狗張子卷之四 塚中の契り
[やぶちゃん注:今回の挿絵も状態が最もよい現代思潮社版のそれをトリミングして適切と思われる箇所に挿入した。]
○ 塚中(ちよちう)の契り
西國、大伴家の侍淺原平六は、世に名を聞えし武篇のものなり。
二人の娘を、もちたり。平六が弟平三郞は、身まかりて、これも、むすめの有《あり》しを、みなし子なれば、捨てがたく、平六が家にそだちて、三人のむすめ、おなじほどになりけるを、平六、まづ、我が娘ばかりを、ありつけて、平三郞がむすめの事は、何の用意もなく、沙汰にも及ばざりければ、うらみて、よめる、
をし鳥のとりどりつがふつばさにも
いかに我のみ獨りすむらん
此娘、心ち、わづらひて、何とはなしに、瘦せ、つかれて、つひに、はかなく成《なり》たり。
城(じやう)の東の野に葬(はう)ぶり、塚(つか)に埋(うづ)みて、僧(そう)をくやうし、經、よみ、念佛して、とぶらひけり。
同じ家の隣りは、筒岡權七(つつをかごん《しち》)とて、年、いまだ二十《はたち》あまりなり。
父、はやく死して、その跡かはらず、奉公をつとめしに、美男(びなん)なりければ、傍輩(はうばい)、いづれも、娘をもちたる人は、望みて、
「婿にせん。」
と、あらましけるに、いづちともなく、うせにけり。
母は、こがれ、まどひて、人を賴みて、四方(《し》はう)を尋ぬるに、行がた、なし。
「物のために、かどはされぬらん。東の塚原(つかはら)、草村《くさむら》のあひだを、尋ねよ。」
とて、人を埋(うづ)みすてたる古塚(ふるつか)を、もとめける。
折ふし、雪ふりて、野は、白たへにつもりけるに、女の塚の、あたらしきに、くろき小袖のすその、土より、外に出《いで》て、みえたり。
「さればこそ。」
とて、引出《ひきいだ》しければ、土の底より、權七が聲として、
「何ものなれば、人のかたらひを、さますらん。」
といふ。
いづかたより匐(は)ひ入りたるらん、棺(くわん)の中《うち》に、女と、權七と、ひとつに、ふして、女の屍(かばね)は、猶、生きたる人に、ことならず。
臥したるしたに、杉原(すぎはら)に書きたるものあり。
取《とり》あげみれば、歌(うた)なり。
こと葉は、ひとつもなくて、
流れてのうき名もらすな草がくれ
結びし水の下(した)さはぐとも
獨(ひとり)ねをならはぬ身にはあらねども
君歸りにし床ぞさびしき
又、權七が手にて、書きける歌、
契るてふ心のねより思ひそむ
軒(のき)の忍ぶの茂りゆく袖
笛による男鹿(をしか)もさぞな身にかへて
思ひ絕《たえ》せぬ習ひ成(なる)らん
此歌ども、取そへて、宿に歸りしかども、權七は、只、
「まうまう」
として、人心地《ひとごごち》もなし。
山ぶしを賴みて、いのらせしかば、日をへて、もとのごとく成《なり》たり。
半年ばかりの後(のち)に、めしつかふ小女(こをんな)に彼(かの)亡魂(ばうこん)、のりうつりて、
「あら、恨めし。つゝみし事の、あらはれて、うき名のもれし、恥かしさよ。前の世の然《しか》るべき緣(えん)ある故に、しばし、契りをかはしまの、水のあはれとも、いふべき人も、なし。はやく忘れし人に、二《ふた》たび、契る、ゆゑ、あり。」
とて、淚を流しける。
その夜、俄かに、權七、むなしく成《なり》ければ、
「彼(かの)亡魂、二世を契る約束や、ありけん。」
とて、女の塚に、ひとつに合せて、つきこめけり。
[やぶちゃん注:「大伴家」豊後の守護大名大友家。ここは、もう了意が以前の話より、時制を江戸初期に巻き上げてしまっているので、戦国から安土桃山・江戸初期にかけての元戦国大名・武将で、大友宗麟の嫡男にして第二十二代当主であった大友義統(よしむね 永禄元(一五五八)年~慶長一五(一六一〇)年)とするしかない。戦国・安土桃山時代の武将。天正元(一五七三)年、家督と豊後以下六ヶ国を相続、叔父田原紹忍(たわらしょうにん)の補佐で、分国を統治するが、同六年、日向の「耳川(みみかわ)の戦い」で島津氏に大敗した後、反乱が続出、竜造寺・島津氏との戦いに明け暮れ、天正十四年には島津氏の侵攻を受けたが、翌年、豊臣秀吉が九州を平定すると、豊後を安堵された。秀吉より諱の一字を貰い、「吉統」と改名した。初め、キリシタンとなるが、「禁教令」が出されると、一転、その迫害に回った。しかし、文禄二(一五九三)年の「朝鮮出兵」の際、「平壌攻防戦」からの退却を譴責されて、改易となった。慶長五(一六〇〇)年の「関ケ原の戦い」前後では、西軍の将として出陣、豊後に上陸して国東半島の諸城を攻略した。九月の「石垣原の戦い」でも緒戦は優勢であったが、終盤では豊前の黒田如水と細川忠興(実働隊は豊後杵築城の細川家重臣松井康之に拠る)らの連合軍に敗れ、剃髪した後、妹婿であった黒田家の重臣母里友信の陣へ出頭して降伏、今度は徳川家から幽閉される身となった。「関ヶ原」後、東軍配下の細川家領の豊後杵築城を攻めた咎(とが)で、出羽の秋田実季預かりとなり、実季の転封に伴い、常陸国宍戸に流罪にされた。但し、大友家は彼の嫡男義乗(よしのり)が旗本として徳川家に召し抱えられ、鎌倉以来の高家(こうけ)として続いた。「凡庸で」「助言なしには何事もなしえない」とはフロイスの彼への評である(以上は晩年部分を当該ウィキで補った以外は主文を「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
「淺原平六」不詳。
「をし鳥のとりどりつがふつばさにもいかに我のみ獨りすむらん」江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(三)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)には、『典拠未詳』とする。
「城(じやう)の東の野に葬(はう)ぶり」大友義統の事績を追っても、時期を限定することは出来ないが、先の秀吉からの改易の後、慶長三(一五九八)年の秀吉の死により、慶長四(一五九九)年に秀頼により特赦され、幽閉状態から脱し、大坂城下に屋敷を構えて、豊臣家に再び仕えた時期を一つの候補とするなら、この城は大坂城となろう。
「僧(そう)をくやうし」僧に対して相応の布施をして供養した上で、やおら、その僧を請じて。
「筒岡權七」不詳だが、以下の、『父、はやく死して、その跡かはらず、奉公をつとめしに、美男(びなん)なりければ、傍輩(はうばい)、いづれも、娘をもちたる人は、望みて、「婿にせん。」と、あらましける』(「あらましける」は「あって欲しいものだと思った」ことを言う)とあるので、誰か相応の武将に父の代から仕えていた中級の武士としか思えない。その証拠に、行方不明になった主人を捜しに出ている男二人も脇差を差しているし、墓から出てきた権七の服装もそれなりの高価そうではないか。
「草村《くさむら》のあひだを、尋ねよ」「草の根分けても、探し出すのじゃ!」。
「人を埋(うづ)みすてたる古塚(るつか)を、もとめける。」というのは、前の台詞があっても、「草葉の陰」っちゃあ、確かに「墓場の下」「あの世」ですけんど、流石にほんとに異様ですから、「人を埋みすてたる古塚をも、もとめける勢ひなり。」ぐらいが、いいんじゃ、あ~りませんか? 了意はん? その方が、後の事実で墓の中に見出すのが、逆に意外性がのうなってしまうように思いますがなぁ……。
「杉原」「杉原紙」(すぎはらがみ)。鎌倉時代、播磨国揖東郡杉原村(現在の兵庫県多可郡加美町)で産したとされる紙。奉書紙に似て、やや薄く、種類が豊富で、主に武家の公用紙として用いられた。後、一般に広く使われるようになると、各地で漉かれるようになった。近世から明治にかけて、色を白く、ふんわりと仕上げるために、米糊(こめのり)を加えて漉かれ、その頃からは「糊入れ紙」「糊入れ」とも称された。「すいばら」とも呼ぶ。
「こと葉は、ひとつもなくて」書信文は一切なくて、和歌のみが書かれていたことを言う。
「流れてのうき名もらすな草がくれ結びし水の下(した)さはぐとも」江本氏注に、『「流れて」と「結びし水」は縁語。和歌は「続拾遺和歌集」恋三に入集。『和歌題林愚抄』『明題和歌全集』にも所収。』おある。
「獨(ひとり)ねをならはぬ身にはあらねども君歸りにし床ぞさびしき」同前で、『類歌「ひとりねもならはぬ身にはあらねどもいもがかへれる床のさびしさ」(『新後拾遺和歌集』恋三)。『題林』『明題』等所収。』とある。
「契るてふ心のねより思ひそむ軒(のき)の忍ぶの茂りゆく袖」同前で、『類歌「ながめする心のねより思ひそめて軒の忍ぶのしげるなるべし」(『夫木和歌抄』雑部)。『題林』『明題』等所収。』とある。
「笛による男鹿(をしか)もさぞな身にかへて思ひ絕《たえ》せぬ習ひ成(なる)らん」同前で、『『白河殿七百首』『題林』『明題』等所収。』とある。
「まうまう」「朦々」だが、歴史的仮名遣は「もうもう」でよい。 意識が朦朧としているさま。
「山ぶし」「山伏」。
「前の世の然《しか》るべき緣(えん)ある故に」平安の昔から真に愛し合った男女は三世(さんぜ)に契るとさえされた。だから、この二人はその通りになるのである。最後の権七の母の、或いは、娘の伯父で隣りの屋敷の主人である浅原平六の台詞(女の塚に権七をともに埋葬するには彼の許可が絶対に必要だからである)で、「二世」と言っているのは、小女に憑依した亡き娘の真意を理解していない。この「前の世」とは、この話柄内の現実の当該現世の前世なのだ。だから、私は次の後世(ごぜ)と、この二人とも儚かった現世と合わせて「三世」なのである。
「しばし、契りをかはしまの、水のあはれとも、いふべき人も、なし」「かはしま」は「川島」で「水」「あは」(「憐れ」に「泡」を掛けてある)の縁語であり、言わずもがなだが、「川島」の「かはし」は「契りを交はし」に掛けてある。
「はやく忘れし人に、二《ふた》たび、契る、ゆゑ、あり」前々注の内容を示唆するものであると同時に、ここは、かの崇徳院の秀歌、
*
瀨をはやみ岩にせかるる瀧川の
われても末にあはむと思ふ
*
の「はや」を「はやく」に通わせ、「別(わ)れても末(すゑ)に」「二たび、契る」=「われても末にあはむと思ふ」と、確信犯のインスパイアをしているものと私は思う。ここはそれを考えれば、前の「しばし、契りをかはしまの、水のあはれとも、いふべき人も、なし」が強い親和性で「瀨をはやみ岩にせかるる瀧川の」という上句を連想させるようになっていると感ずるのである。
「つきこめり」「築き籠めけり」。新たに墓塚を築いて、二人の亡骸を丁重に埋葬した。]


