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2022/02/27

萩原朔太郎が大島へ以前に一度行ったことがあると証言している随筆二篇「大島行」及び「春の旅」の電子化

 

[やぶちゃん注:本電子化の経緯及び萩原朔太郎の現在までに確認されている大島への旅については、私の記事「萩原朔太郎が大島に二度行っている事実を迂遠に検証することとする」を参照されたい。

 前者の「大島行」は昭和一一(一九三六)年四月号『モダン日本』に発表されたもので、後者の「春の旅」は、晩年、国粋主義者として批判される一因となった昭和一三(一九三九)年三月白水社刊の萩原朔太郎の随筆集「日本への囘歸」に収録されたもので、初出誌は未詳である。両者は作品としては別々なものであるので、間に「*」を入れて分けた。

 底本は筑摩版全集(前者・第十一巻/後者・第十巻)の校訂本文を用いた(後者には集編者によって修正が加えられているが、「校異」を見る限り、概ね穏当と判断した。但し、後者の川田順の短歌の「大島」は出典原本の「大嶋」に訂した。詩の場合とエッセイでは、自ずと私自身の側に有意な温度差があり、あまり拘る気はない)。

 太字は底本では傍点「ヽ」。急遽、行うことにしたので、注は附さない。]

 

  大島行

 

 汽船會社から往復切符をもらつたので、大島へ行きませんかといふ案内を、詩人の丸山薰君から受けた。僕は昔、十年程前、一度大島へ行つたことがある。その時は三百噸位の小さな船で、途中ひどいシケを喰ひ、海水びたしの船室を轉がり𢌞つて、死ぬやうなひどい目に逢はされた。しかし今では、千何百噸からある豪華の船が、堂々として出帆するといふのであるから、海ぎらひの僕も安心して行くことにした。

 靈岸島を出帆したのは、夜の十時であつた。汽船發着所の待合室で、丸山君を待つてゐる間、僕は旅客の風采を觀察して、色々なことを考へて居た。一月下旬の寒い季節に、大島あたりへ旅行するのは、大體どういふ種類の人たちだらう。暗い煤ぼけた電氣の下で、旅客たちは獸のやうに寄りかたまつて居た。皆黑つぽい着物を着て、憂鬱に悲しげな顏をして居た。モヂリ外套を着た男、絆纏を着た男、荷物を抱えた女、蜜柑を食つてる子供。すべてその生活の背後に人生の疲勞した濃い影を、意味深く感じさせるやうな人たちだつた。中に混つて、二三人の洋服を着たモダンガールが、若い學生風の男と連れ立つて居た。しかし汽船發着所の電氣の下では、彼等もまた暗い移民風景の一員だつた。一人の若い娘が、入口に立つて長いこと人を待つてた。多分約束した男を待つのだらう。その入口の扉(ドア)は、潮風に吹かれてガタガタと寂しく鳴つてた。

 船は千七百噸の橘丸であつた。流線型の新造船で、設備も中々完全して居た。ホテル同樣な貨切室もあり、浴場もあり、食堂もあつた。しかし船室の廣間には、荷物を抱へたおかみさんや、銀杏返しに結つた娘たちが、賣られて行く女のやうに、メランコリツクな寂しい顏をして、隅の方に不安らしく寢轉つて居た。若い男とモダンガールは、船室のどこにも姿を見せなかつた。ベツドのある貸切室の中に入つてしまつたのである。

 ふと西洋人の一組が這入つて來た。何か快活にしやべりながら、ボーイを對手に談判して居る。それで船の中の氣分が、すつかり明るく一變した。西洋人といふ人種は、不思議に船の空氣や構造と調和する。汽船なんてものは、彼等にとつて常住の家のやうなものであり、すべての洋風の設備が、日常生活の延長であるからだらう。之れに反して日本人は、皆が借りて來た猫のやうに、船の中では不調和におどおどして小さくなつてる。すべての乘客が、移民のやうに見えるのはその爲である。

 途中下田に寄つて見物し、夕刻大島へ前いた。丸山君の發議で波浮へ宿ることにした。元村から波浮まで、雨の中を自動車で走つた。椿は殆んど凋(しを)れて居たが、海の色と赤松とは、目ざめるやうに靑々して居た。途中で若い島の娘、卽ち所謂アンコが同乘した。昔僕の行つた時は、彼女等は皆紺飛白の木綿物を着、頭に手拭を卷いて居たが、今では派手な絹物を着、頭の布も贅澤で、美術的な刺繡などしてゐるのに驚いた。「島もすつかり變りましたよ。娘が一番先に變るでなア。」と、同乘の翁(ぢい)さんがつくづく嘆息して、過去十數年來の變轉を語つてくれた。しかし島の娘は、流石に健康で生々とし、野獸の美しい仔を思はすやうな、エネルギツシユの魅力に充ち溢れて居た。「此頃ぢや旦那。東京の好いお客が來て、きれいなアンコを皆連れて行くでな。アンコは東京へ出たがつてるし、島ぢや若い兄さんたらが、可憫(かは)いさうに皆獨身者さね。」と、輕口な翁(ぢい)さんがしやべることにも、笑談ではない哀愁が感じられた。

 雨の中の渡しを呼んで、港屋といふ旅館へついた。宿の二階から見た波浮の港は、どこかエキゾチツクで小長崎といふ感じがする。飮食店ばかりの小さな町も、石段があつたり路地があつたりして、南國情緖が濃厚である。

 

 

   *   *   *

 

 

  春の旅

 

 旅行のシーズンと言ふと、人はすぐ春と秋とを言ふ。春秋の二季が、旅行の好季節であることは言ふ迄もないが、冬の旅行もまた仲々好いものである。特に早春、漸く梅の花がほころびる頃、厚い外套の中にウイスキイの瓶など入れて旅行するのは、とりわけ樂しいものである。(一年の中で、僕は夏といふ季節がいちばん嫌ひである。夏の暑い時の旅行は、考へるだけでも苦しく、絕對に閉口である。)

 よほど前の事であるが、自動車で天城を越えて、伊豆の湯ケ島溫泉へ行つたことがある。東京はまだ冬の嚴寒の眞中であつたが、伊豆には既に春が來て、天城の山の谷間には、麗らかな陽ざしが流れ、所々に山櫻が咲いて居た。僕は櫻といふ花を、それまで都會でしか見たことがなかつた。都會で見る櫻といふ花は、妙に白つぽけて薄汚く、群集の雜閙の中で埃にまみれ咲いてゐるところの、不快な病的の印象をあたへるので、僕の大嫌ひの花であつたが、天城の山中で見た山櫻は、僕の櫻に關する先入見を、すつかり一變させたほど美しく優雅であつた。「久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ」なんて歌の情趣もその時初めて納得された。都會の櫻を見て居ては、到底こんな詩想は浮べられない。

 湯ケ島の旅館で、窓から見た前庭の石楠花も忘られない。その部屋は母屋から獨立して奧深く小ぢんまりとした六疊だつたが、若山牧水が久しく滯留してゐた部屋だと言ふ。その部屋の窓から、前庭の花を見て、旅泊の侘しさを慰めてゐた牧水のことを考へ、僕もふしぎな旅の侘しさを惑じた。一體、旅館の中庭に咲いてる花といふものは、石楠花に限らず、すべて妙に物なつかしく、印象的で、旅の侘しさを感じさせるものである。先年、關西の田舍に旅行して、或る貧しい村の汚ない旅館に宿泊したが、その農家風の家の中庭に赤々と咲いてる鷄頭の花を見て、言ひ知れず侘しい旅愁を深く感じた。

 これも可成り昔であるが、一人で大島へ行つたことがある。その頃は今とちがつて、三百噸位の小船しか往復しなかつた。丁度海が荒れる頃だつたので、途中でひどいシケを食つてしまつた。川蒸氣の大型位しかない小さな船が、山のやうな浪の中を、天に登つたり地にもぐつたりした。それでも上陸した時は天氣になつた。椿の花が到る所に咲き亂れて居た。山の蔭で牛が鳴いて居た。三原山は、その頃まだ今のやうに有名でなく、登山者もない島の眞晝に、長閑な煙を空に噴いてゐた。紺飛白の筒袖をきて、頭に布を卷いた島の若い娘たちは、僕の洋服姿を珍らしがつて、行き逢ふ每に丁寧に挨拶をした。多分、東京から出張した技師か役人かとでも思つたのだらう。その時分には、畫家か病人でもなければ、大島へ行く人が無かつたから。

 最近また、詩人の丸山薰君と二人で大島へ行き、變化のあまり烈しいのに驚いた。交通が便利になり、船も申し分なく立派になつた。そして島そのものが、都人の遊園地のやうになつてしまつた。娘たちの風俗だけは、外見上に昔の形を殘してゐるが、木綿の紺飛白は華美な絹の着物になり、頭に卷いてる布には、派手な美しい模樣が描いてある。島の娘全體が、今では旅行者のガイドになり、サーヴイスガールになつてゐるのだ。垢じみた田舍臭い娘を見るより、この方がずつと目に美しく、僕等の旅行者に樂しく感じられるのは事實である。しかし一方で、昔の純朴さと島のローカル・カラーを失ひ、全國一律の都會的公式化したのは寂しいことだ。

 子供の時、よく祖父に連れられて梅見に行つた。祖父は梅が好きで、わざわざその爲に水戸の公園まで連れて行つてくれたこともある。早春の旅行に出て、梅を見るのは實に樂しく好いものである。

 

  松嶋の春に我が來て見しものは臨濟の寺の二株の梅

 

 これは現壇の俊才、川田順氏の歌であるが、早春の旅の侘しい思ひが、寺の庭に散らばふ梅の木影や、力のない空の日光やと融け合つて、しみじみとした旅愁を感じさせる。この歌をよんで、僕も一度、梅の咲く頃に松島へ旅行してみたくなつた。

 

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