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2022/02/23

曲亭馬琴「兎園小説別集」上巻 柳川家臣水馬の記

 

[やぶちゃん注:暫く休んでいたので、底本は国立国会図書館デジタルコレクションのここから。以下は柳川藩藩士による現地での騎行鍛錬の記録。当時の藩主は第八代立花鑑壽(たちばなあきひさ 明和六(一七六九)年~文政三(一八二〇)年:享年五十二)。下方の人名ががたついているのはブラウザの関係で、原稿では綺麗に並べてあるのだ。直す気にもならない。悪しからず。]

 

   ○柳川家臣水馬の記

十二月三日より同七日迄、百里遠乘。毛附。往來二十里宛、長洲・田主丸・大淵・松崎、諸國廻り、每朝、正八時、出立。

高根           立花當五郞殿

栗毛良馬、            由布常太郞

宮城野              立花猪十郞

既 望             小野 岩三

靑 毛御預馬、           立花鹿之助

靑毛手馬、            山崎鐵之助

東 雲              矢島重次郞

粟 毛御預馬、           笠間七郞治

月 毛御預馬、           山崎乙次郞

栗 毛御預馬、           由布松三郞

【十時内匠。御役馬】      十時志摩肋

【田島辰三郞。御預馬】     足達 半治

雪 吹             武藤卯三郞

   以 上

[やぶちゃん注:「毛附」「けづけ」。馬の毛色を書き留めること。又は、その文書、又は。その役目を指すが、ここは以上の文書を指すのであろう。このリストは概ね毛色であるが、中に「高根」「宮城野」「既望」(十六夜月を指す)「東雲」(しののめ)など、固有の名を与えられているものがある。

「往來二十里宛」本篇の後で、当地では一里を三十六町(三・九二七メートル)とするとあるから、現在の一里と同じ。何故、そう注を入れたか不審の向きもあろうが、実は当時の江戸ではそれとはずっと短い「坂東里」(ばんどうり:「田舎道の里程」の意で、奈良時代に中国から伝来した唐尺に基づくもので一里=六町=六百五十四メートルでしかなかった。これは特に鎌倉時代に関東で好んで用いたため、江戸でこの単位をよく用いた)が、結構、使われていたからである。往復延べ百五十六キロメートル。

「長洲」以下地名。熊本県玉名郡長洲町(ながすまち:グーグル・マップ・データ。以下同じ)か。

「田主丸」福岡県久留米市田主丸町(たぬしまるまち)田主丸

「大淵」福岡県八女市黒木町大淵か。

「松崎」福岡県小郡(おごおり)市松崎か。

「正八時」「しやうやつどき」。午後二時。

「手馬」自身が所有している馬。

「御預馬」藩主の持ち馬で命ぜられてその者が預かっている馬。

「十時内匠」姓は「とどき」或いは「ととき」。「内匠」は「たくみ」で通称。

「御役馬」藩内の役職上、頂戴している馬。]

武藩、去碕鎭三十六里、今玆爲ㇾ試馬力、往還七十二里、限二十時矣。其名如ㇾ左。

 立花能登源爲淸        宮城野鹿毛

 立花但馬源親博        白龍月毛

 由布藏人大神惟元       常磐靑毛

 蔣野彌十郞丹治增明      夕霧栗毛

 後藤新太郞藤原種能      小鼓鹿毛

 吉弘伊織助源鎭曉       白幣月毛

  文化十一甲戌年三月廿一日

   師、後藤市彌太藤原種房

[やぶちゃん注:「武藩」先祖代々正しき武士にして柳川藩藩士という謂いか。

「碕鎭」「きちん」。「碕」は「尖った先」、「鎭」は鎮守府で柳川城のことであろう。

「今玆」「こんじ」。今年。

「爲ㇾ試馬力往還七十二里、限二十時矣。其名如ㇾ左。」「馬力(ばりよく)を試みんと爲(し)て、往還、七十二里、二十時」(四十時間)「に限れり。其の」競技に參加せし者の「名、左のごとし。」。

「鹿毛」「かげ」と読む。一般に我々が想起しやすい茶褐色の毛を持つ馬のこと。

「月毛」クリーム色から淡い黄白色、さらに、長毛が白色に近い個体も含む。最後の「白幣」(しらにぎて:榊 (さかき) の枝に掛けて、神前にささげる麻や楮で織った布のうち、梶の木の皮の繊維で織った白布を指す)や、後に出る「白瀧」という名の馬は「月毛」とあるので、大方が白く見える毛色の個体と推定される。

「靑毛」基本的に黒色のものだが、季節によって毛の先が褐色に見える個体もある。

「蔣野」恐らく「こもの」と読む。

「吉弘」「よしひろ」であろう。大友氏の家臣に同姓がある。

「鎭曉」「しづあき」であろう。]

期刻本書之通御座候處、廿日暮六時、出立、廿一日夕八時、一同、長崎着、同夜四時、長崎出立、廿二日暮六時過より五時迄、追々歸着。

[やぶちゃん注:「期刻」「期(き)せる刻(とき)」。

「本書之通」「本書(もとがき)」(既に記したもの)「の通りに」。

「暮六時」「くれむつ」。午後六時前後。

「夕八時」「ゆふやつどき」。しかし、この言い方は普通は使わないので不審。不定時法の昼七つの夕七つに近い午後四時近くか。しかし「文化十一甲戌」(きのえいぬ)「年三月廿一日」はグレゴリ暦で一八一四年五月十日で日没は七時七分でとても夕暮れではない。

「夜四時」「よるよつどき」。不定時法で午後十時過ぎ。

「暮」「五時」午後八時前後。]

我藩至于小倉道程二十八里、今玆爲ㇾ試馳驅躡蹀于此往還五十六里、以十五時爲ㇾ期矣。其名列于左

 立花能登源爲淸        宮城野鹿毛

 立花造酒源種博        白瀧月毛

 由布藏人大神惟元       常磐靑毛

 吉弘貞之進源廣明       大車鹿毛

 吉弘伊織助源鎭曉       白幣月毛

  時文化十三丙子年九月望

   師、後藤市彌太藤原種芳

[やぶちゃん注:「二十八里」約百十キロメートル。

「馳驅躡蹀」「ちくでふてふ(ちくじょうちょう)」馳せ駆けらせ、踏ん張らせて早く至らせること。

「造酒」「みき」。

「文化十三丙子年九月望」グレゴリオ暦一八一六年十一月十四日。]

期刻本書の通御座候處、十五日曉九時、出立、同晝八時、小倉ヘ一同着。同夕七時、小倉出立、翌十六日歸着、左之通。

 廣明・鎭曉、一番、十六日辰中刻、歸着。

 種博、二番、巳上刻。惟元、三番、巳中刻。

 爲淸、四番、午上刻。

[やぶちゃん注:「曉九時」「あかつきここのつ」。定時法でも不定時法でも午前零時。

「晝八時」不定時法でこの時期なら午後二時。

「夕七時」同前で三時半頃。

「辰中刻」午前八時。

「巳上刻」午前九時。

「巳中刻」午前十時。

「午上刻」午前十一時。]

夫臣人者、恭敬忠直、輔ㇾ君治ㇾ國、莊卿大夫之職也。其奉使於列國、不ㇾ辱君命。葢列士之任也。其心平素存於此者、當亂世粉骨碎身、以退ㇾ敵保ㇾ君、固也、亂思ㇾ忠、忠不ㇾ忘ㇾ亂者。其操不亦美乎。文化十三丙子年秋九月日、筑後州柳川侯之臣五人、爲ㇾ試馬蹄遠路、到於我藩、如前所記一其日也、五人士連鑣而至、紅塵四起、蹄響遠轟、倐然來矣、忽焉去矣。觀者惟喫了一驚。余、時聞ㇾ之、五士皆柳藩顯家也。雖ㇾ不ㇾ知平常志操如何。身皆貴重於其國。遠試馬蹄、二日間、往還六百里許。可ㇾ謂治不ㇾ忘ㇾ亂之士也。「詩」曰、『赳々武夫 公侯之城』。亦此輩之謂乎。「魏志」曰、『人中有呂布、馬中有赤兎。』。於ㇾ人於ㇾ畜得其良、過傑出於世、自ㇾ古所ㇾ稀。今也五士、其馬之良固可ㇾ知矣。其人之器亦可ㇾ美矣。柳侯而得二此五士、豈得士少哉。我藩安部某者、柳侯旅亭主也。渥蒙國恩、於此擧寫五士前所示國社祠前姓名上、以珍藏於家。一日來請余題數言於其紙尾。余、不ㇾ辭不敏、因云爾。

             小笠原長常跋

 右小倉藩の公族大夫の由御座候。

[やぶちゃん注:訓読を試みる。一部は返り点に従わなかった。

   *

 夫(そ)れ、臣たる人は、恭敬・忠直、君(くん)を輔(たす)け、國を治めて、莊卿(さうけい)[やぶちゃん注:厳めしい重臣。]・大夫(たいふ)[やぶちゃん注:江戸時代で言う旗本に同じ。]の職なり。其れ、列國に奉使(はうし)し[やぶちゃん注:正規の他の強国への当該国の使者となり。]、君命を辱(はづかし)めず。葢(けだ)し、列士の任なり。其の心、平素、此(ここ)に於いて存せる者は、亂世(らんせい)に當らば、粉骨碎身、以つて、敵を退(しりぞ)け、君を保(やす)んずるは、固(もと)より、亂(らん)に忠を思ひ、忠は、亂を忘れざれば、其の操(みさを)、亦、美ならずや。文化十三丙子(ひのえね)年秋九月の日、筑後の州(くに)柳川侯の臣、五人、馬蹄遠路を試みんと爲(な)し、我が藩に到れり。前(さき)に所記(しよき)するごとく、其の日や、五人の士、鑣(くつばみ)を連ねて至り、紅塵四起、蹄響遠轟、倐然(しゆくぜん)として[やぶちゃん注:「忽然として」に同じ。]來たり、忽焉(こつえん)として去る。觀る者、惟だ了一驚(りやういつきやう)[やぶちゃん注:すっかり驚くこと。]を喫す。余、時に、之れを聞くに、五士、皆、柳藩(りうはん)の顯家(けんか)[やぶちゃん注:名高い名家。]なり。平常の志操の如何(いかん)を知らずと雖も、身、皆、其の國に於いて貴重なり。遠く馬蹄を試むこと、二日間、往還、六百里許(ばか)り。治めて、亂を忘れざるの士と謂ふべきなり。「詩」に曰はく、『赳々(きうきう)たる武夫(ぶふ) 公侯の干城』と。亦、此の輩の謂ひか。「魏志」に曰はく、『人中に呂布(りよふ)有り、馬中に赤兎(せきと)有り。』と。人に於いても、畜に於いても其の良きを得(え)、過ぐすに、世に傑出するは、古へより、稀れなる所(ところとな)せり。今や、五士、其の馬の良きこと、固(もと)より、知るべし。其の人の器(うつは)も亦、美(び)なるべし。柳侯にして此の五士ある、豈に士の少なきを得たるかな。我が藩安部某なる者、柳侯が旅亭の主(あるじ)なり。渥(あつ)く國恩を蒙(かふむ)り、此の擧(きよ)に於いて、五士の前(まへ)を國の社祠の前に標(しる)して所示(しよじ)し、姓名を謄寫し、以つて、家に珍藏す。一日(いちじつ)、來たり、余に數言(すげん)を其の紙尾に題すを請はる。余、不敏(ふびん)を辭せず、因み云ふのみ。

・「赳々(きうきう)たる武夫(ぶふ) 公侯の干城」「詩経」の「周南」の諸侯に仕える武人を讃えた詩「兔罝(としや)」の三・四句目。「赳々」(きゅうきゅう)は「筋肉が引き締まって強いさま。たくましく進むさま。偉丈夫の意とも。「公侯」ここは諸侯を指す。「干城」「干」は「垣」仮借で「垣城」は城郭の意だから「重要な護衛役」の意(以上は恩師であった故乾一夫氏の解説に拠った)。

・「魏志」史書「三国志」の内、魏の国に関する史実を記した部分の通称。全三十巻。 「蜀志」「呉志」とともに晋の陳寿の著。

・「呂布」(?~一九九年)後漢末期の武将・群雄の一人。現在の内モンゴル自治区包頭市の生まれ。「三国志」巻七「呂布伝」や「後漢書」「列伝六十五呂布伝」などに記録があり、剛勇を以って知られる。最初に丁原に仕えたが、彼を殺害し、後に董卓に仕えるが、やはり殺害して放浪した。最期は曹操との戦いに敗れて処刑された。参照した当該ウィキによれば、『呂布は、董卓を討った事を袁術が感謝しているだろうと思い、彼を頼ったが受け入れられず、次に袁紹を頼った。袁紹は黒山賊の張燕と戦っているときであったので、呂布を迎え入れ、共に常山の張燕を攻撃した。張燕は精兵』一『万と騎馬数千匹を率いて勢威を振るっていたが、赤兎馬』(せきとば)『に乗った呂布と、呂布配下の勇将・成廉、魏越が指揮する数十騎が』一日の内に三度も四度も『突撃して次々に張燕軍を討ち取ったため、数十日後に遂に敗れ、以後』、『黒山賊は離散した』。『この戦いの後』、『愛馬である赤兎とともに「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と賞されたという』とある。なお、「赤兎」ウィキの「赤兎馬」によれば、「赤兎馬」は「三国志」及び「三国志演義」に登場する馬で、「演義」では『西方との交易で得た汗血馬といわれている。「赤い毛色を持ち、兎のように素早い馬」の意とも。柿沼陽平によれば、①漢代簡牘に馬高』一メートル四十センチ『前後の複数の馬を「赤兎」とよんでいる事例があること、当時の』人々が『ウサギの頭のかたちをした馬を名馬としていたことから、「赤兔馬」自体は固有名詞でなく、「ウサギ頭の赤毛馬」をさす一般名詞であり、当時』、『赤兔馬にまたがっていたのは呂布だけではない』とある。

・「前」名前であろう。

「不敏」才能に乏しいこと。]

今玆講騎者數人、議早米來之海岸、濟於黑崎、人咸以兩岸曠遠、風濤暴起、且潮汐之所廻盪激渦危ㇾ之。是時師後藤翁、疾未ㇾ痊。恐其有敗失、使壽賰・春樹督護其事、先ㇾ是先師今村川流翁、欲ㇾ濟此水久矣。以人馬之未一ㇾ於大水輟。其後偏閱境内巨川長流、未曾有敗失。故後藤翁及壽賰春樹、亦欲ㇾ終先師遺志一、廼贊成其事云。於ㇾ是騎者刻日抵其海濱。督護二人、與同志十許人、艤二船于薙刀洲、官使下二[やぶちゃん注:ママ。]十時惟和、率艨艟數艘上ㇾ之。且日天晴海穩、督護在ㇾ船、鳴ㇾ鼓吹ㇾ螺、以壯其勢。觀者滿ㇾ岸。六騎廼循ㇾ潮縱ㇾ馬。競ㇾ先而進ㇾ船。悉從ㇾ之。既而先後登黑崎之岸、水程三里許【以我邦三十六町一里。】。其頃刻一時餘矣、唯四個所長景。馬瘏[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版は『屠』とする。]量ㇾ不ㇾ能ㇾ到黑崎、就近于高洲云。先ㇾ是吾輩謁神祠、禱襄其事也。騎者、

 立花能登源爲淸       宮城野鹿毛

 立花造酒源種博       游龍栗毛

 立花虎之助源種備      既望月毛

 吉弘貞之進源廣明      曙鹿毛

 四箇所七兵衞藤原長景    白瀧月毛

 今村鐵之助藤原備堅     大車鹿毛

督護、立花内膳源壽賰、大村主馬、多々良春樹。

師、後藤市彌太藤原種芳。

 時文化十四丁丑年八月既望

 朝五時、一同乘込、四時過、左之通、追々乘上、

一番、種博。二番、爲淸。半里程後れ、三番備堅。十町程後れ、四番種備・廣明。二町程後れ、二騎一同。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が最後まで一字下げ。]

立花侯藩中、吉弘貞之進、遠乘・水馬、好にて、右毛附、御南樣、御慰に入御覽度、同藩西京新左衞門備請、小膳方迄、差越候書付寫也。

 于時文政二己卯三月二日

[やぶちゃん注:さてもここで初めて標題の「水馬」の意味が明らかとなるのである。

「講騎者」乗馬の稽古をする者。

「早米來」福岡県大牟田市早米来町(ぞうきめきまち)。

「黑崎」早米来町の北の福岡県大牟田市岬に黒崎玉垂(くろさきたまたれ)神社があり、ここは神功皇后が三韓征伐より凱旋の際、ここに着船して行宮を創立したとする由緒ある神社で、黒崎観世音塚古墳など古墳もあるから、ここであろう。現在は干拓で内陸になっているが、「今昔マップ」で見ると、流石に「岬」の地名、海岸の岬である。早米来の海岸から海沿いに北上して、ここに至って、そこでこの「黑崎」の隈川を騎馬で「濟」(わたる)=渉(わ)たる計画であったのである。ところが、至って見ると、黒崎の隈川周辺は「兩岸曠遠、風濤暴起、且潮汐之所廻盪激渦危ㇾ之」(河口の両岸は広く遠く離れており、強風と波濤が暴れ起こり、なお且つ、丁度潮汐のピークに当たっていたために河口からずっと湧き返って激しく渦巻き、騎馬で渡るには、これ、甚だ危うい難所と化していたのであった。有明海の潮汐時間を調べなかったのは迂闊である。

「人咸」「ひとみな」。

「是時師後藤翁、疾未ㇾ痊」さらに加えて、騎馬訓練の師(総指揮者)であった後藤「市彌太」(いちやた)「藤原種芳」氏は、この時、何かの「病ひ、未だ痊(い)えず」という状態だったのである。

「恐其有敗失」その病気のためにこの騎馬軍行にあらぬ失敗が生ずることを恐れたのである。

「壽賰」後に「督護」(騎馬隊の監督・後藤氏の護衛役)とある「立花内膳源壽賰」。彼は当時、柳河藩家老であった立花寿賰(たちばな ひさとみ 宝暦一二(一七六二)年~文政八(一八二五)年)である。立花政俊を祖とする重臣家立花両家の一つ、立花内膳家(石高一千石)の第六代目当主でもあった。諱は当初は種輔であったが、後に、義弟でこの当時の藩主であった立花鑑壽から偏諱を賜り、寿徳(ひさとみ)・寿賰に改名した。参照した当該ウィキによれば、『「武の家」と言われた立花内膳家の当主だけに、家川念流剣術を皆伝し、宝蔵院流槍術の目録を取得した他、越後流兵学に精通していた。また財政・経済通であったとされる』。『柳川藩重臣の立花内膳家当主・立花種房(相模)の子として出生』し、寛政四(一七九二)年、『家老に就任。義兄弟の立花通栄』(なおちか)らと、「豪傑組」を『組織して藩政改革を行う。しかし』、寛政一〇(一七九八)年に立花鑑壽に『信任された小野勘解由により、通栄らは家老職を一時免職される(豪傑崩れ)が』、『寿賰は処罰対象ではなかったとされる。その後は内証方上聞役や花畠御用掛となるが、その後』、『辞職とな』った。文政七(一八二四)年に隠居し翌年に亡くなった。

「先ㇾ是先師今村川流翁、欲ㇾ濟此水久矣。以人馬之未一ㇾ於大水輟。其後偏閱境内巨川長流、未曾有敗失」頭の「是れより先」で、過去に(今は故人。以下の出る)今村川流(せんりゅう)翁は、永くこの流れを騎馬で渡ろうとされたが、人馬ともに大きな流れに慣れていないことから、「輟」(「やめ」。止め。)中止した経緯があった。その後も偏(ひとえ)に国境などにある大きな川の流れをよく観察され、それ以後は他の川では嘗て一度たりとも騎馬での川越えに失敗されたことはなかった、というのであろう。則ち、故今村師にとっては唯一渡河を諦めた因縁のある川だったのである。さればこそ、現在の師後藤も壽賰も春樹も、「先師の遺志を終はらしめんことを欲」し、「廼(すなは)ち、其の事に「贊成す」と云ふ」たのである。

「刻日」「刻日(こくじつ)して」か。「渡河を試みる時間をあらかじめ制限して」ということであろう。長引けば、足を取られて水没し、人馬ともに危ういからである。

「艤二船于薙刀洲」「船を薙刀洲(なぎなたず)に艤(ぎ)して」。思うに、隈川の河口にある砂州が薙刀の形をしていて、当地でそう呼ばれていたものであろう。万一、流された者がいた時の救助ために船をそこに漕ぎ出させたのである。

「官使下二[やぶちゃん注:ママ。]十時惟和、率艨艟數艘上ㇾ之。」こんな返り点は生まれて初めて見た。「官、十時惟和(とときこれかず)をして、艨艟(もうどう)數艘(すさう)を率(ひきい)て、之れを監せしむ。」。「艨艟」「もうしよう(もうしょう)」とも読む。昔の戦艦。堅固で細長く、敵の船中に突入するのに用いる。ただ、ここで急にそれを調達する訳には行かないだろうから、ここは漁師の舟を代用したのを、かこ格好をつけて言ったものと私は思う。

「且日天晴海穩、督護在ㇾ船、鳴ㇾ鼓吹ㇾ螺、以壯其勢。觀者滿ㇾ岸。六騎廼循ㇾ潮縱ㇾ馬。競ㇾ先而進ㇾ船。悉從ㇾ之。既而先後登黑崎之岸、水程三里許【以我邦三十六町一里。】。其頃刻一時餘矣、唯四個所長景。馬瘏[やぶちゃん注:吉川弘文館随筆大成版は『屠』とする。]量ㇾ不ㇾ能ㇾ到黑崎、就近于高洲云。先ㇾ是吾輩謁神祠、禱襄其事、也。」折角のクライマックスだから、訓読しておく。

   *

 且つ、日天、晴れ海、穩かに、督護せる船在り、鼓(つづみ)を鳴らし、螺(ほら)を吹き、以つて其の勢(せい)や、壯たり。觀る者、岸に滿つ。六騎、廼(すなは)ち、潮を循(めぐ)りて、馬(むま)を縱(ほしいまま)にす。先を競へば、而して、船を進む。悉く、此れ、從にす。既にして、先後(せんご)、黑崎の岸に登る。水程(すいてい)三里許り【我が邦は「三十六町」を以つて「一里」爲(な)す。】。其の頃、刻(こく)一時(いつとき)餘り、唯だ四個所に長景たり。馬瘏(ばと)の、黑崎に到ること能はざるを量りて、近くなる高洲に就(つ)かすと云へる。是れに先んじて、吾輩、神祠に謁して、其の事を禱襄(たうじやう)せしなり。

   *

・「唯だ四個所に長景たり」騎馬群は、河口から一里ばかりの広さで、四つの部隊に分かれて広がって見えた。

・「馬瘏」疲弊した馬。

・「禱襄」祈り祓うこと。

「文化十四丁丑」(ひのとうし)「年八月既望」八月十六日。グレゴリオ暦一八一七年九月二十六日。

「朝五時」(あさいつつどき)は不定時法でこの頃なら午前七時。

「十町」一キロ九十一メートル。

「二町」二百十八メートル。

「種備」「たねもと」と読んでおく。

「吉弘貞之進」筑後国柳河藩の次の第九代藩主立花鑑賢(あきかた)のウィキに、用人とて、小姓組で高四百石とする、同名の人物が載る。同じ人物であろう。第八代の鑑壽はこの文書が書かれた翌年に没しているからである。

「好にて」「このみにて」。

「御南樣」聴き馴れないが(読み不詳)、「北の方」の対、或いは「君子は南面して座す」で藩主のことであろう。

「度」「たく」。

「文政二己卯三月二日」一八一九年三月二十七日。]

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