狗張子卷之二 形見の山吹 / 狗張子卷之二~了
[やぶちゃん注:挿絵は底本(昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編「同全集第一期「江戶文藝之部」第十巻の「怪談名作集」)のものをトリミング補正して、適切と思われるところに挿入した。]
○形見の山吹
都の南、泉河(いづみがは)のあたりに、菅野喜内(すがのきない)とて、色、このみありける人あり。
文祿年中の事にや、春もすゑになりゆけば、
「あだにちりゆく花の名ごり、いづくにか、又、のこれる木ずゑも、ありなしや。」
と、あらぬ太山(みやま)を思ひ、
「靑葉まじりの遲櫻もあらましかば、初花よりも、猶、めづらかならんものを。」
と、すみかをうかれ出で、瓶(みか)の原・鹿瀨(かせ)山を、うち通る。
都出《いで》てけふみかの原泉河
川風さむし衣(ころも)かせ山
と、古き歌まで思ひつゞけて、木津(きづ)の里に行かゝる。
年のほど、十七、八とおぼしき女の、すだれの間(あひ)より、さしのぞきける顏(かほ)ばせ、むかし、女三《をんなさん》の宮、手がひの猫のつなにひかれて、御簾(みす)のかげよりのぞき給ひ、かしは木(ぎ)の衞門(ゑもん)も、はつかに、見そめまゐらせける。
たがひの心ぞ、かよひける、ためしもかくこそありつらめ。
家居(いへゐ)も、さすがに故ある人のすみわたりぬらん、軒端(のきば)は物ふりたりけれども、いやしからぬ有りさま、喜内は、これを見そめしより、心亂れ、たましひうかれ、近きあたりに立ちよりて、
「あの、軒ば、ふりたる家は、誰人(たれ《びと》》の住みける所ぞ。」
と、とへば、
「大内義隆の牢人(ろうにん)高梨三郞左衞門とて、今は身まかりて、後家と娘(むすめ)と、只、二人、めのわらはを、めしつかふて、かすかなるすまひ、御《おん》いとほしく侍べる。」
と、かたる。
喜内、聞《きき》て、娘の名をとへば、
「彌子(いやこ)と申《まうし》て、今年は十八なり。」
と、いふ。
喜内は、たへかねて、
「何をか、つゝむべき、かりそめに見そめしおもかげ、我身をはなれず、思ひみだれ侍べり。せめて此事《このこと》を露ばかりしらせて、たべ。しからば、何事の御《ご》おんといふとも、これには、まさらじ。」
と、いひければ、あるじの妻、もとは京の人なるが、情けふかく、賴まれ、
「御文、まゐらせ給へ。とゞけて奉らん。」
と、いふに、喜内、うれしさ、かぎりもなく、肌に着たる白き小袖の衣裏(えり)をときて、書きおくりけるに、中々、こと葉はなくて、
君にかく戀そめしがしらせばや
心に忍ぶもじづりの跡
その夕暮(ゆうぐれ)、あるじの妻、行《ゆき》て、
「物がたりす。」
とて、ひそかに、文を、わたしけり。
彌子、たもとにいれて、ねやに入《いり》つゝ、此歌をみるに、荻(をぎ)の葉につたふ風のたより、萱草(わすれぐさ)のすゑ、いかならん、露のかごとに、いひしらぬ文も、『恥かしさを、いかゞせん。』と、いと、物わびしく、あはれなるかたにおぼえけれども、
「ふきもさだめぬうら風に、なびきはつべき煙(けふり)のすゑも、つひには、うき名にたつべし。」
と、心づよきを關守(せきもり)になして、過《すぎ》ゆく程に、喜内は、宿に歸りながら、いつとなく、ねもせで、日をくらし、
「返し、ありや。」
と待ちけれども、よどむや水のいなせ川、いなせの返しもなかりしを、あるじの妻、ひそかにゆきて、
「御返しは、いかに。」
と責めければ、彌子、恥かしながら、
あまのたく浦の鹽やの夕煙(ゆふけふり)
思ひきゆともなびかましやは
と、いひければ、
「かうかう、つれなく、おはす。」
と、いひつかはしければ、喜内、いよいよ、こがれまどひて、
「戀しなば煙をせめてあまのすむ
里のしるべと思ひだにしれ
今(いま)は この世(よ)のかぎり たとひ むなしくなりゆくとも 心は君があたりを たちはなれじ」
なんど、おそろしきまで、かきくどきて、
面影はほのみし宿にさき立(だち)て
こたへぬ風の松にふく聲
只、つれなき御心《みこころ》におもひなげかれて、音(ね)にたてゝなく蟲のたとへまで、いひしらぬ文の數、千束(ちつか)にあまる程に成《なり》ければ、彌子も、
『あはれ。』
と、おもふ、なさけの色、深くうちしほれて、親(おや)しさけずは、
『あづまぢや佐野のふなばしさのみやは堪(たへ)ては人の戀わたるべき』
と、思ひしづめる有さまなり。
さて、かくぞ、よみける、
世々かけて契るまでこそかたからめ
命のうちにかはらずもがな
と、かきて、つかはしければ、喜内、この歌を見て、限りなくよろこび、その夜《よ》をさだめて、あるじの妻に案内せさせ、垣(かき)のひまより、忍び入《いり》て、障子をひらきければ、一間(ひとま)なる所に、ともし火、かすかに、おもはゆく、うちそばみ居たるに、かたらひよりて、日ごろの物おもひ、心をくだきける事より、行すゑまでの契りをかたるに、彌子は、こと葉すくなう聞えて、
ことの葉は只情けにもありなまし
みえぬ心のおくはしられず
と、かこちけり。
喜内、ふかく恨みて、
あひそめし後(のち)の心を神もしれ
ひくしも繩の絕(たえ)じとぞ思ふ
かりそめに、なれにし後は、人め忍ぶの露を分《わき》て行通《ゆきかよ》ひしに、はかなき世のならひ、彌子が母、わづらひ出《いだ》して、むなしく成たり。
悲しさ、いふばかりなく、うちこもりけるに、霜に枯行(かれゆく)草の上に、雪ふりかさなるとかや、喜内が父は尼が崎にありけるを、
「關白秀次公に、めされて、おもむく。」
とて、喜内をよびよせ、もろ友に行たり。
幾(いく)ほどなく、秀次公は、高野山にして生害(しやうがい)せられ給ふ。
このぞめきに、木津の里の音づれも、うちたえしかば、
我やうき人やはつらき中川(なかかは)の
水の流れも絕えはてにけり
かく思ひつゞくるうちに、年もくれ、春、過(すぎ)、夏もたちける程に、物思ひのかさなる故にや、彌子、いつとなく、心ち、わづらひて、つひに、はかなく成たり。
今は此世の名ごりも賴みすくなく成し所へ、
「喜内のかたより。」
とて、文、おこせたり。
かなたこなた、露(つゆ)隙(ひま)もなき事ども、さまざま、かきつゞけて、
關守のうちぬるほどとわびし夜も
今はへだつる恨みとやなる
と、いひつかはしけるを、彌子、ふしながら、淚とともに、よみて、
ふみみても恨みぞふかき濱千鳥
跡はかひなく殘る夢の世
と、よみて、そのまゝ絕入(たえいり)て、つひに、むなしく成たり。
あたりの人、痛(いた)はしがりて、近き野べに埋(うづみ)て、塚(つか)の主(ぬし)とぞ、なしたる。
すみあらしたる家(いへ)なりければ、はしらも、かたぶき、軒(のき)、もりて、淺ましきくづれ屋となり果てけり。
かくて、三とせの春秋《しゆんじう》をおくりむかへて、喜内は泉川(いづみがは)に立歸《たちかへ》り、
「あるじの妻(つま)は、いかに。」
と尋ねしに、
「此ほど、身まかり侍べり。」
といふ。
彌子が家にゆきてみれば、軒くづれ、柱、たふれ、草のみ、おひしげり、すみける人の跡も、なし。
あたりに立よりて問ひければ、日比(ひごろ)の有さま、殘りなく語るに、あまりのかなしさに、そのすみ、一間(ま)のくづれたる壁を引《ひき》のけしに、棹(さを)にかけたる黃染(きぞめ)の小袖(こそで)の、竿にかけながら、地におちて、朽ちたる跡より、山吹の生出(おひ《いで》)て、恨みがほなる花の色の、ところどころに、咲《さき》たるを見るに、
『朽ても、もとのいろをわすれぬ、形見の花。』
と、おもはれて、喜内は、いとゞ悲しく、血の淚を流して啼(なき)けれども、くちなし色の花の名ごりは、こたふるこゑも、なし。
さても、なき世のありさま、かくぞ、思ひつゞけける。
山吹の花こそいはぬ色ならめ
もとの籬(まがき)をなくなくぞとふ
猶も、心のおき所なく、墓にまうでて見めぐれば、人の通(かよ)ふ道ともおぼえず。
山かげなれば、日、すでに暮かゝるに、野寺の鐘、入相(いりあひ)の聲も心ぼそく、もえ出る草葉も、袖も、露しげく、吹《ふき》おくる風も身にしみて、淚と、もろ友に、念佛申て、
「埋(うづ)もれしその面影はありながら
塚には草のはや茂りぬる
かゝる世の中の、あだに、はかなきを、今もし思ひこりずば、又、いつの時をか待《まつ》べき。世にしたがへば、望みあり、かなはねば、うらみあり、かりの色にまどひて、執心ふかく思ひみだれては、中々、輪廻(りんゑ)の妄念なるべし。そむきて、おこなはゞ、戀しかるべき彌子にも、來世にはさりとも、ひとつはちすの緣をむすぶも、賴み、あり。」
と、宿に歸りて、家の柱に、
なげきつむちから車(くるま)のわが身《み》世《よ》を
たちめぐるべき心ちこそせね
とかきつけて、朝(あさ)、とく、出《いづ》るとみえしが、遁世して、ゆきがたなく、うせにけり。
狗波利子卷之二終
[やぶちゃん注:純然たる悲恋物語で怪奇性はエンディングの山吹のシークエンスに幽かに匂うだけだが、非常にいい。二人の短かい恋路の邪魔をせぬように、注は総て以下に回した。但し、表現に三ヶ所ほど気に入らない箇所がある。いい話なだけに、それが目立つ。
「泉河(いづみがは)」現在の木津川(きづがわ)の古称。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。上野盆地に発し、京都府南部を流れて淀川に合流する。三重県上野市以東の上流部は「伊賀川」と呼ばれる。古来、瀬戸内海から淀川を経由して大和国へ至る水運に利用された。但し、巨椋(おぐら)池南岸の水害を避けるため、明治時代に流路が変更されているので、本話柄内時点でのロケーションは特定出来ない。
「菅野喜内(すがのきない)」不詳。
「文祿年中」天正の後、慶長の前で、一五九三年から一五九六年まで。天皇は後陽成天皇で、将軍は不在であった。
「太山(みやま)」一般名詞で「深山」に同じ。総合ブログ「情報言語学研究室」のhagi氏の投稿「みやま【深山・太山】―その2―」表示・用例が素晴らしく詳しいので、是非、読まれたい。
「瓶(みか)の原」瓶原(みかのはら)は京都府南東部の木津川市の東部に当たる旧加茂町の木津川北岸(右岸)の地区。天平一二(七四〇)年に聖武天皇によって恭仁(くに)京が造営されたが、わずか四年で廃都となり、その跡に山城国分寺が建立された。現在、金堂と塔の礎石が残る。なお、東の銭司(ぜず)には、かの「和同開珎」の鋳銭所跡がある。ここ。
「鹿瀨(かせ)山」瓶原の対岸で、現在の木津川市と加茂町に跨る、木津川左岸の鹿背山(かせやま)。ここ。歌枕。「続日本紀」によれば、この山の西麓から恭仁京を左右に分けたという。「賀世山」とも書く。
「都出《いで》てけふみかの原泉河川風さむし衣(ころも)かせ山」「古今和歌集」巻第九の「羇旅歌」に詠み人知らずで載る一首(四〇八番)。
*
題しらず
都いでて今日みかの原いづみ川川風さむし衣かせ山
*
「瓶原(みかのはら)」の「み」を「見」に掛け、「かせ山」は「鹿背山」で「かせ」を「貸せ」に掛ける。
「女三《をんなさん》の宮、手がひの猫のつなにひかれて、御簾(みす)のかげよりのぞき給ひ、かしは木(ぎ)の衞門(ゑもん)も、はつかに、見そめまゐらせける」「源氏物語」の「若菜 上」の一節。例の江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(二)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)に、『(源氏四十一歳の)三月末、柏木は六条院で夕霧らと蹴鞠に興ずるうち、猫のいたずらで捲りあげられた御簾の隙間から女三の宮を垣間見て、想いを募らせた。』とあるのを読者に嗅がせたもの。
「大内義隆」(永正四(一五〇七)年~天文二〇(一五五一)年)は大内義興の長男で、周防・長門・安芸・石見・筑前・豊前の守護。大友氏・少弐(しょうに)氏と戦って九州北部を掌握した。文学・芸能を好み、明・朝鮮と交易もし、また、ザビエルに布教の許可を与えた人物として著名。重臣陶晴賢(すえはるかた)が謀反し、長門大寧寺で自刃した。
「君にかく戀そめしがしらせばや心に忍ぶもじづりの跡」前掲の江本氏の注に、『類歌「君にかくみだれそめぬとしらせばや心のうちに忍ぶもぢずり」(『続拾遺和歌集」恋歌一』。『和歌題林愚抄』『明題和歌全集』『歌枕』『類字名所』等所収。』とある。以下、和歌については、私自身が大の和歌嫌いであるので、殆んど、江本氏の注を引用させて戴いた。ここに御礼申し上げる。
「荻(をぎ)の葉につたふ風のたより……」江本氏注に、『以下「心づよきを関守になして過ゆく程に」まで、「荻(ヲギ)ノ葉ニ伝フ便(タヨリ)」付ケ、萱(ワスレグサ)ノ末葉(スエバ[やぶちゃん注:ママ。])結ブ露ノカゴトニ寄セテハ、イヒシラヌ御文ノ数、千束(チヅカ)ニ余ル程ニ成ニケリ。女(ムスメ)モ最(イト)物(モノ)ワピシウ哀(アハレ)ナル方ニ覚ヘケレドモ、吹モ定(サダメ)ヌ浦風ニ靡(ナビ)キハツベキ烟(ケブリ)ノ末モ、終(ツヒ)ニハウキ名ニ立(タチ)ヌベシト、心強キ気色ヲノミ関守ニナシテ」(『太平記』十五「賀茂神主改補事」)の行文に拠る。』とある。国立国会図書館デジタルコレクションの昭和二(一九二七)年有朋堂書店刊「太平記 上」(永井一孝校訂)のここの左ページ最終行から次のページにかけてで読める。「荻(をぎ)の葉につたふ」は直後の「風」を引き出すための序詞的用法。「萱草(わすれぐさ)」はカンゾウの古称。「かごと」は怨み言。「あはれなるかたにおぼえけれども」は「心惹かれている様子に見えたが」の意。「心づよきを關守(せきもり)になして」は「容易には靡くまいという気強い決心を、相手を妨げる関所の番人として」の意。
「あまのたく浦の鹽やの夕煙(ゆふけふり)思ひきゆともなびかましやは」江本氏の注に、『類歌「あまのたく浦のしほやの夕煙思ひきゆとも人にしらるな」(『新後撰和歌集』恋歌一)。『題林』『明題』等所収。』とある。
「戀しなば煙をせめてあまのすむ里のしるべと思ひだにしれ」同前で『「草庵集」九七二』とある。「草庵和歌集」は室町前期の私家集。正編十巻・続編五巻。頓阿作。正編は正平一四/延文四(一三五九)年、続編は正平二一/貞治五(一三六六)年頃に成立した。二条派の歌人に尊ばれた。収録歌数二千余首。なお、以下の部分は恋文であるので句読点をわざと除去し、空欄とした。
「面影はほのみし宿にさき立(だち)てこたへぬ風の松にふく聲」同前で、『類歌「おも影はをしへし宿にさきだちてこたへぬ風の松にふく声」(『定家卿百番自歌合』五十五番右、『新後撰和歌集』恋歌三)。『題林』『明題』等所収。』とある。
「音(ね)にたてゝなく蟲のたとへ」江本氏はここに注されて、『「ねにたてて虫も鳴くなり身ひとつのうき世を月にかこつと思へば」(『新葉和歌集』秋歌下)、また「声たてて嗚くむしよりもをみなえしいはぬ色こそ身にはしみけれ」(『夫木和歌抄』秋部二)等を意識したものか。』とされる。
「親(おや)しさけずは」「し」は「さえ」の意の副助詞。「親にさえも(「思ひしづめる有さま」を見せることを)隠そうとせずに」の意であろう。
「あづまぢや佐野のふなばしさのみやは堪(たへ)ては人の戀わたるべき」江本氏注に、『「オヤシサケズバ、東路(アヅマヂ)ノ佐野(サノ)ノ船橋(フナハシ)サノミヤハ、堪(タヘ)テハ人ノ恋(コヒ)渡ルベキト」(『太平記』十五「賀茂神主改補事」)。なお、「親しさけずは」の詞章は「東路の佐野の舟橋取り放し親は避くれど我は離かるがへ」(謡曲・「舟橋」)等に見える。』とある。同前の国立国会図書館デジタルコレクションのここの左ページの後ろから二行目で視認出来る。なお、「佐野のふなばし」については、一九八〇年現代思潮社刊の「古典文庫」の「狗張子」(神郡周校注)の注に、『舟橋は河に多くの舟を浮かべてつくるうき橋。さて』、『広辞苑も岩波大系本頭注も上野国(群馬県)高崎市佐野をあてている。一方』、『新校群書類従本では下野国(栃木県)佐野をあてる。廻国雑記に、「とね川、青柳、さぬきの庄、館林、ちづか、うへのの宿などをうち過ぎて佐野にてよめる、古への跡をばとほくへだてきて、霞かかれるさのの舟橋」。』とある。所持する「新潮日本古典集成」の「太平記二」では群馬県高崎市佐野とする。そこなら、ここで、川は利根川に合流する鳥川となる。一方、栃木の方は栃木県佐野市のここで、川は渡良瀬川となろう。
「世々かけて契るまでこそかたからめ命のうちにかはらずもがな」江本氏注に、『類歌「世々かけて契りしまではかたくとも命のうちにかはらずもがな」(『新拾遺和歌集』恋歌四)。『題林』『明題』所収。』とある。
「ことの葉は只情けにもありなましみえぬ心のおくはしられず」江本氏注に、『類歌「ことのはヽたヾなさけにもちぎるらん見えぬ心のおくぞゆかしき」(『玉葉和歌集』恋歌二)。『題林』『明題』所収。』(二箇所の踊り字が現在のカタカナ用のそれであるのはママ。以下同じ)とある。
「あひそめし後(のち)の心を神もしれひくしも繩の絕(たえ)じとぞ思ふ」江本氏注に、『類歌「うれしくはのちの心を神もきけひくしめなはのたへじとぞおもふ」(『千載和歌集」恋歌二。『題林』『明題』等所収。』とある。
「關白秀次」豊臣秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男で、秀吉の養嗣子とされた彼は、変心した秀吉によって強制的に出家させられ、高野山青巌寺に蟄居となった後、二十八歳で切腹したが、それは文禄四年七月十五日(一五九五年八月二十日)であるから、彼に「めされて、おもむく。」という喜内の父の言葉から、突然、秀次に謀反の疑いが持ち上がった文禄四(一五九五)年六月末よりも前がこの時点での時制であることが判る。
「ぞめき」騒ぎ。
「我やうき人やはつらき中川(なかかは)の水の流れも絕えはてにけり」江本氏注に、『類歌「我やうき人やつらきとちはやぶる神てふ神にとひ見てしかな」(『拾遺和歌集』恋四)。「我やうき人やはつらきもろ共にうらむる中ぞとをざかり行く」(『題林』恋部二)。『明題』所収。』とある。
「つひに、はかなく成たり」これは、「以下で、遂に彌子は儚くなることになるのであった。」と、プレで語ったものである。了意にしては、ちょっと変則的な書き方で、違和感がある。
「關守のうちぬるほどとわびし夜も今はへだつる恨みとやなる」江本氏注に、『類歌「関もりのうちぬる程と待ちしよも今はへだつる中の通路」(『新後拾遺和歌集』恋歌四)。『題林』『明題』等所収。』とある。
「ふみみても恨みぞふかき濱千鳥跡はかひなく殘る夢の世」江本氏注に、『類歌「ふみヽてもうらみぞふかきはま千鳥まれになり行く跡のつらさは」(『新後撰和歌集』恋歌三)。『題林』『明題』(第五句「あとのつらきに」)等所収。』とある。
「あるじの妻(つま)」ここは彌子のことを訊ねたものととらない、話が躓く。確かに母亡き後で、彼女が家の主人ではあろうが、どうも、前に、近所の仲人役を引き受けてくれた女主人を「あるじの妻」と呼んでおり、どうも上手くない。その仲人が「此ほど、身まかり侍べり。」というのも、展開としては、全く面白くない。どうもここ、大事なところなのに、うまく書けていない感じがする。
「くちなし色」「梔子色」。少し赤みがかった赤黄色。ここは山吹の花の色を指しているのだが、言わずもがな、「花の名ごりは、こたふるこゑも、なし」の「口無し」を掛けている。
「野寺の鐘、入相(いりあひ)の聲」「入相の」「鐘」は日没の頃に合わせて寺で梵鐘を打つ。
「山吹の花こそいはぬ色ならめもとの籬(まがき)をなくなくぞとふ」江本氏注に、『類歌「山吹の花こそいはぬ色ならめもとの籬をとふ人もがな」(「続千載和歌集」春歌下)。『題林』『明題』等所収。』とある。
「埋(うづ)もれしその面影はありながら塚には草のはや茂りぬる」江本氏注は、『典拠未詳。』とする。
「なげきつむちから車(くるま)のわが身《み》世《よ》をたちめぐるべき心ちこそせね」江本氏注に、『類歌「なげきつむ力車のわをよはみ立めぐるべき心ちこそせね」(『新千親和歌集』雑歌下)。『居林』『明題』等所収。』とある。ちょっとコーダに持ってくるには雅びさも無常もない、詠唱してみても、甚だ厭な歌にしか見えない。これも折角の切ない悲話の瑕疵の一つである。]
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