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2022/02/11

狗張子卷之四 味方原軍

 

[やぶちゃん注:今回の挿絵は状態が最もよい現代思潮社版のそれをトリミングして、適切と思われる位置に挿入した。]

 

   ○味方原軍(みかたがはらいくさ)

 永祿・天正のあひだ、天下、亂れ、近里遠境、たがひにあらそひ、隣國郡邑《ぐんいふ》を幷(あは)せとらんと、挑み戰ふ。臣として、君を謀り、君は又、臣をうたがひ、兄弟、敵(てき)となり、父子、怨(あた)をむすび、運にのりては、數國(すこく)をうばひ、勢ひ、つきぬれば、牢浪し、榮枯、地(ところ)をかへ、盛衰、日にあらたまれり。そのあひだに死するもの、いく千萬とも限りなし。兵亂(ひやうらん)、打ちつゞき、京も田舍も、靜かなる時、なし。かくては、世の中に人種(《ひとの》たね)も絕えはてんとぞ、思はれける。

 元龜三年十二月廿二日、甲斐の信玄、五萬よ騎にて、遠州濱松におもむき、味方原に押しつめらる。

 德川家には、信長公より加勢として平手監物(ひらてけんもつ)・大垣卜全(おほがきぼくぜん)・安藤伊賀守以下、九頭(《くの》かしら)をつかはさる。岡崎・白洲賀(しらすが)まで、甲(かぶと)の星をならべて、取《とり》つゞきたり。

 水野下野守・瀧河(たきがは)伊豫守・毛利河内守を初めて、備(そなへ)を堅(かたく)して待《まち》かけたり。

 かゝる所に、信玄のかたより、小山田兵衞、先陣にすゝみ、德川家の先手(さきて)内藤三左衞門と合戰を初め、小山田、追《おひ》くづされて、引《ひき》しりぞく。

 

Mikatagahara

 

 山縣三郞兵衞、つゞいて、かゝるを、酒井左衞門尉に、つきくづされて、あやうくみえしを、四郞勝賴、橫相(よこあひ)にかゝりて防ぎけるに、北條氏政の加勢、大藤式部少輔(だいとうしきぶのせう)、德川がたより、打ちかけし鐡炮に、むないたを打ぬかれて、馬より、倒(さかさま)におちて死にければ、德川家、勝(かつ)にのりて、突(つい)てかゝる。本田(ほんだ)平八・榊原小平太・安部(あべの)善九郞・大洲賀(おほすか)・菅沼(すがぬま)・櫻井・設樂(しだり)・足助(あすけ)の人々、すきまもなく責(せめ)つけしかば、武田がた、切立《きりたて》られ、濱松と「みかたが原」との間に、「犀(さい)ががけ」とて、深き谷あり、武田の軍勢、此《この》谷底にまくり落され、いやが上に重なり、己《おの》が太刀・かたなにつらぬかれて、死するもの、數しらず。

 信玄も、陣を佛(はらつ)て、歸らる。

 亡魂(ぼうこん)、谷底に殘りて、夜な夜な、啼きさけびけり。

 德川家より、僧に仰(おほせ)て、五色(《ご》しき)の絹にて、燈籠をはらせ、さまざまの作物(つくりもの)、もろもろの花、色々の備物(そなへもの)、七月十三日より十五日まで、盂蘭盆會(うらぼんゑ)を營み、念佛踊(ねんぶつをどり)を始められしに、啼き叫ぶ聲、止(やみ)にけり。

 それよりこのかた、「賓燈籠(ひんどうろう)」と名づけて、每年(としごと)の七月には、かならず、魂祭(たままつり)おこなはれ、「賓燈籠」の「念佛をどり」ありとかや。

[やぶちゃん注:挿絵は一九八〇年現代思潮社刊の「古典文庫」の「狗張子」のものをトリミングした。「伽婢子」及びここまでの「狗張子」の中で、最も面白くない一篇である。従って、細かな注記を附す気にならないので、非常に詳しい注の附された江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(三)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)をお読みになられたい。登場する武将について各個注記されてある(されば、私は一人を除いて一切省略させて貰う)。「三河一向一揆」・「伊賀越え」と並び、徳川家康の三大危機とされる「三方ヶ原の戦い」は当該ウィキが詳しいから、そちらで時系列順に戦況の変化を追われるよかろう。戦闘の行われた遠江国敷知(ふち)郡の三方ヶ原は、浜名湖の北の東方で、現在の静岡県浜松市北区三方原町附近(グーグル・マップ・データ)である。

「永祿・天正」ユリウス暦一五五八年から、元亀(一五七〇年から一五七三年まで)を挟んで、グレゴリオ暦一五九三年(ユリウス暦一五九二年)まで。

「元龜三年十二月廿二日」ユリウス暦一五七三年一月二十五日(グレゴリオ暦換算二月四日)。ウィキの「三方ヶ原の戦い」によれば、『当初、徳川家康と佐久間信盛は、武田軍の次の狙いは本城・浜松城であると考え、籠城戦に備えていた。一方の武田軍は、二俣城攻略から』三日後の十二月二十二日に『二俣城を出発すると、遠州平野内を西進する。これは浜名湖に突き出た庄内半島の北部に位置する堀江城(現在の浜松市西区舘山寺町)を標的とするような進軍であり、武田軍は浜松城を素通りして』、『その先にある三方ヶ原台地を目指しているかにみえた』。『これを知った家康は、一部家臣の反対を押し切って、籠城策を』、『三方ヶ原から祝田』(ほうだ)『の坂を下る武田軍を背後から襲う積極攻撃策に変更し、織田からの援軍を加えた連合軍を率いて浜松城から追撃に出た。そして同日夕刻に三方ヶ原台地に到着するが、武田軍は魚鱗の陣を敷き』、『万全の構えで待ち構えていた。眼前にいるはずのない敵の大軍を見た家康は鶴翼の陣をとり』、『両軍の戦闘が開始された。しかし、不利な形で戦端を開くことを余儀なくされた連合軍は武田軍に撃破され、日没までのわずか』二『時間ほどの会戦で』、『連合軍は多数の武将が戦死して壊走』した。『武田軍の死傷者』二百『人に対し、徳川軍は死傷者』二千『人を出した。特に、鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵、本多忠真、田中義綱といった有力な家臣をはじめ、先の』「二俣城の戦い」での『恥辱を晴らそうとした中根正照、青木貞治や、家康の身代わりとなった夏目吉信、鈴木久三郎といった家臣、また織田軍の平手汎秀』(ひらてひろひで)『といった武将を失った。このように野戦に持ち込んだことを含めて、全て武田軍の狙い通りに進んだと言えるが、戦闘開始時刻が遅かったことや』、『本多忠勝などの武将の防戦により、家康本人を討ち取ることはできなかった』とある。

「大藤式部少輔」北条氏康・氏政の家臣で相模国田原城主・相模国中郡郡代で諸足軽衆足軽大将であった大藤秀信(?~元亀三(一五七二)年)。挿絵でその死が描かれてあるので、菩提のために注する。通称は与七、法号は芳円。室は同じ北条家家臣山角(やまかく)康定の娘。息子に北条氏政から一字を偏諱された二代目政信がいるが、秀信自身も氏政から一字を賜り、同名の「政信」に改名している。そのため、息子と区別するために「初代政信」と呼ばれることがある。父の信基の死去後の天文二一(一五五二)年に末子であったが、大藤氏の家督を継いだ(恐らくは嫡子がいなかったためと推定される)。足軽衆を率いて各地を転戦し、特に永禄四(一五六一)年に越後の上杉謙信を撃退するに大功を挙げた。永禄一一(一五六七)年に田信玄が駿河侵攻を行うと、今川への援兵として武田軍と対峙し、掛川城、後に韮山城に籠って抗戦した。しかし元亀二(一五七一)年、甲相同盟が成立したため、一転して武田信玄の遠江侵攻に協力し、「二俣城攻め」に加わるが、元亀三(一五七二)年十一月の落城直前、銃弾に当たって戦死した、と当該ウィキにはあるので、「三方ヶ原の戦い」の前に亡くなっていて、本話の記載とは齟齬する

「勝(かつ)にのりて」江本氏注に『ひとたび勝判を得たことで、はずみがついて。』とある。

『「犀(さい)ががけ」とて、深き谷あり、武田の軍勢、此《この》谷底にまくり落され、いやが上に重なり、己《おの》が太刀・かたなにつらぬかれて、死するもの、數しらず』「犀ががけ」は「犀ヶ崖」で、浜松城の北側凡そ一キロメトールの、現在の静岡県浜松市中区鹿谷町附近(グーグル・マップ・データ。航空写真で拡大すると、「犀ヶ崖古戦場」が確認でき、サイド・パネルの複数の写真(例えばこれ)で現在の谷の感じが判る)にある断崖。「三方ヶ原古戦場」として静岡県史跡に指定されている。現在は、長さ凡そ百十六メートル・幅二十九〜三十四メートルほどで、深さは約十三メートルであるが、当時のスケールはよく判っていない(以上の主文は「浜松市」公式サイト内の「犀ヶ崖(さいががけ)資料館」の記載に拠った)。但し、ウィキの「三方ヶ原の戦い」によれば、『武田軍によって徳川軍の各隊が次々に壊滅していく中、家康自身も追い詰められ、夏目吉信や鈴木久三郎を身代わりにして、成瀬吉右衛門、日下部兵右衛門、小栗忠蔵、島田治兵衛といった僅かな供回りのみで浜松城へ逃げ帰った。この敗走は後の伊賀越えと並んで人生最大の危機とも言われる。浜松城へ到着した家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、いわゆる空城計を行う。そして湯漬けを食べてそのままいびきを掻いて眠り込んだと言われる。この心の余裕を取り戻した家康の姿を見て将兵は』、『皆』、『安堵したとされる。浜松城まで追撃してきた山県昌景隊は、空城の計によって警戒心を煽られ』、『城内に突入することを躊躇し、そのまま引き上げ』たとある。一方、『同夜、一矢報いようと考えた家康は』、『大久保忠世、天野康景らに命令し、浜松城の北方約』一『キロにある犀ヶ崖付近に野営中の武田軍を夜襲させ』(「犀ヶ崖の戦い」)、『この時、混乱した武田軍の一部の兵が犀ヶ崖の絶壁から転落したり、崖に』誘い『寄せるために徳川軍が』、『崖に布を張って』、『橋に見せかけ、これを誤認した武田勢が殺到し』、『崖下に転落』させる『などの策を講じ、その結果、多数の死傷者を出したという』。『ただし、「犀ヶ崖の戦い」は徳川幕府によって編纂された史料が初出で』、幅百メートルの『崖に短時間で布を渡した」、「十数』挺『の鉄砲と』百『人の兵で歴戦の武田勢』三『万を狼狽させた」、「武田勢は谷風になびく布を橋と誤認した」という、荒唐無稽な逸話であ』り、『また、戦死者数も書籍がどちらの側に立っているかによって差があり』、「織田軍記」では徳川勢五百三十五人、甲州勢四百九人と『互角に近い数字になっている』とある。本篇は家康の大負けを隠し、この「犀ヶ崖の戦い」の奇策戦を、あたかも勝利戦のように描いて、やおら怪談に持ち込むという、事実としても何だか胡散臭い怪談である。但し、江本氏の「念佛踊」の注には、『孟蘭盆や仏事に際して、念仏や和讃を唱えながら、鉦や太鼓を打ち鴫らして踊る踊り。現在無形文化財である遠州大念仏は三方が原合戦で戦死した軍勢の霊を、家康が大念仏で供養したのが始まり、という由来を持つ。』とある。しかし、やはり江本氏も最後に、『【余説】本話末尾による限り、合戦は武田方の敗北に終わり、家康が霊を弔ったかのように読めるが、「味方が原」の合戦は、数少ない徳川方の大敗北で、家康自身が「けふの大敗」と(『徳川実紀』申「東照宮御実紀忖録」二)と、完敗を認めるものであった。本作の著者が、曲げているとすれば、その意昧は十分吟味されるべきだろう。』と批評しているのは尤もなことである。

「賓燈籠(ひんどうろう)」「浜松市」公式サイト内の「浜松の夏の風物詩遠州大念仏・念仏踊」によれば、『大念仏の列は、次のような構成になっています。先頭は三ツ葉葵の紋付羽織を着て』、『組を誘導する「頭先(かしらさき)」、次に賓燈籠(ひんどうろう)一対』(☜)『を持つ「頭」が』二『人続き、遠州大念仏と標示した組の「幟(のぼり)」』一『本』、二『つの鉦の音が共鳴し』、『長い余韻を残す「双盤(そうばん)」、「笛」、「摺鉦(すりがね、小鐘)」、「太鼓」、行進の際に組名入りの提灯を持ち回向の際は斉唱する「供回り」、行進の調整役となる「押し」が続きます』とあった。サイト「Go!Go! 郷中」の中の「遠州大念仏」のページの最初にある「切子燈籠」(一対あるようだ)がそれであろう。

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