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2022/02/14

狗張子卷之四  柿崎和泉守亡魂

 

   ○柿崎(かきざき)和泉守亡魂

 越後國長尾輝虎謙信の家臣柿崎和泉守は、世にかくれなき武篇の侍大將(さぶらひたいしやう)なり。

 一とせ、甲斐の信玄、河中島の軍(いくさ)の時も、柿崎を先手(さきて)として、手柄のはたらきありける故に、謙信、いよいよ、祕藏し給ひ、越中國に、さしおかれ、北越の諸侍(しよし)、みな、したしみつきて、その進退(しんだい)にしたがひけり。

 柿崎、ある時、京都へ賣馬(うりうま)をのぼせしに、きはめたる逸物沛艾(いちもつはいがい)の名馬なり。

 織田信長公、

「これ、柿崎が馬なり。」

と聞(きい)て、あたひを、たかく、買とり、又、その上に、柿崎かたへ御書(ごしよ)をつかはして、

「重ねても かやうのよき馬あらば 何時《なんどき》にても 上《のぼ》せらるべし」

と書(かき)て、吳服一重(《ひと》かさね)、さしそへて給はる。

 柿崎、いかゞ思ひたりけん、此事、謙信に聞《きか》せざりしを、程經て、聞き付け給ひ、大《おほき》に怒りて、柿崎を城中へよびよせ、是非なく、ころし給ひけり。

 その亡魂、口をしくや思ひぬらん、折々、出《いで》て、謙信にまみえて、いかれるありさま、すさまじかりしかば、さすがに武勇(ぶよう)の大將にて、物ともしたまはずとはいへ共、いく程なく謙信は、天正六年三月九日、卒中昏倒して、人事をかへりみず、痰喘(たんぜん)、聲をなし、喉(のんど)のうち、鼾睡(かんすゐ)のごとく、面(おもて)、赤くして、粧(よそふ)がごとく、汗、つゞりて、珠に似たり。

 家中の上下、手をにぎり、足を空(そら)になし、四方(はう)の醫師(くすし)、あつまり、「牛黃淸心蘇合圓(ごわうせいしんそがうゑん)」・「神仙妙香通關散(しんせんめうかうつうくわんさん)」をもつて、風痰(ふうたん)を追ひくだし、眞氣(しんき)を補なひ、「人中《じんちう》」・「合谷(がつこく)」に灸治(きうぢ)をくはへ、「百會(《ひやく》ゑ)」・「膻中(だんちう)」に鍼(はり)を刺(さす)といへども、露斗(つゆばかり)も驗(しるし)なく、同じき十三日、つひに、はかなく成《なり》給ふ。春秋四十九歲とぞ聞えし。

 時の人、みな、いふ。

「科(とが)もなき忠節の家臣をころし、その恨みによりて、いまだ、武略弓箭(ゆみや)の盛りに、柿崎がために、とりころされ給ひけり。」

とぞ、いひつたへける。

[やぶちゃん注:本話には挿絵はない。

「柿崎和泉守」柿崎景家(永正一〇(一五一三)年?~天正二(一五七四)年)は長尾(上杉)氏家臣。柿崎城・猿毛(さるげ)城城主。当該ウィキによれば、『越後の国人である柿崎利家の子として生まれたといわれる』。『はじめ長尾為景に仕え、為景死後は』、『その子・晴景に仕えた。晴景と長尾景虎(上杉謙信)が家督をめぐって争ったときには、景虎を支持し』た。『謙信の下では先手組』三百『騎の大将として重用され、永禄元』(一五五八)年に『春日山城の留守居役を務めている。永禄』四(一五六一)年の『小田原の』「北条攻め」にも『参加し、直後の甲斐武田氏との第四次』「川中島の戦い」では『先鋒を務め、八幡原』(はちまんばら)『の武田信玄の本陣を攻め、武田軍本隊を壊滅寸前にまで追い込ん』でいる。『また、斎藤朝信と共に奉行に任命されて上杉領内の諸役免除などの重要な施策に携わり、元亀元』(一五七〇)年の『北条氏康との越相同盟締結においても尽力し、子の晴家を人質として小田原城へ送るなど、内政や外交面でも活躍している。謙信からの信頼は絶大で、謙信の関東管領職の就任式の際には、斎藤朝信と共に太刀持ちを務めた』。天正二(一五七四)年十一月二十二日(ユリウス暦一五七四年十二月五日)に『病死』したが、『景家の死因については、今日まで罷り通っている俗説があり、これが半ば通説と化している。その内容は以下のようなものである』。「景勝公一代略記」によると、景家は天正三年十二月、『謙信に従って越中国水島に先手』三百『騎の大将として出陣していたが、ここで』影家が『織田信長と内通しているという噂が流れ、その噂を信じた謙信によって死罪に処されたという』。『ただし、子の晴家は謀反の罪に連座しておらず』、天正三年二月の「上杉家軍役帳」及び天正五(一五七七)年の『家臣名簿に柿崎家当主として晴家の名があること、また天正』三『年の段階ではまだ上杉・織田両家が交戦状態ではないこと、さらには』、『信任する景家を』、『その程度の理由』『で謙信が処刑するか』どうか『疑わしいことなど、疑問点が多く』、『信憑性に欠けている。なお』、『晴家にも天正』五『年に織田方に内通して処刑されたとする説が存在し、それを景家と混同したのではないかと見るむきもある。ちなみに、柿崎家は晴家の子・憲家を当主として』、「御館(おたて)の乱」後も『存続している』。「上杉将士書上」に『よると、謙信は『和泉守に分別があれば、越後七郡に敵う者があろうか』と評価していたという』。『勇将揃いの上杉軍でも屈指の戦』さ『上手であり、上杉軍の戦いでは常に先鋒を務め、その名を聞いただけで』、『敵は逃げ出したともされている』。『謙信が若いころ』(四十歳頃)、『敵将の娘である伊勢姫と恋仲になったと聞いた景家は、抗議して関係を絶たせ、伊勢姫はその後』、『出家し』、『自決した。これがきっかけとなり、謙信は生涯』、『妻を娶ることはなかったという説話がある』。『死罪の原因となったとされる信長内通疑惑の顛末は、景家が不要な馬を交流の有った上方の馬市に売りに出したところ「越後の馬は上質である」との理由で信長が高値でその馬を買い取り、贈品と共に礼状を送った。景家はこうした経緯を謙信に報告していなかったために、景家が直接信長に馬を売ったと思われ、謙信は景家が内通していると疑って殺したというものである』(本篇は以上を史実として採用したもの)。『謙信時代初期には筆頭格であったとされる。また、家格が高く、古式を理解し』、『機知や教養に富むものでなければ務まらない重任(外交使節の接待・供応など)を拝していた』とある。

「沛艾(はいがい)」馬の性質が荒く、跳ね狂うこと。馬が癇強く躍り上がること。馬が勇み立つこと。また、その馬。

「謙信は、天正六年三月九日、卒中昏倒して、人事をかへりみず」ウィキの「上杉謙信」によれば、天正五(一五七七)年十二月十八日、謙信は織田軍を撃破した「手取川の戦い」から『春日山城に帰還し』、十二月二十三日には『次なる遠征に向けての大動員令を発し』、天正六(一五七八)年三月十五日に『遠征を開始する予定』であった。『しかしその』六『日前である』三月九日、『遠征の準備中』、『春日山城内の厠で倒れ、昏睡状態に陥り、その後』、『意識が回復しないまま』、三月十三日の未の刻(午後』二『時)に死去した』。享年四十九であった。『倒れてからの昏睡状態により、死因は脳溢血』『との見方が強い。遺骸には鎧を着せ』、『太刀を帯びさせて甕の中へ納め、漆で密封した』。『この甕は上杉家が米沢に移った後も米沢城本丸一角に安置され』、『明治維新の後、歴代藩主が眠る御廟へと移された』。『生涯独身で』、『養子とした景勝・景虎のどちらを後継にするかを決めていなかった』ため、『上杉家の家督の後継をめぐって』「御館の乱」が勃発、『勝利した上杉景勝が、謙信の後継者として上杉家の当主となり、米沢藩の初代藩主となったが、血で血を洗う内乱によって』、『上杉家の勢力は大きく衰えることとな』った。『未遂に終わった遠征では』、『上洛して織田信長を打倒しようとしていたとも、関東に再度』、『侵攻しようとしていたとも推測されるが、詳細は不明である』とある。

「人事をかへりみず」人事不省となり。

「痰喘(たんぜん)」喘息の症状を言う。

「鼾睡(かんすゐ)」鼾(いびき)をかくこと。以下の「面(おもて)、赤くして、粧(よそふ)がごとく、汗、つゞりて、珠に似たり」と、総てが重篤な脳疾患の典型的症状である。

「足を空(そら)になし」了意が好んで使う成句。足が地に着かないほど、慌てふためくさまを言う。

「牛黃淸心蘇合圓(ごわうせいしんそがうゑん)」江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(三)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)に、『「牛黄」は牛の胆嚢に生じるという黄褐色の胆石。薬用として珍重された。「牛黄山 此薬大人・小児・中風・驚癇・卒倒・癲癇の気付によし」(『医道日用重宝記』)。「蘇合円」はマンサク科の蘇合香の樹皮から精製した蘇合香油を主剤とし、龍脳・木香・丁香・朮・縮砂・犀角などを混ぜて蜂蜜で固めた丸薬』。祛『痰・駆除剤・防腐剤などに用いられる。「蘇合香丸 卒中風或は小児の急驚・風痰塞がりたるものを冶す。諸の急証の気付に用ゆべし。多く服し久しく用ゆべからず」(『医道日用重宝記』)。』とある。

「神仙妙香通關散(しんせんめうかうつうくわんさん)」同前で『咽喉の散薬。「通関散 喉痺・腫痛・言語ことならざるを冶す。人参・白朮・茯苓・各一匁、防風・荊芥・薄荷・乾姜各五匁、桔梗一匁、甘草一匁、右九味、附子を加へ煎ず。これ喉痺・腫痛を冶する療冶の法也」(『医道日用重宝記』)。

「風痰」漢方のサイト「ハル薬局」のこちらによれば、『痰が内風とともに擾乱する病態』とある。

「眞氣(しんき)」サイト「家庭の中医学」のこちらに、『正気・元気ともいう。先天の原気と後天の水穀の精気が結合して生成される生命の動力物質』。『人体の各種の機能および抗病能力はすべて真気の現れである』。「霊枢・刺節真邪」には『「真気は、天より受くるところ、穀気と併』(あは)『さりて身を充すものなり」とある』とある。

「人中《じんちう》」鼻から上唇まで垂直に伸びる唇上部の溝の部分のツボの名称。

「合谷(がつこく)」現在は「ごうこく」と読まれている。「合」は、親指と人差し指が「出会う位置」という意で、「谷」は、親指と人差し指を開くと「深い谷」のように見えることに由来するツボ。別名を「虎口」とも言う。サイト「美容鍼・鍼灸サロンCALISTA」の「鍼灸を学ぶ・知る」の『美鍼にオススメのツボ「合谷」』に拠った。

「百會(《ひやく》ゑ)」頭の中央の天辺の位置にあるツボとしてよく知られる。

「膻中(だんちう)」左右の乳首を結んだ線が、体幹の垂直方向と交わる胸部中央にあるツボ。

「武略弓箭(ゆみや)の盛りに」武力による攻略の脂が載り切った折りに。]

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