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2022/02/09

狗張子卷之三 甲府の亡靈

 

[やぶちゃん注:挿絵は、今回も所持する一九八〇年現代思潮社刊の「古典文庫」の「狗張子」(神郡周校注)からトリミングし、適切と思われる位置に配した。漢詩は早稲田大学図書館「古典総合データベース」版の原本PDF「卷之三」一括版)の訓点に従い、読みを補いつつ、白文の後に訓読文を配した。

 

   ○甲府の亡靈

 武田勝賴は、織田信長公に沒落せられ、城壘(じやうるい)は一片の煙(けふり)となり、草のみ生ひ茂り、狸のふし戶、狐のすみかと成《なり》たり。そのあたりには、百姓の家、所々に立《たち》たりしも、むかしにもあらず、さびわたりて、物すさまじき有さまなり。折ゝは、あやしき事も有《あり》て、人を、おどろかし侍べるとかや。

 諸國修行の僧好雲房とて、もとは竹田の人なり。世をいとうて、家を出つゝ、諸國をめぐりけれども、所に關をすゑ、渡りには、奉行(ぶぎやう)をそへて、心やすく往來も成りがたし。

 此甲府にめぐり來て、日の暮ければ、あやしの茅屋(かやや)に宿をかりけるに、あるじのいひけるやう、

「旅の僧に宿をかし奉らんは、いと、やすし。夜《よ》ふけて、あやしき事の、あり。それだにくるしかるまじくは、入《い》りて、とまり給へかし。」

といふ。

 好雲、聞《きき》て、

「本より、すつる身のならひ、たとひ、命は失なはれ侍《は》べるとても、何かくるしかるべし。宿なき野のすゑ、山ぢのあひだには、岩ね、木(こ)のもと、ふるき社(やしろ)のかたはらにも、一夜をあかす事、おほし。まして、主(あるじ)のおはするには、不足なし。」

とて、内に入れば、亭(てい)のおく、菅(すが)ごもの上におきて、粟飯(あはいひ)したゝめて、すゝめけり。

 松の火をあかしに、ともし火のかはりとし、さて、物がたりするやう、

「そのかみは、ゆゝしき城(しろ)にて、要害きびしく、堀の外には諸侍(しよし)の屋敷、軒をならべてたちつゞき、にぎやかなりし所なりけるを、今は沒落して、かゝる淺ましき賤(しづ)がふせ屋のみ、わづかにすみわたるばかりなり。むかしの人の、執心、殘りて、あやしき事の侍べるなり。おどろき給ふな。」

とぞ、かたりける。

 かくて、夜もふければ、主は内に入りて、好雲、只、獨り、念佛し、心をすまして、臥しけり。

 かゝる所に、一人の女、年のほど、十七、八とみえしが、枕もとの障子をひらき、内に入《いり》て、立《たち》たり。

 顏、うつくしく、こぼれかゝる鬢《びん》のあたり、その肌(はだ《へ》)は、雪にあらそひ、すこし、打《うち》ゑみて、

「秋の空、いと靜かに、閨(ねや)の中《うち》、物さびし。蛬(きりぎりす)、夜もすがら、月のもとに吟じ、更(ふけ)ゆくまゝに、風、そよぎて、桐の葉も、ふみわけがたく成《なる》まゝに、此夜《このよ》を、いかにあかしかねつゝ、これまで、まゐりぬ。」

とて、

 草の葉の露も我身の上なれば

     ほさぬ袖だに月やどるらん

と、うち詠《なが》めて、

「いかに。お僧は、夢も、さめ給はぬや。」

と、いふに、好雲、物をもいはざりしかば、女、又、云ふやう、

「こよひ、敷(しき)たへの、賤(しづ)が菅薦(すがごも)、床(ゆか)もむなしく、さえゆく月の影も惜(をし)きに、酒、ひとつ、汲(くみ)て、旅の心をも、なぐさめばや。」

と、そゝのかせども、更にものをも、いはず。

 女、又、いふやう、

「さのみにつらく、くちなし色の、たえて物をも、のたまはぬかな。たとへば、戀路の闇に、まよふ人の、まだ、下紐(したひも)のとけぬにも、また、一こと葉は、聞ゆるぞかし。いかにとかくのいらへもなくて、おはすらん。

 いかにかく問(とへ)どこたへぬくちなしの

       花も染(そむ)れば色に出るを」

 又、聲、うちあげて、詠(えい)ずる詞(ことば)に、

  黃帝上天時

  鼎湖元在茲

  七十二玉質

  化作黃金貲

   黃帝(くわうてい) 上天(じやうてん)の時

   鼎湖(ていこ) 元(もと) 茲(ここ)に在り

   七十二の玉質(ぎよくしつ)

   化(くわ)して 黃金(わうごん)の貲(かたち)を作る

 好雲、聞ながら、心にもかけず、物をもいはざりしかば、女、座をたちて、歸るとみれば、形は、跡なく、きえうせたり。

 初《はじめ》は、好雲が心を引《ひき》て、亂るゝ思ひを、とらんとせし所なり。

 後(のち)の詩のこゝろは、昔、黃帝は鼎湖といふ所にして、龍にのりて、天にのぼり給ひしに、七十二人の玉女(ぎよくによ)は、その身、生きながら化(け)して、黃金のたからとなりしを、地中に埋(うづ)まれし、といふ事なり。これは、

『此城(じやう)の跡に、黃金を埋みおかれしを、今、我に心をうつし、たはぶれ給はゞ、そのあり所をしらせ侍べらん。』

といふ、心ばへなり。

 ひとの心を亂す物は、色と、財(たから)との、ふたつに、あり。

 好雲、世をのがれて、よくおさめ[やぶちゃん注:ママ。]たる故に、何のわざはひにも、あてられざるこそ、有がたけれ。

 

Kouhunobourei

 

『今は。心やすし。』

と、おもふところに、夜、すでに、丑みつばかりになりしかば、月も、やうやう、かたぶくころ、庭のおもて、さはがしく聞こえて、そのたけ、九尺[やぶちゃん注:二メートル七三センチ弱。]ばかりの男、その手に曝(しやれ)かうべ、五(いつ)つ、六つ、もちて、枕もとの障子を、あらけなく引あけて、内にいらんとす。

 好雲、

「むく」

と、おきて、手まへにおきたる棒をとりて、よこざまに薙(なぎ)ければ、妖物(ばけもの)、うちたふるゝと、みえし。

 しやれかうべともに、うせにけり。

 主、おき出《いで》て、火をともし、庭に出て見れども、何の殘りたる事も、なし。

 夜も、やうやう、あけがたになり、東のかた、橫雲たなびきければ、好雲も旅だつ空に出《いで》ていにけり。

 後に、そのをはる所を、しらず。

[やぶちゃん注:「武田勝賴」(天文一五(一五四六)年~天正一〇(一五八二)年三月十一日)は晴信(信玄)の次男。天正元(一五七三)年、信玄の陣没により、家督を継いだ。信玄の死去を知った織田信長・徳川家康は。武田氏が征服した駿河・東三河方面に攻め入り、長篠城を攻略するなど、武田勢駆逐を企てた。勝頼はこれに対抗して北条氏政と攻守同盟を結び、翌二年、遠江に攻め入って、家康の属城高天神(たかてんじん)城を落し、次いで美濃に侵入し、信長の諸城を攻略した。しかし、同三年五月、信長・家康の連合軍と三河長篠に戦って大敗し(「長篠の戦い」)、以後、次第に衰勢に向い、同十年、織田軍に攻められ、甲斐の天目山麓で自害し、一族は滅亡した。

「城壘」江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(二)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)を見ると、勝頼の注で、天正九(一五八一)年十二月に、『韮崎に新府城を築き』、『甲府より移耘。翌十年三月二日、織田川の侵攻により、新府城に火を放ち』、『逃走し』たとあるが、この「城壘」に注されて、『「城塁」は、甲斐国山梨郡府中(現山栗県甲府市)にあった躑躅ヶ崎館をさすか』。『天正九年十二月、勝頼は新府城移転に伴い、躑躅ヶ崎館をことごとく破却し、泉水の植木や名木までも切り捨てたという(『甲陽軍鑑』品五七「甲州くづれの事」)。』とある。後の主人の語りで、「そのかみは、ゆゝしき城(しろ)にて、要害きびしく、堀の外には諸侍(しよし)の屋敷、軒をならべてたちつゞき、にぎやかなりし所なりける」という部分を考える時、江本氏の謂いが正鵠を射ているという気がしてくる。

「好雲房」不詳。

「竹田の人なり」敢えて文字を変えていることから、滅んだ「武田」氏所縁の謂いではあるまい。事実そうなら、再び、その旧地に戻っての無常を抱くところであるが、そうした描写はなく、そうした素振りも好雲房は全く見せない。それはこの生臭い武田滅亡の執心の怪異に対しても同様であり、これは彼が武田氏とは縁もゆかりもないことを逆に証明していると言える。では、どこの竹田かは不詳である。

「關をすゑ」前掲江本氏の注に、『近世の関所は、天正十八年(一五九〇)の徳川家康の関東移封から一、二年の間に原型が出来たもので』、『防衛を目的としたが、それ以前の中世の関所は、関銭徴収を目的とした経済的な色合いが濃いものであった。本章でいう関所は後者で、しかるべき所の許可なくして私に作られた関所をいう。なお、織田信長による関所制度の撤廃は、はじめ信長の分国内に限られていたが、豊臣秀吉によって全国的な政策となった。』とある。この江本氏の考証によって、本篇に話柄内時制は武田勝頼の自害(天正一〇(一五八二)年三月)よりも、有意に後で、しかも家康によるプレ江戸時代の天正十八(一五九〇)年辺りまでの八年ほどの閉区間と想定してよいように思われる。

「渡りには、奉行(ぶぎやう)をそへて」同じく江本氏注に、『前項と同様に渡河のための渡し銭、津料』(しんりょう)『をとるため支配、管理する者を置く状態をいう。』とある。

「菅(すが)ごも」「菅菰・菅薦」スゲ(単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科スゲ属 Carex の多様なスゲ類)を細く縒(よ)って編んで作った莚(むしろ)。各地で産したが、特に陸前(宮城県)利府(とふ)のものが有名で、「とふの菅薦」(「編み目が十筋の菅薦」の意)と和歌にも詠まれた。「すがこも」とも呼ぶ。

「粟飯(あはいひ)」粟と米とを混ぜて作った飯。

「松の火」松明(たいまつ)。

「わづかにすみわたるばかりなり」「僅かに住み渡るばかりなり」。で「辛うじて地にへばりつくように住み続けておるばかりの為体(ていたらく)に御座る」の意。

「草の葉の露も我身の上なればほさぬ袖だに月やどるらん」江本氏注に、『『題林愚抄』三二四九、『明題和歌集』三八九六に頚歌があるが、いずれも下の句は「袖のみほさぬ秋の夕暮」である。』とある。」とある。

「くちなし色」「梔子色」。少し赤みがかった赤黄色。ここは言わずもがな、単に「たえて物をも、のたまはぬかな」という「口無し」を引き出す雅語を用いたに過ぎない。掛けている。花の名ごりは、こたふるこゑも、なし

「下紐(したひも)のとけぬにも」この妖女があからさまに色仕掛けで好雲房にモーションをかけているのである。

「また、一こと葉は、聞ゆるぞかし。」あまりに何の応ずる様子もなく、馬耳東風を決め込んでいるつれない好雲房に対して、「さてもまた、今一つ、あなたさまへの私の思いを詠んだ和歌をお聞かせ致しますわ。」という謂い。

「いかにかく問(とへ)どこたへぬくちなしの花も染(そむ)れば色に出るを」江本氏注に原拠『未詳』とする。

「黃帝」中国古代の伝説上の帝王。炎帝(神農氏)の末に蚩尤(しゆう)の乱を平らげて天子となり、衣服・舟車・家屋・弓矢などの生活用具を創り出し、文字・音律・暦などを制定、また、薬草を自ら試用して人民に医術を教えるなど、人類に文化的生活を享受させた最初の帝王とされる。しかし、この伝承は「書経」・「詩経」などの古文献には見えず、戦国末の五行説の流行に伴って、先行の各種の神話伝説を基に、徐々に形成された比較的新しいものである。また、道家末流によって、老子に先だつ開祖とされ、その所説に付会した書が続々と書かれた結果、漢初には「黄老の学」が流行した。後漢以降に神仙術や道教と結んで、高位に神格化されたものである(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「鼎湖」以下で了意が述べる通り、黄帝が龍に乗って上仙したと伝承される場所(「神仙伝」序では、登仙したのは別の聖王軒轅(けんえん)とする)。現在のこの附近らしい。

「玉質」玉のような材質。天成の美質。ここは類い稀れなる美女の意。

「貲」音「シ」。ここは「寶」に同じ。

「『此城(じやう)の跡に、黃金を埋みおかれしを、今、我に心をうつし、たはぶれ給はゞ、そのあり所をしらせ侍べらん。』といふ、心ばへなり」所謂、武田の埋蔵金伝説を嗅がせたもの。人に用いられることなく、徒らに埋め置かれている金銀財宝は、その強い気から、妖怪となったり、怪異を引き起こす(それで在り処を心ある人に伝えるとも)という言い伝えは、かなり昔からある。

 なお、典拠は扱わない約束だが、本篇の原拠は志怪小説(元は「傳異志」)で、以上に出た漢詩もそれに基づく。江本氏の注の最後に、シノプシスが訳されて記されてあるので、ここでは、江本氏の指摘される原拠の「太平廣記」の巻三百四十八の「沈恭禮」を、「中國哲學書電子化計劃」の影印本でリンクさせておく。因みに、その元の漢詩は、

   *

黄帝上天時

鼎湖元在兹

七十二玉女

化作黃金芝

   *

である。「芝」は古来より神草とされ、漢方生剤の原料としてしられる霊芝(担子菌門真正担子菌綱タマチョレイタケ目マンネンタケ科マンネンタケ属レイシ Ganoderma lucidum 或いはマンネンタケ科Ganodermataceaeka の類)のことであろう。「日本山海名産図会 第二巻 芝(さいはいたけ)(=霊芝=レイシ)・胡孫眼(さるのこしかけ)」の私の注を参照されたい。]

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