萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 南の海へ行きます
南の海へ行きます
ながい疾患のいたみも消えさり、
淺間の山の雪も消え、
みんなお客さまたちは都におかへり、
酒はせんすゐにふきあげ、
ちらちら緋鯉もおよぎそめしが、
私はひとりぽつちとなり、
なにか知らねど泣きたくなり、
せんちめんたるの夕ぐれとなり、
しくしくとものをおもへば、
仲よしの友だちうちつれきたり、
卵のごときもの、
菓子のごときもの、
林檎のごときものを捧げてまくらべにもたらせり、
ああ、けれども私はさびしく、
いまはひとりで旅に行く行く、
ながい病氣の巢からはなれて、
つばきの花咲く南の嶋へと行かねばならぬ、
つばめのやうに快活に、
とんでゆく、とんでゆく。
けふ利根川のほとりに來てみれば、
しだいに春のめぐみを感じ、
雪わり草のふくめるやうに、
つちはうららにもえあがり、
西も東も雪とけながれ、
めんめんとして山狹(はざま)にながれ、
光り光れる山頂(いただき)さへ、
ひろごる桑の畑をさへ、
さびしい病人の淚をさそうよ、
しみじみとおもへば、
故鄕(ふるさと)の冬空はれ、寂しくて寂しくてたえざれば、
いまはいつさいのものと別れをつげ、
あしたはれいの背廣を着、
いつもの輕い靴をはき、
まだ見も知らぬ南の海へあそばうよ、
その心もちも快活に、
みなさんたちに別れをつげ、
きさらぎなかばのかしまだち
小鳥ぴよぴよと空に鳴きつれ。
――二月一日――
[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「ヽ」。大正四(一九一五)年二月号『侏儒』に発表された。「山狹(はざま)」の「狹」、「ひろごる桑の畑をさへ」の「を」、「淚をさそうよ」「さそう」、「たえざれば」「たえ」(「堪へ」であるから誤り)はママ。最後から二行目の「きさらぎなかばのかしまだち」に読点がないのは、誤記か誤植であろう。
・「かしまだち」「鹿島立ち」は単に「旅行に出発すること・旅立ち・門出」の意。本邦の伝承に於いて、鹿島と香取の二神が国土を平定した故事からとも、また、防人(さきもり)や士が旅立つ際、道中の無事を鹿島神宮に祈願したところからとも言う非常に古い古語である。
なお、本篇には萩原朔太郎の年譜的事実に照らした時、不審がある。本詩の中で、朔太郎は「淺間の山の雪も消え」ているのを遠く臨み、「けふ利根川のほとりに來てみ」たりしているので、前橋らしき場所にいるのであるが、しかし、「ああ、けれども私はさびしく、/いまはひとりで旅に行く行く、/ながい病氣の巢からはなれて、/つばきの花咲く南の島へと行かねばならぬ、/つばめのやうに快活に、/とんでゆく、とんでゆく。」と詠じている。「つばきの花咲く南の島」とは、当然、大島と考えてよい。この詩は大正四(一九一五)年二月号『侏儒』に発表されたもので、詩篇末尾には『――二月一日――』というが記されてあるのである。
ところが、この詩の発表及び最終クレジットによって調べてみても、大正四年はおろか、それ以前にも、大島に行ったという記事は年譜には、ない、のである。彼が大島に行ったことが、年譜上、確認出来るのは、ずっと晩年の満四十九の折りの昭和一一(一九三六)年一月十一日の条に、『丸山薰と伊豆大島に行く』とあって、『丸山薰が案内役となって、十一日夜、橘丸(千七百トン)で靈岸島を出航。途中下田に寄港、同地を見物。十二日夕刻、大島着。波浮港の「湊屋旅館」に一泊。宿近くの店でアンコ娘の大島節をきき』、『酒を酌む。十三日、藤倉學園』(現在もある障害者支援施設)『を見學して歸京』とあった後に、『この折の紀行文「大島行」で「僕は昔、十年程前、一度大島へ行つたことがある」と記しており、「春の旅」にも、以前に一人で大島に行ったことが書かれてある』と注記があるのであるが、以上で述べた通り、この昭和十一年より前の年譜には、大島に行ったという記載は、どこにも、全く、ないのである。
無論、「彼がこの詩篇を書いた時はそのつもりだったが、結局、大島に行かなかっただけじゃないの?」という御仁もあろう。しかし、その「大島行」というエッセイの「十年程前」というのは、一九二五年前後で、大正末頃のとなり、時間概念が萩原朔太郎によく見られる非一般的感覚時制であるなら、ぎりぎり十九年前でも「アリ」かも知れぬ。何より「春の旅」で「一人で大島に行つた」とあるのは、「南の海に行きます」の「私はさびしく、」「いまはひとりで旅に行く」、「つばきの花咲く南の島へと行かねばならぬ」という謂いと、これ、よく共鳴するのである。
年譜頼みは私の本意でないので、このためだけに、先ほど、ブログで「大島行」と「春の旅」を電子化しておいたので、読まれたい。
さて、底本全集の『草稿詩篇「拾遺詩篇」』に以下の無題の本篇草稿が載る。『(原稿一種二枚)』とあるので、これだけである。歴史的仮名遣の誤り誤字等は総てママ。添書の「侏儒(こびと)」は発表された同人雑誌名。この前年大正三(一九一四)年八月に前橋の「侏儒社」から発行されるも、この大正四年に終刊した詩歌雑誌で、誌名は朔太郎の命名。朔太郎の下に集った若い歌人たちが中心となって刊行されたもので、朔太郎は指導者的立場にあったとされる。同人は北原放二・木下謙吉・金井津根吉・河原侃二・梅沢英之助・奈良宇太治・倉田健次らで、他に北原白秋・室生犀星・山村暮鳥・前田夕暮・尾山篤二郎らも作品を発表しており、群馬の近代詩歌史に於いて先駆的役割を果たした。編集発行人は梅沢英之助(以上は「前橋文学館」のブログの『2017年12月26日 「ヒツクリコ ガツクリコ」展のもとになった詩』の記事に拠った)。
*
○
――侏儒の諸君に――
私は旅に出て行く
私の病氣ながい疾患のいたみも消えさり
このごろ淺間山の雪も消え
みんなお客さまたちは都にかへり
酒はせんすゐにふきあげ
私はぼつちとなり
なにかしらねど哀しくなり
せんちめんたるの夕ぐれ方となり
しくしとと物思へば
友の□□□ お友だちに林檎をもた□
さくさくと
ほんの見舞のおしるしにとて
哀しい都かへりのお友だちは林檎をもつてきてくれた、 くれた ました、もたらせり
ああけれども私は旅に出てゆく
ながい病氣の巢からはなれて
あつたかい海南の方の海へゆく
つばめのやうに快活に
とんでゆくぞえとんでゆくぞえ
けふ利根川のほとりに來てみれば
そしたいに春のけしき→芽生めぐみを感じ
雪ふりぐさのふくめるやうに
つちはうららにもえあがり
西も東も雪どけながれ
榛名北原
しんしんめんめんとして山路峽になかれ
光り光りれるいたゝぎにさヘ
また桑の葉畑さヘ
哀しい やつれたさびしい病人の涙をさ□そうよ
なにがなし ああかく□□りしもああ故鄕の冬がさびしくな れ りたればてたえざれば
いまはいつさいのものがあぢきなくと別れてをつげ
私はれいの背廣をき
れいの帽子いつもの靴をはき
遠い遠いまだ見も知らぬ南の方海へ行かうよあそばうよ
その心もちも快活に
□□ 二月(きさらぎ)はじめの 旅に→□の→かしまだちを 旅立ち □ を
みなさん送つて
みなさんに別れをつげて
二月中旬のはやかしまだち
雀小鳥ちらちらぴよぴよと空に鳴★きそめ//くころ★。
[やぶちゃん注:「★」「//」は私が附したもので、「きそめ」と「くころ」が「鳴」の後に並置残存していることを示す。]
*
後に注があり、『二行目上方欄外に、「三疋の魚」と書き、抹消されている。』とある。
さて、この草稿のお蔭で、もし、事実、萩原朔太郎が椿の咲く大島に向かったとすれば、その
――出立予定は大正四(一九一五)年二月中旬――
であったと推定出来る。そこで年譜を見てみると、大正四年一月は、九日に北原白秋が前橋に彼を訪ねて来て、萩原家に滞在し、同月十三日には白秋を追って、歌人で国文学者でもあった尾山篤二郎もやって来て、二人は一月十五日に帰京したが、その日の晩から、『朔太郎は発熱し、二月初めまで病臥』とあった後、二月の記事は『下旬から三月一日にかけて上京。その間に白秋を』『一日のうちに二度三度と』『訪ね』たらしく、『また』、『この間に小田原で何一かを過ごしている』とあり、また、この上京中、朔太郎は『洋酒に醉って電信柱の登りっこの眞似をしたりした。』とあるからには、二月中旬には、すっかり元気になっていたと考えるべきで、そこに何らの生活事項の記載が欠落しているのはかえって目に留まるのである。
二月初旬に発熱(知恵熱か?)から回復した朔太郎が、この時、突然、大島に独りで旅したとしても、これ、何ら不思議はないのである。]
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