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2022/02/11

狗張子卷之三  蜷川親當逢亡魂 / 狗張子卷之三~了

 

[やぶちゃん注:標題は「蜷川親當(みながはちかまさ)、亡魂に逢ふ。」である。挿絵はない。短編のせいだろうが、私の好みのシークエンスが後半にあり、是非とも挿絵が欲しいところである。]

 

   ○蜷川親當逢亡魂

 都の東山鳥部野は、古しへ、空海和尙の御師範(《ご》しはん)石淵(いはぶち)の勤操(ごんさう)僧正、遷化し給(たま)ひけるを、はうふりしより、今に及びて、墓所(むしよ)の名を、すてず、人のあだなきためしには、歌にもよむ事なり。上の山を「あみだが峯」と、なづく。露けき野ばらも、時(とき)、世かはりて、その所だに、たゞしからず。

 永享《えいきやう》年中の事にや、將軍義敎公は京都の公方として天下をおさめ給ふ。

 家臣蜷川新右衞門尉親當は、かくれなき武篇の勇士なり。

 そのころ、

「鳥部野には妖物(ばけもの)あり。」

と、いひはやらかし、女(をんな)・童(わらは)おそろしがりて、晝も、ゆかず。

 新右衞門、聞《きき》て、

「みずから、心ねを、ためさん。」

とて、ある夜《よ》、只ひとり、長刀(なぎなた)、打《うち》かつぎ、鳥部野のあたりに、いたる。

 さなきだに、物のあはれは秋にこそあれ、風も、一しほ、身にしみて、ゆくへも、いとゞ物悲(ものがな)しく、虫の音《ね》までも、更ゆく秋をかこちがほなり。草葉も色かへて、露しげきに、かくてぞ、思ひつゞけける。

 鳥部野の草葉色づく秋の夜は

      こと更虫の聲もかなしき

 奧ふかく行《ゆき》けるに、人を葬(はう)ふり、薪(たきゞ)をつみて燒きける火にむかひて、一人の女、座して、あり。

 親當、行かゝり、女のうしろに立ちて、

「かゝる野ばらの、人かげもまれに、すさまじきを、おそれもせず、獨り座しておはする、その心(こころ)、ありや。」

と問ひければ、女、こと葉なくて、

 夏虫のもぬけのからの身なればや

      何か殘りて物におそれめ

と、いひければ、親當、重ねていはく、

「かくこたふるは、何ものぞ。」

と問ふに、女は、おもても見かへらずして、

   岩松無聲風來吟(がんしよう ぶせい かぜ きたりて ぎんず)

かきけすやうに、うせぬるを、蜷川(みながは)、すこしもおそれずして、もゆる火のまへに立《たち》よりて、女の居(ゐ)たりける跡をみれば、しやれ首(かうべ)のくだけたる有《あり》しかば、長刀の柄《え》にかけて、火のなかにうち入《いれ》、暫(しばら)く念佛ゑかうして、かへりけり。

 人ばなれなる野中(のなか)に、虫の聲のみ聞えて物すごきに、きつね火、をちかたにみえて、松の木(こ)ずゑをわたる聲より外《ほか》には、又、ことなるものも、なし。

 そのあひだに、東の山のはに、月しろ、あがりしを、たいまつにして、靜かに家にぞ、歸りける。

 

狗波利子卷之三終

 

[やぶちゃん注: 「鳥部野」「猪熊の神子」の「阿彌陀が峯」の注を参照。

「空海和尙の御師範石淵の勤操僧正」(天平勝宝六(七五四)年~天長四(八二七)年)は「ごんぞう」とも読む。奈良国生まれ。俗姓は秦、通称は石淵僧正。奈良大安寺の信霊・善議に三論を学んだ。延暦一五(七九六)年、奈良石淵(いわぶち)寺で「法華八講」を初めて行ったという。奈良弘福(ぐふく)寺や、造営中だった京都西寺の別当となっている。天長三(八二六)年に大僧都となった。最澄や空海(宝亀五(七七四)年~承和二(八三五)年)と親交があり、空海の師ともされる。

「あだなき」中世・近世語で、「はかなく頼りない」の意。

「あみだが峯」同じく「猪熊の神子」の「阿彌陀が峯」の注を参照。

「永享年中」一四二九年~一四四一年。

「蜷川新右衞門尉親當」(?~文安五(一四四七)年)は、例の江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(二)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)によれば、『「みながわ」は普通「にながわ」。ただし』、『「蜷 ミナ」(書言字考)の読みはある。蜷川氏は中世以来の武家で、物部守屋の孫の宮道氏より出て、親直を祖とする。越中国新川郡蜷川村(現富山市)に在住したので蜷川を姓とした。親当は和漢の才があり、また蜷川氏は室町幕府執事伊勢氏と婚姻関係にあったことから、伊勢氏の代官として、幕府の政所代となり、以後』、『代々』、『政所代をつとめた。なお、親当と一休宗純の逸話は著名(『一休ばなし』一―四「蜷川新右衛門親当初て一休にあふ事」)。』とある。

「武篇」「武邊」に同じ。

「心ね」武士としての真性。根性といった方が判りがいいか。

「かこちがほなり」恨めしそうな顔しているようだ。

「鳥部野の草葉色づく秋の夜はこと更虫の聲もかなしき」江本氏は『典拠未詳』とされる。

「野ばら」「野原」。

「その心、ありや。」これは私は、凄絶にして荒涼なる火葬地に平然としている彼女に「そなたは人間としての心を幾分かは持った存在か?」と禅の公案に応ずる師の如く、「作麼生何所爲(そもさんなんのしよゐ)ぞ!」(私の偏愛する上田秋成の「靑頭巾」の「快庵禪師」のクライマックスの応辞の台詞)と真っ向から問うているのであると読む。

「夏虫のもぬけのからの身なればや何か殘りて物におそれめ」江本氏注に、『類歌「夏蝉のもぬけはてぬる身となれば何か残て物おじをせん」(「武者物語之抄」四)。』とある。

「岩松無聲風來吟(がんしよう ぶせい かぜ きたりて ぎんず)」江本氏注に、『岩の上の松は、風が吹いて来たときのみ枝葉を鳴らす。ここでは、自分も物を言いかけられたから話したにすぎないという意。同様の詩句は『武者物語之抄』四に見られる(ただし』、『振り仮名は「がんしょうせいふうらいぎん」)。なお類似の詩句に「巌松無心風来吟」(「醒睡笑」八「頓作」)がある。』とある。禅の公案の答えの一つであろう。

「もゆる火のまへに立《たち》よりて、女の居(ゐ)たりける跡をみれば、しやれ首(かうべ)のくだけたる有《あり》しかば、長刀の柄《え》にかけて、火のなかにうち入《いれ》、暫(しばら)く念佛ゑかうして、かへりけり。」ここが、実にいい!

「をちかた」「遠方」。遠くのところ。ずっと向こうの方。

「月しろ、あがりしを、たいまつにして」「月しろ」は「月白・月代」で、「月が出ようとする際に東の空が白んで明るく見えること」を言う。それを松明の代わりとして蕭条たる墓域を去る、とは、如何にも武辺の風流というべき見事なコーダである。]

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