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2022/02/09

狗張子卷之三 隅田宮内卿家の怪異

 

[やぶちゃん注:挿絵は今回は底本(昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編「同全集第一期「江戶文藝之部」第十巻の「怪談名作集」)のものをトリミング補正して、適切と思われる位置に示した。]

 

   ○隅田宮内卿(すだくないきやう)家の怪異

 人の家のほろびんとしては、かならず、あやしき事のあり、といふ。されども、心をつけざるには、しられぬ事も、有ものなり、後に、思ひあはするも、あり。

 村上義淸の家臣隅田宮内卿は、聞ゆるものゝふなり。天文十五年二月に、武田信玄、人數《にんず》をもよほし、信濃國小縣(ちひさがた)戶石(といし)の城におしよせて、軍(いくさ)のありしにも、信玄ひさう[やぶちゃん注:「祕藏」。]の侍大將甘利(あまり)備前守をうちとり、手がらをあらはしける大功のものなり。

 しかれども、運の末に成りけるゆゑにや、よろづ、心にかなはず、

「かゝる世の中に、いつまでありても、只、おなじ有さまにて、立身をすべき道も、なし。」

と、おもひ、くづをれて、

「病ひあり。」

とて、暫く引こもりて居(ゐ)たりけるに、家のうちに、けしかる妖物(ばけもの)ありて、その姿は、みえず、朝夕(てうせき)の飮食物(のみくふもの)は、人なみに乞ひとりて、くらひけり。

 内にめしつかはるゝ者ども、若(も)し、宮内卿うはさの事をかたれば、空(そら)より、いましめて、

「汝ら、主君の事そしり侍べらば、宮内につげて、世の、をきめにせさすべし。」[やぶちゃん注:「をきめ」はママ。「置(お)き目」「置目」で、「仕置き」「処刑」の意。]

といふ。

 これによりて、よしあし、更に沙汰する事を、とゞめたり。

 夫婦、物がたりして、このばけ物の事をかたれば、

「いかに。我が上《うへ》の事をいふぞや。あしくいはゞ、家のため、禍ひになるべし。」[やぶちゃん注:「夫婦」言わずもがな、主人隅田夫妻。]

と、其聲、をかしく、打《うち》なまりて聞ゆ。

 朝夕とりあつかふ道具・衣類、『今まで、あり。』とみるも、たちまちに、なくなり、家うち、尋ねても、行《ゆき》がた、なし。

 とばかりすれば、目の前に、あり。

 

Sudakunai

 

 家うち上下(かみしも)、これに倦(うん)じて、山ぶしをやとひて、祈禱をせさするに、符(ふ)を張(はれ)ば、かたはしより、まくりすりて、盛物(もりもの)をとゝのへて壇(だん)をかざれば、引《ひき》くづしけるほどに、山ぶし、腹をたて、いらたかを、おしもみ、神咒(じんじゆ)をとなへ、印(いん)をむすべば、その手の指、とぢつきて、はなれず。

「此うへは。」

とて、山ぶしは、出《いで》ていにけり。

 神子(みこ)をたのみて、梓(あづさ)にかくれども、いか成《なり》ものども、名のらず、弓の弦(つる)を打ちきり、打ちきり、空のあひだに、わらひけるこゑ、聞こえて、そのしるし、なし。

「さらば。」

とて、巫(かんなぎ)を賴みて、いのらするに、何とはしらず、巫のうしろ、つめたくおぼえて、取り出だせば、大なる木枕を、さし入《いれ》たるなり。祝言(のつと)をとなへて、御幣(ごへい)をふりたて、いのりければ、妖物、屋(や)の梁(むね)にのぼりて、いひけるやう、

「汝ら、我をうるさがりて、あらぬ者をよびよせ、きたうの有さま、をこがましや。その儀ならば、只今、此家を、くずさん。」

とて、梁(むなぎ)の上、鋸(のこぎり)にて、挽き切るやうに聞えて、夜に入《いり》て、ますます、はげしかりければ、火をともして、梁木(むなぎ)のあたりをみすれば、火を吹(ふき)けし、いよいよ、つよく、挽(ひき)きる聲、あり。

 家うち、ことごとく外に出だしつゝ、更に火をともしてみれば、梁(むなぎ)は、もとのごとくにして、その跡も、なし。

 妖物、手をうちて、わらひけり。

 貴(たつとき)僧を請じて、經、よみつゝ、家に五辛(《ご》しん)をとゞめられしかば、妖物は靜まりしかども、これや、家のさとしなりけん、宮内卿は、心そゞろに、はやり出《いで》て、笛吹峠の軍(いくさ)に討死して、跡、たえにけり。

[やぶちゃん注:本話については、ウィキの「飯食い幽霊」で本篇を解説してあるが、内容は短く、参考になるものはない。

「隅田宮内卿」不詳。

「村上義淸」(文亀元(一五〇一)年~元亀四(一五七三)年)戦国武将。信濃国埴科(はにしな)郡葛尾(かつらお)城主。天文九(一五四〇)年に武田信虎を撃退し、後には上田原で晴信(信玄)の軍を破り、諏訪に出兵して武田氏の侵入を防いだが、天文二二(一五五三)年四月、信玄が再度、侵攻し、葛尾城を攻略され、その後は越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼った。謙信は、しばしば信玄と戦ったが、ついに義清の本領復帰はならなかった。義清は謙信の配下となり,越後で没した。

「天文十五年二月に、武田信玄、人數をもよほし、信濃國小縣戶(ちひさがた)石の城におしよせて軍のありし」かく記す文書もあるが、実際の侵攻は天文一九(一五五〇)年九月らしいウィキの「村上義清」によれば、「砥石崩れ」と呼び、『村上義清が高梨政頼と戦っていて本領を留守にした隙に、晴信』(信玄)『が小県の要衝砥石城に侵攻してくる。義清は高梨氏と和睦を結んで急遽反転し、晴信は義清の後詰に戦況不利を判断して退却を開始するが、義清は武田氏勢を追撃し、大勝をおさめた(砥石崩れ)。この戦いで武田方は足軽大将の横田高松や郡内衆の渡辺雲州を始め』一千『名の死傷者を出したという。村上方の死者は』百九十三『名ほどであったといわれる』とある。

「甘利備前守」甲斐武田氏の家臣で譜代家老で、後代には「武田二十四将」の、信虎時代の「武田四天王」の一人とされる甘利虎泰(明応七(一四九八)年?~天文一七(一五四八)年)。当該ウィキによれば、「高白斎記」・「王代記」・「甲陽軍鑑」によれば(ここでは侵攻を天文一七(一五四八)年二月十四日とする)、信玄が信濃小県郡に侵攻し、『村上義清との間で上田原の戦いが行われ、板垣信方を討ち取って意気上がる村上勢から晴信を守り、才間河内・初鹿野伝右衛門らと共に戦死したという』とある。

「符」呪(咒)符。

「いらたか」既注の「刺高数珠」(いらたかじゅず)。「苛高」「伊良太加」「最多角」などとも書き、「いらだか」とも。これは「角立(かどだ)っていること」を意味する語で、修験者が使う珠の堅くごつごつした大振りの数珠を指す。珠が角張っていて算盤玉のような感じである。悪霊退散のレギュラー・アイテム。

「神子(みこ)」ここは「梓巫女(あづさみこ)」を指す。関東地方から東北地方にかけて分布する巫女の名称。梓弓は古代より霊を招くために使われた巫具で、これを用いて「カミオロシ」・「ホトケオロシ」をすることから、梓巫女の名がおこった。本文の「梓(あづさ)にか」けるというのはこれを指す。能の「葵上」には、照日と呼ばれる巫女が、梓弓の弦を弾いて口寄せする謡(うたい)がある。津軽地方のイタコは、先の「いらたか念珠」を繰ったり、弓の弦を棒で叩いて、トランス状態になる。また、陸前地方の巫女であるオカミンたちは「インキン」と称する鉦(かね)を鳴らしながら同じく入神状態になる(以上は平凡社「世界大百科事典」を参考にした)。

「巫(かんなぎ)」「覡」とも書く。広義には、神祭りに仕え、或いは託宣を受け、又、神と人との仲介をする者を指し、広義にも、また、前に記した狭義の「神子」=「梓巫女」も「かんなぎ」である。「かんなぎ」の語義は、「神和(かむなぎ)の義也。神慮をなごむる意也」(「和訓栞」)という。また、女のそれを「巫(ふ)」と称し、男を「覡(げき)」と分けて称した(「伊呂波字類抄」)。ここはその男性のそれである(以上は小学館「日本大百科全書」を参考にした)。

「五辛(しん)」「五葷」(ごくん)に同じ。仏語で、五種の辛味や臭みのある野菜、大蒜(にんにく)・葱(ねぎ)・韮(にら)・浅葱(あさつき)・辣韮(らっきょう)などの五種を指す。仏教では、色欲や怒りの心などが刺激され、助長されるとして、僧尼がこれらを食べることを禁じたが、ここは、そうした刺激物を家屋内に置いて、逆に邪な物の怪を遠ざける効果を狙ったもの。ドラキュラ除けのニンニクみたようなものである。

「笛吹峠の軍(いくさ)」「碓氷峠の戦い」の別名。個人サイト「碓氷峠の戦い―箕輪城と上州戦国史」の「碓氷峠の戦い」に詳しい。]

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