狗張子卷之三 深川左近亡靈
[やぶちゃん注:今回の挿絵は状態が最もよい現代思潮社版のそれをトリミング補正した。]
○深川左近亡靈
左京大夫大内義隆の家臣黑川市左衞門尉俊昌(としまさ)は、大力武勇(《たい》りきぶよう)の侍なり。
山口の城外にあり、つらつら思ふに、
「世の人、死しては二たび聞通(ききかよ)はすべきたより、なし。さきにむなしく成《なり》たるもの、歸り來りて、生れ所をも、語り、吉(よし)あしをも、しらせなば、せめて恨みも有《ある》まじき。」
と、悔(くや)み居(ゐ)けるを、その傍輩(はうばい)に深川左近といふものあり。
「我も、内々(ないない)は此《この》うたがひ、あり。來世の事は、ありやなしや、いずれ、さきだちたらんもの、かならず、來りて、告げしらせ侍(は)べらん。」
と契約して、年月(としつき)をふるあひだに、左近、病ひして、さきに死したり。
數日(すじつ)を過《すぐ》る所に、黑川、ただひとり、坐して書院にあり。
日、すでに暮れはてゝ、月、又、くらかりしかば、ともし火とらせ、うそぶきてありし所に、庭の面(おもて)に、音(おと)なふもの、あり。
「黑川殿、おはするや。家の内、何事か、ある。」
といふをきけば、まさしく深川が聲なり。
「あな、めずらしや、深川どの、こなたへ。」
といふに、
「ともし火を消し給へ。ちかくまゐりて、物がたりせん。」
とあり。
黑川、ともし火を吹きけしたれば、深川、内に入《いり》て、過《すぎ》にし事どもを、かたる。
その物ごし・詞(ことば)つき、深川が世に有し時に少しも替(かは)らず。
來世の事を問ひければ、
「いかにも。後世《ごぜ》は、ある事ぞや。罪ふかければ、地ごくにおとされ、次に深きは、餓鬼道にいたり、罪障のふかき・あさきに、差別(しやべつ)ありて、もしは、畜生にゆき、生《うま》るゝもあり。いづれ、すこしなれども、『罪科(つみとが)のむくい、なし。』と、思ひ給ふな。我よりさきに身まかりし者、修羅のちまたにうかるゝもあり、二たび、人間(にんげん)に歸るも、あり。善惡のことわり、露(つゆ)斗《ばかり》も違(たが)ふこと、なし。」
と、かたるあひだに、たちまちに、けがれて、きたなき匂(にほ)ひの、座中(ざちう)に薰(くん)じければ、黑川、あやしみて、くらまぎれに、うちはらへば、深川が身《み》に、手のあたりければ、ことの外に、つめたくおぼえたり。
『亡靈ならば、かかる形(かたち)は、あるまじかりけり。妖物(ばけもの)のわざ成べし。』
と、おもひ、心を靜(しず)めて、猶、ちかく居(ゐ)よりて、手をもつて、おしうごかすに、大かた、おもし。
すでにして、深川は、
「今は。いとま申《まうし》て歸らん。」
と、いふ。
「平(ひら)に、留(とど)まり給へ。」
といふに、頻りに、
「歸らん。」
と、いふ。
漸(やう)やく明(あけ)ぼのに及ぶ。
火をともして、よくみれば、深川にはあらで、その長(たけ)七尺ばかりなる、大《だい》の夫(をとこ)の尸(かばね)なり。
死して、久しく日數(ひかず)を經たり。
そのうへ、暑天(しよてん)にあたれりとみえて、股(もゝ)のあたりは、爛(たゞ)れたり。
臭き事、いふばかり、なし。
その尸をば、遠き野ばらに、すてたり。
あたりの在鄕より、人、おほく出《いで》て、此《この》尸を見つけて、
「あな、淺ましや、わが兄(あに)なり。家《いへ》の内にて宵のほどに死したるを、忽ちに失(うし)なひけり。」
とて、尸をとりて、歸り、さうれいを營みけり。
[やぶちゃん注:「深川左近」不詳。
「大内義隆」(永正四(一五〇七)年~天文二〇(一五五一)年)は既出既注。
「黑川市左衞門尉俊昌」不詳。
「山口の城外」義隆の時代には本格的な居城はなかったので、現在の山口県山口市大殿大路(おおどのおおじ)に建てられてあった城館大内氏館(おおうちしやかた)の外縁の意ととっておく。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「うそぶきてありし」詩歌を朗詠したりしていた。
「家の内、何事か、ある。」「家内(かない)に何かお訪ねしてはまずいことでも御座るか?」という通り一遍の普通の挨拶である。
「畜生にゆき、生《うま》るゝもあり。」「畜生道に堕ちて、そこで畜生として、この世に生まれ変わる場合もある。」。畜生道は六道の中では特異で、他の地獄・餓鬼・修羅・天上がそれぞれ別な時空間存在(餓鬼道は人間には見えないが、人間道とはパラレルな位相にあるとして現世の人間の傍らに描かれた「餓鬼草紙絵巻」などあるが、やはり、見えない点においては位相の異なる時空間というべきである)であるのに対して、人間界に人間以外の虫を含む動物として転生するという理解がかなりある。無論、広義の動物にさせられて送られる畜生道を別世界として存在すると措定する言説もあるにはあるが、仮にそうした、独立した時空間で、使役され、弱肉強食の憂き目に遇うだけでは、寧ろ、人間界の動物としての、何でもありの苦界よりも、どんなにかマシであろうと私は考えるものである。寧ろ、それが三悪道の第三番目にあることの意義は、人間であった時の記憶を保持しながら、人間道に人間と一緒に牛馬として使役され、虫類として一瞬で天敵に食われ、或いは、短期間で命を失っては、また、畜生に生まれ続けることを繰り返す場合にのみ、地獄より地獄的であると言えるであろうが、仏教ではそうした人間界の記憶保存を六道の輪廻の中に教えとしては決して組み込んではいないと断言出来る。六道輪廻は総体としての煩悩の思念的結果であって、人間としての記憶の不断性ではない。いや、それどころか、そうした記憶の煩悩としての永続性こそ、真の永遠に地獄であると私は思うのである。
「いづれ、すこしなれども、」「いかなる場合も、ごくわずかであっても、決して、」。
「うかるゝ」心もおちつかず、あちこちと彷徨う。人間道のすぐ下に位置する修羅道は、常時、戦い続けねばならぬ世界であるから、一時として落ち着く瞬間はない。
もあり、二たび、人間(にんげん)に歸るも、あり。善惡のことわり、露(つゆ)斗《ばかり》も違(たが)ふこと、なし。」
「くらまぎれに、うちはらへば、」強烈な臭いであったため、思わず、暗がりの中でその悪臭を煽ろうと、手で大振りに打ち払ったところ。
「平(ひら)に」副詞。「ぜひとも」「何卒」の意。
「七尺」二メートル十二センチ。やけに背が高いのは、読者を脅すための(化物や変化と思わせるために)了意の作為的悪戯であろう。しかし、この最後のシークエンスには破綻がある。遺体を観察した「死して、久しく日數(ひかず)を經たり」であり、「そのうへ、暑天(しよてん)に」長時間、曝されたもの「とみえて、股(もゝ)のあたりは、爛(たゞ)れ」(腐敗が進んで)、「臭き事、いふばかり、なし」であったという。しかし、エンディングでは、親族が確認し、その腐乱の始まっている遺体を「わが兄(あに)なり」と明言し、「家の内にて宵のほどに死したるを、忽ちに失(うし)なひけり」(昨日の夕ぐれ方に亡くなったのだが、あっという間に遺体が消失した)と言っているのである。ネットで「宵」を数日前の「宵」という意味でとる現代語訳をみかけたが、それはここの齟齬を合わせるために辻褄合わせをした意訳であり、私はおかしいと思う。だったら、せめても「先(せん)の日の宵のほど」ぐらいには表現するはずである。こういう矛盾はあり得ない怪異の核心の辺縁をリアリズムで支えてこそ一級の怪異譚になると考える私などに言わせると、痛い瑕疵だと思われるのだが、実は本話の原拠は、例の江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(二)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)によれば、「太平廣記」の「鬼三十」の「郭翥」(かくしょ)であるとあるので、試みに原文を「中國哲學書電子化計劃」の影印で見てみると、やってきた親族の台詞は、果して、「果吾兄也。亡數日矣。昨夜忽失所在。」で、数日前に死んだことになっているのであった。でも、だからこそ、「了意には、やっぱり一言添えて貰いたかったな。」と思うのである。
「野ばら」「野原」。挿絵で判る通り、埋葬もせず、野中へ、ぽいと捨てた立派な死体遺棄である。
さて。最後に。私は、ここに来たのは、変化のものや、狐狸なんぞではなく、確かに先に黒川俊昌との約束(死んだ方が必ず告げ知らしに戻る相互契約)を守るためにやってきた深川左近の霊であったと思う。但し、左近に報告し、会話することは、少なくとも左近の霊には出来なかったのである。真の理由は判らないが、トンデモ似非科学的な謂い方を敢えてすると、要は、霊だけの状態では彼には会話が出来なかったということであろう。じかに黒川に因果応報の事実を語り伝えるためには、死にかけた人間、或いは死んだ直後の人間の肉体が必要だった。そこで、黒川の屋敷に最も近いところにある――〈新鮮な死体〉を探して借りた――ということであろう。霊となった左近が、その遺体に乗り移って移動出来るのは夜だけで、相応の距離があった。昼間は放置しておくしかない。そのため、日に当たり、腐敗が進んだといえば、そっちの理屈も通るだろう。腐敗が進んだから、歩行させるのにどうしても強引に動かさざるを得ない股関節(「股」)部分が、早く傷んだのだとも言えよう。私は酔狂で言っているのではない。大真面目だ。大真面目な側面なしに、本当の真正にして正統な怪談を語ることは決して出来ないのである。]
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