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2022/02/26

狗張子卷之五 今川氏眞沒落 附三浦右衞門最後

 

[やぶちゃん注:挿絵は今回は、一枚目の二幅の細部がよく判る底本(昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編「同全集第一期「江戶文藝之部」第十巻の「怪談名作集」)のものをトリミング補正して、適切と思われる箇所に挿入した。最初のものは、二枚の幅が傾いているので、合成したが、後者はそのままとした。]


  ○今川氏眞沒落 附《つけたり》三浦右衞門最後

 駿河國今川義元は、織田信長公に討れ、その子息氏眞(うぢざね)、その跡をつぎ、國を守りて恙(つゝが)なかりし所に、永祿の初年より、家風、ことの外におとろへ、武道の事はすたれて、風流の奢(おごり)をきはめ、武藤新三郞(むとうしんざぶろう)とて、白面(はくめん)の佞幸(でいかう)あり、氏眞、限りなく愛(めで)まどひて、日夜、席を同して、酒宴・遊興に月をわたり、亂舞・淫樂に年を送り、和歌の道、鞠のたはぶれに、いとまなし。

[やぶちゃん注:「氏眞」今川氏第十二代当主今川氏真(天文七(一五三八)年~慶長一九(一六一五)年)。当該ウィキ(非常に詳しい)によれば、父『今川義元が桶狭間の戦いで織田信長によって討たれ、その後、今川家の当主を継ぐが』、『武田信玄と徳川家康による駿河侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。その後は同盟者でもあり』、『妻の早川殿の実家である後北条氏を頼り、最終的には』「桶狭間の戦い」で『今川家を離反した徳川家康と和議を結んで臣従し』、『庇護を受けることになった。氏真以後の今川家の子孫は徳川家に高家待遇で迎えられ、江戸幕府で代々の将軍に仕えて存続した』とある。

「永祿」一五五八年から一五七〇年までの十三年足らず。永禄三(一五六〇)年五月十九日、尾張に侵攻した父義元が「桶狭間の戦い」で織田信長に討たれたため、氏真は今川家の領国を継承することとなったが、続く永禄年間、氏真は相次ぐ離反に遭った。当該ウィキ(非常に詳しい)によれば、永禄一二(一五六九)年五月十七日、『氏真は家臣の助命と引き換えに掛川城を開城した。この時』、氏真と、徳川家康及び北条『氏康の間で、武田勢力を駿河から追い払った後は、氏真を再び駿河の国主とするという盟約が成立』している。『しかし、この盟約は結果的に履行されることはなく、氏真及びその子孫が領主の座に戻らなかったことから、一般的には、この掛川城の開城を以』って、『戦国大名としての今川氏の滅亡(統治権の喪失)と解釈されている』とある。

「武藤新三郞」三浦真明(さねあき ?~永禄一一(一五六八)年)。当該ウィキによれば、『今川氏の家臣。大原資良』(すけよし)『の子で駿河三浦氏の傍流の』一『つに養子に入ったとみられる』。『通称は右衛門大夫』。『軍記物などでは』、「右衛門佐義鎮(よししげ)」の『名で登場するが、後になって実名入りの発給文書が発見されて』、『一旦は実名は「直明」とされた』ものの、『その後』、『「真明」の誤写・誤読とする意見が出され、現在では真明が実名であったと考えられている(「真」は今川氏真からの偏諱とみられている)』。「桶狭間の戦い」『以降、今川氏真の側近として急速に台頭する。初期には父である大原資良(三河国吉田城城将)と共に松平元康(徳川家康)ら三河における反今川の動きに対する対応を行っていた』。永禄五(一五六二)年に『今川氏真が三河に出陣した際には牧野氏を従えて参戦している。その後も氏真側近として訴訟の披露などを行っている』。永禄一一(一五六九)年、『武田信玄の駿河侵攻に際しては、父と共に駿河国花沢城にて抵抗していたが、遠江国高天神城に逃れた後』、『徳川家康と内応した小笠原氏助に父と共に殺された』(「松平記」)とされ、「甲陽軍鑑」でも『今川氏から離反しようとしたため』、『高天神城にて殺害されたと伝えられている。父の大原資良に関しては』、『その後も存命したとする説もあるが、真明の死亡した場所(高天神城)が諸書で一致し、かつ妻の死も同日に死去したと伝えられていることから、真明が妻と共に殺害されたのは事実とみられる。なお、小笠原氏助は後に龍巣院(静岡県袋井市)へ真明夫妻のために寄進を行っているため、氏助がその死に関わっていた可能性も高い』。「松平記」・「甲陽軍鑑」等の『軍記物では、今川氏真を誑かして』、『多くの重臣を讒言し』たとし、『その結果として』、『武田・徳川の侵攻の際』、『多くの重臣が今川氏を裏切ったと伝えられているが』、『事実関係は不明である。ただし、大原資良が他国出身でありながら今川氏に重用された経緯があり、次の世代にあたる真明は筆頭重臣格の三浦氏の傍流を継いで、今川氏の重臣と同様の役割を担ったことが』、『今川家中において反発された可能性はある』とある。本篇では、彼の年齢をかなり若く設定して、氏真の若衆道の相手のような雰囲気を漂わせてある。

「白面」色白の顔で、多くは「若い男」に言う語。

「佞幸」通常は「ねいかう(ねいこう)」と読むが、「ネイ」は慣用音で本来は「デイ」である。諂(へつら)って相手の気に入られること。また、その人。追従(ついしょう)者。]

 新三郞、漸く成長しければ、三浦右衞門佐(すけ)になされ、又、茶湯(ちやのゆ)の會をくはだて、風顚山居(ふうてんさんきよ)の幽景をしたひ、路次(ろじ)がかり、築山(つきやま)のありさま、泉水の遣水(やりみづ)、うゑ木の枝つきまで、

「かゝりあれ。」

と作りなし、三浦が心にかなふをもつて、よろこびとし、和泉の境に聞えし紹鷗(せうおう)がもちたる高麗茶碗(かうらいちゃわん)を、三千貫に買とり、連歌の名匠宗祇(そうぎ)のひざうせし白鳧(はくふ)の香爐を五千貫を出してうけ求め、その外、夢窻(むさう)國師の天龍寺の靑磁の花入(はないれ)、忍性(にんしやう)上人の鎌倉の柹色(かきいろ)の眞壺(まつぼ)、あるひは茄子(なす)の肩衝(かたつき)、綠葉(りようくえう)の香合(かうばこ)、又は香匙(きやじ)・火筋(こじ)・卓机(しよくつくゑ)にいたるまで、「唐(から)の」「日本(やまと)の名物」とだにいへば、財寶を惜しまず、買ひもとめ、綾錦(あやにしき)を裁縫(たちぬ)ふて袋とし、沈檀(ちんだん)玳瑁(たいまい)を、けづり瑩(みが)きて、室(いへ)とす。

 そのつひゆる所、いく千萬とも限りなし。

[やぶちゃん注:「風顚山居の幽景」市井の日常から遠く隔たった風流三昧の山中の幽邃な感じの屋敷や庭作りをすること。陶淵明の「飮酒」其の五の有名な冒頭、「結廬在人境 而無車馬喧 問君何能爾 心遠地自偏」(廬を結んで人境に在り 而も車馬の喧(かまびす)しき無し 君問ふ何ぞ能く爾(しか)るやと 心遠ければ地自(おのづか)ら偏(へん)なり)で、京や堺の商人が茶の湯を嗜む際、「市中の山居」という心を大切にしたとも言う。市中の喧騒の真っ只中に居ながら、数寄屋造の茶室を緑蔭に組み、隠遁の閑居を示現させることである。

「路次(ろじ)がかり」ここは茶室へと辿る外界と遮断された風雅に満ちた庭の様子やその造りを指す。

「かゝりあれ。」ここは「そうした幽邃を現前化するために『かくあれかし』と望む」仕方に庭や茶室・屋敷を造作することを指している。

「紹鷗」武野紹鷗(たけのじょうおう 文亀二(一五〇二)年~弘治元(一五五五)年)は室町末期の茶人。通称は新五郎、号を一閑居士。紹鷗は法名。侘茶の開祖村田珠光の茶風を仰ぎ、茶の湯の簡素化・草体化をさらに進め、多くの門弟を得て、珠光の茶の湯を広めた。その中には、後に侘茶の大成者とも茶聖とも謳われた千利休がいる。紹鷗の伝歴は必ずしも明細でないが、若狭の守護大名武田氏の一族で、祖父仲清は「応仁の乱」で戦死し、父信久は諸国流浪の果てに泉州堺に住みつき、姓を武野に改めたという。

「白鳧」白い水鳥を指す語。香炉の肌に白鶺鴒(ハクセキレイ)のように見える模様が入っていたものか。

「夢窻國師」鎌倉末から南北朝・室町初期にかけての臨済宗の禅僧にして作庭家としても知られた夢窓疎石(建治元(一二七五)年~正平六/観応二(一三五一)年)。伊勢出身。

「忍性上人」(建保五(一二一七)年~乾元二(一三〇三)年)は鎌倉時代の真言律宗の名僧。「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 極樂寺」の私の注を参照されたい。

「眞壺」大型の舶来の茶壺。ウィキの「茶壺」によれば、『石臼で擂りつぶす前の抹茶、すなわち碾茶(葉茶)を保管するために用いられる陶器製の壺(葉茶壺)である。古くは抹茶を入れる茶入を「小壺」と呼んだことに対して大壺とも称された』。『現在でこそ飾り気の無い地味な陶器のように思われるが、中世の日本ではこのような釉薬のかかった壺は輸入に頼らざるを得なかった。その中で、形や作行の優れたものが尊ばれていたのだろう。特にフィリピンのルソン経由でもたらされたものを』「呂宋(るそん)」と『呼んでおり』、茶壺の『中でも重要視されている。さらに呂宋壺の中で文字や紋様のないものが真壺(まつぼ)となる。なお』、『茶道具の中ではこの呂宋壺は「島物」に分類される』。『こうした立派な壺は鑑賞の対象であり、室町時代には茶道具の中で最も重要視されていた』とある。

「茄子の肩衝」茶入れの形の一つ。肩の部分が張っているもの。肩衝茶入れ。茄子の実に似ていることから、かく呼称した。

「綠葉の香合」緑の葉をあしらった香を収納する蓋附きの小さな容器。茶道具の一種。

「香匙」現代仮名遣「きょうじ」。「かうさじ」「かうすくひ」とも。香道具の一つ。香を掬い取る匙。

「火筋」香道の際に使用する、木製の柄のついた金属製の火箸。香を香盤についだり、灰を搔き混ぜたり、炭団(たどん)を摑むのに用いる。

「卓机」「ショク」は唐宋音。本来は、仏前に置いて香・花・灯・燭などを供える机であるが、茶の湯や香道にも用いられた。

「沈檀」沈香(じんこう:「伽婢子卷之八 長鬚國」の私の同注を参照されたい)と白檀(びゃくだん。ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum albumウィキの「ビャクダン」を参照されたい。)。

「玳瑁」ウミガメのタイマイ。私の『毛利梅園「梅園介譜」 龜鼈類  瑇瑁(タイマイ) / タイマイ(附・付着せるサラフジツボ?)』を参照。

「室」江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(四)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)に、『小さい道具をいれておく箱のこと。茶道では茶人の器類の容器。』とあった。]

 天より降(ふる)にもあらず、地より湧くにもあらず、土民百姓をむさぼり、賦斂(ふれん)おもく、課役(くわやく)しげく、責めとり、虐(はたり)取《とり》て、積みあつめ、これを、ちらしつかふ事、砂をまくがごとし。

 譜代忠功の侍といへども、少しの科(とが)あれば、所領をおさへ、職を追ひあげ、家中《かちゆう》の制道、内外(うちと)のことは、みな、これ、三浦がはからひにてありしかば、權威、高くかゝやき、上下、飽きはてゝ、大かた、もてあつかうてぞ、おぼえける。

[やぶちゃん注:「もてあつかうて」「持て扱うて」。「もて余す」の意。]

 

Miura111

 

 三浦が申す旨に依(より)て、武田信玄のためには、氏眞は、まさしき甥《をひ》ながら、中《なか》、あしくなり、今川の老臣朝比奈兵衞大夫と、三浦右衞門佐(すけ)と、心よからず、諸侍(しょし)、みな、三浦をにくみ、うとみけるほどに、武田がた、此有さまを見すかし、永祿十年十二月六日、武田信玄三萬五千餘騎にて、駿府(すんぷ)に、をしよせける。

[やぶちゃん注:「甥」今川氏真の母である今川義元の正室定恵院(じょうけいいん 永正一六(一五一九)年~天文一九(一五五〇)年)は武田信虎の長女で、武田信玄の姉に当たる。

「朝比奈兵衞大夫」朝比奈信置(享禄元(一五二八)年~天正一〇(一五八二)年)。この当時は、まだ今川氏家臣であったが、以下に見る通り、直後の信玄の駿河侵攻に際し、武田方に寝返った。]

 氏眞、聞きつけて、庵原左馬頭(いはらさまのかみ)を先手(さきて)として、岡部・小倉《おぐら》七千餘騎、氏眞は二萬五千を率(そつ)して出向はれしに、朝比奈、心替りして、引入れしかば、諸陣、何とはしらず、引きはらひて、駿府に歸る。

[やぶちゃん注:「庵原左馬頭」庵原忠胤(いはらただたね 生没年未詳)は今川氏の家臣。駿河国庵原城主。

「岡部」岡部直規(?~天正三(一五七五)年)。改姓して土屋、名は貞綱とも。今川氏家臣から甲斐武田氏の家臣に降った。水軍を率いた海賊衆として知られる。「長篠の戦い」で討死した。

「小倉」小倉勝久(生没年未詳)。今川氏家臣で三浦とともに権勢を揮った人物らしい。]

 氏眞の旗本、色を失なひ、落支度(おちじたく)をいたせしかば、力なく、淸見寺《せいけんじ》の本陣、皆、くづれて、府中に歸られけり。

[やぶちゃん注:「淸見寺」現在の静岡市清水区興津清見寺町(せいけんじちょう)にある臨済宗妙心寺派巨鼇山(こごうさん)求王(ぐおう)院清見興国禅寺。徳川家康は今川氏に人質としてあった頃、『当寺の住職太原雪斎に師事し、当寺で勉強していた。交通の要衝であり、武田氏による駿河侵攻の際には、今川氏真が本陣を構えたものの』、「薩埵峠の戦い」による『家臣の相次ぐ離反、武田方への内通により』、『戦わずして駿府城に撤退している』と当該ウィキにあった。]

 諸侍、みな、色をたて、別心(べつしん)をおこし、たがひに目を見合せ、一言(ごん)の評議にも及ばず、只今、敵のよするにも、防がんとおもふ義勢もなし。

[やぶちゃん注:「義勢もなし」見せかけのそれさえも見せないことを言う。]

 氏眞は、

「城にこもりて、打死せん。」

と思ひ切(きり)給ふ所に、三浦、申けるやうは、

「砥城(とさ)の山家へ引こもり、時をまちて、軍(ぐん)をおこし、本意(ほんい)をとげ給へ。」

と、申《まうし》すゝむるに依(より)て、小原備前守・朝比奈備中守・長谷川次郞左衞門等がはからいにて、わづかに五十餘騎ばかりにて、懸川の城に入給ふ。

[やぶちゃん注:「砥城」江本氏の注に、『砥城は地名。戦国史料叢書所収の『甲陽軍鑑』注では砥城又は土岐で、志田郡徳山村にあり、静岡の西八里にあるとする。また「砥城」は、鵇[やぶちゃん注:「とき」。鳥の朱鷺。]氏をさすか。鵇氏は静岡県榛原』(はいばら)『郡中川根町にある徳山城を築いた在地土豪で(『日本城郭大系九』)、通説では、信玄の大軍に攻められた氏真は、安部川を越えて羽鳥』(はとり)『の建穂寺』(たきょうじ)『に逃れ』、『そこから藁科川を遡行し、伊久美郡の犬間城に入り、さらに徳山郷堀之内の土岐一族の拠る徳山城を経て、遠江の水川(榛原郡中川根町)から掛川城に入ったとする。(『戦国合戦大事典』)。』とあった。どうも現在は比定地がないようである。

「小原備前守」今川家家臣小原鎮実(しげざね ?~永禄一一(一五六八)年?)。

「朝比奈備中守」今川家家臣朝比奈泰朝(天文七(一五三八)年?~?)。当該ウィキによれば、『義元の横死後、三河国・遠江国の今川領内では動揺が拡大、離反する諸将もある中で、今川氏真を支える姿勢を貫いた』。永禄五(一五六二)年三月には、『小野道好の讒言により謀反の疑いのかかった井伊直親を氏真の命により殺害している』。『永禄期には三浦氏満と共に越後国の上杉氏との交渉に当たった』。この『信玄が同盟を一方的に破棄して駿河国に侵攻』し、『それによって』、『氏真が駿河を追われると、泰朝は氏真を掛川城に迎えて保護した。同年末には三河の徳川家康が遠江に攻め寄せて』、『曳馬城を陥落させるなど』、『順調に遠州を制圧し、掛川城を攻囲した。こうした状況の下で、今川氏の重臣の大半は』、『氏真を見限って』、『甲斐武田氏や徳川氏に寝返ったが、泰朝は今川氏に最後まで忠義を尽くしている』。『掛川城を守る泰朝は』五『ヶ月に亘って奮戦したが、援軍の見込めぬ中での戦いには限りがあ』り、永禄一二(一五六九)年五月十七日、『氏真は開城要求を受け入れ、伊豆国に退去することとなったが、この時も泰朝は氏真に供奉し、伊豆へ同行している。氏真は北条氏の庇護の下に入ったが、泰朝は上杉謙信の家臣・山吉氏に援助を要請するなどの活動を行っている』。元亀二(一五七一)年十二月、『氏真は家康を頼って浜松城に出向くものの、泰朝はこれには従わなかった』。『泰朝のその後の消息は不明だが、一説には、徳川家臣の酒井忠次に仕えたとされる』とあった。

「長谷川次郞左衞門」ウィキの「長谷川正長」に、『長谷川能長(次郎左衛門)が』今川氏真に仕えた長谷川家『宗家の当主と考えられて』おり、『この能長は武田信玄の侵攻直後の』永禄一二(一五六九)年に『武田軍に内通して所領を安堵され、これに同調しなかった一族の藤九郎が徳一色城(田中城)に籠城したために攻城戦になったとみられ、この藤九郎が正長のことと考えられている』とある今川を見限った長谷川能長が、彼であるらしい。

「懸川の城」掛川城・]

 城中、七千餘騎、いづれも聞ゆる兵共なり。

 武田がた、その跡におしかけ、駿府の館(たち)に火をかけしに、折ふし、嵐は、はげしく吹て、雲煙(くもけむり)と、やけあがる。

 さしも、年比《としごろ》、つくりみがきし大廈(《たい》か)のかまへ、一時(《いち》じ)に灰燼と成《なり》はてたり。

[やぶちゃん注:「駿府の館」後の駿府城の南西の静岡市屋形町にあった今川氏の居館。]

 次の日、御館(みたち)の燒跡に、かくぞ、よみて立てたる。

 甲斐もなき大僧正の官賊が

    欲(よく)にするがのおひたふすみよ

[やぶちゃん注:江本氏はこの落書の狂歌に注して、『(歌意…正当な理由もなく、武田信玄の奸賊が欲の為に駿河国を倒してしまうのを見よ)(『鎌倉公方九代記』)。「甲斐もなき」は「甲斐無し」と「甲斐国」を掛ける。「大僧正」は僧綱のひとつで、僧正の上位。ここでは武田信玄のこと。「天文升年辛亥に、武田信濃守大膳太夫晴信法心(ほつしん)なされ、「法性院機山信玄」と申す。……永禄九年ひのえ寅の正月元日より、七年の間ハ、一入清僧のごとくに、ごま・くわんじやうをなされ候て後は、びしやもんだうを御たてあり。大僧正になり給ふゆへ……」(『甲陽軍鑑』品第四)。「官賊」は奸賊の意。「するがの」は「為」と「駿河国」を掛ける。』と記しておられる。若い読者のために老婆心で言っておくと、最終句は「追ひ倒す見よ」である。]

 三浦右衞門は、一朝に威をうしなひ、軍(いくさ)といふ事のおそらしさに、手、ふるひ、足、わなゝき、物の心も辨(わき)まへず、鎧・甲・馬・物の具、きらびやかに、氏眞と、つれて、駿府のしろをば、出《いで》たりしかども、ゆくさき、道、せばく、

『いかにもして、身をかくし、命をたすからばや。』

と思ひ、さしも重恩をうけたる主君を打すて、只一人、かけおち、したり。

 世が世の時にこそ、駿河・遠江・三河のあひだには、いか成(なる)大身(たいしん)・舊功の輩(ともがら)も、三浦にむかひては、手をつかね、腰ををり、媚諂(こびへつ)らひ、機(き)をとり、色をうかゞひしに、數年(すねん)の積惡(せきあく)、こゝにあらはれ、天に背(せ)くぐまり、地にぬきあしす、といふがごとく、世を忍び、人にかくれ、雷(らい)をいたゞきて、江(え)をわたり、薪(たきゞ)を負ふて、燒野(やけの)を通るおそれをなし、馬をはやめて通る所に、

「すはや、落人(おちうど)の行《ゆく》ぞ。」

と呼ばはりしかば、村々より、出《いで》あふ百姓ども、垢(さび)たる鑓(やり)、長刀(なぎなた)をもちつれて、はしりよる。

「これは、三浦右衞門ぞ。あやまちすな。」

と、こと葉をかくれば、

「何條、その三浦をとらへて、年比(としごろ)のうらみを、思ひしらせよ。」

といふ。

「只、剝(はぎ)むくりて、赤裸(あかはだか)になし、突出(つき《だ》)して、恥をさらせよ。」

といふ。

 前後、とりまはし、

「己(おのれ)、來年(ねんらい)、主君の寵(ちやう)にほこり、百姓をむさぼり、我らの妻子・家財までも沽却(こきやく)せさせ、責めとり、こぎとり、ある時は簀卷(すまき)・水牢(みづらう)、ある時は打擲揉躙(ちやうちやくじうりん)、又は、人夫(にんぶ)をさして、つらめしく責めつかひしそのむくいは、來世(らいせ)までもなく、こゝにて思ひ知らせ、なぶりごろしにせよや。」

とて、馬より、引おとし、鎧・甲・下(した)の小袖まで引むくり、剝ぎとり、赤裸(あかはだか)になしければ、三浦は、百姓どもにむかひ、手を合《あは》せ、

「その小袖ひとつは、得させたべ。」

といふ。

 わかき者どもは、

「しやつに、物な、いはせそ。高手小手(たかてこて)にくゝりあげ、木のもとに結(ゆひ)つけて、おもふまゝに、打ころせ。」

と、のゝしりけるを、年よりたる者どもは、かはゆげに、

「さのみは、なせそ。只、ゆるして追ひやれ。」

とて、繩をときて、つきはなす。

[やぶちゃん注:「手をつかね」「手を束(つか)ね」で、「手を組んで、手出しをしないことを示して敬意・謝罪・恭順の意を表わすこと。また、両手を揃えて最上の礼をすることを指す。

「雷をいたゞきて」「落雷を頭上に受けるような心地で」の意か。

「しやつ」「奴」。三人称代名詞。第三者を罵って言う語。「きゃつ」。

「高手小手」「高手」は肘(ひじ)から肩までの称。人を縛りあげる時に言う言葉。「小手」は手首から肘(ひじ)までを指す語。両手を背の後ろに回し、首から肘・手首にかけて、厳重に縛り上げること。]

 

Miura222

 

 三浦は、命斗(ばかり)はたすかりけれども、赤はだかなりければ、破(やぶ)れたる菅笠(すげがさ)を前にあて、ちぎれたる古薦(ふるごも)を腰にまとひ、泣々、夜もすがら、道にもあらぬ田の畝(あぜ)をつたひ、そこともしらぬ山路(やまぢ)をたどれば、手は荊(いばら)にかきさき、足は石に蹴破(けやぶ)り、朱(あけ)になりて、やうやう、三河の高(たか)天神の城にかゝぐりつきて、小笠原與八郞を賴みけり。

[やぶちゃん注:「三河の高天神の城」ここ。掛川城の南南東九キロメートル弱。

「小笠原與八郞」小笠原信興(のぶおき 生没年未詳)今川氏家臣で遠江高天神城主。当該ウィキによれば、『武田氏による大規模な遠江・三河侵攻の戦役の際、武田信玄軍が大軍を率いて高天神城に攻めて来るが、信興はわずかな兵力で籠城し、この時は武田軍を撃退した。直後の』「三方ヶ原の戦い」にも『参加している。これらの経歴から、信興は決して無能な指揮官ではないことがわかる』とある。後の天正二(一五七四)年六月には『武田勝頼が大軍を率いて再び高天神城に攻めて来た』。「信長公記」では、『守将の「長忠」が堪えたものの、織田信長や家康による援軍が到着するより先に「氏助」が寝返ったために城が陥落した、とされている。実際は守将の信興らが』、『家康に援軍を要請したが、家康はこの要請に応えず、家康は信長に援軍を要請したが、信長も援軍を全く出さなかった』。二『か月ほどの籠城戦で城は武田方の力攻めのために郭がひとつ、またひとつと陥落し』、『将兵も多く戦死、城は主郭を残すのみとなったため、将兵の命と引き換えに信興は勝頼に降伏し、城は開城となった。勝頼は開城後の将兵を寛大に扱い、武田に帰属する気になった者は配下に加え、徳川に帰参を希望した者はその身柄を自由にさせた。信興らは援軍を出さなかった徳川氏を見限り』、『武田方に降り、駿河国庵原郡・富士郡(鸚鵡栖)において』一『万貫』『に領地替えされている』。『高天神城主を離れて以降は、駿河東部における動向が確認されるのみで文書には見られず、勝頼に降伏した後、ほどなくして病死したとも言われている』。但し、天正六(一五七八)年九月、『勝頼が高天神城に輸送を行おうとし、これを阻止するために家康と松平信康が馬伏塚城に進出し』、『牽制した。武田方は大須賀康高が守る横須賀城を攻めたが、この際の武田勢の先鋒が小笠原信興だったとされる』。また、「北条記」によれば、天正一〇(一五八二)年の『武田氏滅亡後、北条氏政を頼って小田原に逃れたが、ここで織田信長の命令を受けた氏政によって殺されたとされている。別の資料では氏政の庇護を受けたものの』、天正一八(一五九〇)年に『北条氏が滅亡したとき、家康によって捕らえられ、過去の降伏の罪を咎められ』、『処刑されたとされている。これとは別に』、「小牧・長久手の戦い」などの『羽柴秀吉と徳川家康が緊張状態にあった頃、徳川氏は北条氏が同盟関係を結び、縁戚関係となった頃、信興が北条氏に匿われ』、『鎌倉に隠棲していることを知った家康の要望により、北条氏の手により処分された、とされる説がある。いずれにせよ、末期を証明する確たる史料は見つかっていない』とある。]

 興八郞、はじめのほどは、世の變をうかがひ、三浦を呼びいれ、小袖・刀・脇指(わきざし)まで出《いだ》しあたへ、暫らく、いたはる體(てい)にもてなしけるが、

「氏眞、すでに懸川を開(あけ)のきて、小田原へ行《ゆき》つゝ、人數(にんじゆ)、ちりぢりに成《なり》し。」

と聞えしほどに、小笠原與八郞、たちまちに心替(こゝろがは)り、色《いろ》に出《いで》たり。

 城飼郡(きかうぐん)を押領(おうりやう)し、三浦右衞門をからめとり、

「とし月、わがまゝをはたらき、諸人に慮外無禮をいたし、土民を困窮せしめ、傍輩(はうばい)の諸侍(しよさぶらひ)一門の貴族といへども、己(おの)が心に叶はねば、知行(ちぎやう)をおさへ、職を打あげ、凡下(ぼんげ)のものをも、わが機に入《いら》ぬれば、取たてつゝ、君《くん》をくらまし、家をみだり、上下、恨みをふくむ事、いふ斗(ばかり)なし。今、すでに主君の運、かたぶき、國家、ほろぶるにいたりて、恩をわすれ、君を見はなし、天地佛神の冥慮(みやうりよ)にはづれ、人望(にんばう)にそむく、惡逆無道の恥しらずを、命いけておき、娑婆ふさげになさんより、疾(とく)して迷塗(めいど)につかはし、閻魔の裁許(さいきよ)にまかせん。」

とて、人夫(にんぶ)どもに仰せて、廣庭(ひろには)に引出《ひきだ》させければ、三浦右衞門、大《おほき》におどろき、

「是れは。そも、情けなきはからひかな。親とも、兄とも、賴み入りてぞ思ひしに、せめて命斗りは、たすけ給へ。」

とて、霰(あられ)のごとくなる淚を雨の如くに流して、よばひ、さけび、嘆きければ、小笠原が侍(さぶらひ)「足助(あすけ)長七」といふもの、切手(きりて)にて、傍(そば)に立《たち》より、

「さらば、何《なに》とぞ申《まうし》いれて、命ばかりは、たすけてとらすべし。その代りには、鼻をそぎ、片耳を切りて許すとも、それとても、命が、惜しきか。」

と問ひければ、

「たとひ耳鼻をそがれてなりとも、命をだに、たすけられなば、限りなき御恩なるべし。」

と、こたへたり。

 是を聞ける人々、

「惡(あし)き奴(やつ)が心ばせかな。あのきたなき根性故《ゆゑ》にこそ、重恩の主(しゆ)をすてゝ、これまでは落ち來りけれ、とくとく、首をはねて、不忠不義の佞臣(ねいしん)の、こらしめにせよや。」

と、いへば、三浦右衞門、身をもみ、足ずりして、聲をばかりに啼きさけび、おきふし、嘆きけるを、最後は、

「只今ぞ。念佛、申せ。」

と、いへども、前後ふかくに取みだして、太刀のあて所もも定まらず、太刀取りも不敏(ふびん)ながら、うつぶきに踏み倒し、搔首(かきくび)にぞ、したりける。

 尸骸(しがい)を野べにすてたりければ、鳶・烏、あつまり、眼(まなこ)をつかみ、はらわたを啄《つい》ばみ、犬・狼、むらがりて、手足を引ちらし、臠(しゝむら)をあらそふ。

 往來(ゆきゝ)の人、是を見ては、哀(あはれ)とはいはずして、

「因果のむくいは、かくこそ、あらめ。」

と、彈指(つまはじき)して打通る。

 運に乘じて威をふるふ時は、大龍(《だい》りう)の雲にのぼり、猛虎の風に嘯(うそぶ)くがごとく成《なり》しも、一旦に、果報、盡きて、屍(かばね)を草むらにさらし、恥を殘すこそ、哀れなれ。

[やぶちゃん注:「城飼郡」(きこうぐん/きかふのこおり)は、後の城東郡(きとうぐん)。現在の菊川市の全域と御前崎市の大部分と、島田市・掛川市・袋井市の一部に当たる。近代初期の郡域は当該ウィキの地図を見られたい。

「足助長七」不詳。

 本話は怪談仕立てではないが、一切の同情を感じさせない救い難い三浦のテツテ的な凋落無慚が描かれて、なかなかに猟奇的に面白い。なお、本篇を元に書かれた菊池寛の小説「三浦右衛門の最後」(大正五(一九一六)年十一月発行の第四次『新思潮』初出)年が「青空文庫」のここで読める。]

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