毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 蜆(シヽミ) / マシジミ或いはヤマトシジミ
[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。上部中央に前の「バイ」の一個体の図が侵入しているため、マスキングした。紙の劣化のため、それが判るので、右側の白紙の劣化部分も殆んどそれを施したため、仕儀が判ってしまうのはお許しあれ。]
「多識篇」。
蜆【「しゞみ」。】 扁螺
大なる者を「なりひらしゞみ」と云ふ。武江亀井戸の産、佳しと爲す。
「六々貝和哥」
右十七番 近江
蜆とる堅田の浦のあま人に
こまかにいわゝかひぞあるへき 爲尹
「湖中産物圖證」
蜆 黃蜆【黃色の者。】 白蜆【白色の者。】
烏蜆 黒蜆【二種共に黒色の者。】 螺【「通雅」。】
金錂口【「南寧府志」。】 𧖙子【「訓蒙字會」。】
𫟗【「八閩通志」。】 ※【同上。】 蜆凾【「珠璣藪」。殻の名。】
[やぶちゃん注:底本の「𧖙」の上部の「顯」は「顕」。「※」=「虫」+(つくり:(上)「人人」+(中)「一」+(下)「曰」)。読みも意味も不明。]
壬辰(みづのえたつ)閏十一月廿有五日、眞寫す。
[やぶちゃん注:斧足綱マルスダレガイ目シジミ上科シジミ超科シジミ科Cyrenidaeに属する真正のシジミは一般的には、シジミ亜科シジミ属の、
ヤマトシジミ Corbicula japonica (日本全国の汽水の砂泥底に生息し、雌雄異体で卵生。殻の内面は、白紫色。ロシア極東、朝鮮半島にも分布)
マシジミ Corbicula leana (全国の淡水の砂礫底や砂底に生息し、雌雄同体。卵胎生で雄性発生をするが、繁殖様式は十分に解明されていない。殻の内面は、紫色。平均水温摂氏十九度程度以上で繁殖し、繁殖期間は四月から十月)
セタシジミ Corbicula sandai (琵琶湖固有種。水深十メートル程度までの砂礫底や砂泥底に生息し、寿命は七年から八年程度とされている。雌雄異体で卵生。殻の内面は濃紫色)
の三種が食用として古くから知られる(以上の解説はウィキの「シジミ」に拠ったが、より詳しいものとしてサイト「日本の旬・魚のお話」の蜆のページをお勧めする)。
さて、問題は、本図に描かれた二個体であるが、どこで採取されたものか記されていない。亀井戸が地名として出るが、これは単に江戸の蜆の名産販売地(亀戸天神内やその周辺で定点で多く売られていた)を示したもので、本個体がそこで採取されたものと無批判に限定するわけには私は行かない。寧ろ、行商が朝早くに売りに来たものを用いたとなれば、採取地は遙かに江戸周縁に広がるからである。蜆売りは江戸の朝の風物としてよく知られたもので、剥き身、或いは、殻のまま藁苞(わらづと)にして売られていた。人形師岩下深雪氏のブログ「Edo-CoCo」の「旨し、うまし、寒蜆に」で、氏の作られた「江戸浮世人形」の亀戸天神の「初卯」の「業平蜆」の売られている素敵なそれを見ることが出来る。因みに、その最後にトリミングしてある零れた蜆を拾う小僧の絵は、歌川広重の画になる『江戸名所「亀井戸天満宮」』(弘化五~六年 (一八四八~一八四九年))のトリミングである。ブログ「東京のいいやん」の「浮世絵で見る亀戸天神の藤の花」で全画像が見られる。これである。但し、所持する三谷一馬氏の「江戸商売図絵」の蜆と蛤の「剥き身売り」では、確かに、はっきりと『亀戸でとれる蜆が有名でした』とある。だとすれば、当時の亀戸は南に凡そ三キロメートルも行けば、江戸湾湾奥の干潟であり、東西を中川と隅田川に挟まれており、この亀戸天神附近の水域は明らかに汽水域である(以下の「今昔マップ」を参照)。さすれば、ヤマトシジミとなるのであるが(東京都江東区亀戸(グーグル・マップ・データ)。「今昔マップ」で示すと、ここ)、さっきも言った通り、この写生対象にしたシジミが亀戸産とは限らないのである。
しかも、そうなると、殻の外状から判断するしかないのであるが、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の、ヤマトシジミのページと、マシジミのページの画像を見比べて貰いたいのだが、本図はほぼ黒く、褐色を、一切、含んでいない。これは実は、マシジミの特徴なのである。されば、二種を挙げておくこととする。
なお、他に蜆の話でしみじみ心打たれたものは、「海老名市」公式サイト内の「泣き蜆の由来」(これはマシジミと思われる。但し、現在、神奈川県ではマシジミは絶滅が危惧されている。これは、人為的移入されてしまった外来侵入種シジミ属タイワンシジミ Corbicula fluminea が全国に分布を広げた結果である。同種は外見がよく似ているため、マシジミと誤認されることが多い)であった。是非、読まれたい。これは近代民俗誌として是非とも残したい話である。
「多識篇」林羅山道春が書いた辞書「多識編」。慶安二(一六四九)年の刊本があり、それが早稲田大学図書館「古典総合データベース」にあったので、調べたところ、「卷四」のこちらに「蜆」の項があり(左丁後ろから二行目)、そこに、
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蜆【今、案ずるに「志々(ジ)美」。】[異名]扁(ヘン)螺。
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とあった。
「なりひらしゞみ」先に出した「業平蜆」。先に示したサイト「日本の旬・魚のお話」の蜆のページに、「業平(なりひら)しじみ」として、『『魚鑑』に、「東都、角田川(隅田川)のものを業平しじみと呼ぶ、その肉、殻裏に満ちてうまし」とある。業平は六歌仙の一人、在原(ありはらの)業平のことで、小野小町と並ぶ美男美女の代表』。『その美男の名が江戸のシジミに付けられたのは、二条皇后との密事がバレて京を追放された業平の東下りに関係したのか、それとも都に残してきた女性を偲んで詠んだ業平の『都鳥』の歌に哀れをもよおした後世の酔人が付けたものかは、はっきりしない。江戸川柳には「色男 吾妻に貝の 名を残し」とある』とある。
「六々貝和哥」(ろくろくかひあはせわか)は既注だが、再掲すると、潜蜑子(かずきのあまのこ)の撰になる元禄三(一六九〇)年刊の、当時辺りから流行った三十六歌仙に擬えた歌仙貝選定本。三十六品の貝と、それぞれの貝名を詠みこんだ和歌三十六首を選んだもの。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで見られるが、例によって梅園は判読を誤っている(「近江」は梅園の「堅田ノ浦」への傍注)。上三句目は「あま人よ」であり、「イワヽ」は「いはゝ」(いはば)である。
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右十七 志ゞみ貝
「千首」
志ゞみとるかたゝのうらのあま人よ 爲尹
こまかにいはゝかひそあるへき
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これは室町時代の公卿で歌人の冷泉為尹(れいぜいためまさ/ためただ 康安元/正平一六(一三六一)年~応永二二(一四一七)年)家集「為尹千首」の「戀卷」に載る一首である(「日文研」の「和歌データベース」で(通しナンバー00796番)ひらがな読みを確認)。
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蜆(しじみ)採る堅田の浦の蜑人よ
細かに言はばかひぞあるべき
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であろう。言わずもがなだが、「かひ」は「貝」に「甲斐」を掛けたもの。この和歌に詠まれたそれは、無論、セタシジミと同定してよかろう。
「湖中産物圖證」これも既出既注であるが、再掲すると、「こちゅうさんぶつずしょう」(現代仮名遣)と読み、藤居重啓なる人物によって文化一二(一八一五)年に書かれた、琵琶湖の水棲動物についての図説である。国立国会図書館デジタルコレクションで写本(複数巻)が視認でき、その「下」の「卷三上」のここで、梅園はそこを丸ごと引用したに過ぎず、漢籍のそれは現物を確認していないものと推察する。
「黃蜆」以下、読みを推定で示す。「きしじみ」。
「白蜆」「しろしじみ」。
「烏蜆 黒蜆」「からすしじみ くろしじみ」。以上は私はセタシジミの個体変異(殻摩耗・欠損を含む)と考える。「滋賀県」公式サイト内の「セタシジミ」の画像を参照されたい。
『螺【「通雅」。】』明の方以智撰になる語学書。「爾雅」の体裁に倣い、名物・象数・訓詁・音韻などの二十五門に分け、特に語源について詳しい考証がなされてある。但し、これは腹足類で、シジミを指してはいないと思う。
「金錂口」(キンリヨウコウ)『【「南寧府志」。】』「嘉靖南寧府志」は広西、現在の広西チワン族自治区南寧市(グーグル・マップ・データ)附近の地誌で、明の郭楠の纂修。一五三八年刻本。同書ではないが、中文サイトのこちらの元陳大震纂になる「大德南海志」という地誌に(一三〇四年刊。広州の地誌らしい)、『蜆:大小有三種,沙洲亦有之,惟泮塘海、南石頭海所產者為佳,名金錂口。劉鋹時取以自奉,禁民不得採。』とあった。「蜆」は漢語で「蓑虫」(みのむし)或いは本邦と同じシジミを指すので、これは、シジミの仲間である可能性はある。或いは「金錂口」とは、貝の殻の辺縁部が全体に鮮やかな黄金(こがね)色を呈することを指すことに由来するように思われ、その点でもシジミの仲間である可能性が窺える。試みに調べてみると、中文のシジミの中に「閃蜆」という種があり、学名を Corbicula nitens とする。広東省に分布が認められた。この学名をグーグル画像検索にかけたところ、こうなった。この種或いは近縁種かも知れない。
「𧖙子」「𧖙」は音「ゲン・ケン」でシジミ(或いは類似種)の仲間を総称する漢字である。
「訓蒙字會」李氏朝鮮の学者崔世珍(チェ セジン 一四七三年~一五四二年)が一五二七年に著した朝鮮の漢字学習書。三千六百の漢字に、ハングルで音と義を示したもので、朝鮮漢字音の重要な資料とされる。
「𫟗」「サツ」と音読しておくが、意味不明。
「八閩通志」(はちびんつうし)明の黄仲昭の編になる福建省(「閩」(びん)は同省の略古称)の地誌。福建省は宋代に福州・建州・泉州・漳州・汀州・南剣州の六州と邵武・興化の二郡に分かれていたことから、かくも称される。一四九〇年跋。全八十七巻。巻之二十五と二十六に「蜆」なら出る。前後の記載からシジミ様の貝の記述ではある。
「蜆凾」これも実は殻のことではないか?
「珠璣藪」殻は貝灰を作るのに用いたのであろう。
「壬辰閏十一月廿有五日」天保三年。グレゴリオ暦一八三三年一月十五日。]