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2022/02/19

譚海 卷之四 備中國尾の道天滿宮幷吉備大臣墳の事 附あり渡・未渡・船山・二萬塚等の事

 

[やぶちゃん注:標題は「備中國(びつちゆう)尾(お)の道(みち)天滿宮幷(ならびに)吉備大臣(きびのおとど の)墳(ふん)の事 附(つけたり)「あり渡(ど)」・「未渡(みど)」・「船山(ふなやま)」・「二萬塚(にまづか)」等(など)の事」と読んでおく(船山のみ現行の読みが確認出来なかった)。少し長めで、複数の内容を書いているので、段落を成形した。その関係上、特異的に読点や記号を追加してある。全く行ったことがない場所なので、注に手間取った。]

 

○「備中の『をのみち』と云(いふ)所は、むかし、『玉の浦』といへる所なり。北野の御神(おんかみ)、筑紫へ下り給ひし時、此浦の金屋某なるものの先祖の家に、一夜(ひとよ)やどらせ給ひし事、有(あり)。其時、『はたきのもちい』、奉りしと也。其(その)やどらせ給ふ家、今に、其家に、もちつたへて、其家の上に、『うは外家(そとのいへ)』を作りかまへて、神前になしてある。」

と也。

 御神淚(ごしんるい)を硯(すずり)にうけて、其(その)水にて、かゝせ給ふ御影を、「淚のみえい」とて、其家に、つたへ、もてり。

 後世(こうせい)、金屋氏子孫、豪富となり、「をのみち」と云(いふ)疊(たたみ)のおもては、みな、此家より織出(おりいだ)して、天下に流布する事也。

「神德の、とほく及ぶ惠(めぐみ)なるべし。」

と、いへり。

 又、備中の奧、備後の境(さかひ)に「相渡(ありど)村」といふ所の山は、兩山(ふたつのやま)の峯、合して石橋(いしばし)となり、そのうへを往來する也。其下は、瀧川、たぎり落(おち)て、誠に人工の物にあらず。

 又、其鄰(となり)の村に「未渡(みど)村」といふ所の山は、石橋のかたち、半分、出來たるあり、依(より)て「未渡」と讀(よま)するとぞ。

 又、同國「船山」と云(いふ)所には、田を植(うう)るとき、田の水へ、朝日のさす比(ころ)、山のかたち、うつりて、帆をかけたる舟の如く、うつる也。それが、時によりて、二つも、三つも、うつる事、あり、「今朝は、二艘、出たり。」、「三艘、出たりの。」と、その所のものは、いふ事也。

 同國「さかさ枝」といふ所の池、一とせ、夏の比(ころ)、血の色に成(なり)たる事、有(あり)。朝暮(てうぼ)は、しからず、日中より、夕かたまで、殊に水の色、紅(くれなゐ)に變ずる事、四十餘日に及べり。

 又、同國、下(しもつ)みち郡(のこほり)八田(はつた)といふ所に吉備大臣(きびのおとど)の御墓(おんはか)、有り。すなはち、別當(べつたう)を吉備寺(きびじ)といふ。其御墓の側(そば)に土輪(はには)[やぶちゃん注:底本自体の特異点のルビ。]といふ物あり、往古(わうこ)、大臣(だいじん)已上(いじやう)の墓には、みな、あるものなり。瀨戶物の壺のやうなる形にして、上下に、穴、有て、行(ゆき)ぬけ也。尤(もつとも)「すやき」のもの也。「祭器の用に製せしものか。」と、いへり。

 其(その)墓、ちかき山より、十町[やぶちゃん注:約一キロ九十一メートル。]ほど奥に、「琴彈岩(ことびきいは)」といふ有(あり)。夫(それ)に「やざこのさくら」とて、「吉備公、手自(てづか)ら、うゑられたる樹也といへり。二萬(にま)[やぶちゃん注:底本自体の特異点のルビ。]の里へも半里ほどあり、そこにまた、「二萬塚」といふあり。「二萬人、伏兵(ふくへい)、出(いで)たるゆゑ。」といへども、左(さ)にはあらざるべし。吉備の中山は、備前と備中の際(きは)にある山にて、則(すなはち)、細谷川(ほそたにがは)、其(その)國境(くにざかひ)也。

 

[やぶちゃん注:「備中の『をのみち』」尾道は旧備後国。

「玉の浦」尾道の名刹で、尾道市街と瀬戸内海の尾道水道・向島(むかいじま)などが一望できる真言宗大宝山(たいほうざん)千光寺(ここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)の公式サイトの「歴史」に、『境内中央の巨岩「玉の岩」は昔この岩の頂に如意宝珠があって、夜毎に海上を照らしていたので』、『この地を「玉の浦」と呼ぶとか』とある。

「北野の御神」菅原道真。

「金屋某」広島県尾道市に鎮座する御袖(みそで)天満宮(千光寺の東北直近)のウィキによれば、延喜元(九〇一)年、道真が『藤原時平の讒言によって左遷され』、『大宰府へ船で向かう際、尾道に上陸すると』、『土地の人々から麦飯と醴酒』(こさけ:甘酒)『を馳走されたので、これに感謝して』、『自らの着物の片袖を破り』、『自身の姿を描いて与えたが』、道真の薨去の後(延喜三年二月二十五日(九〇三年三月二十六日))の『延久年間』(一〇六九年~一〇七四年)、『天神坊』(後述)『の境内に』、『その袖を「御袖の御影」と称して祀る祠を建立したのが創祀で、「御袖」を祀る事から「御袖天満宮」と称されたという』。『なお、天神坊は後に大山寺となって明治の神仏分離まで別当寺として当神社を管掌し、現も境内に隣接している』(ここ)。後に御霊(ごりょう)となって天満宮に祭神となる道真が『寄泊したと』する『伝承は』、『中国地方の瀬戸内海沿岸各地に広く分布するが、当神社の創祀伝承に祭神を接待したのは金屋某という者であったとの伝えもあり、その「金屋」という家号から』、『中世末から近世期にかけて活躍した金融資本家が自家の豪勢さを誇るために神社縁起に介入した可能性がある。金屋家は江戸時代の化政期』(十九世紀前葉)『には尾道港の繁栄を背景に資産を積み、頼山陽や菅茶山を招いて当神社に関する記念碑を書かせたり、祭神接待に供した醴酒を醸す』ため『の麦を作ったという畑を所持していた。なお、金屋は絶家し、昭和の中頃』(二十世紀半ば)『まで存在した麦畑も荒廃に帰した』とある。なお、この神社の階段は大林宣彦監督になる、かの「転校生」で二人が転落して心が入れ替わるシークエンスの撮影が行われたところとしてよく知られる。

「はたきのもちい」「粢」(はたき・おはたき)は生米を水に浸して柔らかくし、搗き砕いて作った食べ物。「もちい」は「もちひ」で「餅」の古形。古書では、一般には神祭の供え物(神饌)の一種に用いられている記載があるが、東北地方では米のほかに粟や稗を用いたそれがあり、日常の食べ物でもあった。

「うは外家」御寄泊なされた部分の家屋の外側全体を、鞘堂でさらに覆って、保護したことを指すものと思われる。

「淚のみえい」現存しない模様。

「をのみちと云疊のおもて」「備後表」(びんごおもて)のこと。広島・福山両藩の備後地方の藺草で織った畳表で、主産地を形成する備後国(広島県)沼隈(ぬまくま)・御調(みつぎ)郡地方では、すでに戦国時代の天文・弘治年間(一五三二年~一五五八年)に「引通(ひきとおし)表」(継ぎ目がなく、長い藺草一本で横を引き通した畳表)が織られていた。福福島正則が入国支配(一六〇〇年~一六一九年)の頃の沼隈郡では二十七ヶ村で七百七十二機の畳表織機があり、中継ぎ織りをした「中指(なかさし)表」も織り出された。毎年の幕府献上品三千百枚は、畳表改役(あらためやく)によって製品管理が厳重に行われた。福山藩主が水野氏になると、献上表は幕府買上げの御用表となり、正保四(一六四七)年、「備後表座」と呼ぶ独自の買上げ機構が設けられた。畳表生産の大部分を占める商用表は、国産第一の品として、領外市場の信用確保のため、「九か条御定法」を定めて、品質管理・流通統制を厳重にした。広島藩における御調郡産の畳表も、藩は、毎年、一万枚を御用表として買い上げ、商用表は、運上銀を納めて、尾道町表問屋の手を経て、販売された。表問屋の金屋取扱いの畳表は、元禄一六(一七〇三)年で四万六千九百枚、宝永七(一七一〇)年で五万余枚に達している。廃藩後は諸制度が廃され、畳表製造業者・問屋が激増して自由販売となったが、明治一九(一八八六)年には、「備後本口(ほんぐち)畳表同業組合」(沼隈・深安)・「備後本口尾道藺蓆(いむしろ)組合」(御調)が設立され、自主検査するようになった(小学館「日本大百科全書」に拠ったが、これだけを見ても、津村の記した豪商金屋氏の繁栄は事実であることが判る)

「此家より織出(おりいだ)して、天下に流布する事也」問屋だから、ちょっと言い方がおかしい。

「相渡(ありど)村」現在の広島県神石(じんせき)郡神石高原町(ちょう)相渡(あいど)

「兩山の峯、合して石橋となり、そのうへを往來する也。其下は、瀧川、たぎり落(おち)て、誠に人工の物にあらず」これは現在の「帝釈峡」を共有する、相渡と北で接する広島県庄原(しょうばら)市東城町(ちょう)帝釈未渡(たいしゃくみど)の「雄橋(おのばし)」のこと。ここ。同サイド・パネルのこの写真を見られたい。サイト「じゃらんニュース」の「雄橋(上帝釈)」も参照されたい。それによれば、この石橋は溪水の浸食作用で形成されたもので、高さ約四十メートルの天然橋であり、「神の橋」とも呼ばれ、『「世界三大天然橋」の一つに数えられる』ともあった。

「未渡村といふ所の山は、石橋のかたち、半分、出來たるあり、依(より)て「未渡」と讀(よま)するとぞ」ここにきて始めて地名が腑に落ちた。而して先の「雄橋」のサイド・パネルの「案内板」に、雄橋の上流に「唐門(からもん)」というのがあり、その上の写真が、「唐門」の解説板である。ネット画像を調べたところ、「グルコミ」の「鬼の唐門」がよい。その解説によれば、『鍾乳洞が風雨に侵食されて崩れ落ちた跡』とある。

「船山」この名は広島県内に少なくとも三ヶ所あるが、これまでの叙述された地区の動きからみて、広島県庄原市高野町(たかのちょう)高暮(こうぼ)にある船山及び船山神社附近が当該地ではないかと推理した。違うとなら、御指摘あれかし。

「さかさ枝」いろいろなフレーズで調べて見たが、お手上げ。識者の御教授を乞う。

「下みち郡八田といふ所に吉備大臣の御墓有り」岡山県倉敷市真備町(まびちょう)下二万(しもにま)にある「二万大塚古墳」。一方に造り出しをもつ二段築成の前方後円墳。墳丘長三十八メートルで、後円部の南側に全長九・一メートルの両袖式横穴式石室の開口が確認されている。六 世紀中頃の築造で、造り出し上での祭祀の状況が明らかになった。横穴式石室から多量の副葬品が出土している。参照した奈良文化財研究所の「全国遺跡報告総覧」の「二万大塚古墳」に拠った。詳しい発掘調査結果は以上のページのPDFをダウン・ロードして参照されたい。埋葬者は吉備真備を輩出した下道(しもつみち)氏一族の墓と見られているが、造立推定年代から、真備自身の墳墓というのは伝承に過ぎないようである。

「吉備大臣」吉備真備(持統天皇七年(六九三)或いは九年~宝亀六(七七五)年)は奈良時代の学者で政治家。氏姓は下道(しもつみち)朝臣で、後に吉備朝臣を名乗った。霊亀二 (七一六) 年に留学生として入唐(にっとう)し、天平七 (七三五) 年に帰朝、「唐礼」(とうれい)・「大衍暦経」など、多くの書籍・器物を本邦に将来した。同九年、藤原氏の公卿が相次いで疫死したため、次第に宮廷内に重きを成した。同十二年に発生した「藤原広嗣の乱」は真備らの追放を口実としている。天平勝宝二(七五〇)年に筑前守に左遷されたが,翌年、入唐使として再び渡唐し、同六年に帰朝した。天平宝字八 (七六四) 年に「恵美押勝(藤原仲麻呂) の乱)に功があり、従三位・参議・中衛大将を経て、天平神護二(七六六)年に右大臣となった。神護景雲三 (七六九)年に「刪定律令」を編纂、正二位となった。宝亀二(七七一)年に致仕した(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「吉備寺」岡山県倉敷市真備町にある真言宗御室派鏡林山吉備寺(きびじ)。本尊は薬師如来で行基作と伝えられ、秘仏。「二万大塚古墳」は南東二キロ半ほどの位置にある。

「土輪(はには)」先のに示した奈良文化財研究所の「全国遺跡報告総覧」の「二万大塚古墳」に拠った。詳しい発掘調査結果は以上のページのPDFにある(写真・図有り)「脚付長頸壺」とあるものを指すもの思われる。

「上下に、穴、有て、行(ゆき)ぬけ也」不審。破損物を見たものか。同前の資料図では、壺の上部の杯部には底があり、抜けてはいない。

「其墓、ちかき山より、十町[やぶちゃん注:約一キロ九十一メートル。]ほど奥に、琴彈岩といふ有」岡山県倉敷市真備町妹(せ)に現存する。サイド・パネルの画像を見られたいが、その解説板(倉敷市教育委員会名義)に、『奈良時代に右大臣として中央政界で活躍した吉備真備(きびのまきび)公が、晩年父祖の地に帰り、中秋の名月の夜に、小田川に望むこの岩の上で琴を弾かれたと伝えられているところから琴弾岩と呼ばれている。昭和』二四(一九四九)『年以来、毎年中秋の名月の夜にこの岩に集(つど)い、真備公の故事にちなんで弾琴祭(だんきんさい)を催し、岩上で琴・尺八を演奏して公の遺徳をしのんでいる。』とある。現在、指定されている「吉備公館址(きびこうかんし)」からは、西南西に四キロ強離れている。「ちかき山」という起点は距離から見て、弥高山(やたかやま)か(国土地理院図)。

「やざこのさくら」現存しない。それを記念した「まきびさくら公園」が、琴弾岩の東北東二キロ弱の小田川と井原線に沿ったところに設置されている。

「二萬(にま)の里へも半里ほどあり。そこにまた、「二萬塚」といふあり」これは先と同じ「二万大塚古墳」を指しているとしか思われない。しかし、事弾岩と現在の二万の町域は、五キロ弱離れており、どうも計測値が合わない。この数値に合う古墳は小田川対岸の「黒宮大塚弥生墳丘墓」があるが、これか? 或いは古くはここいらの広域を「二萬」と呼んでいたものかも知れない。

「吉備の中山」「吉備の中山みち」はここ。南西部に吉備真備を配しておいた。

「細谷川」ここ。吉備津神社の東を流れる。歌枕として有名。]

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