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2022/02/28

ブログ・アクセス1,690,000突破記念 梅崎春生 一時期

 

[やぶちゃん注:昭和二三(一九四八)年九月号『文芸首都』に発表された。生前の単行本には所収されていない。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。太字は底本では傍点「ヽ」である。

 文中に簡単な注を入れた。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、本未明、1,690,000アクセスを突破した記念として公開する。【2022228日 藪野直史】]

 

   一 時 期

 

 その頃、一日一日を、僕はやっと生きていた。夢道病者のように一日中ぼんやり動いていた。しかし生活してゆくための、不快な手ごたえと、ざらざらした抵抗感は、遠くから確実に僕をおびやかしていた。とにかく一日が終ればいい、時々たちどまって、僕はそう考えた。明日のことは、明日心配したらいいだろう。

 そんな具合に、強いて自分の心の眼をつむらせる瞬間が、日に何度か来た。それはそのときの状況や行動と関係なく、いきなり胸にこみあげてきた。歩いているとき、椅子にかげているとき、便所にしやがんでいるとき、人と話しているとき、などに、それはいきなり僕の心を揺った。僕はあわてて、自分を言いなだめる言葉を、さがさねばならなかった。

 夜、眠りにつくときは、それでも大ていよかった。おおむね僕は泥酔していたから。そんな思念が胸にしのび入る余裕はなかった。しのび入っても、僕はそれをせせらわらうことが出来た。困るのはむしろ朝の寝覚めであった。

 僕は本郷のある下宿に住んでいた。高台の鼻にたてられた三階建の下宿で、二階や三階は見晴しがよかったが、僕の部屋は附下の一番日当りの悪い部屋で、帳場にごく近い、書生部屋に類する位置にあった。下宿料もそのせいで、一等安かった。その部屋で、僕は毎朝、女中に呼びおこされた。

「もう七時ですよ。起きないと役所におくれますよ」

 唐紙(からかみ)をすこしあけて、声がそこから飛びこんでくる。それで僕は眼をさます。布団の襟(えり)ごしに、唐紙のすきまから女中の顔が見える。それが僕の一日の最初にみる人間の顔であった。その顔もたいてい唐紙にさえぎられて、眼がひとつと鼻の半分位しか見えなかった。

「もう七時過ぎますよ。早く起きなさいよ」

 この下宿には、女中が三人いた。名前はそれぞれ持っていたが、何度きいても僕は覚えられなかった。だから綽名(あだな)で僕は三人を区別していた。それはウシとネズミとキツネという分け方だった。おおむね顔や身体つきの類推で、木堂がつけた綽名であった。木堂はときどき酔ったあげく僕の部屋にとまりこんだから、女中たちをすぐ見覚えて、そんな絆名をつけたのであった。そんな名前をつけられても、女中たちは別に気にする風にも見えなかった。むしろよろこんでいるようにも見えた。[やぶちゃん注:「木堂」「きどう」と読んでおく。姓にある。]

 (おネズさんの顔だな)とか(今日はおウシさんだな)とか、僕の一日の意識は、ここから始まるわけであった。

 この下宿に、僕は三年越しにすんでいた。そんなに長く住んでいるくせに、これが自分の部屋であるという実感が、どうしても湧いてこないのであった。僕はいつも一晩どまりで安宿にとまっているような気持ばかりしていた。四角なうすぐらい部屋で、床の間もなかった。狭い押入れがついているだけで、その他には何もなかった。窓をあけると黒い塀があり、窓の下には錆(さ)びたブリキの便器やこわれた牛乳瓶などがすててあるのが見えた。そして展望は全然利かなかった。

 下宿というのは停留場に似ていて、いつもいっぱい人はいるけれども、常に同じ人々ではなく、次々変ってゆくものらしかった。同宿の人たちとも、毎朝食堂で顔を合せているわけだが、いつも初めて会うような顔ばかりで、いっこう親しめなかった。昔は部屋部屋に食膳をもってきたのだから、同宿とも顔を合せる機会はなかったが、戦争に入って配給制度になると、手を省(はぶ)くために食堂をつくって、そこで皆が飯をくうようになっていた。同宿の顔に見覚えがあるのは、二三人だけであった。毎日顔を合せているのに覚えないというのも、僕の弁別力や記憶力がとみに薄弱になっているせいかも知れなかった。皆といっしょに食堂で、だまりこくって食う飯は、ひとりでぼそぼそ食う飯より不味(まず)かった。こんなに沢山いて、同じ量の飯を、同一のおかずで食べるということ、それが眼に見えているだけに面白くなかった。面白くないのは、僕だけでもないらしかった。食堂では、みな沈欝な顔で飯をたべた。

 この下宿は僕みたいな勤め人と、学生が半々位であった。毎朝玄関をでてゆく服装でそれは判った。ときどき下宿人のひとりに召集令状がきて、おウシさんかおネズさんが、餞別の回章をもって廻った。召集がくるのは、たいてい学校を卒業した勤め人の筈であった。ときには十日ほどの間に、二人も三人もつづけて来ることがあった。[やぶちゃん注:「回章」(かいしょう)順々に回して見せる回覧文。]

 僕をつめたく脅やかしているもののひとつは、たしかにこれであった。十全に生活する張りをうしなって、やっと生きているというのも、ひとつには、何時このような赤紙が、僕の現在をうちくだくかも知れないという不安があるためでもあった。回章をみる度にその不運な同宿人に、僕ははげしい同情をかんじた。その感じはそのまま、明日しれぬ僕の運命にくらくつながっていた。

 しかしそれがなんだろう。餞別を女中に手わたしながら、僕はいつもそう考えた。くよくよしても始まらぬじゃないか。とにかく一日一日が終ればいい。

 不運な同宿人がこっそりいなくなると、またあたらしい下宿人がいつの間にかその部屋を占めていた。歯がぬけるとすぐ義歯を入れるように、それは至極(しごく)なめらかに行った。そして前の人の名は、女中たちからも忘れられた。それはへんに中途はんぱな感じを僕におこさせた。

 それらはすべて、人間の生態というより、色褪(あ)せた現象のように僕に見えた。僕をとりまく現実は、あの映写幕のなかのように、ぼんやり灰色がかっていた。そのなかにうごく僕の姿も、すでに色彩をうしなっているらしかった。

 生活する感動を、いつのまにか、僕はすっかり無くしていた。

 そのような僕に、ある日木堂が言った。

「おれたちはだんだん、つまらんことばかりに興味を持ってくるような気がするな。役所の仕事は全然おもしろくなしくせに、役にたたんことには、むやみと情熱が湧いてくる」

 その時僕らは、酒場の行列に加わっていた。五時からの開場を待つために、長蛇の列をつくって待っている人々のなかに、僕らもならんでいたのである。

「そうだな。役所の仕事も、いい加減重苦しくなったな。もともと出世したいと思いもしないし――」

「そういう考え方が、役人としては落第なんだな。出世したくないなどと、役人としては大それたことだよ」

「それの方が、気楽は気楽なんだけれどね」

「だからさ。一杯の酒にありつくために、三時間も行列する方が面白いだろ。役所をさぼってまでね。おれたちはいつまで経(た)っても、雇いという身分なのさ。それをたのしんでいるようなところがあるだろう」

 木堂も、役所の雇員であった。局は異っていたが、僕同様わりあい暇なポストで(暇だといっても、仕事はあることはあったが、それをやらないだけの話であった)だから僕といっしょに、昼間から酒場の行列にも加わることができるのであった。もともと探偵小説などを書いている男だが、戦時のこんな状態では、手も足も出ないから、役所にもぐりこんで、糊口(ここう)をしのいでいるという恰好であった。このような中途半端な連中が、役所のなかに、なんとなく幾人もいた。僕と気息があうのは、おおむねこのような男たちであった。そういう連中は、ほとんど雇員という職名を頭にかぶせていた。

 

 僕が毎日勤めているところは、東京都の教育に関係した役所であった。それも事務関係というのではなく、一種の外郭みたいな、なにをしているのか判らないような、変な具合の役所で、場所も本局とは離れていて、四谷の方にあった。あそこらは今すっかり焼けてしまったけれども、混凝土(コンクリート)四階建のそれだけは、今でも残っていて、中央線を新宿の方から乗ってくると、トンネルに入る寸前に、左手の風景の高台のかげから、その一部分をちらと見せる。他の電車とすれちがうときは、さえぎられて見えない。電車であそこを通るとき、僕は今でも気になって、その建物が今にも見えるかと注意するのだが、すれちがう電車にさえぎられて見そこなう場合もあるし、その灰色の一部を、ちらと眼に収めることもある。僕にとって、電車の窓からみるこの建物の姿は、永久に jinx となるだろう。そこに毎日僕はかよっていた。[やぶちゃん注:「jinx」ジンクス。英語で「縁起の悪い人・物」を意味する語。良し悪しの区別なく、縁起を担(かつ)ぐ対象となる対象或いはその行為を指す。「東京都の教育に関係した役所」事実、梅崎春生は東京帝国大学卒業後(昭和一五(一九四〇)年三月)は東京市教育局教育研究所に勤務しており、昭和十七年一月に召集を受けて対馬重砲隊に入隊するものの、肺疾患のために即日帰郷となり、以後療養するも、同研究所に暫くいた(その後、徴用を逃れようと、昭和十九年の三月には東京芝浦電気通信工業支社に転職しているが、その三ヶ月後の同年六月に応召され、佐世保相ノ浦海兵団入りした)。]

 僕も勿論、ここでは雇いということになっていた。

 この職場における僕を決定する、この雇員という名称が、僕にはなかば気に入っていた。名前の上に雇員と刷りこんだ名刺を、多量に注文して持っていたが、それを使用する機会はなかなか少かった。名刺というものは、もすこし偉くならなければ、必要なものではないらしかった。それほど責任のある地位に僕がいないこと、そして雇員という名称の、「雇われている」という感じが、僕をほっと肩落す気持にさせていた。

 僕がそこであたえられていた仕事は、「東京都の教育」という写真のパンフレットを製作することであった。はじめ所長(ここの長は所長と呼ばれていた)から命ぜられたときは、その担当も僕と小竹主事補の二人になっていたのだが、一月も経たないのにどんな具合か小竹主事補は他の仕事にまわされて、あとは僕ひとりの担当になっていた。それはつまり、大東京の教育状況の写真をあつめ、それを一冊に編輯(へんしゅう)する仕事で、その意図はもっぱら、東亜の諸国にそれを頒布(はんぷ)し、もって教育における大東京の威容を誇示しようとするつもりであるらしかった。

 だから写真を選定するにしても、汚ない校舎や貧弱な備品や、みじめな恰好の生徒がいる場面は、厳にさけねばならなかった。視学あがりのいかにも俗物という感じの所長が、僕をよんで言った。[やぶちゃん注:「視学」ざっくり言ってしまうと、文部省の視学官や地方教育委員会の指導主事相当職。]

「つまり皇都のだね、子弟たちがこんな立派な枚舎と設備のなかでみごとに皇民として錬成されていることを、海外にもひろめてやろうというんだよ。わかったね」

 わかることにおいては、僕は聞かない前からわかっていた。どのみち役人が思いつくのはこの程度のことなので、こんなことでもして予算を費消して、一仕事した気になるのが、東京都の役人の精いっぱいの智慧であった。ことに教育関係の役人の主だった連中は、どういうものか、極めて頭のわるい連中ばかりで、皇国民の錬成だとか、ミソギ教育だとか、馬鹿のひとつ覚えにそんなことばかり言っていて、ここの所長もその例には洩(も)れないのであった。できそこなった玄米パンのような顔をしたこの所長は、野暮(やぼ)ったい眼鏡の底から、僕をみつめて、

「小竹君も仕事の関係でよそへ廻り、君ひとりにこれをやらせる訳(わけ)だが、君は雇いとはいえ、充分仕事ができる人であるとは、かねがねから思っている。そのうち折を見て、主事補にも推薦したいと思っているから、まあしっかりやってもらいたい」

 べつだん主事補にはなりたくないのだと、口まで出そうになったのを、僕はやっと我慢した。雇いで満足している心境を、こんな所長に話してもしかたがないのである。

 こんな具合で、この仕事が僕の担当ということになっていた。しかし命ぜられて数箇月経っているにもかかわらず、仕事はほとんど進捗(しんちょく)しなかった。

 僕は毎朝役所に出かけてゆく。出勤簿に印を押す。とたんに仕事への情熱がなくなってしまうのだ。今日という一日を、こんなやくざな仕事でつぶすのかと思うと、情けなくなってしまう。この「東京都の教育」は、僕にとって、極くやりがいのない仕事であった。東京都教育状況の、ありのままを写せというなら、まあ話もわかるけれども、いいところばかり写せというのでは、気持の入れようもなかった。だいいち情けないことには、どの程度の予算がこれに組んであるかといえば、お話にならないほど少くて、専属の写真屋をつれて写してあるくには、とても足りない小額であった。こんな予算でどうするのかと所長に訊ねたら、雑誌社や新聞社や写真協会から、すでに写された適当な写真をかりてきて、それでつくればいいというのである。おそろしくしみったれた仕事であった。つまり予算をとった手前の、申し訳みたいな仕事なので、しぜん担当も「雇員」の僕におしつけられたという訳らしかった。

 で、出勤簿に印を押すと、すぐ僕は都内出張の手続きをして、たとえば写真協会に資料蒐集という具合にして、四谷の建物を出てゆくのである。そして道をあるきながら、一日をどんな風に終らせようかと考えるのであった。新聞社や雑誌社を廻るのも憂欝であったし、写真協会にゆくのも気が進まない。写真協会のせまい閲覧室で一枚一枚写真を繰るのは、まったく面白くない仕事であった。そして何となく電車に乗り、何となく電車から降り、何となく木堂のいる役所の建物に足をむけるのが、僕の毎日のならわしのようになっていた。

 

 役所というものの機構や実態は、僕には今でも判然としない。四年近く役人生活かしていながら、錯綜した迷路のなかにいたような漠然たる感じがのこっているだけで、どこの仕事がどういう具合にうごいていたか、そんなことは全然理解にとどまっていない。まるで内臓のように復雑な仕組になっていて、意識して覚えようとするならともかく、僕のように興味をそこに置かないものにとっては、永遠に不可解な仕組にちがいなかった。

 しかし、それにしても役所というところは、おそろしく忙がしい部分とおそろしく暇な部分が、なんとばらばらに混っていたことだろう。まるで心臓や肺臓のように一日中いそがしい部署があるかと思えぱ、胃や大腸のように、ときどきいそがしい部署もあるという具合であった。窓口事務で執務している同僚の役人をながめたりするにつけ、僕は自分の部署が、全体からみて、極めて暇な部分にあたることを、感じないわけにはゆかなかった。僕のところはこれらに比べると、まるで扁桃腺か虫様突起みたいに暇であった。[やぶちゃん注:「虫様突起」(ちゅうようとっき)は虫垂(盲腸)の旧称。]

 このような虫様突起が、役所のあちこちに何となくぶら下っているらしく、木堂が属している課も、やはりそんな具合で、何時僕が訪ねても、誰も仕事をしている気配はなかった。みな机の前でぼんやり煙草すっているか、騒々しく雑談しているか、いつもそんな風(ふう)であった。僕のいる部署の風景にそっくりであった。戦争をやっていて、役所においても、人手が足りない足りないといっているのに、こんな空洞が何故あちこちにあるのか、僕には判らなかった。僕に判っているのは、このような空洞が確かに存在し、そのひとつに自分がいるということ、そしてそれを利用する姿勢に自分がなっていることなどであった。早瀬のなかにところどころ、嘘(うそ)のように淀みの箇所をみることがあるが、僕らの部署もそんなものかも知れなかった。そんな淀みのなかに、流れてきた藻がとどまり、そのまま腐っているのを、子供のとき、小川で、僕は何度もみたことがあった。僕はときどきそれを聯想(れんそう)した。子供の僕は、なぜあの藻がいつまでも流れないのかといぶかったものだが。

「虫様突起というものではないだろう」

 僕がそんな話をしたとき、木堂はちょっと厭な顔をして言った。そうして、しばらくかんがえて、

「耳たぶ、という具合には考えられないか」

「耳たぶも、しかし今では無用の長物なんだろう」

「しかし、虫様突起ほど、病的な感じはしないからな」

 病的とは何だろう。また健康とは、どういう形であるものだろう。今の時代において、僕はそれらを理解できなくなっていた。自らが時代からはみでたコブのようなものであることは感じていたが、そうかと言って、コブであることに腹立てたり、恥かしがったりする神経は、とっくに失っていた。しかし、生きてゆくについての、不快な手ごたえと、ざらざらした抵抗感は、おおむねそこから出ていることも、僕は同時にかんじていた。すると木堂はまた言った。

「耳たぶ自身は役には立たないが、眼鏡を通じて、眼に奉仕しているだろう」[やぶちゃん注:ここで木堂が言っている「耳たぶ」とは耳介全体を指している。]

「酒をのんだり、ばくちをうったり、奉仕もないじゃないか」

 そう言って、僕はわらった。

 僕らは執務時間中に、ばくちを打つようになっていた。それはやはり役所のなかにある倉庫みたいな建物で、椅子や机の廃棄品やこわれた立看板などが、ごちゃごちゃにおしこまれた部屋部屋の一番奥に、六畳敷ほどの広さの物置じみた空部屋があって、各局の各課から、僕や木堂みたいなあぶれた余計者が、昼週ぎになると何となくぞろぞろとあつまってきた。ばくちがそこで開帳されるというわけであった。

 しかしばくちといっても、花札や麻雀(マージャン)のような大がかりのものではなく、あぶれ者の僕たちにふさわしい、しみったれたばくちであった。新聞紙を縦に細かく切って、その一枚ずつをとり、その文字のなかに含まれた金額の大小によって、勝負がきまる仕組になっていた。予算の記事のきれはしがあたり、六百五十億円などという数字があたれば、場銭をその男が取ってしまうことになる。時には(定価一円二十銭)などという小額でも、他の連中に金額文字がなければ、勝をしめることもあった。場銭もすくなく、他愛もない勝負であったけれども、それだけに僕らの情熱をかきたてるものがあった。もしルーレットや花札のようなものであれば、僕らは興味をこれほどそそられることはなかっただろう。細長い紙片を、上から下へしらべる手付や感じから、このばくちはフィルムという名がついていた。[やぶちゃん注:「場銭」「ばせん」と読む。賭博をしているその場にあるだけの金銭を指す。]

 たいていその部屋に行けば、五六人の男たちがこのフィルムをやっていた。部屋のすみからこわれた椅子を引きよせて、だまって場銭を出して加わればいいのである。場銭は、踏みこまれたときの要心に、本物の紙幣ではなく、個人が発行する金札をあてていた。人間はなんという詰らぬところに凝るものだろうと思うが、その金札[やぶちゃん注:ここは底本は「金礼」となっているが、誤植と断じて訂した。]もいろいろ工夫をこらして、ボール紙を四角に切って毛筆で丁寧(ていねい)に書いたのもあれば、どうごまかして押したのか、自分が属する局長印をれいれいしく押したのもあるのであった。極秘などという印をおしたのもあって、それが勝負にしたがってやりとりされ、後で清算されることになる。退庁時間がくると、かならず勝負が終ることになっていた。やくざな僕らではあったけれども、役人のはしくれであるからには、この辺はきわめて几帳面(きちょうめん)であった。

 とにかく現職の役人たちが、昼日中、仕事をさぼって、こんな物置部屋でばくちを打っているということは、国民精神総動員の趣旨には至極外(はず)れたもののようであった。げんに隣の部屋には、その手の立看板の古びたのが、山とつまれてあって、ここに出入するたびに僕らはそれを眺めているわけであった。ここにあつまる連中の部署は雑多で、口うるさい男たちであったけれども、この部屋のことについては、秘密はよく保たれていた。僕らはすべて、脱落したような表情をうかべて、硝子窓に日射しがうすれるまで、フィルムをつづけるのであった。

 この部屋にあつまる常連を、しかし僕はここで見知っているばかりで、どんな仕事をしているのか、どんな経歴をもっているのか、僕は全然知らなかった。このフィルムにうちこむ情熱の点だけで、僕は彼等と親近感をわかっていた。彼等も病める虫様突起にちがいなかったし、外的な力で破れ去る予感が、こんなフィルムにうちこむ原動力になっていると、僕は漠然と感じていたから。

 

「だれも戦争に反対する、そんな強い気持はないんだ。ほんとに反対するなら、あんな顔つきでフィルムなどやっているものか。潮の流れから、自分も知らないうちに、はみでてしまっただけなのさ。そのいきさつも、自分では判っていないんだ。だから、似てるだろう。飲屋にならんでいる連中とさ。そっくりのつらつきだよ」

 いつか木堂がそう言ったように、そういえば両者はまことに似ていた。この頃酒の方はしだいに窮屈になっていて、莫大な金を出せばいざ知らず、飲食税のかからぬ範囲で飲もうとすれば、広い東京でもその数はかぎられていて、それも早くから行列しなければ不可能であった。とにかく一回の勘定が税のかからぬ金額内であるから酔うためには、二回も三回も行列の背後に廻らねばならぬ。その回数をかせぐためには、どうしても早くから行って並ぶ必要があった。

 しかし早くから並ぶ必要があるとしても、五時開店だというのに、昼ごろからならぶような情熱を、皆はどこで支えていたのだろう。実際に、嘘ではなく、正午頃には行列がすでに出来ていたのである。このような酒場はさすがに、ごく安くて、いい品質の酒をのませる店であったけれども。

 そしてそこに顔をつらねている常連が、フィルムの常連と、その感じが非常に似ているというわけであった。もちろんフィルムの常連は、一応は小役人だから、身なりにしてもそうくずれたところはなく、ちやんと「防空服装」をまとっていたが、飲屋の常連はもすこしくずれていて、吹きよせられた落葉のような連中が多かった。しかし不思議なことには、たとえば木堂にしても、この行列に混ればちゃんと処を得て、一色にやすやすととけ入るようであった。防空服装も、ここに入ればたちまち、しおたれた印象をはなってくるのである。もちろん僕自身も、そうであるにちがいなかった。僕もこの行列の中では、わらの中に寝るような気易さをいつも感じていた。酒を飲む喜びにつながる、行列の喜びといったものを、僕は確実に体得していた。正午からならぶということも、僕にはその気持がはっきりわかっていた。しばしば僕らも、昼頃から並んだりしていたから。

 僕は行列に混り、開店をまちながら、煙草をすったり、前後の人々と話を交したりする。僕はたいてい木堂といっしょであったが、時にはひとりでも出かけた。行列の会話というのも、たいてい他愛もない世間話で、どこそこの飲屋は盛りがいいとか、どこそこは札(ふだ)を何時から呉れるとか、そんな知識の交換などである。戦争末期に存在したこの種の安酒屋を、僕は今でも二十や三十憶い出せるが、浅草のカミヤバーとか新橋の三河屋のような大きな店をのぞくと、大抵(たってい)横町とか裏町とか、そんな侘(わび)しい場所にあって、自然そこにあつまる連中も、そんな風景にふさわしい男たちなのであった。身体のどこかが脱落したような、ふしぎな臭いを漠然とただよわせていて、声は酒のためか必ずしゃがれていて、木堂の言葉によると、こんな声を、gin-and-water voice と言うのだそうであった。こんな役にも立たない言葉を、木堂はいくつも知っていた。[やぶちゃん注:「浅草のカミヤバー」現存する老舗(公式サイト)で、「電気ブラン」でよく知られる。「新橋の三河屋」現在、銀座などで手広くやっている和食飲み屋と同名店かどうかは不詳。「gin-and-water voice」私は不学にしてこの成語を四十年前にこの小説で知った。]

 やがて店が開く。行列がすこしずつ動き出して、自分が入口へゆるゆる移動してゆくのが、言いようなく楽しい感じであった。しばらくすると、飲み終えたらしい人影が店の入口から出て、こちらに走ってくる。もちろん第二回を飲むために、行列の後ろへ走ってくるのである。その走り方は、ふしぎなことには、そろって幾分身体を傾斜させ、びっこを引くような走り方であった。まっとうな走り方をする者は、ほとんどなかった。そしてそれは、連日の酩酊(めいてい)からくる身体の変調からでもあっただろうが、むしろ精神的な理由に起因しているように、僕には感じられた。やっと入場して、あわてて飲みほす。そして僕も木堂も入口を飛び出す。さて駈けるという段になると、僕らの走り方も自然とそんな具合になるのであった。そんな走り方をしながら、ずらずらとならんだ一列の眼を、逆にこすりあげながら、後ろの方にかけてゆく。ある複雑な表情を面にうかべながら。

 後方へ走ってゆく連中は、すべて僕と同じ表情をうかベているわけであった。それらの表情は、復雑なニュアンスを含んでいるのでうまく表現しにくいが、ふたつの相反したものがごっちゃになって、強く顔に出ているという感じであった。喜びとかなしみと、あるいは誇りと自卑と、また親近と反撥と、それらがなまのまま組合わさって、なにか惨(みじ)めな色をふくんでいるのであった。それはもちろん行列の眼を意識することから起るものにちがいなかったが、またそれを超えた個人個人の奥のものでもあった。このような時に、飲屋の常連は、もっとも常連らしい色を濃く打ちだした。

 この広い東京のなかから、夕方近くになると、こんな風に集ってくる人々は何だろう。そのひとりひとりを探れば、いずれ僕みたいに、その日その日の終了のみをたのしむ人々には違いないだろうが、さて街をあるいてみると、烈しい文句の立看板が立っていたり、防空壕がものものしく掘られていたりして、そんな脱落の表情をうかべているのは、僕ひとりのような気がするのであった。それが不安なので、僕はどうしても飲屋の行列に加わるために、あらゆる手段をつくさないわけには行かなかった。そして僕の内部で、酒への嗜好(しこう)が一種の倒錯をおこしていて、酒をのむために行列するのか、行列したから酒をのむのか、はっきりしなくなっていた。三時間も四時間も、じっと行列して待っていることが、自分に退屈であり苦痛であるのか、またそれに生甲斐を感じているのか、それもはっきり判らなかった。

 しかしそれは、フィルムの件についても、同じであった。

 

 フィルムに打ちこむ情熱という点で、僕は彼等と親近をわかっていたものの、その親近感も一皮むけば、ある嫌悪に支えられていることも否めないことであった。自分と同じ気持のものがいることは力強いことでもあったが、同時に不快なことでもあった。フィルムをやりながら、疲れてくると(三時間もつづけてやっていると、これはひどく疲れる仕事であった)僕は自分が不機嫌になってくるのが判った。そしてそれは、皆も同じらしかった。それをどんなにごまかしてゆくかが、いわば僕らの生き方のようなものであった。

 僕にはっきり判っていることは、とにかく今の時代が居心地よくないということだけであった。そういう最大公約数を皆と分ち合っていた。どうすれば居心地よくなるかということは、僕には判らなかった。またこんな状態がいつまでつづくかということも、判らなかった。僕をおびやかしているものも、遠くはるかな形のないものをのぞけば、下宿料がたまっていることとか、「東京都の教育」をほとんど手をつけていないこととか、そんなつまらないことばかりであった。こんな詰らないことが、僕に鎖のように重かった。「東京都の教育」についても、僕は再三所長から催促されていた。命令されてから、もう半年近く経(た)っていた。進行中だとか何とか、ごまかし切れないところまで来ていた。

 フィルムの部屋にあつまってくるのは、こんな僕と同じような中ぶらりんな位置にあるらしかった。執務時間中にこんなところに来るのも、どこかで無理をしていないわけはないので、勤務という点では皆うしろ暗いところがあるわけであった。だからこそ、フィルムに全情熱をかたむけ得るとも言えた。

「――課長がおれを呼んでね、今のままで一体どうする気か、つとめる気持あるのか、と聞きやがるから、おれは黙っていたんだ。だって返答できないからね」

 そんなことを、フィルムの常連のひとりが言った。三十四五にもなるのに、まだ雇いで、背の高いやせた男であった。

 「すると、君はなにかイズムを信じているんじゃないか。イズムをね。と言いやがった。なにもかも判ってるぞという顔をしやがったから、おれも困ってね。おれにも判りゃしねえんだ。仕方がないから、しばらくして、イズムといえば Masochism を信じていますと答えてやったよ。ヘんな顔をしてたよ」[やぶちゃん注:「Masochism」マゾヒズム。被虐嗜好性性欲。]

 僕らはそれで大へん笑ったりしたけれども、実は僕も所長にそんな目にあっていた。ある日、出て行こうとするのを呼びとめて、所長が僕を小使室につれて行った。どういうつもりで小使室に呼び入れたのか知らないが、くだけて話するという気勢を示したかったものと思う。そして、君の勤務状況はあまり良くないが、何か不満でもあるのか、と問いつめられて、僕は大へん困惑した。仕事がおもしろくないのだと答えれば、何故おもしろくないのかと聞くにきまっている。そうなれば僕の理解を絶したことだから、うまいこと答えが出来るわけはないのだ。だからだまっていると、所長は黒縁の眼鏡ごしに、

「君は、学生時代にだね、何か、その方の運動でもやったことはないかね」

「はあ」と僕はいきおいこんでこたえた。「運動は、バスケットボールの選手でした」

 所長はすこし呆れたような顔になって、僕を見ていたが、道理で背が高くていい体格なんだね、と言いながら、仕方なさそうに笑った。それでその日は済んだけれども、又いずれ問いつめられるにきまっている。「東京都の教育」の写真にしても、まだ四五枚しか集めていないことがわかったら、僕としても申し開きが立たない。半年近くも、只で給料貰っていることになる。そんな僕にむかって、木堂が言った。

「おれは近頃、ますますフィルムと酒の行列に生甲斐をかんじるようになったな。しゃにむにという感じがする」

 木堂はもともと背の小さなやせた男だが、近頃ますますしなびて、眼だけがキラキラ光るようになっていた。僕とほぼ同じ頃役所に入ったのだが、僕よりも出世がおそい風(ふう)であった。近頃、あまり勤務成績があがらないから、他の課に廻す、と課長からおどされて、面白くない様子であった。

 こういう木堂にしても僕にしても、生きてゆく情熱をすりかえて一点に凝集させるものを、毎日切に欲していた。それでいちばん手っとり早いのは、酩酊(めいてい)であった。ともすれば頭をもたげる心配をつぶす上にも、これは絶対に必要であった。

 

 僕らはたいてい毎夜酔っていた。資金をどうにか調達して、毎日いそいそと行列に加わった。

 五時に店が始まる。行列の前の方からざわめきが伝わってきて、もうその時は、前方の連中は店の内に入っている。そしてポツリポツリと傾いた人影が走ってくると、そろそろ列がうごき出す。ある陶酔が、すでに列全体を支配してゆくのが判る。

 僕らはおおむね、強い酒をこのんだ。酒の味をたのしみに行くのではなかったから。いち早く酩酊をよびよせるために、そして今日という日をそれで終らせるために、泡盛(あわもり)とか焼酎をとくに好んだ。皆も同じ気持であることには、店が開いて、その日の品物が日本酒であることが判ると、列をぬけて他の店に走ってゆく連中もいた位であった。そしてウィスキーも不評であった。値段にくらべて量がすくなく、酔うまでに大へんだったから。

 やがて一回目が終って、二回目の先頭がふたたび店に入るころから、行列はなんとなく華やいでくる。この長い大蛇のような人の列に、ひとわたり酒が行きわたって、昼の間の緊張をときほぐすような黄昏(たそがれ)のいろとあいまって、あの何ともいえない親しい温和な雰囲気にあふれてくる。この瞬間を、僕は何ものにもかえがたく愛した。黄昏とは、何といいものだろう。その黄昏の風物を――三河屋で見た夕月や、飯塚の柳や、堀留橋の蝙蝠(こうもり)や、カミヤバーの夕霧を、僕はいまでもなつかしく思い出す。今大急ぎであおった酒が、また列に加わっているうちに、ほのぼのと発してきて、風景は柔かくうるんでくるのだ。この時僕は始めて、自分を、人間を、深く愛していることに気がつく。それはひとつの衝動のようにやってくる。[やぶちゃん注:「飯塚」不詳。「堀留橋」江戸初期の神田川開削の際、日本橋川の神田川からの分流点より堀留橋までの区間が埋めたてられ、この付近が堀の終点となっていたことから「堀留」の名がある。明治三六(一九〇三)年に再びこの区間が開削され、日本橋川となった。現在の橋は関東大震災後の震災復興橋梁の一つ。「こおろぎ橋」の別名もあった。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 それにしても人々は、僕もふくめて、何と性急に酒をあおるのだろう。あの強い焼酎を、ほとんど二口か三口でコップを乾し(まるで飲むことの責苦から一刻も早くのがれようとするかのように)そして外にとび出して、かけ出すのである。まるで自分の身体を、カクテルセーカーにしたように、傾き揺れながら走ってゆく。ある復雑な表情をうかべながら。

 そして二回目三回目とすすむにつれて、温良な和(なご)やかさが騒然とくずれてきて、あたりはすっかり暗くなってくるのだ。酔っぱらっただみ声が、あちこちで聞え、僕らの頭のなかでも、酔いがゼンマイのように弾(はじ)け上ってくる。そうして僕らもすっかり酔っている。「東京都の教育」のこともフィルムのことも、すっかり頭から消えている。

 泥酔した木堂をかかえて、僕はしばしば僕の下宿にもどったし、また僕がかかえられて、木堂の下宿にとまりに行った。そしてそのまま眠ってしまうと、朝までは何も判らなかった。朝になって眼を開いてから、昨夜の記憶をいそがしくたどり上げるのであった。それはなにかにがにがしいものを、おびただしく含んでいた。今日という一日が、また始まるという重苦しい気分が、それにかさなるのであった。すこし開いた唐紙(からかみ)のかげから、おウシさんかおネズさんの眼玉がひとつのぞいて、

「もう七時ですよ。起きないとおくれますよ。おや、昨夜も木堂さんといっしょ?」

 そんな時、木堂は僕のわきで寝ている。血の気のない、紙のように白くなって眠っている。

「早く起きて御飯たべないと、役所に間に合いませんよ」

 毎朝そうやって眼覚めるたびに、此の部屋が僕の部屋ではないような気がするのであった。壁のいろにしても部屋の形にしても、なにかなじめなく、よそよそしい感じであった。まるで他人の部屋にとまっているような感じであった。

 そしてこんな一日を、また夢遊病者のように、役所からフィルム部屋へ、また夜は飲屋へ廻る自分の姿が、もはやありありと予想されるのであった。

 しかしそれでもいいじゃないか。僕は重い頭を支えて起き上りながら考える。とにかくまた今日を過せばいい。明日は明日でどうにかなるだろう。こんな状態がいつまでつづくのか知らないが、こういう一時期を、こんな形で生きてきたということも、それ以外に生き方が見つからなかったからだ。そいつは仕方のないことだ。

 自分の心をなだめなだめしながら、僕はやっとのことで生きていた。太平洋戦争は少しずつ負けかかっていて、僕はもうすぐ三十歳になろうとしていた。

[やぶちゃん注:終戦の年で梅崎春生は数え三十一歳であった。]

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