狗張子卷之三 猪熊の神子
[やぶちゃん注:挿絵は、今回も所持する一九八〇年現代思潮社刊の「古典文庫」の「狗張子」(神郡周校注)からトリミングし、適切と思われる位置に配した。]
○猪熊(ゐのくま)の神子(みこ)
元和《げんな》のすゑの年、京都四條猪の熊に、年老《としおい》たる神子あり。一人の娘をもちたり。
[やぶちゃん注:「元和のすゑの年」は元和十年で、徳川家光の治世。「伽婢子」を含め、前話よりもさらに最も新しい特定時制設定となる。元和十年は二月三十日(グレゴリオ暦一六二四年四月十七日)に寛永に改元している。
「京都四條猪の熊」現在の京都府京都市下京区立中町(たつなかちょう)附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。]
神道(しんたう)の理(こと)はり[やぶちゃん注:ママ。]は露(つゆ)斗《ばかり》もしらず、
「神の御《ご》たくせん。」
とて、あらぬ事をいつはり、物をとり、數珠(じゆず)をひくといふ事をいたし、占兆(うらかた)をいひ、おろかなる女・わらはを、たぶらかし、雨ふり、風のふくにつけても、
「神の御つげなり。」
とて、人を、おどし、すゝめ、きたうをせさせて、小袖・帶などまでも、たぶらかしとり、佛法の事は耳にも聞《きき》いれず。
[やぶちゃん注:「數珠をひく」能の山伏の役で「刺高数珠」(いらたかじゅず:「苛高」「伊良太加」「最多角」などとも書き、「いらだか」とも。これは「角立(かどだ)っていること」を意味する語で、修験者が使う珠の堅くごつごつした大振りの数珠を指す。珠が角張っていて算盤玉のような感じである)で、「祈リ」の場面で、これを揉んで、激しい音で法力を示すシーンがあるが、ああした数珠を揉み込む動作を指していよう。]
とかくして世をわたる事、すでに七十餘年をおくりむかへ、娘は、位(くらゐ)おはする家に宮づかへをせさせて、此神子、ことの外に、老おとろへ、今は世の中の事、よろづ、心ぼそく、かゝる所作(しよさ)も、空(そら)おそろしくおぼえ、いくほどもなき命も、賴み、すくなく、來世の事も、心もとなし。
「されば。」
とて、今までせし業(わざ)も、打ちすてがたく、思ひ歎きつゝ、北野の朝日寺(あさひでら)にまゐりて、
「我身、此世のなりはひは、身すぎのために、人をたぶらかし、利得を望み、諂(へつら)ひ、いつはり、正直《しやうぢき》の道にそむく事、神のめぐみ・佛のをしへに、はづれ、えたるもの。只、ねがはくは、死して後の恥を隱し、たましひを、たすけて給はれ。」
と祈り奉る。
まことの心、骨(ほね)にとほりて、淚のおつる事、雨のごとし。
それよりは、隙あれば、常にもうでて、おがみ奉りけり。
[やぶちゃん注:「とかくして世をわたる事、すでに七十餘年をおくりむかへ」若い時に始めたとしても、この似非神子である母は八十を超えていよう。
「朝日寺」現在の京都市上京区観音寺門前町にある真言宗泉涌寺派の東向観音寺(ひがしむきかんのんじ)の前身。嘗ては北野天満宮の神宮寺であった。白衣観音堂があり、白衣観音が祀られているが、公式サイトでも画像はない。江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(二)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)に、同寺の経緯について非常に詳しい注が載るので、是非、読まれたいが、一つだけ引くと、北野『天満宮が北野に鎖座したのは、天慶三年(九匹〇)七条に住む文子という女性に託宣があり、朝日寺の僧最鎮(最珍とも)と共に尽力して祠を建てたことにはじまるという』とあり、この神子がここに詣でたことの根拠の一つのように感じられる。]
月日、重なりて、神子、俄に、病、おこり、
『此世の限り。』
と思ひければ、娘のもとへ、使をつかはしけり。年此は、
「『神子の娘』といはれんには、人もおとしめ、あなづらんは、口惜かるべし。」
と、里の有樣、深く隱して、音づれのたよりも絕々(たえだえ)に忍びけるを、此たびは、生身(いきみ)のをはり、此世のいとまごひなれば、
「人には忍びて、はやく歸り給へ。」
と、いひつかはす。
娘、おどろきて、いそぎ、行ければ、母、大《おほき》によろこび、目をひらき、嬉しげに見ながら、そのま〻絕入《たえいり》けり。
年、いまだわかきむすめなり。かゝる事、いかにすべき才覺もなく、只、泣しづみて、
「是れ、いかゞせん。」
と口說(くどき)けれども、家居(いへゐ)まばらなる栖(すみか)なれば、たやすく問ひかはす人も、なし。
[やぶちゃん注:「家居まばらなる栖」江本氏は上記の注で、『本文に即す限り四条猪熊をさすが』、この設定時勢時を考えと、およそ『「家居」が「まばら」とはいえないであろう。未詳ながら本章の出典と関わるか。』と記しておられる。]
日も夕暮に成《なり》て、わかき法師、四、五人、來りて、
「これは。朝日寺にて、常に見なれたる人ぞかし。『死(しに)侍べらば、尸(かばね)を隱してたべ。』と、ふかく賴みけるまゝ、來れるなり。」
とて、甲斐々々しく取したゝめ、棺(くわん)を用意して、尸をおさめ、阿彌陀が峯に行て火葬にし、
「此人の事、來世も心やすく思はるべし。我ら、よくよく、跡をも、とぶらひてまゐらせん。」
と、ありしかば、娘、悲しき中にも、有がたく、
「さて、御寺はいづくにて、御名は何と申すやらん。」
と問ひ奉れば、
「朝日寺の正觀房(しやうくわんばう)と尋ねよ。」
とて、出《いで》て、歸り給ふ。
白きうす衣(きぬ)に、蒔繪の香合(かうばこ)とりそへて、參らせたり。
[やぶちゃん注:「阿彌陀が峯」江本氏注に、『山城国愛宕郡阿弥陀ケ峰(現京都市束山区今熊野阿弥陀ヶ峰町)。東山三十六峰の一つで、烏辺山ともいった。標高一九六メートル。古くから葬地として有名。』とある。かの「徒然草」の「あだしの野の烟」の条の例の「鳥部山」である。ここ。]
次の日に成て、朝日寺にまゐりて尋ねしかども、
「この寺に、かやうの僧は、なし。」
と、こたへたり。
あやしくおもひながら、堂中にまゐりて、おがみ奉れば、きのふまゐらせしうす衣は、觀音、うちかづきて、御ひざの上に、香合は、のせて、おはしましけり。
娘、これをおがみ奉るに、
「有がたさ、かたじけなさ、此御本尊、すでに母を葬ぶり給ひし事は、うたがひなし。來世も、かならず、すくひ給はん。現世(げんぜ)・後生(ごしやう)、ともに、すて給はぬ大慈大悲の御ちかひかな。」
と、歡喜(くわんき)の淚(なみだ)、おき所、なし。
かくて、下向(げかう)ののち、常にあゆみをはこびて、母のぼたいをいのり奉りしに、娘、また、よき幸(さひはひ)ありて、和泉(いづみ)の境(さかひ)にくだり、しかるべき人の妻となり、子ども、あまたまうけて、家、さかえけり。
[やぶちゃん注:「和泉の境」この「境」は一般名詞ではなく、古くから港湾都市として栄えた「堺」、現在の大阪府堺市のことである。
さても。本篇、完全に女性だけが主要人物という設定に於いても、これ、特異点である。]
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