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2022/02/08

曲亭馬琴「兎園小説別集」上巻 烏丸光廣卿戲墨鳴神三絃紀事

 

[やぶちゃん注:上記標題は「目錄」のものを挙げた。本文冒頭の庵点は私が附した。唄の途中は底本では読点が打たれてあるが、字空けとした。]

 

   ○京都祇園町井筒屋【岸本。】所藏烏丸光廣卿【戲墨。】鳴神三絃の傳來幷唱歌

〽玉の臺も戀慕 淚川 我身沈めて逢瀨あるなら 戀にやれさ捨ばや 戀は あだものな。

一「むらさめにたちよるやども、名殘はかなしきに、まして是は淺からぬ契りあるに、さゝんせ盃のも酒を。」。右、光廣卿眞跡、十一行に書給へり。本書の寫し、別にあり。こゝに餘紙なければ、略ㇾ之。

『近來、松浦檢校調。』とあり、「鳴神三絃」の略圖もあれど、こゝには寫し出さぬなり。餘紙なきを、いかゞせん。

   鳴神三絃

[やぶちゃん注:以下、リストは二段で書かれているが、一段とした。ここでは、読み難いだけなので、箇条の「一」の後は一字分空けた。]

一 胴「たがやさん」

一 棹「紫檀」

一 海老尾に銀の半月あり

一 糸卷の穴に菊花銀

一 糸卷「黑たん」六角

一 胴文字黑漆金粉にてくゝる

一 棹の頭胴を串きたる處に花菱の金紋あり

一 句は胴の四方ヘ[やぶちゃん注:以下底本からトリミング補正した。上から「川淚」(倒立)・「是臺玉」(「玉の臺(うてな)は是れ」か)・「」(倒立)・「」。] 

Sangen

 と書給へり。この事に付、齋藤氏のうけぶみ一通あり。こゝに餘紙なければ、「水馬記」の後に追錄す。合せ見るべし[やぶちゃん注:次の記事「柳川家臣水馬の記」の後で、底本のここに確かに「鳴神三絃圖添狀」としてある。]。

             著  作  堂

   鳴神の傳【これも、卷物にして藏弃す、といふ。記者の落款、なし。嫖客のわざなるべし。】

丹後國田邊の城主細川藤孝入道玄旨幽齋は、古今傳受の其人なり。玄旨法印より三條大納言實條も是を傳受し給ふ。「誠に神國歌道傳受の印信。」とて、玄旨、一首の和歌を奉り給ふ。

 いにしへも今もかはらぬ世の中に

      心のたねをのこすことの葉

天子、傳受ましませば、玄旨は和歌の國師なり。其藤孝の男細川忠興三齋は、茶道にこゝろをよせ、そのほまれ、今の世まで殘れり。【中略。】その息女光廣卿に嫁し給ふ。其折、「鳴神」と銘せし三ツの緖あり。御重寶、淺からず。「御部屋の戲れに。」とて、琴のくみに相添ふ。「鳴神」の事、光廣卿も聞及ばせたまふ。ある御酒宴の折から、御覽遊され、則、御自筆にて、「玉臺是戀慕淚川」と、七言一句を胴に書付給ふ。此七言の心を、愚、按ずるに、【古歌。】三津瀨川たえぬ淚のうきせにもみだるゝ戀の淵ぞありける 「三すぢの糸」を、「三瀨川」と、見たて給ふにや。また、「鳴神」といふ銘のこゝろは【古歌。貫之。】逢ふことは雲ゐはるかに鳴神の音に聞きつゝ戀わたるかな といふ心をとりて、名づけ給ふにや。かゝるめづらしき寶器、たぐひ有べきとは覺えず。爰に御召つかひの女何某、殊に御意に入、御機嫌のあまり、ほど經て、此和器を下し給ひし。有がたくも頂戴し、祕藏すること、限りなし。此事を、岸本氏、傳へ聞、「我、幼年より三ツの糸に心をよせ、此曲に、ふけり、たのしむといヘども、かゝる珍器を見きかず。何とぞ、我手に入たき事。」と思ひよりけるに、幸ひ、彼家にちなみの使りもありし故、深く、是を望しかば、その心を感じけるにや、則、此器を岸氏に與ふ。さるにより、今、此家の珍藏とはなれり。「まことに此道にかなひし事。」と、雪月花の遊びにも、出す事なく、只、三の旦のことぶきに、絃、しらぶるより、常は、箱に納めて、重寶す。かゝる珍器をものすること、此道のほまれ、又、宗の面目。[やぶちゃん注:私が改行した。]

と。予に「此傳を書添よ。」と、こふ。予、おもへらく、『かゝるめでたき趣を、拙き筆にのべむは、なかなかならん。』と、いなめど、しゐて、こはるゝまゝに、かく、しるすになん。

[やぶちゃん注:以下、最後まで底本では全体が一字下げ。]

 享保六丑年正月

著作堂云、年來、京師に在留の御家臣齋藤平學が、老候の命によりて、ある人を介として、件の三絃を借よせて、圖してまるらせたるもの、是なり。今茲天保三年夏四月、老候の御意のよしにて、大野氏が「見よ。」とて、おこせしかば、この卷の餘紙に謄錄す。吾家、五世、家内にて絃を弄せず。素より好ぬものなれども、こも、風流の餘韵といふべし。

[やぶちゃん注:「烏丸光廣」(からすまるみつひろ 天正七(一五七九)年~寛永一三(一六三八)年)は公卿・歌人。蔵人頭を経て、慶長一一(一六〇六)年参議、同十四年に左大弁となった。同年、宮廷女房五人と公卿七人の姦淫事件(「猪熊事件」)に連座して後陽成天皇の勅勘を蒙ったが、運よく、無罪となり、同十六年に後水尾天皇に勅免されて還任した。同十七年に権中納言、元和二(一六一六)年には権大納言となった。細川幽斎に和歌を学び、古今伝授されて、二条家流歌学を究めた。歌集に「黄葉和歌集」があるほか、俵屋宗達・本阿弥光悦などの文化人や、徳川家康・家光とも交流があり、江戸往復時の紀行文に「あづまの道の記」・「日光山紀行」などがある。

「鳴神」三味線の名器とされる逸品。現在は八世芳村伊十郎所蔵で、(伝)近江製作・(伝)岸野次郎三郎(江戸初期の京坂三味線方の名手。山本喜市と並び称せられる。元禄から正徳 (一六八八年~一七一六年)頃に活躍。通称は次(治)郎三。京の祇園町井筒屋主人)旧蔵。事実、烏丸光広の染筆がある(‏二〇〇九年青弓社刊「まるごと三味線の本」(田中悠美子・配川(はいかわ)美加・野川美穂子著)に拠った)。

「たがやさん」後の「紫檀」及び黒檀とともに「三大唐木(とうぼく)銘木」の一つに数えられるマメ目ジャケツイバラ科センナ属タガヤサンSenna siamea 。材は漢名「鉄刀木」が示す通り、硬くて重く、耐久性があり、木目が美しい。

「紫檀」マメ目マメ科ツルサイカチ属Dalbergia 及びシタン属Pterocarpus の総称。古くから高級工芸材として利用される。

「海老尾」(えびを)は琵琶・三味線の部分の名。棹の頂端の鰕の尾のように後ろに反った部分。三味線では俗に「天神(てんじん)」とも呼ぶ。

「黑たん」「黑檀」。高級家具や弦楽器の素材とされて英名「エボニー」(Ebony)でとみに知られるビワモドキ亜綱カキノキ目カキノキ科カキノキ属コクタンDiospiros ebenum

「頭胴」四角い共鳴器の「胴」の棹方向の部分。

「串きたる」「つらぬきたる」。

「齋藤氏」後に出る「齋藤平學」。そちらで馬琴が「老候の命によつて」と記すので、松前藩の藩士である。調べたところ、記録と祐筆を兼ねた家臣に彼がいた。

「嫖客」(へうかく(ひょうかく))は「飄客」とも書き、花柳界に遊ぶ男の客や、芸者買いをする男を指す。

「細川藤孝入道玄旨幽齋」武将で歌人の細川幽斎(天文三(一五三四)年~慶長一五(一六一〇)年)初めは三淵(みつぶち)氏、後の長岡氏を称した。藤孝は諱で、玄旨は別号。室町幕府第十二代将軍足利義晴の庶出の四男ともされる。第十三代将軍義輝の命で、細川元常の養子となり、義輝没後は、義昭を奉じ、さらに織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕えた。和歌は三条西実枝(さんじょうにし さねき)に学び、古今伝授を伝えて二条派歌学を継承した。「関ヶ原の戦い」の直前、田辺城に籠城した際、古今伝授の廃絶を憂慮した後陽成天皇の勅令で包囲が解かれた一件は、とみに知られる。門下に烏丸光広・中院通勝・松永貞徳らの俊才が輩出した。

「三條大納言實條」三条西実条(さねえだ 天正三(一五七五)年~寛永一七(一六四〇)年)三条西公国(きんくに)の長男。寛永十二年に従一位となり、同十七年には内大臣から右大臣に進んだ。幽斎に学び、歌道家として知られた。

「細川忠興三齋」(永禄六(一五六三)年~正保二(一六四六)年)は丹後国宮津城主・豊前国小倉藩初代藩主。正室は明智光秀の娘玉子(細川ガラシャ)。室町幕府十五代将軍足利義昭追放後は長岡氏を称し、その後は羽柴氏も称したが、「大坂の陣」の後に細川氏へ復した。足利義昭・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と、時の有力者に仕えて肥後細川家の基礎を築いた。また父幽斎と同じく、教養人・茶人細川三斎(さんさい)としても知られ、「利休七哲」の一人に数えられる。茶道の流派三斎流開祖。

「三ツの緖」「みつのを」は三味線を指す雅語。

「三津瀨川たえぬ淚のうきせにもみだるゝ戀の淵ぞありける」不詳。

「逢ふことは雲ゐはるかに鳴神の音に聞きつゝ戀わたるかな」「古今和歌集」巻第十一「戀歌一」の紀貫之の一首(四八二番)。「鳴神の」は「噂に聞くこと」の意の「音(おと)」の枕詞。

「享保六丑年」一七二一年。

「天保三年」一八三二年。

「大野氏」松前藩目付に二人、徒歩目付に一人、同姓の者がいる。]

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