」は当該ウィキが詳しいから、そちらで時系列順に戦況の変化を追われるよかろう。戦闘の行われた遠江国敷知(ふち)郡の三方ヶ原は、浜名湖の北の東方で、現在の静岡県浜松市北区三方原町附近(グーグル・マップ・データ)である。

「永祿・天正」ユリウス暦一五五八年から、元亀(一五七〇年から一五七三年まで)を挟んで、グレゴリオ暦一五九三年(ユリウス暦一五九二年)まで。

「元龜三年十二月廿二日」ユリウス暦一五七三年一月二十五日(グレゴリオ暦換算二月四日)。ウィキの「三方ヶ原の戦い」によれば、『当初、徳川家康と佐久間信盛は、武田軍の次の狙いは本城・浜松城であると考え、籠城戦に備えていた。一方の武田軍は、二俣城攻略から』三日後の十二月二十二日に『二俣城を出発すると、遠州平野内を西進する。これは浜名湖に突き出た庄内半島の北部に位置する堀江城(現在の浜松市西区舘山寺町)を標的とするような進軍であり、武田軍は浜松城を素通りして』、『その先にある三方ヶ原台地を目指しているかにみえた』。『これを知った家康は、一部家臣の反対を押し切って、籠城策を』、『三方ヶ原から祝田』(ほうだ)『の坂を下る武田軍を背後から襲う積極攻撃策に変更し、織田からの援軍を加えた連合軍を率いて浜松城から追撃に出た。そして同日夕刻に三方ヶ原台地に到着するが、武田軍は魚鱗の陣を敷き』、『万全の構えで待ち構えていた。眼前にいるはずのない敵の大軍を見た家康は鶴翼の陣をとり』、『両軍の戦闘が開始された。しかし、不利な形で戦端を開くことを余儀なくされた連合軍は武田軍に撃破され、日没までのわずか』二『時間ほどの会戦で』、『連合軍は多数の武将が戦死して壊走』した。『武田軍の死傷者』二百『人に対し、徳川軍は死傷者』二千『人を出した。特に、鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵、本多忠真、田中義綱といった有力な家臣をはじめ、先の』「二俣城の戦い」での『恥辱を晴らそうとした中根正照、青木貞治や、家康の身代わりとなった夏目吉信、鈴木久三郎といった家臣、また織田軍の平手汎秀』(ひらてひろひで)『といった武将を失った。このように野戦に持ち込んだことを含めて、全て武田軍の狙い通りに進んだと言えるが、戦闘開始時刻が遅かったことや』、『本多忠勝などの武将の防戦により、家康本人を討ち取ることはできなかった』とある。

「大藤式部少輔」北条氏康・氏政の家臣で相模国田原城主・相模国中郡郡代で諸足軽衆足軽大将であった大藤秀信(?~元亀三(一五七二)年)。挿絵でその死が描かれてあるので、菩提のために注する。通称は与七、法号は芳円。室は同じ北条家家臣山角(やまかく)康定の娘。息子に北条氏政から一字を偏諱された二代目政信がいるが、秀信自身も氏政から一字を賜り、同名の「政信」に改名している。そのため、息子と区別するために「初代政信」と呼ばれることがある。父の信基の死去後の天文二一(一五五二)年に末子であったが、大藤氏の家督を継いだ(恐らくは嫡子がいなかったためと推定される)。足軽衆を率いて各地を転戦し、特に永禄四(一五六一)年に越後の上杉謙信を撃退するに大功を挙げた。永禄一一(一五六七)年に田信玄が駿河侵攻を行うと、今川への援兵として武田軍と対峙し、掛川城、後に韮山城に籠って抗戦した。しかし元亀二(一五七一)年、甲相同盟が成立したため、一転して武田信玄の遠江侵攻に協力し、「二俣城攻め」に加わるが、元亀三(一五七二)年十一月の落城直前、銃弾に当たって戦死した、と当該ウィキにはあるので、「三方ヶ原の戦い」の前に亡くなっていて、本話の記載とは齟齬する

「勝(かつ)にのりて」江本氏注に『ひとたび勝判を得たことで、はずみがついて。』とある。

『「犀(さい)ががけ」とて、深き谷あり、武田の軍勢、此《この》谷底にまくり落され、いやが上に重なり、己《おの》が太刀・かたなにつらぬかれて、死するもの、數しらず』「犀ががけ」は「犀ヶ崖」で、浜松城の北側凡そ一キロメトールの、現在の静岡県浜松市中区鹿谷町附近(グーグル・マップ・データ。航空写真で拡大すると、「犀ヶ崖古戦場」が確認でき、サイド・パネルの複数の写真(例えばこれ)で現在の谷の感じが判る)にある断崖。「三方ヶ原古戦場」として静岡県史跡に指定されている。現在は、長さ凡そ百十六メートル・幅二十九〜三十四メートルほどで、深さは約十三メートルであるが、当時のスケールはよく判っていない(以上の主文は「浜松市」公式サイト内の「犀ヶ崖(さいががけ)資料館」の記載に拠った)。但し、ウィキの「三方ヶ原の戦い」によれば、『武田軍によって徳川軍の各隊が次々に壊滅していく中、家康自身も追い詰められ、夏目吉信や鈴木久三郎を身代わりにして、成瀬吉右衛門、日下部兵右衛門、小栗忠蔵、島田治兵衛といった僅かな供回りのみで浜松城へ逃げ帰った。この敗走は後の伊賀越えと並んで人生最大の危機とも言われる。浜松城へ到着した家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、いわゆる空城計を行う。そして湯漬けを食べてそのままいびきを掻いて眠り込んだと言われる。この心の余裕を取り戻した家康の姿を見て将兵は』、『皆』、『安堵したとされる。浜松城まで追撃してきた山県昌景隊は、空城の計によって警戒心を煽られ』、『城内に突入することを躊躇し、そのまま引き上げ』たとある。一方、『同夜、一矢報いようと考えた家康は』、『大久保忠世、天野康景らに命令し、浜松城の北方約』一『キロにある犀ヶ崖付近に野営中の武田軍を夜襲させ』(「犀ヶ崖の戦い」)、『この時、混乱した武田軍の一部の兵が犀ヶ崖の絶壁から転落したり、崖に』誘い『寄せるために徳川軍が』、『崖に布を張って』、『橋に見せかけ、これを誤認した武田勢が殺到し』、『崖下に転落』させる『などの策を講じ、その結果、多数の死傷者を出したという』。『ただし、「犀ヶ崖の戦い」は徳川幕府によって編纂された史料が初出で』、幅百メートルの『崖に短時間で布を渡した」、「十数』挺『の鉄砲と』百『人の兵で歴戦の武田勢』三『万を狼狽させた」、「武田勢は谷風になびく布を橋と誤認した」という、荒唐無稽な逸話であ』り、『また、戦死者数も書籍がどちらの側に立っているかによって差があり』、「織田軍記」では徳川勢五百三十五人、甲州勢四百九人と『互角に近い数字になっている』とある。本篇は家康の大負けを隠し、この「犀ヶ崖の戦い」の奇策戦を、あたかも勝利戦のように描いて、やおら怪談に持ち込むという、事実としても何だか胡散臭い怪談である。但し、江本氏の「念佛踊」の注には、『孟蘭盆や仏事に際して、念仏や和讃を唱えながら、鉦や太鼓を打ち鴫らして踊る踊り。現在無形文化財である遠州大念仏は三方が原合戦で戦死した軍勢の霊を、家康が大念仏で供養したのが始まり、という由来を持つ。』とある。しかし、やはり江本氏も最後に、『【余説】本話末尾による限り、合戦は武田方の敗北に終わり、家康が霊を弔ったかのように読めるが、「味方が原」の合戦は、数少ない徳川方の大敗北で、家康自身が「けふの大敗」と(『徳川実紀』申「東照宮御実紀忖録」二)と、完敗を認めるものであった。本作の著者が、曲げているとすれば、その意昧は十分吟味されるべきだろう。』と批評しているのは尤もなことである。

「賓燈籠(ひんどうろう)」「浜松市」公式サイト内の「浜松の夏の風物詩遠州大念仏・念仏踊」によれば、『大念仏の列は、次のような構成になっています。先頭は三ツ葉葵の紋付羽織を着て』、『組を誘導する「頭先(かしらさき)」、次に賓燈籠(ひんどうろう)一対』(☜)『を持つ「頭」が』二『人続き、遠州大念仏と標示した組の「幟(のぼり)」』一『本』、二『つの鉦の音が共鳴し』、『長い余韻を残す「双盤(そうばん)」、「笛」、「摺鉦(すりがね、小鐘)」、「太鼓」、行進の際に組名入りの提灯を持ち回向の際は斉唱する「供回り」、行進の調整役となる「押し」が続きます』とあった。サイト「Go!Go! 郷中」の中の「遠州大念仏」のページの最初にある「切子燈籠」(一対あるようだ)がそれであろう。

狗張子卷之三  蜷川親當逢亡魂 / 狗張子卷之三~了

 

[やぶちゃん注:標題は「蜷川親當(みながはちかまさ)、亡魂に逢ふ。」である。挿絵はない。短編のせいだろうが、私の好みのシークエンスが後半にあり、是非とも挿絵が欲しいところである。]

 

   ○蜷川親當逢亡魂

 都の東山鳥部野は、古しへ、空海和尙の御師範(《ご》しはん)石淵(いはぶち)の勤操(ごんさう)僧正、遷化し給(たま)ひけるを、はうふりしより、今に及びて、墓所(むしよ)の名を、すてず、人のあだなきためしには、歌にもよむ事なり。上の山を「あみだが峯」と、なづく。露けき野ばらも、時(とき)、世かはりて、その所だに、たゞしからず。

 永享《えいきやう》年中の事にや、將軍義敎公は京都の公方として天下をおさめ給ふ。

 家臣蜷川新右衞門尉親當は、かくれなき武篇の勇士なり。

 そのころ、

「鳥部野には妖物(ばけもの)あり。」

と、いひはやらかし、女(をんな)・童(わらは)おそろしがりて、晝も、ゆかず。

 新右衞門、聞《きき》て、

「みずから、心ねを、ためさん。」

とて、ある夜《よ》、只ひとり、長刀(なぎなた)、打《うち》かつぎ、鳥部野のあたりに、いたる。

 さなきだに、物のあはれは秋にこそあれ、風も、一しほ、身にしみて、ゆくへも、いとゞ物悲(ものがな)しく、虫の音《ね》までも、更ゆく秋をかこちがほなり。草葉も色かへて、露しげきに、かくてぞ、思ひつゞけける。

 鳥部野の草葉色づく秋の夜は

      こと更虫の聲もかなしき

 奧ふかく行《ゆき》けるに、人を葬(はう)ふり、薪(たきゞ)をつみて燒きける火にむかひて、一人の女、座して、あり。

 親當、行かゝり、女のうしろに立ちて、

「かゝる野ばらの、人かげもまれに、すさまじきを、おそれもせず、獨り座しておはする、その心(こころ)、ありや。」

と問ひければ、女、こと葉なくて、

 夏虫のもぬけのからの身なればや

      何か殘りて物におそれめ

と、いひければ、親當、重ねていはく、

「かくこたふるは、何ものぞ。」

と問ふに、女は、おもても見かへらずして、

   岩松無聲風來吟(がんしよう ぶせい かぜ きたりて ぎんず)

かきけすやうに、うせぬるを、蜷川(みながは)、すこしもおそれずして、もゆる火のまへに立《たち》よりて、女の居(ゐ)たりける跡をみれば、しやれ首(かうべ)のくだけたる有《あり》しかば、長刀の柄《え》にかけて、火のなかにうち入《いれ》、暫(しばら)く念佛ゑかうして、かへりけり。

 人ばなれなる野中(のなか)に、虫の聲のみ聞えて物すごきに、きつね火、をちかたにみえて、松の木(こ)ずゑをわたる聲より外《ほか》には、又、ことなるものも、なし。

 そのあひだに、東の山のはに、月しろ、あがりしを、たいまつにして、靜かに家にぞ、歸りける。

 

狗波利子卷之三終

 

[やぶちゃん注: 「鳥部野」「猪熊の神子」の「阿彌陀が峯」の注を参照。

「空海和尙の御師範石淵の勤操僧正」(天平勝宝六(七五四)年~天長四(八二七)年)は「ごんぞう」とも読む。奈良国生まれ。俗姓は秦、通称は石淵僧正。奈良大安寺の信霊・善議に三論を学んだ。延暦一五(七九六)年、奈良石淵(いわぶち)寺で「法華八講」を初めて行ったという。奈良弘福(ぐふく)寺や、造営中だった京都西寺の別当となっている。天長三(八二六)年に大僧都となった。最澄や空海(宝亀五(七七四)年~承和二(八三五)年)と親交があり、空海の師ともされる。

「あだなき」中世・近世語で、「はかなく頼りない」の意。

「あみだが峯」同じく「猪熊の神子」の「阿彌陀が峯」の注を参照。

「永享年中」一四二九年~一四四一年。

「蜷川新右衞門尉親當」(?~文安五(一四四七)年)は、例の江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(二)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)によれば、『「みながわ」は普通「にながわ」。ただし』、『「蜷 ミナ」(書言字考)の読みはある。蜷川氏は中世以来の武家で、物部守屋の孫の宮道氏より出て、親直を祖とする。越中国新川郡蜷川村(現富山市)に在住したので蜷川を姓とした。親当は和漢の才があり、また蜷川氏は室町幕府執事伊勢氏と婚姻関係にあったことから、伊勢氏の代官として、幕府の政所代となり、以後』、『代々』、『政所代をつとめた。なお、親当と一休宗純の逸話は著名(『一休ばなし』一―四「蜷川新右衛門親当初て一休にあふ事」)。』とある。

「武篇」「武邊」に同じ。

「心ね」武士としての真性。根性といった方が判りがいいか。

「かこちがほなり」恨めしそうな顔しているようだ。

「鳥部野の草葉色づく秋の夜はこと更虫の聲もかなしき」江本氏は『典拠未詳』とされる。

「野ばら」「野原」。

「その心、ありや。」これは私は、凄絶にして荒涼なる火葬地に平然としている彼女に「そなたは人間としての心を幾分かは持った存在か?」と禅の公案に応ずる師の如く、「作麼生何所爲(そもさんなんのしよゐ)ぞ!」(私の偏愛する上田秋成の「靑頭巾」の「快庵禪師」のクライマックスの応辞の台詞)と真っ向から問うているのであると読む。

「夏虫のもぬけのからの身なればや何か殘りて物におそれめ」江本氏注に、『類歌「夏蝉のもぬけはてぬる身となれば何か残て物おじをせん」(「武者物語之抄」四)。』とある。

「岩松無聲風來吟(がんしよう ぶせい かぜ きたりて ぎんず)」江本氏注に、『岩の上の松は、風が吹いて来たときのみ枝葉を鳴らす。ここでは、自分も物を言いかけられたから話したにすぎないという意。同様の詩句は『武者物語之抄』四に見られる(ただし』、『振り仮名は「がんしょうせいふうらいぎん」)。なお類似の詩句に「巌松無心風来吟」(「醒睡笑」八「頓作」)がある。』とある。禅の公案の答えの一つであろう。

「もゆる火のまへに立《たち》よりて、女の居(ゐ)たりける跡をみれば、しやれ首(かうべ)のくだけたる有《あり》しかば、長刀の柄《え》にかけて、火のなかにうち入《いれ》、暫(しばら)く念佛ゑかうして、かへりけり。」ここが、実にいい!

「をちかた」「遠方」。遠くのところ。ずっと向こうの方。

「月しろ、あがりしを、たいまつにして」「月しろ」は「月白・月代」で、「月が出ようとする際に東の空が白んで明るく見えること」を言う。それを松明の代わりとして蕭条たる墓域を去る、とは、如何にも武辺の風流というべき見事なコーダである。]

ブログ・アクセス1,680,000突破記念 梅崎春生 青春

 

[やぶちゃん注:昭和二三(一九四八)年五月号『小説新潮』に発表された。生前の単行本作品集には所収されなかった。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。太字は底本では傍点「ヽ」である。

 文中・文末に簡単な注を入れた。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、本未明、1,680,000アクセスを突破した記念として公開する。【2022211日 藪野直史】]

 

   青  春

 

 及落会議は、三時半ごろ終った。

 二階の会議室にあたる方角から、とつぜん椅子を動かす音やざわざわ立ちあがる気配がながれてきて、中庭に三々五々立ってるぼくらを、いきなり不気味な沈黙と緊張におとしいれた。時間も風物も、一瞬にして凍ってしまったようであった。やがて階段の踊り場へ、書類綴りをこわきにかかえた人影がちらと現われたと思うと、黒っぽい背広を着た教授たちの姿が次から次へ、古ぼけた階段をぎいぎいきしませながら、ぞろぞろと降りてきた。みんな疲れたようなまぶしいような顔つきになって、そろって黙りこくったまま階段を降り切ると、申し合せたように右手の渡り廊下の方にまがり、そろそろと便所の建物に吸いこまれて行った。中庭にたちこめていた緊張はうわずったように破れ、中庭に佇(たたず)んだ人々が水流にうかぶ塵埃(じない)のように、建物のひとところに吸いよせられて行くのが見えた。やがてそこに事務員の手によって、及落の発表が貼りだされる筈であった。

 ぼくは図書室の石段から立ち上って、その方に歩きだそうとしたら、ぼくのマントの裾を城田の掌が押えつけた。城田の顔は少し青くなって、眼だけがきらきら光っていた。

「たのむから」掌を頭のところで妙な形にひらひらさせながら、押しつぶされたような声で城田が言った。「鈴木も便所に入っただろう。あそこまで行って、一寸おれのことを聞いて呉れや」

「聞いてこなくても、すぐ貼り出されるよ」

「そいつが待ち切れんのだ。な。一つ頼む」

 切迫した声になった。そうまでしなくても、とぼくは笑おうとしたが、笑いにはならなかったようだ。城田の眼が青味を帯びてぼくに食い入っていたのである。そしてはきだすように言った。

「ああっ。やり切れん。ひとつたのむ」

 さんざん待って他人の頭ごしに、自分の名前を貼紙に読む城田を想像すると、ぼくも俄(にわか)にやり切れない気持になってきた。今日の及落の発表も、城田がついてきて呉れと頼むから、ぼくはやってきたのである。この気弱な男の顔を見ていることが、気の毒な感じに耐えられなくなったから、ぼくは視線をそらして彼方の職員室の建物に眼を移した。晴れあがった三月の空を背景に、その古風な建物はヘんに黒い影を中庭にひろげていた。トタンぶきの渡り廊下を隔てて、貨車のような形の便所が連なっていた。その陰影も砂利の上に暗くおちていた。あの中にいる教授たちは皆、既に事の全貌を知っているのだと思うと、城田のために、なんだか悲しいような腹立たしいような気分がぼくをかりたててきた。

「よし」とぼくはマントを肩に引っぱりあげた。「聞いてきてやる」

 中庭を斜めによこぎると、ぼくは便所の入口までつかつかと歩いた。手巾で掌をぬぐいながら出てくる人影のあいだから、入口に一番近いばしょでむこうむきになっている鈴木教授の、特徴のある後頭部の形が直ぐ眼に入った。鈴木教授はぼくらの組主任であった。なまあたたかい尿のにおいがそこらにたちこめていた。なにか気配を感じたのか、ふと鈴木老教授は顔をうしろにふりむけた。そしてぼくがすぐうしろに立っているのを見ると、急に顔をくしゃくしゃと気の毒そうにゆがませ、とぎれとぎれの口調で言った。

「君か。君の、ことは、頑張ったけれど、とうとう駄目じゃった。ずいぶん、弁護したんだが、なにしろ……」

 頭を力まかせにがんと叩かれたようで、ぼくは身動きもできなかった。身体中を音たてて血がかけめぐってゆくのが判る。言葉の一つ一つが無量の重みをもって、ぼくの耳の底にしたたり落ちた。膝のあたりから急速に力が抜けてゆくのを感じながら、ぼくは茫然と鈴木教授の尿の色を眺めていた。教授は首をふりむけてぼくに話しかけながらも、そのことは止めずに継続していたのである。尿のいろは、黄色火薬のようないやな色調であった。

 それからぼくはとつぜん身体中がふくれあがったような気持になって、白線帽を脱いでペコリと頭をさげると、ふらふらと中庭の方にとってかえした。そして中庭を校門の方にむかってふらふらと歩いた。何が何だかわからなかった。城田のことなどは、頭になかった。建物の入口のあたりでなんだかざわめいていたような気がするが、その時発表が貼り出されたのかも知れない。玉砂利をふんで大蘇鉄(おおそてつ)のそばを通り、桜並木のしたを通りぬけ校門から往還にとびだした頃には、すこしは気持がはっきりしてきた。全身がふくれあがるような厭な気持はおさまった代りに、今度はさまざまの現実的な苦痛が次第にするどく湧きおこって、身体が板みたいにコチコチに平たくなって行くような気がした。

(どうしよう。一体これは、どうしよう)

 しきりにそんなことを呟(つぶや)きながら、足早に歩いた。三月も半ば過ぎたというのに、熊本の街にはまだ斑(まだ)ら雪が残っていて、それがぼくの靴の裏でじゃりじゃり鳴った。空はすっきり晴れあがっていて、風はなかった。どうしようたって、どうなる訳(わけ)のものではなかった。軒下にたまった斑ら雪を、わざとあらあらしく踏みつけて歩く気持から探ってゆけば、僕はむちゃくちゃに腹を立てているらしかった。まるでだまし討ちにあったようである。しかし腹を立てたとしても、どうなるというものではなかった。

(なんで落っこちたのだろう。独逸(ドイツ)語か。西洋史か。それとも、教練か)

 先だっての野外演習で、銃を逆にかついで配属将校にひどく叱られたことを、ぼくは思い出した。あれだって、銃を逆にかついだら、どんな感じがするだろうと考えたからで、あの配属将校がいうようなふざけた気持など毛頭ありはしなかったのだ。

 ぼくはしだいに怒りが折れまがって、困惑に似たものに変ってくるのを感じながら、城田などは一体どうだったのだろうと考え始めていた。

 

 ぼくは夕焼けの高台をあるいていた。

 いつの間にか雲がでてきたと見えて、椅子の形をした雲や、鶏の形をした雲や、掌の形をした雲が、赤く焼けて南にながれていた。その下に、黝(くろ)い家並がずらずらと遠くまでつらなっていて、熊本城の天守閣が小さく見えた。旅情に似た切ない気持が、しきりにぼくの胸をしめつけた。夕焼けはぼくが歩くにつれて、微妙に色あいを変えるらしかった。

 坂道には、梅のにおいがした。しかし梅の花はどこにも見当らなかった。板塀(いたべい)がずっと連なっているばかりであった。この坂道を降りきれば、行きつけの飲屋があることをぼくは知っていた。あれからさんざんあてどなく歩き廻った揚句、ここの近くにやってきたということが、ふと自責となってぼくの心を痛くした。しかしその痛みも、おそってきては直ぐはかなく散るらしかった。ぼくは自分の周囲に厚い膜を強いて感じ、その内部で自分を無感動にたもちながら、坂を一歩一歩降りて行った。すると眼前の風景もぼくと一緒に沈下して行った。

 坂道が終ると、ふたたび斑ら雪の道がつづいた。ぼくは上衣の内ポケットを、さっきからなんども外側から確めていた。そこには金が入っている。東京の大学をうけるために旅費として故郷から送ってきた金であった。もう一年ここにとどまらねばならぬとすれば、すっかり意味を失ってしまった金であった。ぼくはある抵抗をかんじながら、身体をひるがえして、目指した店ののれんを肩で分け、冷たい土間に辻(すべ)りこむように入って行った。腰かけの代りにある紅がらの剝げた樽に腰をおろして、低い声でお酒を注文した。肩の張った蟹(かに)みたいな感じのする小女が、乱暴にぼくの卓にコップをおいて行った。頰杖をついたまま、ぼくはそれを見ていた。

(いったい落第するなどと、おれは予想していただろうか?)

 そしてさっきから考えつづけていたことを、ぼくはも一度頭にのぼせていた。実をいえば漠たる不安はあったとしても、現実的な形としてぼくをおびやかすものは何もなかったのだ。ぼくはぼくの運を信じていた、という他はなかった。それだけを信じていたこと、そしてそれが一挙にくつがえされたことから、すべての昏迷が始まっているようであった。

 分厚なコップから熱い酒をすこしずつ口のなかに流しこんだ。そして辛い大根おろしをつけて、瘦せた乾鰯(ほしいわし)を嚙んだ。乾鰯の焦げた部分がにがく口にたまると、また熱い酒を流しこんだ。熱い液体は咽喉(のど)をやいて胃に落ちて行った。しばらくするとぼくは卓をたたいてお代りを注文した。うすぐらい土間を小女が横にあるいて、新しいコップの酒をはこんできた。ぼくはうつむいたまま、卓の上のこぼれ酒にさかさに映る電燈のちいさな形を、いっしんに見詰めながら、思い出したように乾鰯を嚙み、そしてふたたび口に酒を流しこんだ。

 軈(やが)て戸外は蒼然と昏(く)れてゆくらしかった。

 そのうちに、酔いが弾(はじ)けるように身体中にひろがってきた。瞼の内側や膝のうらのくぼみが快よい熱感をたもち、そしてそれが次第に皮膚のうえをずれながら流れるようであった。乏しい電燈の光が軟かくうるんできた。酔いが身体の底にしずんでゆくにつれて、ある思念が黄昏(たそがれ)のようなにぶい色で、ぼくの胸にさびしくひろがってきた。

(そうすると、もうこの世界も、おれの意のままにならないんだな!)

 あの瞬間の鈴木教授の顔をぼんやり思いうかべていたのだ。それはいつもの教授の顔とちがった、すこし困惑したような憐れむような表情を浮べていた。その表情がぼくの自尊心をするどく傷つけていたことを、ぼくは今になってはっきり気付いた。今までになぜそれに気付かなかったのか。そしてこんな飲屋でコップ酒をあおっている自分の姿が、ぎりぎりと浮び上ってきた。

(こんな処で飲んでいるとは、鈴木教授だって考えまい)

 今ごろは子供たちにかこまれて、及落会議の模様などを話しているかも知れない。そして落されたぼくがこんなうらぶれた飲屋でやけ酒をあおっているなどとは想像しないだろう。そしてぼくの級友たちも――卒業できて熊本の地をはなれるために、下宿の部屋部屋で荷造りをしていて、ぼくのことなど少しも思い出さぬだろう。

 この考えは、変にこころよくぼくの頭をこすってきたのだ。ぼくはわざと不貞腐れたポーズでコップを唇にもってゆき、眼球に力をいれてぐっとあおりながら、この愚劣な悲壮感を育てようとした。感傷的になることによって酔いを充分廻らせるのが、いわば独り飲むときのぼくの癖であった。そのいつもの感傷に、今宵(こよい)は切実におちて行く予感があった。ぼくは乾鰯を横ぐわえにくわえたまま、ぼんやり顔をあげて店のなかを見わたした。

 すすけた梁木(はり)の間から、うすぐらい裸電球がぶらさがり、土間にならんだ卓のあちこちに、ばらばらと五六人の男たちがこしかけ、皆だまってコップの縁をなめていた。奥の柱によりかかって、小女はうつらうつらと居眠りしているらしかった。一番むこうの卓は薄くらがりにかげっていて、そこで背を曲げてコップを砥(な)めている男の帽子が、どうも白線らしいと思ったら、ふと顔をうごかした瞬間、それは確かに頰のそげた城田の顔であるらしかった。なんだ、あんなところで飲んでやがるのかと、あるなつかしさが、その反対の気持と急激に交錯して、ぼくがはっと身体を堅くした時、その薄暗がりの底で城田の掌が海月(くらげ)のようにふわふわ動いて、ぼくを手招いた。ぼくがいることを先刻から気付いていた風な自然なしぐさであった。ぼくは思わず鰯を口からとり落して、紅がらの樽から腰を浮かした。ある羞恥に似た感情が、みるみるぼくの顔を染めてきた。

 

 席をうつしてむかい合った瞬間、城田はあおくきらきら光る眼でぼくを見据(す)えながら、その癖うっとりしたような口調で言った。

「きれいだったねえ。何ともきれいだったねえ。子飼橋から見たのさ。家や森のずっとずっとむこうで、阿蘇が火をふいていやがるのさ。夕暮の空にちいさな火の粉が、パッと散ってさ、きれいだったねえ、あの景色は」

 そしてふと眼をひるんだように外(そ)らし、乱暴な手付でコップを口にもって行って、ぐっとあおった。ぼくもそれにならってぐっとあおった。城田のそげた頰は蒼くしずんでいて、眼だけがきらきらと獣のようにひかるところを見れば、相当に酔いが廻っているらしかった。視線の方向は卓のコップにおちていたが、それにも拘らず、どこか遠くを眺めているような眼付であった。そしてそのままむき合って、暫(しばら)く黙っていた。何か言い出すといきなり痛いところにふれそうで、ぼくは城田の顔をさぐりながら口をつぐんでコップを傾けた。城田の視線も不安定にあちこち勤いた。それからまた二人とも卓をたたいてお酒を注文した。

 遠くの方で歌をうたう声がしつこく聞えていた。その他にはコップが受け皿にふれる硬い音がときどき聞えるだけで、あとは何の音もしなかった。

 黙ってコップを重ねているうちに、やがて酔いが本式に重々しく身体を充たしてきた。頭脳が熱くぶよぶよになったような気持になって、何だかそこらあたりがはっきりしなくなってきた。そのうちに、何となくぼくらはしきりに饒舌(じょうぜつ)になって、何時のまにかいろんなことを話し合っていたようである。しかしその話し合っていることも一向とりとめがなくて、そして何か逃げ廻っているようで、話題はそれからそれへと切れたりつながったりしてつづいた。舌がどうしてももつれるので、声が自然に甘ったるくなるのが自分でもわかった。

 城田は帽子をあみだにはねあげて、髪をべっとり額にたらしたまま、舌たるい声音で、故郷の老父が町役場の小役人であることをしきりにぼくに説きつけた。うす暗い光をふくんで、城田の顔は濡れたすりガラスのような色であった。ぼくもしきりに相槌をうって、その合間にお酒をあおった。それから今度は、ぼくが故郷の老父の話をはじめたらしかった。気がつくとその話も、てんで出鱈目(でたらめ)のつくりごとであった。こんな嘘っぱちが、何故すらすら自分の口から流れ出るのか、ぼく自身にもはっきり判らなかった。何かがしきりにぼくを駆るらしかった。

「おれの親父さんは、按摩なんだよ。眼玉が牡蠣(かき)みたいに潰(つぶ)れてんだ」そんなことを、ぼくはべらべらとしゃべっていた。

「そりゃ、そうだろう」

 城田が今度は相槌をうちながら、酒をしきりにあおった。そうするとぼくは、ぼくの親爺が本当に盲(めくら)であるようなつもりになってきて、やたらに悲壮な気持がこみあげた。そしてなおのことべらべらとしゃべり続けた。

 そしてそのうちに話題がとぎれて、ふと沈黙がきた。卓の上には空のコップがずらずら並び、こぼれ酒のひとつひとつに、小さい花のように電球の倒影がうかんでいた。酔いが背骨にまでしみこんだようで、じっとしているのも大義な気分になってきた。城田が杉箸(すぎばし)の先で、卓の端にならんだ乾鰯の頭を、ひとつひとつ意味なく弾きおとすのを、ぼんやり眼で追っかけていた。そして自分では確かなつもりで、こちらから口をひらいた。

「――ええと、この二人で」それから何を言おうとしたのか、ふいに忘れてしまった。口ごもったぼくの方へ、城田が顔をとつぜん上げた。そげた頰のあたりが不気味なほど蒼かった。無精髭(ひげ)がそこらにちりちりとちぢれていた。なにか言わなければならないような気持になって、ぼくはあわてて空隙(くうげき)をみたすように意味ない言葉をついだ。

「この二人なんだな。つまりそうなんだ」

「――そうなんだ」

 遠いところから吹いてくる風のようなかなしい声で、城田がそう答えた。城田の顔を、なにもかも観念したという風な虚脱したおだやかさが一瞬ながれた。城田の眼は、次の瞬間、しかし急にぎらぎら光って、ぼくをにらみつけたらしかった。その視線を額にいたく受けとめたとき、ぼくは突然なにもかも判ったような気持がして、思わず少し声を高めた。

「この二人。二人だけか。河田や青木はどうした?」

 ぎょっとしたように城田が身体を硬くした気配であった。しばらくして吹きぬけるような声で、かなしそうに口をひらいた。

「――あいつらは、上った」

「郡山は?」

「――あれも、無事だった」

 城田の返事はだんだん苦しそうな響きを帯びてきた。

「では」と、ぼくは少しせきこんで畳みかけた。「では、那須も? 梅野も?」

 ぼくにそそがれた城田の視線が、急に憎しみをたたえたと思うと、そのままふと横に外れた。コップヘ手を伸ばしながら、肩をがっくりおとし、城田は沈痛な声になって言った。

「――それらには、先刻逢ったよ。子飼橋の上で。二人ともトランクを下げていやがった。今晩の汽車で東京へ発つとよ」

 酔いでぶよぶよになった身体のあちこちから、何かが脱落してゆくような烈しい感じが起って、ぼくは思わず眼をとじていた。瞼のうらに回転する眼花のなかに、ぼくはトランクを下げた二人の級友の姿をうかべていたのである。そして橋のたもとに佇(たたず)んでそれを見送る城田の、瘦せた長身の姿がまざまざとそれに重なった。ぼくはそれらの幻像が、ぼくの幽(かす)かな憎しみでいろどられていることを今はっきり感じていたのだ。そしてその感じを探ってゆけば、ぼくが憎んでいるのはあの二人ではなくて、むしろ城田に対してであるのかも知れなかった。しかしそのような感じを超えて、その時城田が見たという阿蘇の風景が、いきなりぼくによみがえり、胸の中のものを一瞬はげしく摑んできたのである。ぼくの背をかすかな戦慄がはしりぬけた。[やぶちゃん注:「子飼橋」ここ(グーグル・マップ・データ)。「眼花」は「がんか」と読み、小学館「日本国語大辞典」によれば、『目さきがちらちらして物が良く見えないこと。また、目さきにちらちらする火花のようなもの。』とあった。これは芥川龍之介の「齒車」に出る視覚的異常(健常者にも起こる)である「閃輝暗点(せんきあんてん)」或いは「閃輝性暗点」という、必ずしも重い病気とは限らない視覚障害症状である。私の『小穴隆一 「二つの繪」(7) 「□夫人」』及び「芥川龍之介書簡抄143 / 昭和二(一九二七)年三月(全) 六通」の「昭和二(一九二七)年三月二十八日・田端記載/鵠沼行途中投函(推定)・齋藤茂吉宛」で詳細に注してあるので読まれたい。ここはしかし、閉じた瞼の裏側に光のようなものが見える錯覚で、後者の変形的な視覚的現象である。私はもうじき六十五になるが、この熟語を使ったことはない。しかし、そうした錯覚は何度も体験したことは、ある。]

 それは浅黄色の空を背景とした、遥かにちいさな、そして厳しい山のかたちであった。その頂上から六彩の火のいろがほのぼのとふき上っていた。夢の中の風景に似ていたが、ふしぎなことに今のぼくには、それは実際の阿蘇よりもっともっと鮮かな現実感を瞼のうらにひろげていた。ぼくはとめていた呼吸をふとゆるめると、眼をしずかに開いた。コップに残った酒を、音たてて飲みほした。

「おい。今から、阿蘇に行こう」

 ぽくは押えつけたような声でそう言った。そう言ってしまうと、急に駆りたてられるような気持になって、ぼくはあわてて言葉をついだ。

「自動車で行こう。金はある。金はあるんだ。行こうじゃないか。おれだけでも行く」

 酔いのために血走った城田の眼が、だんだん大きく見開かれて、射ぬくようにぼくの顔におちた。

 

 ぼくら二人をのせた自動車は、暗い街をぐんぐん進んで行った。ヘッドライトの光茫が電柱や街路街をつぎつぎ砥(な)めて、だんだん家並がまばらになって行くのが判った。

 大きな橋を走り渡るとき、川の面に月が映り、気がつくと外界は青白い月のひかりでいっぱいであった。自動車は青白い麦畠のなかをずんずん走った。

 遅転手はスキー帽の後頭部をみせたまま、身じろぎもしなかった。ときどき肩と手がすこし動いてハンドルを廻すらしかった。青白い月光はそこにも斜めにおちていた。

 ぼくらは同じようにクッションによりかかり、腕組をしたまま揺られていた。振動につれて酔いがひとしきり発してくるようであった。はっきり身体が揺られているくせに、自分が自動車にのっていることが妙に現実感がなかった。自分だけが宙に浮いて、どこかに飛んでいるような気がした。窓のそとの青白い風景がちらちらと瞼をかすめて、切れ切れの意識の底を、しんしんと氷のようなさびしさが降りてきた。自動車はしだいに速度を増して、ぐんぐん進んで行った。車輪のしたをずんずん背後に流れてゆくのは、白々とつらなる夜の街道であるらしかった。

 ぼくらはお互にそっぽをむいて、窓の外の風景を見るとはなしに眺めながら、言葉すくなく話を交していた。相手の声はほとんど聞きとれないから、勝手にひとりごとを言っているのと同じであった。そして自分が口からはいたことも、次の瞬間には忘れはてていた。時間がしゅんしゅんと水のように流れてゆくのに、ぼくの気持はなぜかしだいにとがってきて、ひどくわずらわしい気分になってきた。

(こんな思いつきを、おれは後侮し始めたのか?)

 自動車は青白い風景を裂いて、ぐんぐん進んで行った。時々運転手の肩と手がかすがに動いて、ハンドルがゆっくり廻った。耳をかすめる城田の語調がだんだんとげとげしい響きを含んできた。何を言っているのかはっきり聞きとれないが、何だか次第に怒りを押えきれなくなってくるらしかった。

(怒ることがあるか。自分で勝手に落第したくせに!)

 ぼくはかたくなにそっぽむいて、窓の外を飛び去る夜の風物を眺めていた。眺めているとぼくの心の底でも、しんしんとした淋しさをやぶって、酔いにまぎれて怒りのようなものがいらいらと燃え上ってゆくのが感じられた。

(阿蘇に行くったって)とぼくも口に出してつぶやいた。

(始めからおれひとりで行けばよかったんだ)

 視界を満たしていた青白いひかりを、突然、バタ、バタ、バタ、と間隔をおいて黒い影がさえぎり始めたと思ったら、街道は巨大な杉並木に走り入ったらしかった。

(ついてきて呉れというから、ついてきてやったら、見ろ、おれまで落第してしまったじゃないか!)

 酔いが身体の振動のため、こじれた形のままふくれてくるようで、感覚がそこらでずれてしまったらしかった。阿蘇に行こう、と呼びかけた時の、城田への親近感が、どすぐろく形を変えて、重い鎖のようにぼくの身体にもたれてくるようであった。さっきの浅黄色の阿蘇の幻想もあとかたなく消えて、なにか真黒な巨大なものへ、この自動車が突き進んでゆくような気がした。逆なでされるような不快な抵抗が、そこにかすかに混っていた。

 疾走する音のなかから、ぼくはその時ふと呂律(ろれつ)の乱れた城田の呟きをとらえた。

「――お前は、ほんとに、ほんとに、不潔なやつだな」

 窓硝子に額をあてて、ぼくは今とらえた言葉の意味を、何とはなくぼんやりと考えた。しばらくするとぼくはなぜか急に胸が熱くなるような気持におそわれた。そしてその熱は次々に全身にひろがってきた。ぼくは唇を嚙んで、ますます額を窓硝子におしつけた。自動車は長いことかかって杉並木をぐんぐん走りぬけた。しばらくしてふと気がつくと、なだらかな丘陵の上を、自勤車はぐんぐん走っていた。あたりをとりまく草原は一面に蒼ざめて、まるで静かな海のようであった。月の光がそこにさんさんと降りそそいでいた。

 その時呂律の乱れた城田のとげとげしい呟きが、急に叫び声になって、靴をがたがた踏みならした。その声はまるで泣いているように聞えた。

「おれはここで降りるんだ。降ろしてくれ」

 自動車はぎぎぎときしんでとまった。

(降りたければ降りたらいいだろ)ぼくはそっぽむいて唇を嚙んだままそうかんがえた。酔いがぼくの気持をたすけていた。その時ぼくははっきりと、城田を純粋ににくむ気持におちていた。飲屋で出合った瞬間から、この気持は始まっていたのではないか。そう考えたとき、がたごとと音がして、城田の体はよろめきながら外に出るらしかった。車体がぎいとかしいだ。扉がばたんとしまると、自動車はまた爆音をたてて動き出した。運転手の後姿はさっきのまま、すこしも動かなかった。やがて速度がつめたく加わってきた。

 背後の窓をふりかえると、大きななだらかな丘陵の頂に立った城田の姿が、見る見る小さくなって行くのが見えた。それは青白い円盤の上にとめられた小さな鋲(びょう)みたいに見えた。小さな鋲は片手をあげてこちらに振っているらしかった。何とも言えない、不安とも悲哀とも憐憫(れんびん)ともつかぬものが、そのときぽくの胸を疾風のように通りすぎた。そして鋲は青白い風景のなかに沈んで行った。

 それから長い時間、自動車はぐんぐんぐんぐん走って行った。土手や林や燈が、飛ぶように背後に飛んで行った。ぼくはクッションの片すみに身体を埋めて、じっとしていた。気持ははげしくたぎっているにも拘らず、意識の一部がしだいに物憂(う)く凝(こ)って行くのが感じられた。自動車のつめたい無神経な速度が次第に皮膚をざらざらとけばだててくる気配があった。

(おれは何の為に、阿蘇くんだりまで出かげねばならぬのか?)

 酔いがすこしずつ醒めてくるのを感じながら、ぼくはそう考えた。そう考えると、あの草丘に残してきた城田の姿が次第になにか切実な形でよみがえってきた。ぼくは背筋をかたくして、気持をある荒涼たるもので支えていた。酔いが顎のさきや脇の下から、しらじらと醒めて行くのがはっきり感じられたが、醒めかかる意識のむこうに、もはやぼんやりと故郷の老母の小さな姿や鈴木教授の姿や級友の姿が浮んで来るようであった。

(何のためにおれはこんな自動車に乗っているのだろう?)

 ぼくは急に我慢できないような気持になって、思わず声を立てて叫んだ。

「ぽくもここで降りるんだ。とめて下さい」

 運転手の肩と手がわずか無表情にうごいて、車体は再びきしみながら速度をおとした。道に凸凹があるらしく、ヘッドライトの光茫が乱れ散った。車輪が土に食いこむように、自動車はがくんととまった。

 窓のそとに点々と燈が見えるのは、ここはたしかに街道筋の小さな部落にちがいなかった。ぼくは車のなかでよろめいた。

 

「うどん」と染めぬいた障子が燈を透して、湯気が小窓からほそく洩れていた。自動車のテイルライトが今来た道ヘ消えてゆくのを見届けて、ぼくは油障子を引きあげた。夜風でひるがえるぼくのマントは、月の光に銀いろに濡れた。

 土間に大きな卓がひとつあって、小さな男がひとりコップをかたむけていた。土間のすみには籠が伏せてあって、ぼくの姿をみてその中の鶏がコココと騒いだ。ねぎの匂いがそこらにただよっていた。竹格子のむこうの調理場から、眼の大きなわかい女の顔がのぞいた。

「焼酎しかないのよ。それとも、うどん?」

 ぼくの顔を見ながら、女の眼じりに笑いの影がはしった。

「学生さんね。どうしたの。顔色がわるいわ」

 女はごわごわした手織の着物を着ていた。腰をかけて帽子をぬぎ、ぼくは女がはこんできたコップから強い芋焼酎をすすった。咽喉(のど)を焼くようにして、それは食道におちて行った。一杯飲むか飲まないうちに、ふたたび酔いが快よくもどってきて、耳の奥をじんじんと血がはしりだすのが判った。さかなの代りに葱(ねぎ)を薬味風に刻んだのをつまんで、また焼酎をふくんだ。何もかもぼくから遠ざかってゆくような、遥かな虚脱がぼくの節々をみたしてきた。ここが何という部落なのか、それもあまり気にならなくなってきた。小窓から十七夜の月輪が見えた。自動車でひとりいた切迫した気持が、ここではゆるゆるとほぐれて行くらしかった。

 前にすわっている小さな男はもうずいぶん飲んだらしく、しやがれた声で女としきりに冗談のやりとりをしていた。詰襟から出た頸筋(くびすじ)のところが赤く染って、鶏の地肌みたいな色であった。女は男の言葉のたびに、明るくほほほと笑った。わらう毎にぼくの方を大きな眼でちらと見た。男の声は冗談いうときでも、へんにかなしそうにしゃがれていた。

 そのうちに、何が何でもいいような気分になって、ぼくもしきりにコップをあおった。男がぼくに話しかけてくるのもそう気にはならなくなった。

「阿蘇に行こうと思ったんです」

 そんなことをぼくは答えた。男は詰襟服から首を伸ばして、今は荒れているから面白いだろう、などと言った。

「うそよ。あぶないわよ」

 女の眼はやさしく笑いをふくんでぼくを見た。おれより年上らしいな、とぼくはぼんやり考えた。詰襟の男は鶏のような声を出して笑った。ぼくもそれと一緒にわらった。すると、名も知らない部落のうどん屋で、こんなに安心してわらっている自分が、奇妙にたのしく思われてきた。

「なぜ阿蘇にのぼるの? おひとりなの?」などと女が訊ねた。

 女の眼は探るようにぼくの顔におちていた。

 ぼくは先刻草丘にのこしてきた城田のことを思いうかベていた。それはぼくの想像のなかで、絵のようにほのぼのとした風景であった。その風景をぼくは素直に思い描いた。それももはやぼくには、遠く遥かなものになっているらしかった。ぼくはこの詰襟の男や眼の大きな女に、ほのかな親近の思いが湧き上るのを感じながら、うつむいて言った。

「学校を落第したからなんだよ」

 ぼくの言葉を聞いて、女は、手の甲で口をおさえて、ほほほ、と笑った。白い清潔な歯並みがこぼれた。その色が何故となくぼくの眼に沁みてきた。詰襟の男は赤黒くしなびた顔に頰杖をついて、廻らぬ呂律(ろれつ)でぼくに、自分が中学校で落第した時のことを、話して聞かせようとしていた。女は男の言葉の合の手のように、うそよ、とか、それは出鱈目よ、などと口をはさんだ。

「……おふくろからさんざん叱られて、家出してやろうかと思って、な、背戸まで出たら麦畠のむこうに半かけの白い昼の月が出ていた」

 ぼくも頰杖をついて、ぼんやり聞くともなくそれを聞いていた。その半かけの昼の月がまざまざと眼に見えるような気がした。

「わしがあるきだすと、な、うちの犬がどうしてもついてきて離れない。仕方がないからたんぼの榛(はしばみ)の木に、犬をしばりつけた。そして走り出した。犬のからだはついてこないが鳴声はどこまでもついてきた。わしは耳をおさえるようにして、どこまでもどこまでも走った。どこまでも走っていったよ。――」[やぶちゃん注:「通常は落葉低木のブナ目カバノキ科ハシバミ属ハシバミ変種ハシバミ Corylus heterophylla var. thunbergii を指すが、実は本邦ではしばしば全くの別種である落葉高木のブナ目カバノキ科ハンノキ Alnus japonica に誤って当てる。ここも犬を縛りつけるとなら、私が映画監督なら、後者を使う。]

「うそよ。大うそ」と女が笑ってさえぎった。「中学校に行ってたもんですか」

 男も赤黒い顔をくしやくしやにして笑いだした。それからまた焼酎をしきりに飲んだ。ふたりのコップが卓に入り乱れてならんだ。話がとりとめもなく乱れて、ぼくも身体が燃えるように熱くなり、そこらもはっきりしなくなってきた。歌をうたおうというので、何だか干切れ干切れに声を出した。

 女がぼくのそばに掛けて、咽喉(のど)を反(そ)らせて軽やかな声で「オテモやん」をうたった。ぼくも杉箸でコップを叩きながらそれに和した。ぼくらの声はすでに乱れて、抑揚もなにもなかった。声をだしてうたっていると、潮騒(しおさい)のように胸の奥で湧き立つものがあって、ぼくはそれから逃れようとしながら、眼をつむって更に調子を高めた。[やぶちゃん注:「おてもやん」熊本民謡の代表格とされる民謡。熊本弁が強く出た陽気な歌詞が特徴。詳しくは当該ウィキを読まれたい。そこでもリンクが張られてあるが、「熊本国府高等学校パソコン同好会」による歌詞の標準語訳を並置した詳細解説があり、それによれば、以下で歌われる一節は『そんな人たちがいらっしゃるので、後はうまくとりなしてくれるでしょう』とある。また、YouTube のこちらで「日本大衆文化倉庫」による歌詞画像とともに視聴も出来る。]

 

  〽あんひとたちのおらすけんで、あとはどうなときゃあなろたい……

 

 突然瞼に熱いものが一ぱいあふれてきて、咽喉がつまった。歌いやめてじっとしていると、女の呼吸が耳のそばにあたたかく触れて、低い声がささやいた。

「今夜はあたしのうちにいらっしゃい」

 詰襟の男はすっかり酔っぱらって、黒白もすでにわからぬらしかった。そのくせ注文したうどんを食べようとして、杉箸をしきりにうどんに突込んだ。うつむいたままの顔にしゃくい上げて、ばらばらこぼしたりした。[やぶちゃん注:「しゃくい上げて」「しゃくりあげる」(噦り上げる)の音変化(方言ではない)。本来は「声や息を何度も激しく吸い上げるようにして泣く」こと指すが、ここは、むせっているのを、かく表現しているのであって、男は泣いているわけではない。]

「鼻の、穴から、食うもんだぞ。うどんの、通人は」そんなことを言いながら、犬のように鼻を丼に押しあてた。そのような風景がぼくの眼の前で、いくつも乱れたり重なったりした。ぼくはさっきの女のささやきを、すがるように記憶にたしかめながら、また焼酎を口に含んだりした。女がそこらを片付けにかかっていたことはぼんやり覚えているが、そこらあたりからはっきりしなくなった。

 ――気がつくと、ぼくは女とならんでこうこうたる月光の道をあるいていた。

 足がどうにももつれるので、ぼくは女の肩に手をかけていたらしい。月の光が背後からさして、銀白の道にはふたりの大きな影法師がもつれながら動いている。夜風のなかで女の香料にまじって、桃の花の匂いが幽(かす)かに流れたりした。道のそばを小川がながれているらしく、水音がぼくらについてきた。

「――あれが、阿蘇よ」

 ちらちらする視界のはるか向うに、うすぐろい煙が立ち上っていた。山の形が月光のなかで、くっきりと浮んで見えた。それを眺めながら、女の肩を抱いたぼくの手の指は、女の耳たぶに触れていた。耳たぶはつめたく柔かかった。かなしみに似たものが、ぼくの胸に磅礴(ほうはく)とひろがった。[やぶちゃん注:「旁礴」「旁魄」などとも書く。原義は「混じり合って一つになること・混合すること」であるが、ここは「広く満ちること・広がり塞がること・広々としていること」で畳語表現である。]

 

 洋燈(ランプ)をつけると、部屋のなかがぼんやり浮び上ってきた。女は先に上りながら、ぼくにささやくように言った。

「これ一部屋なのよ。変な造りでしょう」

 長細い四畳の部屋に、せまい土間がついていた。部屋はこれだけであった。板で仕切られていて、天窓がひとつあるだけであった。洋燈の光が揺れて、壁板にかけた着物の影がちらちらと動いた。押入れもないらしく、夜具は部屋のすみに重ねてあった。荒れはてた情感がそこにただよっていた。洋燈のひかりの中で、女の顔は俄に歳とったように見えた。女の姿は部屋をあちこちうごいた。ぼくも戸をしめて、畳にすわった。

「お茶もなくて、ごめんなさいね」と女がぼくを見おろして言った。「こんな部屋を借りてるもんだから。電燈線もひいてないのよ」

 ぼくはぼんやりあたりを見廻していた。これは農家の中庭らしいところを通りぬけたから、庭のすみに建てられた離れみたいな一棟であるらしかった。

「――あの店は、住込みじゃないのかい」

 としばらくしでぼくが訊ねた。しかしそれは、別段ぼくの聞きたいことではなかった。なにもかも、どうでもよかった。訊ねたいことは何もなかった。十年も前から自分がここにすわっているような錯覚におちながら、ぼくは全身から力をぬいて、うすぐらい洋燈の光のなかを動く女の姿を眺めていた。洋燈の光を真下から受けるとき、女の顔はデスマスクのように見えた。風がどこからともなく入るらしく、洋燈の光がときどき揺れて、冷気が縞(しま)になって顔の皮膚をかすめた。部屋の一方の板仕切のところで、なにか堅いものが向うから触れる音がした。

 女が洋燈をふっと吹き消すと、天窓からさあっと月のひかりが降ってきた。夜具はつめたく、そしてかたかった。女の髪のにおいが強くした。女の腕は軟かかった。そして、くねくねとうごいた。女の声が耳もとをくすぐった。

「なぜ、ふるえているの?」

 しばらくして暗闇の底で、女はかすかに、ほほほ、と笑った。

 女のからだは燃えるように熱かった。そしてそれから暫(しばら)く時間が泡立ってながれた。

 ――やがてぼくは布団をふかぶかと顎(あご)までかけて、足を重ねてあおむけに寝ていた。女の寝息がそばで規則正しく聞えていた。背丈が四五寸も伸びたような変な感覚が、ぼくの体にのこっていた。天窓から入る夜のひかりで、板壁にかけた着物のかげが浮き上った。それはさっきまで女がつけていた堅い手織りの着物のかたちであった。そのときぼくの横の板仕切で、ふたたび何かがかすかに触れる音がした。それと同時に、重量のあるものがゆっくり動く気配がして、すぐに止んだ。

(この板のむこうに、何かがいる!)

 ぼくは身体を堅くして、そう考えた。女の寝息はおだやかに、規則正しく起伏していた。ぼくはじっと耳を澄ました。物音はそれきりで起らなかった。そして夜風が少しつのってきたらしく、この棟の外の喬木(きょうぼく)の梢にあたる風が、泣いているような、幽かに鋭い音になってここに落ちてきた。また硬質の陶器をこするような乾いた音をたてて、風がこの棟の屋根をかすめて通り過ぎるらしかった。天窓のあたりで月光がようやく衰えて行くようで、落ちてくる光線が女の半顔にうすれ始めていた。女はふかぶかと瞼を閉じて、まつ毛が長く伏せていた。呼吸と共にそれは微かにゆらいだ。額や頰のいろは冷たく冴えていて、先刻の女とは別人のように見えた。

 にわかに鋭いかなしみがぼくをよぎった。熊本から二三十里もはなれた、名も知れぬ部落の片すみで、こんな女と寝ているということが、突然ぼくの胸に落ちてきて、荒涼とした寂寥(せきりょう)感が、酔いをやぶってぼくの腹の底から、ゆるゆる四肢の先にひろがって行くのが判った。

 ――それからぼくは昏迷したように眠りに落ちたらしかった。重苦しい夢のかずかずが断続してゆくうちに、ほのぼのと夜明けが近づいてゆくらしかった。

 ……深い水の底から急に浮びあがるようにして眼を覚ました。一尺ほどぼくから隔たった板仕切に硬質のものがぶつかる音であった。その音でぼくは目醒めたらしい。天窓がほのぼのと明るくなって、淡青い空が四角に切りとられていた。直ぐに眼に入ったのは、それであった。朝になったのか?

(そうだ。昨夜はこんなところに寝たんだ)

 頭を起そうとしたとき、板仕切のむこうで何か踏むような重い音がして、物のすれる摩擦音がそれに短くつづいた。

 昧爽(まいそう)の明るさが、部屋のなかまで忍び入っていた。昨夜脱ぎすてたマントや服が、枕もとに黒くかたまっていた。女を醒まさないようにそっと夜具を脱け出ると、音のしないように、ぼくはてばやくそれを身に着けた。頭から酔いは脱けていたが、体のふしぶしには重く沈んで残っているようであった。[やぶちゃん注:「昧爽」「昧」は「ほの暗い」の、「爽」は「明らか」の意で、「夜の明け方・夜が明けかかっている時」を言う。]

(――やはり女が目醒めないうちに、そっと帰ってしまおう)

 ぼくは女の寝姿をながめながら、も一度そう考えた。白いうすい光のなかで、女の寝顔の輪郭はほのかに浮び、無心の童女のような表情であった。ぼくの心をとらえていたものは、あるむなしさを含んだ哀憐の思いであった。すこしずれた襟もとから、乳房の片方がのぞいていた。その乳首はちいさく薄赤かった。――

 視線を断ち切るように、ぼくは靴の紐(ひも)をむすび、引戸をそっと開いた。空気があたらしく冷たかった。そとに出て戸を閉じた。

 昨夜の記憶はほとんど死んでいて、街道へ戻る道も定かでなかった。ぼくは四辺をぼんやり眺め、柔かい土をふんで、この棟に沿って横に廻った。それは妙に荒い木組をした建て方の家であった。軒下に梯子(はしご)が横にかかっていて、細長い形の棟であった。そこに小さな梅の木があって、点点と花をつけていた。

 軒下の雨滴石(あまだれいし)を踏みながらあるいたとき、ぼくは突然おどろいて立ち止った。

「馬が!」

 その棟の、女の部屋の反対側から、馬が首を出していたのである。横木から頸(くび)だけ伸ばして、馬は不審気にぼくを眺めていた。

(だからあの部屋は、妙な感じだったのだな)

 廐(うまや)を半分に仕切って、それが女の部屋であるにちがいなかった。あとの半分は廐のままになっていて、昨夜から板仕切に触れたり身じろぎしたりしたものは、たしかにこの馬のからだであった。廐の入口のむこうはちいさな枝折扉(しおりど)になっていて、半開きのまま朝露にぬれていた。そこから細い道がかたむいてつづくらしく、右手の方にゆけば街道に出そうに思われた。

(昨夜は、この道を入ってきたのか?)

 しかしぼくは廐の入口に立ちどまって、馬の姿に視線をとめていた。横木の内側はうすぐらく、そこにふくらんだ馬の胴体がくろぐろとあった。その胴体は、毛が地図のようにところどころすり切れていた。短い脚がその胴体を支え、四つの蹄(ひづめ)が床のわらを踏んでいた。

 そこらあたりに、ほのかに獣の臭いがただよっていた。馬はぼくを見ながら、しきりに頸を上げ下げした。たてがみは房になってところどころにかたまり、生毛のぼやぼやにおおわれた短い耳が、尖って立ったままヒクヒクとうごいた。耳と耳との間から、長い茶色の毛房が馬の額に垂れていた。その毛房の尽きるところに、大きな丸い馬の眼があった。馬は頸をふるのをやめて、後脚を窮屈そうに動かした。そのはずみに蹄が背後の板仕切にふれるらしく、硬い音がかすかに響いた。あの板仕切のむこうの長細い四畳間に、女がふかぶかと瞼をとじて寝ている筈であった。

 ぼくは顔をさらに馬の方に近づけた。馬の丸い眼のなかに、暁方の風景がはっきりと映っていた。梅の木や枝哲扉や、そんなものがちいさく映っていた。そのむこうに屋根や樹々や畠の一部が、ごちゃごちゃと圧縮され、そのまた彼方に青ぐろい山の鮮かな遠景があった。その山の形の頂きから灰色の噴煙がひとすじ立ちのぼっていた。それらの風景はすべて、老馬の温良な瞳のなかに、ちいさく凝縮されて収まっていた。そしてその風景の一部を、白線帽をかぶったぼくの顔がしめていた。その顔の影像は泣きだしたいような表情を浮べて、じっとぼくの方を見詰めているらしかった。視線をそこに定めて、ぼくも暫く小さく歪んだ影像に見入っていた。……

 

[やぶちゃん注:この背景にある熊本五高の落第や卒業判定会議で揉めたというのは梅崎春生自身の実体験を改変して作られてある(実際は二年次の原級留置であり、教授会で揉めたのは卒業時のそれ)。中井正義著『梅崎春生――「桜島」から「幻化」へ――』(昭和六一(一九八六)年沖積舎刊)の年譜の昭和九(一九三四)年のパートに『怠け癖から、三年生になる際に平均点不足で落第し』たとあり、二年後の昭和十一年三月の条に、『五高を卒業』したが、実は『試験の成績が悪く、卒業を認めるか認めないかで、教授会が三十分以上も揉めたと後で知った』とあるのが事実である。いや、何より、彼自身による少年期から召集されるまでを綴った特異点のエッセイ「憂鬱な青春」を読まれるのがよろしいと存ずる(なお、彼は小説以外では戦中の海軍での実体験を子細に記すことは遂になかった)。

 それにしても、我々は本篇で、既にして――落第のトラウマ――不思議な女と邂逅――阿蘇――という重大なシークエンスが、遺作となってしまう(そのつもりは春生自身には殆んど全くなかったのだが)「幻化」(リンク先は私の全注釈PDF一括縦書版)で――確信犯として――総て生かされていることに気づくのである。

 個人的に滅多に読まれることがない本作だが、梅崎春生の作品の中でも、映像的に優れて(特にコーダ部分)魅力的な佳品と思っている。

2022/02/10

狗張子卷之三  深川左近亡靈

 

[やぶちゃん注:今回の挿絵は状態が最もよい現代思潮社版のそれをトリミング補正した。]

 

Hukagawasakonbourei

 

   ○深川左近亡靈

 左京大夫大内義隆の家臣黑川市左衞門尉俊昌(としまさ)は、大力武勇(《たい》りきぶよう)の侍なり。

 山口の城外にあり、つらつら思ふに、

「世の人、死しては二たび聞通(ききかよ)はすべきたより、なし。さきにむなしく成《なり》たるもの、歸り來りて、生れ所をも、語り、吉(よし)あしをも、しらせなば、せめて恨みも有《ある》まじき。」

と、悔(くや)み居(ゐ)けるを、その傍輩(はうばい)に深川左近といふものあり。

「我も、内々(ないない)は此《この》うたがひ、あり。來世の事は、ありやなしや、いずれ、さきだちたらんもの、かならず、來りて、告げしらせ侍(は)べらん。」

と契約して、年月(としつき)をふるあひだに、左近、病ひして、さきに死したり。

 數日(すじつ)を過《すぐ》る所に、黑川、ただひとり、坐して書院にあり。

 日、すでに暮れはてゝ、月、又、くらかりしかば、ともし火とらせ、うそぶきてありし所に、庭の面(おもて)に、音(おと)なふもの、あり。

「黑川殿、おはするや。家の内、何事か、ある。」

といふをきけば、まさしく深川が聲なり。

「あな、めずらしや、深川どの、こなたへ。」

といふに、

「ともし火を消し給へ。ちかくまゐりて、物がたりせん。」

とあり。

 黑川、ともし火を吹きけしたれば、深川、内に入《いり》て、過《すぎ》にし事どもを、かたる。

 その物ごし・詞(ことば)つき、深川が世に有し時に少しも替(かは)らず。

 來世の事を問ひければ、

「いかにも。後世《ごぜ》は、ある事ぞや。罪ふかければ、地ごくにおとされ、次に深きは、餓鬼道にいたり、罪障のふかき・あさきに、差別(しやべつ)ありて、もしは、畜生にゆき、生《うま》るゝもあり。いづれ、すこしなれども、『罪科(つみとが)のむくい、なし。』と、思ひ給ふな。我よりさきに身まかりし者、修羅のちまたにうかるゝもあり、二たび、人間(にんげん)に歸るも、あり。善惡のことわり、露(つゆ)斗《ばかり》も違(たが)ふこと、なし。」

と、かたるあひだに、たちまちに、けがれて、きたなき匂(にほ)ひの、座中(ざちう)に薰(くん)じければ、黑川、あやしみて、くらまぎれに、うちはらへば、深川が身《み》に、手のあたりければ、ことの外に、つめたくおぼえたり。

『亡靈ならば、かかる形(かたち)は、あるまじかりけり。妖物(ばけもの)のわざ成べし。』

と、おもひ、心を靜(しず)めて、猶、ちかく居(ゐ)よりて、手をもつて、おしうごかすに、大かた、おもし。

 すでにして、深川は、

「今は。いとま申《まうし》て歸らん。」

と、いふ。

「平(ひら)に、留(とど)まり給へ。」

といふに、頻りに、

「歸らん。」

と、いふ。

 漸(やう)やく明(あけ)ぼのに及ぶ。

 火をともして、よくみれば、深川にはあらで、その長(たけ)七尺ばかりなる、大《だい》の夫(をとこ)の尸(かばね)なり。

 死して、久しく日數(ひかず)を經たり。

 そのうへ、暑天(しよてん)にあたれりとみえて、股(もゝ)のあたりは、爛(たゞ)れたり。

 臭き事、いふばかり、なし。

 その尸をば、遠き野ばらに、すてたり。

 あたりの在鄕より、人、おほく出《いで》て、此《この》尸を見つけて、

「あな、淺ましや、わが兄(あに)なり。家《いへ》の内にて宵のほどに死したるを、忽ちに失(うし)なひけり。」

とて、尸をとりて、歸り、さうれいを營みけり。

 

[やぶちゃん注:「深川左近」不詳。

「大内義隆」(永正四(一五〇七)年~天文二〇(一五五一)年)は既出既注

「黑川市左衞門尉俊昌」不詳。

「山口の城外」義隆の時代には本格的な居城はなかったので、現在の山口県山口市大殿大路(おおどのおおじ)に建てられてあった城館大内氏館(おおうちしやかた)の外縁の意ととっておく。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「うそぶきてありし」詩歌を朗詠したりしていた。

「家の内、何事か、ある。」「家内(かない)に何かお訪ねしてはまずいことでも御座るか?」という通り一遍の普通の挨拶である。

「畜生にゆき、生《うま》るゝもあり。」「畜生道に堕ちて、そこで畜生として、この世に生まれ変わる場合もある。」。畜生道は六道の中では特異で、他の地獄・餓鬼・修羅・天上がそれぞれ別な時空間存在(餓鬼道は人間には見えないが、人間道とはパラレルな位相にあるとして現世の人間の傍らに描かれた「餓鬼草紙絵巻」などあるが、やはり、見えない点においては位相の異なる時空間というべきである)であるのに対して、人間界に人間以外の虫を含む動物として転生するという理解がかなりある。無論、広義の動物にさせられて送られる畜生道を別世界として存在すると措定する言説もあるにはあるが、仮にそうした、独立した時空間で、使役され、弱肉強食の憂き目に遇うだけでは、寧ろ、人間界の動物としての、何でもありの苦界よりも、どんなにかマシであろうと私は考えるものである。寧ろ、それが三悪道の第三番目にあることの意義は、人間であった時の記憶を保持しながら、人間道に人間と一緒に牛馬として使役され、虫類として一瞬で天敵に食われ、或いは、短期間で命を失っては、また、畜生に生まれ続けることを繰り返す場合にのみ、地獄より地獄的であると言えるであろうが、仏教ではそうした人間界の記憶保存を六道の輪廻の中に教えとしては決して組み込んではいないと断言出来る。六道輪廻は総体としての煩悩の思念的結果であって、人間としての記憶の不断性ではない。いや、それどころか、そうした記憶の煩悩としての永続性こそ、真の永遠に地獄であると私は思うのである。

「いづれ、すこしなれども、」「いかなる場合も、ごくわずかであっても、決して、」。

「うかるゝ」心もおちつかず、あちこちと彷徨う。人間道のすぐ下に位置する修羅道は、常時、戦い続けねばならぬ世界であるから、一時として落ち着く瞬間はない。

もあり、二たび、人間(にんげん)に歸るも、あり。善惡のことわり、露(つゆ)斗《ばかり》も違(たが)ふこと、なし。」

「くらまぎれに、うちはらへば、」強烈な臭いであったため、思わず、暗がりの中でその悪臭を煽ろうと、手で大振りに打ち払ったところ。

「平(ひら)に」副詞。「ぜひとも」「何卒」の意。

「七尺」二メートル十二センチ。やけに背が高いのは、読者を脅すための(化物や変化と思わせるために)了意の作為的悪戯であろう。しかし、この最後のシークエンスには破綻がある。遺体を観察した「死して、久しく日數(ひかず)を經たり」であり、「そのうへ、暑天(しよてん)に」長時間、曝されたもの「とみえて、股(もゝ)のあたりは、爛(たゞ)れ」(腐敗が進んで)、「臭き事、いふばかり、なし」であったという。しかし、エンディングでは、親族が確認し、その腐乱の始まっている遺体を「わが兄(あに)なり」と明言し、「家の内にて宵のほどに死したるを、忽ちに失(うし)なひけり」(昨日の夕ぐれ方に亡くなったのだが、あっという間に遺体が消失した)と言っているのである。ネットで「宵」を数日前の「宵」という意味でとる現代語訳をみかけたが、それはここの齟齬を合わせるために辻褄合わせをした意訳であり、私はおかしいと思う。だったら、せめても「先(せん)の日の宵のほど」ぐらいには表現するはずである。こういう矛盾はあり得ない怪異の核心の辺縁をリアリズムで支えてこそ一級の怪異譚になると考える私などに言わせると、痛い瑕疵だと思われるのだが、実は本話の原拠は、例の江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(二)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)によれば、「太平廣記」の「鬼三十」の「郭翥」(かくしょ)であるとあるので、試みに原文を「中國哲學書電子化計劃」の影印で見てみると、やってきた親族の台詞は、果して、「果吾兄也。亡數日矣。昨夜忽失所在。」で、数日前に死んだことになっているのであった。でも、だからこそ、「了意には、やっぱり一言添えて貰いたかったな。」と思うのである。

「野ばら」「野原」。挿絵で判る通り、埋葬もせず、野中へ、ぽいと捨てた立派な死体遺棄である。

 さて。最後に。私は、ここに来たのは、変化のものや、狐狸なんぞではなく、確かに先に黒川俊昌との約束(死んだ方が必ず告げ知らしに戻る相互契約)を守るためにやってきた深川左近の霊であったと思う。但し、左近に報告し、会話することは、少なくとも左近の霊には出来なかったのである。真の理由は判らないが、トンデモ似非科学的な謂い方を敢えてすると、要は、霊だけの状態では彼には会話が出来なかったということであろう。じかに黒川に因果応報の事実を語り伝えるためには、死にかけた人間、或いは死んだ直後の人間の肉体が必要だった。そこで、黒川の屋敷に最も近いところにある――〈新鮮な死体〉を探して借りた――ということであろう。霊となった左近が、その遺体に乗り移って移動出来るのは夜だけで、相応の距離があった。昼間は放置しておくしかない。そのため、日に当たり、腐敗が進んだといえば、そっちの理屈も通るだろう。腐敗が進んだから、歩行させるのにどうしても強引に動かさざるを得ない股関節(「股」)部分が、早く傷んだのだとも言えよう。私は酔狂で言っているのではない。大真面目だ。大真面目な側面なしに、本当の真正にして正統な怪談を語ることは決して出来ないのである。

2022/02/09

毛利梅園「梅園介譜」 龜鼈類  瑇瑁(タイマイ) / タイマイ(附・付着せるサラフジツボ?)《二日に亙ってやっと完成!》

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。]

 

Taimai

 

瑇 瑁

  タイマイ

 

此の者、未だ親しく見(まみえ)せず。只、竒品にして、得難き故、或る人の藏せる画を乞ひ求め、亀類の條に載すのみ。

 

天保七丙申(ひのえさる)孟春五日、寫す。

 

[やぶちゃん注:実は次の見開きの右に、解説がある。]

 

Taimaikaisetu

 

瑇 瑁

 

「華夷鳥獸考」に曰はく、『瑇瑁は亀の類なり。廣南に出づ。身、亀に似て、首・觜(はし)、鸚鵡(あうむ)のごとし。腹・脊、甲、皆、紅点の斑紋、有り。大なる者、盤のごとし。』と。

 

右に圖する瑇瑁は、「越後にて、とれし者なり。」とて、或る人、公事(くじ)に、かの地に行きて、漁父(ぎよふ)より求めしを、或る人、乞ひて、求めしが、程なく腐爛(ふらん)して、席上に置くべき樣(やう)もあらざれば、庭の木にかけてをきしが、雨なぞにあいて[やぶちゃん注:ママ。]、いよいよたゞれたり。予、不図(ふと)、かの家に行きしが、しかじかの事を語り、此の亀を見せらる。此れ、予、「瑇瑁なるべし。惜しいかな、腐爛せり。願はくは、たまわれ[やぶちゃん注:ママ。]。」とて、寫し、圖せしものなり。其の大(おほき)さ、圖のごとし。所々に、「めうが貝」、つけり。又、ある儒生、上總の国、九十九里に遊びて、大亀の、網にかゝれるを見、其の形を、はなせしに、圖せし。「瑇瑁ならんか。」と充(あ)つるを、考書、添えたり。「其の大きさ、九尺余りあり」と。「磯辺(いそべ)に引き上げしが、水を放れては、歩-行(ありく)こと、あたはづ[やぶちゃん注:ママ。]。」と。「漁父は亀を獵(りやう)することを好まざれば、直ちに、波うち際(ぎは)に引き行きしが、半身、水に入ると、その疾(とき)こと、鳥のごとく、波、かきたてゝ、いづくともなく、うせたり。」と語りき。  屋代が「画帖」に出づ。

 

『瑇瑁は唐(もろこし)より來たる。本邦に無し。長門に「簑亀(みのがめ)」、一名「鳥亀(とりがめ)」と呼ぶ者あり。形、亀に似て、首、鴿(はと)のごとく、觜(くちばし)も鳥に似たり。甲、重疂(ちやうでふ)して簑のごとし。色、黄にして斑文(はんもん)あり。亦、瑇瑁の類なり』。 「怡顔齋介品」に出づ。

予、考ふるに、此の瑇瑁の圖、をそらくは[やぶちゃん注:ママ。]、此(ここ)に謂ふ「みの亀」ならんか。

 

「和名抄」に曰はく、『曹憲が曰はく、「瑇瑁は、亀のごとく、大海より出づ。大(おほいな)る者、籧篨(キヨチヨウ)[やぶちゃん注:ルビはママ。正しくは「キヨヂヨ」と思う。竹で編んだ目の粗い筵(むしろ)・茣蓙のこと。]のごとし。背の上に、鱗々(りんりん)、有り。大(おほいな)る者、扇のごとし。大(おほいな)る章(しるし)有り。將に噐(うつは)と作(な)さんとす。」と。則ち、其の鱗を煮れば、柔き皮のごとくにして、意(こころ)を任(まか)して、之れを用ふる。』

 

[やぶちゃん注:遠見で図だけを見ても、

カメ目潜頸亜目ウミガメ上科ウミガメ科タイマイEretmochelys imbricata

と判る。梅園が模写した某氏の原図自体が、かなり博物画として優れていたことが見てとれる。但し、後の梅園の謂いでは、現物を見て写生したとあり、齟齬がある)。

 古くより「鼈甲亀」(べっこうがめ)の名でも知られる。甲長は六十センチメートル内外で、ウミガメ類(カメ目ウミガメ上科Chelonioidea の海産のカメ類の総称。現生種はウミガメ科Cheloniidae・オサガメ科 Dermochelyidaeの二科六属七種が認識されている)では、やや小型である。甲は、中央板五枚、中央側板四対、縁板二十五枚が、瓦状に重なり合う形で構成されており(腹甲は二十二枚で全体では計五十九枚となる)、黄褐色に濃黒色の雲状紋を有し、背甲は所謂、「鼈甲」として細工物に使われる。熱帯から亜熱帯に産し、日本中部以南の太平洋岸にも姿を見せる。夏季、砂地の海岸に上陸し、穴を掘って九十~百五十個の卵を産む。私のものでは、寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類」の「瑇瑁(たいまい)」を読まれたいが、特にそこで私は以下のように述べた。

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私は満を持して語りたいことがある。それは理不尽な「ワシントン条約」による鼈甲細工の危機に対する怒りである。キューバではタイマイの科学的な飼育管理に成功しており、追従を許さない鼈甲技術を持つ日本の購買可能性を強く求めている。更に、そのような養殖成功を受けて、有意な数のウミガメの専門科学者による捕獲使用の好意的見解が示されてもいる。しかし、それを無視してアメリカは