萩原朔太郎が大島に二度行っている事実を迂遠に検証することとする
次の『萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版」は「南の海に行きます」なのだが、その詩の中で、朔太郎は「淺間の山の雪も消え」ているのを遠く臨み、「けふ利根川のほとりに來てみ」たりしているので、前橋らしき場所にいるのであるが、しかし、「ああ、けれども私はさびしく、/いまはひとりで旅に行く行く、/ながい病氣の巢からはなれて、/つばきの花咲く南の島へと行かねばならぬ、/つばめのやうに快活に、/とんでゆく、とんでゆく。」と詠じている。「つばきの花咲く南の島」とは、当然、大島と考えてよい。この詩は大正四(一九一五)年二月号『侏儒』に発表されたもので、詩篇末尾には『――二月一日――』というクレジットが記されてあるのである。
ところが、大正四年はおろか、それ以前にも、大島に行ったという記事は年譜には、ない。彼が大島に行ったことが、年譜上で確認出来るのは、ずっと後の、晩年の満四十九の昭和一一(一九三六)年一月十一日の条に、『丸山薰と伊豆大島に行く』とあって、『丸山薰が案内役となって、十一日夜、橘丸(千七百トン)で靈岸島を出航。途中下田に寄港、同地を見物。十二日夕刻、大島着。波浮港の「湊屋旅館」に一泊。宿近くの店でアンコ娘の大島節をきき』、『酒を酌む。十三日、藤倉學園』(現在もある障害者支援施設)『を見學して歸京』とあった後に、『この折の紀行文「大島行」で「僕は昔、十年程前、一度大島へ行つたことがある」と記しており、「春の旅」にも、以前に一人で大島に行ったことが書かれてある』と注記があるのであるが、以上で述べた通り、この昭和十一年より前の年譜には、その記載は全くないのである。
彼がこの詩篇を書いた時――そのつもりだったが、結局、大島に行かなかった――という可能性もあろう。その「大島行」というエッセイの「十年程前」というのは、一九二五年前後で、大正末頃のとなり、時間概念が萩原朔太郎によく見られる非一般的感覚時制であるなら、ぎりぎり十九年前でも「アリ」かも知れぬ。何より「春の旅」で「一人で大島に行つた」とあるのは、「南の海に行きます」の「私はさびしく、」「いまはひとりで旅に行く」、「つばきの花咲く南の島へと行かねばならぬ」という謂いとよく共鳴するのである。
年譜頼みは、私の本意でない。
いっそ、その二篇にエッセイを電子化して示すに若くはない。ネット上には電子化したものはないようだから、これも何時か誰かの役にも立つやも知れぬ。これより取り掛かることとする。
« 『萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版』の「山頂」について | トップページ | 萩原朔太郎が大島へ以前に一度行ったことがあると証言している随筆二篇「大島行」及び「春の旅」の電子化 »