毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 田螺(タニシ) / オオタニシとマルタニシか
[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。先の「蚫」二個体の左下部に場違いに配されてある。上部に「アワビ」の解説の一部が食い込んでいるため、そこで切ると、頭が狭くなってしまうので、マスキングした。]
田蠃【「たにし」。】
「邵武府志」、
田螺【「たにし」。】
「たつひ」【「和名抄」。】
「たつぼ」【「東雅」。】
「たのした虫」【畿内。】
「つぼ」 【越後。】
「たみな」 【薩州。】
癸巳(みづのとみ)初夏十一日、眞寫す。
[やぶちゃん注:殻表面の色彩と分布域から、本邦に、本来、棲息するタニシ類中でも最大種である、
腹足綱前鰓亜綱原始紐舌目タニシ超科タニシ科タニシ属タニシ科タニシ属オオタニシ Bellamya japonica
に比定する。但し、地が暗いため(そこはオオタニシらしい)、螺層数が正確に数えられない(オオタニシは約七層)憾みがあるが、螺層が約六層である、小型(殻高三・五センチメートルで、写欲をあまりそそらないとも思われる)のヒメタニシ(Bellamya quadrata histrica )や、中型のマルタニシ(シナタニシ亜種マルタニシBellamya chinensis laeta )の場合は殻が孰れも緑褐色を呈し、これよりも明るいはずだからである(孰れも全国的に分布する)。但し、よく見ると、この二個体、下方のそれは、上の個体に比すと、殻がやや明るく描かれており、或いは、こちらは、
シナタニシ亜種マルタニシBellamya chinensis laeta
である可能性を示唆するものかも知れない。
なお、タニシについては、「本朝食鑑 鱗介部之三 田螺」、及び、「大和本草卷之十四 水蟲 介類 田螺」(二者はブログ単体)、また、サイト版の「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」の「田螺(たにし たつび)」を電子化注してあるが、「本草食鑑」が詳細でとどめを刺すので、参照されたい。……私は幼少期、裏山の藤沢市渡内の貯水池と、そこに広がる田圃で、タニシを盛んに採って来ては、水槽で育てたものだった。……今は……池も田も全く消滅して、池はちっぽけな公園になり、田圃と、その先の、地名通り、フジが生い茂った幽邃な渓谷も……今や、完全な住宅地と暗渠となってしまい、全く存在しない。……これが、その池の排水口でカワエビを採っている私で、また、これはその池で釣りをする私と父を描いた小学校二年生の夏休みの絵日記である。以上の写真や絵は、「1964年7月26日の僕の絵日記 43年前の今日 または 忘れ得ぬ人々17 エル」という記事にも載せてある。遠い日の、僕の至福の一瞬であった…………
「邵武府志」複数回既出既注。面倒なだけなので、再掲する。邵武府(しょうぶふ)は元末から民国初年にかけて、現在の福建省南平市西部と三明市北部に跨る地域に設置された行政単位。この附近(グーグル・マップ・データ)。ばっちり、内陸で、閩江が貫流する。同書は明代に陳譲によって編纂された同地方の地誌。
『「たつひ」【「和名抄」。】』「倭名類聚抄」の巻十九の「鱗介部第三十」の「龜貝類第二百三十八」に(国立国会図書館デジタルコレクションの寛文七(一六六七)年板本の当該条を参考にして訓読した)、
*
田中螺(たつひ) 「拾遺本草」に云はく、『田中の螺、其の稜(かど)有る者、之れを「螭螺(ちら)」と謂ふ。』と【和名「太都比(たつひ)」。「螭」は音「知」。「龍魚類」を見よ。】。
*
「拾遺本草」唐の陳蔵器の「本草拾遺」(七三九年)のことか。散佚して原本は残らないが、「本草綱目」などで盛んに引かれてある。さて、私は先に示した「本朝食鑑」で、
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・「螭螺」不詳。順(したごう)が「和名類聚鈔」でなぜこの奇体な熟語を持ち出しているのかがまず不審である。本草書類にはこの語は見かけない。なお、「螭」の原義は角のない黄色い小さな龍或いは龍の子の意である。海岸で採取される螺塔の高いカニモリガイのようなものか。しかしだとすると、海螺(ウミニナ)に似ていると言った方がピンとくるのだが、これは川螺(カワニナ)との近似性を嫌った謂いか。にしても、後の「小さきなる者は小螭螺のごとし」というのはこの自己同一性とは矛盾するものである。順には悪いが、形は小さな時は「小螭螺」に似ているのであって、あくまで中国本草書では「螭螺」はタニシではないことは明白である。
*
と述べたが、ややこの見解に修正を加えたい気がしている。太い螺層を持ち、尖りがないタニシ類は、実は、昇天する螭龍に相応しいと、今は感じてあけているからであり、とすれば、この記載は「田中の螺」であるからには、確かに本邦のマルタニシの原名亜種で中国大陸に分布するチュウシヒメタニシ(中支姫田螺)Bellamya quadrata quadrata と考えてよいと思われるからである。
『「たつぼ」【「東雅」。】』かの新井白石(明暦三(一六五七)年~享保一〇(一七二五)年)の著になる語源書。享保二(一七一七)年成立で同四年に改編している。但し、本格的に刊行されたのは明治三六(一九〇三)年である。但し、作者がかく引用しているから、多くの筆写本が作られたものらしい。書名は現存する中国最古の字書「爾雅」(著者不詳。秦・漢初の頃に編纂されたらしく、前漢の武帝(在位:紀元前一四〇年~紀元前八七年)の時代には既にあった)に基づき、『東方の「爾雅」』の意。名詞を十五部門に分け、まず、漢字を示し、カタカナで訓を附し、古書を挙げて、語源解釈をしたもの。解釈に際しては、時代性と音韻を重視することを説く。こじつけも多いものの、「きぬ」は漢語の「絹」が古期朝鮮語を経て、日本語に入ったものとするなど、逸早く日本語と朝鮮語との関係に言及した注目すべき意見なども述べている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。当該部は、国立国会図書館デジタルコレクションのこちら。しかし、
*
田中螺(タツビ) 「倭名鈔」に「拾遺本草」を引て、田中螺は「タツビ」と註せり。今、俗に「タツボ」とも、「タニシ」といふは、卽(すなはち)、田螺也。
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とあるだけで、梅園の示す「たのした虫」というのは出ない。不審。「タノシタムシ」というのは聴いたことがない。小野蘭山の「本草綱目啓蒙」の「田蠃」(リンク先は国立国会図書館デジタルコレクションの文化二(一八〇五)年跋の板本)にも、この異名は載らない。「田の下蟲」或いは「田の舌蟲」か? 引用元について識者の御教授を乞う。
「つぼ」恐らく「壺」ではなく、「つび」(螺)の越後方言であろう。
「たみな」「田螺」の音変化として腑に落ちる。「みな」は方言ではなく、「にな」(蜷)の古名である。「にな」はお馴染みの淡水産のカニモリガイ上科カワニナ科Pleuroceridaeカワニナ属カワニナ Semisulcospira libertina 或いは、その近縁種を指す。
「癸巳(みづのとみ)初夏十一日」天保四年癸巳四月十一日。グレゴリオ暦一八三三年五月二十九日。]
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