ブログ・アクセス1,680,000突破記念 梅崎春生 青春
[やぶちゃん注:昭和二三(一九四八)年五月号『小説新潮』に発表された。生前の単行本作品集には所収されなかった。
底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。太字は底本では傍点「ヽ」である。
文中・文末に簡単な注を入れた。
なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、本未明、1,680,000アクセスを突破した記念として公開する。【2022年2月11日 藪野直史】]
青 春
及落会議は、三時半ごろ終った。
二階の会議室にあたる方角から、とつぜん椅子を動かす音やざわざわ立ちあがる気配がながれてきて、中庭に三々五々立ってるぼくらを、いきなり不気味な沈黙と緊張におとしいれた。時間も風物も、一瞬にして凍ってしまったようであった。やがて階段の踊り場へ、書類綴りをこわきにかかえた人影がちらと現われたと思うと、黒っぽい背広を着た教授たちの姿が次から次へ、古ぼけた階段をぎいぎいきしませながら、ぞろぞろと降りてきた。みんな疲れたようなまぶしいような顔つきになって、そろって黙りこくったまま階段を降り切ると、申し合せたように右手の渡り廊下の方にまがり、そろそろと便所の建物に吸いこまれて行った。中庭にたちこめていた緊張はうわずったように破れ、中庭に佇(たたず)んだ人々が水流にうかぶ塵埃(じない)のように、建物のひとところに吸いよせられて行くのが見えた。やがてそこに事務員の手によって、及落の発表が貼りだされる筈であった。
ぼくは図書室の石段から立ち上って、その方に歩きだそうとしたら、ぼくのマントの裾を城田の掌が押えつけた。城田の顔は少し青くなって、眼だけがきらきら光っていた。
「たのむから」掌を頭のところで妙な形にひらひらさせながら、押しつぶされたような声で城田が言った。「鈴木も便所に入っただろう。あそこまで行って、一寸おれのことを聞いて呉れや」
「聞いてこなくても、すぐ貼り出されるよ」
「そいつが待ち切れんのだ。な。一つ頼む」
切迫した声になった。そうまでしなくても、とぼくは笑おうとしたが、笑いにはならなかったようだ。城田の眼が青味を帯びてぼくに食い入っていたのである。そしてはきだすように言った。
「ああっ。やり切れん。ひとつたのむ」
さんざん待って他人の頭ごしに、自分の名前を貼紙に読む城田を想像すると、ぼくも俄(にわか)にやり切れない気持になってきた。今日の及落の発表も、城田がついてきて呉れと頼むから、ぼくはやってきたのである。この気弱な男の顔を見ていることが、気の毒な感じに耐えられなくなったから、ぼくは視線をそらして彼方の職員室の建物に眼を移した。晴れあがった三月の空を背景に、その古風な建物はヘんに黒い影を中庭にひろげていた。トタンぶきの渡り廊下を隔てて、貨車のような形の便所が連なっていた。その陰影も砂利の上に暗くおちていた。あの中にいる教授たちは皆、既に事の全貌を知っているのだと思うと、城田のために、なんだか悲しいような腹立たしいような気分がぼくをかりたててきた。
「よし」とぼくはマントを肩に引っぱりあげた。「聞いてきてやる」
中庭を斜めによこぎると、ぼくは便所の入口までつかつかと歩いた。手巾で掌をぬぐいながら出てくる人影のあいだから、入口に一番近いばしょでむこうむきになっている鈴木教授の、特徴のある後頭部の形が直ぐ眼に入った。鈴木教授はぼくらの組主任であった。なまあたたかい尿のにおいがそこらにたちこめていた。なにか気配を感じたのか、ふと鈴木老教授は顔をうしろにふりむけた。そしてぼくがすぐうしろに立っているのを見ると、急に顔をくしゃくしゃと気の毒そうにゆがませ、とぎれとぎれの口調で言った。
「君か。君の、ことは、頑張ったけれど、とうとう駄目じゃった。ずいぶん、弁護したんだが、なにしろ……」
頭を力まかせにがんと叩かれたようで、ぼくは身動きもできなかった。身体中を音たてて血がかけめぐってゆくのが判る。言葉の一つ一つが無量の重みをもって、ぼくの耳の底にしたたり落ちた。膝のあたりから急速に力が抜けてゆくのを感じながら、ぼくは茫然と鈴木教授の尿の色を眺めていた。教授は首をふりむけてぼくに話しかけながらも、そのことは止めずに継続していたのである。尿のいろは、黄色火薬のようないやな色調であった。
それからぼくはとつぜん身体中がふくれあがったような気持になって、白線帽を脱いでペコリと頭をさげると、ふらふらと中庭の方にとってかえした。そして中庭を校門の方にむかってふらふらと歩いた。何が何だかわからなかった。城田のことなどは、頭になかった。建物の入口のあたりでなんだかざわめいていたような気がするが、その時発表が貼り出されたのかも知れない。玉砂利をふんで大蘇鉄(おおそてつ)のそばを通り、桜並木のしたを通りぬけ校門から往還にとびだした頃には、すこしは気持がはっきりしてきた。全身がふくれあがるような厭な気持はおさまった代りに、今度はさまざまの現実的な苦痛が次第にするどく湧きおこって、身体が板みたいにコチコチに平たくなって行くような気がした。
(どうしよう。一体これは、どうしよう)
しきりにそんなことを呟(つぶや)きながら、足早に歩いた。三月も半ば過ぎたというのに、熊本の街にはまだ斑(まだ)ら雪が残っていて、それがぼくの靴の裏でじゃりじゃり鳴った。空はすっきり晴れあがっていて、風はなかった。どうしようたって、どうなる訳(わけ)のものではなかった。軒下にたまった斑ら雪を、わざとあらあらしく踏みつけて歩く気持から探ってゆけば、僕はむちゃくちゃに腹を立てているらしかった。まるでだまし討ちにあったようである。しかし腹を立てたとしても、どうなるというものではなかった。
(なんで落っこちたのだろう。独逸(ドイツ)語か。西洋史か。それとも、教練か)
先だっての野外演習で、銃を逆にかついで配属将校にひどく叱られたことを、ぼくは思い出した。あれだって、銃を逆にかついだら、どんな感じがするだろうと考えたからで、あの配属将校がいうようなふざけた気持など毛頭ありはしなかったのだ。
ぼくはしだいに怒りが折れまがって、困惑に似たものに変ってくるのを感じながら、城田などは一体どうだったのだろうと考え始めていた。
ぼくは夕焼けの高台をあるいていた。
いつの間にか雲がでてきたと見えて、椅子の形をした雲や、鶏の形をした雲や、掌の形をした雲が、赤く焼けて南にながれていた。その下に、黝(くろ)い家並がずらずらと遠くまでつらなっていて、熊本城の天守閣が小さく見えた。旅情に似た切ない気持が、しきりにぼくの胸をしめつけた。夕焼けはぼくが歩くにつれて、微妙に色あいを変えるらしかった。
坂道には、梅のにおいがした。しかし梅の花はどこにも見当らなかった。板塀(いたべい)がずっと連なっているばかりであった。この坂道を降りきれば、行きつけの飲屋があることをぼくは知っていた。あれからさんざんあてどなく歩き廻った揚句、ここの近くにやってきたということが、ふと自責となってぼくの心を痛くした。しかしその痛みも、おそってきては直ぐはかなく散るらしかった。ぼくは自分の周囲に厚い膜を強いて感じ、その内部で自分を無感動にたもちながら、坂を一歩一歩降りて行った。すると眼前の風景もぼくと一緒に沈下して行った。
坂道が終ると、ふたたび斑ら雪の道がつづいた。ぼくは上衣の内ポケットを、さっきからなんども外側から確めていた。そこには金が入っている。東京の大学をうけるために旅費として故郷から送ってきた金であった。もう一年ここにとどまらねばならぬとすれば、すっかり意味を失ってしまった金であった。ぼくはある抵抗をかんじながら、身体をひるがえして、目指した店ののれんを肩で分け、冷たい土間に辻(すべ)りこむように入って行った。腰かけの代りにある紅がらの剝げた樽に腰をおろして、低い声でお酒を注文した。肩の張った蟹(かに)みたいな感じのする小女が、乱暴にぼくの卓にコップをおいて行った。頰杖をついたまま、ぼくはそれを見ていた。
(いったい落第するなどと、おれは予想していただろうか?)
そしてさっきから考えつづけていたことを、ぼくはも一度頭にのぼせていた。実をいえば漠たる不安はあったとしても、現実的な形としてぼくをおびやかすものは何もなかったのだ。ぼくはぼくの運を信じていた、という他はなかった。それだけを信じていたこと、そしてそれが一挙にくつがえされたことから、すべての昏迷が始まっているようであった。
分厚なコップから熱い酒をすこしずつ口のなかに流しこんだ。そして辛い大根おろしをつけて、瘦せた乾鰯(ほしいわし)を嚙んだ。乾鰯の焦げた部分がにがく口にたまると、また熱い酒を流しこんだ。熱い液体は咽喉(のど)をやいて胃に落ちて行った。しばらくするとぼくは卓をたたいてお代りを注文した。うすぐらい土間を小女が横にあるいて、新しいコップの酒をはこんできた。ぼくはうつむいたまま、卓の上のこぼれ酒にさかさに映る電燈のちいさな形を、いっしんに見詰めながら、思い出したように乾鰯を嚙み、そしてふたたび口に酒を流しこんだ。
軈(やが)て戸外は蒼然と昏(く)れてゆくらしかった。
そのうちに、酔いが弾(はじ)けるように身体中にひろがってきた。瞼の内側や膝のうらのくぼみが快よい熱感をたもち、そしてそれが次第に皮膚のうえをずれながら流れるようであった。乏しい電燈の光が軟かくうるんできた。酔いが身体の底にしずんでゆくにつれて、ある思念が黄昏(たそがれ)のようなにぶい色で、ぼくの胸にさびしくひろがってきた。
(そうすると、もうこの世界も、おれの意のままにならないんだな!)
あの瞬間の鈴木教授の顔をぼんやり思いうかべていたのだ。それはいつもの教授の顔とちがった、すこし困惑したような憐れむような表情を浮べていた。その表情がぼくの自尊心をするどく傷つけていたことを、ぼくは今になってはっきり気付いた。今までになぜそれに気付かなかったのか。そしてこんな飲屋でコップ酒をあおっている自分の姿が、ぎりぎりと浮び上ってきた。
(こんな処で飲んでいるとは、鈴木教授だって考えまい)
今ごろは子供たちにかこまれて、及落会議の模様などを話しているかも知れない。そして落されたぼくがこんなうらぶれた飲屋でやけ酒をあおっているなどとは想像しないだろう。そしてぼくの級友たちも――卒業できて熊本の地をはなれるために、下宿の部屋部屋で荷造りをしていて、ぼくのことなど少しも思い出さぬだろう。
この考えは、変にこころよくぼくの頭をこすってきたのだ。ぼくはわざと不貞腐れたポーズでコップを唇にもってゆき、眼球に力をいれてぐっとあおりながら、この愚劣な悲壮感を育てようとした。感傷的になることによって酔いを充分廻らせるのが、いわば独り飲むときのぼくの癖であった。そのいつもの感傷に、今宵(こよい)は切実におちて行く予感があった。ぼくは乾鰯を横ぐわえにくわえたまま、ぼんやり顔をあげて店のなかを見わたした。
すすけた梁木(はり)の間から、うすぐらい裸電球がぶらさがり、土間にならんだ卓のあちこちに、ばらばらと五六人の男たちがこしかけ、皆だまってコップの縁をなめていた。奥の柱によりかかって、小女はうつらうつらと居眠りしているらしかった。一番むこうの卓は薄くらがりにかげっていて、そこで背を曲げてコップを砥(な)めている男の帽子が、どうも白線らしいと思ったら、ふと顔をうごかした瞬間、それは確かに頰のそげた城田の顔であるらしかった。なんだ、あんなところで飲んでやがるのかと、あるなつかしさが、その反対の気持と急激に交錯して、ぼくがはっと身体を堅くした時、その薄暗がりの底で城田の掌が海月(くらげ)のようにふわふわ動いて、ぼくを手招いた。ぼくがいることを先刻から気付いていた風な自然なしぐさであった。ぼくは思わず鰯を口からとり落して、紅がらの樽から腰を浮かした。ある羞恥に似た感情が、みるみるぼくの顔を染めてきた。
席をうつしてむかい合った瞬間、城田はあおくきらきら光る眼でぼくを見据(す)えながら、その癖うっとりしたような口調で言った。
「きれいだったねえ。何ともきれいだったねえ。子飼橋から見たのさ。家や森のずっとずっとむこうで、阿蘇が火をふいていやがるのさ。夕暮の空にちいさな火の粉が、パッと散ってさ、きれいだったねえ、あの景色は」
そしてふと眼をひるんだように外(そ)らし、乱暴な手付でコップを口にもって行って、ぐっとあおった。ぼくもそれにならってぐっとあおった。城田のそげた頰は蒼くしずんでいて、眼だけがきらきらと獣のようにひかるところを見れば、相当に酔いが廻っているらしかった。視線の方向は卓のコップにおちていたが、それにも拘らず、どこか遠くを眺めているような眼付であった。そしてそのままむき合って、暫(しばら)く黙っていた。何か言い出すといきなり痛いところにふれそうで、ぼくは城田の顔をさぐりながら口をつぐんでコップを傾けた。城田の視線も不安定にあちこち勤いた。それからまた二人とも卓をたたいてお酒を注文した。
遠くの方で歌をうたう声がしつこく聞えていた。その他にはコップが受け皿にふれる硬い音がときどき聞えるだけで、あとは何の音もしなかった。
黙ってコップを重ねているうちに、やがて酔いが本式に重々しく身体を充たしてきた。頭脳が熱くぶよぶよになったような気持になって、何だかそこらあたりがはっきりしなくなってきた。そのうちに、何となくぼくらはしきりに饒舌(じょうぜつ)になって、何時のまにかいろんなことを話し合っていたようである。しかしその話し合っていることも一向とりとめがなくて、そして何か逃げ廻っているようで、話題はそれからそれへと切れたりつながったりしてつづいた。舌がどうしてももつれるので、声が自然に甘ったるくなるのが自分でもわかった。
城田は帽子をあみだにはねあげて、髪をべっとり額にたらしたまま、舌たるい声音で、故郷の老父が町役場の小役人であることをしきりにぼくに説きつけた。うす暗い光をふくんで、城田の顔は濡れたすりガラスのような色であった。ぼくもしきりに相槌をうって、その合間にお酒をあおった。それから今度は、ぼくが故郷の老父の話をはじめたらしかった。気がつくとその話も、てんで出鱈目(でたらめ)のつくりごとであった。こんな嘘っぱちが、何故すらすら自分の口から流れ出るのか、ぼく自身にもはっきり判らなかった。何かがしきりにぼくを駆るらしかった。
「おれの親父さんは、按摩なんだよ。眼玉が牡蠣(かき)みたいに潰(つぶ)れてんだ」そんなことを、ぼくはべらべらとしゃべっていた。
「そりゃ、そうだろう」
城田が今度は相槌をうちながら、酒をしきりにあおった。そうするとぼくは、ぼくの親爺が本当に盲(めくら)であるようなつもりになってきて、やたらに悲壮な気持がこみあげた。そしてなおのことべらべらとしゃべり続けた。
そしてそのうちに話題がとぎれて、ふと沈黙がきた。卓の上には空のコップがずらずら並び、こぼれ酒のひとつひとつに、小さい花のように電球の倒影がうかんでいた。酔いが背骨にまでしみこんだようで、じっとしているのも大義な気分になってきた。城田が杉箸(すぎばし)の先で、卓の端にならんだ乾鰯の頭を、ひとつひとつ意味なく弾きおとすのを、ぼんやり眼で追っかけていた。そして自分では確かなつもりで、こちらから口をひらいた。
「――ええと、この二人で」それから何を言おうとしたのか、ふいに忘れてしまった。口ごもったぼくの方へ、城田が顔をとつぜん上げた。そげた頰のあたりが不気味なほど蒼かった。無精髭(ひげ)がそこらにちりちりとちぢれていた。なにか言わなければならないような気持になって、ぼくはあわてて空隙(くうげき)をみたすように意味ない言葉をついだ。
「この二人なんだな。つまりそうなんだ」
「――そうなんだ」
遠いところから吹いてくる風のようなかなしい声で、城田がそう答えた。城田の顔を、なにもかも観念したという風な虚脱したおだやかさが一瞬ながれた。城田の眼は、次の瞬間、しかし急にぎらぎら光って、ぼくをにらみつけたらしかった。その視線を額にいたく受けとめたとき、ぼくは突然なにもかも判ったような気持がして、思わず少し声を高めた。
「この二人。二人だけか。河田や青木はどうした?」
ぎょっとしたように城田が身体を硬くした気配であった。しばらくして吹きぬけるような声で、かなしそうに口をひらいた。
「――あいつらは、上った」
「郡山は?」
「――あれも、無事だった」
城田の返事はだんだん苦しそうな響きを帯びてきた。
「では」と、ぼくは少しせきこんで畳みかけた。「では、那須も? 梅野も?」
ぼくにそそがれた城田の視線が、急に憎しみをたたえたと思うと、そのままふと横に外れた。コップヘ手を伸ばしながら、肩をがっくりおとし、城田は沈痛な声になって言った。
「――それらには、先刻逢ったよ。子飼橋の上で。二人ともトランクを下げていやがった。今晩の汽車で東京へ発つとよ」
酔いでぶよぶよになった身体のあちこちから、何かが脱落してゆくような烈しい感じが起って、ぼくは思わず眼をとじていた。瞼のうらに回転する眼花のなかに、ぼくはトランクを下げた二人の級友の姿をうかべていたのである。そして橋のたもとに佇(たたず)んでそれを見送る城田の、瘦せた長身の姿がまざまざとそれに重なった。ぼくはそれらの幻像が、ぼくの幽(かす)かな憎しみでいろどられていることを今はっきり感じていたのだ。そしてその感じを探ってゆけば、ぼくが憎んでいるのはあの二人ではなくて、むしろ城田に対してであるのかも知れなかった。しかしそのような感じを超えて、その時城田が見たという阿蘇の風景が、いきなりぼくによみがえり、胸の中のものを一瞬はげしく摑んできたのである。ぼくの背をかすかな戦慄がはしりぬけた。[やぶちゃん注:「子飼橋」ここ(グーグル・マップ・データ)。「眼花」は「がんか」と読み、小学館「日本国語大辞典」によれば、『目さきがちらちらして物が良く見えないこと。また、目さきにちらちらする火花のようなもの。』とあった。これは芥川龍之介の「齒車」に出る視覚的異常(健常者にも起こる)である「閃輝暗点(せんきあんてん)」或いは「閃輝性暗点」という、必ずしも重い病気とは限らない視覚障害症状である。私の『小穴隆一 「二つの繪」(7) 「□夫人」』及び「芥川龍之介書簡抄143 / 昭和二(一九二七)年三月(全) 六通」の「昭和二(一九二七)年三月二十八日・田端記載/鵠沼行途中投函(推定)・齋藤茂吉宛」で詳細に注してあるので読まれたい。ここはしかし、閉じた瞼の裏側に光のようなものが見える錯覚で、後者の変形的な視覚的現象である。私はもうじき六十五になるが、この熟語を使ったことはない。しかし、そうした錯覚は何度も体験したことは、ある。]
それは浅黄色の空を背景とした、遥かにちいさな、そして厳しい山のかたちであった。その頂上から六彩の火のいろがほのぼのとふき上っていた。夢の中の風景に似ていたが、ふしぎなことに今のぼくには、それは実際の阿蘇よりもっともっと鮮かな現実感を瞼のうらにひろげていた。ぼくはとめていた呼吸をふとゆるめると、眼をしずかに開いた。コップに残った酒を、音たてて飲みほした。
「おい。今から、阿蘇に行こう」
ぽくは押えつけたような声でそう言った。そう言ってしまうと、急に駆りたてられるような気持になって、ぼくはあわてて言葉をついだ。
「自動車で行こう。金はある。金はあるんだ。行こうじゃないか。おれだけでも行く」
酔いのために血走った城田の眼が、だんだん大きく見開かれて、射ぬくようにぼくの顔におちた。
ぼくら二人をのせた自動車は、暗い街をぐんぐん進んで行った。ヘッドライトの光茫が電柱や街路街をつぎつぎ砥(な)めて、だんだん家並がまばらになって行くのが判った。
大きな橋を走り渡るとき、川の面に月が映り、気がつくと外界は青白い月のひかりでいっぱいであった。自動車は青白い麦畠のなかをずんずん走った。
遅転手はスキー帽の後頭部をみせたまま、身じろぎもしなかった。ときどき肩と手がすこし動いてハンドルを廻すらしかった。青白い月光はそこにも斜めにおちていた。
ぼくらは同じようにクッションによりかかり、腕組をしたまま揺られていた。振動につれて酔いがひとしきり発してくるようであった。はっきり身体が揺られているくせに、自分が自動車にのっていることが妙に現実感がなかった。自分だけが宙に浮いて、どこかに飛んでいるような気がした。窓のそとの青白い風景がちらちらと瞼をかすめて、切れ切れの意識の底を、しんしんと氷のようなさびしさが降りてきた。自動車はしだいに速度を増して、ぐんぐん進んで行った。車輪のしたをずんずん背後に流れてゆくのは、白々とつらなる夜の街道であるらしかった。
ぼくらはお互にそっぽをむいて、窓の外の風景を見るとはなしに眺めながら、言葉すくなく話を交していた。相手の声はほとんど聞きとれないから、勝手にひとりごとを言っているのと同じであった。そして自分が口からはいたことも、次の瞬間には忘れはてていた。時間がしゅんしゅんと水のように流れてゆくのに、ぼくの気持はなぜかしだいにとがってきて、ひどくわずらわしい気分になってきた。
(こんな思いつきを、おれは後侮し始めたのか?)
自動車は青白い風景を裂いて、ぐんぐん進んで行った。時々運転手の肩と手がかすがに動いて、ハンドルがゆっくり廻った。耳をかすめる城田の語調がだんだんとげとげしい響きを含んできた。何を言っているのかはっきり聞きとれないが、何だか次第に怒りを押えきれなくなってくるらしかった。
(怒ることがあるか。自分で勝手に落第したくせに!)
ぼくはかたくなにそっぽむいて、窓の外を飛び去る夜の風物を眺めていた。眺めているとぼくの心の底でも、しんしんとした淋しさをやぶって、酔いにまぎれて怒りのようなものがいらいらと燃え上ってゆくのが感じられた。
(阿蘇に行くったって)とぼくも口に出してつぶやいた。
(始めからおれひとりで行けばよかったんだ)
視界を満たしていた青白いひかりを、突然、バタ、バタ、バタ、と間隔をおいて黒い影がさえぎり始めたと思ったら、街道は巨大な杉並木に走り入ったらしかった。
(ついてきて呉れというから、ついてきてやったら、見ろ、おれまで落第してしまったじゃないか!)
酔いが身体の振動のため、こじれた形のままふくれてくるようで、感覚がそこらでずれてしまったらしかった。阿蘇に行こう、と呼びかけた時の、城田への親近感が、どすぐろく形を変えて、重い鎖のようにぼくの身体にもたれてくるようであった。さっきの浅黄色の阿蘇の幻想もあとかたなく消えて、なにか真黒な巨大なものへ、この自動車が突き進んでゆくような気がした。逆なでされるような不快な抵抗が、そこにかすかに混っていた。
疾走する音のなかから、ぼくはその時ふと呂律(ろれつ)の乱れた城田の呟きをとらえた。
「――お前は、ほんとに、ほんとに、不潔なやつだな」
窓硝子に額をあてて、ぼくは今とらえた言葉の意味を、何とはなくぼんやりと考えた。しばらくするとぼくはなぜか急に胸が熱くなるような気持におそわれた。そしてその熱は次々に全身にひろがってきた。ぼくは唇を嚙んで、ますます額を窓硝子におしつけた。自動車は長いことかかって杉並木をぐんぐん走りぬけた。しばらくしてふと気がつくと、なだらかな丘陵の上を、自勤車はぐんぐん走っていた。あたりをとりまく草原は一面に蒼ざめて、まるで静かな海のようであった。月の光がそこにさんさんと降りそそいでいた。
その時呂律の乱れた城田のとげとげしい呟きが、急に叫び声になって、靴をがたがた踏みならした。その声はまるで泣いているように聞えた。
「おれはここで降りるんだ。降ろしてくれ」
自動車はぎぎぎときしんでとまった。
(降りたければ降りたらいいだろ)ぼくはそっぽむいて唇を嚙んだままそうかんがえた。酔いがぼくの気持をたすけていた。その時ぼくははっきりと、城田を純粋ににくむ気持におちていた。飲屋で出合った瞬間から、この気持は始まっていたのではないか。そう考えたとき、がたごとと音がして、城田の体はよろめきながら外に出るらしかった。車体がぎいとかしいだ。扉がばたんとしまると、自動車はまた爆音をたてて動き出した。運転手の後姿はさっきのまま、すこしも動かなかった。やがて速度がつめたく加わってきた。
背後の窓をふりかえると、大きななだらかな丘陵の頂に立った城田の姿が、見る見る小さくなって行くのが見えた。それは青白い円盤の上にとめられた小さな鋲(びょう)みたいに見えた。小さな鋲は片手をあげてこちらに振っているらしかった。何とも言えない、不安とも悲哀とも憐憫(れんびん)ともつかぬものが、そのときぽくの胸を疾風のように通りすぎた。そして鋲は青白い風景のなかに沈んで行った。
それから長い時間、自動車はぐんぐんぐんぐん走って行った。土手や林や燈が、飛ぶように背後に飛んで行った。ぼくはクッションの片すみに身体を埋めて、じっとしていた。気持ははげしくたぎっているにも拘らず、意識の一部がしだいに物憂(う)く凝(こ)って行くのが感じられた。自動車のつめたい無神経な速度が次第に皮膚をざらざらとけばだててくる気配があった。
(おれは何の為に、阿蘇くんだりまで出かげねばならぬのか?)
酔いがすこしずつ醒めてくるのを感じながら、ぼくはそう考えた。そう考えると、あの草丘に残してきた城田の姿が次第になにか切実な形でよみがえってきた。ぼくは背筋をかたくして、気持をある荒涼たるもので支えていた。酔いが顎のさきや脇の下から、しらじらと醒めて行くのがはっきり感じられたが、醒めかかる意識のむこうに、もはやぼんやりと故郷の老母の小さな姿や鈴木教授の姿や級友の姿が浮んで来るようであった。
(何のためにおれはこんな自動車に乗っているのだろう?)
ぼくは急に我慢できないような気持になって、思わず声を立てて叫んだ。
「ぽくもここで降りるんだ。とめて下さい」
運転手の肩と手がわずか無表情にうごいて、車体は再びきしみながら速度をおとした。道に凸凹があるらしく、ヘッドライトの光茫が乱れ散った。車輪が土に食いこむように、自動車はがくんととまった。
窓のそとに点々と燈が見えるのは、ここはたしかに街道筋の小さな部落にちがいなかった。ぼくは車のなかでよろめいた。
「うどん」と染めぬいた障子が燈を透して、湯気が小窓からほそく洩れていた。自動車のテイルライトが今来た道ヘ消えてゆくのを見届けて、ぼくは油障子を引きあげた。夜風でひるがえるぼくのマントは、月の光に銀いろに濡れた。
土間に大きな卓がひとつあって、小さな男がひとりコップをかたむけていた。土間のすみには籠が伏せてあって、ぼくの姿をみてその中の鶏がコココと騒いだ。ねぎの匂いがそこらにただよっていた。竹格子のむこうの調理場から、眼の大きなわかい女の顔がのぞいた。
「焼酎しかないのよ。それとも、うどん?」
ぼくの顔を見ながら、女の眼じりに笑いの影がはしった。
「学生さんね。どうしたの。顔色がわるいわ」
女はごわごわした手織の着物を着ていた。腰をかけて帽子をぬぎ、ぼくは女がはこんできたコップから強い芋焼酎をすすった。咽喉(のど)を焼くようにして、それは食道におちて行った。一杯飲むか飲まないうちに、ふたたび酔いが快よくもどってきて、耳の奥をじんじんと血がはしりだすのが判った。さかなの代りに葱(ねぎ)を薬味風に刻んだのをつまんで、また焼酎をふくんだ。何もかもぼくから遠ざかってゆくような、遥かな虚脱がぼくの節々をみたしてきた。ここが何という部落なのか、それもあまり気にならなくなってきた。小窓から十七夜の月輪が見えた。自動車でひとりいた切迫した気持が、ここではゆるゆるとほぐれて行くらしかった。
前にすわっている小さな男はもうずいぶん飲んだらしく、しやがれた声で女としきりに冗談のやりとりをしていた。詰襟から出た頸筋(くびすじ)のところが赤く染って、鶏の地肌みたいな色であった。女は男の言葉のたびに、明るくほほほと笑った。わらう毎にぼくの方を大きな眼でちらと見た。男の声は冗談いうときでも、へんにかなしそうにしゃがれていた。
そのうちに、何が何でもいいような気分になって、ぼくもしきりにコップをあおった。男がぼくに話しかけてくるのもそう気にはならなくなった。
「阿蘇に行こうと思ったんです」
そんなことをぼくは答えた。男は詰襟服から首を伸ばして、今は荒れているから面白いだろう、などと言った。
「うそよ。あぶないわよ」
女の眼はやさしく笑いをふくんでぼくを見た。おれより年上らしいな、とぼくはぼんやり考えた。詰襟の男は鶏のような声を出して笑った。ぼくもそれと一緒にわらった。すると、名も知らない部落のうどん屋で、こんなに安心してわらっている自分が、奇妙にたのしく思われてきた。
「なぜ阿蘇にのぼるの? おひとりなの?」などと女が訊ねた。
女の眼は探るようにぼくの顔におちていた。
ぼくは先刻草丘にのこしてきた城田のことを思いうかベていた。それはぼくの想像のなかで、絵のようにほのぼのとした風景であった。その風景をぼくは素直に思い描いた。それももはやぼくには、遠く遥かなものになっているらしかった。ぼくはこの詰襟の男や眼の大きな女に、ほのかな親近の思いが湧き上るのを感じながら、うつむいて言った。
「学校を落第したからなんだよ」
ぼくの言葉を聞いて、女は、手の甲で口をおさえて、ほほほ、と笑った。白い清潔な歯並みがこぼれた。その色が何故となくぼくの眼に沁みてきた。詰襟の男は赤黒くしなびた顔に頰杖をついて、廻らぬ呂律(ろれつ)でぼくに、自分が中学校で落第した時のことを、話して聞かせようとしていた。女は男の言葉の合の手のように、うそよ、とか、それは出鱈目よ、などと口をはさんだ。
「……おふくろからさんざん叱られて、家出してやろうかと思って、な、背戸まで出たら麦畠のむこうに半かけの白い昼の月が出ていた」
ぼくも頰杖をついて、ぼんやり聞くともなくそれを聞いていた。その半かけの昼の月がまざまざと眼に見えるような気がした。
「わしがあるきだすと、な、うちの犬がどうしてもついてきて離れない。仕方がないからたんぼの榛(はしばみ)の木に、犬をしばりつけた。そして走り出した。犬のからだはついてこないが鳴声はどこまでもついてきた。わしは耳をおさえるようにして、どこまでもどこまでも走った。どこまでも走っていったよ。――」[やぶちゃん注:「通常は落葉低木のブナ目カバノキ科ハシバミ属ハシバミ変種ハシバミ Corylus heterophylla var. thunbergii を指すが、実は本邦ではしばしば全くの別種である落葉高木のブナ目カバノキ科ハンノキ Alnus japonica に誤って当てる。ここも犬を縛りつけるとなら、私が映画監督なら、後者を使う。]
「うそよ。大うそ」と女が笑ってさえぎった。「中学校に行ってたもんですか」
男も赤黒い顔をくしやくしやにして笑いだした。それからまた焼酎をしきりに飲んだ。ふたりのコップが卓に入り乱れてならんだ。話がとりとめもなく乱れて、ぼくも身体が燃えるように熱くなり、そこらもはっきりしなくなってきた。歌をうたおうというので、何だか干切れ干切れに声を出した。
女がぼくのそばに掛けて、咽喉(のど)を反(そ)らせて軽やかな声で「オテモやん」をうたった。ぼくも杉箸でコップを叩きながらそれに和した。ぼくらの声はすでに乱れて、抑揚もなにもなかった。声をだしてうたっていると、潮騒(しおさい)のように胸の奥で湧き立つものがあって、ぼくはそれから逃れようとしながら、眼をつむって更に調子を高めた。[やぶちゃん注:「おてもやん」熊本民謡の代表格とされる民謡。熊本弁が強く出た陽気な歌詞が特徴。詳しくは当該ウィキを読まれたい。そこでもリンクが張られてあるが、「熊本国府高等学校パソコン同好会」による歌詞の標準語訳を並置した詳細解説があり、それによれば、以下で歌われる一節は『そんな人たちがいらっしゃるので、後はうまくとりなしてくれるでしょう』とある。また、YouTube のこちらで「日本大衆文化倉庫」による歌詞画像とともに視聴も出来る。]
〽あんひとたちのおらすけんで、あとはどうなときゃあなろたい……
突然瞼に熱いものが一ぱいあふれてきて、咽喉がつまった。歌いやめてじっとしていると、女の呼吸が耳のそばにあたたかく触れて、低い声がささやいた。
「今夜はあたしのうちにいらっしゃい」
詰襟の男はすっかり酔っぱらって、黒白もすでにわからぬらしかった。そのくせ注文したうどんを食べようとして、杉箸をしきりにうどんに突込んだ。うつむいたままの顔にしゃくい上げて、ばらばらこぼしたりした。[やぶちゃん注:「しゃくい上げて」「しゃくりあげる」(噦り上げる)の音変化(方言ではない)。本来は「声や息を何度も激しく吸い上げるようにして泣く」こと指すが、ここは、むせっているのを、かく表現しているのであって、男は泣いているわけではない。]
「鼻の、穴から、食うもんだぞ。うどんの、通人は」そんなことを言いながら、犬のように鼻を丼に押しあてた。そのような風景がぼくの眼の前で、いくつも乱れたり重なったりした。ぼくはさっきの女のささやきを、すがるように記憶にたしかめながら、また焼酎を口に含んだりした。女がそこらを片付けにかかっていたことはぼんやり覚えているが、そこらあたりからはっきりしなくなった。
――気がつくと、ぼくは女とならんでこうこうたる月光の道をあるいていた。
足がどうにももつれるので、ぼくは女の肩に手をかけていたらしい。月の光が背後からさして、銀白の道にはふたりの大きな影法師がもつれながら動いている。夜風のなかで女の香料にまじって、桃の花の匂いが幽(かす)かに流れたりした。道のそばを小川がながれているらしく、水音がぼくらについてきた。
「――あれが、阿蘇よ」
ちらちらする視界のはるか向うに、うすぐろい煙が立ち上っていた。山の形が月光のなかで、くっきりと浮んで見えた。それを眺めながら、女の肩を抱いたぼくの手の指は、女の耳たぶに触れていた。耳たぶはつめたく柔かかった。かなしみに似たものが、ぼくの胸に磅礴(ほうはく)とひろがった。[やぶちゃん注:「旁礴」「旁魄」などとも書く。原義は「混じり合って一つになること・混合すること」であるが、ここは「広く満ちること・広がり塞がること・広々としていること」で畳語表現である。]
洋燈(ランプ)をつけると、部屋のなかがぼんやり浮び上ってきた。女は先に上りながら、ぼくにささやくように言った。
「これ一部屋なのよ。変な造りでしょう」
長細い四畳の部屋に、せまい土間がついていた。部屋はこれだけであった。板で仕切られていて、天窓がひとつあるだけであった。洋燈の光が揺れて、壁板にかけた着物の影がちらちらと動いた。押入れもないらしく、夜具は部屋のすみに重ねてあった。荒れはてた情感がそこにただよっていた。洋燈のひかりの中で、女の顔は俄に歳とったように見えた。女の姿は部屋をあちこちうごいた。ぼくも戸をしめて、畳にすわった。
「お茶もなくて、ごめんなさいね」と女がぼくを見おろして言った。「こんな部屋を借りてるもんだから。電燈線もひいてないのよ」
ぼくはぼんやりあたりを見廻していた。これは農家の中庭らしいところを通りぬけたから、庭のすみに建てられた離れみたいな一棟であるらしかった。
「――あの店は、住込みじゃないのかい」
としばらくしでぼくが訊ねた。しかしそれは、別段ぼくの聞きたいことではなかった。なにもかも、どうでもよかった。訊ねたいことは何もなかった。十年も前から自分がここにすわっているような錯覚におちながら、ぼくは全身から力をぬいて、うすぐらい洋燈の光のなかを動く女の姿を眺めていた。洋燈の光を真下から受けるとき、女の顔はデスマスクのように見えた。風がどこからともなく入るらしく、洋燈の光がときどき揺れて、冷気が縞(しま)になって顔の皮膚をかすめた。部屋の一方の板仕切のところで、なにか堅いものが向うから触れる音がした。
女が洋燈をふっと吹き消すと、天窓からさあっと月のひかりが降ってきた。夜具はつめたく、そしてかたかった。女の髪のにおいが強くした。女の腕は軟かかった。そして、くねくねとうごいた。女の声が耳もとをくすぐった。
「なぜ、ふるえているの?」
しばらくして暗闇の底で、女はかすかに、ほほほ、と笑った。
女のからだは燃えるように熱かった。そしてそれから暫(しばら)く時間が泡立ってながれた。
――やがてぼくは布団をふかぶかと顎(あご)までかけて、足を重ねてあおむけに寝ていた。女の寝息がそばで規則正しく聞えていた。背丈が四五寸も伸びたような変な感覚が、ぼくの体にのこっていた。天窓から入る夜のひかりで、板壁にかけた着物のかげが浮き上った。それはさっきまで女がつけていた堅い手織りの着物のかたちであった。そのときぼくの横の板仕切で、ふたたび何かがかすかに触れる音がした。それと同時に、重量のあるものがゆっくり動く気配がして、すぐに止んだ。
(この板のむこうに、何かがいる!)
ぼくは身体を堅くして、そう考えた。女の寝息はおだやかに、規則正しく起伏していた。ぼくはじっと耳を澄ました。物音はそれきりで起らなかった。そして夜風が少しつのってきたらしく、この棟の外の喬木(きょうぼく)の梢にあたる風が、泣いているような、幽かに鋭い音になってここに落ちてきた。また硬質の陶器をこするような乾いた音をたてて、風がこの棟の屋根をかすめて通り過ぎるらしかった。天窓のあたりで月光がようやく衰えて行くようで、落ちてくる光線が女の半顔にうすれ始めていた。女はふかぶかと瞼を閉じて、まつ毛が長く伏せていた。呼吸と共にそれは微かにゆらいだ。額や頰のいろは冷たく冴えていて、先刻の女とは別人のように見えた。
にわかに鋭いかなしみがぼくをよぎった。熊本から二三十里もはなれた、名も知れぬ部落の片すみで、こんな女と寝ているということが、突然ぼくの胸に落ちてきて、荒涼とした寂寥(せきりょう)感が、酔いをやぶってぼくの腹の底から、ゆるゆる四肢の先にひろがって行くのが判った。
――それからぼくは昏迷したように眠りに落ちたらしかった。重苦しい夢のかずかずが断続してゆくうちに、ほのぼのと夜明けが近づいてゆくらしかった。
……深い水の底から急に浮びあがるようにして眼を覚ました。一尺ほどぼくから隔たった板仕切に硬質のものがぶつかる音であった。その音でぼくは目醒めたらしい。天窓がほのぼのと明るくなって、淡青い空が四角に切りとられていた。直ぐに眼に入ったのは、それであった。朝になったのか?
(そうだ。昨夜はこんなところに寝たんだ)
頭を起そうとしたとき、板仕切のむこうで何か踏むような重い音がして、物のすれる摩擦音がそれに短くつづいた。
昧爽(まいそう)の明るさが、部屋のなかまで忍び入っていた。昨夜脱ぎすてたマントや服が、枕もとに黒くかたまっていた。女を醒まさないようにそっと夜具を脱け出ると、音のしないように、ぼくはてばやくそれを身に着けた。頭から酔いは脱けていたが、体のふしぶしには重く沈んで残っているようであった。[やぶちゃん注:「昧爽」「昧」は「ほの暗い」の、「爽」は「明らか」の意で、「夜の明け方・夜が明けかかっている時」を言う。]
(――やはり女が目醒めないうちに、そっと帰ってしまおう)
ぼくは女の寝姿をながめながら、も一度そう考えた。白いうすい光のなかで、女の寝顔の輪郭はほのかに浮び、無心の童女のような表情であった。ぼくの心をとらえていたものは、あるむなしさを含んだ哀憐の思いであった。すこしずれた襟もとから、乳房の片方がのぞいていた。その乳首はちいさく薄赤かった。――
視線を断ち切るように、ぼくは靴の紐(ひも)をむすび、引戸をそっと開いた。空気があたらしく冷たかった。そとに出て戸を閉じた。
昨夜の記憶はほとんど死んでいて、街道へ戻る道も定かでなかった。ぼくは四辺をぼんやり眺め、柔かい土をふんで、この棟に沿って横に廻った。それは妙に荒い木組をした建て方の家であった。軒下に梯子(はしご)が横にかかっていて、細長い形の棟であった。そこに小さな梅の木があって、点点と花をつけていた。
軒下の雨滴石(あまだれいし)を踏みながらあるいたとき、ぼくは突然おどろいて立ち止った。
「馬が!」
その棟の、女の部屋の反対側から、馬が首を出していたのである。横木から頸(くび)だけ伸ばして、馬は不審気にぼくを眺めていた。
(だからあの部屋は、妙な感じだったのだな)
廐(うまや)を半分に仕切って、それが女の部屋であるにちがいなかった。あとの半分は廐のままになっていて、昨夜から板仕切に触れたり身じろぎしたりしたものは、たしかにこの馬のからだであった。廐の入口のむこうはちいさな枝折扉(しおりど)になっていて、半開きのまま朝露にぬれていた。そこから細い道がかたむいてつづくらしく、右手の方にゆけば街道に出そうに思われた。
(昨夜は、この道を入ってきたのか?)
しかしぼくは廐の入口に立ちどまって、馬の姿に視線をとめていた。横木の内側はうすぐらく、そこにふくらんだ馬の胴体がくろぐろとあった。その胴体は、毛が地図のようにところどころすり切れていた。短い脚がその胴体を支え、四つの蹄(ひづめ)が床のわらを踏んでいた。
そこらあたりに、ほのかに獣の臭いがただよっていた。馬はぼくを見ながら、しきりに頸を上げ下げした。たてがみは房になってところどころにかたまり、生毛のぼやぼやにおおわれた短い耳が、尖って立ったままヒクヒクとうごいた。耳と耳との間から、長い茶色の毛房が馬の額に垂れていた。その毛房の尽きるところに、大きな丸い馬の眼があった。馬は頸をふるのをやめて、後脚を窮屈そうに動かした。そのはずみに蹄が背後の板仕切にふれるらしく、硬い音がかすかに響いた。あの板仕切のむこうの長細い四畳間に、女がふかぶかと瞼をとじて寝ている筈であった。
ぼくは顔をさらに馬の方に近づけた。馬の丸い眼のなかに、暁方の風景がはっきりと映っていた。梅の木や枝哲扉や、そんなものがちいさく映っていた。そのむこうに屋根や樹々や畠の一部が、ごちゃごちゃと圧縮され、そのまた彼方に青ぐろい山の鮮かな遠景があった。その山の形の頂きから灰色の噴煙がひとすじ立ちのぼっていた。それらの風景はすべて、老馬の温良な瞳のなかに、ちいさく凝縮されて収まっていた。そしてその風景の一部を、白線帽をかぶったぼくの顔がしめていた。その顔の影像は泣きだしたいような表情を浮べて、じっとぼくの方を見詰めているらしかった。視線をそこに定めて、ぼくも暫く小さく歪んだ影像に見入っていた。……
[やぶちゃん注:この背景にある熊本五高の落第や卒業判定会議で揉めたというのは梅崎春生自身の実体験を改変して作られてある(実際は二年次の原級留置であり、教授会で揉めたのは卒業時のそれ)。中井正義著『梅崎春生――「桜島」から「幻化」へ――』(昭和六一(一九八六)年沖積舎刊)の年譜の昭和九(一九三四)年のパートに『怠け癖から、三年生になる際に平均点不足で落第し』たとあり、二年後の昭和十一年三月の条に、『五高を卒業』したが、実は『試験の成績が悪く、卒業を認めるか認めないかで、教授会が三十分以上も揉めたと後で知った』とあるのが事実である。いや、何より、彼自身による少年期から召集されるまでを綴った特異点のエッセイ「憂鬱な青春」を読まれるのがよろしいと存ずる(なお、彼は小説以外では戦中の海軍での実体験を子細に記すことは遂になかった)。
それにしても、我々は本篇で、既にして――落第のトラウマ――不思議な女と邂逅――阿蘇――という重大なシークエンスが、遺作となってしまう(そのつもりは春生自身には殆んど全くなかったのだが)「幻化」(リンク先は私の全注釈PDF一括縦書版)で――確信犯として――総て生かされていることに気づくのである。
個人的に滅多に読まれることがない本作だが、梅崎春生の作品の中でも、映像的に優れて(特にコーダ部分)魅力的な佳品と思っている。]