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2022/03/31

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(だれもがわたくしを忘れてくれ……)

 

 

 

だれもがわたくしを忘れてくれ

しんあいなるおまへまでも

おれを畜生のごとく感じてくれよ

ときには餌をあたへてくれよ

おれはにんげんならぬ人げんの愛が

むかしの英雄西鄕隆盛が

つめたいみかげいしの上に立つてゐるのが

いつでもどんなにか悲しことだだなあ

ああふみまよふにんげんのみち

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。なお、編者注があり、『以上「(けしきがあかるくなるにつれ)」「(ひとのこころがつめたくなる)」「(だれもがわたくしを忘れてくれ)」の三篇は、同一用紙に書かれている。』とある。底本の前に配されてある無題の「(けしきがあかるくなるにつれ)」及び「(ひとのこころがつめたくなる)」は、それぞれのリンク先を見られたい。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(けしきがあかるくなるにつれ……)

 

 

 

よきおこなひのかたきことから

わたしをこんなに墮落させた

向ふをみれば淺草公園

けしきがあかるくなるにつれ

おれのおこないがいやしくなる、

けふもああ町にちる木の葉のやうに

しほれしほれて

けふいましも階段をばだらしめより行かしめよ、

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 毛の哀傷

 

 哀傷 光る 毛の哀傷

 

すべてのものは毛のごとし

悲しみふかく うま なりゆく けば

うどんげの花の毛のごとし

かびの さびしき ましろき毛の如し

かびのましろき毛の如し

悲しみふかくなりゆけぱ

爪をとがはやしみじみと

わがみはひかる毛のごとし。

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。編者は七行目「爪をとがはやしみじみと」は「爪をとがばやしみじみと」の誤字とする。編者注があり、『本稿は拾遺詩篇「吹雪」の草稿「赤城山の雪」と同一用紙に書かれている』とある。『萩原朔太郞「拾遺詩篇」初出形 正規表現版 吹雪』の注で電子化してあるので見られたい。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 鳥

 

 秋思

 

 

私はごはんも喰べずに居る、

そこに座つてしみじみと寂しいと

生れつきの無口からしよんぼりと淚を流して

わたしはそつと上眼づかひに空をみるときのだ

ああ秋の鳥よ

夕やけ小やけ

ああ秋の日の鳥よ

日は赤く日はまんまるくうす赤く

けふも私はごはんを米粒を喰べないのだ、

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。]

室生犀星 随筆「天馬の脚」原本正規表現版 澄江堂雜記 芥川龍之介氏を憶ふ

 

[やぶちゃん注:本随筆集は昭和四(一九二九)年二月に改造社から刊行された。底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像のここからを視認した。初出誌は私の手元では調べ得ないが、前の「芥川龍之介の人と作」と異なり、クレジットがないから、本随筆集の書き下ろしかも知れない。なお、向後、不詳の場合は、この最後の注は附さない。

 若い読者のために、難読語には《 》で読みを歴史的仮名遣で推定して挿入した。]

 

 芥川龍之介氏を憶ふ

 

 芥川君が亡くなつてから早一週年の忌日も間近くなつたが、自分は此偉大なる友を憶ふ氣持には、漸く鋭い熱情が、日を經る每に感じ出された。熱情は益益同君を純粹にも淸淨にもし、同君を友人とする自分の間に距離を感じさせるのである。その距離は現世に存在しない彼が持つ縱橫無盡な淸淨さであり、その淸淨さは無理にも現世《げんせい》に踠《もが》く自分を必然的に引離して行かうとするのだ。

 自分は此友の死後、窃かに[やぶちゃん注:底本は「窺かに」であるが、後の再録版「芥川竜之介の人と作」の上巻のこちらで確認し、特異的に訂した。]文章を丹念する誓を感じ、それを自ら生活の上に實行した。同君の死の影響を取入れ自分の中に漂はすことに、後世《こうせい》を托す氣持に自分はゐるのである。同君に見てもらひたいのは今日の自分であり、交友濃かだつたあの頃の自分の如き比例ではない。同君も今日の建て直された自分を見てくれたら、別な氣持で交際《つきあ》つてくれると思ふ。今日の自分は微かに同君が自分に不滿足を感じ、輕蔑すべきものを輕蔑してゐた氣持は解ると思ふ。友人同士は互ひに輕蔑すべきものを持ち合してゐることは、それを感じる時に其値を引摺り出すことができるのだ。芥川龍之介君は自分を輕蔑してゐた。かういふ事實は彼の中で遂に埋沒され、永く同君の死とともに抹殺された。併し自分はそれを掘り返して補ふのである。自分が文事に再び揮ひ立つことのできるのは、あの人の影響だと思うてゐる。佐藤春夫君に芥川君の死は役に立つたかと尋ねたら、彼は暫らく默つた後に役に立つたと低い聲で答へたが、自分はその時にも一種のセンチメンタリズムを感じた。自分は彼といふ一文人の死でなくとも、死は多くを敎へるものを持つてゐることを感じてゐる。

 芥川龍之介は理智と情熱とを混戰させてゐる人であつた。或はその旺盛な情熱が彼をああいふ死に誘うたのかも知れぬ。所詮自ら滅することは情熱の命令の後に行はれるからである。彼は死なうと考へながら「時」を延長させるだけ延長させた人である。晚年二年位は同君に取つて莫大な長年月だつたに違ひない。百年の歲月をも遂に同君に取つてその晚年には興味のない無爲の歲月であつたらう。

 自分は芥川君に會ふ每に最初の五分間は每時《いつも》も壓迫を感じてゐた。芥川君の仕事や爲人《ひととなり》、偉さが自分に影響してゐた。自分はそれを完全に自分と同君との間に退治したのは、最近二年位の間だつた。それは同君が自分の書齋を訪ねて來る時に經驗し、又同君の書齋でも次第に退治することができたのである。かういふ心理上の壓迫感は靜かに料理され試練されるものである。同君は何時もずつと高いところにゐたことは疑へない。併しその高さを僕自身へまで引下ろすことはできないが、其處まで僕自身が行かなければならないのである。全く同君は自分に取つて苦しい友人であり、その苦しさは自分によい結果となり今までに影響して來たのである。

 

 芥川君の好む人物は半端者があり、他の人間と交際しにくい氣質を同君は能く容れるものを持つてゐた。槪ね孤獨を友とするやうな人格の中に、同君は何時も心ひそかに愛を感じてゐるらしかつた。他の人格の中に孤獨の巢を發見することは彼の藝術的な作用に外ならないのであらう。併乍ら同君はさういふ一面とまた眞實な一面とを持ち合せ、眞實で打《ぶ》つかる人間には眞實以外のものを見せなかつた。あの人の眞實性はその根本では情熱から動いてゐた。彼が晚年に若い詩人達に物質的にも眞實な好意を動かしてゐたことは、自發的なものが多かつた。

 自分と芥川君との交際は普通の動機からであつて、何も特筆すべきことはない。自分の子供が女子であり同君の子供は男子であるが、同じい聖學院の幼稚園に通うて、最初の間は往きも手をつないで一緖に登園するのであつた。自分はさういふ現世の情景に對しては詩人的であるよりも、寧ろ小說家風の立場に自分の考へを置く機會が多かつた。生前の同君と自分との戯談が生きた情景に變つて眼前にあるのだ。自分はさういふ小童少女の世界に感懷を交へることを些か逡巡するものであるが、併し顧みて現世に美を感じ出すことは人一倍の自分の努力でもある。

 自分は芥川君を億ひ出す機會を同じ田端に住んでゐる關係上、他の人と餘計に感じてゐた。或人は田端の驛の坂の上で、荷車が坂を登るのを芥川君が眺めてゐたと言ひ、さういふ些事が自分の胸に應える[やぶちゃん注:ママ。]ことが多かつた。三河島一帶の煙や煤で罩《こ》められた[やぶちゃん注:覆われた。]曇天の景色は、あの人の頭に永く殘つてゐたものに違ひない。同君が、好んで曇天の景色を描くことに妙を得てゐるのも、さういふ景色の中に永續きする動かない「景色のサネ」を抉り取つてゐたからであらう。

 震災の翌年の五月金澤へ來たときも、その勝れた景色には感心してゐた。併し有繫《さすが》に川料理ばかり食べさせる金澤では、料理は餘り褒めなかつた。ああいふ人でも淡泊な料理ばかりでは困るのであらう。食物はいつも自分は芥川君の二倍位は食べてゐた。輕井譯の宿屋でも芥川君は大抵オムレツと冬瓜の煮付けを食べてゐた。決してビフテキやスチユ[やぶちゃん注:シチューのこと。]は取らなかつた。隣室にゐて早寢をしてゐる自分は夜更けて後架に立つと、芥川君は濠濠たる煙草の煙のなかに、反り身になつて原稿に苦吟してゐた。そして自分が寢てゐると遠慮して雨戶を繰るのにも、靜かな心置きを用意してゐた。その濛濛たる煙の中に坐つてゐた芥川龍之介君は、決して自分の眼底を去らない苦吟の人芥川龍之介君であつた。

 

 去年の七月二十四日のお通夜明けに、椎の木の頂に夜の白むのと同時に啼き出した蟬の聲は、自分の現世のあらん限り忘られぬ凄じい蟬の聲だつた。自分は菊池、久米、佐佐木の三君と緣側の板の上に、通夜の人口の散じた後にも坐つてゐた。そして何日か芥川君が仕事をしてゐて、夜明けの蟬の聲を聞く程氣持のよいことはない。さう云つた言葉を端なく思ひ出した。疲勞と眼病に惱んでゐた自分を根本から動搖もさせ、靜肅にさせてたものは、鶴のやうな幽遠無類の蟬の聲だつた。今もなほ蟬の聲は自分の耳の遠くにある。

 自分は此友達の中からまだまだ攝取すべきものがあり、自は貪婪にそれに打《ぶ》つかつて行くべき筈であつた。かういふ精神的な陣營を感じ出す友達といふものは訣して、ざらにあるべきものではなかつた。話をしてゐても珍しい言葉に感激し、他人のどういふ部分にも正確な藝術的な氣持を以て見、それに共感する時は幼稚なほどの驚きをする、さういふ人は稀なものであつた。ああいふ驚き、驚いて喜ぶところ、露骨に志賀直哉氏をほめるところ、小穴隆一君を信ずる寧ろ不思議過ぎる友愛には、實に無類に善良な彼が立つてゐた。さういふ芥川龍之介君には微塵も渴《か》れない氣質が感じられた。

 晚年近くに書いた詩は詩人としても逈《はる》かに一流にまで飛び越えた彼がゐた。詩に睨みの利いた芥川君は、就中「旅びと」の叙情詩、「僕の瑞西から」の中の「ドストエフスキーの詩」なども、立派な出來榮えを示してゐた。實際芥川君は何よりも詩人だつたといふことは、何よりも詩人中の詩人だつたことを證明するものであつた。誠の詩人といふものの恐るべき「天火」を彼は搉《いだ》いてゐた。我我凡俗の詩人は最早「彼がどうして死んだか」などと念うてはならない。默つて暗夜に沒するその長髮瘠身《ちやうはつせきしん》の姿を見て居ればよい。その後姿は何と懷しい限りのものであるか、笑ひも感激もゴオルデンバツトも、鳥の手のやうな手も、半分かけた金齒も、そつくり彼は何時でも思ひ出させるものを持つてゐる……

 芥川君は或日、自分の家に來て芭蕉の「夏山に足駄《あしだ》を拜む首途《かどで》かな」といふ句を示し、この句には驚いたと言つた。北海道の旅行から歸つた就死前のことである。芭蕉の此句は修驗光明寺の句で、行者の履《はきもの》を拜む心を詠んだものである。ともあれ芥川君はさまざまな書物の中に、自分のそのころの心持の丈を搜つて見てゐたことが解る。「旅びと」の詩にも芭蕉の「山吹や笠にさすべき枝のなり」が詠み込まれ、ぢかに芭蕉を百讀してゐたものらしい。さういふ芥川君の沈着と高雅の情には心惹かれるのである。

 先日駒込慈眼寺に下島先生と打連れて墓參をしたが、風淸く穩かな日であつた。芥川君風にいふと、蟲の食つた老いた葉櫻のかげに「近代風景」を持つた靑年が一人、寺境の雜草を距てた釣堀の水を眺めてゐた。

     墓詣

       (塚も動け我が泣く聲は秋の風  芭蕉)

   江漢の塚も見ゆるや茨の中

 

[やぶちゃん注:ちょっと看過出来ないひどいミスを所持するウェッジ文庫(二〇一〇年刊)の「天馬の脚」に見つけてしまったので、ここに後注で終りの部分の注を纏める。

『「旅びと」の叙情詩』これは、以下の犀星の謂いから、結局、芥川龍之介の死直後に発表されたアフォリズム随想「東北・北海道・新潟」に無題で載る、

   *

 

 羽越線の汽車中(ちゆう)――「改造社の宣傳班と別(わか)る。………」

   あはれ、あはれ、旅びとは

   いつかはこころやすらはん。

   垣ほを見れば「山吹や

   笠にさすべき枝のなり。」

 

   *

を指すと考えてよい。但し、個人的には、或いは犀星は、「旅びと」ではなく、最後に愛した片山廣子に捧げた旋頭歌「越びと」を暗に匂わせているのではないかと私は強く疑っている(リンク先は孰れも私のサイト版)。

『「僕の瑞西から」の中の「ドストエフスキーの詩」』表記に誤りがある。正しくは「僕の瑞威(スヰツツル)から」である。本書刊行の一年前の昭和三(一九二八)年二月一日発行の雑誌『驢馬』に「僕の瑞威から(遺稿)」として掲載された詩群の第八番目にある、「手」である。私の「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」を見られたい。

「搉《いだ》いてゐた」ここをウェッジ文庫版では「摧(くだ)いてゐた」とするのだがが(読みはウェイジの編者が附したもの)、これは漢字の誤謬に加えて、読みの屋上屋の大穴空きの家根を附けてしまったトンデモ・誤謬ルビを附してしまったものだ。落ち着いて考えれば、天火を砕いてしまっちゃうのは、ミューズの霊感は無くなっちまうさね。歴史的仮名遣採用の堅実な文庫なだけに、ちょっと痛過ぎるミスである。悲しい。

「夏山に足駄《あしだ》を拜む首途《かどで》かな」私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅9 黑羽光明寺行者堂 夏山に足駄を拜む首途哉   芭蕉』を見られたい。「山吹や笠にさすべき枝のなり」つまらぬ評釈だが、芥川龍之介に触れているので、私の「山吹や笠にさすべき枝の形 芭蕉 萩原朔太郎 (評釈)」をリンクさせておく。

「塚も動け我が泣く聲は秋の風」私の偏愛する句。『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 65 金沢 塚も動け我が泣く聲は秋の風』を参照されたい。]

 

室生犀星 随筆「天馬の脚」原本正規表現版 澄江堂雜記 淸朗の人

 

[やぶちゃん注:本随筆集は昭和四(一九二九)年二月に改造社から刊行された。底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像のここからを視認した。初出誌は私の手元では調べ得ないが、前の「芥川龍之介の人と作」と異なり、クレジットがないから、本随筆集の書き下ろしかも知れない。

 若い読者のために、難読語には《 》で読みを歴史的仮名遣で推定して挿入した。]

 

 淸朗の人

 

 鵠沼へ行く前後から芥川君は餘り書畫骨董に趣味を持たなかつた。陶器のことでも興味を感じないと云ひ、實際面白くなささうな氣持らしかつた。お互ひの家庭の話が出ると、此頃妻がいとしくなつたと山手線の電車を待ち乍ら話してゐた。自分自身の生活でもそれが分るやうな氣もちで居ることがあるので、賛成して俱によい氣もちになつた事がある。

 

 何時か自分のところで芥川君がお時宜をして、顏をあげようとして黑い足袋が片方すぐ間近にあつたのを見て、顏色を變へて驚いたことがあつた。去年の六月ころだつたらう。あの時分神經衰弱がかなり酷かつたのかもしれぬ。新聞の記事などでよく「こたへる」と云つてゐた。

 

 歌舞伎座にあつた改造社の招待會の歸途、例に依つて一緖に出かけたが歸りも一緖の約束だつた。最後の幕を見て、下足を漸《や》つと受取つて出た自分は、芥川君の姿を見失うて却て宇野君が一人佇んでゐるのに行き會うた。其翌朝、芥川君は實は昨夜谷崎佐藤兩君に會ひ、帝國ホテルで一晚話し込んで今しがたその歸りだと云つて、どうも失敬したと態態《わざわざ》斷りに來たのである。芥川君はさういふ細かい氣づかひをする人である。

 

 自殺に就ては何時も藥品の話が出た。そして僕がその話の中では何時も芥川君よりも長生するやうなことになつてゐた。自分はからだの弱いものは長持ちする者だと言つたら、彼は反對に犀星は却却《なかなか》死なんよと快よささうに笑つてゐた。

 

 芥川君は生前自分の零細な作品にまで眼を通して、短い的確な批評を能くして勵まして吳れた。去年自分の「文藝春秋」に出した「神も知らない」といふ作品は或女性の自殺未遂を書いたものであるが、芥川君は此小說では女の中から這入つて書いた方がよかつた、最も女の中から書くことは難かしくもあり却却苦しいと批評して吳れた。自分は女から書くには分りかねることがあるといふと、それは分らんよと云つてゐた。六月の末のことで芥川君が世を辭す三週間程前である。

 

 芥川君の遺書を讀んで自分は立派だと思ひ、何處までも藝術の砦の中にゐる人だと思うた。自分は芥川君がそれほどまでの重大さに負けないで、目常の應酬や作品の精進につとめてゐたことは、凡夫の自分には及ばないところだと思うてゐる。胸に重大を疊んで平氣をよそうてゐてこそ、ああして落着いてゐられたのだとも思うてゐる。

 遺書にある平和は芥川君を圍繞《ゐねう》してゐたものと見える。自分は彼の死に驚き次ぎに感じたものは淸らかさであつた。何よりも淸らかさが自分を今も刺戟してゐる。

 

室生犀星 随筆「天馬の脚」原本正規表現版 澄江堂雜記 芥川君と僕

 

[やぶちゃん注:本随筆集は昭和四(一九二九)年二月に改造社から刊行された。底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像のここからを視認した。初出誌は私の手元では調べ得ないが、前の「芥川龍之介の人と作」と異なり、クレジットがないから、本随筆集の書き下ろしかも知れない。

 底本の傍点「﹅」は太字とした。若い読者のために、難読語には《 》で読みを歴史的仮名遣で推定して挿入した。]

 

 芥川君と僕

 

 漸《や》つと二度ばかり會つた芥川君から、發句の運座を卷くから來ないかと誘はれて、芥川君の家へ確か二度目くらゐに行つた。梅雨の霽れた爽かな一日であつた。卽題は夏羽織と梅雨ばれと其外の何かであつた。主人を初め久米、菊池の兩君や岡君江口、佐佐木君なども來てゐて、自分は久し振りで發句を作つた。その時にどういふ氣持か自分は久米君に題して時めく小說家としての彼をねぎらうた句を、夏羽織に事よせて作つたのだ。久米君はかういふ發句はいかんと云ふやうなことを云つたが、自分は引身《ひけみ》を感じた。何時か久米君にあの時の話をして談笑したいと今でも思つて居る。

 芥川や久米君は作家生活の物慣れた世間をずつと見通しが利いてゐる時分であるのに、自分はまだ何も分らぬ井蛙の野人であつた。自分のよしとしたことも却て人に不快を與へる程の、まづい稺拙な挨拶振りに過ぎなかつた。自分は夕方早めに歸つたが、明らかに彼らに在るものと、自分との間に非常な洗練のきめの違ふことを感じたが、どうも隔離を感じ過ぎ手の付け樣が無かつた。今から考へるとあの時分には久米君にしろ芥川君にしろ、自分とは格別な高さと聲望とに鍛へられた何物かを持つてゐた。その高さは根本的に爲人《ひととなり》を叩き上げ、斬り込む隙間もない手堅さであつた。あの時に自分は反感を有《も》たなかつたことは好いことであつた。自分はその後も芥川君とつきあひ、彼の難攻不落の城に入りながらどれだけ得をしたかも知れなかつた。自分は時に彼の高びしやな調子が彼自身では常識にまで漕ぎつけてゐることに、必然に微笑みを感じるのであつた。

 自分は芥川君とつきあふ樣になつてから、全く彼からの巧みな誘ひ出しに惹かれて、自分の中に眠つてゐたものを醒されたと云つてよい。彼は針の穴からも覗き込んで來てゐるに驚き、開いた戶からもやあと云つて這入つて來るのに驚いた。雜談の中からも色色聞くべきことが多かつた。自分は良友を持つてゐるけれど、自分を叩き上げるために要のある人は尠《すくな》い。それに自分は樂な交友ばかりしてゐたせゐか、頭の坐りが低かつたとも云へた。人間は樂な交友をしてゐたらしまひに馬鹿になるものだ。彼の云ふことは自分に取つて物珍らしいといふより、當然自分の感じもし考へてもしてゐることを、彼の言葉で話されると快い調和をさへ感じるのであつた。

 今から思ふと自分が小說の書き出しころに芥川君と早く知り合うてゐたら、最《も》つと得をしたらうと思うた。最後に書く自敍傳をさきに書いたりして、作家としての本道を取り違へたことが多かつた。全く小說といふものは餘程心が決つてゐて、人物ができてから書くものだといふことを此頃沁沁《しみじみ》感じてゐる。底のある如くして底のないものは小說であらう。

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(わたしはわたしの罰をおぽへてゐる……) / 附記――私がどうして筑摩版の抹消記号をそのまま使わないかということについて――

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(わたしはわたしの罰をおぽへてゐる……) / 附けたり――私が筑摩版の抹消記号をそのまま使わないかということについて――

 

 

わたしは死に頭わたしの罰をおぼへてゐる

いまこそわたしの頭痛

ああいたましい病の核をば

靑白い死の足音を

わたしは空にもみとめた

地の上にもみとめた

わたしはぢつと草の實をかみしめながら

淚ぐましい眼で見送つて居た

なやましい頭痛疾患のありかを知つて居る、影をつかまへて居る、

そして男は草の實そうして髮の毛をかみしめながら

病人は淚を

わたしは病人は淚をながしたきりきりと齒をかみしめた

そのとき遠くの草むらから

ぴつくりした虫けらの

大きないやにへんに大きなまつかの眼玉がとび出したのである、

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。なお、今回、私が附した抹消線+下線部は、編者が、その前後全体の抹消に先立って、部分抹消されたとする部分を示す。

 ここで言っておくと、一部のネット読者から、「何故、筑摩版全集の抹消を〈 〉や《 》で示さないのですか?」と問われたことがあるので、ここでもそれについて述べておくと、まず、筑摩版のそれをそのまま写すと、それは筑摩版のそのままのコピーとなり、記号を施している編者に〈おんぶに抱っこ〉となるのが、筑摩版校訂本文を盛んに批判している私個人の矜持として面目ないこととしてやれないというのが一つ、さらにこちらが実は本音であるのだが、先だって消した部分が、後から抹消した部分の中にあるのに、その古い前の抹消部とするものが、後で消したとするその前後にあるフレーズと、何の齟齬もなく繋がって違和感なく読める箇所が非常に多く見出せるのが不審だからである。則ち、原稿自体を見ることが出来ない我々にとっては、その前もって抹消されたという事実確認が、編者の判断を信用する以外にはないということになる。ところが、同全集の原稿写真を見るに、抹消線が入り乱れ、吹き出しで書かれ、原稿用紙の空き部分があれば、改案を好き勝手に書きなぐっているそれを、果して――これは前に削除したもの――これは後からの削除――と、精緻に正確に判読し得るものとは、私には到底、思えないからなのである(口幅ったいが、編者がその「いつ消したか?」の判断を間違えているかも知れない可能性のあるものを無批判には使えないということである)。なお、私は今まで、その前に削除されたとする部分は、総てに前後に半角の間隙を入れて分離することで、削除に時制上の断絶があるといことは区別出来るようには、必ず、やっているのである。今回のように、それが私の方法では示せない場合に限っては、それを注で言葉で述べているのである。

 されば、ここでは筑摩書房版に則って、かく表記してみたに過ぎない。向後も、これを使うつもりは、私には、ない。そういう私の意図を判って戴くために、今回のみ(非常に古い「萩原朔太郎」の電子化の中ではそれをやってあるものもあるが、果してそれが鑑賞に利するものかどうかは、私はクエスチョンだからである(研究者には意味があるだろうが、研究者はその場合、原稿原本に従うのが、言うまでもなく、基本であろう。しかし、多くの萩原朔太郎の論文では筑摩版からとして、そのまま〈 〉《 》で引用使用されてある)。

 削除を消去したものを以下に示す。

   *

 

 

 

わたしはわたしの罰をおぼへてゐる

なやましい疾患の影をつかまへて居る、

そうして髮の毛をかみしめながら

病人はきりきりと齒をかみしめた

そのとき遠くの草むらから

ぴつくりした虫けらの

へんに大きなまつかの眼玉がとび出したのである、

 

   *

なお、底本の校訂本文は一行目の「罰」を「罪」の誤記として消毒している。従えない。

室生犀星 随筆集「天馬の脚」原本正規表現版 始動 / 澄江堂雜記 芥川龍之介氏の人と作

 

[やぶちゃん注:本随筆集は昭和四(一九二九)年二月に改造社から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。但し、所持するウェッジ文庫(二〇一〇年刊)の同書をOCRで読み込み、加工用に用いた。同書は現代の刊行物としては画期的に歴史的仮名遣(但し、漢字は新字体)を使用したもので、私は高く評価している一冊である。

 電子化は私の偏愛する芥川龍之介関連部分から開始し、原本の順列には従わない。

 以下の本書の「澄江堂雜記」パート、その冒頭の「芥川龍之介氏の人と作」から始めるが、実は本作は、昭和二(一九二七)年六月号の『新潮』に掲載されたものが初出で、私は既にその初出形を二〇一三年一月にサイト版でここに電子化してしている(但し、筑摩版全集類聚「芥川龍之介全集」別巻に載るものを恣意的に漢字を正字化したもの)ため、昨日、それを本随筆版で全面改稿しようと考えたのだが、やり始めるや、直きに初出から再録する際、有意な改変が行われていることに気づき、やめた。そこで、仕切り直して、「天馬の脚」版「芥川龍之介氏の人と作」として全くの零から電子化することとする。

 なお、室生犀星は、昭和一八(一九四三)年に、さらに「芥川龍之介氏の人と作」という上下二巻本を刊行しており、この「芥川龍之介氏の人と作」もそこに含まれてあるのだが、またまた、そこでは、改変に加えて独立・分離が行われている。これも国立国会図書館デジタルコレクションで見ることが出来る(上巻がこちらで、下巻がこちら。孰れも目次頁で示した)。これは、満を持して芥川龍之介に特化して書いたものであるが、実際に見て戴くと判るが、上巻の中間以降は、室生の芥川龍之介の当該作への評を添えて、その作品を掲げるという、まあ、文字通りと言えば、文字通りの「芥川龍之介氏の人と作」という体(てい)のものである。こちらの犀星の評論部も後に抜粋して電子化したいとは思っているが、その目次を見て戴ければ判る通り、原「芥川龍之介氏の人と作」の後半は各作品評部に移行されて膨らまさせてあるものの、元の「芥川龍之介氏の人と作」の統一された共時的(初出時は芥川龍之介はまだ存命であった)総評感覚の鋭さが散漫になってしまった憾みがある。

 私がこの評論(特に初出)に拘るのは、昭和二(一九二七)年五月に書かれ、そうして、死の直前の芥川龍之介自身が読んだ、短いながらも、彼の数少ない心から信頼出来る盟友が書いた芥川龍之介論だったという点にある。サイト版初出の私の冒頭注で言ったように、『室生が『生前の芥川との最後の会見の際に感想を聞いたら、「その時殆聞えるか聞えないか位の独り言のような低い声で、ああいうものを書かなくてもよいのにと云つた」』』という言葉の重さを噛みしめながら、それでも、二度も改稿再録した室生に思い致す時、この作の原初出はある種、親友渾身の――彼の「生」を讃え励ますところの――芥川龍之介論であると言えるのである。

 底本の傍点「﹅」は太字とした。

 さらに、若い読者のために、難読語には《 》で読みを歴史的仮名遣で推定して挿入した(かなり造語もあり、また、当て訓もある)。何時も通り、原本の読み(ルビ)は( )で示した。サイト版では注は殆んど附さなかったが、今回はその初出テクストと差別化するために、段落末に簡単に注を添えた。五月蠅ければ飛ばせばよい。以上の凡例はまずは本「澄江堂雜記」パート内の四篇全部に適用するが、後の電子化もそれにほぼ準ずる予定である。【二〇二二年三月三十一日 藪野直史】

 

 

 芥川龍之介氏の人と作

 

 

    一 彼、人

 

 芥川龍之介か佐藤春夫の孰方かの碎けた評論めいた人物印象を大部のものに書いて貰へないだらうか、左ういふ中村武羅夫氏からの依賴を聞いて、自分は佐藤春夫は萬年靑年であるし今鳥渡《ちよつと》書く氣がしないし適當とは思へない。芥川龍之介はまだ料理したことのない鯱《しやち》のやうなもので、自分の俎《まないた》に乘るかどうかは疑はしい。自分はむしろ秋聲先生に俎の上に乘つて戴かうと思ふのであるが、中村武羅夫は是非芥川龍之介論の方をと言ひ、自分もその氣になり引受けたのである。[やぶちゃん注:「中村武羅夫」は当時『新潮』の中心的編集者として活躍した評論家。プロレタリア運動を痛烈に批判し、大政翼賛会に自律的に参加、戦中の「日本文学報国会」設立の中心となった。敗戦後は戦争協力者として見る影もなくなった。]

 一體芥川龍之介論とは何の事だらう。自分は不意に演說を指摘されたやうにまごつく、――芥川龍之介といふ小說家を君は知つているかね、田端にゐるんだが會つたら面白いかも知れんよ、左う云うたのは今から十年前の萩原朔太郞であつた。此間詩集を送つたら手紙を吳れたが今度歸京したら會つて見たらどうかと、彼の故鄕前橋で私の最も親懇な萩原の口から、印刷にならない芥川龍之介といふ名前を初めて聞いたのである。併し私は彼の前に當時の意氣軒昂の槪を示し鳥渡《ちよつと》胸を反らし乍ら云つたものであつた。「小說家に態態《わざわざ》こちらから訪ねて行くのも不見識ではない

か、我我は左ういふことまでして交際をする必要がない。」萩原は當時既に谷崎潤一郞を知つてゐたし、何かの紛れにも能く此谷崎潤一郞といふ拓本のやうな名前の感じを、私の前に話してゐた矢先で少少私は胸くそもので小癪に障つてゐた。私はといへば交友に有名な男がなく其意味で萩原は既に一家の交詢的な周圍を有つて些か私に當つたものであつた。「一體小說家といふものは氣に食はん」私はともすると議論めいて來る彼の鋒先を避け乍ら、小說家といふものを目の敵にしてゐたので、芥川龍之介なぞに會ふもんかと思ふのであつた。[やぶちゃん注:「交詢」「詢」は「まこと」の意で、互いに交際を親密にすること。]

 自分が初めて芥川に會つたのは日夏歌之介の詩集の出版記念會であつた。圓卓の向うに自分は紹介された芥川の顏を見ると、直ぐ此種の端正な顏貌に好意よりむしろ容貌自身から來る引身《ひけみ》を、逆に何か苦手な氣の合はない人間のやうな氣がした。が、其歸り途に一緖に步き乍ら色色の話をすると、樂な親しみ易い打解けたところのある、寧ろ碎けた人のやうに思はれた。その翌日だつたか彼の書齋を背景にしてゐる彼を見て、處狹いまでの書物の埋積や談論の自在な彼を打眺めて、戯談《じやうだん》まじりの話をしながらも却て歸途にはそれにも拘らずひどく陰鬱な氣持であつた。今から思ふと自分は彼に抵抗する精神的武器がなかつたらしく、それが自分にあれば彼麼《あんな》に陰欝に考へ込まなかつたであらう。何を言つても自分はまだ市井破垣《しせいやれがき》を結ぶ[やぶちゃん注:在野人。処士。]の一詩人であつた。しかも一詩人の威力を打通すだけのものが自分の胴中を貫いてゐなかつた。それに幸か不幸か芥川は餘りにらくに自分の前であけすけに話してくれたのが、一際自分を陰氣にしたのだらうと思うてゐる。人間は時に屢屢自分以下のものには樂に碎けることを愉快に念ふものだが、彼の碎け方はその氣持の上で種類が違つてゐるやうだつた。對手を窮屈がらせない一種の座談に慣れることに據つて、爲されたそれのやうにも思はれた。當時の世間知らずであり文壇めくらであつた私が、彼と對坐しただけで遺憾ながら彼を自分以上のものであると云ふ、心からの承認では無かつたとは云へ、徐ろにその朧氣なものを感じたことは拒めなかつた。自分は春夫が最初谷崎潤一郞を嫉視した氣持を、今から思へば多分に雜《まじ》へてゐたのである。有名に對抗する故なき嫉視と憤怒に似たものを白面一介[やぶちゃん注:「はくめんいつかい」。色の白い若い取るに足らぬ男。]の彼に感じたことは、私のこれまでの生涯に於て北原白秋と同樣のものであつた。北原白秋に會つた最初は二十二歲だつただけに、羽根が立たぬやうな自分でもあつたからいいとしても、彼の場合には自分は最う二十九にもなつてゐたから、刺戟や壓迫などと云う生優しいものではなかつた。自らを鞭打つ激情に似たものを彼から感じたのだつた。自分は三四囘目に會つた時は「幼年時代」といふ小說をひそかに家にゐて、彼にその話をして見てくれるかどうかといふ意味を、恰もお世辭に似た心からでない曖昧な氣持で彼に述べたが、彼は一寸慌てたやうにいや僕の如きは何とか言ひ、すぐその話は素早くよそに逸れてしまつた。その時自分に應酬する彼が談偶偶《たまたま》小說に及んだことで、彼の面にかすかな迷惑らしいものが掠めたことを自分は感じた。(後に考ヘると彼の當惑らしい表情はだしぬけに云つた自分に感じたのは當然であつたが、その當惑の戶を敲きこはすことのできない自分だつたことにも氣がついてゐた。人間は時に屢屢自分を叩き上げるために對手の當惑の戶を叩きこはさなければならぬものだ。自分はあの時この友の當惑を紋め上げて置いたら、彼とは別な意味で種種のものを攝取(とりい)れできたらうと思うた。)[やぶちゃん注:犀星が龍之介に逢ったのは大正七(一九一八)年一月十三日日曜日に行われた日夏耿之介の処女詩集「転身の頌(しょう)]出版記念会(日本橋のフランス料理店「鴻の巣」で行われた。前年六月の「羅生門」出版記念会もここ)であった。]

 その後自分は彼をたづねたが最初に受けた印象は渝《かは》らなかつた。その日の都合でいい加減なことを云ふ男でないことが判つた。唯、彼の物の云ひ方に或高びしやがあり、それが彼の場合非常に自然に受取れるのが不思議である。おもに批評的になる話題にそれがあつた。――ずつと後、震災後金澤へ來た時に或老俳人の前で、彼は北枝[やぶちゃん注:蕉門十哲の一人で北陸蕉門の重鎮として知られる加賀の立花北枝。]の句のことなぞを土地柄であるとは云へ話し出したりした。後で私の畏敬する老俳人は芥川といふ人物に感心して、金澤へ度度人も來たが、あれほど若くてしつかりしてゐる男は初めてだと感服してゐた。自分はその時も紹介甲斐のある點で、彼の人物を釋明する必要がなかつた。しかも老俳人はまだ彼の一作をも讀破してゐなかつたのである。[やぶちゃん注:芥川龍之介の金沢行は大正一三(一九二四)年五月十五日から十九日まで。表向きの所用は龍之介が媒酌人を引き受けた友人の作家岡栄一郎の岡の親族と逢うためであった。この老俳人は、彼を歓待するために犀星が設けた発句会に同席した、当時の北陸俳壇の双璧と言われた桂井未翁・太田南圃の孰れかであろう。]

 自分に彼を紹介した萩原朔太郞が上京して田端に住むころには、却て芥川に萩原を紹介するやうな顚倒した位置と役目に私はゐた。萩原は芥川に會へば議論もするらしいが、私と萩原との趣味が一致しないやうに、芥川と私との生活振りは全然違つたものだつた。一緖に旅行してゐても私は晚は九時から十時に寢に就き、彼は夜中の二時三時といふのに煙草のけむりの中に起き上り何か書いてゐる。私が朝の散步から戾つて來て仕事に取り掛る頃は、彼は漸つとむづむづと床から起きるのであつた。彼は少く軟かい物を食ひ、私は多く固いものが好きだつた。彼は手當り次第に讀み私は嫌ひな物は一切讀まなかつた。彼は滅多に人見知りを露骨に色に現はさない東京人であるのに、私はがりがりした露はな田舍人の粗暴と人見知りとを持つてゐた。彼は話好きで夜更しを平氣で遣り私はその反對の方の人間であつた。彼は芭蕉を五年もさきに讀み上げ一と通り卒業してゐたが、私はやつと此二三年身を入れて讀み出す位だつた。唯一つ陶器だけは一步先きなくらゐで何事も私のよくつかふ文字であるが殘念乍ら先きに步いてゐた。全く殘念乍ら! 人は芥川龍之介の有名に反感はもつとしても、彼の人物にはさういふものを持つことはできぬであらうと今でも思うてゐる。

 

    二 文 人

 

 佐藤春夫は幾十編かの詩をその文學的靑年時代に有つてゐる。この頃では古調を帶びてゐて春夫自身も意識しながらその古き調べの中に折折文筆の塵や埃を避けてゐる。龍之介も亦春夫の場合と同じく數十句の發句を窃かに匣底に祕藏してゐる。龍之介の自ら元祿の古詞にならうてゐる所以のものは、單に古きしらべに從いてゐるのではなく、巍然《ぎぜん》たる[やぶちゃん注:高く抜きんでて。]元祿の流れを汲んでゐるのである。碧梧桐以後に幾度となく波瀾重疊した俳壇の諸公から見れば、彼の發句は一見陳套の嘲《そしり》を買ふかも知れない。今更ら蕉風に低迷しなくともよいではないかと、彼等の内の精英は云ふかも知れぬ。併乍ら龍之介のねらひは元祿諸家の古調や丈草去來のさびしをりを學んでゐるのでは無い。ただ叮寧に蕉風のねらひを今人の彼が心に宿してゐるだけである。彼は元祿人が引いた弓づるをその的を最《も》つと强く引いてゐるに過ぎない。

 今の文壇に文人の風格をもつてゐるものは永井荷風を別格としたら先づ漱石以來では芥川龍之介や志賀直哉であらう。そして又佐藤春夫もその俤を有つてゐる。併し芥川龍之介は何と言つても極めて自然な、ひとりでに文人の風格を築き上げてゐると言つてよい。彼が發句を詠み書畫骨董の鑑識を有つてゐると言ふだけで文人だといふのではない。心から文人の好みを持つてゐるからである。氣質が既に縹渺《へうべう》や古實や詩情を交ぜて宿してゐることだ。佐藤の文人的なものには新しさからあと戾りした氣もちがあるとすれば、芥川はその古さの中に新しさを搜る鋭い爪を有つてゐると言つた方が適切であらう。芥川の爪は時に閑暇を得るときに木の肌や人事の縹茫《へうばう》の中に搔き立てられてゐる。鷲や鷹の爪でなく、黑鷹のやうな精悍さを有ち合ってゐるやうである。[やぶちゃん注:「縹渺」現代仮名遣「ひょうびょう」。「広くはてしないさま」を言う形容動詞で、以下の並列対象とは、普通なら、噛み合わない。が、しかし、犀星は、確信犯で、そうした龍之介の内実にあるところの真の芸術家の持つところの「茫漠にして縹渺たる精神世界」の意で用いている。それは以下を読み進めるとお判り戴けるであろう。「縹茫」あまり一般的な熟語ではないが、「広くぼんやりしているさま」である。「黑鷹」先の「鷹」と区別しているからタカ目タカ科クマタカ属クマタカ Nisaetus nipalensis 辺りを指すか。]

 佐藤の詩が無用の長物だと言ふ詩壇の新鋭があるとしたら、龍之介の發句もまた無川の長物であるといふ俳壇の古武士があるだらう。彼らを思ふとき此無用の長物をも併せ思はねばならぬとしたら、また彼等が均しく藝術の士として後世の筆端に煩はされるとしたら、先づ此無用の長物も見遁さないであらう、彼等を見る上に之等の詩や發句は有益の文字であることを、後世の輩は感じるかも知れない。

 夏目漱石は完全な渾一された好箇の文人であつた。あらゆる意味での文人の心意氣や典型を有つてゐた。漱石を文人の外のものとして考へたくない程の、彼を論《あげつら》ふ上の必要の文人だつた。だが泡鳴を文人だといふことはできない。詩をも書いた彼を文人として曲指するに躊躇するのは、がらと質とに何か叛いた文人以外の氣持が混つてゐるからであつた。漱石の文人的なるものの感化は、また金釦を胸に飾つてゐたころの芥川にあつたのは當然のことである。又或は進んで漱石の感化裡に飛び込んでゐたかも知れない。併し彼はそのままでは決して頂戴はしなかつた。彼は彼らしく修正し補足したにちがひない、――その證據にはあれ程の大文人であつた漱石の發句は、折折光つたものを見せてはゐるものの、全幅に枯寂の俤を缺いてゐるばかりではなく、遺さなくともよい程の拙い句を殘してゐることを考へると、漱石は惡い句も棄てなかつたらしく思はれる。或は句集編纂者がでたらめに蒐集したのかも知れないが、ともあれ彼ほどの大家の發句として殘さずともよい句が可成りに多數に上つてゐるのは、漱石が棄てなかつたことに原因してゐる。あらゆる發句は粟てなければならない。心殘りなく棄てなければならない、――その意味で吾が龍之介は棄てることの名人であつた。或は彼は発句を棄ることに於てより多く名人であつたかも知れなかつた。彼の潔癖ときづものを厭ふ氣もちが左うさせたことは勿論であるが、何よりも彼は棄てることに於て元祿の芭蕉を學んだのかも知れぬ。[やぶちゃん注:犀星の漱石の俳句に対する見解は諸手を上げで賛同称賛するものである。私は彼の句の九十%は駄句と感じ、残りも採って、鞠するに当たらぬ凡句としか思えない。私は永遠に彼の選句集さえ作る気は、ない。]

 紅葉の句の拙いことは鏡花にまで影響してゐることは、彼等には巍然たる山脈の光茫を握つてゐないからであつた。漱石は子規時代の何人も其樣であつた如く、天明の豪邁な調子に乘り合うてゐた。子規が蕪村を出られず漱石が子規の間を彷徨してゐたことも爲方《せんかた》のないことであつた。何故彼等が一足飛びに元祿の豐饒な畑に種子を拾ひ得なかつたかと言へば、彼等の時勢が天明調以外に芭蕉の光輝すら幽かに漏れる夜半の明りほどにも、賴りない仄かなものであるらしかつたからだ。その時勢は芭蕉すらも月並といふ言葉の中にあしらはれてゐた時勢だからである。

 彼が何よりも元祿に心を向け其調べに從うたのは、古きに新しきを汲む心があつた爲であらう。漱石に於ける蕪村を芭蕉に補足してゐる彼は、その潔癖と苦澁と洗練との砦の中で、迥《はる》かに元祿の城を打眺めてゐた。それがいかにも彼らしい好みで又それ以外に彼の心が向ふとは想像もされないことである。彼の謂ふところの發句もまた全幅の藝術上の精髓だといふのも、彼の苦澁があつた後に初めて言ひ得る言葉であらう。

 併乍ら自分は全然彼の發句に異議なしに賛成するものではない。彼の好んでつかふ古調は時に發句に皮かぶりの古さをつけないことも無いではない。別離の句に、「霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉」の如き離愁は一應その氣もちは分りながらも菅笠の如きは、餘りに古きに從《つ》き過ぎ倣ひ過ぎるやうである。「しぐるゝや堀江の茶屋に客ひとり」の情景にしても、そのまま取入れられるにしても這入り過ぎてゐる調子ではないか。彼のねらふ縹渺は彼の凝りすぎる證據には「尻立てゝ這ふ子思ふや雉子ぐるま」の卽吟を彼は隨筆集に訂塗再考して「ひたすらに這ふ子おもふや笹ちまき」としてゐる。彼は三日後には原句を動かして打つて付け、付けては動かしてゐる。彼のいはゆるボオドレヱルの一行を認める所以は、彼の中では是認されなければならぬ一行でもあるのだ。併乍ら「尻立てゝ」の卽情卽景が「ひたすらに……」の後の句に添削され、原句の卽情の境を離れてゐることは彼と雖も首肯するであらう。[やぶちゃん注:「尻立てゝ這ふ子思ふや雉子ぐるま」の句については、私のサイトの初出版の冒頭の私の注を必ず参照されたい。]

  蝋梅や枝まばらなる時雨ぞら

  白梅や莟うるめる枝の反り

  茶畠に入日しづもる在所かな

  松風をうつつに聞くよ夏帽子

 彼は一槪に風流人でも俳人でもない。爐を去れば世上の埃や文壇諸公との應酬に遑なき匇忙《そうばう》[やぶちゃん注:甚だ忙しいこと。慌ただしいこと。]の男である。文壇の垢や埃の中に或時は好んでお饒舌をする男である。さういふ意味の文人臭を拔け上つた生の味の文人であらう。この意味で志賀直哉は最つと風流人であり文人の骨格をもつてゐるかも知れぬ。志賀の淸澹《せいたん》[やぶちゃん注:淡白にして無欲なこと。]は環境自身が補うてゐることも、ほぼ芥川と似てゐる。芥川が好んで曇天の美しさを見、枯れ葉の靜かさを詠むところの境致は又彼が小說の中にある「或夕暮」「或薄曇り……」のと好んで書くのと孰れも渝《かは》らない。

 彼が一句の發句にも藝術の大事を稱ふることは、細微なるものは最大のものを意味する點でロダンの說と一致してゐる。彼が此處に心を止めることは詩情を解する所以を表してゐる。すくなくとも芭蕉の詩情を狙ふ彼は自ら好んで古調の沈潜の中にゐるのは、彼の彼らしく又動かない彼自身を知つてゐるものであらう。

 

    三 流行とは

 

 芥川龍之介は不斷の流行を負うてゐることは佐藤春夫と同樣である。彼は宜い加減なものを書いてよいときにさへ、(若し恁《か》ふ云ふ言葉があれば、又假りに彼にさういふ機會があつたとしても)曾てその手綱を弛めたことがない。焦らずゆつくりと作家としての峠にゐる彼である。世に出たときにさへ谷崎潤一郞のやうな烈しい喝采を拍した[やぶちゃん注:ママ。普通は「喝采を博した」である。]譯ではない。少しづつの讀者を年年に緊めつけ年とともに數を殖してゆくやうな彼である。浮薄な讀者の間に忘られてゆくそれではなく、彼を讀むものはそのまま彼のまはりに何時までも群れ留つてゐる。「芋粥」から「玄鶴山房」まで餘り讀者は渝《かは》らないやうである。かういふ作家といふものは稀れにしか無い。これは彼の人德ではなく彼の堅め付け方が信じられてゐるからである。昨日の讀者は今日の讀者ではなく、讀者は作家の二倍くらゐの速力で進みもし先きにもゐるものだ。それを彼は知らん顏で踏まへ留めてゐることは、地味なしかも渝らない不斷の流行を擔うてゐる所以であらう。すくなくとも讀者の心に信じられてゐるからだ。

 佐藤春夫や里見弴の人氣には能く觀ればまだ浮いた人氣がないでもない。彼等は明るくて常に一種の、「華美」な雰圍氣の中にゐるからである。併乍ら志賀直哉や芥川龍之介や宮地嘉六や德田秋聲には浮いた人氣は消熄してゐる。それは人氣以上のもので人氣と名づけられない單にいい作家とだけ稱ふべきものかも知れぬ。――彼、芥川龍之介の場合はいい加減な作を作らない所以、彼の苦澁が彼を何時までも搖がせない。强ひて言へば小憎らしい不斷の流行を負ふに原因してゐるかも知れぬ。自分の如きは求められるままに濫亂の作を市に抛《なげう》つに急であつた爲に、今日の「我」をして悲しみを大ならしめた所以だが、人は志を更めるに恥を知るものではない。彼、龍之介の今日あるは又自分の大いに學ばねばならぬものだと思うてゐる。語を換へれば彼ばかりの場合でなく一國一城の各作家の弓矢や楯や兵法や築城には、それぞれに學びそれぞれに敎はらねばならぬものの多くを自分は感じてゐる。分けても彼の氣鋭は「羅生門」「芋粥」の時代から何時も同じい芥川龍之介の地盤を固めてゐる。未定稿のままの「大導寺信輔」を書いた頃から作を絕つてゐたものの、却て今年になつてからぐつと伸び上つてゐる。何時も燃えるやうな拍手喝采のそれではなく、何時も何か彼は讀者との間に信じられてゐるやうである。

 

    四 詩的精神

 

 詩にある文章や小說といふものに冷笑を感じてゐることは、久しい間の自分の偏屈な併も誠實な習慣であつた。詩のある小說とは美しくだらだらと宜い加減の文章の綾や折曲を綴り合うたものだとしたら、又世の批評家諸公の謂ふところのものであつたら、自分は彼等に根本的に詩を說明してかからなければならない手數と厄介さを感じるだけである。佐藤春夫が詩のある小說家だといふのは、彼の文章のつやであつたとしたら、佐藤もその詩のある文章といふ贋物の冠を返上するであらう。

 詩的なるものとは文章の表面ではなく、行と行との間字と字との間に、棚引く縹渺たる作者の呼吸づかひや氣魄や必逼的なものを言ふのだ。芥川の文章の中にいつも此標茫たる何物かがあるのは、諸君の悉知せらるるところであらう。志賀直哉は實に際どいところまで行くが、いつも淸らかで美しい。「暗夜行路」や「赤い帶」其他女中を書いたものにそれがある。併乍ら芥川の脈脈たる縹渺がない。芥川はいつも何か靑い煙を感じる程度の、彼自身の文章のやうな氣魄や肉體を有つてゐる。「枯野抄」の縹茫は今から彼自身が見ても、枯寂な一個の魂に對する詠嘆としか思はれないであらう。彼は充分な縹渺や枯寂を「枯野抄」では表し得なかつたと言つてよい。去來丈草の諸門弟を一々描いただけで、それだの彼のねらひが餘りに「その空氣」を表すに道具立が多かつたと言つても過言では無からう。併乍ら大正四年代に悠悠として「羅生門」を書き、越えて七年に枯寂な「枯野抄」を描かうとした彼の用意は並一と通りのものではない。彼は實に樂しみながら古實から新鮮を掘り當ててゐる。或は彼は彼自身樂しく書いてゐないと言ふかも知れぬ。何人も作者は苦吟するが故に愉しんでゐないと言ふのが眞實かも知れぬが、併し苦吟し乍ら愉しんでいないと言ふのが眞實かも知れぬが、併し苦吟し乍ら愉しんでゐないとは言へない。「藪の中」にすら彼自身愉しみ乍ら運命のはらわたを搔きさぐってゐる。彼の作の凡てがさうのやうに此作も橫縱から油斷のない手法で矢繼早に固めてゐる。然も此中の女の美しさは異狀なまでに感じられるのは、强ち物語の稍うがち過ぎたためでは無からう。

 何よりも彼は前人未到的な物語風なものに凝つたのも、彼の唯一の好みばかりでなく彼の聰明な文學的發足點であつたのであらう。そして此種の物語風な作品は不思議に今から思ふと、大正文壇の記錄的な作品の種類に這入つてゐる。再びああいふ種類の作品は我我に必要のない程度までの、それ程肝心な一小說體を爲してゐることは特記してよい。自然主義以來藝術的な物語風の小說としては、彼の諸作品は重きを爲すことは當然である。

 彼は最近物語風なものから脫けようとするほど、彼は彼の文學的過去に於て物語の作家であつた。どういふ作品も物語の範圍は出てゐない。それ故何時讀んでも退屈を感じない文字通りの小說的の効果を讀者は受け味ふことができるのだ。彼が可成り高踏的な作家であり乍らも、なほ通俗的な所以のものは一つには此物語風の姿を有つてゐることであり、話と筋とが透《とほ》つてゐるためであらう。そして此種の作品が後世の識者を問ふとしたら好箇の「記錄的な作品」として評價されるに違ひない。

 今の文壇で漱石鷗外のあとを繼ぐもの、彼ら以外の大家として殘るものは何人であるか分らない。併し我我の頭を去來するものは殘念乍ら芥川や志賀かその孰方かであらう。決して谷崎潤一郞ではない。谷崎は國寶的作家であらうが、漱石鷗外と併稱さるべきものではない。國家は稀れに取止めもない建築や器物に國寶の冠を與へると一般なものを、我我は谷崎潤一郞に感じることも無いでもない。しかも今は何となく大谷崎の大の字を與へられる作家は、芥川や志賀ではなく、實に大谷崎潤一郞だけである。併しながら漱石鷗外の後繼的氣分を我我の文學的爐邊にしばしば語られ釀すところのものは、龍之介と直哉とでなければならぬ。

 

    五 自分と彼

 

 谷崎潤一郞論の中で佐藤春夫は彼から文學的才能を蘇生させられ、培養させられたことを囘顧と感激とをもつて云つてゐる。自分も亦芥川龍之介から得たものは、意味は違つてゐても同樣のものであることを否めない。自分と彼とは僅か七八年くらゐの交際に過ぎない。しかも其間に自分は彼から種種なものを盜み又攝り入れたことは實際である。彼は殘念乍ら一步づつ先に步いてゐるからである。或は一步どころではなく十歩くらゐ先方を步いてゐたかも知れぬ。或は田舍生れの自分は田舍の辯で用途を滿してゐる牴牾《もど》かしさを、東京に生れた彼が東京辯で用を辯じてゐる速力の相違であつたかも知れぬ。

 萩原朔太郞が此間室生犀星論を三十枚ばかり書いて久濶を叙する意味で自分に示して吳れた。自分の市井生活の荒唐無稽を露骨なまでに曝き、「この頃の取澄した」自分を粉碎し又理解した文章であつた。その中に私と芥川とを批評して恁《か》ういふ意味のことを言つてゐる。「彼が芥川龍之介と知り合ひ彼等が均しく慇懃であるのは、兼て室生が欲してゐるところの敎養あり、典雅な人物に彼が行き會うたからである。彼自身の中に潜んでゐる當然典雅なるべき彼を築き上げたい夢想を、次第に彼は芥川を知つてから實顯し出したやうである。少くとも當然彼の中で睡つてゐて起きないものまでをも、芥川龍之介なる人物に刺戟されて搖り起されたと言つても過言ではなからう。」と云つてゐる。彼の言葉を藉《かり》れば敎養ある高雅の人物を私は永い間望んでゐた。そしてその人物に邂逅したことは彼の氣質からなる風雅なるものを、一層建て直したと言つてよいといふ論旨であつた。自分は萩原の言ふところに不賛成ではない。寧ろ彼は離れてゐる間にも彼の友である私を遠く注意深く睨んでゐることは、彼の唯一の友であるが故に賴母しい氣がしたくらゐである。

 菊池寬の言葉を籍れば芥川龍之介は人がいいさうである。彼に逢つたどういふ人も彼を惡く言ふことを聞いた事がない。會はない前から見れば會つてよかつたといふ懷しさを感じさせるらしい。そこが彼の人のいい、隱し立をしない人がらであるかも知れぬ。彼の上機嫌は彼を長廣舌にさせる事は暫らく擱《お》いても、彼は妙な人見知り氣取りや故意《わざ》とらしい氣障《きざ》からとくに卒業してゐることは實際である。人間が出來上ることは人見知りや氣取りの必要のないことであらう。しかも彼は皮肉でなく正直に言つてゐる。「僕は誰とでも或程度までは交際《つきあ》へるがその或程度までで又引歸して來る。」と彼らしい氣持の手堅さを見せてゐる。かういふところは人が善いのだか惡いのだか分らない。或は或意味で菊池寬の方がよほど彼よりも人がいいのかも知れぬ。

 一槪に萩原の所謂「典雅なる人物」との邂逅に依つて、自分の全幅が影響されてゐると言ふのや、彼に依つて初めて自分が搖り起された譯ではない。彼に據つてほんの少しづつ自分は彼のものを盜んだ丈である。彼の中にあるもので自分に取つて解らなかつたものが解るやうになつたことは、或意味で重大なことかも知れない。とにかく彼は却却《なかなか》の苦勞人である。しかも彼の苦勞人の所以のものは妙に垢じみた薄暗いそれではなく、明るい冬の朝のやうなそれである。彼は學問や經驗の上からも、自分とは全然反對であるが、しかも彼は經驗せずして經驗する程度のものを直覺する男である。彼は或意味で世間的に云へば恐るべき早熟だとも云へるのである。或は彼があれだけの才能を不良性のまま驅り立ててゐたら、どうにもならぬ人間になつたらうと思へる程である。麼《か》ういふことは禮を失するかも知れぬが、彼が不良の徒だとしたら才氣煥發で一世を震骸させるかも知れない。

 

    六 「玄鶴山房」の内容

 

 彼は最近「彼」第一第二「點鬼薄」「河童」「玄鶴山房」等を次つぎに發表した。そして批評家諸公の謂ふ神經衰弱でへとへとになつた彼を見直さした。今では神經衰弱もまた彼の一轉期だつた風に云ふかも知れない、――獨逸人は病氣をしない人間は莫迦だと云ふさうである。又古く長與善郞は餘りに健康で肥つた人間も莫迦だと言つたやうに覺えてゐる。

「玄鶴山房」には最近の彼が懷いてゐる憂欝な氣魂が沁み出てゐる。「玄鶴山房」には壓搾の美がある。出來得るだけ纏めつけた上に彼の好んで恍惚とする壓搾の美しさを彫つてゐる。木彫の美であるかも知れない。そして又甲野は種種な家庭から家庭へ渡り步く看護婦としての天職に苛酷なほど忠實であることが、時折その眼を上げて、徐ろに觀察の微妙をその女性らしい心に落してゐる。

「玄鶴山房」は在來の彼の物語であるよりも一層物語のさねに障つてゐるところの、彼の鋭い爪に據られ[やぶちゃん注:適切な読みが浮ばない。私はここは「抉」(えぐ)「られ」とあるべきところかと思うのだが。]彫られたしごとの一つである。自分はこれらの人生に各各一人づつの人間に美を感じた。玄鶴には玄鶴の美、甲野には甲野の美、お芳にはお芳の美、其他の人間にも美を會得した。これを「秋」と較べると幽かな新派哀愁とも云ふべきものが、最《も》う重疊された憂欝をたたんで「玄鶴」に聳立《しようりつ》してゐる。しかも色で云へば「玄鶴」は澁好みであると云つてよい。讀み終へて舌ざはりに殘るものは彼の澁好みであらう。

 小說は落筆前の材科で一度作者を苦しめるものであることは事實であるが、彼の場合時折息苦しい折疊をこころみてゐる時に、いつでも何か美がある。赤松月船もまた彼の論文の中にチラチラ光るものを感じると言つてゐるが、それは彼の文章の構成や結構が折りたたむ氣魄の一種ではないか。これは又彼から見遁してはならないものだ。此チラチラ光るものは要するに彼の質の冴えのやうなもので、永年彼が知らず織らず[やぶちゃん注:「識らず」の誤植。初出は「識」である。]の間に磨き上げたものだと思ふ。遺憾乍ら「河童」の中にチラチラ光るものがあれば、アートペエパアを捌くやうなそれであり、「玄鶴」の中にある冴鋭《ごえい》なるチラチラではない。「羅生門」の丹の剝げた柱にきりぎりすを點出した彼は、「秋」の宵口に電燈の球に止つてゐる蒼蠅を按配した。これは決してチラチラの中のものではない。彼はつひに「玄鶴」に甲野さんを按配するのは殆ど當然のことであつたらう。

 或批評家は「河童」を彼の智識的なる產物として批評した。また或月評家はこれを童話として品隲《ひんしつ》した[やぶちゃん注:品評した。世間的に分類した。]。また或批評家は彼でなければ書けぬものだと所斷した。孰れも當り孰れも當らないやうであつた。自分に言はすれば「河童」は彼の苦汁のやうなおもちや箱を彼が整理して見たまでのものであるやうな氣がする。或はさうでないかも知れぬ。併乍ら彼のおもちや箱は何時もああいふふうの品品に滿ち、ああいふふうのおもちやが一盃に詰つてゐることは噓ではない。――彼はさまざまな河童をならべ其等に迷ひ子札を一々克明に提げた。

 

    七 描寫に就て

 

 彼の文章に壓搾の美のあることは既に述べた。同時に材料もともに壓搾されてゐることも見遁されぬ。志賀は生のままの文章で行くが、彼の縹渺の趣を缺いてゐることも述べたとほりである。しかも里見のうがちは無く谷崎の壯大は窺へないかも知れないが、脈脈として糸吐く蠶の縹渺を含んでゐる。又凝り上ると峻嚴な、練るほどつやを吐く糸のやうである。樹で云へば常磐木の美であるかも知れぬ。隨筆集「點心」の中に彼は文藝上の作品では簡潔なる文體が長持ちのする所以を述べてゐる。彼は文章の荒糸だけを丹念に拔いてそれを統べたり編んだりしてゐる。大正十一年作の「トロツコ」には手堅い寫實的な、淡《あつ》さりした手法を用ひて効果を得てゐる。

[やぶちゃん注:以下の引用は底本では全体が三字下げのポイント落ちであるが、前後を一行空けて、同ポイントで示した。]

 

或夕方、――それは二月の初旬だつた。良平は二つ下の弟や、弟と同じ年の隣の子供と、トロツコの置いてある村外れへ行つた。トロツコは泥だらけになつた儘、薄明るい中に竝んでゐる。が、その外は何處を見ても、土工たちの姿は見えなかつた。三人の子供は恐る恐る、一番端にあるトロツコを押した。トロツコは三人の力が揃ふと、突然ごろりと車輪をまはした。良平はこの音にひやりとした。しかし二度目の車輪の音は、もう彼を驚かさなかつた。……(トロツコ。)

 

 此描寫の中に無駄は一字もない。或意味で寫實の奧を搔きさぐつてゐるやうなところがある。自分は世にいふ名文といふものは知らないが、恐らく名文といふものには此種に文章が名づけられてもいいものであらうと思つてゐる。此中に壯麗も見榮も氣取もない。あつさりと餘裕のある、まだ幾らでも書ける筆勢が見えるやうである。愛すべき小品「蜜柑」の中の「しかし汽車はその時分には、もう安々と隧道を辷りぬけて、枯草の山と山との間に挾まれた、或貧しい町はづれの踏切りに通りかゝつてゐた。踏切りの近くには、いづれも見すぼらしい葦屋根や瓦屋根がごみくと狹苦しく建てこんで、……」[やぶちゃん注:以上の引用は底本ではポイント落ちであるが、同ポイントとした。以下でも同じ仕儀としたので、そちらでは略す。]の數行は、その布置が稺氣《ちき》[やぶちゃん注:子供っぽいこと。]の見えるまでに正直な、その上或る憂欝のある景色を描いてゐる。「トロツコ」の人生は活發な人生である。[やぶちゃん注:底本には句点が行末で組めなかったか、句点がないが、補った。]「蜜柑」も同樣に子女をあつかひ乍らも、人生の風雪は著早《いちはや》く「蜜柑」の少女を傷めてゐる。行文に一味の陰欝が窺はれるのもその爲であらう。併し乍ら「蜜柑」は大正八年の作であり或意味で「トロツコ」の淸澄簡潔には及ばない。

「子供の病氣」は彼の生活的な日錄のやうなものであるが、時に妙に思ひ上つた樣なところのある「保吉」物よりも私の愛讀するものである。これは彼の所謂素直物[やぶちゃん注:所謂私小説風の物の謂いであろう。]の一つであるかも知れない。彼の散文詩めいた物の中にも素直物が折折にある。「仕事は不相變捗どらなかつた。が、それは必しも子供の病氣のせゐばかりではなかつた。その中に、庭木を鳴らしながら、蒸暑い雨が降り出した。」夏の雨らしい大粒な景色が描かれてゐる、これは彼が發句に丹念してゐるために締付けられた文章と見るのは當を得てゐない、――自分は彼の大作よりも何故か寧ろ小品に近い物ばかり擧げてゐるやうであるが、これは自分の趣味ばかりではなく彼の小品めいたものを愛讀するからである。

 彼を理智の冷徹な作家とすることも一評的であらうが、寧ろ人生には愛情のある作家であることは特記して置きたい。彼といふ人物や生活には人懷こいものがあるやうに、存外冷徹な理智者の彼に自分はその愛情の匂ひを嗅いでゐる。「お時儀」の中の人生は誰でも屢屢經驗するところのものであるが、汽車から降り立つ何時も宜《よ》く逢ふ女の人に、思はずひよいとお時儀をする彼は全く彼らしい人の善い氣輕な氣持を有つてゐる。それにこの作の中に愛情を有つ彼が愉快げに佇んでゐるのが行間に沁み出てゐる。「――お孃さんは今日の前に立つた。保吉は頭を擡げたまゝ、まともにお孃さんの顏を眺めた。お孃さんもぢつと彼の顏へ落着いた目を注いでゐる。二人は顏を見合せたなり、何ごともなしに行き違はうとした。」

「丁度その刹那だつた。彼は突然お孃さんの目に何か動搖に似たものを感じた。同時に又殆ど體中にお時儀をしたい衝動を感じた。」彼の謂ふところの簡潔と壓搾とが遺憾なく表現され、その折の氣もちが鮮鋭に透《とほ》つてゐる。彼は此お孃さんを可成り高びしやな、上から見卸すやうにしてゐながら、遂にお時儀をしたい衝動を感じてゐるところに、彼らしい氣もちが出てゐる。これだけに絞つて書くことは却却《なかなか》容易なことではない。

 彼の文章に型のあることは總《あら》ゆる作家に型のあると又同樣である。併乍ら彼の型は彼を苦しめはすれ樂にはさせてゐない。大槪の作家は樂樂と型に這入つて行くが、彼はいつも身悶えをしてその型に這入つて行く。しかも「玄鶴山房」あたりには、型の角がとれてゐた。内側から型にふくらみを付けたことは實際である。内容が文章の上へ出てゐる、――文章が下地になつてきらきらしてゐることに氣がつく。誰でもかうなるとは決まつてゐない。「彼等は竃に封印した後、薄汚い馬車に乘つて火葬場の門を出ようとした。すると意外にもお芳が一人、煉瓦塀の前に佇んだまゝ、彼等の馬車に目禮してゐた。重吉はちよつと狼狽し、彼の帽を上げようとした。しかし彼等を乘せた馬車はその時にはもう傾きながら、ポプラアの枯れた道を走つてゐた。」又甲野といふ看護婦を描くのに彼は刺し徹すやうな數行を四の末端で結んでゐる。彼の簡潔の中に並並ならぬ深い用意のあることを感じる。「お鈴の聲は「離れ」に近い緣側から響いて來るらしかつた。甲野はこの聲を聞いた時、澄み渡つた鏡に向つたまゝ、初めてにやりと冷笑を洩らした。それからさも驚いたやうに「はい唯今」と返事をした。」彼の諸種の作品の内でこの數行の如き透徹冷嚴の旨(うま)みは、容易に見出せるものではない、殊に第二聯の逆手を打つた逆描の冴えは、他人は知らず自分の推賞したいところである。全く歷歷(ありあり)と目に見えるまでに描いてゐる。かういふ彼の中にあまさは微塵もなくぎりぎりに詰めてゐる。

 彼の描く人生の量や幅や深淺の程度は、いつも文章と喰ひちがいなく嵌り込み、食み出してゐるところは少しもない。「點鬼薄」は「點鬼簿」以外のものではなく、さながらの過去帳であり點鬼簿である。そのまま四六判の書物になり小穴隆一の裝幀を思ふほど、四六判へ辷つて[やぶちゃん注:「すべつて」と読むしかないが、今一つ、変な表現である。私は「辿つて」の誤りのような気がする。但し、初出も「辷」である。]行く作がらである。彼のどの作も金緣の額へではなく好ましい額ぶちへはまり込んでゐる。

 彼のどの作にも同じ種類の人生、同じい生活の再出は見られぬ。一作ごとに何等かの變化を全然異つた人生を表はすことに苦心してゐる。樂なものを後方に左うでない難しいものへ進んでゆくことは特記に値する。絕えず毛色の違つたものへの進展は、樂樂と書けさうなものを後𢌞しにさせてゐる。しかも彼は彼の自敍傳らしいものに殆ど手をつけてゐない。作家の最初に手を付けるものを彼は最後に𢌞してゐるのも、奧床しくないことはない。「就中恐る可きものは停滯だ。いや藝術の境に停滯といふことはない。進步しなければ必ず退步だ。藝術家が退步する時、常に一種の自動作用が始まる。と云ふ意味は、同じやうな作品ばかりを書く事だ。」[やぶちゃん注:ここは底本でも同ポイントであるが、「藝術その他」(大正八(一九一九)年十一月発行の『新潮』初出。後に作品集『點心』『梅・馬・鶯』に所収された)の六番目のアフォリズム中の一節である。リンク先は私の古いサイト版電子化注。]彼はさうも言ひ停滯の危險なことを警戒してゐる。藝術家の死に瀕してゐるものは同じ事ばかりを書く事であることを言つてゐる。

 彼のどの作も彼自身に取り又私だけの見方としては、何時も試みらしい作のやうに思へてならなかつた。絕えず材料の轉換に悶えてゐる彼には、作を透《とほ》してさへ其等の氣持がぢかに感じられてゐた。あらゆる作家の内で彼ほど描かれた小說の事がら以外に、彼の「藝術」を感じられる作家は殆ど稀なやうである。何か彼らしいものを(これは一種の文章がもつ人格的なものかも知れない。)自分はその小說以外に感じられてならなかつた。これは志賀の場合には感じられる氣魄的な文章のもつ靈魂みたいなものである。決して亡靈ではない。(文章の靈魂とは變な言葉であるが、さういふものが存在してゐるやうな氣がするのだ。他の何者にもそれがなくとも文章にはその靈魂がこもつてゐるやうに思ふ。)恐らく彼の文章は次第に「玄鶴山房」に見るがやうに、殆ど内容を盛るだけの用を爲すに停まり、在來の文章そのものの肉を避けて行くやうになるであらう。文章のすぢばかりを彼一流の氣魂で練り上げて行くやうになるに違ひない。

 彼の名文家でないことは述べたが、しかも彼は大正時代に於て文章が單なる文章の肉を必要としないところの、淸瘠《せいせき》の一文態を築き上げたこと、その一文態は在來の描寫が有《も》つ病的なほど過剩された文字の埋積から、完全に隔れた一新樣式を練り上げたことは認めてよいことである。あれだけの文章はただ簡勁だといふに片づけてはならぬ。あれだけのものを今日に於て築き上げたことは誰も氣付いてゐないやうである。しかも其等の文章は第三期新進諸君(同人雜誌)のために、最もよき踏臺となつてゐることを自分は注意して見てゐるものである。あらゆる文章の進んでゆく速度は恐らく十年目くらゐに或變化を與へてゐる。硯友社時代と獨步時代、そして大正時代との間に徵しても明らかである。今後十年近くの間に變化が起るとすればわが龍之介の壓搾の美も、彼らには可成りな健實な踏臺となるに違ひない。あらゆる藝術的なるものは次の時代の足つぎになることに存在するからである。

 此小論を書くにあたり諸家の高名を禍《わざはひ》したことは、作者の至らざるところであり、作者の至らざるところは文章の至らざるところである。豫めお佗びして置く。

            (昭和二年五月作)

2022/03/30

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(……つめたい藻ぐさのながれが)

 

 

 

つめたい藻ぐさのながれが

まつぱだかの胴體にからみついた

ぬらぬらする淫心から

おれはくちびるをまつさをにして

流れをはすつかひにつつきつた

┃ぐつとのばした兩腕をのばすと のわきからをのばすと

┃ぐつと雨足をつきふみのばすと

[やぶちゃん注:「┃」は私が附した。以上の二行が並置残存されていることを示す。]

光線がいつぱいにながれたさしこんだ、

遠い水草の葉つぱが

すつきりとあかるくみえる

ほつそりと透いてみえるほど、

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。編者注があり、『本稿には以下がない』とある。

 なお、本篇には『草稿詩篇「未發表詩篇」』に『(本篇原稿二種一枚)』としつつ、一種のみがチョイスして示されてある。以下に示す。同じく表記は総てママである。

   *

 

 

 

おれは

れは んみの

あきらかに水面に

みられよ

ぐいと兩足をのばして、

流をすつかりよこぎつた、

 

   *]

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(さてなやましさと寂しさが彼を狂氣せしめた、……)

 

 

 

石桓の下にはぺんぺんぐさがもえて居る、

そこは日だまり

さて子供らは

物狂ほしい

さてなやましさと寂しさが彼を狂氣せしめた、

日は日ねもす浪の上に物悲しく光つて居た、

その邊の砂は生ぬるくやけて居た、

男は帽子を土べたにたゝきつけた

松林には そうそうと風が なつて居た、

うす暗く

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。編者注があり、『本稿には以下がない』とある。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 (ちつぽけな……)

 

 

 

ちつぽけな

とげの生えた魚の子が

ちよろちよろと木にのぼつた

その木にさくらは銀いろの花をつけ

海はまつさをに光つて居た

この光る炎天の風景にひるがへる

浪々の穗の白き見 ゆる丘の上 の→を に太陽〉

遠き太陽をこえて

浪々の穗は白日の丘の上 をこえ

魚は いつぴきの魚がひつそりとすぎゆくパンのけはひし

魚はするどくさけびはじめた、ぴちぴちと鳴いて居たきそめ。

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。編者注があり、『用紙の下方にやや離れて「陣□魚」「つめた貝」と書かれている』とある。「陣□魚」(中央は判読不能字)は意味不明。崩し字で「陣」ではない可能性があるか。

 なお、本篇には『草稿詩篇「未發表詩篇」』に『(ちつぽけな)』『(本篇原稿二種二枚)』として、一種がチョイスして示されてある。以下に示す。同じく表記は総てママである。

   *

 

  

ちつぽけな

するどい

とげの生えた魚の子が

ちよろちよろと木にのぼつた

その木にさくらは銀いろの花をつけ

海はまつさをに光つて居た

この光る炎天にてらされて

まつぴるまに

木の上の魚は

するどく泣 いたのである、いて居た、

ああはるはると聲をあげて 空にくるめきつゝ

しみじみと淚をながして

風景は

この 南洋のまつぴるまに

しみじみと淚をながして

魚は にんげんは

太陽

とうとうとうたる遠瀨の音 ばかり もたえ

ゆめみる赤道の そのときこのあたりの砂原をこの光る風景砂の上を

ひつそりとすぎゆくPANのけはひ

まつぴるの風景の中に

魚はするどくまつすぐに立ちあがつた

 

   *

「PAN」は一字づつ縦書。編者注があり、『抹消部分、插入部分が多く、順序がはっきりしない。また、用紙の冒頭下方に、次の敷行が記されている。』とあり、

   *

この光る炎天にさらされて

遠い風景

ゆく舟見える舟の帆みゆる遠海に

いつぴきの魚の子が

樹上にするどくたつて泣いて居た

   *

とあり、さらに『用紙の左上方離れた所に、「つめた貝」と書かれている。』とある。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 遠き風景

 

 幼馴染の君

 幼なき日の 少女に 友だちに

 幼なき追懷

 遠き風景

      ――幼なき日の少女子に

 

しんねんたる柳の樹 ぬれ 立より

道路はしろじろ

うねりて

野はほのぽの

しんしんねんねんたる柳の樹ぬれよりぬれを

うねりくねりてすぎさるものは自働車の一聯→の白き一聯

うちふす麥に風あり

けふもさびしき子供子供づれ指さし

海に風あり

遠き岬をすぐればこゑさればりくれば

しらたえまさる浪路のうたかた

月の出しほに

道はほのぼの

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。編者注があり、『本稿には以下がない』とある。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(なやましいみどりの中に……)

 

 

 

なやましいみどりの中

けぶれる柳がもえはじめた

窓いちめんにもえはじめた

そのとき病人たちは夢からさめて居た

さびしい部屋の中で

みんなふらふらあるいて居た

かなしげな顏が

硝子戶の外をみて居た

遠い 病身→病人 わたしは手にランプをもつて

おそろしく ほそ長く病人のゆがんだ顏が

硝子戶のまへにふるへて居た

見わたせば

ゆかんだ硝子窓の上には

かなしい窓の

わたしは手にランプをもつて

ふらふらとおきあがつた

悲しい 靑白い哀しい病氣の顏が硝子戶のまへにふるへて居た

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである(「ゆかんだ」は「ゆがんだ」の誤字)。編者注があり、『本稿冒頭に一行分空き、三字分上がって次の三行が記されている』とあり、それは、

   *

見わたせぱ

遠火にもえるうぐひすな

まつくらの暗夜の

   *

である。さらに、「かなしい窓の」『から以下は、原稿の下部に記され、四行目へ續く印がある』とあり、さらに『「病人のゆがんだ顏が」「硝子戶のまへにふるへて居た」』「ゆかんだ窓の上には」の三行は消し忘れと思われるので上欄本文では抹消した。』とある。私は無論、抹消を入れず、そのままにしてある。

「うぐひすな」「鶯菜」であるが、萩原朔太郎の使用する場合のそれは、コマツナ・アブラナなどの、まだ若くて小さい菜を広く指しており、種を断定は出来ない。薄緑色の小さな菜類をイメージすればこと足りる。一時期、朔太郎はよく使用している。

 本篇には『草稿詩篇「未發表詩篇」』に『(なやましいみどりの中に)』『(本篇原稿四種三枚)』として、二種の比較的長い草稿(孰れも無題)がチョイスして示されてある。以下に示す。同じく表記は総てママである。詩中のフレーズの頭や途中にある「○」は朔太郎がふったものである。

   *

 

  

 

うすらうすくけぶれるごとき綠がもえ出した

綠の そのもえ いづるころのなやましさにたえられず

たしれは手に赤いランプをぶらさげをさけ

しとしとふらふらと くさの上をふんでゆくあるいて居る

ときしもあれくや

○遠火にもえるうぐひすな

┃まつくらの暗夜をすかしての庭に

┃ほのほのとしぼんてゆくさくらをみた

せりたづきなのみどりのうへに

┃ほのかにも死んでゆく〉しぼんてゆく花びらをみた。

┃まつくらの 夜にまつしろの花が流の上には

さくらがほんやり光つて居た、

[やぶちゃん注:「┃」は私が配した。感じとしては、二行ずつがセットと見られ、三候補並置されて、或いはその後に幾つかの追加削除がなされたものかも知れない。]

すべつこい女の顏を

するするとなぜるやうに月があがつた

 

   *

この草稿に編者注があり、『本稿は「草稿詩篇 月に吠える」の「白い月」』『と關連性がつよい』とある。私の『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 白い月』の注で電子化してあるので参照されたい。

   *

 

  

 

○なやましいみどりの中に

うすく○けぶれるの芽がもえ出したはぢめた

病氣の ながい病の氣夢から夢からめざめ

おれは手にランプをさゝげて

しんしんと髮をけづつて居た

そつと草の戶口につきすゝむた

い柳が

かみの毛ぼうぼう ぜんたる たる男が

○窓いちもんにもえはじめた

室→窓の 哀しい病氣の夢から さめて

○そのとき病人たちは哀しい夢からさめて居たので

みんなランプをもつて

○みんなふらふらと行列してあるいて居た

たれかゞ窓に よりかゝつた 

白い顏が窓 から

その窓から だれ→わたしはわたしは手にひつそりとランプをもつて

ぼんやり硝子戶のまへに立つて居た

 

   *

後に編者注があり、採用しなかった『別の草稿には、下書き斷片とみられる次の三行が記されている。』として、

   *

半死半生の狀態に居る、

僕は外部の生活では兄に比して餘程幸福である代り

心生活ではずゐぶん苦しい思をして居る、私は、

   *

とある。「兄」萩原朔太郎は萩原密蔵とケイの長男である。ここで彼が「兄」と呼んでいるのは、親しんだ従兄萩原栄次(朔太郎の七歳年上)。「前橋文学館」の「萩原朔太郎年譜」によれば、明治二五(一八九二)年七月(この年四月に群馬県尋常師範学校附属幼稚園入園。朔太郎満五歲)に、大阪の従兄萩原栄次が萩原家に来住し、九月に群馬県前橋中学校に入学しており、『朔太郎は栄次を兄として慕い、以後多くの影響を受ける。』とある。また、ウィキの「萩原朔太郎」によれば、朔太郎は『師範学校附属小学校高等科を卒業後』、明治三三(一九〇〇)年四月に『旧制県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)入学』するが、『この時代に従兄弟萩原栄次に短歌のことを教わ』り、『校友会誌に』「ひと夜えにし」と『題してはじめて短歌五首を発表』したとあり、若き日、歌人として登場した朔太郎のまさに親愛なる兄出逢ったことが判る。栄次の方は、前の年譜で、この年の十一月に大阪高等医学校(現在の大阪大学医学部)を卒業後、再度、来住し、明治三十五年まで、父密蔵の代診を務めてもいる。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 糸掛貝・關守 / ホソチャマダライトカケ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの丁は、右下に、『町医和田氏藏』『數品』(すひん)、『九月廿二日、眞写』す、という記載がある。和田氏は不詳だが、ここで町医師であることが判明する前の二丁のクレジットの翌日であり、その和田某のコレクションを連日写生したことが判る。従ってこれは、天保五年のその日で、グレゴリオ暦一八三四年五月十二日と考えよい。なお、右上のカメノテは二〇一八年五月二十八日に既に電子化注している。]

 

Itokakegai

 

糸掛貝【又、「關守」。】

 

[やぶちゃん注:コレクターに人気の高いイトカケガイ科Epitoniidae特有の白い縦肋の間の殻表が茶褐色を呈しており、殻塔が有意にスマートで殻長が高いことから、

腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目アサガオガイ超科イトカケガイ科オオイトカケ属ホソチャマダライトカケ Epitonium glabratum

に比定する。恐らくは本州中部(伊豆半島或いは紀伊半島)以南に棲息するはずである(現在は希少種)。なお、別名として挙げる風流な「關守」は、同属セキモリ Epitonium robillardi に与えられているが、地肌の褐色が薄く、さらに殻長が寸詰っていて、丸みが強く、本図には当たらない。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 糀石 / 腹足類の螺塔の芯を中心とした各種部分の摩耗した殻片

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。一部をマスキングしてある。なお、この見開きの丁は、右下に、『町医和田氏藏』『數品』(すひん)、『九月廿二日、眞写』す、という記載がある(ここではその部分を含めてトリミングした)。和田氏は不詳だが、ここで町医師であることが判明する前の二丁のクレジットの翌日であり、その和田某のコレクションを連日写生したことが判る。従ってこれは、天保五年のその日で、グレゴリオ暦一八三四年五月十二日と考えよい。なお、右上のカメノテは二〇一八年五月二十八日に既に電子化注している。]

 

Koujiisi

 

糀石(かうぢいし)

 

町医和田氏藏。數品(すひん)、九月廿二日、眞写す。

 

[やぶちゃん注:「糀」は「麹」とも書き、もとは「釀立 (かむたち) 」の略「かむち」の音変化したものである。米・麦・大豆などを蒸して、室(むろ)の中にねかせてコウジカビ(菌界子嚢菌門ユーロチウム菌綱 Eurotiomycetesユーロチウム目 Eurotialesマユハキタケ科コウジカビ属 Aspergillus)などの有益なカビを繁殖させたもの。酒・醤油・味醂などの醸造に用いるそれであるが、ここは、そのような色や形に見えるものということで、図からは、腹足類の螺塔の芯を中心とした各種部分の摩耗した殻片である。

 因みに、私の愛読書である石狂木内石亭の「雲根志」の全目次を見たが、残念なるかな、「糀石」はなかった。]

2022/03/29

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 岩壺(フジツボ) / オオアカフジツボ?

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの丁は、右下に、『和田氏藏ノ數品』(すひん)、『九月廿一日、眞写』す、という記載がある。和田氏は不詳だが、前の二丁と同じく、その和田某のコレクションを写生したことが判り、これはそれらと同じく、天保五年、グレゴリオ暦一八三四年五月十一日と考えよい。本図でこの見開きを終る。]

 

Hujitubo

 

岩壺【「ふじつぼ」。】

 

予、曰はく、

此の者、「石决明(あわび)」の貝に付ける藤壺とは別物なり。貝、堅くして、光澤あり。「あわび」に付けるも「ふじ壺」と云ふ。

 

[やぶちゃん注:これは、言うまでもなく、「蛤蚌類」ではない「フジツボ」であるが、梅園がアワビに付着するフジツボと差別化して言っており、しかも殻板が堅く、光沢があるとなれば、堅いという以上は、相応に成体が有意に大きくなる種であり、光沢を持つには、無色ではないと考えると(図の中央が赤みを帯びて描かれてある。にしても、この図はフォルムを把握出来ない悪図で、白い多数の突起物のようなものが見えるが、これは殻板の凸凹ととるしかないのか? 或いは、殻板に外側に付着寄生した他生物の痕跡(例えば環形動物門多毛綱ケヤリムシ目カンザシゴカイ科ウズマキゴカイ Neodexiospira foraminosa の棲管痕など)ででもあろうか?)、

節足動物門甲殻亜門顎脚綱鞘甲亜綱蔓脚下綱完胸上目無柄目フジツボ亜目フジツボ上科フジツボ科アカフジツボ亜科アカフジツボ属オオアカフジツボ Megabalanus volcano

であろうか。なお、梅園はあたかもアワビ類の殻上に付着するフジツボは異種だと言っているかに読めるのだが、外洋のクジラやウミガメに付着するフジツボなら、限定種であることは知っているが、沿岸に普通に棲息しているフジツボの特定種が、特に付着対象をアワビに限定しているという話は少なくとも私は聴いたことがない。梅園が想起しているのは、フジツボ亜科フジツボ属サンカクフジツボ Balanus trigonus 辺りだろうか。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 カタ貝・ヨメノ皿 / マツバガイ>ヨメガカサ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの丁は、右下に、『和田氏藏ノ數品』(すひん)、『九月廿一日、眞写』す、という記載がある。和田氏は不詳だが、前の二丁と同じく、その和田某のコレクションを写生したことが判り、これはそれらと同じく、天保五年、グレゴリオ暦一八三四年五月十一日と考えよい。]

 

Yomenosara

 

「大和本草」に出づ。

    かた貝【「よめの皿」。「千鳥貝」。】

「閩書(びんしよ)」に曰はく、

   「䗩(セキ/シヤク)」【「よめのさら」。】

 

片貝(かたがひ)、二物(にぶつ)を生(しやう)ず。「䗩」は「よめの皿」なり。

「老蜯牙」は「かた貝」と云ふ。

「福州府志」曰はく、『䗩に似て、厚し。一名「牛蹄」、名を以つてす。』と云ふ者、是れなり。

 

「前歌仙貝三十六品」の内

 「夫木」 人丸

      水底の玉にまじれる磯貝の

       かた戀のみぞ年はへにつゝ

 

「福州府志」に曰はく、

「石華(せきくわ)」。

俗に「桔梗貝」・「編笠貝」・「ぐめ貝」【佐州。】。卽ち、「歌仙貝」中の「片貝」なり。「石磷」【「すゞめがい」。】に似て、大なり。「䗩」、則ち、「雀貝」とも云ふ。「石磷(せきりん)」も、「すずめ貝」と云ふ。二物、名を同じくす。二物なれども、「片貝」と「䗩」も、名を同じくする者か。

 

[やぶちゃん注:これは、まず、キャプションにやや譲るなら、

腹足綱始祖腹足亜綱笠形腹足上目カサガイ目ヨメガカサ上科ヨメガカサ科ヨメガカサ属ヨメガカサ Cellana toreuma

を候補としてよかろう。

 しかし、今一度、図をよく見てみる。

 梅園はかなり彩色に気を使っているが、寧ろ、その多色表現が、くっきりし過ぎていて、若干、作り物っぽく見えは、する。しかし、頑張って描いている。そうして、その頑張って書いているところの、明らかな殻頂からの放射状の黒い帯に特に着目するなら、寧ろ、

ヨメガカサ属マツバガイ Cellana nigrolineata

の方に分(ぶ)があることは明白である。さらに、ウィキの「マツバガイ」によれば、『殻表の地色は灰褐色や暗青色で、その上に赤褐色』から『黒色の模様が入る。表面の模様は二通りに大別でき、殻頂から太い帯が放射状に入るものと、細かい波線が成長肋に従って同心円状に入るものとがいる。老成個体では両方の模様が発現したものもいる』(☜)。『一方、殻の裏側は中央に橙色』から『黒褐色の楕円形の斑点があり、その周囲に弱い真珠光沢を帯びた青白色部がある。殻裏の配色は全個体共通なので、同定のポイントとなる』とある。この図が、ぱっと見で、綺麗過ぎて、作り物のように見えるのは、実は――まさに――その放射帯と同心円が綺麗に発言した老成個体であると考えてみて、激しく腑に落ちるのである。――返す返すも梅園が殻の裏を描いて呉れていたらなぁ――と思うのは、贅沢というものだろう。因みに、この図のリキの入れようから、実物はかなり美しい標本で、梅園も強く惹かれたことが窺えるのである。その証拠に、この図だけ、キャプションが異様に多いのである。

『「大和本草」に出づ』「かた貝」「よめの皿」益軒は「大和本草卷之十四 水蟲 介類 ヨメノサラ(ヨメガカサ)」で独立項を立てており、

   *

䗩(よめのさら) 「閩書」に曰く、『海中に生じ、石に附く。殻、鹿の蹄(ひづめ)のごとし。殻は上、肉は下。大いさ、雀卵のごとし。』と。海濱の石に付きて生ず。肉をとりて醢(ひしほ)とす。或いは煮て食す。其の形、小蚫(こあはび)に似て、ふた、なし。

   *

とあり、以下の引用の一部が、実はこれに基づくことが判る。さらに、「大和本草諸品圖下 アマリ貝・蚌(ドフカヒ)・カタカイ・鱟魚(ウンキウ) (アリソガイ或いはウチムラサキ・イケチョウガイ或いはカラスガイとメンカラスガイとヌマガイとタガイ・ベッコウガサとマツバガイとヨメガカサ・カブトガニ)」では、まさに私が同定したマツバガイの図を載せて、

   *

かたかい 「よめのさら」と一類二物。海岸の石の傍らに著(つ)きて、生ず。二物、皆、然り。「片貝」、最も、味、美し。「よめのさら」は「䗩」なり。「老蜯牙」は「かたかい」と云ふ。「福州府志」に曰はく、『䗩に似て、味、厚し。一名、「牛蹄」。形を以つて名づく』と。

   *

とあり、またしても以下の孫引きが判明する。

「千鳥貝」現行ではトリガイ(斧足綱マルスダレガイ目ザルガイ科トリガイ属トリガイ Fulvia mutica )の異名として知られるが、個人的には、所謂、カサガイ目 Docoglossaの貝類が岩に張りついている様子は、鳥の脚のように見えるので、腑に落ちる異名である。

「閩書」明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南産志」。

「䗩」この漢字で画像検索をかけると、中文サイトのカサガイ類が複数出てくるので、現在も同類種を示す漢字であることが判る。

「よめのさら」ウィキの「ヨメガカサ」によれば、『別名「ヨメノサラ」は、貝殻を皿に例え、平たい皿で食い分を減らすという嫁いびりに繋げた呼称である』とある。

「片貝(かたがひ)、二物(にぶつ)を生(しやう)ず」所謂、メジャーな大きな「片貝」(アワビ及びその近縁種や類似種)と、小型の「片貝」(広義のカサガイ類)であろう。

「老蜯牙」「大和本草附錄巻之二 介類 片貝(かたがひ) (クロアワビ或いはトコブシ)」に出現する。『に似て、厚し。一名「牛蹄」、名を以つてす』というのも一緒に出る。そちらで私が推理したので、是非、読まれたい。

「福州府志」清の乾隆帝の代に刊行された徐景熹撰になる福建省の地誌。「中國哲學書電子化計劃」の影印本を調べたところ、ここで以下のように確認出来た(句読点・記号を添えた)。

   *

老蚌牙【「閩書」、『䗩似而味厚、一名「牛蹄」、以形似之。』。】

   *

「前歌仙貝三十六品」再三出てくる、寛延二(一七四九)年に刊行された本邦に於いて最初に印刷された貝類書である香道家大枝流芳の著になる「貝盡(かいづくし)浦の錦」(二巻)の上巻に載る「前歌仙貝三十六品評」のことと思われる。「Terumichi Kimura's Shell site」の「貝の和名と貝書」によれば、同書は『貝に関連する趣味的な事が記されて』おり、『著者自ら後に序して、「大和本草その他もろこしの諸書介名多しといえども是れ食用物産のために記す。この書はただ戯弄のために記せしものなれば玩とならざる類は是を載せず」と言っている』とある。「貝盡浦の錦」の「前歌仙貝三十六品評」(国立国会図書館デジタルコレクションの当該作のここの画像を視認)によると、

   *

  礒 介(いそかひ) 右十

「夫木」人丸

水底(みなそこ)の玉(たま)にまじれる磯貝(いそかひ)のかた戀(こひ)のみぞ年(とし)はへにつゝ

   *

「日文研」の「和歌データベース」で確認(13082番)。「人麿」とあり、

   *

みなそこの たまにましれる いそかひの かたこひのみに としはへにつつ

   *

「石華」腑に落ちはするが、多分、漢籍のケースでは、必ずしもカサガイ類を指すとは思えない。脱線の部類に入るのでリンクは控えるが、私は漢籍の「石華」は何らかの海藻類を指すように感じている。

「桔梗貝」この異名は生き残っていない。

「編笠貝」極めて腑に落ちる異名。

「ぐめ貝」不詳。「ぐめ」の意味も不明。土佐の方の御教授を乞う。

『「石磷」【「すゞめがい」。】』『毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 雀貝(スヽメ貝)・簑貝 / モクハチミノガイ・ミノガイ或いはユキミノガイ或いはミノガイ類の一種』の本文及び私の注を参照されたい。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 子安貝 / マルニシ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの丁は、右下に、『和田氏藏ノ數品』(すひん)、『九月廿一日、眞写』す、という記載がある。和田氏は不詳だが、前の二丁と同じく、その和田某のコレクションを写生したことが判り、これはそれらと同じく、天保五年、グレゴリオ暦一八三四年五月十一日と考えよい。]

 

Koyasugai

 

「大和本草」に出づ。

子安貝【別種。】

 

[やぶちゃん注:これは形状から、

腹足綱前鰓亜綱新腹足目アクキガイ超科エゾバイ科イトマキボラ亜科Latirolagena 属マルニシLatirolagena smaragdulus

と比定したい。梅園は「大和本草」に収載すると言っているが、わざわざ「別種」と言っているのに着目する。これは形状から、現在の狭義の子安貝=タカラガイ(腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビ下目タカラガイ超科タカラガイ科 Cypraeidae)のそれでないことは明白である。しかし、益軒は「大和本草卷之十四 水蟲 介類 貝子(タカラガイ)」の本文に於いては、所謂、現在のタカラガイ類に「子安貝」をほぼ正しく比定している。しかし乍ら、同書の「図品」で、まず、「大和本草諸品圖下 カウ貝・子安貝・ニシ・山椒貝 (テングニシ・ホシダカラの断面図・チリメンボラ・不詳)」では実に正しくホシダカラのそれを描いているものの、実は、今一つの「大和本草諸品圖下 子安貝・海扇・マガリ・紅蛤 (ヤツシロガイ或いはウズラガイ・イタヤガイ・オオヘビガイ・ベニガイ)」では、明らかに異なるヤツシロガイ或いはウズラガイと思われる貝図を示して、「子安貝」として紹介しているのである。私は、梅園は、実は、後者の図を参考にして、ここで「子安貝」の名を与えつつ、『どうも違うぞ?』と思って「別種」としたのではなかろうか? という推理を組み立てたのである。そもそもが、「竹取物語」の古えから、「子安貝」は幻想性を孕んだ不明の貝の属性を持っていた。従って、永く、「子安貝」はそうした民俗伝承を保存しつつ、認識されてきた経緯があり、その原初の裾野は我々が想像する以上に広かったものと思われる。無論、その核心には常にタカラガイ類に代表されるところの、妊婦が出産の際、お守りとして強く握っても、容易には割れない不思議な形(そして、それは女陰にもミミクリーする点で強い民俗社会的な象徴的親和性が認められる)の貝類が比定想定されていたことは疑いようは、ない。しかし、それは広く分厚くて同じように割れない貝をも、「子安貝」と呼んでいたとも言えるわけである。このマルニシもまた、私は握っても割れない部類に入ると思うのである。

 但し、マルニシは、分布上、ちょっと難点がある。吉良図鑑を始めとして、多くの図鑑は沖縄以南とする点である。しかしこのコレクション、梅園の所有物ではないから、気にすることはないかも知れない。因みにネットで検索してみたところ、分布を奄美大島以南としたページがあり、さらには、本種の小個体だが、紀伊半島串本で採取された写真があったことを言い添えておこう。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 伊豫スダレ貝 / ヌノメガイ属の一種

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。なお、この見開きの丁は、右下に、『和田氏藏ノ數品』(すひん)、『九月廿一日、眞写』す、という記載がある。和田氏は不詳だが、前の二丁と同じく、その和田某のコレクションを写生したことが判り、これはそれらと同じく、天保五年、グレゴリオ暦一八三四年五月十一日と考えよい。]

 

Iyosudaregai

 

伊豫すだれ貝

 

[やぶちゃん注:最初に言っておくと、この丁の貝の名は、ここまで見ていると、思うに、所蔵者和田氏によって附されてあるものを、無批判に梅園が転写したように私には感じられる。而して、この名のみならば、

斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ科リュウキュウアサリ亜科スダレガイ属イヨスダレ Paphia undulata

があり、その和名の命名者は、かの「目八譜」の武蔵石壽なのであるが、当該書には、確かに正真正銘、現在のイヨスダレの図が描かれてある(国立国会図書館デジタルコレクションの当該項)。しかし、梅園の描いたこれは――逆立ちしても――イヨスダレではない――。イヨスダレには、こんな強い特異な放射肋は全くなく、逆に、イヨスダレなら描き落されるはずがない網目模様がどこを見ても全く見当たらないからである。殻頂が摩耗して削れてしまっているように見受けられるが、網目模様が全抹消されながら、しかもこの放射肋が浮き出て残るというのは、素人目で見ても、ちょっと信じ難い。殻全体が丸みを帯びており、殻頂がかなり強く膨らんでいるように見えるところと、この異様な放射肋からは、

マルスダレガイ科ヌノメガイ属ヌノメガイPeriglypta puerpera

同属ヨロイガイ Periglypta chemnitzi

同属アラヌノメガイ Periglypta reticulata

同属オオヌノメ Periglypta clathrata

の孰れかに比定したい。但し、このうち、ヌノメガイの分布は奄美大島以南であるから、ちょっと考える(薩摩藩の関係者から入手した可能性はあるにはあるだろうが)。ヨロイガイは本州中部以南、他の二種は孰れも本州南部以南で特に問題はない。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 馬刀・ミゾ貝 / 不詳

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。一部をマスキングした。なお、この見開きの丁は、右下に、『和田氏藏ノ數品』(すひん)、『九月廿一日、眞写』す、という記載がある。和田氏は不詳だが、前の二丁と同じく、その和田某のコレクションを写生したことが判り、これはそれらと同じく、天保五年、グレゴリオ暦一八三四年五月十一日と考えよい。]

 

Mizogai_20220329124001

 

馬刀【一種、「みぞ貝」。】  二種

 

[やぶちゃん注:不詳。「馬刀」「ミゾ貝」ともに現行の近い和名種は本図の孰れにも適合しない。既に梅園は「馬刀」「ミゾ貝」ともに異名の一つとして「蛤蚌類 馬刀(バタウ)・ミゾ貝・カラス貝・ドフ(ドブ)貝 / カラスガイ」を描いているが、これ、比較するまでもなく、形が全然異なり、カラスガイとは全くの別種である。どうも、江戸時代の「馬刀貝」や「溝貝」は、多様な種に対してこの和名が与えられている。それは、私の「大和本草附錄巻之二 介類 馬刀(みそがい) (×オオミゾガイ→×ミゾガイ→○マテガイ)」の益軒の、もう、グチャグチャとしか言いようのないのを見てもよく判る。また、寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部」でも、「馬刀」はその附図と叙述から見て、淡水産のカラスガイGristaria plicata 及び琵琶湖固有種メンカラスガイCristaria plicata clessini に比定されているとしか私には思えなかった。図を監察するに、

1 前背縁と後背縁が二個体ともに外に向かって有意に膨らみを持っている

こと、また、図が暗いのだが、拡大して見ると、

2・1 孰れも殻頂から腹縁に向かって溝のような限定された箇所に集中して刻み込んだ(圧縮された)放射肋がある

ことが判明する。さらに、

2・2 その詰った放射肋はあたかも「溝」のように見える

のである。私の乏しい知識では、この形状・色・奇体な溝様の込み入ったそれらを総てを具えた種が思いつかないのである。識者の御教授を乞う。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(しらが太夫の卵……)

 

 

 

しらが太夫の卵

かみきりむしのするやうに

ぽつくりゆびをかみきつた

 

大きな蟲の しらしらとひか れるものはびつくりした蟲けらの

大きな蟲の眼玉がとび出した

すばらしいすばらしい

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。編者注があり、『前の「(頭痛の原因をしらべるために)」と同一原稿用紙の上方に書かれている。本文の冒頭やや離れて「ゑのぐ」と記され、また五行目「大きな眼玉」の上方に「太陽」と記して抹消されている。本稿は未發表詩篇「草の神經」と關係があるか。』とある。「(頭痛の原因をしらべるために)」は、『萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 斷片 (無題)(ひとりぼんやり) / 筑摩版全集の「未發表詩篇」にある(無題)(頭痛の原因をしらべるために)の別稿断片と推定』の私の注で電子化してあるので参照されたい。また、「草の神經」の方は、『萩原朔太郎詩集 Ⅴ 遺稿詩集」(小学館版)「第三(『月に吠える』時代)」 草の神經』の私の注で筑摩版全集のそれを電子化してあるので、よろしくどうぞ。

 なお、「しらが太夫の卵」の「しらが太夫」についても、そこで私が注を附してあるので、見られたいが、これは、大型の蛾として知られる鱗翅目ヤママユガ科ヤママユガ亜科Saturnia 属クスサン Saturnia japonica の蛹(繭)のことで、「透かし俵」の異名を持つ。但し、私は昆虫は苦手なので、この朔太郎の言う「かみきりむしのするやうに」「ぽつくりゆびをかみきつた」というのは、どういうシーンを指すのか、意味がちょっと判然としない。所謂、繭を食い破って、羽化することを指すものか?]

萩原朔太郎 未発表詩篇 馬の眼の印象

 

 氣ちがひ 狂人馬の眼の印象

 

三角形の絕頂に

あるみにうむの鞍をき

さくらのうへに雪がふり

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 筍

 

 

 

おれは籔の中をさがしあるいた

ぴんと光つた靑竹

そこでもこゝでも

ぴんぴん光つた靑竹(ヤブ)の中を

おれはぐんぐんつきやぶつてすゝんだ

そつと立とまると

いちめんに笹の隙間から

天がまつさをに光つて見えた

ふはふはする土壤のにほひ

堀つくり返すと

地面の下がもつくして

わたのやうにふくらんで居た

おれは憔悴しきつて

むらさきいろの顏をしながら

光る筍のあたまを堀つて居た(みつめて居た)

すばらしく遠い★非常に遠い//遠い遠い★地底どん底から

糸のやうな光線がさして居るのを感じながら

そのとき筍がまたひとつ

そのときさびしい竹藪の中で

生長した筍が

すつぽりと帽子をかぶつて立つて居た

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。「★」「//」は私が附したもので「非常に遠い」と「遠い遠い」が並置残存していることを示す。編者注があり、『本稿前半の下部に、次の七行が書かれている。』として、

   *

ひとり樹下に立ち

あほげばしげる枝→木梢の葉うらから

天がまつさをに光つて居

木の根のひろごり

犬のやうに

地面の下がもつくりして

わたのやうにふくらんで居た

   *

とある。本篇は私が呼ぶところの、所謂、――「竹」詩想――詩篇の一つであり、親和性の強いものは複数あって、私が既に電子化したものでも、さわにある。部分の特定フレーズを変えて私のブログ内に検索をかけると、とてものことに多いので(恐らくは十数篇にはなる)、ここではリンクは張らない。悪しからず。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(山の森の中に住んで居ると……)

 

 

 

山の森の中に住んで居ると

くさつた食物がきらひになる

うまい羊の肉がたべたいね

まつ白い手袋をはめこんで

いちばん上等のお孃夫人さんたちと

まい朝每朝なかよしで散步がしたいてゐたい

さくらがいやなもしかして日蔭のすつかり雪がとけだしたら

ほんとにわたしをたづねておくれよ

みるくのさらだ皿にうぐひすなのさらだをつけますよ

包丁なんかぴかぴかさせて

てーぶるのすみからみがきたてるんだ

ああどんなにおれがやつれたか→やつれはてたか→かわいそうな奴だか〉やつれはてたかゝしまつたか

どんなにおれがかわいそうな小供だかになつたか

そしてどんなにおれはまいにち二階の窓によりかゝつて

遠い森のはづれをながめてゐる

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。

 ここで編者は他でやっていない許されない掟破りの改変を行っている。編者注に、『上欄本文の題名は別稿によった』とあるのである。則ち、本文に採用したものは御覧の通りの無題であるにも拘わらず、後に示す――草稿(別稿)であるところの標題「森の中から」を、ここの校訂本文に、無理矢理、配している――のである。

 その理由は、恐らくは、注の続きの部分が匂わせている、則ち、『また以上「一の眞理」』と、『「(ほんとにさびしいこのへんの森の中では)」』及び後に私が示す別稿の『「森の中から」の三篇は、同一の原稿用紙に書かれている。』からだと思うのである(リンクは私のを直接張った)。則ち、上に掲げた詩篇に比して、削除が異様に多く、整序性から見て(語やフレーズの決定度が著しく低い)、順序としては、上記の決定稿の、前の草稿(別稿)の一つと考えられ、標題だけを剽窃して(言葉が悪ければ「借りてきて」)題名だけを合成し、三篇が同時期に――きれいに――同一原稿に――後ろの二篇が無題詩というのは見た目のバランスが悪いとでも思ったか――というような仮想理想デッチアゲ詩稿の並びとして校訂本文で示したかった、或いは、そのような同時期に一気に書かれた親和性の強い三篇であることを――何としても――読者に――並びで――特異的に示したかったのだ、と推定出来るからである。しかし、それは編者の大きなお世話ということになる。この注がなければ、或いは、読むのが面倒な読者が校訂本文だけを読んだなら(未発表詩篇では、削除が多いから、そういう読者は多いと推定出来るのである)、このあり得ない「イジり」をしたことさえ、気づかないだろう。それは詐欺である。

 しかも、同全集の「未發表詩篇」では、今までこんな暴挙を一度もしてはいないのである。ここまでの本編集者は、草稿で別に題名を持つものがあっても、編者が校訂本文用に採用した最も整序された詩篇が無題であれば、無題のままにしてあり、注で――別な草稿に「何々」というがある――という旨の記載をするのが通例だったのである。研究者などにとっては何かと無題というのは困るだろうから、大歓迎なのかも知れないが、これは、明らかにここまでの徹底的に消毒殺菌する恐るべき筑摩版全集絶対凡例の掟から著しく外れる恣意的な驚天動地の禁じ手のおぞましい仕儀なのである。

 さて、その別稿を示そう。『草稿詩篇「未發表詩篇」』に、『森の中から』『(本篇原稿二種二枚)』として以下の一篇のみがチョイスされて載る(こんな人為改変を加えたのだから、もう一篇も示して欲しかったゼ)。同じく表記は総てママである。

   *

 

  孤獨

  森の中から

 

森の中に住んで居ると

くさつた食物がきらいになるよ

うまい羊の肉がくひたべたいね

まつ白い手袋をはめこんで

いちばんすきなものをくれるならひとならたちとなら

いつでも握手每朝仲よく散步がしてゐたい

山のさくらがさいたら んぼがあかくなつたら

きつとほんとにわたしをたづねておくれよ、

かききのこのさらだにうぐひすなの芹をつけますよ、[やぶちゃん注:「うぐひすな」の後の「の」は「と」の誤記であろう。]

包刀なんかぴかぴかさせて[やぶちゃん注:冒頭は「庖丁」の誤字。]

森の家の窓から 二階のてーぶるのすみからみがきたてる んだ

ああどんなに朝がまちどうだか

どんなに遊ギにうゑて居るか

しかし やつとおれの 心臓が 遠見鐘に[やぶちゃん注:「遠見鐘」は「遠眼鏡」の誤字であろう。五行後の「遠眼銀」も同じであろう。]

可愛いお前のさいさい顔がうつるとき

おれはきつとあそこの 物おきで 二階で

おれはまいにち二階にのぼつて

窓から ほん 遠ひしよんぼりと森のはづれをながめてゐる

おれの遠眼銀もしかしてお前のくるころに

おれは淚でいつぱいになつてゐるよ

床にうへに ごらんこのごろ

きつと神さま

   *

性懲りもなく、気がとがめたのか、編者注がまたしてもダブり、『本稿は未發表詩篇「一の價理」「(ほんとにさびしいこのへんの森の中では)」と同一用紙に書かれている』とやらかしてある。ゴ、ク、ロ、ウ、サ、マ、サ、マ、ダ、ゼ、――]

2022/03/28

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 櫻野 / イソシジミ?

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。一部をマスキングした。なお、この見開きの丁は、右下に、『和田氏藏ノ數品』(すひん)、『九月廿一日、眞写』す、という記載がある。和田氏は不詳だが、前の二丁と同じく、その和田某のコレクションを写生したことが判り、これはそれらと同じく、天保五年、グレゴリオ暦一八三四年五月十一日と考えよい。]

 

Sakurano

 

櫻野

 

[やぶちゃん注:キャプションは名前のみで、この名も現代に生きていない。そもそもが何故「桜野」なのかもこの図を見ていても判らない。吉良図鑑の図版をぼーっと眺めているうち、それらしく見えたのは、

斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目シオサザナミガイ/リュウキュウマスオガイ科ムラサキガイ亜科 Nuttallia 属イソシジミNuttallia japonica

であった。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(ほんとにさびしいこのへんの森の中では……)

 

 

 

このほんとにさびしいこのへんの森の 近所中では

だれだつてわたしをしらないんだよ

わたしの心臟のくさりかゝつたことなんか

わたし ああだれがああほんとひとりだつてしつてるもんか

どんなそのうへにわたしがやさしくしたつ〉の大すきな食べ物 なんかだつて

もうすつかりくさつてしまつたんからだからね、

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 一の眞理

 

 訪問者

 一の眞理

 

わたしをおまへがたをしらない

みんな野原へ出てゆけ

ばけもの   らめ

家畜のばけものめ

けれどもわたしの良心が

そつとおまへだけをよびかへした

おまへはほんとに正直である、ものだ、

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。一行目を校訂本文は『わたしはおまへがたをしらない』としてある。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(窓をひらけばいつぱいのさくらだ……)

 

 

 

わが窓の扉窓をひらけばいつぱいのさくら

あかい日光の

顏のうへにおしかゝるさくらのはなだ

あかるくしてちらちらしてまぶしい

けれどもやたらにうれしい

お茶をもつてお居できてくださいお母さん

朝つぱらからお客だよですよ

いひなづけの若い御婦人ですよ御婦人ですよ

さあ窓のそばにおかけなさいお姬さまくださいな

おつれのお方もどうぞこちらヘ

さてゆつくりとあつたかいお茶をさしてお菓子をたベて

森の話をきかせてくださいよ→ちようだいな→くれ給へおくれな

そうして愉快にやりませうね

ちよい あれ お待ち→おきゝ おらんなない

わたしが口笛をふいてきかせまうね

のかけ てりつこをするけしきです がね

家の子供たちが

ふうせん

そしてありがたう

ありがたう、このごろは元氣でね

すてきな繪をかいてあそんで居るんです

もつともこいつはすこし

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。五行目の抹消部「お居で」は「お出で」の誤記、後ろから九行目の抹消部「おらんなない」はよく判らない。編者は安易に『ごらんなさい』の誤記とするが、それが妥当かどうかは私は留保する。編者注が最後にあり、『本稿には以下がない』とある。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 步行して居る人の印象

 

 步行して居る人の印象

 

あそこそこへゆく人をごらん、

すばらしい、

光る、

しるくはつとをかぶつて、

すてきにほそながい人間だが、

だが、

やい、

氣をつけろ、

その腰から下は血だらけだそ、

へんにまつかのやつらが、

べとべとくつついて居らあ。

         ――一九一五、四――

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。太字は底本では傍点「﹅」。表記は総てママである。九行目末「血だらけだそ、」の「そ」は「ぞ」の誤記であろう。萩原朔太郎、当時、満二十八歳。前橋にて書かれたものと推測される。

 なお、『草稿詩篇「未發表詩篇」』に、『步行して居る人の印象』『(本篇原稿三種三枚)』として以下の二篇(一篇は無題、二篇目は「夢遊行者の印象」或いは「步行して居る人の印象」の並置残存標題)が載る。同じく表記は総てママである。

   *

 

  

 

あそこへ行く人をごらん

すばらしい

すば光る圓筒帽をかぶつてさ

すてきにやせた奴だが細長い人間だが

馬鹿々々やい貴樣氣を付けろ、

腰から下 の方は血だらけだぞ

まつかなやつ でべとべとして居る

 

 

  市中遊行

  夢遊行者の印象

  步行して居る人の印象

 

あそこへ行く人をごらん。

すばらしい。

光る圓筒帽子をかぶつてさ。

すてきに細長い人間だが。

だが

やい。

氣をつけろ。

その腰から下の方は血だらけだぞ。

へんにまつかのやつらが

べとべとくつついて居ら あ。

けむつたい

 

   *]

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(あたらしい旅がはじまつた……)

 

 

 

あたらしい旅がはじまつた

わたしは草木のしげみをくゞて

すゞしい流の岸をたにそうて步いた

わた

とりとめもない靑空あほげは高き靑空に

大建築の家根がひるかつた

信心ぶかい巡禮のともだちと鈴をき いた ゝながら

いちやうにゆくゆく鈴をならしながら

あれをみよやみしと

あれ小鳥の

行く人 友は

みよ人々は神をのゆびさしてすところに

わたしはかへらざるものの姿をみた

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。二行目の「くゞて」は「くゞつて」の脱字、六行目の「ひるかつた」が「ひるがへつた」の誤記であろう。以上の二ヶ所を訂正し、削除を消去したものを以下に示す。なお、編者注があり、『以上「(をとめの色は白かつた)」』・『「(わたしはよだれをたらして)」』及びこの『「(あたらしい旅がはじまつた)」の三篇は、同一の原稿川紙に書かれている。』とあり、また、『本稿は未發表詩篇「(わたしどもの風俗は)」と關係がある。』ともある。面倒なので、引用文の中に私のリンクを張っておいた。

  *

 

 

 

あたらしい旅がはじまつた

わたしは草木のしげみをくゞつて

すゞしい流にそうて步いた

あほげは高き靑空に

大建築の家根がひるがへつた

信心ぶかい巡禮のともだちと

ゆくゆく鈴をならしながら

あれをやみしと

みよ人々のゆびさすところに

わたしはかへらざるものの姿をみた

 

  *]

多滿寸太禮卷㐧一 仁王冠者の叓 / 多滿寸太禮卷㐧一~了

 

   仁王冠者(にわうくわじや)の叓《こと》

 

Nipokajya

[やぶちゃん注:一九九四年国書刊行会刊木越治校訂「浮世草子怪談集」よりトリミングした。]

 

  去(さん)ぬる永和(よう《わ》)年中(ねんぢう)に、美濃の國中山(なかやま)と云ふ所の山のおくに、いつのほどともなく、年のほど三十年(みそ《ぢ》)あまりなる男の、いとやむ事なきが、とある山の片陰に柴の庵(いほり)を結び、朝な夕なの煙(けふり)もたえだえに、

「いかなる世のいとなみをかなしみて、かくはすめるよ。」

と、稀れにあへる木こりも不審なる事に思へり。

[やぶちゃん注:「永和(よう《わ》)」の「よう」はママ。普通は「えいわ」である。南北朝時代に北朝方で使用されたもので、一三七五年から一三七九年まで。室町幕府将軍は足利義満。義満が働きかけ、「明徳の和約」で南北朝が合一するのは元中九/明徳三年十月二十七日(ユリウス暦一三九二年十一月十二日)のことである。

「中山」中山七里(なかやましちり)。岐阜県にある飛騨川中流の渓谷。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 此男の有樣をみるに、長(たけ)高く、すこやかにして、色、きはめて白く、眼(まなこ)さかしまにきれ、綠のはやしに草鹿(くさじゝ)書きたる水色の小袖の垢付きたるに、白浪に帆かけ舟付《つけ》たる素袍(すはう)の破れたるを、玉だすき、あげ、かちんのつるはきして、小ぶし卷きの弓の、にぎりぶとなるに、色々の羽(は)にて、はきたる矢、負ひ、輪寶鍔(りんほうつば)の大刀(おほかたな)に、九寸五分(くすんごぶ)のさしそへして、峯によぢ、谷に下(くだ)り、麓の里へは出《いで》たる事もなく、山里の習ひ、幼(いとけな)き童(わらは)、貧なる女共の、こり木する重荷をたすけ、炭燒翁(おきな)の老苦をいたはる。かくするほどに、後(のち)には、をのづから、人も見馴れて、

「いかなる人。」

と問へど、さだかに、こたへず。

[やぶちゃん注:「草鹿」「夏草に立つという鹿が頭をもたげた姿」に作った歩射(ぶしゃ)の訓練に用いる的の大きな鹿のフィギア。材料は檜板を革で包んで、その間に綿を詰め込み、表面は矢当ての星(円)一つと、ほかに二十三個の小円を白く残して栗色に塗ったもので、木を「冂」字形に組んだものを地面に刺し、その中央に縄で固定した。「精選版 日本国語大辞典」の図を参照されたい。グーグル画像検索「草鹿」も見られたい。

「九寸五分」尺貫法で約二十八・五センチメートルを言うが、江戸以前はその九寸五分の短刀を特に指す。戦場で敵を刺したり、切腹の際にも用いられた。「鎧通し」とも呼ぶ。

「こり木」「樵(こ)り木」。]

  或る日、おなじ國、北山邊(きたやまべ)に、尊(たうと)き律僧のありける。金胎兩部(こんたいりやうぶ)の檀の上には、四曼相卽(しまんさうそく)の花を翫(もてあそ)び、瑜伽三密(ゆがさんみつ)の道場には、六大無碍の月をみがき、久修練行(くしゆれんぎやう)、としをかさね、觀念の加持、日(ひ)を積れり。

[やぶちゃん注:「北山邊」不詳。

「金胎兩部」両部曼荼羅のこと。「金剛界曼荼羅」と「胎蔵界曼荼羅」の併称。真言密教の根本的な曼荼羅で、金剛界と胎蔵界の関係は不二平等とされ、金剛界が「果」を、胎蔵界が「因」を表わす。「金剛界曼荼羅」は現実の世界・人の持つ知恵・修行の階程をシンボライズして図示してあり、「金剛頂経」の所説に基づく。「胎蔵界曼荼羅」の方は、実在の世界(宇宙)・普遍的理性・仏の内容を同様に図示し、こちらは「大日経」の所説に基づいている。この二者を一つにまとめたのは本邦の真言宗の教学の力に拠る。

「四曼相卽」上記とは別の曼陀羅の種類に「四種(ししゅ)曼荼羅」があり、「大曼荼羅」(姿形を具えている身体で表わす尊形(そんぎょう)曼荼羅)・「三昧耶曼荼羅(さんまやまんだら)」(印相など象徴物で表わす曼荼羅)・「法曼荼羅」(種子(梵字)で表わす曼荼羅)・「羯磨曼荼羅(かつままんだら)」(字・印・形の三種の身体に具わる活動や働きを表わす曼荼羅)があり、この四種曼荼羅は六大(「あ・び・ら・うん・けん」は五大(あ(地)・び(水)・ら(火)・うん(風)・けん(空))を表わすが、その真言に「識大」=「識」を表わす「うん」が加えられることにより、大日如来の体が六大で構成されていること示す)で成り立つ宇宙を相(=姿)で表わす。宇宙の現われを知ることができるのが四種曼荼羅となり、その観念世界の様態を「四曼相大(しまんそうだい)」と言うのが一般的である。「卽」はそれによる「即身成仏」の謂いか。

「瑜伽三密」行者の「身」・「口」・「意」の三密が、仏・菩薩の三密と相応し、融合することを言う。

「六大無碍」大日如来としての先に示したの六大が、凡夫の六大と相互に融合し、また、六大の一つ一つが互いに融合していることを言う。

「久修練行」長い年月、修行を怠らず、行(ぎょう)に熟練すること。

「觀念の加持」ここは真言行者が、心静かに智慧によって一切を観察し、思念して、手に印を結び、口に真言を唱え、心を仏の境地に置くことで、仏と一体になることを指す。「三密加持」とも言う。]

 去比(さんぬるころ)、京白河にて、兩部の大法(だいほう)を傳へ、諸尊の床(ゆか)を學び、金剛薩陲(こんがうさつた)の位(くらゐ)に住(ぢう)せり。

[やぶちゃん注:「金剛薩埵」は、中期密教では、大日如来の教えを受けた菩薩。真言密教においては第二祖とされ、後期密教では、法身普賢(普賢王如来)・持金剛と並んで、本初仏(原初仏)へと昇格している。金剛(ダイヤモンド)のように堅固な菩提心を持つと称され、真言密教の付法の八祖の第二祖に当たる仏を指すが、ここはその生き仏として称を得たということである。]

 その法恩のため、上京しけるが、山ごへに此所を通りかゝり、秋の日のならひ、程なく暮れかゝり、日、西山(せいざん)にかたぶき、遠近(おちこち)の、たづきもしらぬ山中に、往來(ゆきゝ)もまれに、猿、樹上に叫むで、閨(ねや)をいそぎ、鳥の聲、かまびすし。

 はからずも、彼(か)の男に行きあひぬ。

 僧は、

『いかなる山賊・强盜(ごうだう)やらむ。』

と、猶豫(ゆうよ)して、道の傍らにうづくまり居(ゐ)けるに、此男、

「やゝ。御房はいづかたへ御通り候ぞ。日もかたぶき、かゝる山中、殊に夜(よ)に入ぬれば、豺狼(さいらう)の恐れも侍る。里、遠し。いかゞし給ふらん、いたはしき次第、我れ、夜獵(よれう)のため、假(かり)に結べる庵(いほ)あり。一夜(いちや)をあかし、何(いづ)くへも通り給へ。」

と申せば、僧は、

『かゝる怖しき者の、やさしきこゝろざしや。』

と、とかく伴ひ、遙かの峯をこへ、一木(ひとき)しげれる陰の、淺ましき庵(いほり)に入《いり》けるに、柴、折りくべしいろのもとに、わらを、つかねしよるのものならでは、調度も、なし。枕の上(うえ)と覺しき所に、不動の繪像を掛け、すべて食(しよく)すべき物も、なし。

[やぶちゃん注:「猶豫し」躊躇し。

「豺狼」山犬(野犬)やオオカミ。

「折りくべしいろのもとに」意味不明。「いろ」は「いろり」(圍爐裏)の脱字か。]

『いかにとしてか、年月(としつき)を送りけむ。世には、かくしても、過《すぐ》るものかは。」

と思ひつゞけしに、男、申けるやうは、

「山路(やまぢ)の宿り。いかゞしてかは、物をも、まいらせん。」

と、やうやう、芋といふものを燒き、僧にもまいらせ、我が身もうち食《くひ》てげり。

 僧は有《あり》し次第を見、

「抑(そもそも)、貴邊(きへん)は、いかなる御事にか、かゝる人倫まれなる所に、かく、ひとり居(ゐ)のすまひ。かたがた、ふしぎに侍る。願(ねがはく)は、その故を、つゝまず、語りたまへ。」

と、あれば、男、答へて、

「申《まうす》につけて、便(びん)なふ候へど、且つは、さんげの爲(ため)、又は、再會も、期(ご)しがたし。夜すがら、語り申さむ。

 もとは、いせの國の者にて侍る。十八のとし、親なる者をうたせ、その敵(かたき)を打《うち》けるに、敵の一族、ひろき者にて、所の住居(すまゐ)もなりがたく、伊賀の山中(やまなか)にさまよひ侍りしに、うき世のならひ、とかく、ながらゆべきよすがもなく、をのづから、夜打(ようち)・强盜の身と成《なり》、世には「仁王冠者(にわうくわじや)」と云ひけり。

 あまたの者を從へ、冨貴(ふうき)・尊家(そんか)をうかゞひ、あけくれ、切取(きりどり)・追剥(おひはぎ)を業(わざ)とし、或とき、黨をくみ、三十人斗り、同心し、人家を取りまはし、打入《うちいる》事侍りしに、家主(いゑぬし)、心、早き者にて、散々(さんざん)に切《いり》て追ひ出(いだ)す。人々、あまた討(うつ)とられ、あるひは、疵をかうむり、引《ひき》けるほどに、我が從弟(いとこ)にて有しもの、引き後(をく)れて、行方(ゆくかた)を、しらず。

『扨《さて》は、打ち留められぬるにや。』

と思ひしかど、

『おこの者なれば、そこつには討たれじ。』[やぶちゃん注:「おこの者」「烏滸の者」。正しい歴史的仮名遣は「をこのもの」。ここは、人を笑わせることの特異な、身軽でなかなかの剽軽者にして手強い者の意であろう。]

と思ひ、人靜まりて後(のち)、又、我一人、跡に歸り、かくれて有ぬべき所々、小聲に呼びて尋ねけるに、大なる柚(ゆ)の木の茂りたる梢にのぼりてゐたりけるが、

「爰《ここ》に有《あり》。」

と、こたふ。

「何としたる。早く下(お)りよ」

といへ共、いばらにかゝりて。下り得ず。

 時、移りける程に、夜(よ)、已に明けなんとす。

『いかゞはせん。』

と思ひて、大音(だいおん)あげて、

「ぬす人、一人、此の柚(ゆ)の木にのぼりて、あり。とりまはし、打ち殺せよや。」

と、呼びたりければ、彼(か)の男、

『難義(なんぎ)。』

と思ひけるにや、思ひ切《きり》て、飛び下(お)り、我(われ)とつれて逃げたり。

 彼(か)の身(み)を、たばひ[やぶちゃん注:「庇(かば)ふ」に同じ。]、命を失ふべかりつるを、身を捨て、下(おろ)さむと、我、わざと謀(はかりごと)に、助けたり。

  是れを以つて、萬事(ばんじ)をつくづく思ふに、只(たゞ)、心一つの仕(し)わざなるにや。

 それより已後(いご)、一向(いつかう)に世をすて、山林幽谷を栖かとして、暮山(ぼさん)に薪(たきゞ)をひろひ、一靈(いちれい)の性(しやう)をみて、萬緣(まんゑん)の執心を斷(だん)じ、居(きよ)、やすからざれども、彼(か)の淨妙居士(じやうめうこじ)の丈室(ぢやうしつ)を觀(くわん)じ、食(しよく)、乏しけれども、顏囘が道(みち)とたのしむで、山河大地(さんがだいち)を踏蹁(とうへん)し、一乾坤(いちけんこん)の外に逍遙し、形(かたち)は塵俗に同じけれども、無爲をたのしみ、心は仁聖(じんせい)につうじて、一心法界(いつしんほうかい)の源(みなもと)を悟り、多念無相の理(ことはり)を觀ず。

[やぶちゃん注:「淨妙居士」古代インドの商人で釈迦の在家の弟子となった維摩居士(生没年未詳)のことか。彼の名の漢訳に「淨名(じやうみやう)」がある。なお、「居士」とは「在家の弟子」のことを指す。当該ウィキによれば、『毘舎離城(ヴァイシャーリー)の富豪で、釈迦の在家弟子となったという。もと前世は妙喜国に在していたが』、『化生』(けしょう)『して、その身を在俗に委』ね、『大乗仏教の奥義に達したと伝えられ釈迦の教化を輔(たす)けた。無生忍という境地を得た法身の大居士といわれる』。『なお、彼の名前は』「維摩経」を『中心に』、「大般涅槃経」などでも『「威徳無垢称王」などとして挙げられている。したがって』、『北伝の大乗経典を中心として見られるもので、南伝パーリ語文献には見当たらない。これらのことから』、『彼は架空の人物とも考えられるが、実在説もある』。『彼が病気になった際には、釈迦が誰かに見舞いに行くよう勧めたが、舎利弗や目連、大迦葉などの阿羅漢の声聞衆は彼にやり込められた事があるので、誰も行こうとしない。また』、『弥勒などの大乗の菩薩たちも同じような経験があって』、『誰も見舞いに行かなかった。そこで釈迦の弟子である文殊菩薩が代表して、彼の方丈の居室に訪れた』。『そのときの問答は有名である。たとえば、文殊が「どうしたら仏道を成ずることができるか」と問うと、維摩は「非道(貪・瞋・痴から発する仏道に背くこと)を行ぜよ」と答えた。彼の真意は「非道を行じながら、それに捉われなければ』、『仏道に通達できる」ということを意味している』。『大乗経典、特に』「維摩経」では、『このような論法が随所に説かれており、後々の禅家などで多く引用された。一休宗純などは』、『その典型的な例であると考えられる』とある。彼っぽい。

「踏蹁」足下が危なっかしい感じで歩き回ることか。]

  又、此山に年月(ねんげつ)を送る。されば、いづくともなく、女、一人、夜每にかよひ、獨臥(どくぐわ)を、なぐさめ、美食(びしよく)を、はこぶ。いつぞの比より、馴れそめ、夫婦のかたらひ。淺からざりしに、恩愛の衾(ふすま)の下(した)に、一人の男子(なんし)を、まふく。彼(かれ)になぐさみ、生(しやう)を送る。御僧の御宿(おやど)も、多生(たしやう)の緣に侍れば、又、此の緣にひかれて、後生こそ、たのもしけれ。世も靜かならねば、道(みち)のほども、心元(こころもと)なし。小童(こわらは)を路次(ろし)の守(まも)りに付け奉らん。」

と、いとたのもしく語りける。

 此の僧、奇異の思ひをなし、

「扨、御妻女・御息(ごそく)は。」

と、問へば、

「待ち給へ。暫く過ぎて、來りなむ。」

とて、とかくする程に、『亥の尅(こく)[やぶちゃん注:午後十時前後。]斗りにもや』と覺ゆる時、嵐(あらし)、一通り、はげしく落ちて、ものすさまじく、十四、五斗《ばかり》の童の、髮を、からわにつかね、淸らかに見へながら、目の内、すゝどきに[やぶちゃん注:鋭くして。]、小弓(こゆみ)に、小矢(こや)、うちおひ、松明(たいまつ)とぼし來(く)る跡に、年の比、廿(はたち)斗りに見えて、容顏美麗の女性(によしやう)、くみたる籠(かご)を左の手にかけ、靜かに内に入、此の僧を見て、おどろきたる事もなく、

「いとゞさへ、旅のうきに、かゝるいぶせき庵(いほり)にやどらせ給ふ事の、いたはしさよ。いまだ、夜もふかく侍らめ。」

と、

「齋(とき)を供養し侍らん。」

と、持ちたる籠の内より、さまざま、目なれぬものを、あまた出し、小童(《こ》わらは)に、かよひせさせ[やぶちゃん注:運ばさせて。]、僧にもあたへ、おのこにも、くはせ侍るに、世に有難き珍味にぞ有ける。

 かくして、小筒(さゝへ)の内より、酒を取り出《いだ》し、すゝめけれど、僧は禁酒にて、のまず。

 僧のいはく、

「かくはなれたる住居、いかに、夜每に、かよひ給ふらん。」

「其事にさぶらふ。わが身は此峯のあなたに住むものにて侍る。さる子細ありて、人めをつゝむ身なれば、かく、夜ごとに、かよひ侍る。かなしさ、思ひやらせ給へ。」

とて、

 世を外(ほか)に住(すみ)やならへる山祇(《やま》ずみ)の木守(こもり)と人の名にや立《たつ》らん

あるじのおとこ、とりあへず、

 をのづから馴(なれ)てきぬれば木のもとに世を捨(すつ)る身の名をもいとし

 かくて、東雲(しのゝめ)、漸々(やうやう)明けなむとす。

「歸京の折ふしは、尋ねとはせ給へ。」

と、出《いで》し立《たち》て、小童を道の案内者(あないしや)とし、弓矢かき負ひて、かひがひ敷(しく)伴ひつれ、步(あゆみ)をすゝむる驛路(ゑきろ)の駒(こま)の、沓掛(くつかけ)の里を打過《うちすぎ》て、愛智(ゑち)の河原(かわら)に出けるに、昨日(きのふ)の雨に水まして、白浪、岸を洗ひ、逆水(さかみづ)、堤に余れり。橋、落ち、舟、なふして、のぼり下りの旅人(りよじん)、道、絕(たへ)て、南北の岸に、むらがれり。

[やぶちゃん注:「沓掛」現在の豊明市沓掛町(くつかけちょう)附近。

「愛智の河原」不詳。]

 此僧、川端に大きなる石の有けるに、座をくみて南方(なんぱう)に向つて、祕印を結び、眞言を誦し、三密平等觀に住(ぢう)し給ひければ、此の石、忽ちに、うきて、河を南へわたる。毛宝(もうほう)が龜に乘り、張騫(ちやうけん)が浮木(うきき)にあへるごとくにて、向(むかい)の岸へぞ着き給ふ。

[やぶちゃん注:「毛宝が龜に乘り」日蓮宗のサイトのこちらによれば、『晋の毛宝』(?~三三九年:東晋の軍人)『が年十二の時、江口』(こうこう:大きな川のほとり)『で遊んでいた。すると漁師が一匹の白亀を釣りあげるのを見た。毛宝はかわいそうに思い、なにがしかの銭を払って亀の身がらを引き取り、川の中に放ってやった』。『二十余年後、毛宝は邾(ちゅう)城を守備していた。そこに石虎将軍が沢山の兵をつれて攻め寄せて来たので交戦となったが、城を守れず敗れてしまった。身を川に投げて自殺をはかったが、脚は石を踏んだようだった。それは亀の背であり、亀は毛宝を岸に渡してくれたので死なずにすんだ。首をめぐらして見ると、それは昔、自分が放してやった白亀であった。亀の体長は四尺余になっていて、向きを変えて中流までいくと首をひねって毛宝を見ていた』とあり、『これは』「琅邪代酔(ろうやだいすい)」『に説かれているものである』とある。

「張騫が浮木にあへる」サイト「note」のYuDaiichiro氏の『大語園 別解の部 #005 「天の川上」』に(読みは一部を除去させてもらった)、『漢の武帝の臣下に、張騫といふがあつた。或時武帝から、天の川の川上を探《たづ》ねて参れといふ勅令を受けたので、早速浮木に乗つて天へ昇り、一筋の川を見つけて、だんだん上流へと志し、毎日々々足に委《まか》せて進む程に、或日其川の縁《ふち》で、見知らぬ一人の女が、頻りに機《はた》を織つて居る。猶よく見ると一人の老翁が、牛を牽いて立つて居る。其所で張騫は、試みに此の土地の名を訊ねると、二人は声を揃へて、こゝは天の川原だと教えて呉れた』。『張騫は、これに力を得て、二人の名をも訊ねてみたら、女は織女、翁は牽牛だと答へた。張騫は、私は漢の武帝の勅命を受けて、天の川の水上を探ねに来たが、これからどう行つたらよいかと質問を出したら、二人は笑ひながら、こゝが天の川上である。もう他へ行く必要はないと教へて呉れたので、張騫は其まゝ又浮木に乗つて帰つて来た』。『さて都に着いて、武帝に拝謁して、探検の模様を、有りのまゝに復命したところが、武帝は一向信用しなかつた。併し張騫がまだ帰つて来ない先に、武帝の所へ天文博士《てんもんはかせ》が来て、七月七日の晩に、天の川の辺に、ついぞ見慣れぬ星が一つ現れたと報告した。武帝は不図』、『天文博士の説を思ひ出して、『さては七月七日の晩の、見慣れぬ一つの星といふのは、多分張騫であつたらう』といふので、漸く此の報告を信用して、厚く賞を下されたといふ』とある。実はそこにも引用元が記されているのであるが、この話、「今昔物語集」の巻第十に「漢武帝以張騫令見天河水上語第四」(漢の武帝、張騫を以つて天河(あまのかは)の水上(みなかみ)を見せたる語(こと)第四」)として載っていることで知られるものである。「やたがらすナビ」のこちらで、新字であるが、原文が読める。]

  此の童、これを見て、

「やゝ、まち給へ。御供(おんとも)しつる身の、是より罷り歸らば、父母(ふぼ)の、恨みむ。是非、御供。」

と、云《いひ》もあへず、箙(ゑびら)より、かぶら矢、一筋、ぬき出し、弦(つる)まきなる弦をとり、片端をかぶらの目につけ、今(いま)片(かた)はしをわが脇にゆひ付《つけ》て、其矢を弓にさしはげて、向ふの岸をさして能引(よつぴい)て放ちたれば、其矢、彼(かの)童を引《ひつ》さげて、川の面(おもて)五町[やぶちゃん注:約五百四十五メートル半。]余(よ)を飛びけるに、河の中程にて勢ひや、つきけむ、落ちむとしける所を、又、其矢を取つて射(ゐ)放ちたり。則ち、川を過《すぎ》て、むかふの岸に、遙かなる大日堂の前なる畠(はたけ)の内へぞ、立《たち》にける。

「あれは、」

「いかに、」

「いかに、」

と、數(す)百人の者ども、兩方より、どよめきけるうちに、此童、いづちともなく失せにけり。

[やぶちゃん注:「弦まき」「弦卷」。掛け替えのための予備の弓弦(ゆみづる)を巻いておく籐(とう)製の輪。「弦袋」とも呼ぶ。「デジタル大辞泉」の「弦巻」に添えられてある「箙」の図を参照されたい。又実物の写真はグーグル画像検索「弦巻」をリンクさせておく。]

 かくて、阿闍利(あじやり)[やぶちゃん注:「利」はママ。]は、なくなく、京着(《きやう》ちやく)しけるに、思ひの外(ほか)なる事どもありて、心ならず、程へけるに、然るべき寺院に入寺しけるが、供の仕丁(しちやう)もなく、

『いかゞせん。』

と案じけるに、彼(かの)童の、いづくともなく罷り出でて、

「御供の仕丁の事、いとなみ侍らむ。」

とて、夜すがら、藁にて、人形をこしらへ、ひそかにおこなひしけるに、殘らず、人の形となり、きらびやかなる侍仕丁(さむらいしちやう)と成《なり》、阿闍梨の輿(こし)を仕(つかまつ)て、公用をつとめ、童、申やうは、

「猶、これまで御供し侍りて、御專途(ごせんど)にあひ參らする事、身の本望(ほんまう)なり。返す返す、父母(ちゝはゝ)の後生(ごしやう)、助けさせ給へ。いとま申(まうす)。」

とて、人形も、共(とも)に、失せぬ。

  阿闍梨、ふしぎの思ひをなし、又もや、美濃に下り、

「今一たび、尋ね見ばや。」

と思はれけれども、公請(くじやう)[やぶちゃん注:「公請」僧が朝廷から法会(ほうえ)や講義に召されること。]に、ひまなく、

「せめては、報恩を謝せばや。」

とて、三七日《みなぬか》[やぶちゃん注:二十一日。]、道場に籠りて、金剛摩尼法(こんがうまにほう)を修(しゆ)し、逆修(ぎやくしゆ)を行ひ給ひしが、遙かに過ぎて、彌生の比、只一人、忍び出《いで》、有つる所を尋ね給へど、誰(たれ)しる人もなく、終日(ひめもす)、山路(やまぢ)を分けて求め給へど、そことだに、しらず。

[やぶちゃん注:「金剛摩尼法」不詳。

「逆修」本来は生前に逆(あらかじ)め、自分自身の死後の冥福を祈って仏事を営むことを指すが、ここはそれを他者(ここでは仁王冠者とその妻と子)に拡大した謂い。]

 其夜(よ)は、麓の里にやどり、亭(あるじ)の翁(おきな)に、

「しかじか。」

と語り給へば、

「其事にさふらふ、過《すぎ》つる年の夏、里に出《いで》て、『諸用ありて、年比のしたしみ、名殘(《な》ごり)惜しけれ。』とて、行方、しらず。」

 其年月を案じみるに、うたがひもなく、都にて摩尼法を行なひ給ひし日に當れり。

「さるにても。かの女の歌がらこそ。いかさま、其邊(ほとり)に社(やしろ)やある。」

と問ひ給へば、

「其峯のあなた、岸陰(きしかげ)[やぶちゃん注:山の崖の陰の所。]の茂みに、木守(こもり)の社とて、山神(さんしん)の祠(ほこら)、侍る。」

と、いへば、

「されば社(こそ)。」

と思ひて、かの主人を案内(あない)として、尋ね上り見給ふに、うたがひもなく、小社(ほこら)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]の有ければ、過つる事もなつかしく、かの者共の行衞も聞まほしく、社(やしろ)の前にて種々(しゆじゆ)の祕法を修(しゆ)し、しばらく觀念し給へば、神木の椎のこずへに、白雲(はくうん)、一むら、おほい、三人の形(かた)ち、有つるに、引《ひき》かへ、衣冠たゞしくあらはれ、上人を禮(らい)し、

「去る比の摩尼呪(まにじゆ)の功力(くりき)によつて、忽ちに、神仙の身と成り、無量のたのしみをうけ、朝には風雲(ふううん)に乘じ、夕には仙境に遊ぶ。まことに、報じても、猶、あまり。」

とて、三拜かつがう[やぶちゃん注:「渇仰」。]して、雲(くも)と共に消失(きへうせ)けり。

 阿闍梨も、衣の袖をしぼり、かの社に並べて、ふたつの祠(ほこら)を、あらたにしつらひて、都へ歸り給ひけり。

 

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(わたしはよだれをたして……:表記はママ)

 

 

 

わたしは石垣の上に座つてゐた

わたしはよだれをたして

ぺんぺん草の葉つんだかみきつた

わたしはしんじつ貧乏がきらひやうで

わたしやひとりもの

しんじつ死んでもやでござる

わたしや

親は

んなのよな因緣づくはやでござる

石垣の下で寢でござる

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。「たして」は「たらして」の脱字であろう。削除を消去した詩篇はプチブル・サクタローそのものの実体暴露のチンケな世迷言で示す気にならない。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(おとめの色は白くつた……:表記はママ)

 

 

 

おとめの色は白くつた

そのあさわたしはそれは雪の中からうまれたように

さつぱりとした くつきりとしたおとめの肉體は

くつきりどこもかしこも〈白く〉光つてゐた

わたしは風流貴公子のたはむれから

犯かすべからざる 神聖なる ものを犯した

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。「白くつた」は「白かつた」の誤記であろう。削除を消去した詩篇はあまりに凡作で示す気にならない。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 春の夜の會話 / 無題(おれはぽんやりと橋の上に立つて居る、……)

 

 春の夜の會話

      Tとよぶ警官へこの二扁の詩を捧ぐ

 

よなかの三時ごろ、

むかうから步いてくるのは巡査だ、

こつちからやつてくるのは、

よつぱらひの詩人だ、

『こら、おまへはどこへ行く』

『女を買ひにゆきます』

『馬鹿』 

    ○ 

おれはぽんやりと橋の上に立つて居る、

橋の下には生ぬるい水がながれて居る、

あかい角燈をさげた男がやつてきた、

夜中の三時ごろだ、

空にはほんのり月がほんのりと白んで居る、

『おまへはだれだ』

『おれはにんげんだ』

『ばか、おまへの名をきくのだ』

『名ははぎはらだ』

『家はどこだ』

まへばしだ』

『ばか、町の名をきくのだ』

『K町だ』

『ふむ』

おまわりはうしろをむいた、

おれもうしろをむいた、

あいにくふたりのうしろには

春がわらつて居た。

           ――四月六日夜――

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。太字は底本では傍点「﹅」。表記は総てママである。内容と以下に示す草稿から見て、続く無題詩篇は同一のシークエンスで作られた別稿とすべきものであるので、特に二篇を並べた。クレジットがあるが、これは底本の配列からみて、大正四(一九一五)年四月六日夜であろう。とすれば、作品内時制は、その日の未明以前とするべきであろう。なお、詩集「月の吠える」の刊行は大正六年二月である。

「K町」萩原朔太郎の生家は群馬県東群馬郡北曲輪町、後に前橋市北曲輪町となり、現在は千代田町二丁目に生家跡(グーグル・マップ・データ)がある。

 『草稿詩篇「未發表詩篇」』に、『春の夜の會話』『(本篇原稿二種四枚)』として以下の二篇が載る。同じく表記は総てママである。

   *

 

  ある春の夜の會話

     ――Tといふ警官へこの二扁の詩を捧ぐ

 

よなかの三時ごろ

むこうから步いてくるのは巡査だ

こつちからやつてくるのは

よつぱらひの詩人

「こらおまへはどこへ行く」

「女を買ひに行きます」

「馬鹿」

 

 

   

 

おれはぼんやりと橋の上にたつて居る

巡査が橋の下には水がながれて居る

あかい角燈をさげた男がやつてきた

夜半の三時ごろだ

空には月がぼんやりほんのりと白んで居る

「お前はだれだ」

「おれは萩原人間だ」

お前のばか、お前の名をきくのだ」

「名は萩原だ」

「家はどこだ」

「前橋だ」

「ばか、町の名をくのだ」[やぶちゃん注:ママ。「聞」「き」の脱字。]

「K町だ」

「うむ」

おまわりはうしろをむいた

そこでおれもうしろをむいた

あいにうしろにはだれも居なかつた、春が笑つて居た。

 

   *

編者注があり、『草稿二枚目の後半には『蝶を夢む』の「野景」の草稿(題名「晝」)と、拾遺詩篇「朝」の草稿が書かれている。』とある。前者は、

『萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 野景』

を見られたい。後者は注が不全で「朝」は内詩篇の一つの標題で、「拾遺詩篇」の中の「玩具箱 ―人形及び動物のいろいろとその生活―」の「朝」と「夕」の前者である。それは、

『萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 拾遺詩篇 玩具箱 ―人形及び動物のいろいろとその生活 / 筑摩版「拾遺詩篇」所収の「玩具箱 ―人形及び動物のいろいろとその生活―」の別稿 附・幻しの三篇組詩「玩具箱」の不完全再現の試み』

で電子化しているので見られたい。

 因みに、事実は、二篇目のように思われ、決定稿の詩人のポーズをした前の詩篇より、こっちの方が遙かにいい。特にコーダが、である。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(ふくらめうぐひすのこゑごゑ……)

 

 

 

ふくらめうぐひすのこゑごゑ

いまを春べとながむれば

そまり 笹を→柴を 芹をそみてこほる魚

芝生に しばしいか でか 糸を つり人の糸をたれんや

いかでかけふも糸をたれんやわが子やうなひら

あなごの

にし ひがしの方より ひとのきて くる人あらば

よしや それとも きみならずとも

〈山里のいまを春べとながむれぱ〉

〈ほうほ〉

いといふのかげとも ほしやひとの きて とふ

みづきはばかりうすあかりして

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。編者注があり、『六行目「あなごの」は「まなごの」の誤記か』とある。前の抹消の「わが子」から「愛子」で「いとし子」という意味だ附け加えてやれよ。それじゃ、「魚ご」の読みと意味は? 「ほうほ」は何だ? 「いといふ」を「いとゆふ」と校訂本文で訂したはいいが、「いとゆふ」の解説はしなくていいのか?…………こういう注はオール・オア・ナッシングである。削除を消去して示す。

   *

 

 

 

ふくらめうぐひすのこゑごゑ

いまを春べとながむれば

ひそみてこほる魚ご

 

いかでか糸をたれんやうなひら

みづきはばかりうすあかりして

 

   *

校訂本文は「みづきは」を「みづぎは」としている。「水際」を朔太郎が濁音を嫌って「みづきは」とした可能性は大いにあるのに、である。こういうところも同全集の気に入らないところなのである。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 踊の印象

 

 踊の印象

 

まつしろの女の足

まつしろの女の足

さかさに立つた女の足

まつしろの女の足

さかさかに立つた女の足→二本の足→白い足→娘の足光る足

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。]

2022/03/27

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(太陽……)

 

 

 

太陽

太陽

太陽

畑いつぱいちめんの大陽だ

きら、きら、きら、きらする光だおてんとさまだ、

あかるい

まぶしい

やるせない 光だ 畑のうみだ

うをう をと手をのばして

ぢつとなに かをにぎつてみたら

さあ大變だ

畑いちめんの

葱のあたま

葱…………

葱…………

葱…………

葱…………

ああ光る、

さはさりながら

あまた光れる

光るさびしい野菜の光る

葱のあたま のあたり より野菜の光る

ゆうれいのやうな手をはやし

いつしんふらんにくひついて居る

野さいの靑い手足のさきに

いつしんふらんにかぢりつき

はてしもない この長い葱のあたまにくひついて

たつた一疋とまつて居た毛のやうに光つて居

光るちつぽけな

ぢふてりやのばいきん がとまつて居た、→が食ひついた、 が食ひついて居るいつしんふらんにくひついて居る

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。編者注があり、『本稿の前部餘白に』「きのこの生れるとき」と『ある』とある。また、『本篇のあとに書かれたとみられる別紙八行の淸書原稿がある。』として、

   *

太陽

太陽

太陽

畑いちめんの太陽だ

きらきらきらきらする太陽だ

ああ光る

光る畑のうねみちで

あまた光れる

   *

とある。四行目「大陽」は「太陽」の誤字でよかろうが、九行目「 うをう をと手をのばして」は、底本編者は「 うをう 」の後に「つ」を補って、前の削除された「そ」と後の「を」にそれを繋げて、「そをつと」として「そおっと」との意味としているとしか思えない。まあ、そんな感じで正しいのだろうだが、「そおっと」は「そをつと」とは表記しないことは言うまでもない。伝家の宝刀完全消毒主義の事実上の破綻は、これ、どうするつもりなのかねぇ? 「大陽」は訂して、削除部分を消去したものを示しておく。

   *

 

 

 

太陽

太陽

太陽

畑いちめんの太陽だ

きら、きら、きら、きらするおてんとさまだ、

ああ光る、

あまた光れる

さびしい野菜の光る

野菜の光る

野さいの靑い手足のさきに

いつしんふらんにかぢりつき

葱のあたまにくひついて

毛のやうに光つて居る

いつしんふらんにくひついて居る

 

   *]

萩原朔太郎 未発表詩篇 鳥の巢の内部

 

 鳥の巢の内部

 

鳥の巢をうかがへば

巢の中はぼんやりとうすぐらく

鼠いろの卵がひとつばかり

氣味わるく光りて

そのあたりがいちめん

病人のかみの毛だらけなり

ああ、じつに無數のかみの毛なり。

              三月十六日

 

底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。編者注があり、『本稿は未發表詩篇「梢」と同じ原稿用紙に書かれている』とある。「梢」は直前に公開した。これも一度、「萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 鳥の巢の内部」で電子化しているが、底本の『草稿詩篇「未發表詩篇」』に、以下の三篇(標題は「卵」・無題・「巢の内部」)の草稿が載るので、新たに項を起こして、以下にそれを掲げた。なお、そちらで推定したように、本篇に附されたクレジットは、全集の「未發表詩篇」内の配列から見て、大正四(一九二五)年三月十六日である可能性が高い。以下、表現は総てママである。

   *

 

 

 

鳥の巢をうがひしに[やぶちゃん注:ママ。「うかがひしに」の脱字。]

卵がひとつ光りて居たり

さてその巢は

 

 

 

 

鳥の巢をうかゞへば

巢の中はぼんやりとして薄暗く

病人の髮の毛だらけなり

鼠色の卵がひとつ光りてありしがばかり

うす氣味わるく光りて

そのあたりがいちめん

球のやうにこんがらかつて

ああ ああしづにああ實に病人のかみの毛だらけなり[やぶちゃん注:「しづに」はママ。「じつに」の誤字であろう。次の草稿終行も同じ。]

 

 

 巢の内部

 

鳥の巢をうかがへば

巢の中はぼんやりと薄暗く

鼠色の卵がひとつばかり

うす氣味わるく光りて

そのあたりがいちめん

まりのやうにこんがらかつて

病人の細い髮の毛だらけなり

しづに無數の髮の毛なり→だらけなりのかたまりなり

 

   *

後に編者注があり、『以上三篇は未發表詩篇「梢」の草稿「春夜」と同一用紙に書かれている』とある。「梢」の草稿「春夜」はやはり『未發表詩篇「梢」』を参照されたい。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 梢

 

 

 

病人の靑い帽子の下から

かみの毛ぼうぼうと生え

月てんぺんに冴え

雀その毛にて巢をかけ。

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。これは一度、「萩原朔太郎詩集 遺珠 小學館刊 遺稿詩篇 梢」の注で電子化しているが、本篇は『草稿詩篇「未發表詩篇」』に、以下の「春夜」草稿(別稿)が載り、それをそちらでは示していないので、新たに電子化し直した。

   *

 

 春夜

 

月てんぺんに冴え

われの→人間の病人の頭とがり靑い帽子の下から

かみの毛ぼうぼうと生え

月てんぺんに冴え

雀その毛にて巢をかけ

鳥の巢は 病人の 髮の毛だらけなり。

 

   *]

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(ああ石をとばせ おんみに……)

 

 

 

夜行して 夜行して

家々の窓の下にしのびより

夜行して夜行して

遠海に鳥

ああ石をとばせ おんみに

われは かの

たとへ 善人 と雖も であ ることを りと信ぜよ

おんみ自身が 健康であると信じたまヘ

おんみ自身の幸福を信じたまヘ

たとへば盜賊でさへもの一隊でさへ

夜は//日くれて ★おんみを盜まぬであろう路を→欲望を出窓 をや守らんよじのぼるすぎ去りてるがに[やぶちゃん注:「★」「//」は私が附した。「月夜は」と「日くれて 」(この字空けは特に編者注で示されてある)が二行並置残存していることを示す。]

ゆめあしきくわだてをばたくらむまじ

さてもあまつさへおんみはいつでもつねに明がるくして

滑めらか、 うつくしくしてほがらかに、なめらかに、その肌にもつやうつくしく

おのおのの指には化粧にし

腰にはうすき絹をまきしめ

は足袋をはきにはくりーむをぬりたまへば

實に男の心をとかすにたるの淫亂なれども

たれかおんみの疾患をまことに思ふべき

おほかの祈りおほかたよそ のことはあるまじ われが戀する□より おんみにまさりて 樂し 善根なる人はあるまじきぞ、

われらおんみを戀する故に

おんみのかくいひておんみの健康を祀れる祝するなり、

おんみ や→に→よ、 かの

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。

編者が補正するように、後ろから五行目の「おほかの祈り」の「おほか」は「おほかた」の脱字であろう。それを一旦は訂したものの、その表現を別に変えたのであろうとは推定出来る。また、十三行目の「さてもあまつさへおんみはいつでもつねに明がるくして」の「明がるく」は「明かるく」の誤りであろう。後者の訂正を採用し、削除部分を除去すると、

  *

 

 

ああ石をとばせ おんみに

おんみ自身が健康であると信じたまヘ

おんみ自身の幸福を信じたまヘ

たとへば盜賊の一隊でさへ

夜はおんみの出窓をすぎ去るがに

[やぶちゃん注:或いは行頭が以下の孰れか。]

日くれて おんみの出窓をすぎ去るがに

ゆめあしきくわだてをばたくらむまじ

あまつさへおんみはつねに明かるくして

ほがらかに、なめらかに、その肌にもつやうつくしく

おのおのの指には化粧にし

腰にはうすき絹をまきしめ

足にはくりーむをぬりたまへば

實に男の心をとかすにたるの淫亂なれども

たれかおんみの疾患を思ふべき

おほよそおんみにまさりて善根なる人はあるまじきぞ、

われらおんみを戀する故に

かくいひておんみの健康を祝するなり、

 

   *

となる。草稿などもない。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(いまは日のくれかた……)

 

 

 

いまは日のくれかた

われふかき地中に□は★空より大雪のふりきくるけしきをながんとして//雪のふりきたる空をながめんとて★[やぶちゃん注:「★」「//」は私が附した。「空より大雪のふりきくるけしきをながんとして」(「ながんとして」は「ながめんとして」の脱字であろう)と、「雪のふりきたる空をながめんとて」が二行並置残存していることを示す。]

やうやく窓硝子のほとりにあゆみ 立ちよりしにあゆみよりしに

たちまちにしてきみの すがたを見たり おとなひたまふけはひをしれりうつくしき悲劇をみたり

つゝましやかなる鳥の 草花の影ににたるもの→少女→にんげん夫人の姿影ににたるもの

かうばしき夕餉の皿をもちはこびてきたはこばんとしたりが

わが窓の扉につめたき指をあてたりの下におとなひ

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。編集者注が、『本稿には以下がない。』とする通り、断ち切られて終わっているのもママである。編者が補正するように、並置残存の前者の「ながんと」は「ながめんと」の脱字、及び、最後から二行目の「かうばしき夕餉の皿をもちはこびてきたはこばんとしたりが」の末尾は「たりしが」の脱字、ではあろう。その補正を入れて、削除部分を除去すると、

  *

 

 

 

いまは日のくれかた

われは空より大雪のふりきくるけしきをながめんとして

[やぶちゃん注:或いは候補並存一行再現で次の一行との孰れか。]

われは雪のふりきたる空をながめんとて

やうやく窓硝子のほとりにあゆみよりしに

たちまちにしてうつくしき

つゝましやかなる夫人の影ににたるもの

かうばしき夕餉の皿をもちはこばんとしたりが

わが窓の扉の下におとなひ

 

   *

となる。草稿などもない。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 信仰

 

 信仰

 

わたしがはりつけになるときまへにも、

わたしはくるすきらんとする、

わたしこれはあなたに→にくらしいむやみに話すべきことであるないが

たゞしそれはわたしは信心酒亂である

そして邪いん淫である

ああ信仰のなにものもない

すべて愛より出づるものは毒藥ばかりである草の花よりも危險である

おなごの手にするものはぴすどるの玩具である

わたしはわたしは人をしばつたり人を殺すまへにもしたりするまへに

わたしの戀人を智慧を殺らせさねばならぬ

わたしはにちにちあなたのまへの淚をながし

にちにち信じられないものを信じやうとする、

にちにちわたし一人のために

わたしの兄弟たちは斷食するした、

ああ神さま

ああ、それがまつたくしんじみであるならば

わたしがはりつけになるまへにも

わたしはつぱりとくるすを切つて、

のこらずのあらゆるかくしごとをいつさいの→この秘密を懺悔をするものだ、→するのだ、→したいのだ、してしまひたいのだ。

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。太字は底本では傍点「﹅」。表記は総てママである。

・八行目の「ぴすどる」は「ぴすとる」の誤記

・十一行目「わたしはにちにちあなたのまへの淚をながし」の「まへの」は「まへに」の誤記

・十六行目「しんじみ」は「しんじつ」の誤記

と採って好かろうと思う。それらを訂して削除部分を除去したものを示す。今まで通り、私は底本の校訂本文のようにこれと言って躓かない歴史的仮名遣の誤りを直したり、踊り字を一律正字化する気持ちの悪いことをする気はさらさらないし、勝手に読点を除去したりする暴挙には、およそ組しない人種である。

   *

 

 信仰

 

わたしがはりつけになるまへにも、

わたしはくるすをきらんとする、

これはむやみに話すべきことでないが

たゞしわたしは酒亂であるし

そして邪淫である

ああ信仰のなにものもない

すべて愛より出づるものは毒草の花よりも危險である

おなごの手にするものはぴすとるの玩具である

わたしは人をしばつたり人を殺したりするまへに

わたしの智慧を殺さねばならぬ

にちにちあなたのまへの淚をながし

信じられないものを信じやうとする、

わたし一人のために

わたしの兄弟たちは斷食した、

ああ神さま

それがまつたくしんじみであるならば

わたしがはりつけになるまへにも

さつぱりとくるすを切つて、

あらゆるかくしごとをしてしまひたいのだ。

 

   *]

萩原朔太郎 未発表詩篇 夜

 

 

 

火事!

ねぼけた消防隊が POMP をひき出したあとで、

お菓子屋の鷄計が、

ちようど十二時をうちました、

TIN  KORO,  KORRO,  KORO

TIN.

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。編者注があり、『本稿は「草稿詩篇 月に吠える」の「春夜」「春の夜」と同じ用紙に書かれている。

ノートより』とする。「鷄計」はママで、校訂本文は『鷄時計』と消毒した上、それでも「鷄」では不審で「鳩時計」じゃないかとでも老婆心を起こしたのだろう、『二行目「鷄時計」は原文のまま』とする。書き加えて改変しているのに、『原文のまま』というのはおかしいだろう?! なお、『草稿詩篇「未發表詩篇」』に、以下の草稿が載る。表記は総てママである。

   *

 

 

 

夜→夕火事!

火事!

ねぼけた消防隊がポンプをひきだしたあとで

お菓子屋の時間が鷄計が

ちよつど十二時をうちました

TIN,  KORO,  KORO,  kORO

TIN.………………

………………

………………

 

   *

なお、編者注の「草稿詩篇 月に吠える」の「春夜」「春の夜」は『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 春夜』の私の注で電子化してある。言っておくと、正確には後者は「春夜」である。]

萩原朔太郎詩集「宿命」の「散文詩について」の草稿(部分) / 萩原朔太郎の生前の全詩集所収の詩篇の現存草稿詩篇の電子化不全部補填~了

 

[やぶちゃん注:筑摩版「萩原朔太郞全集」第二巻の『草稿詩篇「宿命」』には末尾には、草稿として『散文詩について』『(本篇原稿一種七枚)』として以下の無題の一篇をのみを掲げてあり、途中で途切れた最後に編者注で、『以下、草稿なし。また『宿命』には詩篇の草稿が殘っていない。』とある。決定稿が長く、私の電子化では、『萩原朔太郎詩集「宿命」「散文詩」パート(「自註」附) 正規表現版 始動 /「附錄(散文詩自註)」・「散文詩について 序に代へて」・散文詩「ああ固い氷を破つて」』の複数の文章の間にに含まれてしまっていることから、比較し易くするために、独立に電子化した。これを以って、同全集の萩原朔太郎の生前の詩集群の現存草稿詩篇の電子化の補填を終了した。誤字・歴史的仮名遣などは総てママである。比較的それが少ないので、五月蠅くはないだろうと判断し、ママ注記を入れた。] 

 

  

 散文詩といふのは、どんな文學をいふのだらう。單に「散文で書いた詩的な文學」といふ意味なら、日本にも昔から散文詩が澤山ある。たとへば枕草淸少納言の枕草紙、兼好法師の從然草[やぶちゃん注:ママ。]など、外にも外にもまだこの種の文學が澤山ある。しかし日本では、かうした文學を「隨筆」と呼んでる。び、散文詩といふ名で呼んで居ない。散文詩といふ名は、抒情詩、敍事詩、エツセイなどと共に、西洋から舶來した文學の名前である。そこでこの文學の内容にも、日本の傳統的な隨筆散文詩、卽ち隨筆とちがふところが無ければならない。

 西洋で言はれる散文詩とは、ツルゲネフの散文詩集や、ボードレエルの巴里の憂鬱や「巴里の憂鬱」やを指すのである。ところで此等の文學は、本質に何かの哲學的思辨(卽ち思想)を持つてることで、日本の所謂隨筆や美文の類とちがふのである。日本の詩的隨筆や美文の類は、たいてい四季の推侈[やぶちゃん注:ママ。]による自然を書き、或は日記體の身邊記事を敍するのみで、哲學的な思辨や人生觀を書いて居ない。丁度そして此所が、西洋の所謂「散文詩」と、日本の詩文的隨筆との相違である。だから

 そこで「散文詩」と「隨筆」との區別は、つまり言つて「エツセイ」と「隨筆」との區別に歸結するわけになる。西洋の散文詩といふのは、文學上の系統から見て、正(まさ)しくエツセイに屬するものの一種に屬するもので、詳しく言へば、より純粹の詩に近くに詩とエツセイとの中間にある文學を指すのである。學。エツセイよりは今少し情味深くイマヂスチツクで、今少し形態に上にも今少し詩に近く顏文的な文學を言ふのである。

 日本の詩壇の一不思議は、早くから古く散文詩といふ名前が有り、しかもその實體する文學が、かつてどこにも存在しなかつたことである。日本で散文詩と言はれたものは、單に形態の上での散文詩であつて、文學の内容上では、依然として昔ながらの隨筆だつた。ただ古代昔のそれとちがつてるのは、蛙や鶯の居る花鳥風月の自然の代りに、汽車や汽船の走る近代都市風景を對象とし、素材の上でのみ洋館らしく、ペンキを塗り換え[やぶちゃん注:ママ。]たに過ぎなかつた。

 私自身の自慢をすれば、私は「新しき欲情」の二十年も昔からして、日本で洋風の散文詩を書いた一人者だつた。卽ち□□舊著卸卽ち舊著「新しき欲情」「虛妄の正義」「絕望の逃走」等に、アフオリズムの名で編入した多くの文學がそれであつた。勿論此等の書物中には、詩といふべくあまりにエツセイ的思辨に過ぎるくもの文章も多くの多分にあつた。しかしそれを除いた殘部は、ツルゲネフのそれや「巴里の憂鬱」を散文詩と名づける意味で、正(まさ)しく散文詩と言はるべき文學だつた。

[やぶちゃん注:アフォリズム集はそれぞれ「新しき欲情」が大正一一(一九二二)年四月アルス刊、「虛妄の正義」が昭和四(一九二九)年十月第一書房、「絕望の逃走」が昭和一〇(一九三五)年第一書房刊である。因みに、本詩集「宿命」は昭和一四(一九三九)年創元社刊で、萩原朔太郎はこの詩集刊行の五年後の昭和一七(一九四二)年五月十一日に急性肺炎で亡くなっている。なお、詩集「宿命」は、「新しき欲情」からは、「ああ固い氷を破つて」から「船室から」に至る二十四篇が、「虛妄の正義」からは、「田舍の時計」から「初夏の歌」に至る二十七篇が、「絕望の逃走」からは、「女のいぢらしさ」から「戰場での幻想」に至る十六篇が再録されている。残る「蟲」以下の「虛無の歌」・「貸家札」・「この手に限るよ」・「臥床の中で」・「物みなは歲日と共に亡び行く」の六篇のみが、先行する単行本には載っていない。それぞれを各個的に読まれたい向きには、私のカテゴリ「萩原朔太郎Ⅱ」がよい。]

 私の〈過去〉詩壇生活に於ける過去の長い寂寥さは、かうした私の多くの詩作を作品を、詩壇が全く默殺したのみでなく、詩壇が一人も詩壇が詩文學として認めてくれず、一の批評もなく紹介もなく、門外文學として冷談に默殺され續けて來たことであつた。今日の日本の文壇。あまりに卑俗的、傳統的な日本の文壇が、僕等の文學を理解しないのは當然であり、その點では早く斷念(あきら)めて居たのであるが、自分の同じ仲間である詩人たち等から、かくも冷淡によそよそしく、文學圈外の白眼視を以て見られ□□とは、著者としての私自身が、全く豫想しないことであつた。しかもその詩壇は、「月に吠える」や「靑猫」等の抒情詩に對し、好惡共に大きな關心を示してくれた。この國の詩人と詩壇は、私が少しく思想的なポエヂイを見せない限り、私を同じ仲間の國民一族として認めてくれる。そして少しく私がそれを語れば、すぐに外ツぽを向いて白々しくなり、私を詩壇以外のエトランゼ[やぶちゃん注:フランス語“étranger”。エトランジェ。「異邦人」・「見知らぬ人」の意。]にしてしまふのである。日本に於ける二十數年の詩壇生活は、私にとつて孤獨な寂寥感に耐え[やぶちゃん注:ママ。]なかつた。今にして漸く私の知つたことは、日本の新しい詩壇と稱するものも、實には傳統の俳句や隨筆文學の系統であり、花鳥風月の抒情詩情以外、何の西洋近代的なポエヂイも無いといふことだつた。

 私の深い嘆息と寂寥感は、しかしながら何時も讀者によつて慰められた。私はそれらの讀者が、日本のどんな社會に住んで居るのか全く知らない。しかしながとにかく、私の書物は奇妙に賣れ、不思議に版を重ねて行き渡つて居る。詩壇も、文壇も、すべて私の著書を沈默し、一の批評らしい批評さヘ書かれないのに、讀者はどこかで私を見付け、熱心に讀み續けてくれるのである。私が今日まで長い間、孤獨に散文詩のアフオリズムを書き續けたのは、全くその未知の多數者の爲であつた。でなければどんな狂者も、反響のない山上の獨語を長く續け得ない。

 そこでこの書を出版したのは、一には主として此等の讀者に報ゐる[やぶちゃん注:ママ。]ための、私のささやかな謝恩でもある。多くの熱心な讀者は、しばしば私に手紙を送つて、過去に出版したアフオリズムやエツセイ集から、散文詩として愛𠳀[やぶちゃん注:ママ。底本編者は「誦」の誤字とする。]する章片だけを拔粹し、特にそれだ一册の本にしてまとめて欲しいと注文してくる。著者である私自身もまた、久しくそのことを思ひ考へて居た。その上にまた一つは、從來無記名で書いてた私の散文の詩も散文詩文學に、改めて「詩」といふ記名のレツテルを貼り付け、詩壇に贈りたいといふ意味もあつた。元來私は、文學にレツテルを貼ることが嫌ひである。本來詩の特に行わけ散文の似而非詩などが、詩自ら詩自ら自由詩のレツテルを貼ることによつて、水を酒の標裝[やぶちゃん注:編者は『表裝』の誤字とするが、どうか? 萩原朔太郎は「水」を「酒」の商「標」で騙し「裝」うの意で用いているとなら、これでよかろう。]でごまかすことなど、禺昧[やぶちゃん注:ママ。「愚昧」。]以上に卑劣でさへある。眞に詩文學としての本質要素を具へたものなら、自ら「詩」といふレツテルなど貼らなくとも、或は橫書きにしようと竪書きにしようと、必ず讀者に本質的な上の詩的感銘をあたへる筈にちがひないのだ。しかし今の日本詩壇常識は、詩と散文の區別を行わけ書式によつて判定したり、何でもない似而非の物が、自稱して詩と呼ぶことで詩と目され、その反對の眞實の詩が、自ら詩と稱さないことによつて、詩壇以外の壇の批判圈外に見捨てられてるやうな有樣である。私が自ら好まないレツテルを貼りこの、この書を「散文詩集」と題して世に贈るのも、まことに止むを得ない事情なのである。

 

 この書の内容は、前に書いた舊著「新しき欲情」「虛妄の正義」及び「絕望の逃走」の中から、特に詩としての純粹性を多分に持つもの。卽ち情味の深くイマヂスチツクな章を選んで拔粹した。もとより散文詩と題する[やぶちゃん注:ここで草稿は断ち切れている。]

2022/03/26

筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻『草稿詩篇「月に吠える」』の最後に配された特異な無題草稿一篇

 

[やぶちゃん注:萩原朔太郎の単行詩集や選集に収録した正規表現版は、既にブログ・カテゴリ「萩原朔太郎」、及び、この「萩原朔太郎Ⅱ」で、その完全電子化を終えているが、実は筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、一番、最後に、特異な草稿が掲げられている。その後には、編者によって、『本稿は『月に吠える』の「序」および「見知らぬ犬」および『蝶を夢む』の「吠える犬」等と内容上の關連が見られる。』と記されてある。ここで挙げられてあるものは、以下で電子化注済みである。

詩集「月に吠える」の巻頭部にある萩原朔太郎自身の「序」

同詩集の「見知らぬ犬」パートの冒頭に配された「見しらぬ犬」

詩集「蝶を夢む」の「吠える犬」

以下に、その草稿を掲げておく。表記は総てママである。]

  

   

 犬は月に向つて吠える。

月に吠える犬の心は、かなしく、くらく、さむしく、たよりなくふるへる。

月に吠える犬の心は、地面おのれ自身の影におそれ 怪しみ わななく。て吠えるのである。

影は くらい→わびしい地面の上 ながく地上にあやしく漂つてゐる。

影は は地上をてらしてゐる、

影は靑白怪しきものゝおそろしき姿をして、くらい地上にふるえてゐる、

犬は おのれの→あやしき 影をおそれる、靑白い月夜に犬が吠へる、そうして遠い

犬は靑白い月に吠へる、夜に遠く吠へる、

 

 

[やぶちゃん注:以上で同草稿は終わっている。]

2022/03/25

萩原朔太郎「笛」(「月に吠える」の詩集本文の末に配された長詩)の草稿詩篇二種(後者に萩原朔太郎自身による自解が附されてある)

 

[やぶちゃん注:『萩原朔太郎詩集「月に吠える」正規表現版 笛』は既に電子化を終えているが、実は筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻の『草稿詩篇「月に吠える」』には、本篇の草稿として『笛(本篇原稿八種十四枚)』として以下の二種がチョイスされて載る。特に二つ目には、不全な箇所があるが、驚天動地の萩原朔太郎自身が添えた解説が記されており、必見である。本篇自体が長いこともあり、正規表現版に添えるのはやめにして、新たに以下に電子化することとした。その方が別ウィンドウを開いて対照比較し易いからである。なお、表記は総てママである。五月蠅くなるだけなので、いちいち断らない(最後の自解のみ例外とする)。決定稿と比較されれば、誤字・脱字などは明瞭となるからである。削除部は今まで通り、実際の削除線で示した。]

 

 

  [やぶちゃん注:底本の第一草稿。]

 

子供は笛がほしかつた

子供のお父さんはかきものをしてゐた、

このお父さんは

子供はそつとお父さんのそつと部屋へきた、をのぞきにいつた、

子供はそつと 室外に立つた子供はある春の朝そつとひつとりと扉のかげに立つてゐた、

お父さん 大人はすこしも知らなかつた 室外 庭には さくらが→いちめんに さくらがさいてゐた、遠くでさくらのにほひがする、

そのとき大人はかんごへこんだ、

おとなの思想がくるくるとうづまきをした、

ある思想の矛盾がおとなの心を混亂さした

おとなはデスクに頭をうづめてくるしがつた

恐ろしいジレンマが彼の蛇のやうに男の額をまきつけた、

おとなの問題は性慾であつた、

ある女に關する出來ごとが彼の本能と思想とを分烈した、

述信と眞理と

二つの影が彼の→博士の幽靈のやうに出はいりした、

そのとき音もなく扉がひらかれた、

靑白い靑ざめた病身の子供がぼんやりと立つてゐ るのがみえた、室外に立つてみた戶外にはさくらのにほひがした、

子供はなにもしらなかつた

けれども扉がひとりでひらかれ笛がほしいとばかり思つた

そのとき扉がひとりでにひらかれた、おそらくはなにかの加滅で、

子供はびつくりした

うつぶした父の額の前に子供な大きな父の頭がデスクにうつぶしてゐたをみた、

大きなそのデスクのくらい隅の方に

ちつぽけな紫色のおもちやの笛をみた、子供はちつぽけな笛をみた。

たつた今までも子供がほしいと思つてゐた紫色の笛であつた、

あるうらゝかな春の朝の出來ごと

外ではひばりがないてゐた

あかるいヹランダに戶外でうぐひすにないてゐ

子供はそれをみてよろこんだ、これは偶然の出來ごとであつた、

おそらくはなにかのめぐりあはせで

子供は何かの偶然けれども子供はかんがへた→うたがつた信じた、

偉大なる父が彼の父の思想がうんだ奇蹟であると

この偶然な出來ごとが子供の慾望を子供は笛について父に話さなかつたから、

おそらくはなにかの

子供は成長した

けれども デスクの この朝の奇蹟と笛とが かたく信 彼の心から信仰した、

けれども子供を父を信じた、笛を信じた、

いまも尙偉大なる父の思想について

 

 

  [やぶちゃん注:底本の第二草稿。太字は底本では傍点「﹅」。]

 

子供は笛がほしかつた、

子供のお父さんはかきものをして居るらしかつた。

そのとき子供のお父さんは書きものをしてゐた

子供はお父さんの部屋をのぞきにいつた、

子供のお父さんは書きものをして居るらしかつた

子供はひつそりを扉のかげに立つてゐた

扉のかげにはさくらなたねのはなのにほひがする

そのとき大人→父おとなはかんがへこんでゐた

おとなの思想がくるくるくるとうづまきをした

あるこみいつた性慾に關することで思想の矛盾がおとなの心を混亂さした

父は重たいデスクに額をうづめてくるしがつた、

すると恐ろしいジレンマが蛇の縞蛇がつつぷした男の額→頭蓋骨腦髓をまきつけた、

春らしいそれは春らしい今夜のある女に關する出來事がおとなの本能と思想良心とを分烈したのである、ひきちぎつた、

性慾と本能と良心と

二つの影またひきはなれた二つの影たちは幽靈のやうにもつれあひながら扉→れいすの かげを くらい明窓のほとりを徘𢌞した出はいりした

おとなは自分の頭の上にそれらの幽靈のやうな性慾のをみた

それは靑ざめた性慾と殺人者のやうな良心と思想との

 

そのときひとつのかげは男のひとのかげのうへに重りあつた、

おとなの父がは恐ろしさに息をつめとめながら祈をはぢめた、

「神よ、ふたつの心をつねに一つにすることなかれしめ給へ」

そうしていつまでもふたつのそうして二つの影はけれどもゆうれいの→たち別れ もつれあひながら男のほのぐらい扉のかげを出はいした、

そのとき扉のかげにはさくらの花のにほひがした、

その扉 は音もなくひらかけた、 のかげにはおとなの子そこには靑白い顏した病身の彼の子供が立つてゐた、

子供はいつしんに笛がほしかつたのである、

 

子供はうすぐらい書齋の隅をみた、扉をひらいて部屋の一隅に立つた、

そこには子供は長いあひだデスクにつつぷした父のおほいなる父の頭腦をみてゐた

子供はデスク

その頭胴のかたはらあたりははなはだしい陰影になつて居た、

子供はふいに發見をしたそこへ恐しげな視線をなげた、の視線はその陰影にとまつてゐた、蠅のやうに力なくそこへとまつてゐた、

子供がほしがつて居た紫色の笛をその

 

子供はそこで何かを發見したのだ、

しだいに子供の眼はしだいに暗さになれたそこの陰には

子供はしまひにとびあがつた笛を もつて みて跳りあがつた

子供はなにものか 怪しいものをそこに發見したのだ、ものかにその心をつきつけられたのだ、

まひだいに子供の心は鮮明になつた、

しだいに子供の心はあかる かつたなくてきた

子供は何かを發見したのだ、

よほどまへからみればそこの影には紫いろにはぼんやりには紫色の笛があつた、おいてあつたのだ、

さつきから子供がほしいと思つてゐたその紫色のブリキの笛が

 

これはまつたく思ひがけない偶然の出來ごとであつた、

おそらくはなにかの不思めぐり合せでたのだ。

けれども子供はかたく父の奇跡を信じた

父の思想がもつとも偉大なる父の思想が生んだ笛の奇蹟であるとについて

デスクの卓の上の笛についてにおかれた紫色の笛について何も子供は彼の慾望について何ごとも父に話してなかつたから

けれども子供は成長した→けれども子供は 父を信じた、 笛を信じた、

いまも尙、偉大なる父の思想 とその が生みたる奇蹟について、

 

 

詩に說明をつけるのは馬[やぶちゃん注:「馬鹿」と書こうとしたようである。]

(子供はもちろん私★の求めるの心の象である、//の心そのものゝ正體である、★父といふのは に先生を→が先生を が救ひを求める心私の心の感情と先生とのその感情の象徵である、笛はもちろん先生救ひである)[やぶちゃん注:「★」「//」の記号は私が附した。「の心の象である、」(象徴の「徴」の脱字)と、「の心そのものゝ正體である、」の二候補が並置残存していることを示す。以下でも同じ。この「先生」というのは人生の師或いは宗教的な意味の導いて呉れるところの祖師(だから「救ひ」とも言っている)の意のようである。]

 

 (說明) 詩に說明をつけ[やぶちゃん注:以下はない。前段と同じことを言おうとしていよう。]

 子供は求める心の象徴である、父の思想は私の感情である、そのものである、象徴である、父の思想生んだ奇蹟は私と先生→私の感情求める心感情との不思議な交錯及びその結果である、而して笛はもちろん救ひである、救ひである。[やぶちゃん注:最後の「救ひ」は底本では右傍点「◦」である。]

 

 象徴詩に說明をつけるといふことは不可能のことでもあり馬鹿稚氣を生びた[やぶちゃん注:「帶びた」の誤字であろう。]ことでもある、

 倂し私は敢てそれをした、そうしなればならない事情がある、讀書界日本の讀書界がどんな程度のものだといふことをしつてる人は私を笑はないでくれるだろう[やぶちゃん注:「そう」「だろう」はママ。]

 

 

[やぶちゃん注:以上で底本の「笛」草稿は終わっている。]

2022/03/24

多滿寸太禮卷㐧一 佛御前霊會禄

 

   佛御前(ほとけごぜんの)霊會禄(れいくわいろく)

 文永の比(ころ)、丹波國の住人、波多㙒(はたの)下野前司安國(やすくに)といふものあり。大番(おほばん)の役にあたり、嫡子木工之允(もくのぜう)國道(くにみち)、ことし廿一嵗に及びしかば、且つは、都一見のため、母もろともに、具足して、在京す。

[やぶちゃん注:「文永」一二六四年から一二七五年まで。鎌倉の中後期。幕府執権は北条長時・北条政村・北条時宗。

「波多㙒下野前司安國」不詳。当時、摂関家領であった相模国波多野荘(現在の神奈川県秦野市)を本領とした豪族に波多野氏がおり、一部が幕府御家人となっている。最も知られた人物は波多野義重であるが、ここは「丹波國の住人」とあるので、相模波多野氏第五代の波多野義通(よしみち)を祖とする後の丹波の戦国大名となる丹波波多野氏の一人という設定のようである。

「大番」平安後期から室町初期にかけて地方の武士に京を守らせたものが、鎌倉時代に入ってからは京と鎌倉の警護を命じた役職を指す。当該ウィキによれば、『鎌倉時代の武家法である御成敗式目が制定されると、大犯三ヶ条』(だいぼんさんかじょう:守護に与えられた権限で、「御家人の大番役催促」と、「謀反人の追補」及び「殺害人の追捕」であったが、貞永元(一二三二)年八月の「御成敗式目」では、これが明記された上で「夜討・強盗・山賊・海賊の検断」が追加された)『において御家人の職務として明文化された。鎌倉時代以降は、各国に振り分けられ、各守護が責任者となり、国内の御家人に振り分けして指揮に当たった(大番催促)』が、南北朝時代になると『廃れた』。『京都の皇居や院など(のちに摂関家も)の警備に当たる職務を京都大番役という。地方の武士にとっては負担が大きく、その期間は平安時代には』三『年勤務であったが、源頼朝が半年勤務に短縮し、公家に対して武家の優位が確定する鎌倉時代中期になると』、三『ヶ月勤務と大幅に短縮された』。『しかしながら、平安時代末期においては』、『地方の武士が中央の公家と結び付きを持つ機会であり、大番役を通して官位を手にする事が出来た。つまり自らが在地している国の介・権介・掾に任命してもらう』こと『で在庁官人としての地位を手にし、支配権を朝廷の権威に裏打ちしてもらうと言う利点があった。また、歌などの都の文化を吸収し、それを地方に持ち帰ることもあったようである』。『逆に短所や不安材料として、こうした大番役は惣領に限らず』、『その子が請け負う事もあったが、子が京にいる間に惣領が亡くなった場合、地元で弟・叔父などが勝手に惣領の地位を収奪してしまう、という事態が起きることもあった(例:上総広常)。また、惣領である父が京にあって子が地元にいる場合、地元で騒乱があっても』、『迅速な対応が出来かねるということもあった(例:畠山重忠)』とある。]

 子息國道、天性(てんせい)淸雅にして、書畫に達(たつ)し、武備を忘れず、弓馬(きうば)に調練(ちやうれん)して、その道々(みちみち)を、さとさずと云ふ事、なし。

 諸家の若輩、をのをの、師弟のむつびをなし、日々に遊興し、遠近(えんきん)の名山勝地、欣賞(きんしやう)せずといふ事、なし。

 父前司、いひけるは、

「我れ、平生(へい《ぜい》)、名利の爲めにつかはるゝ事、ものうきしだい也。只、とこしなへに、好むところを得て、幽居せば、わが本望なり。」

  明年(あくるとし)の秋、父安國、伯耆の國を守領して、かしこに、おもむく。國道をも共に具せんとす。

 母のいはく、

「木工(もく)、こゝにきて、いまだ、久しからず。遠き國におもむき、鄙(ひな)の奴(やつこ)とせんも、ものうし。暫く、歸り給はんまでは、唯、都に置給へ。」

と歎けば、安國も同心して、家を都の邊(ほとり)へ移し、母もろとも、のこして、わかれぬ。

 とし比《ごろ》の友どち、國道が、とゞまる事を悅び、其比、帝都の政所(まんどころ)北條時宣(ときのぶ)に謁して、參り、つかふ。

 時宣、大《おほき》によろこび、館(たち)のうちをしつらひ置、諸士の弓馬の師をなさしむ。

 折から、春の半ば、嵯峨のほとりを逍遙して、歸るさの道すがら、とある所を過《すぎ》しに、境地、はなはだ幽扁(ゆうへん)にして、山下(さんげ)、皆、桃の花に天、もえぐりて、今をさかりの折からなれば、木工、これを愛し、暫く、門前に休らひて、徘徊す。

 桃の林の一むらより、一人の上郞(じやうらう)女房(にようばう)、うつくしく、あたりもかゝやく斗《ばかり》なるが、花のもとに立《たち》たり。

 いづれを花と、わくべきとも見えず。

 木工、遙かにこれをみるに、

『いかなる高位貴人(きにん)の方にやおはすらん。』

と、さらぬよしにて、さりけるほどに、上郞は、まだ、見送り、國道がおとし置きたる扇子(あふぎ)をとりて、童(わらは)にもたせて送りぬ。

 木工、よろこび、門(もん)にむかひて、禮をなす。

 童。出でて、

「春の㙒遊(のあそ)び、いかで、くるしく侍らん。入らせ給ひて、つかれをも、はらさせ給ひて。」

といへば、いざなひ、いりぬ。

 上郞、出て、まみえ給ひ、

「君は六波羅の御館(みたち)の御方(おんかた)ならずや。我は又、北條一家(いつけ)の親族、君が栖(すみか)は、わがむかしの宅地なり。」

 木工、袖、かきあはせて、

「君はいかなる御方にて、この所におはします。」

と申せば、

「我れは、平性都督(へいしやうととく)の族なり。もと橘(たちばな)の何某(なにがし)が娘、同じ一家へ嫁(か)す。不孝にして、やもめと成《なり》、爰(こゝ)に住(ぢう)す。」

とて、茶菓子を出して、もてなす。

[やぶちゃん注:「平性都督」「平」氏「性」=姓の「都督」(ここは京都の治安を監察・統率する役の唐名)、則ち、六波羅探題を指揮する平氏である北条氏の権威者ということになる。最後の私の注を参照。]

 木工、いとま乞(こひ)て、出《いで》むとす。

 上﨟、これをとゞめて、

「こよひは、荒れたる宿(やど)なりとも、ひたすら、あかさせ給ひ、來(こ)しかたの物語をも、し給へかし。」

とて、酒膳をまうけ、木工を奧の一間(ひとま)に請じ、勸盃きはまりて、風流を盡くす。

 詞(ことば)やはらかに、品(しな)、また、まれ也。

 打《うち》もたれ、よりそひ、蘭麝(らんじや)のにほひ、なつかしく、いとゞ、心も、まどひ、茫然たる計(ばか)りなり。上﨟いはく、

「君(きみ)は風雅詩詠をよくし、手跡も又、古人に恥ずと聞《きき》侍り。我、又、愚かながら、此事を好む。今、幸(さいわい)に、互ひに、まみえ侍る。わが家(いゑ)に傳ふる唐賢(とうけん)の墨跡、和朝高位の筆翰、ことごとく、是を出《いだ》してみせ給ふ。」

に、或(あるひ)は、杜子美(としみ)・李太白・退之・元眞・菅家(かんけ)・空海・貫之・躬恒(みつね)の眞跡、炳然(へいぜん)として、あらたなるがごとし。

 木工、これをみて、手を置くに忍びず。

[やぶちゃん注:「手を置く」「思案にあまる・手をこまぬく」の意。優れた魅力的な稀有の名品を前にし、遂に暇を乞うことが出来なかったのである。

「杜子美(としみ)」はママ。言わずもがな、杜甫の字(あざな)「としび」。

「元眞」中唐の詩人で白居易の親友で「元白」と並称される「元愼」。

「炳然」光り輝いているさま。明らかなさま。]

Hotokegozen

[やぶちゃん注:一九九四年国書刊行会刊木越治校訂「浮世草子怪談集」よりトリミングした。]


 夜(よ)、已に更けぬれば、ともども、閨(ねや)に入、みづから、枕をあたへ、交情(かうぜい)、そのたのしむ事、かぎりなし。

  鷄(とり)の聲しきりに告げわたれば、名殘りはつきぬ中川の、又のよるせを、やくそくして、なくなく歸り、六波羅にまかりて、『老母のいたはりのよし』を申《まうし》て、よるよる、かよひぬ。

  すでに、年の半ばをこへ、淺からず契りかはせども、人、さらにしる事、なし。

  かゝる程に、木工が父、伯州より歸りのぼり、六波羅に出仕(しゆつし)す。

 時宣、のたまひけるは、

「賢息の才藝、世に勝れける事を賀し給ひ、老母のいたはりとて、月ごろ、行きかよひ、さこそ、心、うかるべき。」

などゝ聞へ給へば、安國、大《おほき》におどろき、

「我れ、伯州へまかる比《ころ》よりして、一向(ひたすら)、君(きみ)の御館(みたち)に侍りて、音信(おとづれ)も、なし。いかに、つかふまつり侍るか。『此たび、御館へ參り候はゞ、ありつる樣(やう)を、見てまいれ。』とこそ、母(はゝ)は申《まうし》候ひつれ、曾て、母が方へは、まからず。」

と申。

 時宣、おどろき、ふしぎの事に思ひ給ひながら、さらぬよしにて、立《たち》給ひぬ。

  日暮(《ひ》ぐれ)て、木工允、例のごとく、ゆかむ事を乞ふ。

 人をつけてうかゞはせらるゝに、道の半ばにして、見うしなふ。

 使(つかい)、走り歸りて、御館に告げ、北條、又、いそぎ、人を嵯峨につかはして、とはせたまへど、更にしる人、なし。

『傾城(けいせい)・白拍子(しらびやうし)なんどにこそ、かよひけん。』

と、推しはかり給ふ。

  翌日(あくるひ)、木工、例のごとくに、歸り來る。時宣、召して、

「夜(よ)べは、いかなる所にか、行く。」

 木工、かしこまりて、

「老母の方へ、まかりぬ。」

と申。

 時宣、

「いかに、僞り給ふ。人をつけて跡を見せしに、至る所を、しらず。宅中(たくちう)にも見えず、母のもとにも、なし。」

と宣へば、木工、あざむきて、

「さがへ參る道すがら、友とするものゝ方に侍り、ものがたりに、夜(よ)、更け、をのづから、夜をあかし侍る。」

 時宣その僞りをしりて、かの友をよびて、尋ね給ふ。

 木工、赤面し、色を變ず。

 時宣、

「御邊(《ご》へん)、まことあらば、實(じつ)を以《もつて》申給へ。」

 木工、つゝむにたへず、つぶさに始終(はじめをはり)を申て、恥あやまりて、かしこまる。

 時宣、いよいよ不思義[やぶちゃん注:ママ。]に思ひ、

「わが親族の者、更に左樣の者、なし。かならず、妖恠(ようけ)の所爲(しよい)ならむ。重ねては、行くべからず。」

と、かたく制し給ふ。

 木工、かしこまりて、一日(ひとひ)、二日(ふつか)は、ゆかざりしが、さるにても戀しく、

「後(のち)はともあれ、今一度(ひとたび)あはでは、止みがたし。」

と、彼(か)の方(かた)へ行《ゆき》、ありし事ども、語る。

 上﨟、聞(きゝ)て、

「恨むる事、なかれ。但(たゞ)、命數(めいすう)、こゝにつきて、契りも、こよひ、のみ。」

と歎く。

 良(やゝ)ありて、なくなく、木工に語りけるは、

「此の後(のち)、ながく、別るべし。又、逢ふ事を、いつとか、期(ご)せん。」

と、紋紗(もんしや)のかりぎぬひとへ、彩色(さいしき)の牡丹の繪一枚をあたへ、

「これ、むかしのものなり。君(きみ)、吾(われ)をみると思ひて、放し給ふな。」

と、泣々、わたして、きぬぎぬとなりぬ。

[やぶちゃん注:「紋紗」絡み織りにした織物である「紗」に地紋を織り出したもの。「紗」は透ける部分と、平織りの透けない部分の組み合わせで文様を織り出す。軽くしかも薄く、透き目があるので、通気性がよく、盛夏用の着物や羽織などに用いられる。]

 この夜(よ)、時宣は、木工が、必ずゆくべき事を察し、ひそかに、宅中を窺ふに、案のごとく暮れより失せぬ。

 急ぎ、父を呼びて、

「しかじか。」

と語り給へば、安國、大にいかり、

「天命(てんめい)をあざむき、不孝不忠の罪、のがるべからず。」

と、木工を呼びよせ、からめ置き、がうもんせん、とす。[やぶちゃん注:「がうもん」「拷問」或いは「强問」。]

 木工、是非なく、有りし事を、つぶさにかたる。

 形見の衣(きぬ)、繪讃(ゑさん)を出《いだ》す。

 則ち、これをみれば、繪の面に

「治承」

の年號月日(ぐわつひ)を書きて、

「淨海入道 玩物(ぐわんもつ)」

と書きたり。[やぶちゃん注:言わずもがな、「淨海入道」は平清盛が出家後に法号として名のった太政入道浄海。]

 又、衣の袖に、

 いつしかとわが身にふれしかり衣(ころも)仏(ほとけ)の御名《みな》に返しつるかな[やぶちゃん注:原拠不詳。]

 此おもむき、いそぎ、六波羅に、もて參り、

「ふしぎの事こそ、候へ。よのつねの恠(け)に、あらず。」

 いそぎ、木工をつれて、かの地に尋ね行きてみるに、日比(ひごろ)見えたる屋形(やかた)もなく、水、細く流れ、桃の木、のみ、生ひ茂りたり。

 各(をのをの)、不思義(ふしぎ)の思ひをなし、

「むかし、平相國淸盛公の寵愛の白拍子、佛御前(ほとけごぜん)とかやいひしを、この所に葬(ほうむ)りたり。」

とて、いさゝかなる荒墓(くわうぼ)あり。

 哥の心、又、記念(かたみ)のもの、うたがひもなき仏御前の器物(きもつ)ならん。

 しかれども、此の恠(け)におどろかされて、なやまされん事を歎き、これより、嵯峨に、かの器物(きぶつ)を、おさめ、かくしけり。

 其後《そののち》、木工、いよいよ、碩學の聞えありて、禁庭(きんてい)に召され、武官となり、木工頭(もくのかみ)に昇進しければ、終(つひ)に、その恠(あや)しみ、なかりしとかや。

[やぶちゃん注:読みのブレ(「器物」の「きもつ」と「きぶつ」等)は総てママである。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらが冒頭であるので、不審な方は対照されたい。挿絵は、拘りがあって、「江戸文庫」版のそれを、かなり清拭した。それでも、致命的に仏御前の顔が汚損していたので、白く抜いた。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらがよい。

「北條時宣」この時代の六波羅探題は北方(こちらが上席)が北条義宗(極楽寺流赤橋氏  文永八(一二七一)年~建治二(一二七六)年で、南方が北条時輔(得宗家 弘長四・文永元(一二六四)年~文永九(一二七二)年)であったが、「時宣」という名ではない。しかし、文永九(一二七二)年二月に起きた北条一族の内紛「二月騒動」で、後者の時輔は当時の執権北条時宗の異母兄であったが、二月十五日、謀反を企てたとして、義宗に命じて彼を討って殺しており(逐電したとする説もある)、鎌倉では先立つ二月十一日に、北条氏傍流の名越時章・教時兄弟が得宗被官である四方田時綱ら御内人によって誅殺されている。時輔が謀反を起こした原因は、時宗が得宗・執権となって権力の座に就いたことに対する不満にあったとされ、これによって、北条一族内の反対勢力はほぼ一掃され、時宗政権は安定化したのだが、後に名越時章には異心はなく、誤殺であったとされ、討手であった御内人五人は責任を問われて九月二日に斬首されている。これは実際に不満を募らせておいた時輔や、前将軍宗尊親王の名を借りた北条氏傍流の反得宗の動きを封殺することが目的であったと考えられている(その一方、中心となって事件の処理にあたった安達泰盛は幕府内での実権をより強化させ、平頼綱ら御内人(みうちびと)勢力との対立を深める結果も惹起させた(主に平凡社「百科事典マイペディア」に拠った)。本篇の時制を、この「二月騒動」の少し前に設定すると、六波羅探題で時輔の影響が強くなっていた時期に相当し得る。或いは作者は、この切ない怪異に、時輔をモデルとした「時宣」なる架空の人物を措定し、二人を裂く悪役をあてがい、読者に仄かに直後に発生する「二月騒動」を意識させるようにしていた可能性が高いかと私には思われる。

「佛御前(ほとけごぜん)」仏御前(永暦元年一月十五日(一一六〇年二月二十三日)~ 治承四年八月十八日(一一八〇年九月九日))は平安末期の白拍子。「平家物語」第一巻の「祇王」に登場する。当該ウィキによれば、『加賀国原村(現:小松市原町)に生まれる。父の白河兵太夫は、原村の五重塔に京より派遣された塔守である。なお、この五重塔は、花山法皇が那谷寺に参詣した折、原村が、百済より渡来した白狐が化けた僧侶が阿弥陀経を唱えたことから弥陀ヶ原と呼ばれ、原村になったというエピソードと、原村の景観に感動し建立したものである。現在は五重塔址のみが残っている。幼少期から仏教を信心したことから「仏御前」と呼ばれる』。承安四(一一七四)年、『京都に上京し、叔父の白河兵内のもとで白拍子となる。その後、京都で名を挙げ、当時の権力者であった平清盛の屋敷に詰め寄る。その当時は白拍子の妓王が清盛の寵愛を集めていたので追い払われるが、妓王の誘いにより、清盛の前で』、

 君をはじめてみる折りは

 千代も經ぬべし姬小松

 御前の池なる龜岡に

 鶴こそむれゐてあそぶめれ

『と即興で今様を詠み、それを歌って舞を見せ』、『一気に寵愛を集めた』。安元三/治承元(一一七七)年、『清盛の元を離れ』、『出家し、自らを報音尼と称して嵯峨野にある往生院(祇王寺)に入寺する。往生院には仏御前の登場により清盛から離れた妓王と』、『その母・妹の妓女がおり、同じく仏門に励んだ。その時点で彼女は清盛の子を身ごもっており、尼寺での出産を憚り故郷の加賀国へ向かう。その途中、白山麓木滑(きなめり)の里において清盛の子を産むが、死産』、治承二(一一七八)年には帰郷し』た。『その最期については、彼女に魅入られた男の妻たちの嫉妬による殺害説や自殺説など諸説ある』。『墓所は小松市原町にある』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 舩貝 / フネガイ類(一個体はコベルトフネガイを有力候補としたい)

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。一部をマスキングした。なお、この見開きの丁は、右下に、『和田氏藏ノ數品』(すひん)、『九月廿一日、眞写』す、という記載がある。和田氏は不詳だが、前の二丁と同じく、その和田某のコレクションを写生したことが判り、これはそれらと同じく、天保五年、グレゴリオ暦一八三四年五月十一日と考えよい。]

 

Hunegai

 

舩貝【三種。】

 

「前歌仙貝三十六品」の内、

 「夫木」

    こぐ人も渚(なぎさ)にせする舟貝は

     吹くる風やつなぐなるらん

 

[やぶちゃん注:これは特異な形状から(この三個体は個人の蔵品であり、所謂、殻表面の毛皮等はすべて削られてしまっていると考えてよい)、孰れも、

斧足綱翼形亜綱フネガイ目フネガイ科Arcidae

の一種とまでは限定出来る。

 最上部の個体は、殻頂が非常に高く秀でていること、内方に強く曲がって広く離れ、放射肋が強いことから、

フネガイ科Arca 属フネガイArca avellana

或いは

同属コベルトフネガイArca boucardi

の孰れかであろう。個人的には二種の画像を見る限りでは、そのフォルムからは後者のコベルトフネガイかという(これは私の希望的願望――コベルトフネガイが好き――が働いているのだが)感じがしないでもない。二種とも分布的にはフネガイが本州陸奥湾以南、コベルトフネガイが北海道以南で問題はない。因みに、和名に冠された「コベルト」は、ドイツの軟体動物を専門とした動物学者ヴィルヘルム・コベルト(一八四〇年~一九一六年)に因む。

 左の二種は、形状が異なり、色が明らかに違う。個人的には、特に左端の個体が、橙褐色或いは紫褐色を呈し、成貝では、殻頂が放射肋が消失してつるんと見えるようになる、

フネガイ科エガイ属ベニエガイ(クロミノエガイ)Barbatia amygdalumtostum

のように見える。但し、本種は本州南部以南に分布する。

「前歌仙貝三十六品」画期的な貝類解説書として本邦で最初に板行された、茶人として知られる大枝流芳(おおえだりゅうほう)著の寛延四(一七五一)年板行の「貝盡浦の錦」の「前歌仙貝三十六品評」(国立国会図書館デジタルコレクションの当該作のここの画像を視認)によると、

   *

   舩 介(ふねかひ)  左 九

「夫木」

こく人(ひと)も渚(なぎさ)によする舟貝(ふねかひ)は

     ふきくる風(かぜ)やつなぐなるらん

   *

である。「日文研」の「和歌データベース」で見ると、読人不知で(13100番)、

   *

こくひとも なきさによする ふなかひは

     ふきくるかせや つなくなるらむ

   *

とある。梅園、ほんまに崩し判読が苦手やな。まあ、わても苦手やさかい、許したるわ。言うまでもないが、整序すると、

   *

漕ぐ人も渚に寄する舟貝は

   吹き來る風や繫ぐなるらむ

   *

で、「舟貝」は「舟橈」を掛けてあり、渚に寄せる舟貝が、あたかも漕ぎ手が橈を見事に操って舟同士を繋いだようにするのであろうか、と、個人的にはお洒落ないい一首と感ずるものである。しかも、同書の図を見ると(左丁の右手の下から二番目に二図ある)、これ! 如何にもコベルトフネガイっぽくないカイ?!

2022/03/23

譚海 卷之四 淺野越後守殿家士江見淺之丞孝行の事

 

[やぶちゃん注:本文では一貫して「江見淺之丞」なのだが、底本の「目錄」では『江見德之丞』である。「国文学資料館」のオープン・データの写本で本文を見ても明らかに「江見淺之丞」なので、特異的に訂した。

 

○同所家士に江見淺之丞といへる人の父、新兵衞といふもの佐州の人にて、城下より三里、田どの村といふ所に仕(つかひ)を辭し隱れて、五石の田地を耕(たがや)てくらしける。淺之丞十一歲の比(ころ)京都へ出(いで)て、堀川家の學をうけならひ、壯年森家に儒者にて奉公せしが、老父養育のため暇を乞(こひ)舊里に歸り、妻子を帶し耕し居(ゐ)けるが、貧窶(ひんる)にして麁食(そしよく)のみ食せしが、父には白米を供し、妻子共に麁食する事を、父にはしらせぬやうにしけるとぞ。耕所(こうしよ)より一日に一度づつ父の機嫌伺(きげんうかがひ)に歸る事、一日も怠らず廿年に及べり。鄰里(りんり)是(これ)に化(か)して惡人出來(いできた)たる事なし、後(のち)國主に聞えて、白銀二十枚賜りけるとぞ。

[やぶちゃん注:「江見淺之丞」不詳。

「同所」この場合は前話の主人公士神崎与五郎の生地である美作を指す。従って江見浅之丞は津山藩(森家)の家士だったということになる。その父「新兵衞」(土佐生まれ)はしかし、早々に津山藩を致仕し、山深い村に引っ込んだというのである(理由は不明)。

「田どの村」岡山県美作市田殿(たどの:グーグル・マップ・データ)。津山城の東十七キロメートルの山間部である。恐らくは実測は片道二十キロ強はあるのではないか。そこへ往復で毎日、二十年、続けたのである。

「堀川家の學」儒学の堀川学派。伊藤仁斎が寛文二(一六六二)年に京都堀川通丸太町(まるたまち)南の自宅に塾「古義堂」を開いて古義学を唱導したので、仁斎の学統を「堀川学派」または「古義学派」と呼ぶ。堀川を隔てた山崎闇斎の塾の厳しい学風に対し、友人が親しみ合う穏和な雰囲気の中で、研究会や「論語」「孟子」「中庸」を中心とする仁斎の講義が四十年に亙って行われた。闇斎の塾の出版物が朱色の表紙であったのに対し、仁斎のそれは藍色の表紙を用いて学派意識を表わした。この門からは並河天民(なみかわてんみん)や、小川立所(りっしょ)・弘斎(こうさい)兄弟らが出たが、学・塾は仁斎の嫡男伊藤東涯(とうがい)によって紹述・継承された。那波魯堂(なわろどう)の「学問源流」によれば、『元祿の中比(なかごろ)より寶永を經て正徳の末に至るまで其の學盛に行はれ、世界を以て是を計(はか)らば十分の七と云ふ程に行はる』という盛会であった。その後、堀川塾はさびれ乍らも、京都市民の儒学塾として、子孫相承して明治の末年まで講義を行い、歴代の稿本類を所蔵してきた。現在、稿本類は天理大学附属図書館古義堂文庫に移され、塾の遺構は国指定の史跡として保存されている(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「舊里」「ふるさと」と読みたくなるが、彼は儒者であるから、「きうり」と読んでおく。

「貧窶」非常に貧しいこと。

「麁食」「粗食」に同じ。

「鄰里」同前で「となりざと」ではおかしいから「りんり」と読む。田殿村に接する村々総て。

「是に化(け)して」彼の孝行や人徳に教化(きょうか)されて。

「國主」津山藩主。]

譚海 卷之四 淺野家士神崎與五郞幼時の事

 

○播州赤穗淺野家の士神崎與五郞は、親父新右衞門といひけるものにて、元は森家の浪人にて、作州津山に住居(すまゐ)せしに、與五郞十三歲の時、同僚箕作某といふものと手習に師のもとに同道せしに、此箕作美少人(びしやうにん)成(なり)しかば、同所の鍛冶某なるもの、男色(なんしよく)の戀慕(れんぼ)やまず、度々くどきけれども承引せざるを遺恨におもひ、ある平明(へいめい)兩人同道して過(すぐ)るを、鍛冶堤(つつみ)の陰に待(まち)うけ、箕作へ切付(きりつけ)たり。箕作面(おもて)に二刀(ふたがたな)疵(きず)をうけてたふれけるに、與五郞ぬき合せ、鍛冶ときりむすび、終(つひ)に鍛冶を切とめ、箕作を肩にかけ親のもとへ送りとゞけ、家へ歸りてかようかよう[やぶちゃん注:ママ。但し、底本では後半は踊り字「〱」。]の事とかたれば、狼藉まぎれなき事に究(きはま)りて、鍛冶犬死(いぬじに)に成(なり)たりけるとぞ。菅野和助(わすけ)も同所の生れ也、兩人後に淺野家へ七兩二人扶持にて步行目付(かちめつけ)にかゝへられてありけるとぞ。此(この)箕作は後(のち)に常庵といふ醫者にて在(あり)けるとぞ。

[やぶちゃん注:「播州赤穗淺野家」吉良邸討ち入り後(討ち入りは元禄十五年十二月十四日寅の上刻で一七〇三年一月三十一日午前四時頃に相当する)、連座した浅野長広(切腹させられた長矩の弟)は赤穂新田三千石の所領も、一旦、召し上げられたが、宝永七(一七一〇)年に安房国朝夷(あさい)郡に五百石で移され、減封となったが、後に旗本に復し、長広の後は、嫡男長純が家督を受け継ぎ、長直系浅野家として安房国で続いた。赤穂藩はその後、永井家を経て、森家が維新まで続いた。

「神崎與五郞」(寛文六(一六六六)年~元禄一六(一七〇三)年)は赤穂四十七士の一人。美作生まれ。藩主長矩の刃傷で主家は断絶。以後、大石良雄に従い、商人を装って吉良邸偵察の任に当たった。討ち入り後、二月四日に切腹した。享年三十八歳。名は則休(のりやす)。俳号は竹平。変名は小豆屋(美作屋)善兵衛。当該ウィキによれば、当初、『津山藩に仕えるが、その後、則休は森家を離れて浪人』となった。『いつ浪人したかには諸説ある。第一説に』、延宝七(一六七九)年に、『男色を原因として叔母の夫にあたる箕作義林 (同年の従弟箕作十兵衛)が暴漢に襲われ、則休がこの連中を切り捨てたため、藩を追われたという説』で、『第二説は』、天和元(一六八一)年、藩主『森長武の寵臣横山刑部左衛門が津山藩政において専横を極めた際に藩を追われたという説』である。さらに第三説として元禄一〇(一六九七)年六月二十日、森家十八万石が二万石に減封された際に藩からリストラされた(第五代藩主森衆利(あつとし)の発狂と幕府批判に拠る。詳しくはウィキの「森衆利」を読まれたい。私はその異様な記載に惹かれて、これが有力、と当初は考えた)『という説があるが、則休は』元禄六(一六九三)年の時点では、『すでに浅野家に仕官していることが確認されている』(但し、ここには「要出典要請」が附いている)『ため、第三説はありえない』とあった。因みに、実は、この森衆利は、実は赤穂藩森家第五代で、先に示した通り、赤穂藩の後代の藩主家であるのである。神崎が、キレッキレの危険がアブナい藩主の家系に間接的にでも二度も絡んでいるらしいというのは、話としては、何とも運が悪いと同情したくなるのである。

「箕作」「みつくり」と読んでおく。

「鍛冶」「たんや」と読んでおく。「かぢ」でも構わぬ。

「犬死」「つまらない死に方」の意。ここは神崎の切りつけた刀傷が致命傷となって死んで、表向きは発狂刃傷の扱いで処理されたことを指すか。

「菅野和助」「国文学資料館」のオープン・データの写本を見ても(左丁二行目末)、如何とも言い難いのであるが、これはどうみても、知られた赤穂浪士の一人である、同じく美作国津山生まれの茅野常成(かやのつねなり 寛文七(一六六七)年~元禄十六年二月四日:通称は和助)の誤字であろう。当該ウィキによれば、『父』常宣が、天和元(一六八一)年、『藩主森長武の寵臣横山刑部右衛門が津山藩政において専横を極めていた際に森長武に藩の惨状を訴え出たため』、『追放されたという。なお、赤穂浪士の』一『人である神崎則休も津山藩森家の浪人であったが、神崎もこの時に追放されたという説がある』とある。元禄一〇(一六九七)年頃から『赤穂藩の書留に名が見えるので』、『その頃の仕官と見える。赤穂藩内では横目』五両三人扶持役料五『両であり、譜代の臣下ではないので』、『もっとも身分の軽い藩士の』一『人であった。しかし武術の達人で』、『自眼流居合いをよくしていたという。また』後の『吉良邸討ち入りの際には』、『弓で戦っているので』、『弓も得意だったと思われる』とある。

「常庵」箕作常庵でも検索してみたが、不詳。但し、ずっと後代だが、津山藩藩医に箕作阮甫 (みつくりげんぽ 寛政一一(一七九九)年~文久三(一八六三)年)なる人物がいることが判った。或いはその先祖かも知れない。]

譚海 卷之四 松平越後守殿家士關助九郞事

 

○松平越後守殿家士に關助九郞と云人有、軍學者也。妻女にはなれて娘壹人養育せしが、儉約の人にて金子もおほく所持せし也。娘を嫁しやるとき、日雇を五六人やとひ置て、娘の乘物をいだすとそのまゝ其住(すみ)たるへやをこぼたせけり。女は人に嫁してのちは、家を思ふ事あれば、しうとの家おのづから疎略なるこころざし出來るものゆゑ、歸りても居る所なしとおもへば、敎養[やぶちゃん注:底本に右編者傍注で「敎」に『(孝)』と附す。]の心もたゆまじとてかくはする事といへるとぞ。その人ときどき人の急には金子かし遣(つかは)し、返す日限(ひぎり)たがはねばいくたびも班をとゝのへてやりけれども、利足をかつてうけず。主人より俸綠を取(とる)身なれば、利倍をとるべきやうなし、只懇意の事故(ゆゑ)用を辨ずる也とて、利足はみなく返しやりけり。此人晚年銀子百貫目餘ありけるを、平日物がたりには、かやうに金子をたくはふる事は、主人の何ぞ御用に立(た)ベきためなりといへりしが、養子をせし刻(とき)、我存命のうちに主人へ金子を上納すべし、沒後人に遣ひうしなはれては詮なしとて、たくはへたる金子を殘りなく主人へ奉りけるとぞ。

[やぶちゃん注:「松平越後守殿」越後国高田藩主松平光長(元和元(一六一六)年~宝永四(一七〇七)年)。官位は従三位・左近衛権少将・越後守。結城秀康の孫で、徳川家康の曾孫・徳川秀忠の外孫に当たる。いろいろと問題のあった人物らしい。詳しくは当該ウィキを読まれたい。

「關助九郞」不詳。]

譚海 卷之四 但州きの崎の石垣の事

 

○但馬きの崎と豐岡との際(きは)の山、一面にきり石にして、皆六角にかどある石なり。其邊の山家此石を得て垣にかこひ用ゆ。わざときり石にてこしらへたる樣にみゆ。その石をとりたる山を見れば、その跡蜂の巢の如くにぬけたる跡見ゆ。

[やぶちゃん注:城崎から丸山川を五キロちょっと遡った右岸の、兵庫県豊岡市にある玄武洞(グーグル・マップ・データ)の柱状節理の発達した五つの大きな洞窟(大きな玄武洞・青龍洞は自然のものではなく、江戸時代の採石場の跡)附近を言うのであろう。サイト「日本の奇岩百景プラス」の「玄武洞」の画像がよい。]

譚海 卷之四 丹後國天の橋立幷ぶり魚・山邊綿・沙中の古杉・國分寺鬼面等の事

 

○丹後天の橋立は、平地より望めば一帶の松原ばかり也。なれあひの山腹にのぼりて望(のぞむ)時は、天橋の形勢手に取斗(とるばかり)り見えて、絕景言語同斷也。此海にぶりと云魚殊におほし、死なんとするぶりは、皆はし立のきれとの内海(うちうみ)にあつまり入(いり)てしぬる也。夫(それ)をひとつもわたくしに取(とる)事をゆるさず、成相寺(なれはひじ)の僧侶是をはふむり、法會をもうけてとぶらふ事也。京都より福知山へ廿里、福地山より橋立へ六里也、ふくち山邊(やまべ)綿(わた)を產する所也。家ごとに五、六百本づつ年々こしらへあきなふ。其壹本の目形五貫目づつなり。ひでりの年はふくち山の入口のわたよろしからず。おくは眞土(まつち)、入口はすな地なるゆゑ、ひでりには眞土のわた出來よろし。しけの年には沙地水かわきやすきゆゑ、わたの出來よろし。眞土の水かわかざるゆゑ綿くされてよろしからず。又丹後の海邊土中よりみなふるき杉をほり出す、十間廿間の長さなるものあり、國中皆しかり。又國分寺といふに鬼面といふもの有、是は鬼の夫婦の造りたる像なりといへり。

[やぶちゃん注:「なれあひ」成相山(なりあいさん)。京都府北部の丹後半島の南東部、天橋立の北側にある宮津市に属する山。別称「鼓ヶ岳」。標高五百六十九メートル。中腹に西国三十三所第二十八番札所の成相寺(なりあいじ)があり、傘松公園からの天橋立の眺望は、「天橋立股のぞき」で知られる。山麓の府中は、丹後国府の所在地で国分寺もあった。ここ(グーグル・マップ・データ。以下も同じ)。

「きれと」「切れ戶」。ここ

「ぶり」条鰭綱スズキ目スズキ亜目アジ科ブリモドキ亜科ブリ属ブリ Seriola quinqueradiata一般論は私の「大和本草卷之十三 魚之下 鰤(ブリ)」を参照されたいが、そこにも「丹後鰤は、味、美なり」とあるので、私の注を見られたい。さらに私の「日本山海名産図会 第三巻 鰤」も当該地の漁法などについて詳しく述べられているので、必見である。

「ふくち山邊(やまべ)綿(わた)を產する所也」現在の福知山の東方の兵庫県丹波市青垣町小稗 (こびえ) では、特産品として「丹波布」があり、これは木綿と絹糸を織り混ぜ、草木の汁で染めた伝統的な織物である。

「五貫目」十八・七五キログラム。

「眞土」耕作に適した良質の土壌。

「十間」十八・一八メートル。

「國分寺」ここ

「鬼面」京都府立丹後郷土資料館に寄託されて現存する。その面の写真と伝承については、「宮津市役所」公式サイト内のこちらを見られたい。

甲子夜話卷之七 1 寶曆衣服の制仰出

 

甲子夜話七

 

7-1 寶曆衣服の制仰出

享保質素の令もおのづから薄らぎしや、寶曆九卯年に、衣服の制を仰出されける旨ありし頃は、老中の供𢌞り、絹の小紋羽折着たるもあり。御城の坊主は、皆無地の黑絹羽折なりしとぞ。町𢌞りの同心、兩國橋にて商人の妻、黑縮緬の袷にもうるの帶、茶の腰帶、下に白帷子を着たりしを咎めて番所へ預け、黑き縮緬の小袖一にて錢湯に赴く少婦の胸に封をつけしとぞ。これは能役者觀世大夫が妾と聞へし。神田邊にて靑梅縞の袷、裏に黑繻子つけ、金魚を縫たるを著したる少女も、襟に封をつけられたり。糀町にて輕き男、木綿袷の上に飛紗綾の帶を結たるを、其町へ預くるとて名主を呼出したれば、袴羽折にて出たるが、其羽折縮緬の小紋なりしとて、先これを大に叱り、しばらく遠慮申付たるよし。

■やぶちゃんの呟き

「寶曆九卯年」一七五九年。

「もうる」「莫臥兒」。ポルトガル語の「mogol」に当てた語。モール。本来はインドのモゴル(ムガル)帝国時代の特産と言われ、緞子(どんす:織り方に変化をつけたり、組み合わせたりして、紋様や模様を織り出す紋織物の一種。生糸の経(たて)糸・緯(よこ)糸に異色の練糸を用いた繻子(しゅす:絹を繻子織り――縦糸と横糸とが交差する部分が連続せず一般には縦糸だけが表に現れる織り方――にしたもの)の表裏の組織りを用いて文様を織り出した。「どんす」という読みは唐音で、本邦には室町時代に中国から輸入された織物技術とされる)に似た浮織の織物。経は絹糸で、緯に金糸を用いたのを「金モール」、銀糸を用いたのを「銀モール」と称し、後世は、金糸又は銀糸だけを撚(よ)り合わせたものを言う。

「白帷子」「しろかたびら」。

「少婦」「せうふ(しょうふ)」。年若い娘或いは若い嫁。

「能役者觀世大夫」この年代から、観世流十五世宗家観世左近元章(もとあきら 享保七(一七二二)年〜安永二(一七七四)年)であろう。ウィキの「観世流」によれば、この頃、『観世流は徳川家重・徳川家治二代にわたる能師範を独占』する一方、『京都進出を完了するなど、その絶頂期を迎えた。元章は』、『これらの状況を受けて、弟織部清尚(後に十七世宗家)を別家して観世織部家を立て、四座の大夫に準ずる待遇を獲得させたほか、国学の素養を生かした小書を多く創作し、さらには世阿弥伝書に加註』した上、『上梓するなど、旺盛な活動を行った』とある。

「妾」「めかけ」。

「靑梅縞」「あをうめじま」。

「糀町」「かうぢまち(こうじまち)」。

「飛紗綾」「とびざや」。地が紗綾(さあや:絹織物の一種。平織り地に「稲妻」「菱垣(ひしがき)・「卍」(まんじ)などの模様を斜文織(ななめあやお)りで表わした光沢のある絹織物。中世末頃から江戸初期にかけて多く用いられた)に似て厚く、とびとびに花紋のある織物。

「先」「まづ」。芋蔓式のエンディングが面白い。

甲子夜話卷之六 43 駿城勤番、蛇を畜置し人の事 / 甲子夜話卷之六~了

6-43

駿城勤番の輩、在住となりしより絕しが、それより前は御書院組番士、交替して城守することにぞありける。其頃在番の面々、倦怠の餘、或は酒宴又は碁象棋、さまざまの遊をして日を暮せしが、其末色々の流弊生じて、集會の習ひよからぬ事どもありしとなり。されど其會に赴ざれば、同寮の好みを失ひ、差支る事も多ければ、人々此在番には甚苦しみけるとぞ。一人在番の中に、蛇を畜養ふものあり。大小の匣に各色の蛇あり。人々來りてこれを見、むさきものを好む人とて、宴會ありても招くものなし。遂に在番中の弊を免れしとなり。古人所謂、有ㇾ托而逃者と云意を能く得たることなり。

■やぶちゃんの呟き

「駿城勤番の輩、在住となりしより絕し」ウィキの「駿府城の「駿府在番・勤番」よれば、『駿府城には、定置の駿府城代・駿府定番を補強する軍事力として駿府在番が置かれた。江戸時代初期には、幕府の直属兵力である大番が駿府城に派遣されていたが』、寛永一六(一六三九)年には、『大番に代わって将軍直属の書院番がこれに任じられるようになった。その後約』百五十年間、『駿府在番は駿府における主要な軍事力として重きをなすとともに、合力米』(こうりょくまい/ごうりきまい:江戸幕府が二条城・大坂城在番、及び、二条城・大坂城・駿府城の諸奉行に給与した米)『の市中換金などを通じて駿府城下の経済にも大きな影響を与えたとされる』。『しかし』、寛政二(一七九〇)年、『書院番による駿府在番が廃止され、以降は常駐の駿府勤番組頭・駿府勤番が置かれて幕末まで続いた』とある。

「流弊」「りうへい」。以前からの狎れ合った悪い習慣。

「赴ざれば」「おもむかざれば」。

「好み」「よしみ」。

「差支る」「さしつかふる」。

「甚」「はなはだ」。

「畜養ふ」「かひやしなふ」。

「匣」「はこ」。

「各色」「かきいろ」。この「色」は色彩ではなく、「種類」の意。

「有ㇾ托而逃者」「托(たく)すこと有りて逃(に)ぐる者」か。「別にある目的があって、ある状況から首尾よく逃げ去る者」の意か。出典は判らないが、「易経」や道家思想辺りから生まれた諺か。

甲子夜話卷之六 42 小田原侯、その祖先の事

6-42

林氏云。今の小田原侯【大久保加賀守忠眞】未だ寺社奉行たりしとき、常々相往來せし頃の話なりし。偃武以前之先祖、一月幾日と期を定て、主從ともその日は終日斷食なり。主人は早天より、臺所の外口に床机に腰を掛て日暮まで居しと云。物蔭にありては、いつ飮食するも人の知るべきならざれば、かくして家來中に示したるよし。是第一は斷食しても堪ることを習はし、次には一日主從の飯米を積めば、終歲には多分の數に盈るを、貯て軍用の手當としたりしとなり。又忠眞の話に、今は國恩を以て十萬の封地を襲げども、恐らくは祖先の本意に非るべし。參遠の頃、祖先代々、每ㇾ戰に功あれば少々づゝの御加恩被りしを、必ず子弟に分ちけり。その後、上より加恩賜しとき、元來大身になされんとの思召を以て下さるゝなり。子弟に分ち與ふべからずとの御沙汰ありしに、臣等が本意は、事に臨で御馬前に立塞り、身命を抛ち候をこそ專一と心得候。夫には一人も多く候が御爲なるべく候。大身になり候ときは、一方の大將を勤候間、御馬𢌞りの働きは出來申さず。御膝元を離れ候て戰べき人は、外にいかほども有るべくとて、始終增祿ごとに子弟に分ちければ、小身の同姓、今の如く多くなりたりと云。予是を聞て、眞にその赤忠に感じ入りぬ。世諺に九十大久保、百酒井と云。其頃の譜第衆の念慮は、皆同一樣に有し事なるべし。いかにも志の醇厚なること、世に難ㇾ有次第にこそ。

■やぶちゃんの呟き

「林氏」お馴染みの静山の友人の儒者林述斎。

「小田原侯【大久保加賀守息眞】」相模国小田原藩第七代藩主大久保忠真(安永七(一七七八)年(天明元(一七八二)年とも)~天保八(一八三七)年)。彼は財政窮乏の折りから、藩政改革のために、かの二宮尊徳を登用して改革を行なったことで知られる。ウィキの「大久保忠真」によれば、『尊徳は藩重臣・服部家の財政を再建した実績をすでに持っていた。忠真もその話を聞き、小田原藩の再建を依頼しようとした』。『しかし、尊徳の登用はすぐには実現しなかった。身分秩序を重んじる藩の重役が反対したのである』(尊徳は百姓の出身であった)。『そこでまず、忠真は』文政五(一八二二)年、『尊徳に下野国桜町(分家・宇津家の知行地、現在の栃木県真岡市二宮地区)の復興を依頼した。桜町は』三千『石の表高にも関わらず、荒廃が進んで収穫が』八百『石にまで落ち込んでいた。それまでにも小田原藩から担当者が派遣されていたが、その都度』、『失敗していた』。『尊徳が桜町復興に成功すると、次に忠真は重臣たちを説き伏せ、尊徳に小田原本藩の復興を依頼し、金』一千『両や多数の蔵米を支給して改革を側面から支援した』。これは天保八(一八三七)年のことで、『尊徳登用を思い立ってから』十五『年が経っていた。尊徳の農村復興は九分九厘成功したが』、この年、忠真が五十七歳で『突如として急死し、跡を嫡孫の忠愨』(ただなお)『が継ぐと、尊徳は後ろ盾を無くし』、『二宮尊徳による小田原藩の改革は保守派の反対によって頓挫した』とある。また、『幕政においては松平定信の推挙で老中となり』、二十『年以上在職』している。『政治手腕等においては、同役の水野忠邦に比較すると影は薄いが、反面』、『矢部定謙』(さだのり)、『川路聖謨、間宮林蔵(蝦夷地や樺太の探検で著名)など下級幕吏を登用・保護している』ともある。

「未だ寺社奉行たりしとき」それ以前の奏者番から、文化元(一八〇四)年に寺社奉行を兼務した時から、文化七(一八一〇)年に大坂城代となるまでの、約五年半。

「偃武」「偃」は「伏せる」の意で、「武器を伏せて、用いないこと・戦争をやめること」で、ここは江戸幕府開幕以後の、天下が太平になった時期を指す。

「床机」「しやうぎ」。脚を打ち違いに組み、尻の当たる部分に、革や布を張った折り畳み式の腰掛け。

「居し」「をりし」。

「堪る」「たふる」。

「盈る」「みつる」。

「貯て」「たくはへて」。

「襲げども」「つげども」。

「非るべし」「あらざるべし」。

「參遠」「さんえん」。遠江の家康の下(もと)に参ずること。

「每ㇾ戰」「いくさごとに」。

「上」「かみ」。

「臨で」「のぞんで」。

「立塞り」「たちふさがり」。

「身命」「しんみやう」。

「抛ち」「なげうち」。候

「夫には」「それには」。

「赤忠」「せきちゆう」。

「世諺」「せいげん」。

「大久保」家康・秀忠・家光三代に仕えた名臣大久保彦左衛門忠教(ただたか)。

「酒井」「徳川四天王」・「徳川十六神将」ともに筆頭とされ、家康第一の功臣として称えられる酒井忠次。

「同一樣」これで一語として「どういちやう」と読んでおく。

「醇厚」「じゆんこう」人柄が素朴で、人情にあついこと。

甲子夜話卷之六 41 駿府にて、江戶の辻切を、御使を請て板倉周防守、之を停止せし事

6-41

神祖駿府御在城の内、江戶にて御旗本の若者等、頻りに辻切して、人民の歎きに及ぶよし聞ゆ。此事いかゞ計はせられんと密議ありしかば、板倉周防守、自ら御使蒙らば速に停止すべしと乞ふによつて、其旨に任せらる。防州江戶に着して、御用有により一同登城すべきの旨を、御旗本中に傳ふ。いづれも登城候時、所々辻切の風聞專ら聞へ候。それを召捕候ほどの者なきは、武邊薄成行候事と思召候。いづれも心掛辻切の者召捕候へと御諚のよし申傳ヘしかば、其まゝ辻切止けるとぞ。

■やぶちゃんの呟き

「神祖駿府御在城」の内徳川家康は慶長一〇(一六〇五)年四月十六日、将軍職を辞するとともに、朝廷に嫡男秀忠への将軍宣下を行わせ、二年後の慶長一二(一六〇七)年には駿府城に移り、東国大名や幕府の制度整備を進める「江戸の将軍」秀忠に対して、「駿府の大御所」として、主に朝廷・寺社・西国大名・外交を担当した。所謂、「大御所政治」である。「大坂の陣」を挟んで、元和二(一六一六)年四月十七日、駿府城にて七十五歳(満七十三歳四ヶ月)で死去した。死因は現在では胃癌説が主流である。

「計はせられん」「はからはせられん」。

「板倉周防守」」板倉重宗(天正一四(一五八六)年~明暦二(一六五七)年)。駿河国生まれで板倉勝重の長男。下総国関宿藩藩主。秀忠の将軍宣下に際して従五位下周防守に叙任され、大坂の両陣に従軍。書院番頭を経て、京都所司代となり、父勝重とともに名所司代として知られた。

「御使」「おんし」

「速に」「すみやかに」。

「停止」「ちやうじ」。

「御用有により」「ごようあるにより」。

「御旗本中」「おはたもとちゆう」。

「武邊薄成行候事」「武邊(ぶへん)、薄く成り行き候ふ事」。

「思召候」「おぼしめしさふらふ」。

「心掛」「こころがけ」。

「召捕候へ」「めしとらへさふらへ」。

「御諚」「ごぢやう」。主君大御所様の仰せ・命令。

「止ける」「やみける」。

甲子夜話卷之六 40 町奉行大岡越州取計の事

6-40

[やぶちゃん注:大岡越前守忠相の粋で奇計の取り計らいなれば、特異的に、物語風に段落・空行を成形し、記号・句読点・読み(推定で歴史的仮名遣)も大々的に追加して、面白く読めるように改変した。

 

 寬延中、大岡越州(えつしう)、町奉行の時、下谷の肴町(さかなまち)より、

「其あたりの寺院八ケ所の肴代金、とり集めて百兩計(ばかり)、拂(はらひ)、なし。」

とて、

「某寺は 若干 若干(そこばく そこばく)」

と、詳(つまびらか)に書記(かきしる)し、訴へ出(いづ)。

 越州、書付を請取(うけとり)、肴賣(さかなうり)は、かへし、扨(さて)、其(その)八寺(はつかじ)を、差紙(さしがみ)にて、明日(みやうにち)、朝(あさ)とくに、呼出(よびいだ)し、夕方まで待(また)せ置く。

 寺僧ども、大に退屈して、かはるかはる、厠(かはや)にゆくに、壁に、張紙あり。

「某寺 肴代金 滯(とどこほり) 若干(そこばく)」

と書(かき)たてあるを見て、いづれも驚きたれども、爲(せ)ん方(から)も、なし。

 やゝ後(あと)に、用人、出(いで)、

「越前守、とくに退出候(さふらふ)ところ、不快によつて出坐致しがたし。まづ、今日は、引取られ候へ。」

と傳ふ。

 僧衆、歸(かへり)て、肴賣に、悉皆(しつかい/ことごとく みな)、滯金(とどこほりきん)を與(あた)ふ。

 其後(そののち)、何の沙汰もなし。

 

 又、紀邸(きてい)に、薪(たきぎ)代金、滯(とどこほり)千二百兩餘(あまり)有(あり)しを、薪屋、訴出(うつたへいづ)。

 越州、紀邸の勝手役人を呼(よび)よせ、薪屋に、帳面出(いだ)させて、

「いかゞ計ひ候はんや。」

といふ。

 紀の役人、有無の挨拶に及ばず。

 其時、越州、薪屋に向ひ、

「これは、其方(そのはう)損失に可ㇾ致(いたすべし)。」

とて、帳面に墨引(すみびき)をして渡す。

 紀の役人、かへりて、其よしを云ふにより、

「捨置(すておき)がたし。」

とて、滯金、殘らず、薪屋に渡りしと、なん。

 

 何れも、おもしろき事ども也。

 

■やぶちゃんの呟き

「寛延中」一七四八年から一七五一年まで。忠相は享保二(一七一七)年二月、普請奉行から江戸南町奉行に異動し、この時、越前守を名乗った。元文元(一七三六)年八月に南町奉行から寺社奉行に異動し、十五年後の寛延四(一七五一)年十一月、病気依願により寺社奉行を御役御免となっている(兼任していた奏者番の辞任は認められなかったらしい。その一年後、自宅療養中、宝暦元(一七五二)年一二月に逝去した)。されば、第一話の内容は、寺関係者を呼び出して奇計をとった点では寺社奉行の権限として附合するが、本文で「町奉行の時」と言っている点で齟齬するので、作り話である可能性が高いと考えるべきである。同時代から後年にかけて創作されてもて囃された「大岡政談」物の殆んどは創作であることはかなり知られている。

「下谷の肴町」現在のJR秋葉原駅附近に「牛込肴町代地」があった。

「差紙」「指紙」とも書く。江戸時代、尋問や命令の伝達のために、役所から日時を指定して特定の個人を呼び出す召喚状。

「朝とくに」「朝疾くに」。朝早くに。

「若干」実際に書かれてあったツケ代金の表記を憚った表現。「幾ら」。

「紀邸」ここは紀州藩上屋敷ととっておく。現在の東京千代田区紀尾井町周辺で、旧赤坂プリンスホテル・清水谷公園・紀尾井町ビルにかけて、実に当時の絵図では「二万四千五百四十八坪」とする広大な敷地を有した。ここ(グーグル・マップ・データ)。これは町奉行中の出来事であるから、当時の紀州藩藩主はまさに将軍となった吉宗の父方の従兄に当たる第六代藩主徳川宗直である。将軍家の御威光を使ったと思われては我慢ならぬからこその「捨置がたし」であろう。その心理戦的攻略方が面白い。

2022/03/22

岸田森と一晩語り合う夢

昨夜、私は、今は亡き名怪優にして私の愛する岸田森と、山の中のホテルで、見知らぬ湖畔を見渡しながら、ずっと、一晩中、語り合う夢を見た。未明に目覚めた時、目覚めたくなかった。覚醒した頭でその夢の内容を確認し、ブログに書こうと思っていた。素敵な笑顔で彼は静かに語って呉れたのだ。しかし、結局、起きて、飴のように延びた青褪めた日常を始めた途端に、『それを書くのは惜しい』と私は思った。それと同時に――その懐かしい思い出は、そのまま脳の底に隠された――のであった。

【以下はFacebook投稿版】

昨夜、私は、今は亡き名怪優にして私の愛する岸田森と、山の中のホテルで、見知らぬ湖畔を見渡しながら、ずっと、一晩中、語り合う夢を見た。それはいろいろな映画の話から始まった…………未明に目覚めた時、目覚めたくなかった。覚醒した頭でその夢の内容を確認し、ブログに書こうと思っていた。素敵な笑顔で彼は静かに語って呉れたのだ。しかし、結局、起きて、飴のように延びた青褪めた日常を始めた途端、

『それを書くのは惜しい!』

と私は思ったのだ。それと同時に――その懐かしい思い出は――そのまま私の脳の底に――永遠に隠された――のであった。そもそもが、感動した夢は、実は――人に語りたくはないことを本質とするもの――なのであろう。

 私は一九七〇年代の終りに、さる評論家が新聞の文芸欄で、

――現代文学は最早、書くべき対象を失ってしまって、感覚的生理的な皮相をスキャンダラスに描写するばかりで、真の面白さを完全に失ってしまっている。そうした痙攣状態に風穴を空けるとすれば、それは最早、我々が眠りの中で見る夢を記述する以外にはないのではないか?――

ということを書いていたのを思い出す。

私が夢記述を始めたのは、それ以来である。

しかし、最近は面白い夢は――殊更に――未明に反芻した上で――敢えて書かないようにしている。

まあ、それで、よいのだろう。…………

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) ポオの「マリー・ロオジエー事件」 / 「犯罪文學研究」~了

 

      ポオの「マリー・ロオジエー事件」

 

        、序  言

 ポウの探偵小說『マリー・ロオジェー事件』は、言ふ迄もなく、一八四一年七月、紐育を騷がせたメリー・ロオジヤース殺害事件を、パリーに起つた出來事として物語に綴り、オーギズュスト・デュパンをして、その迷宮入りの事件に、明快なる解決を與へさせたものである。小說は一八四二年十一月に發表されたのであつて、一八五〇年に出た再版の脚註に、ポオは、『マリー・ロオジェ事件は、兇行の現場から餘程はなれた所で書いたもので、硏究資料といつては色冷な新聞が手にはひつたゞけだつた。そのために、作者は、現場の近くにゐて親しく關係のある地點を踏査してゐたなら得られたであらう色々な材料を逸したものが多いとは言ひながら、二人の人物(そのうちの二人は此の物語の中のドリユツク夫人にあたるのだ)が、この物語を發表してからずつと後に、別々の時に私に告白したところによると、この物語の大體お結論ばかりでなく、この結論に到達するに至つた細々しい臆測の主要な部分は、悉く事實そのまゝだつたといふことである。』と書いて居るけれども、ポオが材料とした事實は、眞の事實とは幾分か違つて居るのであつて、從つてポオの與へた解決は實に怪しいものなのである。換言すればポオは自分の物語を讀者に一も二もなく納得させるために、前提として、自分に都合のよい材料をのみ選び出したらしい形跡があるのであるから、ボオの結論は、決してメリー・ロオジヤース事件の眞相を傳へたものとは言ひ難い。

 然らば、メリー・ロオジヤース事件の眞相は何であるかといふに、もとより今に至るまで明かにされて居ないのであつて、今後に於て解決されることは猶更あるまじく、所謂永遠の謎に外ならぬ。從つて私がこれから述べようと思ふのは、この謎に對する解決ではなくて、探偵小說家としてポオの名を不朽ならしめたこの物語の題材となつて居る事實を擧げて、讀者の比較硏究に資し、併せてポオの驚くべき推理の力について考察するに過ぎないのである。

[やぶちゃん注:『ポオの「マリー・ロオジエー事件」』アメリカの偉大な幻想作家エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe 一八〇九年~一八四九年)が雑誌『Snowden's Ladies' Companion』に、一八四二年十一月号・十二月号及び翌年二月号に分載発表した短編推理小説「マリー・ロジェの謎」(The Mystery of Marie Rogêt)。前作でポーの最初の知られた本格推理小説「モルグ街の殺人」(The Murders in the Rue Morgue:一八四一年)に引き続いて、オーギュスト・デュパン(Auguste Dupin)が探偵役として登場する。

「メリー・ロオジヤース殺害事件」メアリー・セシリア・ロジャース(Mary Cecilia Rogers 一八二〇年頃 ~一八四一年七月二十八日(遺体発見日)殺害事件。詳しくはウィキの「メアリー・ロジャース」を参照されたい。しかし、まずは、ポーのそれを読むに若くはない。未読の方は、原文が英文「wikisource」のこちらにある。英語の苦手な方には、幸いにして「青空文庫」に佐々木 直次郎氏の訳がある。なまぐさな方にはお薦め出来ないが、当該ウィキもある。]

 

        、メリー・ロオジヤース事件に關する事實

 その當時にすらわからない事實であるから、大部分の記錄が失はれてしまつた今日、もはや如何ともすることは出來ない。私たちはむしろポオの小說によつて、この事件の眞相を敎へられるといふ皮肉な立場に居るのであつて、かの Third Degree と稱する特種の訊問法を發明したバーンス探偵の著書『アメリカの職業的犯罪者』中のこの事件の記述さへ、ポオの物語の影響が見られるといふことである。尤も、ポオの小說がなかつたならば、たとひ、殺されたのがニユーヨークで評判の美人であつても、この事件はこれ程有名にならなかつたであらうから、ポオの物語の内容が重要視せられるのは無理もないことかも知れない。

[やぶちゃん注:「Third Degree」「と稱する特種の訊問法」一般名詞としては「第三度」「第三級」の意であるが、アメリカ英語で「警察が容疑者などに行う厳しい尋問・取り調べ」を指す語で、これは次注のトーマス・バーンズの発案になる肉体的及び精神的拷問を含むそれが起源である。

「バーンス探偵の著書『アメリカの職業的犯罪者』」トーマス・バーンズ(Thomas Byrnes 一八四二年~一九一〇年)はアイルランド生まれのアメリカ人警察官。一八八〇年から一八九五年までニューヨーク市警察の探偵部長を務めた。彼が一八八六年出版した“Professional Criminals of America”。前注とこの注は英文の彼のウィキに拠った。]

 チヤーレス・ピアスの著『未解決殺人事件』によると、この事件の記錄は、前記バーンスの著書と、ニユーヨーク・トリビユーン紙の記事より他にこれといふ目ぼしいものはないさうである。千八百四十一年代の新聞はこのトリビユーン紙を除いては現今見ることが出來ないのださうであつて、而もポオはこのトリビユーン紙の記事を一つもその物語の中に引用して居ないのであるから、ポオが當時の新聞記事として引用したものが、果して本當のものかどうかといふことさへ確かめることが出來ぬのである。が、それは兎に角、先づ、私はピアスの著によつて、この事件に就て知られたる事實を述べようと思ふ。

[やぶちゃん注:「チヤーレス・ピアスの著『未解決殺人事件』」サイト「小酒井不木全集引用文献DB」のこちら他によれば、イギリスの作家チャールス・ピアス(Charles  Pearce 一八九四年~一九二四年)の“Unsolved Murder Mysteries”(一九二四年刊)。]

 メリー・セシリア・ロオジャースは、その當時ニューヨークの下町に出入する男で知らぬものはないといってよい程であった。彼女は一八四〇年、ブロードウエーはトーマス街ストリート近くのアンダアスン(小說ではル・ブラン君)という人の煙草店に賣子として雇われたのであるが、その美貌のために店は大繁昌を來し、當時二十歲の彼女は、Pretty cigar girl と綽名されて後にはニユーヨーク中の評判となった。彼女の母はナツソー街に下宿屋を營んでオフイス通ひの人たちに賄附ききで間貸しをして居たのである。

 一八四一年の夏もまだ淺い頃、ある日彼女は突然店を休んで約一週間ほど姿をあらはさなかつた。この事はたゞちに人々の話題となり、彼女が丈の高い立派な服裝をした色の淺黑い男と一緖に步いて居るのを見たといふものがあつて、眼尻の下つた連中に岡燒半分に噂されたものである。店へ歸つて來ると彼女は、田舍のお友達の家をたづねたのだと語つたが、その眞相は誰も知らなかつた。

 然し、そのことがあつて間もなく、彼女は煙草屋の店を退いて家に歸つたので、彼女の店にせつせと通つて不要な煙草を買つた連中は、掌中の珠を奪はれたかのやうに落膽した。しかも彼女は家に歸ると間もなく、下宿人の一人なるダニエル・ペイン(小說ではサン・チユースターシユ)と婚約したといふ噂が傳つて、人々は一層失望した。

 七月二十五日(日曜日)の朝、彼女はペインの室の扉をノツクして、今日はこれからブリーカー街の從姉のドーニング夫人をたづねますから、夕方になつたら迎へに來て下さいといつて家を出た。が、それが今生の別れであらうとはペインは夢にも思はなかつたのである。なほ又、彼女がそれから死骸となつて發見されるまで、彼女の生きた姿を見たものは一人もなかつた。

 その朝は快く晴れて居たが、正午過から天氣が變つて、夕方にははげしい雷雨となつた。それがため、ペインは彼女との約束を果さなかつたが、從姉の家なら泊めてもくれるであらうと思つて、彼は少しも氣に懸けなかつたのである。あくる日彼は平氣で仕事に出かけ、晝飯を攝りに歸つて來たが、その時まだメリーが歸らぬときいて、始めて心配になり出したので、とりあえず、ドーニング夫人の許を訪ねると、意外にもメリーは昨日來なかつたと聞いて吃驚仰天し、家に駈け戾つて、母親に事情を告げた。それから人々は心配の程度を深めつゝ彼女の歸宅を待つたが、とんと姿を見せなかつたので警察に訴へて搜索して貰つた。しかし一日と過ぎ二日と經つても彼女は歸らないのみか、どこに居るかといふことさへわからなかつた。

 ところが八月二日になつて、トリビユーン紙にはじめて次の記事が載つたのである。

『戰慄すべき殺人事件。「美しい煙草屋の娘」として名高いロオジヤース孃は先週日曜日の朝、散步して來ると、ナツソー街の自宅を出たが、劇場橫町の角で待ち合せて居た若い男と共に、ホボーケンにでも遊びに行くとてかバークレー街の方へ步いて行つた。その以後、消息がふつつりと絕えたので、家族朋友は大に心配して、火曜日の新聞には廣告をしてまでその行方をたづねることになつた。けれども、何處からも何の知らせもなかつたが、水曜日に至つてルーサーといふ人と他の二名の紳士が帆船でホボーケンのキヤスル・ポイントに近いシヴィル洞孔を通過しつゝあつた時、水中に若い女の死骸のあることを發見し、大に驚いて、とりあへず河岸に運んで屆け出たところ、直ちに審問が行はれ、その結果、件の死骸はロオジヤース孃のそれとわかつた。彼女はむごたらしい暴行を加へられた後殺されたもので、「未知の人又は人々による他殺」なる宣言が下された。彼女は善良な性質の娘で近くこの市の某靑年と結婚する筈であつた。聞くところによると、殺害が行はれてから行方を晦ましたある靑年に嫌疑がかゝつて居るとの事である。』

 この記事の始めにある、彼女が町角である靑年と逢つて共にホボーケンへ行かうとしたといふことは、かゝる殺人事件に伴ひ易い單なる風說に過ぎなかつたのであつて、その後二度と新聞に繰返されなかつた。バーンスの著書は多分警察の記錄に從つて書かれたものらしいのであるが、それによつて發見當時の死骸の狀態を述べると、彼女の顏は甚だしく傷害を受け、腰のまはりに、短い紐によつて重い石が附けられてあつた。彼女は彼女の衣服から引き裂かれた布片で絞殺され、兩腕のまはりに紐の跡がはつきり附いて居た。兩手には薄色のキツドの手袋をはめ、ボンネツトは、リボンによつて頸にひつかゝつて居た。さうして衣服全體が甚だしく亂れ且つ引き裂かれてあつた。

[やぶちゃん注:「キツド」「キッド」(kid)は「キッド・レザー」(kid leather)の略称。仔山羊やそれに類するものの「鞣革(なめしがわ)」。羊皮より繊維の密度が大で丈夫だが、子牛皮よりは粗い。表面(銀面)も子牛皮ほどではないが、耐摩耗性もあり、優雅な感じがし、柔軟でもある。高級靴の甲革・手袋・袋物などに用いられる。原皮の産地は中央ヨーロッパ・中央アジア・インドなどが有名。

「ボンネツト」bonnet。「ボネット」。 女性・子供用の帽子。前額はまる出しにして、頭の頂上から後ろにかけて深く被る型のものを総称する。典型的なものは紐を顎の下で結ぶ。ツバのあるものとないものとがある。]

 八月六日、トリビユン紙は二度目の報知を揭げた。『ロオジヤース孃殺害事件は日に日に人々の興味を喚起しつつある。……一週間を經るもなほ犯人は不明であつて、警察は躍起になつて活動して居るけれどっも、もはや遲過ぎる感がないでもない。市長は自ら賞を懸ける前にニユ・ジヤーセー州知事の懸賞を待つて居るとの噂があるが、それは誤聞であるらしい。……失踪當日の日曜日にホボーケンで彼女を見た人はないか? 若し警察へ告げてかゝり合ひになることを恐れて居る人があるならば、新聞社へ手紙を送つて貰ひたい。』

 けれども、これに對して何人も返事するものはなかつた。八月十一日、彼女と婚約の間柄なるペインは、判事パーカーに警察へ呼出されて長時間の訊問を受けたが、犯人の手がかりは少しも得られなかつた。トリビユーン紙はこのことを報告すると同時に、ペインが彼女の失踪後二日三日の間、自ら搜索を行ひつゝあつたに拘はらず、水曜日に彼女の死體が發見されたといふ報知を得ながら、それを見に行かなかつたことを不思議な現象だとして特に世人の注意を促した。

 その日は警察でペインを中心として午前八時から午後七時まで熱心な硏究が行われたが、死體がロオジヤース孃に間ちがひないといふ程度以上に搜索は進まなかつた。死體鑑別の證人は幾人かあつたが、そのうちには、メリーの以前の求婚者たるクロムリン(小說では、ボオヴェー君)も居た。この男は、心配事があつたら、いつでも呼びに來てくれとでも言つてあつたのか、メリーが殺される前の金曜日にロオジヤース夫人(メリーの手蹟で)から、一寸來てくれといふ手紙を受取つたが、先だつて訪ねたとき、冷淡な待遇を受けたので、行くことをしなかつたのである。が、土曜日に、彼の家の石の名札にメリーの名が書かれ、鍵孔には薔薇の花が插してあつた。水曜日にクロムリンは死體發見の報を得てホボーケンへ行つて夕方まで居たが、天候がいやに蒸暑かつたので、審問が大急ぎで濟まされ、死體は埋葬された。で、彼が歸宅しようと思つてハドスン河を渡らうとしたが渡船が出なかつたので、ジヤーセー市まで步いた。然し、こゝでも船は出なかつたゝめ、やむなく宿泊するに至つた。だからメリーの死體は母親の目にもペインの目にも觸れなかつた譯で、たゞその衣服によつて、メリーだといふことが鑑別された。

 死體を最初に發見した紳士たちは、彼女が寶石類を身につけて居なかつたことを誓つた。而も、彼女はたしかに寶石を身につけて、家を出たらしいのである。なほ又紳士たちは、紐も繩も死體には卷かれてなかつたといつたので、この點バーンスの記載と頗すこぶるちがつて居るけれども、どちらが本當であるかは、今になつて知る由もない。

 彼此するうちに、ここに新らしいセンセーシヨンが起つた。それは何であるかといふに、以前ナツソー街一二九番地に住んで居たモース(小說ではマンネエ)といふ木彫師が犯人嫌疑者として逮捕されたことである。彼はマツサチユセツト州ウースターから七マイル[やぶちゃん注:十一キロメートル弱。]離れた西ボイルストンで八月九日に逮捕されたのであつて、その前數日間といふもの、彼は假名のもとにその邊をうろついて居た。逮捕される前、ウースターの郵便局でニユーヨーク發の彼宛ての手紙が發見されたが、その中に髭を剃り服裝をかへて探偵の眼をくらませるがよいといふ忠告が書かれてあつた。訊問の際彼は、細君毆打の廉[やぶちゃん注:「かど」。]で逮捕されたときいて『それだけですか』と言ひ、なほ七月二十五日、何處に居たかと問はれて、始めはホボーケンへ行つたといひ、後にはステーツン・アイランドへ行つたと言つた。

 このモースといふ男は小柄ながつしりした體格をして黑い頰鬚を生し、さつぱりした服裝をして居たが、性質は善良とはいへない方で、博奕が非常に好きであつた。度々煙草店を訪問してメリーとも知り合の仲であつたし、問題の日にメリーと一しよに步いて居たといふ證據が擧げられたし、その夜家に居なかつたし、翌日トランクを自宅からオフイスへひそかに運んで、假名でニユーヨークを逃げだし、その上に前記の手紙が發見されたといふのであるから、彼が犯人嫌疑者と考へられたのは無理もなかつた。

 けれども、これは、やはりとんでもない誤謬であつた。モースがその日若い女とステーツン・アイランドへ行つたことは事實であるが、その女はメリーではなく、メリーに似た女に他ならなかつたのである。で、トリビユーン紙は、この事を記した後、『これまで、搜索の步は、日曜日の夜に殺害が行はれたものとして進められて來たが、日曜日の午前か、或は又月曜日の日中又は夜分に行はれたものとしては間違であらうか。この點當局者の熟考を煩はしたい。』と書いて居る。さうして、遂に、以前の記事を取消して、メリーは母の家を出てから死體となつて發見される迄何人にも見られなかつたと書かざるを得なくなつた。

 日はだんだんと過ぎて行つたが犯人の手がゝりは何一つ發見されなかつた。で、たうとう九月十日になつて、ニユーヨーク州知事は、犯人を告げたものには七百五十弗の賞を與へると廣告したのである。然し、殘念ながら、この方法も不成功に終つた。

 さて、前にも述べたごとく、當時の新聞はニユーヨーク・トリビユーン紙の他、一つも見ることが出來ぬのであるから、もとより臆測に止まるけれども、若し官憲が記事差止めを命じたならば他の新聞も同樣の命令を受ける筈であるから、たとひ、他の新聞を見ることが出來ても、恐らくこれ以上のことはわかるまいと思はれる。けれどもバーンスの著書の中には、トリビユーン紙に載つて居ない事實でニユーヨーク・クーリエ紙の九月十四日附の記事として、左の文句が引用されてあるのである。

『ウィーハウケン(小說ではルール關門)附近の堤防に小さな酒屋を開いて居るロツス夫人(小說ではドリユツク夫人)は、市長の前で訊問された結果、メリーが七月二十五日の晚、數人の若い男と共に、彼女の店に來て、そのうちの一人の差出したリモネードを飮んだことを告げた。死體の着物はロツス夫人もメリーのものであることを認めた。』

 この記事を敷衍してバーンスはなほ次のような記述を行つて居る。懸賞のことが廣告されたあくる日、無名の手紙が檢屍官の許に屆いた。讀んで見ると、筆者が日曜日にハドソン河畔を散步して居ると、ニユーヨーク側から一艘のボートがこちらの河岸へ漕れて來たが、それには六人の荒くれ男と一人の若い女が乘つて居た。その女は他ならぬメリーであつた。ボートはホボーケンにつき、一同は森の中へはいつたが、彼女はにこにこしながらついて行つた。丁度、一同の姿が見えなくなつた頃、別のボートがニユーヨーク側からやつて來て、その中に居た三人の立派な服裝をした男は、同じくホボーケンで上陸し、筆者に向つて、今こゝを六人の男と一人の娘が通らなかつたかとたづねた。で、筆者が、通つた旨を答へると、更に三人は娘が厭々引張られて行きはしなかつたかとたづねた。そこで、喜んでついて行つた樣子だと答へると、三人はさうかと言つて、再びボートに乘つて引返して行つたといふのである。

 この手紙は新聞紙に發表されたといふことであるが、トリビユーン紙には載つて居ない。バーンスによると、更にその後、アダムスといふ男が、メリーを問題の日曜日にホボーケンのある渡し場で見たことを申し出た。彼女はその時、丈の高い色の黑い男と連立つて居て、二人はエリジアン・フィールドの休憩茶屋へ行つたといふのである。このことを既記のロツス夫人にたづねると、その日、その通りの男が店へたづねて來て、一ぱい飮んでから森の方へ行つたのは事實であつて、暫らく經つてから女の悲鳴のやうなものが聞えて來たがそのやうなことはいつもあり勝ちのことであるから別に氣にとめなかつたといふのであつた。

 以上の話の中の女が果してメリーであつたかどうかはわからないから、このことが、事件の眞相を形つて[やぶちゃん注:「かたどつて」或いは「かたちづくつて」。]居るものとは無論言はれないのであるけれども、ポオはこれを、有力なる論據として解決しようとしたのである。さうして、バーンスは、更に次のやうに書いて居る。

『犯罪の行われた場所は九月二十五日卽ち殺害の滿二ケ月後にロツス夫人の小さな子供たちによつて發見された。卽ち彼等が森へ遊びに行くと、奧の叢林の中に白の袴と絹のスカーフとMRといふイニシアルのついたパラソルと麻の手巾とを發見したのである。その附近の土地は踏み荒され、雜草の幹は折られ、はげしい格鬪の跡が認められた。さうしてその叢林の中から、ちようど死體を引摺つたやうな跡が一本河の方に向つてついて居たが、やがて森の中で消えて居た。さうして、それらの遺留品はすべて、メリーのものであると判別された。』

 このことは、トリビユーン紙には一語も記されて居ない。なほ又、メリーの婚約者であるペインが彼女の死に遭遇して悲歎のあまり自殺したといふことも載つては居ない。しかしポオはこれ等のことを彼の物語の中に引用して居るのである。さうして、バーンスのこの記述は、殘念ながら、その出所が明かにされて居ないばかりか、何だかポオの物語が多少影響して居るやうにも思はれる。然しポオの物語が悉く信賴すべき事實に據つて書かれたものだとはバーンスも思はなかつたであらう。して見ると眞實であるかとも思はれる。けれど、もとより絕對に信を措く譯にはいかぬのである。

 

        、事件の眞相

 以上が、メリー・ロオジヤース殺害事件に關する事實の主要なるものであつて、これらの僅少な事實からして、事件の眞相を判斷することは到底不可能のことである。

 ことに最も殘念に思はれることは、死體を檢査した醫師の言葉が、信賴すべきところに記されてないことである。審問の行はれるときに醫師が立合はぬ筈はないのに、そのことがトリビユーン紙にも書いてなければ、バーンスの著書にも書いてない。たゞポオのみが醫師の屍體檢案書のことを書いて居る。ところがポオはクロムリン(小說ではボオヴェー君)がウイーハウケン(小說ではルール關門)の附近を搜索して居る際に、ちようど漁夫等が、河の中に一つの死體を發見してたつた今網で岸へ曳き上げたところだといふ知らせを受け、駈けつけて死體の鑑別を行つたやうに書いて居るけれども、實際は前に記したやうに、クロムリンは、死體發見の報知を自宅で受けてからホボーケンへ行つたのであつて、彼が到着した時分にはすでに審問が始まつて居たにちがひない。而もこのことはトリビユーン紙に出て居るけれどもバーンスの記述の中にはクロムリンのことは一語も書かれていないのである。いづれにしてもクロムリンがゆつくり死體を見ることが出來なかつたのは想像するに難くない。

 ところがポオは、クロムリンの鑑別に携つたことを書いて後、死體の狀態を記述して精細を極めて居る。『顏には黑血がにじんで居た。その血の中には、口から出た血も混つて居た。たゞの溺死者の場合に見られるやうな泡は見えず、細胞組織には變色はなかつた。咽喉のまはりには擦過傷がついて居り、指の痕がのこつて居た。兩方の腕は胸の上に曲げられて剛直して居り、右手はかたく握りしめ、左手は半ば開いてゐる。左の手頸には、皮膚の擦りむけたあとが二すぢ環狀になつて殘つて居た。それは、二本の繩でゞきたものか、或は一本の繩を二重に卷いて縛つたゝめにできたものかであることは明瞭だつた。右の手頸の一部分もよほど皮膚が擦りむけてをり、それからひきつゞいて右腕の背部一面に皮膚が擦りむけて居たが、とりわけ、最もひどかつたのは、肩胛骨の部分だつた。漁夫等は、この屍體を岸へ曳きあげるときに、屍體に繩をむすびつけたといふことであるが、どの擦れ傷もそのためにできたものではなかつた。頸部の肉は膨れ上がつて居た。切傷のあとや、打撲傷らしいものは一つも見られなかつた。頸部のまはりをレース紐でかたく縛つてあるのが發見された。あまりかたく縛つてあるので、紐がすつかり肉の中に食ひ入つてゐて外からは見えなかつた。その紐はちようど左の耳の下のところで結んであつた。これだけでも優に致命傷となつたであらうと思はれる。醫師の死體檢案書には死人の貞潔問題が自信をもつて記してあり、死者は野獸的な暴行を加へられたのであると述べてあつた。』

 この詳細な記述が醫師の死體檢案書に書かれてあつたものでないことは決して想像するに難くはない。何となればポオが醫師の檢案書を取り寄せたとは考へられぬし、このやうな委しい記述が當時普通の新聞に發表されることはなからうと思はれるからである。卽ち以上の記述及びそれに續く衣服の狀態の記述は、全く彼の想像力の所產と見るべきである。

 ポオは小說を作るのが目的で、事實を紹介するのが目的でなかつたから、それでよいとしても、バーンスとなるとさうはいかない。ところがバーンスの記述を讀むと幾分かポオの記述と似て居て、しかも前に述べたやうに、腰のまはりに短い紐で重い石が附けられてあつたと書かれて居るのである。然るに死體を最初に發見した人たちは、身體には紐や繩らしいものは一本も附いて居なかつたと證言して居るのであつて、かうなると一たいどう信じてよいか判斷がつきかねるのである。

 若し醫師の檢案書が果して他の新聞に發表されたとしたならば、ポオは死體が幾日間水中にあつたといふことについて、ヂユパンに長い議論をさせる必要はない筈である。なほ又、死體がメリーであるか無いかの疑問も起らない譯であつて、あの長々しいアイデンチフイケーシヨンに關する說明もしなくつてすんだ譯である。しかし、探偵小說を書くためには、溺死體が水に浮ぶか否かの議論もしなければならぬし、又、個體鑑別論も書かなければならない。實際あの小說の三分の一を占める明快な個體鑑別論によつて、讀者はヂュパンの驚くべき推理に敬服し、次で行はれる事件の解決を一も二もなく受け容れねばならなくなるからである。だから、私たちは、ポオの引用したエトワール紙(事實ではニユヨーク・ブラザー・ジヨネーザン紙)の『死體はマリーに非あらず』といふ議論は、恐らく、ポオが議論するために假に設けたのではあるまいかと疑つて見たくなる譯である。

 發見された死體の狀態の記述がこのやうに區々[やぶちゃん注:「まちまち」。]である以上、たとひ死體がマリーであることに疑ないとしても、彼女がどんな風な殺され方をしたかといふことを、死體の狀態から判斷することは不可能である。從つて私たちは、死體を離れて、注意をホボーケンに向け、もつて彼女の死の眞相を推察しなければならぬのである。

 ところが、前に記したやうに、ホボーケンで、彼女を見たといふロツス夫人やアダムスの證言は決して斷定的のものではない。又森の中で發見されたといふマリーの所有品の記述も、どこまでが本當であるかを知るに由ないのである。從つてポオの、犯人は一人であつて、惡漢たちの仕業でないといふ結論も容易に贊成することが出來ないのである。ポオはメリーの第一囘の失踪が海軍士官と一しよであつたことから、海軍士官が犯人だろうと推定し、メリーの心を想像して次のやうに書いて居る。

『……自分は或る人と駈落ちの相談をするために會ふことになつて居るのだ。駈落ちでないとしても、それは自分だけしか知らない或る目的のためだ。そのためには、どうしても、はたから邪魔されたくない――あとから追つかけて來ても、それまでに行方をくらましておけるだけの時間の餘裕をこさへておかなくちゃやならない――だから自分はドローム街の伯母さん(ブリーカー街の從姉)のとこへ行つて一日ぢゆう遊んで來るつてみんなのものに告げておくことにする――サン・チユスターシユ(ペイン)には、暗くなるまで迎へに來ちやいけないつて言つとく――さうすれば、できるだけ長い間、誰にも疑はれず、誰にも心配かけずに家を留守に出來るといふものだ。時間の餘裕をこしらへるにはそれが一番いゝ方法だ。サン・チユスターシユに暗くなつてから迎ひに來て下さいつて言つておけば、あの人はきつとそれまでに來る氣遣ひはない。だけど、迎ひに來てくれとも何とも言はずにおけば、自分の逃げる時間の餘裕が減つて來る勘定だ。何故かつていふと、皆んなの者は自分がもつと早く歸ると思つて、自分の歸りが少しでもおくれると心配するからだ。……』

 マリーの精神分析はこのやうに精細を極めて居るけれども、これによつて、殺害の祕密は少しも明かにされては居ないのである。ことに、『だけど、自分はもう二度と家へは歸らないつもりだから――或はこゝ何週間かは家へ歸らないつもりだから――或はまた人に言へない或る用事をすます迄は歸らないつもりだから、自分にとつては、たつぷり時間の餘裕をこさへることが何より肝腎なんだ。』といふ、言葉に至つては、彼女が死體となつてあらはれるに至る事情を說明するといふよりも、むしろ、まだ何處かに生きて居つて、死體は彼女でないと說明するのに都合がいゝくらゐである。尤もこれは犯人が一人だとの推定を裏書きするための議論であるから已むを得ないことでもあらう。

 第一囘の失踪を第二囘の失踪卽ち殺害と關係あるものと考へたポオの推定は、犯罪學的に見て頗る當を得て居るのである。ところがポオは第一囘の失踪と第二囘の失踪との間の時日を夕刊新聞六月二十三日の記事によつて、約三年半として推定を行つて居る。ポオは物語の始めに約五ヶ月と書いて、後に三年半として推定を行つて居るのは變である。マリーは煙草店に一年半ばかりしか居なかつたので、三ケ月半の書き違いかとも思へるけれど、「第一のたしかにわかつて居る駈落ちと、第二囘目の假定の駈落ちとの間に經過した時間は、アメリカの艦隊の一般の巡航期間よりも數ケ月多いだけだといふことだ。」と書いて居るところを見ると、やはり三年半と見てのことであるらしい。して見ると海軍士官をマリーの戀人と見るのは頗るおかしく、從つて色の淺黑いことや、帽子のリボンの『水兵結び』なども、事件の眞相から眺めて見れば一種のこじつけになつて來るのである。尤も海軍士官云々の說は六月二十四日のメルキユール紙の『昨夕發行の一夕刊新聞は、マリー孃が、以前に合點のゆかぬ失踪をしたことがある事件に言及して居るが、彼女が、ル・ブラン氏の香料店にゐなくなつた一週間、彼女が若い海軍士官と一しよにゐたのであるといふことは周知の事實である。この海軍士官は有名な放蕩者であつた。幸にして、二人の間に仲たがひが起つたために、マリーは歸るやうになつたのだと想像されて居る。』といふ記事を根據としたものであらうけれど、夕刊新聞には、第一囘の失踪の原因について、マリーも母親も、田舍の友達のところへ遊びに行つたのだといつて居るに反し、メルキユール紙が、『海軍士官と一しよに居たことは周知の事實である』と書いて居るのも少々をかしいやうに思はれる。海軍士官のことがもし周知であるならば、メリーの母親の知らぬ譯はなく、從つて母親を訊問した警察の記錄には載つて居る筈で、それを調べた筈のバーンスの著書には當然書かれて居なければならぬのに、その記述はないのである。

 最後に、メリーが何處で殺されたかの問題も、知れて居る事實だけから推定してこれを解決することは頗る困難である。しかし、メリーの死體がハドソン河から發見されたことは、ハドソン河の近くで殺害の行はれたことを想像するに難くはない。現今ならばメリーの衣服に着いて居る塵埃や草の葉の破片などから、それを顯微鏡的に檢査することによつて兇行の場所を推定することが出來るであらうけれども、當時は常識的に判斷するより他はなかつた。若しウィーハウケン(小說ではルール關門)の近くで認められたといふ女がメリーであつたならば、兇行はやはりその附近で行われたものとするのが、常識的に見て當然のことである。

 そこで今度はメリーが一人の男に殺されたのか又は一團の惡漢たちに殺されたかといふ問題が起つて來る。何となればメリーは六人のものと一しよだつたといふ見證と、色の淺黑い男と一しよだつたといふ見證とがあつたからである。無論前にも述べたごとく、これらの見證は頗る怪しいものであるが、假りにそれを是認するならば、ポオの推定したやうに一人に殺されたとした方が理窟に合ふやうである。然し當時の人達は格鬪した形跡の發見を基として一團の人達に殺されたと信ずるものが多かつたのである。ポオの文章の中に『まづ手初めに檢屍に立ちあつた外科醫の檢案なるものが出鱈目なものだといふことをちよつと言つておかう。それにはたゞこれだけのことを言つておけばよいのだ。あの外科醫が下手人の數について發表して居る推定なるものが、パリーの第一流の解剖學者たちによつて、不當な、全然根據のないものだとして一笑に附せられて居るといふことをね。』

 とあるところを見ると、檢屍に立ちあつた醫師までが犯人の多數說を建てたと見える。然し、このことも、恐らく前に述べたやうにポオの空想から生れた『事實』であらうと思はれる。

 そこで次に、ポオはこの世間の說を反駁するために、

『まあ、格鬪の形跡なるものをよく考えて見よう。一體この形跡は何を證明するといふんだと僕は訊ねるね。それは一團の惡漢のしわざであるといふことを證明して居るのだが、むしろ、これは、一團の惡漢のしわざでないといふことを證明してるぢやないか。いゝかね、相手はか弱い、全く抵抗力のない小娘だぜ。こんな小娘と、想像されてゐるような惡漢の一團との間にどんな挌鬪[やぶちゃん注:ママ。誤植であろう。以下も同じ。]が行はれ得るかね。……二三の荒くれ男がだまつて鷲づかみにしてしまやあ、それつきりだらうぢやないか。……これに反して、兇行者がたゞ一人であると想像すれば、その場合にのみはじめて明白な形跡をのこすやうな、はげしい挌鬪の行はれたことが理解できるのだよ。次に、僕は例の遺留品が、抑も[やぶちゃん注:「そもそも」。]發見された場所におき忘れてあつたと言ふ事實そのことに疑ひがあるといふことを言つといたが、こんな犯罪の證據が、偶然にある場所に遺棄してあるといふことは、殆んど有り得ないことのやうに思はれるね。……僕の今言つてるのは殺された娘の名前入りのハンカチのことなんだ。たとひ、これが偶然の手落ちであるとしても、それは徒黨を組んだ惡漢の手落ちぢやないね。一人の人間の偶然の手落ちだとしか想像できないね、いゝかね、或る一人の兇漢が殺害を犯したとする。彼はたつた一人で死人の亡靈と向ひあつてるのだ。……彼はぞつとする。……けれども死體をどうにか始末する必要があるのだ。彼は他の證據物はうつちやつておいて死體を河ぶちまで運んで行く。――ところが一生懸命に骨を折つて死體を河まで運んで行く間に、心の中で恐怖は益々募つて來る。……どんな結果にならうとも、彼は斷じて引き返せないのだ。彼のたゞ一つの考はすぐに逃げ出すことだ。……』

 と書いて犯人の一人說を主張し、併せてその犯人の行動をも推定して居るのである。さうしてなほ、死體の上衣から、幅一呎[やぶちゃん注:一フィート。三十・五センチメートル弱。]ばかりの布片が裾から腰の邊まで裂いて、腰のまわりにぐるぐると三重に卷きつけて、背部でちょつと結んでとめてあつたことを、犯人が一人であつたために死體を運ぶための把持とされた證據だと述べて居るのである。

 然し、玆に[やぶちゃん注:「ここに」。]於て、ポオは、實は一つの論理的矛盾に陷つて居るのである。何となれば彼は、叢林の中に殘された品物が三四週間も發見されずにあるといふことは考へられないから、それらの品物は、兇行の現場からわきへ注意をそらさうといふ目的で、わざと叢林の中へ置かれたものだらうと推定して置きながら、前記の文中には、その場所を兇行の現場と認め、なお、品物は犯人が偶然殘して置いたのであるやうに推定して居るからである。このことは昨年の三月二十七日發行の『ゼ・デテクチヴ・マガジン』にボドキン判事によつて指摘され、同氏は、この自家撞着があるために、この作品に對する期待を打ち壞されてしまつたと言つて居る。

 なほ又、ウエルス女史が指摘したやうに、裾から腰の邊まで裂かれた布片きれが、マリーの腰のまはりを三重に卷くといふことも彼の論理的の矛盾といふことが出來るのであつて、實際に死體を發見した人たちが、死體には紐も繩も見られなかつたと證言したところを見ると、このこともポオの空想から生み出された『事實』といつてよいかも知れない。

[やぶちゃん注:「ウエルス女史が指摘した」不詳。]

 いづれにしても、かような論理的の矛盾――ボドキン判事やウエルス女史の指摘した點及び、第一囘失踪と第二囘失踪との間の時日に關する點などが――この小說に發見されるといふことは、『マリー・ロオジェー事件』が、必ずしもメリー・ロオジヤース事件を說明するもので無いと斷言し得るのであつて、ポオが推理の材料とした『事實』がまた必ずしも眞實でないことを想像し得るのである。

 して見ると、ポオがこの物語の一八五〇年版に附加した脚註(この文の最初に揭げた)はデフオーがしばしば用いた手段と同じやうに、讀者の感興を深からしめるための方策に過ぎないといつても差支ないと思はれる。

 以上のやうな譯で、メリー・ロオジヤース殺害事件なるものは、嚴密に言へば犯人が如何なる種類の人間であつたかといふことのみならず、何處で殺害が行はれたかといふことさへわからぬ謎の事件なのである。

 

     、探偵小說としての「マリー・ロオジェ事件」

 マリー・ロオジェ事件は、もとより探偵小說であつて事件の記錄ではないが、その中に前節に述べたような論理的矛盾のあるといふことは、探偵小說としても幾分の感興が薄らぐ譯である。然るに、この小說を讀んで居ると、ヂュパンの明快な議論と、その齒切れのよい言葉に魅せられて、どうかすると、これらの論理的矛盾に氣がつかないのは、偏にポオの筆の偉大なことを裏書きするものであるといつてよい。實際、探偵小說を愛好される讀者は、恐らくこの小說を讀んで、多大の興味を覺えられるにちがひないと思ふ。

 ポオがこの物語を綴るに至つた動機が何であるかはもとより知る由もないが、警察の無能に憤慨して筆を取つたといふよりも、この事件を種として、ヂュパンの性格を一層はつきりせしめ、ポオ自身の推理力を遺憾なく發揮して見ようと企てたのであらうと思はれる。さればこそ、既に述べたやうに死體の個體鑑別に殆んど物語の三分の一を費して居るのである。さうしてその個體鑑別の精細な點は實に驚嘆に値する。『まあもう一度、ボオヴエー君の死體鑑別に關する部分の議論をよく讀んで見給へ……」から以下の文章は、個體鑑別に就て書かれた從來のどの文章にも劣らぬ名文であると思ふ。

 この文章に魅せられた讀者は更に進んで、犯人及び殺害の場所に關する推理に導かれる。『今さしあたつての問題としては、吾々はこの悲劇の内部の問題には觸れぬことにして、事件の外廓に專ら注意を集中しよう。こんな問題の場合には傍系的といはうか、附隨的といはうか、直接事件に關係のない事柄を全く無視するために、取調べに間違ひが起ることがざらにあるもんだ。裁判所が、證據や議論を、外見上關係のある範圍に限定するのは惡い習慣だよ。だが、眞理といふものは、多く、いや大部分、ちょつと見たところでは無關係に見えるものゝ中にひそんで居るつてことは、經驗も證明してゐるし、ほんたうの哲學もきつとこれを證明するだらう。近代の科學が未知のものを計算しようとするのは、この原則の精神を奉じてゐるからだ。』と書いて大部分の眞理が傍系的なものから出ることを說明し、當時の周圍の事情を調べるのが當然の順序であることを述べ各新聞紙から議論を組み立てるに必要な記事を拔萃して、然る後、それを基として更に明快な推理に移つて行く手際は、實に巧妙を極めて居る。

 このやうな書き方こそ、本格探偵小說の原型をなすものであつて、この型が如何に屢ばドイルその他の探偵小說家によつて採用されて居るかは、讀者のよく知つて居られるところである。列擧せられた新聞紙の記事は所謂この物語の第二の伏線とも見るべきものであつて、第一の伏線たるマリー失踪前後の記述と相まちて、この長い物語の美しい『あや』を形つて居るのである。何氣なしに讀んで居ると、『マリー・ロオジェー事件』はまるで一篇の論文のやうに思へるが、その實あく迄用意周到に一篇の物語を編まうとしたポオの努力がありありとあらはれて居る。

 もとよりこの物語には、何等はらはらさせられるところがない[やぶちゃん注:句点なし。誤植か。]これは題材の性質上やむを得ないことであるが、それにも拘はらず讀者がしまひまでずんずん引つ張られてしまふのは、その敍述の仕方が寸分のスキもないやうに順序立てられてあるからである。さうして、讀者を引つ張つて行かうとした努力のために却つて論理の矛盾を來す[やぶちゃん注:「きたす」。]やうな破目に陷つてしまつたのである。

 ポオ自身が、この論理の矛盾に氣附いたかどうかは、もとより知るに由もないが、たとひ氣附いてももはやどうにもすることが出來なかつたのであらう。これは本格探偵小說を書くものゝ常に出逢ふ難點であつて、本格小說に手をつける人の少ないのはこれがためであるとも言へる。

 警察の記錄ならば事實を羅列しさへすればよいのであるけれども、物語である以上は、讀者を滿足させるやうに何等かの解決をつけねばならぬため、其處に多少の破綻が起つて來るわけである。又、本格探偵小說を書くときは、動もすると[やぶちゃん注:「ややもすると」。]、些細な點の說明を逸し易いものである。『マリー・ロオジェ事件』の中にも、例へば、ヂュパンは叢林の木の枝に引つかかつて居た衣服の破片が、格鬪の際偶然に引きさかれたものでないことを主張しながら、何のために犯人がわざわざ衣服を引き裂いて其處に引つかけたかといふことについては說明して居ないのである。

 けれども、『マリー・ロオジェー事件』を讀まれた讀者は、以上の點を除いては、文中に擧げられた大小すべての事項が遲かれ早かれ洩なく、分析解剖されて居ることに氣附かれるであらう。實際一面からいへば、痒いところへ手の屆くやうに書きこなされてあるのであつて、これは到底凡手の企て及ばざるところである。

   (附記) 本文中に引用した原文の譯語は、平林初之輔氏譯「マリー・ロオジェー事件」に依つたものである。

 

 

   〔正 誤〕 本文中「靑砥藤綱摸稜案」の「摸」の字が「模」となつて居るのは誤であるから訂正する。

 

[やぶちゃん注:以上を以って本書本文は終わっている。最後の「正誤」訂正注記は既に述べた通り、当該本文では特異的に総てに修正を加えてある。

 以下、奥附であるが、冒頭で私が大騒ぎした手書き書き替えがあるので、再リンクさせておく。

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 八重梅(夏ノ梅) / ツキヒガイ・イタヤガイ・ヒオウギの稚貝?

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。中央上部及び左上方を、一部、マスキングした。なお、この見開きの丁は、右下に、『和田氏藏ノ數品』(すひん)、『九月廿一日、眞写』す、という記載がある。和田氏は不詳だが、前の二丁と同じく、その和田某のコレクションを写生したことが判り、これはそれらと同じく、天保五年、グレゴリオ暦一八三四年五月十一日と考えよい。ここでは、そのクレジット記載も含めてある。]

 

Yaeume

 

八重梅【「夏の梅」。二種。】

 

此の者、五つ寄すれば、則(すなはち)、梅花の形狀のごとし。故、名とす。

 

 

和田氏藏の數品(すひん)、九月廿一日、眞写す。

 

[やぶちゃん注:残念ながら、同定出来ない。言えることは、右上方の一個体と、梅花様に並べた左の五個体の内の右下のものは同一種だが、それ以外の四個体は別種で恐らくは同一種とする程度である。

 単なる印象に過ぎないが、前者は、同心円状の殻表のそれから、

斧足綱翼形亜綱イタヤガイ目イタヤガイ上科イタヤガイ亜科ツキヒガイ属ツキヒガイ Amusium japonicum の稚貝の左殻(本種は右殻が黄白色であるのに対し、左殻は鮮やかな深紅色を呈する)

が候補となるか。近縁種ツキヒガイ属タカサゴツキヒAmusium pleuronectes の稚貝の左殻(同前)としてもいいが、これは沖縄以南であるから、この場合は考え難い。

 また、後者の四個体は、やはり貝殻の形状から、

イタヤガイ科イタヤガイ属イタヤガイ Pecten albicans の赤色個体群の稚貝

或いは、

イタヤガイ科Mimachlamys 属ヒオウギ Mimachlamys nobilis の稚貝

のようには見えなくはない。梅園は既に、「蛤蚌類 錦貝(ニシキガイ)・イタヤ貝 / イタヤガイ・ヒオウギ」や、「蛤蚌類 板屋貝(イタヤ貝) / イタヤガイ(再出)」で既にそれらを見ているわけだが、現在でも、発色が多彩なイタヤガイの色違いのそれを、同一種としては素人は見ないケースが多いことを考えれば、納得はゆく。]

多滿寸太禮卷㐧一 宰府の僧、淸水觀音の利生を蒙る叓

 

   宰府僧蒙淸水觀音利生叓(宰府(さいふ)の僧、淸水觀音(きよみづくわんおん)の利生(りしやう)を蒙(かうふ)る叓(こと))

  中比《なかごろ》、九刕(きゆうしう)宰府の僧、三人つれて、京都にのぼり、東福寺に、禪祿(ぜんろく)の講談、日々に群集(ぐんじゆ)しけるに、國々の衆僧(しゆそう)、多く集まり、これを聽聞しけり。此三人の僧も、席(せき)をうけて、聽衆(ちやうじゆ)の數(かず)に入《いり》、すでに月日を送りけり。

[やぶちゃん注:「淸水觀音」知られた京都市東山区清水にある元は法相宗の大本山音羽山(おとわさん)清水寺。本尊は十一面千手観世音菩薩である。同寺は日本でも有数の観音霊場として古くから知られる。

「中比」それほどには遠くない今と昔の間。江戸時代ならば、遡ったとしても、せいぜい室町末期か戦国時代までと思われる。本書刊行は推定で元禄一七(一七〇四)年で、江戸幕府の開府は慶長八(一六〇三)年であるから、まさにほぼ百年前であるからして、その前後としても、なんら問題はない。

「九刕宰府」役職としての「大宰」(だざい/おほみこともち)・大宰帥(だざいのそち)は、広義には外交・軍事上、重要な地域に置かれ、数ヶ国に及ぶ広い地域を統治した地方行政長官を指す。九州筑紫には筑紫大宰が置かれ、一般には、単にこう言ったら、九州の「大宰府」を指す。当該ウィキによれば、「宰府」と略すこともある。唐名は「都督府」で、『現在でも、地元においては、史跡を「都府楼跡」(とふろうあと)あるいは「都督府古址」(ととくふこし)などと呼称することが多い。外交と防衛を主任務とすると』ともに、西海道九ヶ国(筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・薩摩・大隅)と三島(壱岐・対馬・多禰(たね:現在の大隅諸島を一国としたものだが、弘仁一五・天長元(八二四)年には大隅に編入された))に『ついては、掾(じょう)以下の人事や四度使の監査などの行政・司法を所管した。与えられた権限の大きさから、「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれ』た。『軍事面としては、その管轄下に防人を統括する防人司』(さきもりのつかさ)や『主船司』(ふねのつかさ)『を置き、西辺国境の防備を担って』おり、『西海道諸国の牧から軍馬を集めて管理する権限』も『有していた』。『外交面では、北九州が』、『古来』、『中国の王朝や朝鮮半島などとの交流の玄関的機能を果たしていたという背景もあり、海外使節を接待するための迎賓館である鴻臚館(こうろかん)が那津(現在の博多湾)の沿岸に置かれた』。広域で示すと、『現在の太宰府市及び筑紫野市に当たる』とある。狭義の中枢の跡は現在の大宰府天満宮を中心とした福岡県太宰府市宰府(さいふ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)に相当する。

「僧」ウィキの「太宰府天満宮」によれば、『右大臣であった菅原道真は』昌泰四(九〇一)年、『左大臣藤原時平らの陰謀によって筑前国の大宰府に員外帥として左遷され、翌々年の』延喜三(九〇三)年に『同地で死去した。その死後、道真の遺骸を安楽寺に葬ろうとすると』、『葬送の牛車が同寺の門前で動かなくなったため、これはそこに留まりたいのだという道真の遺志によるものと考え』、延喜五年八月、『同寺の境内に味酒安行(うまさけのやすゆき)が廟を建立、天原山庿院安楽寺』(「てんげんざんびょういんあんらくじ」と読んでおく。天台宗)『と号した。一方』、『都では疫病や異常気象など不吉な事が続き、さらに』六『年後の』延喜九(九〇九)年には、『原時平が』三十九『歳の壮年で死去した。これらのできごとを「道真の祟り」と恐れてその御霊を鎮めるために、醍醐天皇の勅を奉じた左大臣藤原仲平が大宰府に下向、道真の墓所の上に社殿を造営し』、延喜一九(九一九)年に『竣工したが、これが安楽寺天満宮の創祀である』とあり、神仏習合期には別当職や社僧もさわにいたのである。『明治に入り』、悪名高き前時代的文化破壊を惹起させた『新政府の神仏分離の処置で、天満宮周辺に住む多くの社僧は復飾・還俗や財産処分などを余儀なくされ、講堂、仁王門、法華堂などの建物や多くの仏像などは』、『破壊あるいは売却され、天満宮の御神体であった道真公御親筆の法華経も焼き捨てられ、安楽寺は廃寺とな』ったとある。

「禪錄」禅林の語録類。宗派にとらわれず、修学するのは平安旧仏教の真言・天台宗に発祥し(八宗兼学など)、鎌倉新仏教の優れた宗祖の多くは比叡山や高野山で学んでいる。]

  中にも一人の貧僧、飯料(はんれう)に絕《たえ》て、日參(につさん)の間《あひ》には、洛中を頭陀(づだ)しけるが、漸々(やうやう)、月もかさなりければ、

「宿宅(しゆくたく)の料(れう)を、いかゞせん。」

と案じゐたり。

 さすがに、同宿の僧も貧しければ、いひよるべきよすがもなく、ひたすら、案じけるが、

『心に叶はぬ事をば、神にも祈り、佛(ほとけ)にも歎げき奉らばや。』

と思ひ、

『淸水寺(せいすいじ)の觀音に隙(ひま)なくまいりて、此事を祈らばや。』[やぶちゃん注:「せいすいじ」は「きよみづでら」の異称。]

と思ひたち、夜ごとに參篭(さんろう)しけるが、或る夜(よ)の御夢想(ごむそう)に、御宝前(ごほうぜん)より、立符(たてふう)したる文(ふみ)を、一通さし出し給ひ、[やぶちゃん注:「立符(たてふう)」「立封」の当て字であろう。「立(竪)文(たてぶみ)」と同じ。書状の一形式で、書状を礼紙(らいし)で巻き、その上をさらに白紙で包んで、包み紙の上下を筋違(すじか)いに左、次に右へ折り、さらに裏の方へ折り曲げたもの。折り曲げた部分を紙縒(こより)で結び、表に名を記す。「捻(ひね)り文(ぶみ)」とも呼ぶ。]

「汝があまりに申《まうす》事なれば、あひ計《はから》ふ也。此ふみを愛宕(あたご)の良勝(りやうせう)に持《も》て行《ゆく》べし。」

と、あらたにしめし給へば、うちおどろきて傍(かたはら)をみるに、現(げん)に、ふみ、あり。

[やぶちゃん注:「あらたに」見た目にはっきりと判るさま。鮮やかにありありと見えるさま。ここはなかなかに上手い奇蹟のシークエンスで、宝前の景色は明確であるが、その奥からやってくる相手の姿や「立符」を持った手などは、一切、見えない。というより、光りでハレーションして、その対象は映像として飛んでおり、或いは、お姿はなく、空中を文字通り文が飛んでくる映像というべきであろう。

「愛宕」京都府京都市右京区の北西部、山城国と丹波国の国境にある愛宕山(あたごやま/あたごさん)。京都市街を取り巻く山の中で、東の比叡山と西の対称位置で並びよく目立ち、信仰の山としても知られる。]

 感淚をながし、再拜して、此状を賜はり、愛宕の方へ尋行《たづねゆき》て、

「良勝(りやうせう)といふ人は、いづくにおはしますぞ。」

と、問へども、更にしるもの、なし。

 殘鴬(ざんわう)は幽谷に啼き、猿(さる)は重嶂(ぢうせう)に叫(さけ)ぶ。[やぶちゃん注:「殘鴬」「殘鶯」(ざんおう)。正しい歴史的仮名遣は「ざんあう」。季節を設定する。夏になっても未だ鳴いているウグイス。「重嶂」正しい歴史的仮名遣は「じゆうしよう」。重なる峰々。]

 やうやう、峯によぢのぼれば、白雲、跡を埋(うづ)み、靑嵐、こずゑを拂ふ。

  爰《ここ》に、ある樵夫(せうふ)に行き逢ひて、此事を問へば、

「良勝(りやうせう)とは、此山の地主(ぢしゆ)を申《まうす》とこそ、承りて候へ。當山(たうざん)は、むかし、七千坊の所(ところ)にて候が、悉く、魔滅しぬ。今は房舍の舊跡(きうせき)斗《ばかり》、多し。」

とぞ語りける。

[やぶちゃん注:「地主」その土地の本来の守護神。人対象では産土神(うぶすながみ)とも呼ぶ。なお、「地主權現(ぢしゆごんげん)」は一般名詞では「寺院の境内に地主を祭った社」を指すが、中世以後、清水寺に隣接する「地主神社」を指すことが多いから、この樵(きこり)の謂いはそれをかがせてもいよう。]

『觀世音の御利生(ごりしやう)なれば、いか樣(やう)にも、やうこそ、あらめ。』

と、たのもしく、猶、山ふかく分け入りたれば、すゝき・檜(ひ)の皮・莚(むしろ)の御所(ごしよ)ありつれば、

『こぞ。』[やぶちゃん注:底本は「こそ」であるが、前後から濁点を打ち、「ここに違いない!」という心内語として採った。そうでなくては、以下の「窓前」がおかしくなるからである。]

と思ひて、立《たち》より、うかゞひけるに、窓前に春淺く、林外に雪きえて、折から、心ぼそかりけり。

 すなはち、案内すれば、おくのまより、『大僧正にや』とおぼしき高僧の、腰に梓(あづさ)の弓をはり、眉に八字の霜(しも)をたれ、鳩(はと)の杖(つゑ)にすがり、唯一人、直(たゞち)に御出ありて、文(ふみ)を取《とり》て御覽あり。[やぶちゃん注:「鳩の杖」頭部に鳩の形を刻みつけたT字型の架杖(かせづえ)。老人の用いるもの。昔、中国で老臣を慰労するために宮中から下賜され、日本でも嘗ては八十歳以上の者に下賜された(時に高齢の喩えにとしても言う)。「精選版 日本国語大辞典」の「鳩の杖」の図を参照。]

「御邊(ごへん)學領(がくれう)の事を仰《おほせ》あるなり。」

とて、

「内へ入《いり》給へ。」

とあれば、仰にしたがひ、參りけり。[やぶちゃん注:「御邊(ごへん)學領(がくれう)の事」貴殿の修学の在り方に就いての事。当然、それを保障する糧食を含む。それが最後に明らかになるのである。]

 御花《おんはな》がらを、自身(じしん)、とり出《いだ》し給ひて、

「食物(しよくもつ)になして、くへ。」

と仰ければ、則《すなはち》、たうべけり。[やぶちゃん注:「花がら」思うに、「花殻・花柄」で、「仏に供えた花で不用になって捨てるもの」のことであろう。見るからに仙人っぽい食物である。]

 日、已に、くれなんとす。

 高僧、宣ひけるは、

「これへは、夜に入《いり》て、不當(ふたう)の者どもの集まるに、これへ來りて、かくれ居《ゐ》給へ。」

とて、わが御後(おんうしろ)に、引よせて、をかせ給ひける。

 

Kanonrisyou

[やぶちゃん注:一九九四年国書刊行会刊木越治校訂「浮世草子怪談集」よりトリミングした。左幅に愛宕の良勝、その背後に伏して隠れている主人公の貧僧。良勝の左手前では、天狗が土産として奪ってきた少女が泣いている。なお、この兩挿絵の中には文章が入っているが、これは本文にあるものとは異なり(特に右幅)、恐らくは、半ば作者から受けた指示に従いつつ、半ばはオリジナルに絵師の記したものと思われ、右幅中央には、

天狗か五疋いるから

 成程成程五ひんか

(『天狗が、五疋ゐるから、成程、成程、「五ひん」か。』)

とあるか。二行目は苦心惨憺して読んだ。「成程」の二つ目は挿絵では踊り字「〲」であるものをそうとった。因みに、「ひん」というのは、「獱」で、天狗の別称を「狗獱(くひん)」と呼ぶ。なお、本文には烏天狗の総数は書かれていないが、図では確かに五人描かれており、このキャプションの左下の一人だけが、顏がまさに狗=犬である。左幅には、

人くさいかざ

 すとうたがふ

 はこの者

 なるか

(『「人臭い氣(かざ)す。」と疑ふは、この者なるか。』)

であろうか。これも二行目以降に自信がないものの、これは本文に即しているというか、絵師自らが、附言して補助説明しているのが、如何にも面白い。なお、判読に誤りがあるとなら、御教授願いたい。] 

 さるほどに、夜も更け行けば、千人斗《ばかり》が聲して、

「曳々(えいえい)。」

と云《いひ》て、來《きた》る音、しけり。

 此僧、

『いかなる事やらむ。』

と、あやしく思ひ、あまりのおそろしさに、ひざまづきてみれば、老若尊卑の山伏ども、我慢の翅さ、驕慢の嘴(くちばし)、あり。[やぶちゃん注:「我慢」ここは「慢心」の意。]

 或(あるひ)は牛頭(ごづ)・馬頭(めづ)の形(かた)ち、鳥(とり)・獸(けだもの)の姿なる者ども、七つ、八つ斗《ばかり》なる女子(によし)をとらへ來りて、

「進物(しんもつ)にて候。」

と申ければ、高僧、

「ふしぎの奴原(やつばら)が。いたはしき事を、ふるまふかな。」

とて、少女をよびて、御そばに置《おき》給へり。

 扨《さて》、かの者ども、申けるは、

「例(れい)ならず、人の香(か)のするは、いかなる事にや。」

と申ければ、高僧、叱(しつ)して、ふかく狼籍をいましめ給ふに、をのをの、靜まりけり。

 五更に、月、落ちて、一点の燈(ともしび)のこり、夜(よ)、已に明けなんとす。[やぶちゃん注:「五更」午前三時から午前五時までの間。]

 かの天狗ども、又。

「ゑいゑい、おふ。」

と云て、虛空をかけり、東西(とうざい)に去りけり。

 その時、又、花がらをとり出《いだ》し、法師に、たばせ給ひ、仰《おほせ》けるは、

「うけ給り候飯料(はんれう)の事は、御心(《み》こゝろ)、易(やす)かるべし。但し、此幼(おさな)き者は、尾張の國に、かくれなき武士(ものゝふ)の、いつき[やぶちゃん注:「齋き・傅き」。敬い、大切に世話をし。]、かしづく独りむすめ也。これを具して、其家に行べし。」

と、仰《おほせ》有《あり》けり。

  則(すなわち)、具して、尾張國に至り、尋《たづね》みるに、誠に大名(だいめう)げなる屋形(やかた)の躰(てい)也。

 内より戸を閉ぢて、人、まれ也。

 庭の内を見入《みいり》ければ、靑柳の、露になびき、老松(ろうせう)、風にむせぶ。

 良(やゝ)久《ひさしく》して、女一人、出《いで》あひて、申けるは、

「是れには、このほど、姬君の、くれに、失せ給ひて、見え給はねば、『天狗などの、とりたるや。』とて、諸方へ手分けして、殿原(とのばら)・中間(ちうげん)ことごとく、尋申《たづねまうす》に出《いだ》し給へば、淺からぬ御歎(《おん》なげき)にて、人に御對面(ごたいめん)も候はず。誰人(たれひと)にて、御入《おはいり》候や。」[やぶちゃん注:「殿原・中間ことごとく尋申に出し給へば」家内の奥向きの上﨟辺りが、庭にいる僧を見咎め、「主人以外の男どもは、その娘の捜索のため、払底にて御座いますれば、」の謂いであろう。不審な僧の、敷地内に立ち入っているのを見て、大事件のさなか、慌てながらも、強く警戒した物言いと読んだ。失踪した娘に気づかぬのは不審かも知れぬが、僧が稚児風に男児に装わせて顔を隠して連れていたとすれば、問題はあるまい。]

と、いらへければ、此僧、はじめ・終はりを委(くはしく)かたり、

「姬君を、これまで、具(ぐ)し奉りたり。」

と云ければ、家内(かない)の上下、これを聞て、あはて、ふためき、よろこぶ事、かぎりなし。

 急ぎ、内に呼び入《いれ》て、事の次第を具(つぶさ)に尋ね、

「先(まづ)、悅(よろこび)に、飯料(はんれう)を勤仕(きんじ)したてまつるべし。安(やす)きほどの御事《おんこと》なり。吾れ、京都にも、田舍にも、倉(くら)、あまた持ちたり。其の期(ご)に臨みては、いかほども、いとなむべし[やぶちゃん注:お布施として差し上げましょうぞ。]。」

とて、尾張の大名と、ながく師檀(しだん)のよしみをなして、何事も不足なくして、出世、心のごとく、とげ、おこなひ、後(のち)には尾州に大寺(だいじ)をひらき、建立してけり。[やぶちゃん注:「師檀」。師僧と檀那(檀家)。]

 まことに、大悲應護の御方便、ありがたかりける次第なり。

2022/03/21

カテゴリ「続・怪奇談集」始動

このカテゴリ「怪奇談集」はずっと以前に最大総リスト表示1000件を遙かに越えて1185件(本記事を除く)になってしまっているので、新たに別カテゴリ「続・怪奇談集」を創始したので、ブックマークなど、よろしくお願い申し上げる。

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 身ナシ貝(イモガイ) / イモガイ超科フデシャジク科Raphitomidae の一種か?

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。右下方及び左下方を、一部、マスキングした。なお、この見開きの丁は、右下に、『和田氏藏ノ數品』(すひん)、『九月廿一日、眞写』す、という記載がある。和田氏は不詳だが、前の二丁と同じく、その和田某のコレクションを写生したことが判り、これはそれらと同じく、天保五年、グレゴリオ暦一八三四年五月十一日と考えよい。]

 

Minasigai

 

身なし貝【又、「いも貝」。】

 

「後六々貝合和哥」

     右十三番

    かみ嶌の磯間の浦による貝の

     身はいたつらに成果ぬらん

          髙屋院入道二品(にほん)親王

 

[やぶちゃん注:消去法でゆくしかない。まず、螺塔が尖塔状に突出している形状からして、現在の里芋のような形をしたものが多数を占める「芋貝」=イモガイ(腹足綱新腹足目イモガイ科 Conidae及びイモガイ亜科 Coninae及びイモガイ属 Conus に属する種群)類ではない。

 次の「身ナシ貝」も、生体を採取した際に軟体部が内側にきゅっと強く縮まって、「身がない」ように見える「貝」の総称ではあるが、やはりイモガイの異名としてよく知られるわけだから、やはり名前からは同定に無理がある。寧ろ、そうした性質を持つ種はイモガイ以外にも幾らもいるので、難しい。さらには、梅園は聴き書きで、安易にこの貝を「身ナシ貝」と呼称しているものの、実際に梅園がこの貝を採取し、身が収縮しているところを現認したかどうかは、これ、甚だ怪しいと私は思っている。

 また、生体がそのように見えるかどうかは、生きた貝を親しく採取した人にしか、実は判らないから、私のような人間には、実は、どの生貝がそう見えるかという知識を実はあまり持っていない(専ら死貝のビーチ・コーマーの哀しさである)。

 フライングであるが、キャプションに引く「後六々貝合和哥」(「六々貝合和歌」に同じ)の貝の図を見ると、ここの左ページの左上端であるが、これはまた、見事に正真正銘のイモガイの絵なわけで、図が小さいから、いかんとも言い難いが、まんず、少年の頃に、コレクターから貰って歓喜した、白(実際には淡い紅色)に北条氏の家紋みたような三角形の鱗状斑が不規則に並ぶ黒いイモガイ科イモガイ属クロミナシ Conus bandanus 辺りかなぁ、という気はする。さればこそ、この図の解明には全く役立たない。

 形状だけから見ると、螺塔の高さからは、腹足綱直腹足亜綱新生腹足上目吸腔目新腹足下目アッキガイ上科フデガイ科 Mitridae の仲間のようにも思われるが、彼らはもっと殻口がスマートだから、ちょっと違う。吉良図鑑の図版をぼーっと見ていると、開口部方向の殻の膨らみが大きく、しかも螺塔がゴツゴツしていない感じは、

イモガイ超科フデシャジク科Raphitomidae Daphnella 属セキトリフデシャジク Daphnella nobilis

がそれらしいが、逆に同種では膨らみが関取よろしく、もっと強いようだ。これまでだね。

「後六々貝合和哥」の歌は、ここであるが、

   *

  右十三 身なし貝

かみ嶋の磯まのうらによる貝の高屋院

身はいたつらになりはてぬはた入道二品親王

   *

末尾が違う。梅園の和歌しらずの判読の誤りっぽい。これ、「日文研」の「和歌データベース」で調べると、「夫木和歌抄」の「11401」の、

   *

かみしまの いそまのうらに よるかひの

みはいたつらに なりはてぬはた

   *

である。作者はよく判らんが、道助親王(どうじょしんのう 建久七(一一九六)年~宝治三(一二四九)年)のことか? 後鳥羽院第二皇子。土御門院の異母弟、順徳院の異母兄。入道二品親王。七条院の猶子となり、十一歳で出家、建保二(一二一四)年十一月に第八世仁和寺御室。寛喜三(一二三一)年、御室の地位を弟子の道深法親王に譲り、高野山に隠居。「高野御室」と称された。]

ブログ・カテゴリ「続・怪奇談集」創始 「多滿寸太禮」電子化注始動 序・多滿寸太禮巻㐧一 天滿宮通夜物語

 
[やぶちゃん注:永年語り積んできたブログ・カテゴリ「怪談集」が既にブログの全表示限界の一千件を超えて、千百八十五記事に達してしまい、最古層の繰り上げ目次も作ってあるものの、これ以上は増やしたくないため、新たにカテゴリ「続・怪奇談集」を創始して、またしても懲りずに魑魅魍魎を呼び集めんとすることとした。新規蒔き直しの皮切りは、「多満寸太礼」(「多滿寸太禮」:たますだれ)の電子化注とする。

 「多滿寸太禮」は辻堂兆風子(つじだうてうふうし(つじどうちょうふうし))の撰になる浮世草子怪談集であるが、作者の事績や、正確な刊記などは、一切、判っていない。以下に示す活字本の木越治氏の解題によれば、推定で元禄一七(一七〇四)年正月(同年は三月十三日(一七〇四年四月十六日)に 宝永に改元している)とされる(前者の早稲田大学図書館本は後刷本と推定されておられる)。

 底本は早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書、及び、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認した。

 但し、所持する国書刊行会「江戸文庫」版の木越治校訂になる「浮世草子怪談集」(一九九四年刊。まさに後者の国立国会図書館本が底本である)を参考とし、さらに、加工データとして、その木越氏の上智大学「木越研究室」学生の方々による「googledocs」に置かれてある電子テクスト・データ(新字)を加工用に利用させて頂いた。ここに心より感謝申し上げる(但し、正直、序文の作者名の字起こしからしてガクッりきた)。

 表記は原本に基づき、崩し字の内、正字と略字で迷った箇所は、正字を選んだ。異体字で示し得ない場合は、解字するか、或いは、最も近い異体字で示した。また、読み易さや場面の転換などを考え、段落を成形してある。句読点は、私の、朗読を想定した際の、ブレイクを生かすという独自の手法で打ってある。されば、通常よりも打ち方が多くなっている。読みは、難読の箇所は、無論、残したが、送りが悪いものは、現行の読み等に照らし合わせて、外に出して判るものは、その処置を施して読みを省いた(丸括弧による読みは却って目障りだからである。私のテクストは読んで楽しむ正字版の正統怪談を心掛けている。学術的に厳密な本文校訂を目指している訳では、さらさら、ない。しかし、新字で統一されている現行の刊行本よりは遙かに原本のおどおどろしさには遙かに近いものであると内心は自負している)。逆に、若い読者が戸惑うであろう箇所で読みがないのは困るので、《 》で私が推定で歴史的仮名遣で挿入してある。なお、歴史的仮名遣を誤っていても、違和感を与えないルビについては、そのまま挿入し、ママ注記はしなかった(それがまた五月蠅くなるからである)。同様に、ルビの濁点落ち(当時の版本では落ちやすい)なども、違和感のないように採用したり、しなかったり(濁点や半濁点を打ったということ)した。但し、生理的に嫌いな踊り字「〱」「〲」は正字に代えた。

 注は時に文中に、時に段落末に添えたり、或いは、長くなる場合は、改行して添えた。注対象は、私の躓くところ及び若い読者を念頭において選んである。なお、注釈書は私は所持しないので、注は総てオリジナルである。

 挿絵は状態の非常に良い国書刊行会「江戸文庫」版のそれをトリミングして用いる。

【二〇二二年三月二十一日新カテゴリとともに始動:藪野直史】。]

 

 

多滿寸太禮

 

  

 今はむかし、昔を今の世談は絕《たえ》ずして、しかも、勸善懲惡の、人をみちびくの至道なるをや。爰に、濃州大垣の產、辻堂氏兆風子、いとまの日、此草子を著《あらは》し傳ふ。詞華・言葉、鮮《あざやか》なれば、握翫《あくぐわん》して、夜のながさの友とし、且、食を忘るゝのあまり、あなたこなたの同志に、さらさらと、とりわたしぬれば、風の擧《あげ》たる「玉すだれ」の、つれづれもなきこゝろ、おもしろや。

                               城南

  甲申孟春         擧堂(落款)

[やぶちゃん注:「世談」は「せいだん」では語り出しの訓の和文脈にそぐわず、私は「よがたり」と読みたくなるが、以下の熟語は概ね音読みせざるを得ぬから、ここも「せいだん」でいいか。

「握翫」詩文や絵などを大切にしながら、味わい楽しむこと。

『風の擧《あげ》たる「玉すだれ」の、つれづれもなきこゝろ」「玉簾」は珠玉で飾りたてた美しい簾(すだれ)、或いは、「たま」は美称で「美しいたまのすだれ」で、それが風に「さらさらと」舞って、気を惹く故に、退屈せず、面白い。故に、「さらさらと」この「多滿寸太禮」を親しいお方にご紹介なされれば、これ、誰(たれ)もが、「おもしろ」う御座いましょうぞ――という版元の売り込みばっちりの序文である。もともとの号なのか、これに掛けても言っているわけである。陰刻のその落款もあるから(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単体画像)、もともとが確信犯の号なのであろう(木越氏によれば、どうもこの男は俳諧作法書「眞木柱」などというものもものしている俳人にして、「新武者物語」などという読物も書いている人物らしい)。

「甲申」元禄十七年は甲申(きのえさる)で、木越氏の板行推定はこれによる。版元の別の出版物からもこの板行年は確かである。

 以下、各巻頭に目次が附くが、これは省略して、一番最後に総目録として示すこととする。]

 

 

多滿寸太禮巻㐧一

   天滿宮通夜物語

 中比(なかごろ)、尾州織田信長公の家臣に、星崎(ほしざき)の城主、岡田長門守といへる武勇の士(さむらい)あり。

[やぶちゃん注:「星崎の城」

「岡田長門守」織田氏家臣で尾張星崎城主であった岡田重孝(?~天正一二(一五八四)年)。始めは織田信長に仕え(馬廻り役)、天正元(一五七三)年八月の「朝倉軍追撃戦」では父とともに活躍したとされる。信長が「本能寺の変」で横死すると、その次男織田信雄(のぶお/のぶかつ)の家臣として仕えた。天正一一(一五八三)年の父の死去により、家督を継ぎ、当主となった。同年十二月二十三日には、大坂城の津田宗及邸で行われた茶会に、秀羽柴吉と同席している。この頃から秀吉と親しかったという。浅井長時・津川義冬らとともに「三家老」として信雄を良く補佐し、秀吉からも、その器量を認められていた。しかし、秀吉との内通を信雄から疑われ、長時や義冬らとともに天正十二年三月六日、信雄によって伊勢長島城に呼び出され、殺害された。参照した当該ウィキには、重政という男子がいることが記されてあるが、これが「嫡子平馬の介」であるかどうかは、確認出来なかったし、この子の末も判らなかった。

「星崎(ほしさき)の城」現在の愛知県名古屋市南区本星崎町(もとほしざきちょう)本城(ほんじょう)の名古屋市立笠寺小学校内に城跡が残る(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。底本の二本ともにルビは「ほしさき」であるが、「江戸文庫」の表記に従った。]

 嫡子平馬(へいま)の介何某(なにがし)とて、父におとらぬ大剛(たいかう)の者にて、詩哥の道にくらからず、義を專らとし、萬(よろづ)、つたなからず。

 ある時、信長公、江州にとりつめ給ひし比、此平馬介も戰塲におもむきけるが、當國上山(うへやま)の天神は、㚑驗(れいげん)あらたにおはします聞え有ければ、身の行衞をも、いのり、且つは又、文道の祖神(そしん)にてましませば、結緣(けちゑん)の爲、夜にまぎれ、ひそかに陣中を忍び出《いで》、山上(さんじやう)しけるに、聞き及びしより、貴(たうと)く、老松(らうせう)秀でて、枝をまじへ、翠嶺、東南にめぐりて、山のよそほひ、色をまし、蒼湖(さうこ)、西北にたゝへて、誠に、神德、普天にみち、無邊の利益(りやく)、國土に自在なり。地形(ちぎやう)すぐれて、神德の高きを表はし、眺望(ちやうもう)はるかにして、靈威をしめす。

[やぶちゃん注:「上山の天神」現在の滋賀県東近江市猪子町(いのこちょう)にある上山(うえやま)天満天神社(同航空写真)。個人サイト「人文研究見聞録」の同天神社のページによれば、『平安時代に創建された古い歴史を持つ天神社で、祭神に天常立命』(あめのとこたちのみこと)『と菅原道真公を祀ってい』る。『滋賀県神社庁HPによれば、天慶年間』(九三八年~九四六年)『に当社祭神が高嶋郡比良山より岩船に乗って湖上を東に進んで繖山麓に渡り、勝菅の岩屋の壇上に鎮まったと古文書にある』され、『また、当社は神亀』五(七二八)年『に社号を得て』、貞和三(一三四七)年五月『には足利尊氏より』三千歩(二千歩とも)『の社領を許され、天正元年』(一五七三年。又は天正三年とも)十二月『には織田信長より』三千『歩の社領を許され』た、とある。由緒書きなどの電子化も引用元にあるので参照されたい。]

  御燈(ごとう)の光り、影すみて、何となく名殘りおしければ、

「よしや、明日(あす)は、いかなる敵の手にかゝりてか、露の命を殞(おと)さむも、しられぬ身なれば、こよひは通夜(つや)して、浮生(ふせい)の名殘りともせばや。」

と思ひ、拜殿の片隅にうづくまりゐけるに、夜も、いたく更ぬるに、内陣に、人のおとなひしける。

 

Tenmantentejingu

[やぶちゃん注:一九九四年国書刊行会刊木越治校訂「浮世草子怪談集」よりトリミングした。]

 

  ふしぎに思ひ、さしのぞき見けるに、七旬(しちじゆん)にあまりたる老僧の、うす墨の衣に、おなじ色なるけさをかけ、菩提樹の珠數(ずゞ)、つまぐりたり。

 一人は、四十年(よそぢ)あまりの女性(によしやう)の、いとけだかきが、紅※[やぶちゃん注:「𣒫」の上下を反対にした「梅」の異体字。]の小袖に、ねりの一重(ひとへ)を打かつげり。

 一人は、髮を、からはに上《あげ》たる容顏美麗の童子、身には目なれぬ唐織(からおり)の衣(ころも)をきたり。[やぶちゃん注:「からわ」「唐輪」。唐子髷(からこまげ)。髻(もとどり)から上を二つに分け、頭上で二つの輪に作ったもの。元来は元服前の子どもの髪形。中世から近世以後は輪が一つとなって成人女性の髪形ともなった。]

 今一人は、眼(まなこ)さかしまにきれ、烏帽子(えぼうし)、引(ひき)こみ、直垂(ひたゝれ)の下に腹卷し、弓矢、かきおひ、いきほひ有て見へけるが、座上の老僧、申されけるは、

 「面々は、いかなる故により、爰には、こもり給ふぞ。明けなむまでは、遙かなり。且つは、さんげの爲なれば、願ひの品(しな)を、夜(よ)すがら、語り申さむにや。」

と、のたまへば、連座の人々、

「誠に一樹(いちじゆ)の陰、一河(いちが)の流れ、淺からぬ緣(えん)なるべし。かりそめながら、年ごとに、かやうの同社(どうしやう)[やぶちゃん注:原本二本ともママ。]して、たがひに名をさへ白浪(しらなみ)の、かへる住家(すみか)もいづくぞと、しらであらむも情けなし。仰せにしたがひ、うちとげて[やぶちゃん注:同前でママ。]、心の底をもあかさばや、とこそ、思ひ侍れ。」

とあれば、件(くだん)の老僧、

「まづ、何某(なにがし)は、むかし、鳥羽院の御時、北面に召されつる、佐藤兵衞尉憲淸と申《まうす》者にて、若年の比(ころ)より、和哥の道に心をかよはし、其名、世にたかく、雲の上に交はりをなし、君につかへて、忠を忘れず、昇進、とゞこほらず、はなやかに時めき侍りしが、人界(にんかい)のありさま、生死流轉(しやうしるてん)のことはりを觀じ、ふかく無常をはかなみ、妻子にも心をとめず、遂に出家し、名を西行と改め、道心堅固にして、命、終りぬ。

 しかるに、『在世(ざいせ)の昔、諸國修行しけるは、「あこぎ」といへる詞(ことば)をしらずして、發心(ほつしん)し、諸國をめぐる。』なんどゝ、あらぬ事をのみ、世に傳へ侍る。誠に道にうときとて、よしなき事をいふにや。凡そ、和哥の道、廣く、其みなもとは、神道の奧義(おうぎ)に叶ひ、詩賦にもとづき、聖賢の心をやしなひ、讚仏乘(さんぶつじやう)の理(ことわり)を悟り、からの、やまとの事まで、哥人は、居(ゐ)ながら、名所を、しる。『あこぎが浦に引《ひく》あみの、たびかさなれば顯はれにける』と、常々いへる「ことのは」を、聞きしらぬほどのおろかにて、いかに、かく、哥をよみぬべき。

[やぶちゃん注:これは西行の一伝説と言うより、語るに落ちた中・近世にでっち上げられ、後に落語になって伝播してしまった「西行」の武人憲清時代の「あこぎ」話で、まさに語るに落ちた話で、これを西行の霊が語ること自体が、これまた、甚だ滑稽噴飯物である。hajime氏の「らくご はじめのブログ」の「阿漕ってなに?」が手っ取り早く、小言幸兵衛氏のブログ「あちたりこちたり」の『西行に「あこぎ」と言ったのは、誰か?(1)―白洲正子著『西行』より。』と、その(2)が詳細に記す。私は西行好きだが、この話はない方がマシな下世話である。これを枕にして語り出す西行自体がけち臭ささぷんぷんだからである。]

 夫(それ)、末世に至つては、人のちゑ、さきにたち、かたじけなくも、赤人・躬恒(みつね)・貫之の、つらね給ひし哥など、ところどころにおぼえて、したりがほに物語りせしを聞《きく》に、文字(もじ)の並び、をかしき事をいひつゞけて、誰(たれ)の哥などゝ、いかめしく、のゝしる。しれる人は片腹いたく侍るべし。其の道に、くらく、人の嘲(あざけ)りを、わきまへず、口にまかせて、哥、ものがたり、をのれが恥は、愚より、うつる。されば、先達(せんだつ)の詠哥にも、なき詞を、とり集め、をのれがせち[やぶちゃん注:「世知・世智」。凡夫の浅智恵。]にて、よしあしの批判する事、非學不道の愚人(ぐ《にん》)ども、世になべて多ければ、況や吾等が噂、よろしからぬは斷(ことわり)也。これ、誠に、世の人の心、つたなく、和哥の道にくらきが致す所也。かく世の末に、誰(たれ)あきらむる人も、あらじ。

 且は、和歌の威德を施し、わが身の無實の事をも祈らむ爲に、こもり居(お)る也。

 此の御神のいにしへ、無實のつみを晴らさむとの御誓ひなれば、ひとへに御神の利生を蒙り、濁世(ぢよくせ)末代の、和哥の道さへ捨(すた)らねば[やぶちゃん注:「廢らねば」。]、をのづから、哥に心をよせ、學ぶ人も多からむ。さる程ならば、自然と得心して、あやまりもなかるべし。さあらん時は、某(それがし)が、『あこぎ』のことばをしらぬとも、又は返哥を得せぬとも、遂には、そしりも止みぬべしと、かやうに、いのり申《まうす》。」[やぶちゃん注:「得せぬとも」の「得」は不可能の呼応の副詞「え」に漢字を当て字したもの。]

と語り給へば、中にも女性(によしやう)すゝみ出《いで》、

「まことに有難き御心《おんこころ》ばへかな。みづからは、疱瘡(ほうさう)の神にて候。

 それ、人と成《なり》ては、疱瘡といふ事、貴賤によらず、のがれぬと、みえたり。其の身、運つよきは、堅固に仕課(しおほ)せ、微運の輩(ともがら)は、多く、其身を棄(すつ)。[やぶちゃん注:「仕課(しおほ)せ」「しおほせ(しおおせ)」で「爲果せ」。罹患しても軽症であったり、痘痕などの醜い後遺症も残らずに、よく治癒することを指す。]

 されば、疱瘡、おもてに見へしより、吾(われ)を尊敬(そんけう)し、火を改めて精進すといへども、惡(あし)かるべき『もがさ』には、俄かに仰天して、父母(ふぼ)・けんぞく、さしあつまり、さまざまのたわ事、いひちらし、迷ひの心みだりにして、科(とが)なき他人を恨み、色々看病するといへども、限りある命なれば、終(つい)の道にと、おもむく。死後までも、後悔、やむ事なく、『いかなる惡神の來りて、とり殺したるや。』と、目にもみえぬ事に、あらぬ難(なん)をいひて、恨み、尊敬のこゝろ、忽ちに引《ひき》かへ、惡口(あつこう)する事、理(り)にくらきが致す所なり。その身、貧しき者は、萬(よろづ)うちすて、をのがまゝにするといへども、運つよき者は、やすらかに、命も、つゝがなし。よろづのさはりをいとふ事にしもあらば、貧賤の者は、一人も、助かるまじ。

[やぶちゃん注:「尊敬(そんけう)」以下、総て一貫してこの読みなので省略した。「そんきょう」の正しい歴史的仮名遣は「そんきやう」である。

「火を改めて」本邦の神道系の古い重要な神事。潔斎して新たに木片を摩擦し、清浄なる御神火を鑚(き)り出すこと。

「目にもみえぬ事に」暗愚な亡者であるから、正法(しょうぼう)の実体は目に見えないのだが、ここは疱瘡によって失明する者が多かった事実を強く掛けてある。]

 人力(じんりき)の及ばぬ所、若(も)し、力(ちから)に叶ふ事にしもあらば、上(かみ)、天子(てんし)より、下(しも)、冨貴(ふうき)の者まで、諸寺諸山(《しよ》さん)に立願(りうぐわん)し、讀誦・修法(しゆほう)、おこたる事なければ、諸天の應護、佛神のきどくにても、命に、何か、とゞこほり有べきなれども、定業(ぢやうごう)の致す所は、是非なき次第也。これらは誠に諸人の鏡ならずや。此の理(り)にまよふが故に、科(とが)なき神を恨む。

 さればとて、萬(よろづ)の事を破(やぶ)るに、あらず。吾(われ)、『人の因果をしらしめ、後悔なかれ。』と思ふゆへに、とにかくに、生じては、大方、のがれぬ道なれば、勝負は、運に、よるべし。神、あしければ、死したるなど、あらぬ難に逢ふ事、我、あしかれとは思はぬなれども、『天下に疱瘡やむ人、やすらかにして、一人も死せざれば、ひとり此の罪、まぬかるべし。』と、此神に、祈り侍る。」

と、かたり給へば、からわの童子(どうじ)進(すゝ)み出、

「まことに人間の習ひとして、よきによろこび、惡(あし)きに妬(ねた)む事、今に始めぬ事ながら、某(それがし)は藥(くすり)の精(せい)にて候。

 されば、世の中に、人、多く、病ひをうけ、療治をするに、醫師(いし)、其病ひの症(しやう)をたゞし、心のまゝに本復(ほんぶく)し、忽ちに、死を、まぬかる。これ、その人、運つよきと、醫者の仕合(しあわせ)と云ふべし。

 尤も藥の德たるべきを、一向(いつかう)、さは、なくして、醫者の手柄に成りぬ。

 又、定業かぎりある病には、藥力(やくりき)も及ばねば、命を失ふ。是を『藥違(ちが)ひ』と云人、多し。

 すべて、大きなる『ひが事』なんめり。

 抑(そもそも)、藥とは、神農より、其藥草を味(あぢは)ひ、寒熱(かんねつ)を定め、能毒(のうどく)をしるし侍る事、尤も書籍(しよじやく)にあきらか也。後《のち》の名醫・醫術を保學(ほうがく)し、療治をくはへ、病症に合(あは)する故、一つとして越度(おちど)、なし。近代は、さのみ得學の醫師もなければ、治德を顯はす事も、なし。藥力(やくりき)たぐひなしといへども、病症に符合せねば、をのづから、藥力、なく、命(めい)を殞(おと)す。まろきものに、方(かた)なる蓋(ふた)は、あひがたきに、心をつくすは、その人の愚(ぐ)成《なる》べし。

 生死(しやうじ)の二つは、定まりたる事なれば、その道、一大事に、たしなみ、怠(おこた)る心も有まじけれど、世の末になり、古人のふるまひに及ばざれば、秀(ひいづ)る事、稀(まれ)なるべし。『天神、わが難をのぞき給はゞ、天下の人民(にんみん)、無病にして、病苦を救はせ給はゞ、をのづと、藥力の德も顯はれぬべし。』と、步みを運び申也。」[やぶちゃん注:「書籍(しよじやく)」「ジヤク(ジャク)」は呉音。呉音は仏教用語や律令でよく使用される)。「名醫・醫術」原本は「名醫〻術」。]

と語り給へば、末座(ばつざ)の客(きやく)、すゝみ出《いで》、

「尤も眞實慈悲の御願(ごぐわん)なれば、感應(かんおう)、うたがひ有べからず。

 それがしは、弓矢を守る軍戰(ぐんせん)の司(つかさ)、『破軍星(はぐんせい)』にて候。

 夫(そ)れ、仁・義・禮・智・信の五常を守り、治まる世には文(ぶん)を以し、亂れたるには、武を以《もつて》おさめ、謀(はかりごと)を千里の外(ほか)にめぐらし、克(か)つ事を、一戰の内に決するは、良將の本(もと)とする所なり。

 然《しか》るに、近代は、親をうち、子を殺し、主(しう)を弑(しい)し、己(をの)が難をのがれん爲に、下人を誅(ちう)し、或ひは、慾心に、國を亂し、大は小をころし、畜生の殘害[やぶちゃん注:傷つけ損なうこと。]の謀(はかりごと)にて、義を專(もつぱら)に、禮を正しくして、戰塲に臨む人、一人も、なし。それのみならず、運を天にいのり、日取(ひどり)の善惡、方角を考へ、軍旅(ぐんりよ)に屯(たむろ)すといへども、天道(てんだう)の理(ことはり)に、もれたる事なれば、爭(いかで)か、勝利を得べき。

  その上、道(みち)に叶ひたる事だに、勝負は運による事なるに、まして、大惡不道(《だい》あくぶだう)の戰ひ、豈(あに)、利あらんや。をのれをのれが、理(り)をさとらずして、軍神に罪を課(おほ)せ、大空(おほぞら)明(あき)らかなる七曜(しちよう)に、さまざまの非理(ひり)をつげて、惱ます故に、くるしみ多(おほふ)して[やぶちゃん注:現代仮名遣で「おおうして」。]、をのづから、邪心の爲に、威を輕(かろん)ず。

 主(しう)、非道なれば、下人も、よこしま也。たとへ、主人(しう《じん》)は是(ぜ)にもあれ、非(ひ)にもあれ、官祿をむさぼり、妻子を養ふ恩德あれば、軍士は舊里(きうり)を去つて、軍旅におもむく。事あらば、死を一途に究め、運を天にまかする時は、冥加(みやうが)は人による習ひなれば、をのづから、天のめぐみ、深く、人に勝(すぐ)るゝ手柄を顯はし、名を萬代(ばんだい)に拳げ、ほまれを、子孫に、のこす。

 所詮は、國、治まり、人、和(くわ)する時は、軍《いくさ》も、たへ、鬪諍(とうじやう)も、起こらねば、我身の難も、をのづから、離(はな)るゝにて候へば、『天下泰平・國土安穩(こくどあんおん)』を、此御代に、いのり申《まうす》。」

と、面々に語りて、夜も東雲(しのゝめ)引きければ、各(をのをの)、法施(ほつせ)再拜して、かきけすごとくに、失《うせ》給ふ。

 平馬介、つくづくと聞《きき》て、

「是《これ》、ひとへに、天滿天神の示し給ふ。」

と、信心、肝(きも)にめいじて、千《ち》たび百《もも》たび、禮拜(らいはい)して、ひそかに陣中に歸り、あまたの功名を究め、子孫、繁榮しける、とぞ。

 

2022/03/20

譚海 卷之四 吉備津宮幷平納言謫處・福山瓦等の事

 

○吉備津の宮は備中にも備後にも有。御釜の鳴動するは備中にある物也、又備中の吉備宮の山を茶臼山といへり、茶うすの形也。山の絕頂に有(あり)て吉備公の御廟なり。其餘備中にある所の古廟みな茶臼のかたちなり。往古の製はみな茶うすのかたちなるものと見ゆ。仲哀天皇以前の御廟どもは形大きく、以後の物は茶うすの形になるやうなり。其廟の前に拜掃するやうなる所もあり。又平大納言の謫所有、木の別所も細谷川の上に有。せのをの大郞が墓はよし乃と云所に有、吉備宮の脇に有。また備中の福山と云所に古城跡有。その所にて筑紫の都府樓の瓦とひとしき瓦をほり得たり、これは殊の外いにしへのものと見ゆ。

[やぶちゃん注:岡山県岡山市北区吉備津にある吉備津神社(備中国一宮)が「釜鳴り神事」で知られる(私にとっては上田秋成の「雨月物語」の怨恨怪談の白眉「吉備津の釜」で馴染みの)それ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。詳細は当該ウィキをどうぞ。ここで言う備後のそれは、広島県福山市新市町宮内にある吉備津神社(備後国一宮)。詳細は同前。なお、備前にも岡山県岡山市北区一宮にある吉備津彦神社(備前国一宮)がある。詳細は同前

「平大納言」平清盛の継室である平時子の同母弟で、後白河法皇の寵妃で高倉天皇の母建春門院の異母兄である平時忠(大治五(一一三〇)年?~文治五(一一八九)年)であるが、不審。彼が平家全盛期に二度流された場所は出雲国で、鎌倉幕府成立後の配流地は能登国である。これは、何か誤認がある。本文の次の「木の別所」というのもおかしく、これは「有木の別所」(「鹿ケ谷の謀議」で流された藤原成親(保延四(一一三八)年~安元三(一一七七)年)の流謫地とされるものの異名)でなくてはいけない。されば、「成親」は權大納言であったから、「又平大納言の謫所有、木の別所も細谷川の上に有。」の「平」は衍字ではないか? 「又大納言の謫所、有木の別所も細谷川の上に有。」ですんなり意味が分かるからである。ここにその「有木の別所」があり、その北西に有木神社の名を見出せる。

「せのをの大郞」妹尾兼康(せのお 保安四(一一二三)年~寿永二(一一八三)年)は平安末の平氏方武将。瀬尾兼康とも呼ばれる。通称は太郎。詳しくは当該ウィキを見られたいが、『備中国板倉宿付近(現・岡山県岡山市北区)で討たれた。源義仲をして、「あっぱれ剛の者かな。是をこそ一人當千(とうぜん)の兵(つわもの)ともいふべけれ」と言わしめたという(福隆寺縄手の戦い)』とあるから、この近くである。

「備中の福山と云所に古城跡有。その所にて筑紫の都府樓の瓦とひとしき瓦をほり得たり」大宰府の建築物に西日本の各地の産生物が供給されており、これと言っておかしなことではない。寧ろ、これが現存するのかどうかの方が気になる。]

甲子夜話卷之六 39 歡來祠記

 

6-39

 島原役のこと記したる諸事の中に見へざる傳說なればと、左に載す。

[やぶちゃん注:以下、漢文部分は最後まで底本では全体が一字下げ。文は漢文訓点附きであるが、まず、白文で示し、後の「*」で、訓点に従って訓読したものを示す。それについては、読みを推定で歴史的仮名遣で附し、句読点も変更・追加し、段落を成形した。一部、訓読が承服出来ない部分は独自に読んだ。そこは注した。一部に注も附した。]

   歡來祠記

寬永中、榊原飛驒君牛籠門第有飛頭之孽。降於庭。猴面而人言。謂君曰、將有逆亂。兩君受要任。幸見祭必有美報。言訖不見。無幾耶蘇賊起、據島原。朝廷命二肥薩築諸國主進勦。皆受大河内侯信綱節度。侯號令嚴肅、勉持重圍守。連月未決。君時監鍋島氏軍。月城當前。一日賊出挑戰。將退。君之子左衞門尾進。鍋島之師繼之、急擊獲月城。益進。侯遽令諸軍、一時仰攻、遂覆巢穴殲之。軍旋頒賞。君父子以犯令見黜。然以賊之殲自君所監、後二歲賜食邑二千石。世襲御先手頭、得除與力騎十人同心卒五十人。君乃點從軍兵有功者充之。乃建歡來祠、祭其降於庭者。配以舊社。騎卒別賜居駒籠片町。君又令騎卒延祀之。昔神降於莘而虢亡、雉呴于鼎而殷興。飛頭之孽、其亦雉呴之類邪。傳曰、國之將興、必有禎祥。此其非妖孽邪。及其人請於余、乃記而與之。飛驒君諱某。左衞門君諱某。今其裔猶居其第、食其職秩。騎卒之後、居駒籠者、亦隷焉。

文政二年月日松崎復書

   *

   歡來祠記(くわんらいしのき)

 寬永中、榊原飛驒君(さかきばらひだのきみ)が牛籠門(うしごめもん)の第(だい)に、飛頭(ひとう)の孽(ゲツ/わざはひ)、有り。庭に降(くだ)る。猴面(コウメン/ましら(さる)づら)にして人言(じんご)す。君に謂ひて曰はく、

「將に、逆亂(げきらん)有らんとす。而して、兩君、要任を受く。幸ひに祭りて見れば、必ず、美報(びほう)有らん。」

と。言ひ訖(をは)りて、見えず。

 幾(いくばく)も無くして、耶蘇(やそ)の賊、起こり、島原に據(よ)る。朝廷、二肥・薩・築の諸國主に命じて、進めて勦(セウ・サウ/ほろぼさ)せしむ。皆、大河内侯信綱の節度を受け、侯、號令、嚴肅、勉めて、重(おもき)を持(も)て、圍守す。連月、未だ決せず。君、時に鍋島氏の軍に監たり。月城(グワツジヤウ/にのまる)の前に當る。一日、賊、出でて、戰さを挑む。將に退ぞかんとするとき、君の子、左衞門尾進(もとのしん)[やぶちゃん注:後注参照。]、鍋島の師、之れに繼ぎ、急(にはか)に擊ちて、月城を獲る。益(ますます)、進む。侯、遽(つひ)に諸軍に令して、一時(いちじ)に仰(あふ)ぎ攻め、遂に巢穴(さうけつ)を覆(くつが)へして、之れを殲(ほろぼ)す。軍、旋(かへ)りて、頒賞(はんしやう)す。君父子、令を犯すを以つて、黜(しりぞ)けらる。然(しか)れども、賊の殲(つ)くるを君が監する所よりするを以つて、後(のち)、二歲、食邑(しよくいう)二千石を賜ふ。世(よよ)、御先手頭を襲(かさ)ね、與力騎十人・同心卒五十人を除することを得(う)。君、乃(すなは)ち、從軍の兵、功、有る者を點(たて)て、之れに充つ。乃(すなは)ち、「歡來祠」を建てて、其の庭に降れる者を祭り、配ずるに舊社を以つてす。騎卒は、別に居(きよ)を駒籠片町(こまごめかたまち)に賜ふ。君、又、騎卒をして延(なが)く[やぶちゃん注:底本では『延』である。]之れを祀らしむ。昔、神、莘(しん)[やぶちゃん注:地名。]に降(くだ)りて、虢(くわく)[やぶちゃん注:周代の国名。]亡び、雉(きじ)、鼎(かなへ)に呴(な)きて、殷、興(おこ)る。飛頭の孽(ゲツ)、其れ、亦、雉呴(ちく)の類ひか。傳へて曰はく、「國の將に興きんとするとき、必ず、禎祥(ていしやう)、有り。此れ、其れ、妖孽(ヤウゲツ)に非ずや。其の人、余に請ふに及びて、乃(すなは)ち記して、之れを與(あた)ふ。飛驒君、諱(いみな)は某。左衞門君、諱は某。今、其の裔、猶ほ、其の第に居(を)り、其の職秩(しよくちつ)を食(は)む[やぶちゃん注:底本は『食其職秩』。]。騎卒の後、駒籠に居(を)る者、亦、隷(レイ)す[やぶちゃん注:今もまたつき従っている。]。

文政二年[やぶちゃん注:一八一九年。]月日松崎復書)

この松崎は掛川侯の儒臣にて、林門高足の弟子なり。

 

■やぶちゃんの呟き

この「榊原父子」は以下。父は旗本榊原職直(もとなお 天正一四(一五八六)年~慶安元(一六四八)年)・官位は従五位下・飛騨守。子は職信(もとのぶ:左衛門)。当該ウィキによれば、『宇喜多氏家臣・花房職之の次男として誕生。母は同じく宇喜多氏家臣・額田三河守の娘。出家し』、『池上本門寺の僧となっていたが、徳川家康に還俗を命じられ』、『慶長元年』(一五九六年)『に家康に拝謁、翌年に徳川秀忠の小姓となった。慶長』四(一五九九)年『に榊原康政の養子となり、以後』、『「榊原職直」と名乗るようになった。康政の側室が花房氏であり、また康政は宇喜多騒動の際に調停役を勤めたことがあり、それらの縁であろうと推測される』。慶長一九(一六一四)年の「大坂の陣」では、『父の職之・兄の職則と共に出陣。 職直はのちに兄の職則により、花房家』八千二百二十『石の内から』一『千石の分与を受け、旗本として独立して取り立てられた』。寛永二(一六二五)年に千八百石を『知行し』、『御徒頭』、寛永九(一六三二)年には『御書院番頭となり、従五位下飛騨守となった』。寛永一〇(一六三三)年には二千五百石に加増を受けている。寛永一一(一六三四)年、『長崎奉行に就任。江戸幕府が推進していたキリシタンの弾圧を更に推し進めた。長崎奉行時代に行われた幕府の政策として、唐貿易の許可を長崎のみと限定、日本人の外国渡航の禁止、長崎近在の混血児』二百八十七『人を海外に追放、ポルトガル人を出島に移す、などがある。一方、諏訪神社の祭礼(現在の長崎くんち)を始めるなど』、『長崎町人の懐柔を勧めた』。寛永一五(一六三八)年の「島原の乱」においては、『職直は、鍋島勝茂の軍監を勤めていた』が、五月、『鍋島軍が抜け駆けを行ったの際、職直の子の職信が』、『同時に抜け駆けを行った。職信は城内に突入する戦功を挙げたが、これは軍令違反であるため』、『親子はただちに咎を受け』、同年六月二十九日に『長崎奉行を免職、更に閉門の処分を受けてしまう』しかし、『その後』、『許され』、寛永一九(一六四二)年には『御先鉄砲頭』、正保三(一六四六)年には、『近江国水口城(水口御茶屋)城番を務め』ているとある。

只野真葛 むかしばなし (45)

 

 度々いらせられし大名方は、出羽樣・秋本樣、大井樣は、わけて、かずしらず、いらせられし。周防樣・相模樣、其外も有し。わすれたり。出羽樣は、かくべつのことにて、いつも女藝者三人、役者兩人ぐらいめしつれらるゝ故、御馳走は上り物ばかりなるを、翌日は御挨拶の御つかひに、銀子七枚被ㇾ下るが例なり。いかほど嚮應[やぶちゃん注:「饗應」に同じ。]申上ても、損は、いかず、外は、みな、おふるまひ申上て、ことなりし。其(それ)二階立(たて)し時は南海樣とならせられし時にて有し。役者は冨十郞と、くめ三郞、めしつれられし。其時、「曾我の十番切」といふ事有(ある)を思めし付(つき)にて、「十番切」のけい物を、「くじ」にて出されしが、一番は「一ばんつゞら」、二番、「二ばん更紗のふろしき」、三番は「鈴とめん」なりしや、四番が「拍子木夜番」の心、五番は碁を打(うつ)盤なりし。久しき事にて、其間(かん)を、わすれたり。みな、おもしろきことなりし。十番が「緋ぢりめんの襦袢」にて有し【三番は「すゞ」と「めん」なりしや。六番は玉子一箱、七番は「せうとがき」、八番が諸入用なり。】。[やぶちゃん注:以上は『原頭註』とある。]

[やぶちゃん注:「出羽樣」「日本庶民生活史料集成」の中山栄子氏の注に、『松平出羽守外諸侯方が工藤家に出入されたことが書中に記されてあり、その豪華な遊びの様子が分る。真葛十五、六歳の時で伊達家仕えていた時代なので安永六、七年』(安永六年は一七七七年)『の頃と思われる』とある。この「出羽樣」は松江藩六代藩主松平宗衍(むねのぶ)。彼は安永六(一七七七)年十一月末に入道して「南海」を号した。

「秋本樣」は出羽山形藩第二代藩主で館林藩秋元家第八代の秋元永朝(つねとも)のことか。

「大井樣」ここは仙台藩下屋敷が現在の品川区東大井にあったことによる憚った工藤の仕えた主家である仙台藩の第七代藩主伊達重村であろうと思ったが、後で「屋形樣、御なりをねがはせられしこと有しが」というのが、重村であるから、違う。それ以前の藩主では、真葛の記憶にあるという点で合わないので、不詳。

「周防樣」既出既注の岩見浜田藩藩主松平康定である。

「相模樣」前にも出たが、不詳。

「曾我の十番切」「曾我物語」で、工藤祐経を討った後に兄弟が十人の人物と打ち合いをしたという伝承に由来する、所謂、「曾我物」の歌舞伎の外題の一つ。

「けい物」「景物(けいぶつ)」。あり対象に対して興を添えるもの、景品。珍しい芸や衣装・料理などを当てた。「せうとがき」はよく判らぬ。「兄柿」或いは「兄弟柿」かしらん。]

「此やうには、大名方、いらせらるゝに。」

とて、屋形樣、御なりをねがはせられしこと有しが、其頃は、ワは御殿へ上りて、翌年なり。上り物は、一切、御臺所へ御賴被ㇾ遊しが、

「三十兩かゝりし。」

といふことなりし。

 家内御目見仰付られし故、唐韻達者通詞(たういんたつしやつうじ)の子は、はじめより、四書五經を唐韻にて習しを、長庵、ちいさき時、築地門跡寺中に、かすかな「よみ物」先生、有しが、そこへつかはし、司馬を供につれて行しこと、有し。

[やぶちゃん注:「唐韻達者通詞」「日本庶民生活史料集成」の「唐韻達者」の注に、『漢学の音』(オン)『宋・元・清の中国音を伝えたもので、特に上手な人の意』とある。]

「先生の息子、少々、見榮心に、唐韻のまねをして聞せし。」

とぞ。司馬、かへりて、大きにわらひしを、父樣御聞、其息子の來りし時、

「先度(せんど)、つけつかわせし男は、唐人通詞なり。『そなたの唐韻が、ちがひし。』と聞し。是より、ならはるべし。」

と被ㇾ仰しかば、赤面しながら、弟子と成、折々、ならいに來りし。

 長崎者は「けんつき」といふ内、分(わき)て、司馬は、上手にて有し故、南海樣、御いでの時分も、めしいだして、「くめ壱」と、うたせて、御覽有し。

[やぶちゃん注:「けんつき」「拳(けん)」遊びのことであろう。二人が対座して、互いに右手の指を屈伸し、素早く出し、数を読んで、二人の伸ばした指の合計を正確に言い当てた者を勝とするもの。寛永(一六二四年~一六四四年)頃、中国人が長崎に伝え、その後、流行し、酒宴や遊廓の席などで行なわれ、負けた者に酒を飲ませたりした。長崎に伝えられたものを「長崎拳」「本拳」と称し、土地によって「大坂拳」・「薩摩拳」など、少しく形が変わる。さらに変化したものに「三竦(さんすくみ)の虫拳」・「石拳(じゃんけん)」・「狐拳」(庄屋拳・藤八拳)などがある(小学館「日本国語大辞典」に拠った)。]

 其時、富十郞が着たりし、かたびら、何かしれぬ故、父樣、御聞なされしかば、

「越後より、糸を取よせ、京にて、そめて、織らせし。」

と、いひし。下に白さらし、中に緋ぢりめん、上にしまちゞみと、三重、かさねて、着たりし。

 ワ、十五、六になりても、ばゞ樣、子共のやうに思召、御兩親、分(わき)て、何の御心もなし。元長、藤九郞などは、

「こちの孃樣も、ちと、緣組、たづねられ、よろしからん。」

と、いひしを、母樣、たいこ持(もち)、きらい故、

「可愛そうに。そんなにはやく片付、子持に成(なる)と、何もならぬから、今、少し、樂をさせたがよい。」

と被ㇾ仰し。父樣は、たわむれながら、

「外へやると、來年から『ぢゞ樣』といはれるから、めつたに、娘、かたづけぬ。」

とばかり、御挨拶、いひたりし。兩人は、手もちなく、かへることなり。

[やぶちゃん注:「たいこ持」ここは、「人に諂って気に入られようとする言動をする者」の謂いであろう。]

 母樣は、ことに、御奉公が好(すき)にて、其身、奉公被ㇾ成ぬを、くやみてばかり、いらせられし故、終に奉公に、いだされしなり。『ため、あし。』と、思(おぼし)めされしことにはあらねど、他所(よそ)御屋敷なら、さげるも自由なれど、手前御屋敷の奧ヘ、十六の年、九月上りて有しに、ワは、いかなることにや、出(いで)はに、諸人、かわるがわる、あしらふ心の所へ、いつも、むくことなりし[やぶちゃん注:ここは底本は『諸人がわるくあしらふ心の所へいつもむくことなりし』であるが、どうも意味が今一つ通じないので、「日本庶民生活史料集成」の本文を採った。]。◦花々しきことばかり、見習いては、御殿(ごてん)は、さびしきよふ[やぶちゃん注:「やう」の誤記か。]にて、有し。

[やぶちゃん注:「ため、あし」よきことと思ってそうしたが「ため」に、逆に「あし」(惡し)き事態となったということか?]

 隣の惡だましいは、五百石のだんな故、たゞも暮されるし、一向、醫の道をば、素人同前、藥取も來ぬに、こちらの、はやるも、うらやましかるべし。父樣の袖を引て、

「是。そんなに、あくせくと、かせいでばかりくらすといふは、野暮だぜ。あすばれるだけは[やぶちゃん注:ママ。]、遊んでくらすが、得だ。」

など、こ惡知惠つけるが、得手物、

「それも、そうか。」

と、お腰がおちつくと、夫婦づれにて、道樂を仕こみ、めし物の仕立・風俗・言葉づかひまでが、日々にかわるを、ばゞ樣も、むかしは、はやり好(ずき)なりしが、『餘り、よいことでは、有まへ。』と、おぼしめす顏。母樣は、もとより、かたい事ばかり、得手の人、

「眞實(まこと)に、見るも、きくも、いや。」

と、おぼしめされし。見上りしこの惡隣、はじまりて、母樣、おもひの種、成(なり)し。每日、かごのもの、御よび、朝から仕度してゐるに、晝過まで御またせ、

「今日は、出を、やめた。」

とて御歸し、たゞ、かご代ばかり拂(はらひ)て、數日(すじつ)、病家御見舞なかりしを、病家にては還俗被ㇾ成、主用、多く、醫行、御やめ被ㇾ成しことゝ心得て、

「をしきこと。」

と、いひながら、外(ほか)へ、病用たのむことゝ成行(なりゆき)しなり。

現在進行中の萩原朔太郎の未発表詩篇の正規表現版電子化をペンディング、及び、詩集「月に吠える」「靑猫」「蝶を夢む」「氷島」「宿命」の詩篇の草稿の追加について

現在、私は萩原朔太郎の未発表詩篇の正規表現版電子化注を進行中であるが、その過程で、筑摩版「萩原朔太郞全集」第一巻にある、詩集「月に吠える」「靑猫」「蝶を夢む」及び第二巻の「氷島」「宿命」の草稿詩篇の電子化がかなり抜けていたことに気づいた(後の「氷島」「宿命」(一篇のみ)は現存草稿が前の三詩集に比すと、非常に少ない)。

そこで、先行する「月に吠える」「靑猫」「蝶を夢む」「氷島」「宿命」の各詩篇の正規表現版の電子化注に、そこに草稿があるものについて、それを追加する作業にこれより入ることにした。一部、古くに単独で電子化したものがあり、小学館版の旧詩集の注で電子化したものもあるのであるが、完全に電子化したものを除き、今回、新たに、概ね、各々の決定稿の後に新規に電子化して示すこととする(古いもので代替する場合は、再度、校訂を行った)。それが、正しく容易に決定稿と比較出来ると考えるからである(長詩については別にしたものもある)。

そのため、未発表詩篇の電子化は一時的にペンディングする。

なお、前の三詩集る「月に吠える」「靑猫」「蝶を夢む」「氷島」の全正規表現詩版の電子化注は、その総てが、ブログ・カテゴリ「萩原朔太郎」の方にあるので注意されたい。

2022/03/19

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 瞿麥貝(ナデシコガイ) / ナデシコガイ

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。右下方及び左上方を、一部、マスキングした。]

 

Nadesikogai

 

瞿麥貝(なでしこがい)【「紅貝」とも。五種。】

 

「六〻貝合和哥」

    左五番  西行

「夫木集」

 千※しむなてしこ貝にしく色は

 大和からにもあらじとそ思ふ

[やぶちゃん字注:「※」=「塩」―「土」+「氵」。」。]

 

[やぶちゃん注:名前と色から、

斧足綱翼形亜綱カキ目イタヤガイ亜目イタヤガイ科カミオニシキ亜科カミオニシキ属

外国名ナデシコガイ Chlamys irregularis

に比定。これはこの発色のものをのみ選んで集めたものに過ぎない。色は地味なものから、多色である。

「六々貝合和哥」さんざん出た「六々貝合和歌」。国立国会図書館デジタルコレクションの原本の当該歌はここ

   *

    左五  なてしこ貝

「夫木」

ちしほしむなてしこ貝にしく色は西行

やまとからにもあらしとそ思ふ

   *

因みに、同書の貝合せの図は、ここの右の第一列下から二番目。問題なくナデシコガイである。]

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 雀貝(スヽメ貝)・簑貝 / モクハチミノガイ・ミノガイ或いはユキミノガイ或いはミノガイ類の一種

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。右下方を、一部、マスキングした。]

 

Suzumegai

 

雀貝【三種。】

 

「福州府志」、

    石磷【「すゞめ貝」。又、「簑貝」。「すいそ貝」。「千鳥貝」。白色の者を「雪雀」と云ふ。】

     此の者、鰒(あわび)の殻に附きて生ず。

 

「六々貝合和哥」

     右十番

「夫木集」

   波よする竹の留りの雀貝

     うれしき世にも相にける哉

 

[やぶちゃん注:異名の一つと、形状から、

斧足綱翼形亜綱ミノガイ目ミノガイ科Limidae或いは Lima属のミノガイ類

を三種の限定候補とした。このうち、上部の二個体は、その明るい輪状の褐色の光彩から、

モクハチミノガイ Lima zushiensis

を有力候補と出来ようか。左端はその一片の内側かも知れない(左に褐色痕が僅かに見える)。

一方、右の二個体は孰れも真白であり、右側は殻の内側らしいが、構造がよく判らない。左の白い個体は全体が円形に近く、しかも輪状肋が非常に強く見える形状に、やや不審はあるが、この本体自体の白さは(生体の外見ではない)、

ロウイロミノガイ Lima fujitai

ウスユキミノ Limaria hirasei

ユキミノガイ属ユキミノガイ Limaria basilanica

などが候補となろうか。和名の「簑貝」、ミノガイLima vulgaris は放射肋が強過ぎ、ここでは候補には挙げ難く、特に輪状肋がよく見えるというのは、ウスユキミノかも知れない。

「福州府志」清の乾隆帝の代に刊行された徐景熹の撰になる福建省の地誌。『石磷形如箬笠、殼在上、肉在下。』とあるのを中文サイトで発見したが、この叙述が正しいとすると、これは笠型をした腹足類ということになり、少なくとも、私の比定した種群とは無縁である。

「すいそ貝」漢字表記不明。

「千鳥貝」片殻の形状からは腑に落ちる。

『白色の者を「雪雀」と云ふ』同前。

「此の者、鰒(あわび)の殻に附きて生ず」これはやはり、先の注に出した笠型形状の亡霊が、またぞろ、出現してくるのだが、これは、梅園が実際に見て、剝してこれらの個体を得た感想とは、私には思われない。そういう話を聴いた、しかし、この種ではない、ということにしておく。もし、それが正しいとなれば、比定はスタートに戻ってやり直しが必要だからである。

「六々貝合和哥」さんざん出た「六々貝合和歌」。国立国会図書館デジタルコレクションの原本の当該歌はここ

   *

     右  雀貝

「夫木」

なみよする竹のとまりのすゝめ貝讀人不知

うれしき世にもあひにける哉

   *

因みに、同書の貝合せの図は、ここの左の中央下方なんだが、ウヘエ!? ヤバいねぇ、形が。ミノガイどころじゃない。マジ、スズメそっくりだもん! でも、これって、もしかすると、例のイソチドリに似てねえか?

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) 默阿彌の惡人

 

     默阿彌の惡人

        

 河竹默阿彌は、『惡の讃美者』といはれ、又、『白浪作者』といはれて居る程、その脚本の中に、多くの惡人ことに窃盜犯人を描いて居る。そこで私は、これから默阿彌の描いた惡人に就いて考察を試みようと思ふのであるが、彼の世話物と稱する脚本だけでも百三十種の多きに達して居るさうであつて、その中にあらはれる、いはゞ無數の惡人を一々硏究することは不可能のことに屬するから、私は、先づ槪括的考察を試み、後、比較的よく描かれた一二の性格を紹介し、默阿彌が、如何に、『惡』を取り扱つて居るかを指摘して、これを犯罪學的に硏究するに過ぎないのである。

 默阿彌の白浪物で、芝居として有名なものは『白浪五人男』や『三人吉三』であるが、その中に描かれて居る惡人の性格は、殘念ながら、はつきりしていない。『月も朧に白魚の篝も霞む春の空、つめたい風もほろ醉ひに、心持よく浮か浮かと、浮れ烏の只一羽、塒へ歸る川端で棹の雫か濡手で泡、思ひがけなく手に入る百兩……」といふ、お孃吉三の名臺詞などを讀むと犯罪學的考察などをする元氣もなくなって、夢幻の世界へ引きこまれてしまひ、默阿彌の所謂「惡」に陶醉せざるを得なくなり、本來の惡といふ感じなどはさつぱり出て來ないのである。從つて默阿彌の脚本を讀むと、作者は、『惡』を如實に描くことよりも、寧ろ『惡』を如何にして美化しようとするかに力を注いで居るやうに見えるのであつて、これが卽ち『惡の讃美者』なる名稱の出來た原因であらうと思ふ。

 次に默阿彌は、『惡』を如何にして善化しようとするかに力を注いで居るやうである。彼の描いた惡人の大部分は『惡』の分子と『善』の分子とを同等に具へて居るか、或は『惡』の分子よりも『善』の分子をより多く具へて居るのであって作者自身はどんな惡人でも必ず救はれる道があるということを信じて居たらしい。だから、『惡に强きは善にもと』いふ臺辭は、應接に遑がないといつてよい程、到るところに使用されてある。「鑄掛松」の中に、花屋佐五兵衞の言葉として、「あゝ惡に强きは善にもと、あつぱれ見上げた松五郞どの、恩を知らぬは人ではない。よく覺悟をさつしやつた」

 とある如く、彼等惡人は、恩を感じ、義理を思ひ、公憤を起し、同情を表して一たい何のために惡人になつただらうかを疑はせるような者ばかりである。

 然し、幸ひに默阿彌は、彼等が何のために惡人になつたかを充分に說明して居るやうである。卽ち、『環境が犯罪者を作る』これが默阿彌の唯一の信條であつたらしかつた。それ故彼は所謂先天性犯罪者を殆んど書かなかつたといつても差支ない。たまたま先天性犯罪者を取り扱つても、彼は少しもそれに人間味を持たせなかつた。換言すれば、彼はさういふ遺傳的の犯罪者を描くべき興味を持たなかつたのである。例へば『村井長庵』に於ける長庵の如きは、どちらかといふと『ツレ』の役にまはされ、善人たる「久八」の性格を描くためのダシにつかはれて居るやうである。

 環境が犯罪者を作ると信じた默阿彌は、同時に、立派な運命論者であつた。卽ち彼は遺傳とか素質とかを顧みないで一種の神祕力とも稱すべき、『運命』が犯罪者を作るものであると考へたのである。だから、科學的に見れば、一種の迷信ともいふべき機緣によつて犯罪者が作られるのである。例えば庚申の日に出來た子は盜賊になるという迷信は、彼の作の到るところに取り入れられて居る。鑄掛松が社會制度を呪つて盜賊になるところにさへ、「おゝ、二十四日はたしか庚申」という臺詞が、文藏に使はせてある。

 運命論者である彼は、當然「因果應報」の信者であつた。彼はその作の到るところに、因果應報の恐ろしさを說いて居る。善因善果、惡因惡果、この法則が實に思ひもよらぬところにあらはれて、彼等犯罪者の心をぎくりと動かし、悔悟の動機となつて居る。だから、『めぐる因果は目前に』といふ言葉も、「惡に强きは善にもと」と同じくしばしば使用されて居るのである。

 之を要するに默阿彌の脚本にあらわれる惡人の殆んどすべては、ロンブロソーの所謂情熱性感傷性犯罪者である。ドイツ語の所謂 Leidenschaftsverbrecher である。卽ち彼等は多情であり、多感であり、よほどの惡性を帶びたものでも最後には悔悟する。感傷性犯罪者の常として、自分の犯罪を一種の誇りをもつて人に告げる。犯罪を行ふに際して、多くは周到な注意をしない。さうして、義理、人情、恐怖、戀愛等の原因によつて、容易に自殺しようとさへするのである。「鑄掛松」の如きは、その好箇の例である。ウルフエンは、この種の犯罪者が一ばん善人になり易いといつて居るが、默阿彌の犯罪者の多くが最後に至つて改心するのも決して故のないことではない。

[やぶちゃん注:「Leidenschaftsverbrecher」ライデンシャフッ・フェァ・ブレッヒャァ。情熱型犯罪人。

「ウルフエン」既出のドイツの犯罪学者ヴォルフ・ハッソー・エリッヒ・ウルフェン(Wolf Hasso Erich Wulffen 一八六二年~一九三六年)。ドイツ語の当該ウィキを見られたい。]

 勸善懲惡を主眼とする歌舞伎劇に於て、惡人が最後に至つて改心するのは當然であるとしても、默阿彌が、わざと、人物の性格をまげてまで、勸善懲惡主義に迎合したと考へるのは不當であると思ふ。むしろ彼は始めから、どんなに惡事を重ねて行つても、遂には改心するといつたやうな性格を描き出さうとしたのであつて、それが後に至つて改心するのは奇とするに足らぬのである。實際、默阿彌の惡人は、善人にならう、善人にならうとあせつて居るかのやうに見える。從つて彼等の、惡人らしい言葉は、いかにも不本意ながら發せられて居るやうに見えるのである。それが爲、彼等には惡人らしいすご味が缺けて居る。蓋し、根が善人であるからである。

 それ故、默阿彌の作に於て、善人が惡人になつて行くところの心理描寫は、いつも惡人が善人になるところよりもすぐれて居るのであつて、惡人が善人になるところは、木に竹をついだやうな感じがする。何となれば、善人が惡人になることは、短時間――否、一瞬間にでも起り得るけれども、だんだん深みへ陷つた惡人が善人に化するには、相當の時間を要するのが普通であるからである。それを默阿彌が短時間に改心させて居るため、多少の破綻を感じさせるのであつて、脚本である以上、それはやむを得ないことだらうと思ふ。

 以上が默阿彌の作にあらじはれる惡人の槪括的考察であつてこの槪括的考察なくしては、彼の作を犯罪學的に理解することは困難である。そこで、私はこれから、まづ彼の六十六歲の時の作「島鵆月白浪」[やぶちゃん注:「しまちどりつきのしらなみ」。]にあらはれる犯罪者を考察して、一層くはしく、これ等の事情を明かにしやうと思ふのである。この作は芝居としては、さほどの成功を收めなかつたやうであるが、作者の手腕が圓熟した時の作ではあるし、實際また犯罪者の性格が一ばんはつきり描かれて居るから、特にこの作を選んだ譯である。

[やぶちゃん注:「島鵆月白浪」。世話物。全五幕。明治一四(一八八一)年十一月、東京新富座で五世尾上菊五郎の「明石の島蔵」、初世市川左団次の「松島千太」、九世市川団十郎の「望月輝(もちづきあきら)」、八世岩井半四郎の「弁天お照」らにより、初演された。通称「島ちどり」。二人組の盗賊島蔵と千太は、東京浅草の質屋に押し入り、大金を盗んだが、島蔵は因果の恐ろしさを感じて改心し、神楽坂で酒屋を営む。千太は、惚れた芸者のお照が、代言人望月輝の妾(めかけ)になっていることを知り、ゆすりに行くが、以前、大泥棒であった輝の貫禄に負けて引き下がり、その仕返しの加勢を、島蔵に頼む。島蔵は、千太を九段の招魂社に呼び出し、心を込めた意見で、ついに改心させる。二世河竹新七として、長く劇作を続け、殊に盗賊を書くのを得意として、「白浪作者」と称されてきた作者が、引退を決意し、「黙阿弥」と名乗った、その披露のために書いた作品で、主要登場人物が、総て盗賊で、しかも、最後には全員が改心するという構成を持つ。明治の新世相を描いた「散切物(ざんぎりもの)」の代表作で、特に大詰の「招魂社」(靖国神社)は、場面の斬新さもあって、大好評を得た。近年は、その前の「明石屋」との二場だけを上演することが多い。三幕目「望月邸」で、輝とお照の色模様に使った清元「雁金(かりがね)」もよく知られる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。なお、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから全篇が視認出来る。]

 

        

 順序として先づ私は『島衞月白浪』の梗槪を述べやう。これは明治十四年十一月新富座に書卸されたもので、時代は明治の初期である。この作の中には、隨分澤山の惡人が出て來るが、作者は、明石島藏と松島千太という二人の窃盜犯人の運命を中心として書いて居るから、私もこの二人の性格を主眼として述べるつもりである。島藏と千太は佃の苦役場で知り合ひとなり、兄弟の誓をして『滿期放免になつたら、力をあわせて大仕事をやり、(强盜を意味する)、その金を元手として、互に、かたぎになり出世しやう』と約定する。放免されて出るなり、約定のとほり共謀して、淺草の質屋福島屋に忍びこみ、刄物で主人の足を傷け千圓の金を强奪し、五百圓づつ分けて、千太は奧州へ、島藏は播州へ、各々兩親に逢ふために、その故鄕に歸るのである。

 第一幕は、奧州へ歸つた千太の行動から始まつて居る。千太は僞名を名乘つて銀行の手代といふ觸れこみで、土地の藝者の辨天お照をあげて豪遊をきはめ、お照の母親のお市に潔く百圓の金を渡すが、その時分すでに警察の探偵に怪しまれて居る。すると、同じ宿屋に泊り合せた叔父に正體を見つけられ、その叔父の口から、彼のたづねる兩親は變死して居ない旨をきかされる。自暴自棄になつた彼は藝者のお照を明神山で口說いて失敗し、かねて知合であつた野州の德に正體を見あらはされ、密告されて虎口をのがれる。お照は望月輝という男に助けられ、その妾となり、上京して家を持つ。

 第二幕には明石島藏の行動が描かれてある。明石浦の父親の家では、島藏の妻の年忌が營まれ、島藏の妹と島藏の子の岩松と三人は島藏の噂をして居る。そこへ島藏が歸つて、五百圓の中から三百圓を出して父親に送ろうとするが、父親はその金の出どころを怪しんで受けようとしない。その時島藏はわが子岩松がびつこになつて居るのを不審に思つてきくと、恰度彼が福島屋で强盜を働いたと同じ時刻に棚から包丁が落ちて岩松の足を傷けたといふことである。この覿面な天罰に怖れ慄いて、彼は父親の前で一切を自白し、盜んだ金を所有者にかへして後自首しようと決心し、再び上京するのである。

 第三幕では、上京した島藏と千太とが、偶然牛込の錢湯で出逢ふ。島藏はそのとき、小賣酒屋の店を出して忠實に商賣にいそしんでいたのであるが、千太は改心どころか、ますます惡性を濃くし、辨天お照の住居を偶然發見して、その主人たる望月輝から金をゆすらうとしたが、望月も惡人であつて、あべこべにおどされて逃げ出してしまふ。

 第四幕は島藏の小賣酒屋である。國元から妹と岩松とが上京して店を手傳つて居る。野州の德がひそかに雇人となつて働いて居る。島藏は何とかして福島屋の行方をさがしたいものだと思つて居ると、(福島屋は强盜にはいられてから零落して店をつぶしたのである。)福島屋の娘らしいのが醬油を買ひに來たので、あとをつけ、福島屋の主人が金に困つて居るのを知つて金百圓を置いて歸る。その時恰度國元から父親が上京し、同時に千太がたずねて來る。千太は、今夜望月輝の家を襲ふから手傳つてくれと賴む。島藏は夜十時に招魂社前で會はうと約束する。父親や妹はそれをとめたが、島藏は、きつと千太を改心させてくると誓つて出かける。

 第五幕は招魂社鳥居前の場で、觀客の大によろこぶところである。島藏は千太にも改心をすゝめるのであるが、千太はどうしても聞き入れない。遂に二人は格鬪し、島藏は千太を組敷き短刀を擬して改心を迫り、千太も遂に改心して、二人で千圓の金をつくつて、福島屋にかへし、自首することに決心する。望月輝が物蔭にきいて居て必要なだけの金を出し、同じく物蔭に居た野州の德も改心し、所謂めでたしめでたしでこの劇は終るのである。

 

        

 この劇が最後の幕に於て觀客に多大の感興を與へることは前に述べたが、默阿彌もこの場面に最も力を入れたやうである。島藏はとくに改心しただけ、それだけ犯罪性が稀薄に見えるが、千太は、最後まで惡性を保持しながら、最後に至つて掌をかえすが如く改心して居る。これは、犯罪學上から見ると頗る奇怪な現象であつて、どうも本當らしくないやうな氣がするけれども、根が、『善』の分子を多分に含んで居るのであるから、こういうことはあり得ると考へて差支ない。

 先づ順序として千太の犯罪性を調べて見よう。彼には遺傳的の犯罪者たる分子が認められない。叔父の東右衞門が彼に語るところによると、父親については、

『此方の親父は正直だつたが、所謂前世の因果とやら、便りに思つた一人の此方は内を出てしまひ、爺イ婆アでやうやうに、その日を送つて居たところ、生れ付いての酒好が、病ひの元で中氣になり、(中略)人の惠みで生きて居たが定業故か私の所へ禮に來るとて二本杖で出たさうだが、轉びでもしたことか、當願寺の池へ落ち、遂にはかなく死んでしまつた。』とあり、又、母親については、

『可愛さうなは手前のお袋、跡に殘つた婆ア殿、中氣病でも亭主故、杖に思つて居た所、非業な死をばした後は、明けても暮れても泣いてばかり、千太が居たならば居たならばといつても返らぬ旅の空、生死の程も知れざれば、食ふに困るとあぢきなき、浮世に倦きたか苫作殿が、百ケ日目の晚に裏の井戶へ飛込んで、是もはかない死をしました。』

 とあつて、たゞ父親が酒好きであるという以外に、惡性を受けついだ形跡は少しもなく、全く、生れてからの境遇の然らしめたところで、父親が病氣になつてから、他人の恩惠で生きるべく餘儀なくされたほどの生家の貧乏と、敎育のよくなかつたことが彼の犯罪性を生む主要なフアクターであつた。しかも彼の犯罪性は比較的早くから發達した。

『自慢話をする樣だが十五の年に奧州で八十目の懲役が初犯で、それから二犯三犯、行く度每に等級が段々登る泥棒學問』とは千太自身が望月輝の家で吐いた言葉である。然し、彼は生れつきの犯罪者ではなく、明神山で彼が辨天お照をくどくときにも、

『盜人だとて同じ人間、ぎやつと生れた其時から人の物は我物と、盜む心はありやしねえ、元はみんな堅氣だが、多くは酒と女と賭博、身の詰りからする盜み、初手は空巢のちよつくら持ち、初犯で纔かな懲役から二犯三犯段々と功を積んで强盜迄修業して來た松島千太。』

 と言つて居る。これによつて作者が松島千太を境遇の生んだ犯罪者として居ることは明かであつて、惡人がだんだん深みへはいつて行く經路が巧みに述べられてある。さうして、强盜まで修業するに至つても、根は善人であることを作者は主張して居るのである。

 根が善人であるが故に、千太はまたお照に向つて、『若い時には親達に、少しは苦勞もかけたから、生涯樂にさせやうと、わざわざ金を持つて來た其甲斐もなく死んだと聞いたら、俄に胸が塞つて心持が惡くなつた。』

 と言つて居る。實際强盜をして得た金を親のところへわざわざ持つて來て喜ばせようとするのは、先天性犯罪者には一寸出來難いことである。社會制度に反抗して生れる犯罪者はそのはじめに先づ父親に反抗するのが普通である。さうして親のことなどを思はぬばかりか、却つて親をうらみさへする。然るに千太は感傷性犯罪者であるから、親を思ひ親を喜ばせやうと欲するのである。さうして親が死んだことを聞くなり彼は落膽して自暴自棄に陷り、ますます惡性を增して行くのである。だから第五幕に於て、島藏から、改心をせまられたとき、

『お前は親父や妹に可愛い忰があることだから、心を改め堅氣になり、素人になる氣になつたらうが。おらあ親も無けりや兄弟もなし、今更堅氣になつたとて誰も喜ぶ者はねえから、一生涯盜みをして、してえ三昧なことをしたら、斬られて死んでも本望だ。』

といつて居る。これはいかにも千太の心からの叫びであらう。ところが、これに對して、島藏が、

『そりや手前あんまり愚だ。假令この世に居ねえとて草葉の蔭で親達が、どんなに案じて居るかも知れねえ、死んでしまへば空へ歸り、跡方もねえものならば、朝廷初め華族方先祖の祭りはなさりはしめえ、必ず跡のあるもんだから、心を入れ替へ盜みをやめ、冥上の親に喜ばせろ。』

といふと、千太は意外にも、

『なに悅ばせるに及ぶものか、親だといつてうぬが勝手に、己を拵へたことだから、恩もなけりや義理もねえ、勝手に苦勞をするがいゝ。』

 と叫んで居る。これはどうしても千太の心からの叫びとは思はれないのである。所謂賣り言葉に買ひ言葉であつて、しひて言へば千太が惡人を裝つて言ふに過ぎない。だから、作者もその次へ、

  〽腹立紛れの憎て口[やぶちゃん注:「にくてぐち」。]、聞く島藏は呆れ果て、

 と、插入して居る。[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像でここ。]

 この言葉を若し千太の眞面目な心からの叫びにとつたならば、それこそ、最後の改心は、木に竹をついだやうなものとなるのであるが、私は作者がことわつて居るやうに腹立紛れの叫びと考へたいのである。

 然し、賣り言葉に買ひ言葉がだんだんかうじた結果は遂に二人の格鬪となるのである。卽ち二人は喧嘩のための喧嘩をするのである。さうして、その結果、島藏が千太の振りかざした短刀を、小手を打つて落し、ついでに千太を組しいてしまふ。

[やぶちゃん注:以下の台詞は、底本では、二行目に及ぶところは四字下げである。]

 島藏 さあ千太、今手前を殺すのは有無を言はせず一突だぞ、命を捨てゝも改心しねえか。

 千太 誰が改心するものか、殺すといふなら早く殺せ、己を殺せば手前は下手人、一人は死なねえ殺してくれ。

 島藏 惡い奴でも人一人手前を殺せば其替り、己も死ぬのは覺悟のめえだ。

 千太 覺悟なら早く殺せ、さあ殺せ殺せ、早く己を殺してくれ。

 そこで島藏はどうするか、彼には元來、千太を殺す氣は毛頭ないのである。島藏はどうしても生きたかつた。ところが、行きがかり上かうした破目になつたのである。で、彼は、

『殺せとあるなら殺してやらう。』

 と短刀逆手に突かうとするが、それは、形式だけであつてすぐ、心を變へ、

『賣詞に買詞で、殺せといふなら今殺すが、己も一旦兄弟の緣を結んだことだから、殺してえことはねえ、云々。』

と、いつて、千太に今一度改心をすゝめるのである。すると、その甲斐あつて、千太は見事に改心してしまふ。卽ち喧嘩のための喧嘩が動機になつて、善人になり得る素質をたつぶり持つた千太が善人になつたまでのことである。

 若しその際島藏が千太を殺してしまつたならば、運命悲劇として、かなりに興味ある一場面を作るかも知れないけれど、さうなるには千太が、もつともつと惡人でなくてはならない。出來るならば、先天性犯罪者であつてほしい。『今更堅氣になつたとて誰も喜ぶ者はねえから』などといふ臺詞を使つてはいけない。

『親だといつてうぬが勝手に、己を拵へたことだから、恩もなけりや義理もねえ、勝手に苦勞をするがいゝ[やぶちゃん注:踊り字がないが、原作に則って特異的に打った。前のリンク先を参照。]。』といふ言葉を心の底から吐く先天性犯罪者でなくてはならない。もし千太が先天性犯罪者であつて、その惡性が救ふべからざる程度になつて居たならば、島藏に千太を殺させることによつて、この劇を一大悲劇たらしめることが出來るのである。折角改心しても、島藏が舊惡のために大罪を犯さねばならぬやうになるとすれば、非常に深刻なものとなる。ことに島藏が、

『これ、そりや素人にいふ臺詞だ、己にいふのは釋迦に說法、こんな無駄なことはねえ、忘れもしめえ佃に居た時、熱氣の世話になつたが緣で、兄弟分の義を結び、滿期の後に娑婆へ出て、强盜をする脅し文句は、己が敎えてやつたのだ。』

 と言つて居るごとく、始めはむしろ千太をそそのかして、遂には千太の生れつきの惡性のために、再び大罪に引きこまれるとすれば、一層引き立つてくる譯である。

 けれども默阿彌は、千太を、そのやうな惡人とする氣はなかつた。千太を最後に改心させるために、はじめからそれにふさはしいやうに、その性格を描いたのである。だから最後の場面は、忌憚なく言へば少しく物足らぬのである。何となれば喧嘩のための喧嘩をさせるために千太に心にもない毒舌を使はせて居るからである。從つて、二人は、芝居の中で更に芝居をやつて居るやうに見えるからである。

 なほ又、島藏は『性は善なる人の身』にといふ言葉を使用して居るごとく、自分の力で千太も改心するにちがひないと信じて居た。だから、千太に逢ひに家を出るとき、

『内では世間を憚る故、向うで賴むを幸ひに人通りなき招魂社の鳥居前でとつくりと、意見をなして賊を止めさせ、まことの人にする所存。』

 といつて居る。なほ又、彼は千太でも自分でも兇狀持ちではあるけれど、自首すれば必ず生きれるにちがひないと信じて居た。

『さつきも己が言ふ通り舊幕時分の十圓から死罪にされる時ならば、とても死ぬなら行掛の駄賃といふもあるけれど、今は上の御處刑替り千圓盜んだ强盜でも、一命助り終身懲役、此の有難い世の中に人を殺して命を捨てるは、あんまり手前は開けねえ、親から貰つた大事な體を粗末にせずと心を入替へ、己と一緖に堅氣になれ。』

 これ等の自信によつて島藏はみごとに千太を改心せしめたのである。

 

        

 こゝで私は島藏の犯罪性を考察しやうと思ふ。島藏も、もとより境遇の生んだ犯罪者である。島藏自身は、

『子供の折からいたづらで、お世話をやかしたその果が道に背いたことをして云々。』

といつて居るけれども、子供の折いたずらであるぐらゐのことは、誰にでもあることで、これによつて、もとより先天性犯罪者と斷ずることは出來ない。彼の父親の言葉によると、

『いゝも惡いもお前方が知つての通り三年跡、筋の惡いことをして八十日の懲役に行つたを嫁が苦勞になし、それを氣病[やぶちゃん注:「きやみ」。]に煩ひ付き、遂に滿期にならぬ内養生叶はず果敢ない最後」[やぶちゃん注:二幕目の台詞。国立国会図書館デジタルコレクションのここの右ページ二行目の島蔵の父磯右衛門の台詞である。]

 とあつて、妻子が出來てから筋の惡いこと、卽ち犯罪を行つたのであるが、それがどんな犯罪であつたかを作者は明かにして居ない。この犯罪を行つたため、恥かしさのあまり、上京したのであるが、

『人に成ろうと東京へ參りましたが知邊はなく、曖昧宿の口入や、安泊りへ泊り込み、浮浮月日を送る内、二枚の着物は一枚賣り、鰹と共にわた拔の袷も光る身の垢に、どうでよごれた體故又窃盜をはじめた所云々。』

 と彼自身言つて居るごとく、境遇のために惡事をかさね、遂に佃の苦役に從事するを餘儀なくされたのである。

 彼もまた千太と同じく親や子を喜ばせるために不正の金をもつて、亡妻の三囘忌に間にあふやうに故鄕に歸つて來る。そうして父を喜ばせるために三百圓の金を渡さうとする。ところが、正直な父親は、直覺的に不正な金であると見拔いて受取らない。そこで善人の素質を澤山持つて居る彼は、不正といふものが如何に不快な結果を齎らすかを痛感した。

『是につけても人間は正路に心を持たねばいけぬ、一旦惡事をしたばかり、見つぎの爲に持て來た札も今では反古同然、是皆我身がなした科、人を恨むところはない。』

 もとよりこれは、自分の現在所持する金が不正でないといふ言譯のための言葉であるが、その言葉の底には、明かに、現在この金が不正な手段によつて得られたものであることを後侮し自責する心が見出されるのである。

 さうした心になつたとき、更に彼の心は一大打擊を受けるに至つた。それは何であるかといふに彼の一子岩松の跛足[やぶちゃん注:「びつこ」。]の原因を知つたことである。卽ち、彼が、福島屋へ押し入つて主人の足を傷けたと同じ時刻に、岩松は偶然に包丁のために負傷したのである。この恐ろしい出來事は、彼の心を根本的に搖り動かし、恐らく神さまが、現にいま、彼の背中につかまつて、「早く改心せよ」と、囁いておられるやうに感じたであらう。遂にその場で、自分の罪狀をすつかり白狀して、まつたくの善人になりかはつたのである。[やぶちゃん注:これは第二幕の非常に重要なシークエンスである。国立国会図書館デジタルコレクションのここである。]

 この超自然的現象は、よほど恐ろしかつたと見え、招魂社前で千太に改心をすすめるところにも、

『親父に己が預けておいた一人の忰が跛になり、生れも付ねえ片輪になつた譯を聞いて驚いたは、出刄包丁を親父が硏ぎ棚へ上げて置いたのを、夜更けて猫が鼠を取るはずみに棚からそれを落し、下に寢て居た忰の足へ當つて深い疵を受け、それから遂に跛となり、步くも自由にならねえ片輪、爰に不思議は疵を受けた其夜は四月二十日の夜で、しかも時刻は十二時前、己が手前と福島屋へ入つた晚も同じ二十日で時刻も同じ十二時前、切つたも同じ左の足、

  〽親の因果が子に報ふと、世の譬にも言ふけれど、斯う覿面に報ふものかと、

 心が附いて見る時は、凡そ盜みをした者は、人間一生五十年の坂を越した者はなく、先づ二十五の曉迄に天の罰を蒙つて、長く生きて居られねえのは、みんな惡事をした報い、こいつあ心を改めにやならねえことゝ氣が付いて、すつぱりと止めてしまひ、云々。』

と言つて居る。

 かくの如く超自然的現象を信ずるところを見ると、あたかも彼が、先天性犯罪者の素質を多少持つて居やしなかつたかと思はれるけれども、先天性犯罪者ならば超自然的現象の存在を信じても、それによつて、改悛することは稀なのである。彼等は神樣を信ずるにしても、神樣は常に彼等の行爲を保護したまふものであると考へるのが常である。尤も『因果應報』はいふまでもなく、佛敎の思想から來た、いはゞ東洋人に特有な信仰であつて、先天性犯罪者でも東洋人ならば、多少はその信仰を持つ筈であるから、强ち否定することは出來ぬかもしれぬが、彼が親父の前で白狀して、その子の岩松から「盜みをやめてくれ」といはれたとき、

『己が育つ時分には、學校などといふものは話しに聞いたこともなく、漁夫の幼兒が手習は無駄なことだといふ中で、親のお蔭で寺屋へ行き、先づ商賣往來迄やつとのことで上げたれど、童子敎さへ習はねば、五常の道を知らねえから、親が勝手で拵えた子だ孝行するにやア及ばねえと、己が勝手に理屈を付け、親を親とも思はずに、實に己は不孝をした。』

 と述懷して居るごとく、やはり不十分な敎育と境遇から生れた犯罪者と見倣さねばならないのである。

 さて、作者默阿彌は千太に對しても、因果應報の恐ろしさを示して居る。卽ち彼の父は過失のために死に母は自殺した。然し、島藏ならば、これによつて或は改悛したかも知れぬが千太は却つて自暴自棄に陷つた。これによつて作者は、同じやうな超自然的の出來事でも、境遇と素質によつて、その働き方の全然ちがふことを暗示して居るといふことが出來る。千太はたとひ島藏と同じ地位に置かれても、恐らく改悛はしなかつたであらう。彼は因果應報などといふことを信じなかつた。父母の變死も、決して因果應報だとは思はなかつた。最後の幕で、島藏が、超自然的な力の恐ろしさを說いたとき、千太は、

『隨分お前も是迄は情をしらねえ人だつたが、何でそんな氣になつたか、凡夫盛んに神祟りなしと、惡事をなした其報いで、お前にそれだけ罰が當りやあ、己にも當らにやあならねえ譯だ、誰にも報いがあることなら、金を取られた福島屋も商賣柄にいかものでも、拵へて賣つた報いだらう、内が潰れて裏店で貧乏ぐらしをして居るも、其身を懲らす天の罰、其所へ盜んだ金を返すはこんな馬鹿げたことはねえ、先づあの時から半年餘り、斯うして樂に暮して居るは、天が罰を當てる程の體に罪がねえからだ」

 と答へて居る。人間の犯した罪に對して天罰があるといふことは知つて居ても、千太はそれを信じていないのである。

 かういふ心であつたがために、千太はだんだん深みへはいつて行き、望月輝をゆすつて、あべこベに恥かしめられたので、遂に彼を殺さうと計畫するに至つたのであるけれども、彼は周圍の狀況のために、やむを得ず、そこまで引つ張られて行つただけであつて、先天性犯罪者のごとく、盜むために盜み、殺すために人を殺すといふやうな心は少しも持つて居ないのである。だから、島藏に比して改心の時期が遲れたのである。

 一旦改心した千太は、更に進んで、その改心のしるしに自殺をしやうとさへして居る。これも始めに述べたごとく感傷性の犯罪者には、決して、珍らしくない現象である。

 

        

 かくの如く、默阿彌はこの脚本に於て、環境によつて生じた二人の感傷性犯罪者を描いたのであつて、一般に默阿彌の描いた惡人の多くが、所謂惡人らしくないのは感傷性犯罪者というが如き、極めて狹い範圍の惡人を取り扱つたからである。さうして、彼の理想である惡人の美化又は善化を行ふためには、恐らくこの種の犯罪者を取り扱ふより外に道がなかつたであらうと思はれる。

 なほこの脚本に於ては、境遇の犯罪者に及ぼす影響が巧みに描かれ、かつて共犯者であつたものが、全くちがつた境遇に置かれたときに陷るべき運命が巧みに描かれて居るが、それ等のことは、脚本を讀んで下さればわかることであるから、ここには省略する。

 要するに、默阿彌の脚本には、犯罪者の心理的推移の恐ろしさは描かれなくて、犯罪者を支配する運命と境遇との恐ろしさが描かれてあるといひ得るであらう。『島鵆月白浪』に於ても、島藏が刑罰を恐れる心など、かなりに深刻に描かれて居るが、シエクスピアの戯曲に見るやうに、犯罪性の性格から事件が生れるのでなくて、環境とか運命といふが如き外的條件が主になつて事件が生れて行くやうである。だから、默阿彌の作には「偶然」がかなりに多く取入れられて居るやうに思はれる。

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(靑火がもえる……)

 

 

 

生命には靑火がもえる

あらゆるものゝ生命の上に私はもえるところの靑火を見る、

識のワシがその羽はゞきするをするまヘにしばしば觀念はその不動のの小鳥は凍死する、何故ならば意識 は氷山 頂に巢を食ふところの翼は氷より

この凍死せる固形質を蓄へるとこにより

は私の共の辨當冷藏庫は光つてくる、

我々

靑火もまた觀念の一種である □□に 故に凝結する、

みよ、「時」の長い喪寂しげな晚歌くる、黑い憎主の群と合唄する、晚歌のもの哀しいメロデイ「觀念」「意識」の亡者がつき鳴らす鐘の響と

いんいんたる行列の音なきあゆみは「終」に丘の上の「詩」の寺をさしてすゝんで行く

「時」の長い喪列は「凍死せる觀念」の屍體をはこぶものである、

そうしてこの光榮ある屍體は私共□人に私共一同の手によつて葬られ、

そして永生に於て復活される、

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。編者注があり、『ノートより』とする。削除部を除去して示す。

   *

 

 

 

靑火がもえる

あらゆるものゝ生命の上にもえるところの靑火を見る、

意識のワシがその羽はゞきをするまヘにしばしば觀念の小鳥は凍死する、[やぶちゃん注:校訂本文は「意識のワシがその羽はゞきをするまヘに」を『意識の鷲がその羽ばたきをするまヘに』と消毒する。]

この凍死せる固形質を蓄へるとこにより[やぶちゃん注:校訂本文は「とこ」を『こと』とする。]

私共の冷藏庫は光つてくる、

みよ、「時」の長い喪列がくる、黑い憎主の群と合唄する、晚歌のもの哀しいメロデイと「意識」の亡者がつき鳴らす鐘の響と[やぶちゃん注:校訂本文は、「喪列」を「葬列」に、「合唄」を「合唱」、「晚歌」を「挽歌」とする。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 偉大なる懷疑

 

 偉大なる懷疑

      ――淨罪詩扁、奧付――

 

主よ

あきらかに犯せるつみおば

あきらかに犯せるつみと知らしめ給ヘ

なんぞ

われは われの かの 尊き 聖なる異敎の偶像に禮拜供養せるつみ ことことばあかしせん[やぶちゃん注:底本編者は末尾「ことばあかしせん」を『ことをばあかしせん』と補正している。]

みちならぬ姦淫のつみをばあかしせん

しかはあれども

我は主を信ず

我は主を信ず

まことに□□□我主ひとりを信ず

かゝる日の懺悔をさヘ

れが疾患より出づる詩扁をものとしあらば

すべて主のみ前にこゝろにまかせ給ひてよ

しかはあれども

われは主を信ず

主よ

あきらかに犯せるつみをば

あきらかに犯せるつみと知らしめたまヘ

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記は総てママである。編者注があり、『ノートより』とする。削除部を除去して示す。

   *

 

 偉大なる懷疑

      ――淨罪詩扁、奧付――

 

主よ

あきらかに犯せるつみおば

あきらかに犯せるつみと知らしめ給ヘ

聖なる異敎の偶像に供養せることばあかしせん

みちならぬ姦淫のつみをばあかしせん

しかはあれども

我は主を信ず

我は主を信ず

まことに主ひとりを信ず

かゝる日の懺悔をさヘ

れが疾患より出づるものとしあらば

すべて主のみこゝろにまかせ給ひてよ

しかはあれども

われは主を信ず

主よ

あきらかに犯せるつみをば

あきらかに犯せるつみと知らしめたまヘ

 

   *

この添え辞は甚だ気になる。萩原朔太郎は「淨罪詩」「篇」と名づけた詩群を多くものしているが、これは、謂わば、それらの究極の「奧付」としての最終詩篇であることを示すものだからである。単純に私のブログで萩原朔太郎の「淨罪詩」の文字列で検索すると、二十七件余りの電子化記事が掛かってくる(但し、これはその文字列を私が注で使用したものも含まれる)。これらの詩篇を検証された田村圭司氏の論文「萩原朔太郎の詩的達成――浄罪詩篇を軸にして――」(『帯広大谷短期大学紀要』第十七巻(一九八〇年刊)・「J-STAGE」のこちらからPDFでダウン・ロード可能)があるので参照されたい。]

狗張子惣目錄 / 「狗張子」全電子化注~完遂

 

[やぶちゃん注:底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編になる同全集の第一期の「江戶文藝之部」の第十巻である「怪談名作集」の「惣目錄」の原本画像を視認した。内篇本文の標題とは大きく異なるものが有意にある。読みは特異なものと、振れると判断したもののみに限った。歴史的仮名遣の誤りはママである。一部で濁点がない平仮名ルビは好意的にとり、濁点を附したり、特に示さなかった読みもある。「付」は「つけたり」と読む。]

 

狗張子惣目錄

 㐧一

  序

  三保の仙境

  由井源藏、足柄山に入る事

  鳥𦊆(とりをか)彌二郞冨士垢離常陸坊海尊(ひたちばうかいぞん)が事

  守江の海中の亡魂

  島村蟹の事

  北條甚五郞出家冥途物語の事

㐧二

  交野(かたの)忠次郞、妻を疎(うとみ)て發心する事

  死して二人となる事

  武庫山(むこやま)の女仙(によせん)浦嶋が箱の事

  原隼人佐(はやとのすけ)謫仙の事

  形見の山吹

 㐧三

  伊原新三郞蛇酒を飮む事

  猪熊神子(いのくまのみこ)罪業を恐るゝ事朝日寺(あさひてら)觀音の奇瑞

  諸國修行の僧甲府の妖物(ばけもの)を薙倒(なぎたを)す事

  隅田宮内鄕(すだくないきやう)の家(いゑ)怪異(けい)の事

  大内義隆の歌(うた)人違(ひとたがい)の事

  深川左近が亡㚑(ばうれい)來世(らいせ)物語の事

  蜷川親當(にながはちかまさ)鳥部野妖物(ばけもの)に逢(あふ)事

 㐧四

  味方原軍(みたかがはらいくさ)犀(さい)ががけ幽㚑の事

  田上(たかみ)の雪地藏明阿僧都冥途に趣(おもむ)く事

  柿崎和泉守名馬を賣る事

  死骸(しかばね)音樂を聞(きひ)て舞躍(まいおどる)事

  関久兵衞非道に人を殺し家門滅却の事

  筒𦊆(つゝをか)權七塚中(ちよちう)の契りの事

  霞谷(かすみだに)妖物(ばけもの)の事

  小嶋加伯(こじまかはく)慳貪(けんどん)の報(むくひ)安養寺地獄(じごくの)變相の事

  不孝の子(こ)狗(いぬ)となる事

  雷公(かみなり)惡人を擊(うつ)事

 㐧五

  今川氏眞(いまかはうぢさね)沒落三浦右衞門最後の事

  常田合戰(ときだかつせん)甲州軍兵(ぐんびやう)幽靈の事

  男郞花(なんらうくわ)

  掃部(はつとり)新五郞遁世捨身(しやしん)の事

  宥快法師(ゆうかいほつし)柳𦊆(やなぎをか)孫四郞に愛着(あいぢやく)し蝟(けむし)となる事

  杉谷(すぎや)源次男色の辨

 㐧六

  塩田(しほた)平九郞怪異を見る事

  藤の杜彥八が子天狗道物語の事

  板垣信形(いたがきのぶかた)討死天狗奇特を現(あらは)す事

  松𦊆(まつをか)四郞左衞門が亡魂八幡に鎭祭(しづめまつ)る事

  杉田彥左衞門天狗に殺さるゝ事

 㐧七

  今川(いまかは)駿河守が細工人(さいくにん)、新(あらた)に唐船を造る事

  蜘蛛塚(くもづか)の事

  飯盛兵助(いゐもりひやうすけ)陰德の報土井が妻邪見の事

  五條の天神入江壽玄齋疫病を癒す事

  鼠の妖怪物その天を畏るゝ事

  死後の貞烈

 

 

狗張子惣目錄終

 

狗張子卷之七 死後の烈女 /狗張子(本文)~了

 

[やぶちゃん注:挿絵は、今回は所持する一九八〇年現代思潮社刊の「古典文庫」の「狗張子」(神郡周校注)を使用し、トリミング補正し、適切な位置に配しておく。]

 

   ○死後の烈女

 

 福島角左衞門は、生國(しやうこく)播州姬路の者なり。

 久しく、みやづかへもせずして居(ゐ)たりしが、其の比(ころ)、太閤秀吉の内(うち)、福島左衞門の大夫とは、すこし舊好あるゆゑに、

「これをたのみ、しかるべきとりたてにも、あひ、奉公せばや。」

と、おもひ、故鄕(ふるさと)を出でて、都におもむく。

 明石、兵庫の浦えを過《すぎ》て、尼ヶ崎に出でて、やうやう、津の國高槻(たかつき)のほとりに至りぬれば、しきりに、のんど、かはきぬ。

 

Retujyo1

 

 路のかたはらをみるに、ちいさき人家あり。

 その家、たゞ、女房あり。

 そのかほかたちのうつくしさ、また、かゝる邊鄙(へんひ)には、おるべきとも、おもはれず。

 窓のあかりに向ふて、襪(たび)を縫ふ。

 角左衞門、立ちよりて、湯水を、こふ。

 女房、

「やすきほどの事なり。」

と、隣りの家にはしり行きて、茶をもらふて、あたへぬ。

 角左衞門、しばし、立ちやすらひ、その家の中(うち)を見めぐらすに、厨(くりや)やかまどの類ひも、なし。

 角左衞門、あやしみて、

「いかに、火を燒(た)く事は、したまはずや。」

と問ふ。

 女房、

「家、まづしく、身、をとろへて、飯(いひ)を炊(かし)きて、みづから養ふ事、かなはず。あたり近き人家に、やとはれて、その日を送る。まことに、かなしき世わたりにて侍る。」

と語るうちにも、襪(たび)を縫ふ、そのけしき、はなはだ忙(いそがは)しく、いとまなき體(てい)と見ゆ。

 角左衞門、其の貧困辛苦の體をみて、かぎりなくあはれにおぼえ、また、そのかほかたちの、優(ゆう)にやさしきに、みとれて、やゝ傍(そば)により、手をとりて、

「かゝる艶(えん)なる身をもちて、この邊鄙(へんひ)に、まづしく送り給ふこそ遺恨なれ。我にしたがひて、都にのぼり給へかし。よきにはからひたてまつらん。」

と、すこし、その心を挑(いど)みける。

 女房、けしからず、ふりはなちて、いらへも、せず。

 やゝありて、

「われには、さだまれる夫、侍り。名を藤内(とうない)とて、布(ぬの)をあきなふ人なり。交易のために他國へいづ。わが身は、ここにとゞまりて、家をまもり、つゝしんで舅(しうと)・姑(しうとめ)に孝行をつくし、みづから、女の職事(しわざ)をつとめて、まづしき中(うち)にも、いかにもして、朝暮(てうぼ)の養(やしなひ)をいたし、飢寒(きか)におよばざらん事を謀る。今、已に十年に及べり。さいはひ、明日(あす)、わが夫、かへり來る。はや、とく立さり給へ。」

と、いへば、角左衞門、大きに、その貞烈を感じ、悔媿(くいはぢ)て、僕(ぼく)に持らせたる破籠(わりご)やうの物をひらき、餠(もちひ)・果(くだ)もの、取り出だし、女房にあたへ、去りぬ。

 その夜は、山崎(やまざき)に宿(しゆく)しけるが、あくる朝(あさ)、かの女房の所に、所要の事、かきたる文(ふみ)、とりおとしけるゆゑ、跡へもどりける所に、道にて、葬禮にあへり。

「いかがなる人にや。」

と、たづぬれば、

「布商人(ぬのあきひと)藤内を送る。」

といふ。

 

Retujyo2

 

 角左衞門、大いにおどろき、あやしみて、その葬禮にしたがひて、墓所(はかしよ)にいたれば、すなはち、昨日(きのふ)、女房にあひし所、なり。

 今、みれば、家もなく、跡もうせて、たゞ、草(くさ)蕭々(せうせう)たる野原なり。

 その地を、ほり葬る所をみれば、藤内が女房の棺(くわん)あり。

 棺のうちに、あたらしき襪(たび)一雙(《いつ》さう)、餠(もちひ)・果(くだ)もの、ありのまゝ、見ゆ。

 又、そのかたはらに、古き塚、二つあり。

 これを問へば、すなはち、

「その舅(しうと)・姑(しうとめ)の塚なり。」

と。

 その年數を問へば、

「十年に及ぶ。」

といふ。

 角左衞門、感激にたへず、送りし者に、右のあらましを語り、鳥目(てうもく)など、くばりあたへて、ともに送葬の儀式を資(たす)け、かつ、跡のとぶらひの事まで、念比(ねんごろ)にはからひて、その後(のち)、都へのぼりける。

 あゝ、この女房、死すといへども、婦道(ふだう)をわすれず、舅姑(きうこ)に孝行をつくして、夫を、まつ。いはんや、その生(い)ける時は、知りぬべし。

 かの世の寡婦・室女(しつ《ぢよ》)、いやしくも、その夫をわすれて、再び、嫁し、或《あるい》は邪僻婬亂(じやへきいんらん)にして、終《つひ》にる媿(はづ)る心なきもの、多し。

 この女房の風儀をきかば、すこしく戒(いましむ)る所あらんか。

 

狗波利子卷之七終

 

[やぶちゃん注:以上を以って、浅井了意は「狗張子」を完結させることなく、白玉楼中の人となった。最後であるので、盛んに参照にさせて戴いた江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(五)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)の注に拠って、注を附す。同注釈は詳細を極め、私が「伽婢子」以来のコンセプトとして、触れなかった典拠とした作品との考証も詳しい。是非、全篇をダウン・ロードして本作の優れた解説書として座右に置かれんことを強くお薦めする。

「福島角左衞門」不詳。江本氏も『不明』とされる。

「福島左衞門の大夫」織豊時代から江戸前期の大名福島正則(永禄四(一五六一)年~寛永元(一六二四)年)。通称は左衛門大夫。豊臣秀吉に仕え、「賤ケ岳の戦い」の七本槍の一人として勇猛を馳せ、「小牧・長久手の戦い」や朝鮮出兵などで活躍した。文禄四(一五九五)年、尾張清洲城主。「関ケ原の戦い」では、徳川方につき、それによって安芸広島藩主となり、四十九万八千石を得たが、広島城の無断修築を咎められ、領地没収となり、元和五年、信濃川中島四万五千石に移封され、高井野に蟄居し、享年六十四歳(講談社「日本人名大辞典」に拠った)。語りの内容からは、話柄内時制は「文禄の役」(天正二十・文禄元(一五九二)年よりも有意に以前の設定であろう。

「津の國高槻(たかつき)」現在の大阪府高槻市。江本氏の注に、『高山右近転封後、当市域の大部分は一時秀吉の直轄領となり、富田宿を含めて羽柴小吉秀勝が支配したと思われる(『大阪府の地名』日本歴史地名大系28)。』とある。

「山崎(やまざき)」江本氏の注に、『桂川・宇治川・木津川が合流して淀川となり、川は天王山と男山の陰路部を通って山城盆地から大阪平野に出るが、その北側、天王山とその北・東・南山麓に位置する。古代以来、交通の要地(『京都府の地名』日本歴史地名大系26)。』とある。この中央附近(グーグル・マップ・データ)。

「室女(しつ《ぢよ》)」通常は未婚の女性を指す。ここは婚姻を約したものの、相手の男性が不幸にして亡くなったか、行方知らずになったケースを指すか。

「邪僻婬亂(じやへきいんらん)」江本氏の注に、『「邪僻」は根性のひねくれ曲がっていること。「婬乱」は色事に荒ぶ。』とある。

 以下に底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編になる同全集の第一期の「江戶文藝之部」の第十巻である「怪談名作集」の原本奥書画像を添えておく。

   *

 最後に。

 本篇を公開した今日は

ALSで召された母聖子テレジアの十一周忌

である。母は確かに

――優れた名にし負う――「聖」なる烈女――

であった。   ルカ直史記す

   *]

 

Inuharikookugaki

母十一年忌

ALSで召された聖子テレジア十一周忌――

 

 

Image0032

狗張子卷之七 鼠の妖怪

 

[やぶちゃん注:挿絵は、今回は所持する一九八〇年現代思潮社刊の「古典文庫」の「狗張子」(神郡周校注)を使用し、トリミング補正し、適切な位置に配しておく。]

 

   ○鼠の妖怪

 應仁年中、京師(みやこ)四條の邊(ほとり)に、德田の某(なにがし)とて、巨きなる商人(あきびと)あり。

[やぶちゃん注:「應仁」一四六七年から一四六九年まで。所謂、「応仁の乱」は応仁元年に始まり、文明九(一四七七)年まで続いた。

「德田の某」不詳。]

 家、富(とみ)榮えて、家財、倉庫に盈(みて)り。

 其比、世、大に亂れ、戰爭、やむ時なく、ことに山名・細川兩家、權をあらそひ、野心を起こし、度々、戰ひに及びしかば、洛中、これがために噪動(さうどう)し、人みな、おそれ、まどひ、たゞ薄氷(はくひやう)を踏んで、深淵にのぞむおもひをなす。

 德田某も、これによりて、都の住居(すまゐ)、物うくおもひ、北山・上賀茂のわたりに、親屬のありければ、ひそかに賴みつかはし、すなはち、賀茂の在所の傍(かたはら)に、常盤(ときは)の古(ふる)御所のありけるを、買《かひ》もとめ、山莊となして、

しばらく、此所に隱遁せんとす。

 しかれども、久しく人も住まぬ古屋敷なれば、いたく荒れはて、軒、かたぶき、牆(かき)、くづれて、凡そ、幾年(いくとし)經(へ)たる屋敷とも、しれず。

 德田、まづ、あらましに、掃除打ちして、徒移(わたまし)しぬ。

 京にある親屬、つたへ聞(きゝ)て、みな、來りて、賀儀(かぎ)を、のぶ。

 主人、よろこびて、賓客(ひんかく)を堂上(だうしやう)に請じて、饗應し、終日(ひねもす)、酒宴を催し、歌舞沈醉して、あそび、夜《よ》に入《いり》ければ、賓・主、共に、大《おほき》に醉《ゑひ》出(いで)て、前後もしらず、打ち臥しぬ。

 その夜(よ)、夜半(やはん)ばかりに、外(ほか)より、大勢、人の來(きた)る音して、急に、表の門を、たゝく。

 

Nezuminoyoukai1

 

 主人、あやしみ、門をひらきみれば、衣冠正しく、髭、うるわしき人、先立(さきだつ)て入りて、いふやう、

「是は、此屋敷の舊(もと)の主(ぬし)也。我、一人の子あり。こよひ、はじめて、新婦を迎へ侍(はんべ)り。その婚禮の儀式を執り行なはんとするに、わが、今、住所(すむところ)は、せばく、きたなし。たゞ今夜(こよひ)ばかり、此屋敷を、かし給へ。夜、あけなば、早々(さうさう)、立ち去りなん。」

と、いまだ、いひもはてぬに、はや、大勢、入りこみて、

「輿(こし)よ。」

「馬(むま)よ。」

と、ひしめき、挑燈(てうちん)、大小、百あまり、二行(ぎやう)につらね、まづ、さきへ飾り立たる輿、打ち續《つづい》て、乘物、かずかず、かき入る。

 その跡よりは、供の女房、いくら共なく、笑ひのゝしりて、來《きた》る。

 又、年のほど、六十有餘の老人、大小の刀を帶(おび)て、馬(むま)にのり、步行(かち)の侍、六、七十人、引き連れて、前後をかたく守護すと、見ゆ。

 その間《あひだ》に、結構に塗りみがきたる長持(ながもち)・挾箱(はさみばこ)・屛風・衣桁(いかう)・貝桶《かひをけ》のたぐひ、かずかぎりなく持(もち)つれ、貴賤男女(なんによ)、凡そ、二、三百人、堂上・堂下(だうか)に並み居(ゐ)て大《おほき》に酒宴を催し、珍膳奇羞(ちんぜんきしう)、山海のある所を盡し、かつ、まひ、かつ、うたふて、興に入るまゝに、主人(しゆじん)や賓客(ひんかく)を招き出だし、

「かゝる目出度(めでたき)折から、何か、くるしかるべき。ここへ、出《いで》て、あそび給へ。」

と、いへば、主人も賓客も、醉に和し、興に乘じ、座敷にいづ。

[やぶちゃん注:「珍膳奇羞」珍しくて美味い御馳走や、珍しい料理を指して、「珍羞」(ちんしゅう)と言う。この場合の「羞」は「御馳走」の意。]

 まづ、その新婦(よめ)とおぼしきを見るに、年、まだ、十四、五ばかりと、みゆ。

 すこし、ほそらかに、色しろく、また、たぐひなき美人なり。

 次第に、並み居(ゐ)る女房たち、いづれも艶(えん)なるかほかたち、花のごとくに出で立ちて、みな、一同に、立《たち》さわぎ、新婦(よめ)の手をとり、たわぶれて、

「こよひは、いかで、强(しひ)ざらん。」

と、大きなる盃(さかづき)をすゝむれば、新婦(よめ)、いとたへがたきけしきにて、あなたこなたに、にげかくるゝを、

「おひ、とらへん。」

と、さわぐまに、風、はげしく、ふきおちて、燈(ともしび)、のこらず、ふきけしぬ。

 主人・賓客

「はつ。」

と、おどろき、しばしして、又、火をとぼしみるに、人、一人(いちにん)も、なし。

 やうやう、夜もあけて、よくよく見れば、宵に、ことごと敷(しく)持ちはこびたる道具とおもひしは、一つも、なく、却つて、主人の、日比(ひごろ)、祕藏しける茶の湯の道具より、碗・家具・雜器にいたるまで、みな、ことごとく引きちらし、くひさき、かみちらし、そこなひ、やぶらざるもの、なし。

 そのうち、床にかけおきたるふるきかけ物、牡丹花下(ぼたんくわか)に、猫のねぶれる所、かきたる繪、あり。名、きえ、印(いん)、かすみて、誰人(たれびと)の筆ともしらず、これ、一幅斗(ばかり)ぞ、露ばかりも損ぜず、ありける。

 みな人、

「よからぬ怪異(けい)なり。」

とて、眉を、ひそむ。

 こゝに、村井澄玄(むらゐてうげん)とて、博學洽聞(かうぶん)の老儒あり。

[やぶちゃん注:「村井澄玄」不詳。]

 

Nezuminoyoukai2

 

 主人に向かひ、いふやう、

「これ、ふかくおそるゝに足らず。老鼠(らうそ)のいたす、妖怪なり。それ、猫は、鼠のおそるゝ所なり。かるがゆに、その繪といへども、あへて、近づかざる事、かくのごとし。かゝる例、傅記に載(のす)るところ、すくなからず。是れ、其の氣(き)、自然(しぜん)と相《あひ》いれずして、畏服(いふく)す。所謂、『物(もの)、其の天(てん)を畏(おそ)る』といふものなり。その類(たぐひ)、一、二を擧(あげ)て、これを、しめさん。われ、かつて、或る古記(こき)をみるに、むかし、或里の中(うち)、一つの村に、童子(わらんべ)、大きなる蛙(かへる)、數十(す《じふ》)、汚池叢棘(おちさいきよく)[やぶちゃん注:「汚池」は澱んだ水溜まり。]の下(もと)にあつまるを見る。進んで、是を捕へんとす。熟(つらつら)、視(み)れば、一つの巨蛇(おほへび)、棘(いばら)の下(もと)に蟠(わだかま)りて、恣(ほしいまゝ)に群蛙(ぐんあ)を啖(くら)ふ。群(むらが)る蛙、凝りかたまりて、啖(くら)はるゝを待ちて、あへて、動かず。又、或村の叟(おきな)、蜈虹(ごかう/むかで[やぶちゃん注:原本の右左のルビ。])、一つの蛇を逐(お)ふを、みる。行く事、はなはだ、急(すみや)かなり。蜈虹、漸(やうや)く近けば、蛇、また、動かず。口を張りて、待つ。蜈虹、竟(つひ)に、その腹に入り、時を逾(こ)えて、出づ。蛇、既に、斃(たふ)れぬ。村の叟、其蛇を、深山の中に、棄(す)つ。十日あまり過ぎて、徃(ゆ)きて、これを、みれば、小き蜈虹、數知(かずし)らず、その腐(くち)たる肉(しゝむら)を食(くら)ふ。これ、蜈虹、卵を、蛇の腹(はら)の中(うち)に產みけるなり。又、むかし、一つの蜘蛛(くも)、蜈虹を逐ふ事、甚だ、急(すみやか)なるを見る。蜈虹、逃れて、籬槍竹(りさうちく)[やぶちゃん注:不詳。籬に使う尖った竹叢(たけむら)の意か。]の中(うち)に入(い)る。蜘蛛、復た、入(い)らず。但(たゞ)、足をもつて、竹の上に跨(またが)り、腹を搖(うご)かす事、あまた度(たび)して、去る。蜈虹を伺ふに、久しく、出ず。竹を剖(さい)てみれば、蜈虹、巳に、節々、爛斷(たゞれたつ)て、黨醤(たうしやう/かにひしを[やぶちゃん注:同前。左の意訓は「蟹」をそのまま搗き砕いた「塩辛」のことか?])のごとし。これ、蜘蛛、腹を動かす時、溺(いばり)[やぶちゃん注:小便。]を灑(そゝぎ)て、是を殺せるならん。物の、其天を畏るゝ事、かくのごとし。今、鼠の、猫の繪をおそるゝや、また、同じ。豈(あに)久しくその妖怪を恣(ほしいまゝ)にする事を得んや。」

と。

 かさねて、主人に敎へて、

「其の鼠の穴を、狩らしむ。屋敷より、一町[やぶちゃん注:百九メートル。]ばかり東の方(かた)に、石のおほくかさなりて、小高き所あり。その下に、大きなる穴あり。その中(うち)に、年經(としへ)たる鼠、かぎりなく、むらがれり。みな、捕へ、殺して、すぐに埋(うづみ)ぬ。

 其の後(のち)は、何の事も、なかりけるとぞ。

[やぶちゃん注:「村井澄玄」の語る「物、其の天を畏る」というのは、彼の動物の具体例から見て、儒教に於ける天道思想であろう。所謂、この世界の生成消滅・断罪処分を支配するところの「天道」を、如何なる生物や物質も、本質的には敬い畏れ、決定的場面に於いては、それを忌避しようとしたりするが、その下された事態結果からは、究極に於いて、決して逃れることは出来ないということであろう。ある時は、それは一見、人知を超えた理解不能な論理的不条理にも見えるのである。さればこそ、司馬遷に、列伝第一の「伯夷列伝」で、有名な「天道、是か非か。」を言わしめたのである。]

2022/03/18

狗張子卷之七 五條の天神

 

[やぶちゃん注:挿絵は今回は底本(昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編「同全集第一期「江戶文藝之部」第十巻の「怪談名作集」)をトリミング補正して、適切と思われる位置に配した。]

 

   ○五條の天神

 京都(みやこ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]五條西洞院(にしのとうゐん)の西に、「五條の天神」、ましませり。

[やぶちゃん注:「五條西洞院」「五條の天神」は現在の「五条西洞院」交差点の北位置となるが、現在の五條天神宮てんしんぐう)であろう(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。因みに、現在の京都府京都市下京区西洞院町(ちょう)は、この交差点を挟んだ真南の対位置にある。同神宮は当該ウィキによれば、『当初は「天使の宮」「天使社」と称し、後鳥羽上皇時代に「五條天神宮」へ改称された』。『社号の五條は、当社北側にある松原通がかつて五条通と呼ばれていたことに由来する』。『なお、社号の天神(テンシン)は天つ神(あまつかみ)を意味し、菅原道真を祀る天神(テンジン)とは直接の関連はないが、境内社として筑紫天満宮があり、道真が祀られ、撫で牛も設置されている』とある。現在の主祭神は少彦名命(すくなびこなのみこと)で、他に大己貴命(おおなむぢのみこと)と天照皇大神を配祀する。江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(五)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)の注に拠れば、『疫神と考えられたのは、東隣にあった五条道祖神との混同によるものか。』とある。現在のそれは、位置が少しずれて、五条天神宮の東に松原道祖神社として現存する。なお、原本本文を見ても、「天神」には一貫して、読みが振られていない。しかし、「目錄」を見ると、「五條天神(ごでうのてんじん)付」(つけたり)「入江壽玄斎(いりえじゆげんさい)疫病(やくぎやう)を癒(いや)す事」と読みが振られてあり、挿絵のそれも、これ、いかにも菅原道真めいた御姿なればこそ、以下を敢えて、「てんしん」と読む必要はないと私は思う。

 これ、「大己貴(おほあなむち)の命(みこと)」を、まつれるなり。

 むかし、命、少彥名命(すくなひこなのみこと)と天下(てんか)の政務を謀り給ひ、かつ、人民、疫病・疾苦のために、その療養の方(ほう)を、さだむ。

 その天下、後世(こうせい)に仁惠(じんけい)ある事、神農・黃帝の下(しも)にあらずとかや。

 故に、代々の執權・奉行職の人、殊に尊信し給ふ、といふ。

 應永年中、此《この》わたりに、壽玄齋(じゆげんさい)とて、醫師(くすし)ありけり。

[やぶちゃん注:「應永年中」一三九四年から一四二八年までの、起点切り上げ終点切り下げで三十五年間に当たる。この間の室町幕府将軍は足利義満・足利義持・足利義量。日本の元号の中では、昭和と明治に次いで三番目の長さであり、「一世一元の制」が導入以前では最長の年号である。また、前中期の応永十年から二十二年までの約十年間は戦乱などが治まり、「応永の平和」と呼ばれる。

「壽玄齋」不詳。]

 わかきより、學窓に眼(まなこ)をさらし、黃帝・岐伯(きはく)の玄旨(げんし)を探り、秦越人(しんえつじん)[やぶちゃん注:周の名医として知られる扁鵲(へんじゃく)の異称。]の深意(じんい)をたづぬといへども、いまだ、その堂奧(だうおく)に達つせず、かつ、身(み)の不遇なる事を歎げきぬ。

[やぶちゃん注:「岐伯」伝説上、黄帝に仕えた薬師(くすし)とされる人物の名。

「玄旨」物事の深遠なる道理。]

 すなはち、この天神にいのりて、信仰(しんがう)のこゝろ、おこたらず、歲時(さいじ)には、かならず、祭りて、敬(うやま)ふ事、年《とし》すでに久しくなりぬ。

 

Gojiyounotensin

 

 ある夜(よ)夢見(ゆめみ)らく、朝(あさ)、とく、宿(やど)を出(いで)て、天神の社(やしろ)にまうで、恭敬の頭(かうべ)をかたぶくる所に、辱(かたじけな)く、天神、社壇の戶びらを、おしひらき、まのあたり、壽玄齋に告げて、のたまはく、

「なんぢ、われをいのり、其の誠(まこと)をつくす。何んぞ感應なからんや。なんぢ、今、身(み)の不遇にして、困窮をなげく。しかれども、これ、すなはち、却つて、なんぢを福(さひはひ)する所なり。それ、日本(につほん)は神國也。天子は、すなはち、天照太神(てんせうだいじん)の繼體(けいたい)にして、その統道(とうだう)を、あらためず。かるがゆゑに、神道を尊崇し、王法《(わうば)ふ》を興隆し、仁政(じんせい)を施し、朝憲(てうけん)を正(ただし)うすべし。疇昔(むかし)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]、王法《(わうば)ふ》、神道に合(がつ)する世には、世、すなほに、民(たみ)、淳(あつ)ふして、國家、安寧なり。風雨(ふうう)、時にしたがひて、飢饉・餓死の愁へ、なし。况や、謀反弑逆(むほんしいぎやく)のわざはひ、をや。後世(こうせい)にいたりて、元曆(げんりやく)に安德天皇、承久に後鳥羽院、元弘に後醍醐天皇、これ、みな、君德、あきらかならず。叡慮、はなはだ、短(みじか)ふして、天下を、戎敵(じうてき)のために奪はれ、宸襟(しんきん)[やぶちゃん注:天皇の御心。]、つひに、安(やす)からず、或《あるい》は、變衰(へんすい)の花(はな)、空しく壇浦(だんほ)の風にまよひ、悲泣(ひきう)の月、いたづらに台嶺(たいれい)[やぶちゃん注:比叡山の異名。]の雲に隱る。いかんぞ、王威十善の德をもつて此極(きよく)に至るや。これ、神道の本(もと)をわすれて、政道人望(せいだじんばう)にそむけば也(なり)。こゝにおいて、王法《わうぼふ》、はじめて衰へて、神道も亦、廢(はい)しぬ。又、かなしからずや。しかつしより、このかた、今の世にいたりて、人道、ますます、みだれ、子(こ)として父を弑(しい)し、臣として君(きみ)をうかゞふ。上(かみ)、道(みち)のはかるなく、下(しも)、忠義のこゝろを、うしなふ。人君・國守としては、仁義に暗く、慈悲の心なく、賦斂(ふれん)、重く、課役(くわやく)、しげうして、國民を貪(むさぼ)りとり、家人(けにん)を剝ぎ盡くして、畢竟(ひつきやう)、我が身の樂しみとす。收斂無道(しうれんぶだう)の富(とみ)に誇り、亂諧不次(らんかいふし)[やぶちゃん注:本来の位階の規定順序が乱され、破格な叙任が行われること。]の賞(しやう)を、たのむ。能(のう)もなく、智略もあさく、行跡(かうせき)、非禮不義にして、善惡邪正(じやしやう)をえらばず、阿(おもね)り諂(へつら)ふ者を賞翫(しやうぐわん)し、忠孝なる者(もの)を、かへつて、罪科(ざいくわ)に行なふ。たまたま、武藝・學問に志し有る人も、利祿(りろく)・名聞(みやうもん)のためにして、忠良のこゝろざし、露(つゆ)ばかりも、なし。凡そ、武藝・學問は、みな、聖經賢傳(せいけいけんでん)の旨(むね)をあきらめて、我が忠功を達する、のみ。何(なん)ぞ名利(みやうり)を事(こと)とせんや。あまつさへ、切磋琢磨の功ををへずして、新法小利(しんはうせうり)に、はしり、先賢の古術(こじゆつ)をすてて、もつぱら、奇兵(きへい)詭譎(きけつ)[やぶちゃん注:ここは「珍しくて怪しげなこと」の意。]を先(さき)とし、また、正兵(せいへい)の極致ある事を、しらず。又、終日(ひねもす)、聖賢の書をよむといへども、行跡(ぎやうせき)、かへつて、直(すなほ)ならず。仁義のこゝろ、なく、學問(がくもん)をもつて、利慾にかへ、君(きみ)に諂(へつら)ひ、友を妬(ねた)み、素(もと)より誠(まこと)なければ、利を見て、義を忘れ、大慾無道(《たい》よくむだう)にして、一生、遊興に長じ、富貴榮花をうらやみ、衣類、美麗を好む。かくのごとく、君(きみ)、下(しも)を貪りとりて、その身の榮耀《えいやう》をきはめ、臣、又、上(かみ)に佞媚(ねいび)して、一家の奢侈(しやし)を、つくす。凡その費(ついゆ)る所(ところ)の財寶・資用(しよう)、天よりも降(ふ)らず、地よりも、いでず。これ、みな、人民の膏澤(こうたく)をしぼりとり、收斂したる所なれば、ゆくゆく、天下、ふたゝび、みだれて、人民、益(ますます)、窮し、四夷八蠻(しいはちばん)、たがひに、國を、あらそひ、大(おほき)なるは、小を幷吞(へいどん)し、强きは弱きを、しのぎ、盜竊爭鬪(とうせつさうた)、區(まちまち)にして、又、そのあひだに、飢饉疫病、流行(はやり)て、天下、手足(しゆそく)を措(お)くに、處(ところ)なからんとす。なんぢ、今、かゝる時節に、生まれたり。なんぢ、しひて[やぶちゃん注:ママ。]身の不遇を歎きて、一旦の利祿を僥倖(げうがう)すといふとも、久しく保つ事、あたはずして、却つて、災(わざはひ)あらんとす。しかし、貧(ひん)に安(やすん)じ跡を藏(かく)さんには、かつ、なんぢに、一つの靈方(れいはう)を敎へん。水上(すいじやう)の浮萍(うきくさ)、よく疫病を癒す功能あり。多くもとめ、貯へて、其の時を待つべし。」

と、今の世のありさま、將來の事變、鑑(かゞみ)にかけて[やぶちゃん注:鏡に映した鮮明な像のように、その細部まで明らかにして説きあかして。]のたまふ、と、おもへば、夢は、さめて、夜(よる)は、ほのぼのと、あけにける。

 壽玄齋、感心、膽(きも)に銘じ、盥嗽盛服(くわんそうせいふく)して、急ぎ、天神に詣(けい)すれば、夢の面影、ありありと、社壇の戶びら、すこし、ひらけ、異香(いきやう)、四方(よも)に、薰郁(くんいく)たり。

 それより、壽玄齋、世のなり行くありさまをみるに、夢中の告(こく)に、たがはず。

 永享の年(とし)に及びて、京都(きやうと)・鎌倉、確執(かくしつ)の事、おこり、鎌倉持氏朝臣、京都將軍に恨むる事ありて、謀反(むほん)す。

 京都、度々(たびたび)、大軍(たいぐん)を起こし、討手(うつて)にさし向けらる。

 持氏父子、敗績(はいせき)して、自害す。

[やぶちゃん注:所謂、「永享の乱」。「永享四(一四三二)年前後から、鎌倉公方足利持氏と室町幕府の関係は致命的に悪化し、永享十年、将軍足利義教は持氏討伐を命じ、持氏父子は鎌倉で自刃して果てた。]

 これより、諸方、戰爭、おこりて、しづかならず。

 國家衰廢、天運否塞(てんうんひそく)[やぶちゃん注:「否塞」閉じて塞がってしまうこと。]して、大(おほい)に、疫病、流行(はやり)て、人民、おほく、死亡(しぼう)せり。

 壽玄齋、かの天神の告(つげ)を思(おもひ)いで、試(こゝろみ)に、浮萍(うきくさ)を調和(てうわ)して、あたふるに、大かた、いえずといふこと、なし。

 人みな、その神効(じんこう)に服して、

「これ、正(まさ)に醫王善逝(いわうぜんせい)の變作(へんさ)なり。」

とて、おそれ、つゝしむ事、よのつねならず。

 其の後(のち)、今川(いまかは)上總介が父の疫病(やくびやう)を癒しければ、上總介、なゝめならず、よろこび、俸祿、過分に與へて招(まね)き、つひに、わが國に供(とも)なひ下りて、身、終はるまで、尊敬しけると也。

[やぶちゃん注:「醫王善逝」薬師如来の異称。「善逝」は仏の敬称の一つ。

「變作」仏教用語。姿を変えて現われること。また、特に菩薩などが世の人を救うために、仮に姿を変えて示現したり、又は、種々の事物を現わしたり、変えたりすることを指す。「化作(けさ)」とも言う。

「今川上總介」今川義元(永正一六(一五一九)年~永禄三(一五六〇)年)。戦国時代に於ける今川氏の最盛期を築き上げたが、尾張国に侵攻した際に行われた「桶狭間の戦い」で織田信長軍に敗れ、毛利良勝に討ち取られた。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(いみじきみたまよ……)

 

 

 

いみじきみたまよ

空にはあれ

空にみさかえ

つみびとの凍れるたま

地にはあれ

さびしく芽生あれにしものを

主よ

しみじみと雪を堀あげ

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。「堀あげ」はママ(校訂本文では『掘あげ』とする)。編者注があり、『ノートより』とあり、さらに、『本稿には以下がないが、本篇草稿』(以下に示すもの)『十五行目以下がこれに續くものか。』とある。以下に示す表記は総てママ]。

   *

 

 

 

罪びとの手にも 芽は 生え 萌えぬ、

 

いみぢじきみたまよ、

み榮え みさかへ天にあれ空にあれ、

つみとがびとのしるし凍れる魂を、

地にはあれ

もや→野にも山にも哀しくわれの

さびしく芽生へ生れにしものを

たがやす

雪を堀りあげ 地に奥ふかく

わが主いえすよ

主よ めぐませ

めぐませ主よ

地に雪ふらば

もろともに雪を堀りあげ

いのらしめてよ

淚に

いよいよ淚にく

しみじみといのらしめてよ

さめさめと泣かしめたまへ

いつしんに

 

   *

試みに、編者の言うように削除部を除去し、合成して見よう。ここでは特異的に筑摩版校訂本文よろしく、躓くところの、「堀あげ」を「掘りあげ」とし、「さめさめ」を「さめざめ」と独自の消毒をやらかしてみようではないか。

   *

 

 

 

いみじきみたまよ

空にはあれ

つみびとの凍れるたま

地にはあれ

さびしく芽生あれにしものを

主よ

雪を掘りあげ

しみじみといのらしめてよ

さめざめと泣かしめたまへ

いつしんに

 

   *

……う~ん……なんか……ピンと、こねぇゼ?……]

萩原朔太郎 未発表詩篇 都會ノ進行

 

 都會ノ進行

 

鳩の如なる□胸を 張りきつた胸は破裂![やぶちゃん注:□は底本編者の判読不能字。次の行の頭も同じ。漢字の「口」ではないので注意されたい。]

□の足は寅に舞ひあがる[やぶちゃん注:校訂本文は「寅」を「宙」とする。]

足は足は電氣死刑の硝子般に上に舞踏するところの足[やぶちゃん注:校訂本文は「般にを『盤の』とする。]

胸は張りつめる、

胸は△△△鳩のやうに盛りあがつた歡喜の胸[やぶちゃん注:「△△△」は朔太郎自身によるもの。]

手は手は光る

また手指は 白金の指輪アブサントの酒盃にふれ、首は首とて液體空氣の圈中に泳ぎ入る[やぶちゃん注:以下は一行空け。]

 

このひとの聲をみよ

若く美しきこの士官 の聲をみよ

「すゝめ」彼は躍躍し絕叫し萬象をこえて地球の上に立ち

「前へ」

幻惑する華美と墓場の靜寂とに於てその行進は始まつた、

「前へ、第一中隊、第二中隊、第三中隊」

みよあきらかなる

たちまちにして 氷山→指揮刀→聲は

日光は家根をてらした、昔なき軍架の先導に於てみよ步む、銀座一丁目、銀座二丁目、銀座三丁目、銀座四丁目、

その靴にはローラー の底にははゴム底、ローラー、スケートの靴、

京橋、日本橋、神田、本鄕、淺草、上野、

「前へ、第六中隊、第七中隊、第八中隊」

𥒰上の上を水が流れた[やぶちゃん注:「𥒰上」を校訂本文は『鋪道』とする。辻褄の添削で鼻白む。]

みよその丈長き倦怠に於て兵士等は來る、

「竝足」

麹町二丁目、麹町二丁目、麹町三丁目、麹町四丁目、麹町五丁目、麹町六丁目、麹町七丁目、……

たちまち停立した、順序よき進行は

若き士官の憔悴せる

たちまち行進はソ害された

兵士しかも何等の騷ジヨーなしに[やぶちゃん注:「騷ジヨー」は校訂本文では『騷擾』である。]

きはめてしづかに

何物のこの行進の前列を橫斷したのである[やぶちゃん注:「何物の」は校訂本文では「何物か」とする。]

あの この無禮きはまる盲害者

影の 影は灰色の衣裝をきて來た

影は大股に冷笑的にすぎ

は冷笑し、影は消滅した、

光榮ある軍隊の先驅に於て

東京市大行進の前→先 せ××に於て、汝、橫道なる老人よ軍旗の賤辱に於て[やぶちゃん注:「せ××」は朔太郎自身によるもの。]

汝無道なる老人の幻影よ、

停立したる兵士等は不動不拔なる

かく切齒なして怒り、

この士官は焦心した、士官

しかしその勇氣ある號令に於て

障害者の失綜に及べ せる[やぶちゃん注:「失綜」底本編者は「失踪」の誤字とする。]

「大隊、進め、竝足」

蘇生せるところの軍隊は二度新らしき步調をつヾけたまで

麹町七丁目、八丁目、九丁目、十丁目、十一丁、十二丁目[やぶちゃん注:「十一丁」はママ。]

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。編者注があり、『ノートより』とある。

「アブサント」フランス語の「absinthe」だが、これは「アプサント」、正確に音写するなら「アプサァント」であり、古くからフランス・スイス・チェコ・スペインなどを中心にヨーロッパ各国でニガヨモギ(双子葉植物綱キク亜綱キク目キク科キク亜科ヨモギ属ニガヨモギ Artemisia absinthium )・アニス(英語「anise」。双子葉植物綱セリ目セリ科ミツバグサ属アニス Pimpinella anisum )・ウイキョウ(セリ科ウイキョウ属ウイキョウ Foeniculum vulgare )などを中心に、複数のハーブやスパイスを主成分として作られてきたアルコール度の高い(四十~八十九%)薬草系リキュールの一つを指す。元はギリシア語の「ヨモギ」を意味する「アプシンシオン」に由来する。因みに、萩原朔太郎の初期の短歌集の一つ「古今新調 小引幷に十首 大正二(一九一三)年十二月」(同年十二月一日附『上毛新聞』掲載。署名は「夢みるひと」)の「小引く」(小序)にも同一酒である「苦蓬酒(アブサン)」が同じ表記で登場している(「やぶちゃん版萩原朔太郎全歌集 附やぶちゃん注 PDF縦書版」167コマ目を参照)。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 金庫破り

 

 金庫破り

 

怖るべき秘密であるふくめんのひと

賊はラヂウムフ□□を使用したするひと

彼は犬のようにしのできたひと

影のやうに消えてゆくひと

このひと金庫を破壞せり

探偵 のピストルは壁をうすぬき

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。「うすぬき」は「うちぬき」の誤記であろう。編者注があり、『ノートより』とある。]

ブログ・アクセス1,700,000突破記念 梅崎春生 虚像

 

[やぶちゃん注:昭和二三(一九四八)年六月刊の『人間』別冊・第二輯に発表され、後の同年十二月河出書房刊の作品集「B島風物誌」に所収された。

 底本は「梅崎春生全集」第二巻(昭和五九(一九八四)年六月沖積舎刊)に拠った。最後に私の感想を添えた。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが、本未明、1,700,000アクセスを突破した記念として公開する。【2022318日 藪野直史】]

 

   虚  像

 

 硝子窓の暗い反映のなかに、高垣がみとめたのはまぎれもなく幾子の顔であった。

 地下鉄は渋谷の歩廊をはなれて、しばらく曇天の高架(こうか)の上を走りぬけ、そして外光をいきなり断ち切るようにして隧道(トンネル)へすべりこんだ。俄(にわか)ににごった轟音が車体に充満して、背後へ背後へと流れ出した。曇った空を打ち透していた窓硝子が、突然まっくらな隧道(トンネル)の壁面にさえぎられて、ほの暗い不確かな鏡面となり、車内の風景をうすぼんやりと浮び上げた。その風景も車体の動揺につれて、かすかな律動を伝え始めてきた。

 吊皮にかけた腕で額をささえたまま、高垣はなんとなく窓硝子から反映するものを眺めていた。

 正午ごろで乗客はすくなく、吊皮に下っているものは幾人もなかった。だから高垣は硝子のなかに、彼の背後の座席にずらずらとかけている乗客たちの姿を、見るともなく視野に収めていた。窓硝子がかすかな歪みをもっているらしく、それらの顔々はうすくらがりの中で微妙に伸びたりちぢんだりした。それらはひとしく伸び縮む彼の顔の影像の背後に、くらく小さく並んでいる訳(わけ)であった。そのひとつひとつに視線をうつしながら、腕に支えた額のあたりを高垣がはっと堅くしたのも、学生と背広服の男にはさまれた箇所に腰かけているひとりの女の、前むきの小さな姿があったからであった。その女の影像に幾子の顔立ちを瞬間にして見とめたからであった。無意識のうちに腕のかげに顔を寄せながら、高垣はすこし眼を大きくしてその顔に視線をさだめていた。硝子の歪みをわずか顔貌の陰翳(いんえい)にとどめたまま、それは幾子の顔にまぎれもなかった。

 その女は頭をうしろの窓枠に斜めにもたせかけていた。鈍い硝子の反射のなかでは、その眼は閉じられているのか開かれているのか定かでなかった。そのあたりはことさら陰翳をふくんで暗く沈んでいた。高垣が見ているのは、頰のあたりから唇にかけての線であった。その線は白いマフラのなかにくっきりと見えていた。そのいくぶん堅い感じの輪郭が、胸に長いことあたためていた幾子の印象を、その瞬間彼に彷彿(ほうふつ)として浮き出させていたのである。身体の内側がにわかに熱くなってくるのを感じながら、半顔を袖のかげにかくしたまま、彼はしばられたようにそこから眼を離せないでいた。それから意識の一部分をいそがしくある考えが通りぬけた。

(何故おれはこれに乗りこんだとき、腰かけている幾子に気がつかなかったのだろう?)

 この疑問が別の危惧をつぎに漠然と用意しているのを彼はかんじたが、それも形にならないままで胸のなかで散るらしかった。渋谷で発車まぎわのこの車に、彼は何気なく乗りこみ、そして偶然にこの吊皮に摑(つか)まった訳であった。空席を探すためにひとわたり車内に眼は走らせた筈だが、その女の顔をその時彼の視線はとらえないままで過ぎたものらしかった。袖のかげから眼だけを出して、いまにして硝子のなかにとらえたその女の輪郭が、車体とともに微動するのをじっと見詰めながら、彼はそしてしばらく呼吸をとめていた。うすぐらい車内燈からななめに顔をそむけた形で、硝子のなかのその女は足を組んだまま、そのあいだ姿勢を凝固させているように見えた。

(このまま顔を合わさないで、次の駅で電車を降りてしまおうか)

 呼吸をすこしずつはき出しながら、彼はふとそう考えた。そう考えたとき彼の視線のなかで、その女の影像はかすかに身じろいだ。そして組んでいた右脚を床にすべらした。形のいい脚はにぶく光を弾いて、ぴったりとそれに貼りついた絹靴下をありありと彼に感じさせた。ただ上半身をふりむけるだけで、幾子の肉体をもつ形が眼の前に現われるということが、その瞬間はっきりした実感として急に高垣のむねをしめつけてきたのである。そしてその実感は、重量ある粘体にさからうような不快な抵抗で、何故かあらあらしく彼の胸をこすり上げてきた。硝子のなかのその脚を膝からおおうものは、あたたかそうな外套であるらしかった。釦(ぼたん)がいくつかそこに光っていた。襟(えり)のところから白いマフラが顔の部分をかくしていて、顔はやはり斜めに窓にもたれていた。もたれてはいたけれども、身じろいだはずみに窓枠を横にずれたらしく、その顔はすこし変貌したようにその印象を狂わせていた。

(見違えたのか?)

 見違える筈はなかった。硝子の歪みが微妙な屈折をして、影像の顔の形を変えたものらしかった。食い入るように瞳を定めて、彼はそのままじっとしていた。その女の像の眼のあたりは、ずれたはずみで隣の背広服がひろげた新聞紙にかげっていて、もしその眼が見ひらかれているとすれば、感じからしてそれは入口の扉の方を眺めているらしかった。それは先刻彼が乗りこんできた入口であることに高垣は気づいた。

(乗りこむとぎおれが気付かなかったとしても)と彼は吊皮の腕に力を入れながら咄嵯(とっさ)に考えた。(腰かけていた幾子は、入ってくるおれに気が付いたかも知れない!)

 ある屈辱に似たものがその時するどく彼の胸に折れこんできて、彼は吊皮をきしませながらそのままの姿勢で、上半身をすこし硝子窓の方にかたむけた。隧道(トンネル)の壁面を規則ただしく間隔をおいて、小さな壁燈が光の筋になって流れて行った。その光の箭(や)はすべて正しくその女の影像の頰の部分をよぎっては消えた。

 ……十三――十四――十五……

 無意識のうちに読んでいたその数が、その時始めて彼の心に形になっておちてきた。そしてその光の箭の間隔がすこしひろがり始めたと思うと、重苦しい轟音がやや明るく浮いてきて、やがて次の駅が近づいてくるらしかった。次の駅で降りようという気持が急速に迷って行くのを感じながら、しかし彼はも一度なにか確めるように、きらきらした眼を硝子窓に固定した。

(しかしおれはこの女と生きて再会したくなかったのではないか!)

 長いあいだ暗礁(あんしょう)として意識のしたに沈んでいたこの想念が、ことばの形になって突然浮び上ってきた。それと同時に甘美な羞恥をともなった深い悲哀が、その瞬間まざまざと胸を嚙んでくるのを自覚しながら、彼はかすかに身ぶるいをした。この想念をどんなに長い間、形のない願いとして持ちつづけていたのか。それにつながるあらゆる過ぎ去った環境や心情が、実感をもった追憶としていきなりあふれてきて、彼は思わずその女の小さな影像から眼を外(そ)らして瞼を閉じた。それは炎天の下のしろっぽい道や、濡れた水牛の背や、そしてそんな風景にいる自分の追憶であった。そのような期間のどの瞬間から、こんな想念をもち始めたのか。それは彼には判らなかった。復員船が内地に近づきかけた時からのようでもあるし、あるいは宿舎で幾子のあの手紙を受取った瞬間からであるのかも知れなかった。眼を閉じた彼の頭のなかを、いろんなものがばらばらに千切れて通りすぎた。

 車体にこもった轟音が、その時ふいに拡がり散った。瞼をあかるく染めて駅の歩廊が窓外にあらわれるらしく、車体は俄に速度をおとして揺れながら烈しく車輪をきしませた。瞼をひらいた彼の前に、窓硝子から嘘(うそ)のようにもろもろの影像は消え失せ、黄色い歩廊に待つ人々の姿が点々と彼の視野をかすめてきた。

 

 その幾子からの手紙を高垣がうけとったのは、彼が台湾にいる時のことであった。彼はその時分一兵士として、東海岸にある小さな街にいたのである。戦争はすでに末期であった。

 彼はその日公用で遠くへ出かけ、その帰途を近道するために、汽車の鉄橋を半分徒歩で渡りかけた時、敵機の空襲をうけた。彼は単独であった。水の涸(か)れた白い磧(かわら)に、その鉄橋はながながとかかっていた。あぶなく橋げたを踏み渡りながら、聞きなれぬ爆音に空をふり仰いだとき、敵の飛行機はすでに彼の斜め上まで飛来していたのである。それは三機の編隊であった。鉄橋はあぶないな、そのことがすぐ凝然(ぎょうぜん)と頭に来た。身体中がふくれ上るような衝動がつぎにきて、彼は立ちすくんだままちらりと視線を足下におとした。橋梁(きょうりょう)のあわいから白く灼けた磧がべたっと拡がっていた。爆音が彼の耳のなかで急に増大した。腐蝕色の枕木をふまえた自分の軍靴が、彼の眼には妙に小さく遠く見えた。そのくせ尖端の靴墨が白っぽく剝(は)げかかった色合いなどを、彼はその時鮮かに意識に収めていたのである。その極く短い時間の間に、彼は自分の内部のものが急激に腐蝕し、つぎつぎに磨滅して行くのをありありと感知した。荒涼たる孤独感がそして彼を切迫した形でかすめた。皮膚の周囲を泡立つものがまっくろに立ちこめていたけれども、その内部で気持はしだいに異様につめたく鎮(しず)もってきた。微塵(みじん)と収縮してゆく自身と巨大にふくれ上る自身を、同時にはっきり幻覚しながら、彼は確かなつもりで爆音の方向に聴覚をかたむけていた。どれだけの時間が経ったのか判らない。彼の視野に貼りついていた白い磧の上を、輪郭のぼやけた大きな飛行機の影が、突然ふわふわと浮くように三つ近づいてきた。近づいてきたと思うとそれはほんとに、何気ない冷淡さで鉄橋の真下を通りぬけた。(たすかった!)皮膚から熱いものが吹き出るのを感じながら、彼は引ったくるように頭を上げた。三つの尾翼がきらりと光って、その上空で編隊はわずか方向を変えたらしかった。そして爆音は急に衰えて街の方に遠ざかって行った。しばらく経って、機体が見えなくなると、彼はがたがたと慄え出してくる身体をもてあましながら、それでもひょいひょい飛ぶようにして、大急ぎで橋梁(きょうりょう)を走りぬけていた。

 幾子からの手紙をみたのは、その夕方宿舎に戻ってからのことである。彼はそれを受取ると、宿舎の裏手の庭に出て行って封を切った。庭にはたくさん花が咲き乱れていて、白い鶏が三四羽静かにあるいていた。低い土塀によりかかって、彼は一字一字その文章をたどった。読んで行くうちに彼はある亢奮(こうふん)のために頰が蒼ざめてゆくのを感じた。その手紙は恋文であった。それは次のような書き出しで始まっていた。

 先生はもう帰っておいでにならないでしょう。私も生きようとは思っておりません。……

 彼は長いことかかって、その全文を二度読み終えた。そしてそれを丁寧(ていねい)にたたんで内かくしにしまい、顔を蒼くしたまま庭をまっすぐあるいて宿舎に戻って行った。

 その夜寝台のなかで、ある解明の出来ないものが長いこと彼を眠らせなかった。彼はしきりに寝がえりをうちながら、頭の内に弾け散るものをまとめようとあせっていた。しかしそれらはますます千切れてばらばらに乱れるらしかった。幾子から手紙がきたのは、彼が軍隊に入ってから始めてのことであった。移動のたびに彼の方からは通知をだしていたが、その返事は今まで一度もこなかったのである。そして突然このような手紙を、どんな心理的な過程を経て、幾子が書く気持になったのか。それは彼にたいする激しい慕情の手紙であった。しかもその慕情は、この手紙を書く寸前に幾子の胸に燃え上ったものらしかった。そして燃え上ったものを幾子は整理しきれずに、じかに文字にたたきつけたふうであった。だからその文章のなかに表現されているのは、そんな混乱した恋情だけで、幾子の身辺や東京のようすなどは、ほとんど記されてなかった。ただ終尾の二三行で、彼女が今挺身(ていしん)隊員として工場に行っていること、そこが数日前空襲をうけて、逃げおくれた同僚が二人死んだことが書かれてあるだけであった。ただそれだけであった。しかし自分も生きようとは思わぬという書き出しの気持が、そこに確実につながっていることを、彼は文面を読み終えたときにはっきり感じ取った。そして彼はその数行から、灰色に迷彩された工場の建物や、荒掘りの防空壕にうずくまっている人々や、刺すような臭いをもった火災の煙などを、直ぐ瞼のうらに思いうかぺた。そして度をうしなった群集のなかに、必死な眼付をした幾子の顔が、彼にはぎょっとするほど鮮明に浮んできた。この幾子にこれを書かせたものは、ことごとくこの日のショックからきた感傷ではないかと、彼はふと感じたが、それにも拘らず彼の心をはげしくかきたててくるものが、執拗(しつよう)に彼の眠りをさまたげていた。それは彼が行間から嗅(か)ぎとった漠然たる不幸の臭いであった。彼はそのむこうに、その昼の鉄橋での出来事が茫漠とかかっているのを、ぼんやり意識した。しかしそれがこれとどんな関連をもつのか彼には判らなかった。彼はすでに数年間征野をわたりあるいてきた。生命の危険という点から言えば、もっと危ない目になんども逢っていた。敵と数米へだてて対したことも彼の戦歴にはあった。そんな時彼がつねに感じていたのは、しかしあの鉄橋の上で体験したような言いようもなく不安定な脱落感ではなかった。

(先生はもう帰ってはおいでにならないでしょう)

 それが幾子の手紙の書出しであった。この文章をよんだとき、ここ数年間ときどきしか思い浮べなかった幾子の顔や姿が、極めて実感的な形として胸の中に座を占めてきたのである。しかしそれは統一した像として彼の意識に入ってきたものではなかった。ある偏(かたよ)りを持った顔の輪郭や、うす青く冴えた眼のいろや、すらりと伸びた脚の形などから、それはばらばらに組立てられていた。それは最後に見た幾子からちぎれてきた破片のような印象であった。

(しかしこの幾子がどんな気持で、あんな手紙をおれに書いたのだろう?)

 割切ったつもりでいても、この疑問はその夜以来、ときが経つにつれて彼の胸に強くなって行った。あの手紙の便を最後として、内台の交通は杜絶(とぜつ)した。返事をだすことも不可能になって、彼は始めて幾子の存在が、彼の内部にゆるぎないものであったかに気がついていた。気がついた頃から、幾子のばらばらの印激はそれなりに凝結(ぎょうけつ)して、確として彼の心に臨んでくるらしかった。それはすでに彼の心象の一部と化してくるようであった。彼はもはや脱落した何ものかを、それで埋めようとしていたのであったが。……

 地下鉄の窓硝子のなかに見たのは、そのぼんやりした幾子の影像であった。そしてそれはほとんど一瞬であった。学生と背広服の男の間にはさまれて、白いマフラから浮き出た堅い感じの頰の線が、いきなり彼の内部にたもっていた幾子の線とかさなって、瞬間彼の胸をつきあげてきたのだ。

(しかし幾子を最後に見た日から、もう六年も経っているのだ)

 黄色い歩廊を人影がうごいて、エンジンドアの方にあつまってくるのを無意味に眼で追いながら、彼は強いて心をおちつけてそう考えた。六年という歳月が、幾子の顔かたちをもとのままで置く筈がないことを、彼はその時思っていたのである。いきなりふり返って確めたい欲望を、その時なにかが烈しくはばんだ。頰に血の色を上せながら、彼は人影のなくなった歩廊のひとところに視線を据(す)えていた。

 笛が鳴り、扉が乾いたおとをたてて閑じた。硝子窓のそとを歩廊の支柱が後方へうごきだした。やがて轟音が急におもくこもると同時に、歩廊の明るさは断ち切れて、硝子のなかに再びうす暗い世界が突然よみがえってきた。女の小さな姿の影像がふたたび彼の眼を射た。思わず彼が顔をずらすのと一緒に、硝子の凸凹が女の輪郭を微妙に修正した。それはやはり彼が長いこと保ちつづけていた幾子の印象とぴったり重なった。六年の歳月をとびこえて、ぼんやりした暗がりの底に、わかい日の幾子の姿が花のようにあった。

 

 その顔かたちを思い浮べるだけで、胸を切なくしめつけられるようになったのも、あの手紙を受取ってから後のことであった。そして戦局がますます不利になり、生還を断念せねばならぬ破目におちてから、その気持ははっきりした幾子への思慕の形となって行った。ひとすじの郷愁のようにそれは彼の心に食い入っていた。ふたたび相見ることが出来ないという思いが、彼の思慕をますますつのらせて行くらしかった。彼は夕方になると街外れの海岸にでて、荒れ濁った太平洋をながめた。そして時には内かくしからあの手紙を取出して読んだ。

 その手紙を受取った日が、あの鉄橋の上の出来事と偶然かさなっていることが、彼に妙に因果めいたものを感じさせていた。あの鉄橋でのことも、その時だけで気持が終ってしまわずに、日が経つにつれてなにか傷痕めいたものを彼の内部に深めて行くようであった。もはや祖国に帰れないという思いも、ここから発しているのかも知れなかった。そしてそれゆえの幾子への思慕も、純粋に彼のなかで結晶するらしかった。そこで結晶した幾子の幻像は、現実に肉体をそなえた幾子が眼の前にあらわれたより、もっと鮮烈な形を彼に与えていた。その持続した感情のなかで、彼はときに昔から幾子を愛していたのではないかという錯覚におちた。それは錯覚でないのかも知れなかった。それは錯覚であったにしろ、ある迫真力をもってそのときどきの彼にせまってきた。実際の記憶のなかでは、あの手紙を受取る以前は、極(ご)くまれにしか幾子のことを思い出さなかったのだけれども。幾子と相知った数箇月の記憶は、その日を起点として彼の中であざやかに再生され始めていた。

 ――その数箇月の期間、彼はただ幾子の家庭教師であるにすぎなかった。幾子が手紙のなかで先生と書いたのは、この関係のためであった。

 幾子は伯父の家に住んでいて、医者の学校をうける試験の準備をしていた。彼は週に三回この家をおとずれて、その勉強をみてやるだけであった。その頃幾子は、女学校を出たばかりで、無口な娘であった。性質は素直だとおもったが、どこか暗い陰翳(いんえい)をおびているのも、幾子が孤児であるせいかも知れなかった。その事実も、幾子の口から聞いたわけではなかった。どこからそれを知ったのか、彼の記憶から嘘のように消え果てていた。幾子の寄食先の伯父の口から聞いたのかも知れなかったが、あるいは幾子にただよう暗さから、彼がそんな想念をつくり上げたのかも知れなかった。そして彼等はただ、教えられるものと教えるものの関係だけに過ぎなかった。何故医者の学校に受験したいのか、彼は聞きもしなかったし、幾子もそれについては何とも言わなかった。それは既定の事実としてそこにあった。召集令状がきて、彼はどんな気持であったのか。その頃手に入り難くなっていた絹靴下を一足買い求め、幾子の家に最後の授業へ出かけて行った。

 平常通り授業がすむと、彼は召集がきたからもう来れないことを幾子に告げた。幾子は硬い感じのする頰をふと上げて彼を見詰めたが、しばらくしてかすかにうなずくような形をしただけであった。そして彼は黙ってポケットから靴下の包みを出して幾子にわたした。

 幾子がつけているのは、それまで何時も黒い女学生用の靴下であった。靴下だけでなく服装全体が田舎じみていて、幾子はこの方面になんの嗜慾(しよく)ももっていない風に見えた。幾子を暗く貧しく見せるのは、ひとつにはこのせいもあった。彼が絹靴下を贈る気になったのも、幾子のなかにひとつの明るさを点じたい気持からであったのかも知れなかった。しかしその気持が、自分の胸のなかでどんな位置をしめているのか。彼はその時はっきり摑(つか)みかねていた。

 生きて還ることを絶望し始めた頃から、彼に鮮かにせまってきたのは、この絹靴下をつけた幾子の脚の記憶であった。幾子はその場で彼の求めに応じて、黒靴下をそれにつけかえたのであった。新しい絹靴下をつけた形の良い幾子の脚を、彼はその時長い間だまって眺めていた。その彼を幾子は、仄青(ほのあお)く冴えた瞳でじっと見おろしていた。その脚にちょっと触れてみたい欲望をのみこみながら、彼にはその時、やっと自分が戦争に行くのだという実感が胸に来た。

 この日のことを、しかしそれから彼は長いこと忘れ果てていた。

 台湾が孤島として遮断(しゃだん)され、戦局の緊迫が彼の気持をあらあらしく乱してくるにしたがって、ふと浮んだこの日の記憶は、ますます強く彼の胸によみがえるようであった。長いあいだ意識に上せなかったにも拘らず、その日のことは細部まで歴々と彼の記憶にもどってくるらしかった。長い間思い出さなかったということも、彼が無意識のうちにそれを心の外に押し出そうと努力していたせいかも知れなかった。そう考えると幾子への思慕が、昼の炎のように静かに燃え上ってくるのを、彼は切なく意識した。あの鉄橋の上から始まったするどい空白感と併行して、それは日が経(た)つにつれて彼の内部に強烈なものとなって行った。

 そして夏のある日、突然戦争は終った。

 

 窓硝子にあおぐらい風景を沈めたまま、電車は轟々と鳴りひびきながら、やがて次の駅が近づいてくるらしかった。背後へ背後へ流れ夫る轟音のなかで、彼の想いも不協和音となって流れ去るようであった。ただ彼にわずか固定しているものは、眼の前の窓硝子から暗くてり返す幾子の姿だけであった。はっきりとらえようとすれば直ぐにぼやけてしまう、その不確かな虚像であった。

(何故おれはこの女と生きて再会したくなかったのだろう?)

 硝子のなかに眼を定めながら、も一度彼はそう考えた。硝子のなかで幾子の姿は、先刻と同じ姿勢であおぐらく沈んでいた。白いマフラとやわらかそうな外套(がいとう)が、車体の震動とともに微かにゆれていた。

(――幾子への思慕はおれにとって何であったのか?)

 生きて還れるとわかった日から、そのおもいは彼の内部に生れたらしかった。生きて故山に戻れるという現世的なよろこびが、その日々をあわただしくしていたが、そのあいだに彼の胸で、幾子の座標は大きくずれてしまったようであった。自分につながる現実の一角に、成熟した幾子がいるということが、はじめて彼に来た。それまで幾子はそんな形では彼に感じられなかったのである。それは彼になにかにがさのようなものを含んでくるので、その思いが浮ぶたびに彼はそこから逃れようとした。しかしその努力も、彼にはっきり意識されたものではなかった。胸の中でつくり上げていた幾子の印画が、再び逢えるかも知れぬ現実の幾子の予想と、うまく重なり合わぬことが、彼の意識下のある部分をしきりにかき立てていたらしかった。あの切迫した日々を辛うじて支えていたものが、すでに現実の感触を喪失した思慕であり、その思慕が凝結した幾子の静止した幻像にすぎなかったことを、彼はいまはっきりと意識した。生命を刻む時間の流れのなかで、死んだ時間のなかの幾子を、何故彼は胸にあたためようとしていたのだろう。それはもはや幾子への慕情ではなかった。自らの生命への哀惜に他ならなかった。鉄橋の上での感情も、ふかいところでそこに結びついているらしかった。

(いまこの窓硝子のなかに揺れている幾子は、おれにとって何だろう?)

 生きている幾子の姿を見逃して、窓硝子のなかに幾子を見出したというのも、あるいは硝子自体がもつ微妙な歪みのゆえにちがいなかった。しかしそのような歪みをあいだに隔てねば、もはや幾子を感じることが出来なかったことを思ったとき、歳月のいやらしい重量感がいきなり彼の現在にもたれこんできて、彼は思わず幽(かす)かな声をたててうめいた。硝子窓のなかに彼が見たのは、彼自身の古くあおざめた感興にすぎなかった。それと同時にある疑問が、にぶい戦慄をともなって彼を走りぬけた。

(幾子にしても今、それを感じているのではないか?)

 硝子のなかに彼が幾子を見たように、幾子も硝子のなかに彼を見ているにちがいなかった。一方だけが相手をとらえることはあり得なかった。そうすれば彼の顔も歪みをのせて、幾子の視線にとらえられていたのかも知れなかった。影像の幾子は頭を窓枠にもたせかけて、顔を斜めにそらしていた。眼のあたりは暗くかげっていて、あるいは瞼を閉じているのかも知れなかった。ただ頰の線だけが、稚(おさ)ない幾子の輪郭をのせて、灰色にうき上っていた。彼がこの車に乗りこんできたとき、幾子が彼の姿をみとめなかったとは断言できない。そして窓硝子のなかの彼の顔をも。彼の顔もひとしくあおざめて、すこし歪んだまま映っていたに違いなかった。

(――あんな手紙を、幾子はどうして書く気になったのだろう?)

 彼は瞬間その手紙のことを思い出していた。あの手紙を彼は長いこと持ち廻った揚句、復員してきて、内かくしに入れたままその服を売り飛ばしたのであった。うっかりしてやったことであるけれども、後で惜しい気持は強くは起らなかった。そしてそのまま彼の記憶に色褪(あ)せてゆくようであった。文章の節々も今はほとんどうすれかかっていた。ただそれを始めて読んだときの感動が、彼の胸に形だけを止めているに過ぎなかった。しかし東京の土を踏んで焼野原を眺めたときよりも、幾子の手紙で空襲の短い文章を見たときの方が、ずっと心をえぐられたことを彼は今思い起していた。あの手紙が彼に伝えてきた無形のものは何であったのだろう。

(幾子はおれに、あの手紙一本しか出さなかったに違いない)

 音の流れを乱しながら、車体はすこし傾き揺れた。そして次の駅への直線路に入ったらしかった。暗い隧道(トンネル)の壁面にかすかな明りがただよいはじめ、すこしずつ光を増してゆく気配であった。窓硝子のなかの世界は白っぽく薄れはじめた。彼は吊皮にかけた腕をぎゅっと堅くした。その白っぽい風景のなかで、女の外套がふいに動いて、幾子は急に立ち上るらしかった。瞳をそこに定めようとしたとたん、風景は吸いこまれるように消えて行って、その代りに窓いっぱいを突然歩廊の明りがぎらぎらと拡がった。車輪はきしみながら、速度をぐっと落した。

(――ここで降りるのか?)

 全神経を背中にあつめ、彼はじっと身体を硬くしていた。彼の背後をすりぬけるようにして、動くものの気配があった。軟かくかすかに触れて、香料のにおいがほのかに流れた。歩廊の風物が窓の外でゆるゆると停りかかる。電車の床板を踏んで遠ざかるものの気配が、鋲(びょう)を打つように彼の背中にはっきり感じられた。エンジンドアが乾いた音をたててひらいた。そこを出てゆく白いマフラのいろを、彼は視野の端でちらとみとめた。そしてそれは直ぐに消えた。

 混凝土(コンクリート)の歩廊の座をあつめて、小さなつむじ風が起きていた。それは巻きながら少しずつ移動して行った。幾子は歩廊をまっすぐむこうの方に歩いて行ったらしかった。その跫音(あしおと)が、聞える筈はないのに、彼の耳に感じられるような気がした。その感じが遠ざかって消えてしまうまで、彼は暫(しばら)くつむじ風のなかの座の奇妙な動きを眺めていた。

 

[やぶちゃん注:思うに、本篇は作中に一切の直接話法が出現しない点で梅崎春生の小説中でも特異点の作品と言える。敢えて言うなら、肉声が聴こえてくるのは、「彼は召集がきたからもう来れないことを幾子に告げた。」という回想のシークエンスだけであり、それも一種の要約式の間接話法でしかない。後は――高垣の心内語と――幾子の手紙の文面のみで語られ、しかも全体は、僅かに小一時間足らずのトンネルばかりの地下鉄の中だけの実ロケーションの人声(ひとごえ)の皆無なもの、なのである。而して私は、今回、電子化しながら再読した際、

――隧道(トンネル)

――駅の歩廊(プラットホーム)

――幾子のマフラー(襟巻)

――肉声が発せられない車両の中の短時間のシークエンス

という設定から、

――これは――芥川龍之介の佳品「蜜柑」の構造を遠く借りて――幽かに――ブルージ―に――インスパイアした作品ではなかろうか?――

と、今は、感じているのである。リンク先は私のサイト版の最古層の電子テクストである。

2022/03/17

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 キケウ貝 / イソチドリではないか?

 

[やぶちゃん注:今までの本図譜で、唯一、全く判らなかったので、ペンディングしていた、国立国会図書館デジタルコレクションのここの左中央下のもの。ツイッターとフェイスブックで以下の画像を掲げ、『何らかの生物の欠損片と思われますが、正体が全く分かりません。識者の御教示をお願い致します。「キケウ」は開口部が五角形を成しているようで、「桔梗」と推定します。フジツボ類を考えましたが、殻板が高過ぎ、それぞれの中央部分が明らかに凹んでいる上、先頭部が尖って閉鎖しているように見えるので違うと思いました。何らかの貝類の棘状突起の先が欠けたものでしょうか?』と記したものの、その後、誰からも情報は得られなかった。しかし、今日、ネットで、『あれ? これではないか?!』と思うものに行き逢ったので、掲げてペンディングを解除する。また、向後は同定に困難を感じるものは、頑張って立ち止まるのをやめ、不詳で示すことにする。

 

Kikeugai

 

きけう貝

 

甲午(きのえむま)九月六日、眞写す。

 

[やぶちゃん注:私は、先ず、「開口部が五角形を成しているよう」に感じたことをリセットし、また、「きけう」も歴史的仮名遣が誤っているのだから、「桔梗」を取り止めた。自分を慰めるように、『貝にしちゃあ、如何にも変な形だし……或いはヘンだから「奇矯貝」かも知れんぞ?』(「奇矯」の歴史的仮名遣は「きけう」で正しいのである)なんどと独りごちたりしたのである。

 但し、梅園は、ここまで、本文解説で、歴史的仮名遣をかなり有意に誤っているので、彼が「桔梗」のつもりで書いた可能性はかなり高いと思っている。さらにそれは、この物体の右の殻口(真正の貝類だとして)部の形状が、キキョウの花に似た五放射であることからの命名であろうというのも、かなりの確度で、今も、内心では、信じているのである。

 しかし、それに拘ると、何時までも同定出来ないと考え、あくまで、

――この図のように――角度から――一見――こんな奇体な形に見える海産生物の部分――或いは――破片――

を、当て所もなく、画像のネット・サーフィンを続けていた。しかし、正直、もう、どこかで半ば以上、同定は諦めていた。

 ところが、今日、別な図の同定にために、ある特定種の学名検索で、ネットの海外の専門家のシェル画像を含めて眺めているうち、まさに思わず、

「あれぇ? これじゃあねえのかっツ!?!」

とモノローグしてしまった種がいたのである。それは、

腹足綱異鰓上目汎有肺目嚢舌亜目トウガタガイ上科イソチドリ科イソチドリ Amathina tricarinata

である。私自身が実物を見た記憶がない。カキやタイラギ等の他の貝への寄生性種であるから、視野に入ったことは恐らく高い確率であると思うのだが、注視したという体験がなかった。

 さて。本「梅園介譜」では、学術的には最も拝見する回数が多い、まず、そうさ、

「レッドデータブックあいち2009」のこのイソチドリの写真の死貝の右写真

に目が留まったのだった。

これを右に九十度回転させ、さらにイメージの中で、それを殻頂を手前に少し引き出した場合を考える。すると、『その表面にある三条の強い肋が、梅園の図のように見える場面が絶対にあるはずだ!』

と私は思ったのである。次に、その「レッドデータブックあいち2009」のイソチドリのPDF版の解説ページの写真(前のリンク先とは異なる個体のもの)の左上の写真を見て貰いたい。そこでは、まさにその三条の強肋が『殻口に至って半管状の3突起となる』(「吉良図鑑」の記載)というのが判ると同時に、この形状が確かに梅園の図と合致するのである。

 中には、「殻表がこの図のように綺麗じゃないじゃないか」と言う御仁は、上記PDFの解説を読まれたい。本種の「形態」について、『殻長約 15 mm の笠型の貝。殻頂部から前縁部にかけて 3 本の強い肋が走る。殻は白色であるが、黄褐色の厚い殻皮に覆われる』とある。学名検索をかけると、海外の画像で、真っ白な非常に美しい同種のフォルムのそれらが見られるPDF解説には、『国内では房総・男鹿半島〜九州に分布する』とするが、減少が心配されてあり、『宿主であるタイラギ』(イガイ目ハボウキガイ科クロタイラギ属タイラギ Atrina pectinata )、『イタボガキ』(翼形亜綱カキ目イタボガキ科カキ亜目イタボガキ科イタボガキ属イタボガキ Ostrea denselamellosa )『も著しく減少しているので、危機的な生息状況といえる。近年採集されるタイラギの殻上には移入種のシマメノウフネガイ』(盤足目カリバガサガイ超科カリバガサガイ科エゾフネガイ亜科エゾフネガイ属シマメノウフネガイ Crepidula onyx :こいつは! 厭になるほど、見かけるぞ!)『の大型個体が多数付着しているので、種間競争の結果、同じ様な場所を生息場所とする本種が減少した可能性がある(福田・木村, 2012)。』とあった。

「「甲午(きのえむま)九月六日」天保五年。グレゴリオ暦一八三四年十月六日。]

狗張子卷之七 飯森が陰德の報

 

[やぶちゃん注:挿絵は今回は底本(昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編「同全集第一期「江戶文藝之部」第十巻の「怪談名作集」)をトリミング補正して、適切と思われる位置に配した。]

 

   ○飯森《いひもり》が陰德の報(ほう)

 豐臣秀賴公の侍大將鈴木田隼人佐(すゞきたはやとのすけ)は、中《ちゆう》・西國(さいこく)の敵を押(おさ)ゆる番船(ばんせん)の下知(げち)を仰せ付けられ、穢多が城(ゑつたがじやう)に居住せらる。

 其の家臣飯森兵助(へいすけ)といふ人、盜賊奉行として、二心(ふたこゝろ)なく鈴木田に忠功をはげます。

 天性(てんせい)、心すなほにして、慈悲ふかく、其の意(こゝろ)、貧(まづ)しふして弱(よわ)きをあはれみ、富みて憍(おご)れるを、制(せい)す。

 故に、人、自然と、其の裁斷に服(ふく)して、欺(あざむ)くに、しのびず。

 或る時、ひとり、政所(まんどころ)に臨んで、訴訟の事を判斷す。

 一人《ひとり》の囚人(めしうど)あり、その名を土井《どゐ》孫四郞といふ。

 罪狀、まぎれなきによりて、面縛(めんばく)して誅伐せんとす。

 孫四郞、ひそかに兵助にむかひて、

「我は、もと、不義をなせるものにあらず。名ある武士なり。智謀勇力(ちばうゆうりき)、よのつねならず。あはれ、君(きみ)、よく、我が科(とが)を察して、命をたすけ、再び、故鄕(ふるさと)に歸し給へかし。しからば、かならず、君がために、力(ちから)を盡して、その厚恩を報ぜん。」

といふ。

 兵助、つらつら、かれが面顏魂(つらだましひ)をみるに、凡人にあらず、詞色(ししよく)雄長(ゆうちやう)にして、臆せず、まことに豪傑の士なり。

 兵助、心(こゝろ)に、

『これを、たすけん。』

と、おもひ、わざと佯(いつは)りて、聞(きか)ぬ體(てい)して、許(ゆる)さず。

 その夜更(よふけ)すぎ、人しづまりて、ひそかに獄屋(ひとや)の役人をよびて、かの囚人(めしうど)をゆるし、歸さしめ、すなはち、その役人も亡げ失せさせて、屋敷を出(いだ)しぬ。

 翌日(あくるひ)、

「獄中(ひとやのうち)、囚人(めしうど)一人(ひとり)、にげいでて、又、役人も、にげうせぬ。」

と披露す。

 鈴木田(すゞきた)、大《おほき》におどろき、

「これ、しかしながら、兵助が越度《おちど》なり。」

とて、しばらく出仕をやめて、閉居せしむ。

 その比(ころ)、德川家衆(とくがはけしゆ)、攝州・大坂に在陣し給ひ、蜂須賀(はちすか)阿波守に仰せ付けられ、穢多が城を攻めさせらる。

 

Intoku

 

 城中(じやうちう)、勝利を失ひて、敗北す。

 兵助も、馬(むま)にのり、士卒を下知して、命を惜しまず、ふせぎ戰ふといへども、天軍無勢《てんぐんぶぜい》にして、かなはず、つひに城(しろ)を攻め落され、鈴木田、やうやう、一方(《いつ》はう)を切り拔け、萬死(ばんし)をいでゝ、一生(《いつ》しやう)を全(まつた)ふし、秀賴公の館(たち)に歸參しぬ。

 それより、兵助、旅客(りよかく)牢浪の身となり、あなたこなた、漂泊(ひやうはく)せしが、後(のち)には、糧、盡き、囊(ふくろ)、空(むな)しふして、困窮、實(まこと)に、はなはだし。

 辛吟(しんぎん)と、さまよひて、播州の地に至る。

 或る大(おほき)なる在鄕(ざいがう)に、ゆきかゝり、その鄕(さと)の代官職の人の姓名をきけば、

「土井孫四郞。」

といふ。

『我(われ)、むかし、放しやりたる囚人(めしうど)の姓名と同じ。』

 兵助、ふしぎにおもひて、その屋敷をたづねて、案内、乞ふ。

 孫四郞、大《おほ》きにおどろき、急(きう)に、はしり出(いで)て、迎ふ。

 よくみれば、うたがふべくもなき、むかし、放しやりたる囚人なり。

 むかしの事共、語り出(いで)つゝ、

「まことに。命の親なり。ひごろ、なつかしくおもひしに、よくこそ、尋ね來り給へ。」

とて、拜謝(はいじや)、奔走(ほんそう)し、すなはち、別(べち)に座敷をきよめて、すゑ置き、晝夜(ちうや)、酒宴を催ほし、相(あひ)ともに寢臥(しんぐわ)して歡びを、きはむ。

 凡そ十日あまりに及ぶといへども、つひに、我が居宅(ゐたく)に、かへらず。

 ある夜(よ)、孫四郞、その居宅に、かへれり。

 兵助、折ふし、厠(かはや)に行きけり。

 此厠と、孫四郞居宅と、たゞ、壁、ひとへを隔てぬ。

 しづかに、事の樣(やう)をきけば、孫四郞妻(つま)の聲として、

「君(きみ)、此の間(あいだ)、ことのほかに、もてなし給ふ客は誰人(たれ《ひと》)ぞや。此の十日あまり、晝夜(ちうや)つきそひて、かへり給はず、いぶかし。」

といふ。

 孫四郞、こたへて、

「むかし、あの客の大恩(《だい》おん)をうけて、危うき命を、たすかり、今、かかる榮花(えいぐわ)をきはむるも、これ、ひとへに、あの客の隱德によれり。何(なに)をもつて、此大恩を報(ほう)ぜん樣(さま)を、しらず。」

といふ。

 妻のいふ、

「君(きみ)は。おろかなる事を、のたまふものかな。それ、人(ひと)の一生、盛衰浮沈(せいすいふちん)、古今(ここん)、めづらしからず。時を得ては、人を制し、運、窮まりては、身を屈す。なんぞ、今更、過ぎ去りしむかしの事を、かへりみん。諺にも、『大恩は報ぜず』と、いへり。かつ、君、むかし、難にあひ、囚(とらは)れにかゝり給へる事、誰(たれ)知るもの、なし。しかるに、今、かゝるふるまひし給ひ、もし、他人に、もれきこえなば、かさねての恥辱なるべし。はやく、時機にしたがひて、いかにも思慮し給へ。」

といふ。

 孫四郞、返答もせざりしが、やゝ久しくありて、

「げにも。なんぢがいふところ、尤(もつとも)なり。我(われ)、智謀をもつて、よきに、はからはん。かならず、色(いろ)をさとらるゝ事、なかれ。」

と、いひて、止(やみ)ぬ。

 兵助、聞(きゝ)すまして、大きに、おそれ、おのゝき、衣服・荷物、悉くすて置き、直(すぐ)にその家(いへ)をはしり出(いで)て、馬(むま)をかり、鞭をはやめて、逃げ去り、その夜(よ)の初更の比(ころ)までに、十里あまりを過(すぎ)て、攝州堺(さかひ)に到(いた)る。

 ある旅店(りよてん)に宿(やど)をかりぬ。

 その體(てい)、はなはだ、あはたゞし。

 兵助が僕(ぼく)、これ、何故《なにゆゑ》ともしらず、あやしみ、問ふ。

 兵助、しばらく、座を定め、胸をさすりて、具(つぶさ)に孫四郞が、たちまち、大恩を忘れて、かへりて、野心をさしはさむ次第を語り、ためいきをついて、憤激す。

 僕、これを聞きて、淚をながし、その陰德を感ずるあひだ、忽ち、旅店の床(ゆか)の下より、瘦せ枯れたる男、一人《ひとり》、刀を拔き持ちて出(いで)あらはる。

 兵助、膽(きも)を消して驚く。

 この男のいはく、

「我は、軍中忍びの達者にて、しかも、仁義の侍なり。さきの孫四郞をたのみて、君(きみ)が頭(かうべ)をとらしむ。しかれども、ふしぎに、今の物がたりを聞(きい)て、かの孫四郞が放逸無慚(はういつむざん)なる事を知り、君は、まことに智仁兼備の君子なり。あやういかな。あやまつて、殺さんとす。我、義において、君(きみ)を捨てじ。君、しばらく、寐入(ねい)る事(こと)、なかれ。すこしのあひだに、君がために、かの孫四郞が頭をとりてかへり、君が鬱憤を散(さん)ぜしめん。」

といふ。

 兵助、恐懼して、

「よきに、はからひ、給《たまは》れ。」

といふ。

 此男、刀を手に提(ひつさ)げ、門(もん)を出《いづ》るとみえし。

 屋(や)をつたひ、高塀(たかへい)を超えて、そのはやき事、飛ぶがごとし。

 既に夜半にいたり、立ちかへりて、

「敵(てき)の首(くび)を打ちおほせぬ。」

と、よばはる。

 火をとぼして、よくみれば、すなはち、孫四郞が首なり。

 その男、すぐに暇(いとま)乞(こ)ひて、歸り去る。

 その跡、たちまち、みえず。

 それより、兵助は、諸國、抖藪(とさう)して、後(のち)には都(みやこ)にのぼりて、兵術の師範となりて、その身を終はりし、といふ。

 

[やぶちゃん注:「飯森」「兵助」不詳。

「鈴木田隼人佐(すゞきたはやとのすけ)」江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(五)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)の注に拠れば、『蒲田隼人兼相』(すすきだはやとかねすけ)とする。当該ウィキによれば、生年不詳で慶長二〇(一六一五)年五月六日没とする。『戦国時代から江戸時代初期の武将で』、『通称は隼人正。豊臣秀頼に仕えた。兼相の前身は講談で知られる岩見 重太郎』『といわれている』。『前半生はほとんど不明』。『豊臣氏に仕官し、秀吉の馬廻り衆として』三千『石を領したとされる(後に』五千『石に加増)。慶長』一六(一六一一)年の『禁裏御普請衆として名が残っている』。慶長一九(一六一四)年の「大坂の陣」に参戦し、「冬の陣」においては、『浪人衆を率いて博労ヶ淵砦を守備したが』、「博労淵の戦い」では、『守将でありながら』、『遊女と戯れている間に、砦を徳川方に陥落されたため』、『味方から「橙武者」と軽蔑されていた』。『その理由は「だいだいは、なり大きく、かう類(柑類)の内色能きものにて候へども、正月のかざりより外、何の用にも立ち申さず候。さて此の如く名付け申し」(『大坂陣山口休庵咄』)というものであった』。「夏の陣」の「道明寺の戦い」に『おいては、渋皮色の鎧に星兜の緒を占め、十文字の槍を取り、黒毛の馬に黒鞍を置き、紅の鞦を掛けていた。三尺三寸の太刀を帯び、軍勢の先頭をきって駆けつけた(『難波戦記』)』。『十騎ばかりの敵を討ち取ったが、押し寄せる東軍のために、間もなく戦死したとされる』、『剛勇の武将として知られ、兼相流柔術や無手流剣術においては流祖とされている』。『薄田兼相の前身が岩見重太郎であるという説は有名である。それによるならば、小早川隆景の剣術指南役・岩見重左衛門の二男として誕生したが、父は同僚の広瀬軍蔵によって殺害されたため、その敵討ちのために各地を旅したとされる。その道中で化け物退治をはじめとする数々の武勇談を打ち立て』、天正一八(一五九〇)年、天橋立にて、『ついに広瀬を討ち果たした。その後、叔父の薄田七左衛門の養子となったとされる』。『大阪市西淀川区野里に鎮座する住吉神社には薄田兼相に関する伝承が残されている』。『この土地は毎年のように風水害に見舞われ、流行する悪疫に村民は長年苦しめられてきた』。『悩んだ村民は古老に対策を求め、占いによる「毎年、定められた日に娘を辛櫃に入れ、神社に放置しなさい」という言葉に従い』、六『年間』、『そのように続けてきた』。七『年目に同様の準備をしている時に薄田兼相が通りがかり、「神は人を救うもので犠牲にするものではない」と言い、自らが辛櫃の中に入った』。『翌朝、村人が状況を確認しに向かうと辛櫃から血痕が点々と隣村まで続いており、そこには人間の女性を攫うとされる大きな狒々が死んでいたという』とある。芥川龍之介にズバリ、「岩見重太郞」という面白い作品がある。未読の方は、是非、読まれたい。私の詳細注附きのサイト版テクストである。

「番船(ばんせん)」港湾近辺や海浜に近い関所などで、必要に応じて警固・見張りを行なう船。「ばんぶね」とも呼ぶ。

「穢多が城(ゑつたがじやう)」不詳。

「土井《どゐ》孫四郞」不詳。

「面縛(めんばく)」両手を後ろ手に縛り、顔を前にさし出しさらすこと。打ち首の仕儀であろう。

「詞色」言葉遣い及びその発言の仕方。

「雄長(ゆうちやう)」雄々しく勝れているさま。

「德川家衆(とくがはけしゆ)、攝州・大坂に在陣し給ひ……」所謂、「大坂夏の陣」。結末は御存じの如く、慶長二〇(一六一五)年五月七日、大坂城の豊臣軍は多くの将兵を失って、午後三時頃には壊滅した。

「初更」凡そ現在の午後七時から九時まで。

「野心」江本氏の注に、『大坂役』(おおさかのえき)『当時の播州の東半分は姫路城は徳川家康の女婿池田輝政、明石城は正輝の甥の池田出羽守由之に治められていた。土井は徳川方の大名に飯森兵助を差し出すつもりであったと考えられる。』とある。

「抖藪(とさう)」本来は仏教用語で、「衣食住に対する欲望を払い除け、身心を清浄にすること」及び「その修行」を指すが、ここは「雑念を払って、心を一つに集めること」を意味している。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(はかりかねたる汝の罪だ……)

 

 

 

はかりかねたる汝の罪だ

汝はその高きところよりみそなはす神に懺悔し

あけくれ懺悔しはや縊死にも及ばんとし……

されども愛は高き天上よりみそなはすところにある

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。編者注があり、『ノートより』とある。本篇には同全集の『草稿詩篇「未發表詩篇』に以下の草稿が載る。表記は総てママ。

   *

 

 

 

はかりかねたる汝の心だ

されど汝はその高きところにまします神に懺悔し淚にくれ祈り、

さわらびの エホバよ何時になんの愛がある

エホバよ汝のなんのにくしみがある

懺悔し凍死しあけくれ縊死にも及ばんと

されども汝は死愛は高き天上よりみそなはすところにある

ああゆきふり、あまつさへゆきふり、木ぬれを透きて鴨は樹上に光る までまで

人々の手に銃砲光る、

師走、汝が光るまで聖書の光るまで、つみびとの淚ぐましき草の莖

ああみよふくみて出づるものはわらびの芽

雪わりぐさの芽、

ああ、はかりかねたる 罪びとの心だ

人はゆくゆく疾患を忘れんとするにさへ

エホバ、汝は

 

   *

後に編者注があり、『本篇冒頭に「ダークのあやつり」とあるが、題名かどうかはっきりしない。』とある。この「ダークのあやつり」とは、イギリスの操り人形劇団「ダーク一座」のことである。個人ブログ「見世物興行年表」のこちらに、非常に詳細な「ダーク一座」の本邦での興行履歴と劇団の経緯が記されてあるので参照されたいが、明治二七(一八九四)年五月に初来日して以降、明治三八(一九〇五)年までの公演記録が載る。実は、萩原朔太郎には、少年時に、前橋で、ダーク一座を見た思い出を綴った「ダーク操り人形印象記」が存在する。これは昭和六(一九三一)年五月号『マリオネツト』に発表されたものだが、まことに幸いなことに、初出誌のものかとも思われる同作(正字正仮名)がPDFで、ここで、ダウン・ロード出来るのである。是非とも保存をお薦めするものである。なお、前記「見世物興行年表」を調べたが、ダーク一座が前橋で興行した記録は見つからなかった。しかし、PDF版を見られると判るが、冒頭、朔太郎は回想して、『冬近い鄕里の町の四辻で、僕がこの珍しい廣告を見たのは、小學校に通つてゐる幼年の時のことであつた。』とあり、その前に興行公告が示され、そこに『於當地』『柳座劇場』とあるのである。この「柳座劇場」は調べると、当時は県内屈指の芝居小屋で、現在のこの附近(グーグル・マップ・データ)にあったもので、ここは朔太郎の生家の東北直近にあることが判るのである。朔太郎は明治二十六年四月に群馬県立尋常師範学校附属小学校に入学し(数え七歳)、明治三十三年三月に同小学校高等科を修了して、同四月に県立前橋中学校に入学している(数え十五歳)。年譜にはダーク一座の名はないが、まさに来日した明治二十七年の小学校二年生の条には、『フランスの』『映畫「醉人の夢」「舟遊び」などを見た』とあるから、結構なハイカラである(と言っても、私も小学二年生の夏休みに「ウエストサイド物語」を従兄弟のお兄さんに連れられて見たのだったな)から、この時、ダーク一座が前橋に来て(前橋での興行記録は以降にもないのだが)、それを見たとしてもなんらおかしくはない。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 庭

 

 

 

まがきをすかし

木ぬれをすかし

築山あたり紅葉にそめ

さゝの葉にしもやけさせる

植込の遠見をすぎて

さびしらにしろじろと魚をみるひと

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。編者注があり、『ノートより』とある。本篇には同全集の『草稿詩篇「未發表詩篇』に二種(一篇は無題、二篇目は「庭」)の以下の草稿が載る。表記は総てママ。

   *

 

 

 

かきをすかし

もみぢ木ぬれをすかし

魚を築山あたりもみぢにそめ

はつ霜

松の葉に魚(いさな)さやぎ

霜っやけさせる小路をふ

盆裁に とほとほに人の步める

魚ちらちら松の葉に魚ちらちらと

植込にひとくるけはひたたづめるひと

 

 

 

 

まがきをすかし

木ぬれをすかし

築山あたり紅葉にそめ

霜やけさせる小路をふみ

松のさゝの葉に魚ちらちらとしもやけさせる

★あづまやすぎて植込のしげみに//

植込の遠見をすぎて★

[やぶちゃん注:「★」「//」は私が附した。「あづまやすぎて植込のしげみに」と「植込の遠見をすぎて」が並置残存していることを示す。]

うすらひの池邊にきたり

さびしらに魚をみるひと、

 

   *

後に編者注があり、『「ノート」より。本文原稿と草稿詩篇とは別のーおに記されている。』とある。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(光る銀の鐵砲だ……)

 

 

 

光る

光る銀の鐵砲だ

何のために彼がそれ もつかた 知らないを磨くのであるか[やぶちゃん注:「もつかた」はママ。「もつたか」の誤記か。]

鐵砲彼は鐵砲磨きではない

光る洋銀の鐵砲だ

彼は第一に

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。編者注があり、『ノートより』とし、更に『本稿には「彼は第一に」以下がない』とある。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(懺悔するものゝまへに月がある、……)

 

 

 

懺悔するものゝまへに月がある、

懺悔するものゝ合掌祈れるものゝ肩の上にも月がある、

月には蒼白い水がながれる

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。編者注があり、『ノートより。』とある。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(篇末に標題候補二種「憔悴せるひとのあるく路」或いは「夕燒けの路」並置残存及び別な添え辞有り)

 

 

      ――プロテヤ氏近況――

 

麻うら草履に謬をふみけた、先生たるものが、[やぶちゃん注:「謬」は「膠」(にかは)の誤字(後も同じ)。後文六行目及び私の後注を参照。]

なまけものゝで[やぶちゃん注:「ゝ」はママ。注の最後の別草稿参照。]

のんだくれの

でかだんなる、

やくざで

先生たるところのおまけににかはをふみつけた

詩人たるところの

奇蹟なのんだくれの足どりだ

まあ→そら

ペツタリコ

ヒツタリコ

きゝ給へどうです諸君

1市の方から

2おしねりで[やぶちゃん注:「おひねり」(御捻り)の訛であろう。]

2それ、あれが、おしねしりでこざるところで、を[やぶちゃん注:「おしねしり」の「し」は衍字であろう。]

それ★市の方から//夕やけの路を★ごさるところで、

[やぶちゃん注:アラビア数字は萩原朔太郎の打ったもの(以下同じ)。「★」「//」は私が打ったもので、「市の方から」と「夕やけの路を」が並置残存していることを示す。「ごさる」はママ。「ござる」の誤字(後も同じ)。]

ヘツタリコ

グツタリコ

1いやはや諸君

3櫌町の一方バアからごさるところを、で[やぶちゃん注:「櫌町」は校訂本文では「榎町」とされている。]

ヒツヒリコ

ガツクリコ

ゾロ、ゾロ、

先生たるものが、…… やくざが謬をふみつけた、

みんな出て見ろやくざが謬をふみつけた

ゾロ、ゾロ

どうですうですやぐさめが、みなさん、[やぶちゃん注:「やぐさ」はママ。]

おまけに○をふみつけ

やれやれ、

ゾロ、ゾロ

★憔悴せるひとのあるく路//

 夕燒けの路★

    (前橋市民にプロテヤ氏に捧ぐる詩)

[やぶちゃん注:記号は同前。標題並置。別添え辞候補或いは後書の丸括弧表記もママ。]

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。編者注が四つあり、まず『ノートより。』とし、次に『題名が詩篇末尾に書かれているのは原文のまま。』とし、『行頭の数字は作者が附したもの』とある。更に『「おまけに○を」の「○」は原文のママ。』とある。

「プロテヤ氏」私の「所感斷片 萩原朔太郎」(全集は随筆として所収するが、散文詩体(てい)のものである)の注を参照されたい。先ほど、正字不全を補正し、追加注もしておいた。そこで示した「前橋文学館」のブログの『2017年12月26日 「ヒツクリコ ガツクリコ」展のもとになった詩』という記事には、やや不審がある。以下に部分引用する。

   《引用開始》[やぶちゃん注:引用部は全集の表記に従い、正字化した。]

 「ヒツクリコ ガツクリコ」というのは酔った詩人が前橋の街を歩いていく様子を表した擬態語で、独特の響きを持っています。こちらは、未発表詩篇などが収録された『萩原朔太郎全集』第3巻(筑摩書房)中に収められた詩篇ですが、同じく『萩原朔太郎全集』第12巻に収録された「ノート一」の記述によると、朔太郎は雑誌「侏儒(こびと)」1月号にこの詩を寄稿したと書いています。

 

(前略)

 侏儒一月號の詩稿一篇同封しておきました。

 流石、のんだくれの探偵詩人プロテヤ氏が肉身ランヱの疾患の極に達してニカハをふみつけたので、靈肉共に憔悴困惑して居るところを侏儒の諸君と前橋の市民等がエノ木マチの一角で指さし嘲笑して居る光景です。題を「夕やけの路」としました。悲慘なる頽廢、デカダン行路の象徴です。

 

 「のんだくれの探偵詩人プロテア」とは、1913年公開のフランス連続映画「プロテア」の主人公である女探偵プロテアに影響されて、朔太郎が名乗っていた名です。映画は同年121日に日本で初公開され、朔太郎は1914(大正3)年7月に観に行き、犀星とともに熱狂しました。

 「侏儒(こびと)」(侏儒社)とは1914(大正3)年8月に前橋で発行され、1915(大正4)年に終刊した詩歌雑誌で、誌名は朔太郎が命名しました。朔太郎のもとに集った若い歌人たちが中心となって刊行され、朔太郎は指導者的な立場であったといいます。同人は北原放二、木下謙吉、金井津根吉、河原侃二、梅沢英之助、奈良宇太治、倉田健次ら。ほかに北原白秋、室生犀星、山村暮鳥、前田夕暮、尾山篤二郎らも作品を発表しています。このように充実した執筆陣と内容で、群馬の近代詩歌における先駆的な役割を果たしました。編集発行人は梅沢英之助で、「ノート一」の中にも「梅沢君」の名前が見られます。

 酔っ払いの上に膠を踏みつけて、危うい足どりで町を歩いていく描写からは、朔太郎流のニヒルなユーモアとリズムを感じますね。

   《引用終了》

この前の「ノート一」の引用は『侏儒』編集室宛の書簡下書きと思われ、以上の引用(前後に略がある)自体が編集発行人である彼へのもので、途中で行空けして『梅澤君。』と名指しにした書簡文である。実は「ノート一」のこの直前には、本詩篇の決定稿に近いものと思われる草稿も記されてある(後掲する)のであるが、もし、このブログ主が述べるように、この書簡が本詩篇に決定稿と一緒に送付され、詩篇が『侏儒』一月号に掲載されたものであれば、それは当然、筑摩版全集の「拾遺詩篇」に決定稿として載っていなくてはならないはずである。しかし、それは存在しない。――とすれば、このノートに下書きされた書簡は結局出さず、本詩篇の決定稿も送られなかったのだと考えるしかないのえはないか? 以下に「ノート一」版の本篇草稿を示す。

   *

 

   

 

      ――プロテヤ氏近況――

麻うら草履に膠をふみけた、先生たるものが

なまけものゝで

でかだんなる

やくざで

おまけににかはをふみつけた

詩人たるところの

のんだくれの足どりだ

ペツタリコ

ヒツタリコ

2あれが、おひねりで

★市の方から//夕やけの路を★ござるところを

[やぶちゃん注:アラビア数字は萩原朔太郎の打ったもの(以下同じ)。「★」「//」は私が打ったもので、同前で、最後の標題も同じ。]

ヘツタリコ

グツタリコ

1いやはや諸君

3榎町のバアからごさるところで

ヒツクリコ

ガツクリコ

ゾロ、ゾロ、

みんな出て見ろやくざが謬をふみつけた

どうですみなさん、

おまけに○をふみつける

やれやれ

  ★憔悴せるひとのあるく路//

   夕燒けの路★

        (前橋市民に捧ぐる詩)

 

   *]

2022/03/16

毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 十寸穗貝(マスホカイ) / カムロガイ或いはボサツガイ?

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションのここからトリミングした。右下方を、一部、マスキングした。]

 

Masuhogai

 

十寸穗貝【「ますほがい」。

     「かの子貝」。

     「つぼみさくら」とも云ふ。】

 

◦「十寸穗貝」に三種あり。和哥には、越前国「色の濵」の品を用ゆ。

 

「六〻貝合和哥」

    左三番

「夫木集」      西行

  ※染るます穗の小貝ひろふとて

   色の濵とや言にや有らん

[やぶちゃん字注:「※」は「塩」の「土」を「氵」に代えた字。]

 

[やぶちゃん注:図では特定出来ない。まず、①異名の「ますほ」であるが、この語はもとは「まそほ」で「眞赭」「眞朱」などの漢字をあて、原義は「顔料や水銀などの原料となる赤い色をした土」を指す上代語であるが、直に、広義の「赤い色」、特に「長い薄(すすき)の穂の赤みを帯びた色」を指した。「かの子貝」も「鹿の子」のそれであり、「つぼみさくら」も「蕾櫻」でほんのりと紅であろう。そこから推すと、この貝、図では、ごく薄く赤みを帯びているに過ぎないが、実際にはかなり有意に赤色或いは黄褐色に偏移した個体変異がある可能性が、その名からは窺えるように思うのである。さらに、②上部個体をよく見ると、殻口の外唇の中央辺りが強く内側にへこんだように描かれているのが判る。これはここの内側部分で歯状襞が強く突出していることを示すのではなかろうか?

 さて、この①と②をよく体現している個体を考えてみるに、私は、

腹足綱前鰓亜綱新腹足目アクキガイ超科フトコロガイ科カムロガイ(禿貝)属カムロガイ Sundamitrella impolita

を第一候補としてみた。同種の学名で画像検索をかけると、淡い橙色から、かなり強い赤みを帯びた個体もあることが判ったし、何より、本種が殻口両唇に小歯を持っているのが、よく②の特徴と非常に合致するからである。しかし、図が有意には赤くないという点を重視するならば、この螺層上部のモノクロームのチェック模様は、ビーチ・コーミングで得られた個体画像を見ると、同じフトコロガイ科Columbellidaeの、

フトコロガイ科タモトガイ属ボサツガイ Anachis misera

図の外見とは非常によく一致するとは言えるように思う。

『越前国「色の濵」』現在の福井県敦賀市色浜(グーグル・マップ・データ)。但し、和歌で言う「ますほ貝」は次注で見る通り、二枚貝もあり、恐らくは『三種』どころではなく、赤身を帯びた二枚貝・巻貝を問わない貝類に汎用されていた可能性がすこぶる高い。なお、実は「三種」というのは梅園の言ではなく、次の注の電子化で判る通り、和歌に添えられた解説なのである。それらをいちいち同定する気は私は、全く、ない。そもそも、実際のビーチ・コーミングさえロクにしたことがない連中の作った歌の貝を同定することぐらい、実は馬鹿々々しものはないとさえ、私は考えているのである。

「六〻貝合和哥」お馴染みの「六々貝合和歌」である。国立国会図書館デジタルコレクションの原本の当該歌はここ。但し、「左三番」ではなく、「右三番」である。

   *

  右  ますほ貝 【「ますほ貝」、三種を
            見る。越前国、「色
            の濱」の「ますほ貝」
            を用ゆ。】

「夫木」

 しほそむるますほの小貝ひろふとて西行

 いろのはまとやいふにや有らん

   *

「色の濱」なら、後者の「白黒モノトーンというのは、なし、かな?」っとは思うね。さらに言うとだな、そもそも、この「六々貝合和歌」の「ますほ貝」は、巻貝じゃあ、ないんだよ! 同書の貝合せの左右図の左丁の三つ目の「ますほ貝」を御覽な! 二枚貝なんだ! だから、実は、この歌はこの図には無効なんだ! 僕はね、これは恐らく、紅いサクラガイやベニガイじゃあなかろうかと思うがね。

室生犀星 碓氷山上之月

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルコレクションの室生犀星著「魚眠洞隨筆」(大正一四(一九二五)年六月新樹社刊)の「日錄」パートのここから始まる「碓氷山上之月」を視認して電子化した。

 傍点「﹅」は太字とした。なお、本文中に四ヶ所出る「妹」は活字は孰れも「妺」であるが、「妹」に代えた。

 注したいことがゴマンとあるのだが(無論、芥川龍之介と松村みね子=片山廣子に関わる部分で)、今回は急に思い立って仕儀であったので、躓いた箇所にのみ、語注を附すに留めた。

 

      碓 氷 山 上 之 月

 

  ぽつたりと百合ふくれゐる株の先

 その百合の花が一本に四つの花をもつてゐる。四つといふ數はきらひである。それゆえその一つを剪つてしまふ。ところが最う一本の百合にも四つの蕾がふくれてゐる。やはり剪ることにした。

 澄江堂はとなりの襖を隔てた部屋で、予は入口の方に室を撰んだ。窓の前に小さい池があつて噴水がのぼつてゐる。筧に穴をうがつてあるところから一間くらゐの水が輪のやうに池の面を敲いてゐる。まるで誰か小便をしてゐるやうで、見てゐるのが呼吸苦しくなる。……

 澄江堂と襖一重ではあとになつてお互ひ窮屈にならぬかと思ふ。澄江堂は君さへよければ關はぬといふ。しかし君にどうかといふ。なるべく隣室でない方がよいけれど、室がないからお互ひにがまんすることに仕やうといふことになつた。(大正十三年八月三日、七十九度)

        ×

 朝六時に起きる。散步してかへつて來ても澄江堂はまだ床にゐる。が、とくに眼をさましてゐるらしく起きて出てくる。……」

 「あゝよく寢た。……」

 と云ふ。よく寢たらしい顏附である。

 澄江堂はパンとミルクの朝飯だが、予はあたり前の朝のおぜんである。この宿に五十幾人かの避暑客はゐるがみんなパンとミルクの朝飯である。日本食は予ひとりくらゐださうである。パンとミルクで朝飯をたべると茶がうまく飮めない。も一つはパンとミルクで朝飯をすますと朝飯のかんじがしない。あれは朝寢坊のたべものだらうと考へた。

 「この宿にゐる間だけパンとミルクにして、家へかへると日本食ぢやないかな。」

 さういふと澄江堂はたいがいさうだらうと言つた。

 「けふたつちやんこが來るが、別の室をたのんで置いた。」

 「たつこちやんが來たらホテルヘ行つて飯を食はう。」

 たつちやんこを聞きちがへてたつこちやんと澄江堂はいふ。たつこちやんは少しをかしい。その辰ちやんは此間から予の鄕里の家で泊つてゐたのだが、予が輕井澤へ行くのと一日おくれて歸京するので、こゝヘ途中下車をして一泊することになつてゐるのである。

 「風蘭や暑さいざよふ石の肌はどうぢや。」

 澄江堂はいつの間にか予の田舍訛を覺てしまつた。が、また、「どうも上の句がしつくりしないな。」さう言いて、「石菖や暑さいざよふ……これもいかん。」と言つた。

 「藤棚や暑さいざよふ……これもいかん。」

 澄江堂は七へんばかり上の句をなほし、たばこをすぱすぱ喫つてゐる。「日盛りや暑さいざよふ……これもいかん。」と言つた。かれはいかんいかんを續けなりに言つた。

 午扱、堀辰雄君來る。そして家の方で、昨日朝子が乳を吐いて一日泣き通してゐたと言つた。又かと思ふ。心すぐ暗くなる。

 「消化不良だね、よく注意しないといけない。葉書でも出しときたまへ。そばにゐるやうに力になるものだよ。」

 澄江堂は濕布その他の手當の話などをした。

 晚、輕井澤ホテルヘ三人で行く。すぐ脇隣りに岩谷天狗のやうな西洋人がゐて、四合入の牛乳の甁を控ヘビールのやうにどくどく飮んでゐた。

 「あれをみんな飮むつもりか?――」

 予は尠なからず恐怖した。

 「君、ちやんと聞いてゐるよ、あつち向いてゐてもね。」

 澄江堂はしつしつといふやうな顏をる。……なるほど、田舍へ行つてから聲が大きくなつた矢先きだし、あわてて予は緘默した。

 西洋人は予らが食卓を離れるまでに完全に牛乳の四合入りを一滴あまさすに飮んでしまつた。予はいまさらに世界地圖に一覽を與へたやうな悠大な氣がした。

 喫煙室に坐つてゐるうち去年見た西洋人が泊つてゐないことに氣がついた。三人の子供に順繰りに本をよんで聞かせてゐた美しい異人の母親は來てゐなかつた。外へ出てから予は辰ちやん子に囁いた。

 「去年とはさぴしいやうだね。」

 「そんな氣がしますね。」(四日、七十六度)

        ×

 マンペイホテルヘ茶をのみに行つた。暗い木の茂みが橋の上をつつんでゐるところで、予は突然右の人差指がこの冬ぢゆう痺れてゐて、溫かくなつて癒つてゐたが二三日中に急にそのしびれが冷氣のために來てゐるのに氣づいた。

 「これが君、またしびれ出して……」

 さう言つて人差指をさし出すと、澄江堂はわつと言つて吃驚りした。

 「ああびつくりした。こりや――」

 葉のこまかい枝が夜ぞらに恩地君の版畫のやうに浮き出してゐる。「怕かつた――」と言つて吃驚したのぢやないと言つた。

 散步からかへつてから松村みね子さんが室の前を通つて、お寄りになる。去年おあひをしてから話をするやうになつてゐる。それもいつも輕井澤だけである。

 あとでお菓子を松村さんに持たせてやる。

 辰ちやん子歸京。(五日、七十五度)

        ×

 朝、あんまをとる。

 澄江堂は仕事をしてゐる。あるだけの戶を閉めきつてゐる。予は開けてゐるが反對である。それから予は晚は九時には床にはいるが、澄江堂はたいがい一時ごろ寢るらしく、起きてゐるのか寢てゐるのか分らないほど靜かである。

 松村さんから大きた栗饅頭六つ、紙に包んで女中にもたせて來る。手のひらくらゐある大きさである。澄江堂はその大きなのを一つ晝飯後にたべる。一たい食後にすぐ菓子をたべるのは胃によくないと言つたが、いつのまにか食べるやうになつた。予が國から持つて來た金玉糖を一つづつ食べるやうになつたのは、甘好きの澄江堂の風習がうつつてしまつたのらしい。

 楓と鬼齒朶のかげから朝日グラフの記者がひよつこり顏を出して、ぱちつと二人の寫眞を撮つた。――それから向ふの座敷にゐる兄妹と母親との一族の、その兄らしい少年が散步からかへつてくると、澄江堂をぱちつと撮つてゐた。そのおれいに罐詰の水蜜桃が澄江堂へと持つて來た。予を閉却するも甚だしい。が、水蜜桃だけは一つ食べた。[やぶちゃん注:「そのおれいに罐詰の水蜜桃が澄江堂へと持つて來た。」はママ。「そのおれいに罐詰の水蜜桃を澄江堂へと持つて來た。」の誤字か誤植であろう。「閉却」もママ。「閑却」の誤植であろう。]

 その少年の妹さんはべつぴんである。かの女はいたづらに椽側へ靴下の足を投け出してゐるのが、予の机の方から見えた。れいの「暑さいざよふ」敷石のまはりの芝をけふは手がけをかけた里女が刈つてゐる。その遠景にまつつぐに一とすぢの噴水が今日から上がつた。その芝と噴水との景色はよかつた。予はしきりにほめたが澄江堂は默つてゐた。しばらくしてから、

 「なるほど、いいな。」と言つた。

 そしてまた暫らくしてから「僕はちよつと睡るからね。」と言つて睡いかほをした。昨夜二時に起きて小用を達しに行つたら、かれの部屋のひらきが椽側の方へ二尺ばかり開いて、濛濛たる煙草のけむりの中に端然と坐つて仕事をしてゐた。予は默つて小用を達して睡つたのである。それゆえ[やぶちゃん注:ママ。]睡いのであらう。――

 二時間ほどすると洗面したやうにさつぱりした眼つきをして、

 「ああよく寢た。」

 と言つた。

 晝寢のできない予はこのああよくたは羨しかつた。睡たいときにはほろりと睡れるらしいからである。

 「ほんとによくねたよ。」

 

 

 夜、マンペイホテルヘ飯をたべに行く。樹の間透く電燈が美しい。食卓のもう一つ向ふの食卓にひとりの美人が家族に交つて坐つてゐた。笑ふと白い齒が揃つてそれが屈託なささうに淸潔な感じをさせた。

 一年間西洋人を見なかつた田含ぐらしの予の眼に、西洋人が珍らしかつた。一たい輕井澤は妙に上品振つてきらひである。しかし凉しいのは好きである。ことしは西洋人が見られるのが一つよけいな樂しみになつた。

 「谷崎君が好きかも知れない。」

 澄江堂はかう言つたが、予は春夫はどうだらうと言つた。そして予はまた、春夫は苦情なしにはここに居るまいと思つた。(六日、七十六度)

        ×

 朝起、冷たい雨を見た。

 椽さきの山百合が雨垂を含んでうなだれてゐる。家からの手紙に朝子乳吐くことと、東京から遊びにきてゐるひろちやんの耳の中へおできができた、多分、水泳のためであらう、なるべく早くかへれとあつた。予はまた心欝した。

 澄江堂起きてくる。――

 「夏に子供をあづかるのは考へものだ。」

 さう言つた。

なるほど考へものであると思つた。[やぶちゃん注:一字下げ無しはママ。誤植であろう。]

 二人で食事をするのは每度のことである。しかし予はまだ澄江堂が洗面をせずにゐることに注意を拂つた。が、かれは平然と箸の先きで木つつき鳥のやうに半熟の卵のからをこくめいに叩いて、その破れたところから剝ぎはじめた。洗面をせすに飯をくふつもりらしい。飯が終つた。

 「据風呂に犀星のゐる夜さむかな、はどうぢや。」

 「ひととほりはいいな。」

 かれの脊中は形よい小ぢんまりした肉をもつてゐる。ちよつと鮎の感じがあるなと思つた。かれは湯をあびながら、

 「けさ顏を洗ふのを忘れてしまつたよ。」

 さう言つて洗面した。「僕はちやんと知つてゐたんだが默つてゐたんだ。」さう予は言つた。

 午後、部屋にこもつて苦吟してゐるらしかつた。それが二三日前から烈しくなつたやうな氣がした。

 夕方、裏門きはの女中部屋の戶板に向ひ、立つたままで女中のお雪が泣いてゐた。――色も白く浴衣も白い名もお雪といふ此の女中は、どこかの小間使ひをしてゐたので能く料理番なぞに叱られると聞いてゐたが、可愛さうな氣がした。

 「さつき百合が泣いてゐた。……」

 「可哀さうにいぢめられるんだね。――」

 澄江堂と予とはこの女を百合と言つてゐたのである。百合は一日くらゐ客の間の世話を燒くと、つぎからつぎへと新手の客に代へられた。(七日、七十八度)

        ×

 雨になつて雷嗚がした。次第に烈しくなる。……いままで靜まり返つてゐた澄江子は何か叫びながら、玄關さきの應接間へ飛んで行つた。予は折柄、あんまをとつてゐたが、療治はもう終りかかつてゐたけれど、澄江堂が馳け出してから少し怕くなつた。それにまだ肩先きにあんまが薄暗く取りついてゐる。――

 「大丈夫か、あんまさん。」

 「ぴりぴりと來る奴はあぶなうござんすが、まだごろごろくらゐでは大したことはありません。」

 「だんだん烈しくなる。……」

 「しまひにぴしつと來ます。そいつは恐いが……」

 雷鳴が次第に近くなつた。雨は底ぢゆうに溜つた。池の水があふれた。

 「もう止すよ、君!」

 予はあんまを止めてもらつた。そして、「君はこの部屋にゐても大丈夫かね。」とさう尋ねた。

 「なあに雷くらゐは――」

 予は應接間へ行くために庭の雨の中を走つた。應接間には松村さん、そのお孃さんが、もう避難してゐた。澄江堂も神妙に椅子によりながら、酷いかみなりだなあと言つて、氣がついたやうに、

 「君、あんまはどうした。」

 「置いて來た。」

 予は椽側に泰然と坐つてゐた先刻のあんまさんの姿を、勇勇しく思ひ返した。

 「置いて來たは驚いた。……」

 松村さんもびつくりしたやうな顏をした。

 「かあいさうに――」さう言つて、女中にあんまさんをつれて來ておあげなさいと言ひつけられた。

 「あんまは大丈夫だと言つてゐましたよ。」

 「でもね、こんなに降つてゐるんですもの。」

 お孃さんもさういふ。が、かみなりはやまなかつた。稻光りがするごとに松村さんのお孃さんが、

 「おかあさま、大丈夫?――。」

 怕さうにさう言つた。

 晚、松村さん、お孃さん、大學へ行つてる坊ちやん、澄江堂の四人で散步をした。大學ヘ

行つてゐて坊ちやんはをかしいと予は松村さんに言つた。松村さんと予との間に風月論が出た。澄江堂は松村さんに議論を吹きかけた。松村さんは穩やかな人である。(八日、八十度)

        ×

 はじめ澄江堂と襖合せではおたがひに仕事の都合がわるくないかと思つたが、一しよにゐると澄江堂といふひとはよくできた人物だと思つた。却つて襖どなりでお茶にしやうかとこちらで言ふと、又、向ふから少し步かうかと言ひ、すこしも氣が置けなかつた。晚、予は予の規則をまもるために九時半には床へ這入つたが、澄江堂は應接室へ行つてかへつてくるのにも、靜かに雨戶をあけて歸つた。

 「また客か?――」

 さう寢床から聲をかけると、

 「眼がさめたのか。――」

 と言つた。

 「いや・まだ起きてゐたのだ。よくお客があるな。」

 澄江堂は間もなく仕事を初める。……予はねむるのである。こんな風に暮しが反對であつたが、そのもたれが無かつた夜中であつた。

 予が厠へ椽側づたひにゆくと、澄江堂が椽側にあるお湯を取りに出るのと一しよであつた。兩方でびつくりした。

 「わあ――」

 「ああびつくりした。」(九日、七十八度)

        ×

   秋ぜみの明るみ向いて啞かな[やぶちゃん注:「啞かな」は「わらふかな」と読む。]

  松村みね子さんが咋夜二階の段梯子をふみはづして、足のゆびを傷められたと女中が言つた。そこで一句、

   草かげでいなごがひとり微笑うた[やぶちゃん注:下句は「うすわらうた」か。]

 澄江子も和歌一首をしたゝめ、お見舞ひのかはりに持たせる。――晩、二人で松村さんの部屋へはじめて遊びにゆく。(十日、八十度)

        ×

 朝、散步してゐると美しい西洋人の姉妹が別莊道から下りて來た。二人とも樂譜を持つてゐる。ひとりは藍色で妹は純白な服を着てゐる。姉の肩つきは富士山によく似てゐた。えりくびは乳のやうに白かつた。

 

 この旅館の應接間は客がみんな食前とか食後には、よく出て來て椅子に坐つた。三年つづけて挨拶をしてゐたが、その五十がらみの人の好い顏の客が醫學博士であることや、白足袋でゴードを喫むのが齒科の先生であることや、毛糸のジヤケツを著てゐるのが千葉の地主であることや、三人のお孃さまをつれてきてゐるのが田端の地主であること、また每年のやうに演說會の事務を取りにくるのがレヴエヂヤトフに似てゐることや、朝から賑やかに若い妻君と出步いてゐるのが神奈川の金持ちであることや、その他の人人がみんな應接間へ坐つては休んでゐた。予は誰にも馴染みになれなかつた。[やぶちゃん注:「ゴード」不詳。「ゴルフ」のことか? はたまた、テニスの「コート」? 或いは葉巻の銘柄? 判らん! 「レヴエヂヤトフ」不詳。]

 

 齒科の先生は輕井澤の金棒引きで、土地と別莊をもつてゐた。そして談たまたま輕井澤のことに及ぶと、昂然として言つた。

 「輕井澤にはもう土地なんてありませんよ。」

 

 夕方、澄江堂と散步しに出て射的をした。かれは二つパツトを落した。予も同樣二つ落した。予は生れて鐵砲を手にもつたことが初めてであつた。

 「このつぎは五つの内四つまで落す自信はあるがなあ。――」

 この前さう言つた澄江子は、たつた二つしか落せなかつた。(十一日、八十度)

        ×

 朝子の帽子を二つ、マントのやうな毛糸編みのちやんちやんを二枚、レースを一丈、それだけを買つてかへりかけると、れいの裏門の女中部屋でまたお雪が唏いてゐた。予はすぐ神經質ですぐ對手に應へる顏の番頭を思ひ出した。每年の老番頭のかはりに新しく來た番頭であつた。老番頭の仕事はいくらか浮いて氣の毒であつた。時代はこの三千尺の山の上の旅館の上にまで、その餘勢をもつて訪づれてゐた。[やぶちゃん注:「唏いてゐた」「ないてゐた」と読んでいよう。「唏」は「なげく」「かなしむ」以外に「すすりなく」の意がある。]

 室へはいると澄江子はすぐ起きて出て、

 「ああよく寢た。」と又言つた。そして、

 「今夜は徹夜ぢや、すこし瘦せたかな。」

 と、その頰へ手を持つて行つた。予が來てからも少し瘦せたやうに思はれた。

 「お雪がまた泣いてゐたよ。」

 澄江堂は不愉快な顏をした。その不愉快さは次第に憐愍の表情に變化つた。戶板の方を向いてしくしくと泣いてゐるのが、予に鬪係のないことだけに哀れを催した。

 「ああいふぼんやりした顏といふものは憎み出したらきりもなく憎くなる顏立ちだが…」

 「さうだよ、だから可哀さうだよ。」

 澄江子はさう言つた。

 二人とも庭へ出た。澄江子はそこにある高い楓の木の枝移りにするすると木登りをはじめた。何か腹が立つたやうにである。

 

 晚、マンペイホテルヘ茶を飮みに行つた。

 食堂の電燈がいつもよりも數多く點れてゐて、音樂が夜色を縫うた植込みの中から起つてゐた。

 「何かあるんだな今晚は?――」

 「さうらしいね。」

 サロンに集つてくる人達ち[やぶちゃん注:ママ。]は、西洋人もさうだが、日本人もつくりが派手らしく見えた。肌を露(む)いた西洋人が食堂の方へでかけるときに、サロンにゐる日木人の娘や夫人にあいさつをして行く。……あれらはみな知り合ひと見えるな。しばらくして今喪はダンスがあるので、宮さまもおいでだといふことであつた。二人はぽつ然[やぶちゃん注:ママ。]として坐つてゐたが、不調和な空氣を感じた。

 「出やう。――」

 二人は同時にさう言つて、玄關わきの美しい西洋人の間をすりぬけた。

 「輕井澤では星が少し大きく見えるよ。」

 さう言へば星が大きく見えた。これまで氣がつかなかつた。――宿の應接間に松村さんが居られた。どちらへ?――マンペイへ行つて來ましたと予はこたへた。(十二日、八十度)

        ×

 二三日上らなかつた正面の噴水がけふから又上つた。刈つた芝が美しい。百合はみんな凋れて了つた。ばらばらと通り雨があつたあとに、全く秋の半ばのやうな凉風が吹いた。

 夕方から碓氷峠の上へ月を見に行かうといふことになり、松村さんとお孃さん、旅館の主人、澄江堂と予とが自動車に乘つた。峠へは登り道ばかりで、松村さんは少し蒼い顏をして、

 「恐うございますね。」と言つた。

 お孃さんは十七であるのに、お母さんにしつかり抱きついてゐた。自動車はげつくりとはずみを食ひながら、樹の間から見える月の山峽を登つて行つた。屛風に描き分けた峽の道を指呼の間に上るやうな氣がした。

 碓氷村は峠の頂に黑ずんだ屋根をならべ、その低い庇に四隅に紙房のある古風な切子燈籠を軒ごとに吊してあつた。けふは月遲れのうら盆の日である。

 「あの燈籠はいいなあ。――」

 自動車から下り立つた澄江堂は、仄暗い明りにやつと見分けられる家の中を覗き込みながら言つた。十二三の女の子がらんぷの下で何かの本を讀んでゐるのが、うす暗いので同じ家内でもずつと遠くのやうに見えた。

 「賴んだら吳れないかね。」

 燈籠の骨と紙とが四邊(あたり)の荒い風色と關係があるやうにも思はれた。暗さになれるとその燈籠を吊した庇の下に、何かの葉の硬い石菖のやうな草が磊落たる石の間に蓬蓬と茂つてゐた。

 熊野權現へ參詣した。

 松村さんもお孃さんも權親さまの石段の下で羽織を着た。見晴臺へ行くと、妙義山一帶の山脈が煤まみれのむら雲の中に、月の片曇りをあびながらどんより重疊してゐた。茫茫たる歲月を封じ込んでゐるやうで、むしろ騷騷しい挑んだ荒凉たる景色であつた。

 二三人の西洋人が七輪に炭火を起して、お茶をあたためながら、ベンチに同勢らしい二三の若い娘さんたちと何か話してゐた。こんな景色は繪よりも文章よりも音樂に近いかなあと澄江子が言つた。

 「そんなにおさむくはございませんね。」

 松村さんは羽織着のほつそりした姿で、旅館のあるじとさう話してゐる。――予はうちの朝子が乳を吐いたことや、ひろちやんの耳のおできや、けふ來た手紙でうちのものの乳にこりのできたことなどを思ひ浮べた。雲は北方へ吹きよせられ東方の山道が見えて來た。雲がないので刷いだ[やぶちゃん注:「はいだ」。]山峽は靜かであつた。

 「あれが暴れ出したら大變だな。」

 淺間山はこんもりと象のやうに跼んで[やぶちゃん注:「かがんで」。]、どこか遠方で鎖がつないであるやうな氣がした。煙は上州へながれてゐるので見えなかつた。輕井澤の町もすぐ眼の下に見えた。

 見晴臺から茶店へ行つた。黑い瘦せた猫が圍爐裏にゐたが、松村のお孃さんが呼んだのですぐその膝の上にあがつた。が、また思ひ返して圍爐裏のへりへ行つた。「あひにく力餅がみんなになりましてな。」無器用な口つきで、卒氣なく茶店の老人が言つた。すこしくらゐなら今から拵へると言つた。べつに食べたくもなかつたが待つことにした。――

 吹きぬけの山風が裏の山脈から通りすぎた。

 「お雪といふのはどんな女中でございますの。縹緻のいい子ですか?――」[やぶちゃん注:「縹緻」「きりやう」。「器量」に同じ。]

 「いや、あれとはちがひます。」

 れいの、お雪の話が出たのである。――旅館のあるじは、あのお雪はおしやべりで困る、それに沓掛のカフエにもゐたことがあると言つた。予の哀れは變らなかつた。お雪は白いゆかたを着け、すこしおしろいのある顏で、そして納戶に向いて泣いて居ればいい……さう思つて笑つた。

 餅をたべ茶をのんで、峠を下りはじめた。明るい脚光に浮き出された山中に多い白い蛾が紙きれのやうに片片として舞うてゐた。

 「かへりは少しもこはくはありませんかね。」

 松村さんがさう言つた。坦坦として辷つて行つたからである。

 「乘せてくれんか?」闇の中で、旅館のあるじの知り合ひらしいのが、これも月見のかヘりらしく道端から聲をかけたが、自動車は默つてしづかに辷つて行つた。(十三曰、八十度)

        ×

 昨日、けふ發つことにしておいたが、夕景近くなると名殘り惜しい氣がした。しかし子供のことが氣になつて仕方がなかつた。

 晚食後に疊の上に何か落ちてゐたので、觸つて見ると何かの骨であつた。

 「鯛のほねたたみにひろふ夜さむかなはどうぢや。」

 予はさう言つて澄江堂に示した。

 「なるほど、それはうまい!」

 十一時五十幾分だから夜はゆつくりひまがあつた。松村さん一族がお別れに散步いたしませう、來年までおあひできませんからと言つた。澄江子を加へ五人づれであつた。町の中をひと𢌞りした。

 「ことしは何かさびしいやうですね。」

 と、松村さんが言ふ。全く去年とくらべるとそんな氣がした。踏切りから裏通りの別莊の前通りへ出た。風月を樂しむといふ話が出た。テニスコートの通りへ出ると敎會堂からさんびかが起つてゐた。風は秋の十月くらゐの凉しさであつた。

 「お國に入らつしやるとお年を召すやうな氣がいたしませんか?――」

 松村さんがさう言つた。

 「ええ、それは、そんな氣もしますが……」

 散步から歸ると、遲いから見送りをおことわりした。澄江堂と例の應接間に居殘つた。十一時十分過ぎに車が來てみんなに別れた。(十四日、八十度)

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(日もうらゝかにはれわたる……)

 

 

 

日もうらゝかにしもはれわたる

遠見の空にれうれうと

松のみどりば冴えわたる

惠方萬歲の年はじめ、

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。編者注が三つあり、まず『ノートより。』とし、次に『四行分の上部を』大きな『「{」で圍んである。』とある。更に『本稿には「北原白秋宛書簡」(大正四』(一九一五)『年一月一日發信)に記載されたのと類似する短歌書かれている。』として当該同一巻の短歌を指示している。

 まず、サイドから片付けると、書簡の歳旦の言祝ぎの短歌であるが、

   *

うらうらに俥俥とゆきかへるけふしも年の初節(はつゑ)なるらむ

   *

前掲同巻の「短歌」パートにあるものは、出所を上記白秋宛書簡としながら、何故か、

   *

うらうらに俥俥とゆきかへる

けふしも年の初會(はつゑ)なるらむ

   *

と表記が異なっている。これに先立ち、大正二(一九一三)年十二月一日附『上毛新聞』に載せた「古今新調(こきんしんてう)」十首の中に、類歌として、

   *

    菊(きく)

みちもせに俥俥(くるまくるま)と行(ゆ)きかへる今日(けふ)しも菊(きく)の節會(せちゑ)なるらむ

   *

があり、また草稿ノートに、

   *

うららかに俥俥と行きかへる

けふしも年の初會(はつゑ)なるらむ。

   *

がある。

   *

 さて、詩篇に戻る。本詩篇の草稿詩篇が一つ載る。以下に示す。

   *

 

  

 

うらゝかにしもはれわたる

遠見の山を遠見の家根を空にれうれうと

松のみどりははれわたる

惠方萬歲の年はぢめ

 

   *

なお、この「れうれうと」は歴史的仮名遣からは、「了了(りょうりょう)」しかなく、「対象物が明らかなさま」を言うが、私はどうもそうではないのではないかと疑っている。朔太郎は――元旦の清冽な空気の中に――自然の持つ音楽が――「音の明るく澄んで鳴り響くさま」――として感じている――と読む。その場合、「喨喨」となるが、歴史的仮名「りやうりやう」ではある。しかし、朔太郎の歴史的仮名遣の誤りはかなりひどく、正規表記によって意味を同定比定する根拠には、実はならないのである。大方の御叱正を俟つ。

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(黑塗の光れる俥……)

 

 

 

黑塗の光れる俥には

光る圓頭帽の紳士、

みちもせに、

友禪の振袖きたる若き歌妓など、あまた、

美しく裝ひしたる あまた 歌妓などあまた

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。

 言わずもがなであるが、この「圓頭帽」はトルコ帽で、朔太郎が若き日に好んで被ったそれであって、この「美しく裝ひしたる」「あまた」の「歌妓など」を引き連れた「黑塗の光れる俥に」乗っている「光る圓頭帽の紳士」は、朔太郎自身である。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 生活

 

 生活

 

あづまやに朝のちよこれいとをのみ

せんすゐに舟を浮べ

┏いと高きところに夜光の盃をあぐ

┗音樂のテマを超えて

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。編者注に『ノートより』とある。「┏」「┗」の記号は私が附した。前者と後者が並置残存されてあることを示す。「テマ」は「テーマ」の意であろう。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(わたしは凍え……)

 

 

 

わたしは凍え

かぢかまる

あれこれ雪の山路こゑ

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。歴史的仮名遣の誤りは総てママである。

 編者注があり、『本稿の裏には龜の甲上で、象が山を支えている画が描かれている(本卷口繪參照)。』とある。当該口絵からそれをトリミングして以下に示す。なお、文化庁は平面的に写真に撮られたパブリック・ドメインの絵画作品の写真には著作権は発生しないと規定している。反転した本詩篇の稿も薄っすらと確認出来る。反転・回転をさせて原詩篇が見えるようにしたものも下方に配した。

 

Hebikamezou

Hebikamezouhanten

 

 なお、この図は、全体を外周する蛇(ウロボロスの輪にクリソツだ)及び亀・象が、この世界・宇宙を支えているとする、一般には――古代インドの宇宙観を示す図――として非常によく知られるものであるが、実際にはこれを載せるインドの古文献自体が全く実在せず、研究者によれば、現存最古のこれは一八二二年にドイツで出版された「古代インド人の信仰、知識と芸術」という書の挿絵であるという。参照したツイッター上の印刷物の解説画像では、『一五九九年に書かれた』『インドで布教活動を始めたイエズス会の宣教師』の書簡に、『「ある者達は大地が』七『頭の象に支えられ、その象は亀の上に立ち、その亀が何に支えらてるかは知らない」』と揶揄している。「時代遅れの異教徒」への偏見が混じっている』とあり、私も永く信じていたが、そうした多分に軽蔑的な意図ででっち上げられた面白おかしいトンデモ本的な図であるらしい。個人サイトの「宇宙論の歴史」の「インドの亀蛇宇宙図」(当該図と解説も有り)にも参考文献を掲げて、『本図のようなイメージは、インドの伝承に由来するものではない可能性が高いとのことで』あるとある。]

2022/03/15

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(そのありさまをみてあれば……)

 

 

 

1そのありさまをみてあれば

2み空に雪ふり

3木々には光るスダレをかけまた柱をかけ

魚のしづめる

つみびとの額に霰ふりいで

生物のうへに水なかれ

そのしろがねたゝく音を冴え

4み空 めぢのかぎりをはるかにばるにあきなるものあらはれぬ、

5つみびとの手はあらはれぬ

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記・歴史的仮名遣の誤り・誤字・削除に至るまで、総てママである。15のアラビア数字も朔太郎自身が振ったものである。

 編者注があり、『本稿は『蝶を夢む』草稿詩篇の「懺悔」と同じ用紙に書かれている』とある。それは既に『萩原朔太郞詩集「蝶を夢む」正規表現版 懺悔』の私の注で電子化してあるので参照されたいが、上に引いた編者注は不適切で、詩集「蝶を夢む」の「懺悔」の草稿詩篇は三種が残るが、リンク先のそれは二篇とも無題であり、活字化されていない別稿には題名を「罪人姿」とし、題名を「懺悔」とする草稿詩篇は存在しない。

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(心靈意識のための絕息する手淫がある……)

 

 

 

心靈意識のための絕息する手淫がある

眩惑する妖姬の歡待がある、

而して此の種の風月賀宴はその性質上驚くべき秘密性犯罪を堕胎する。

 

見ろ、彼はまつ靑(さを)になつて震へて居る。

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記・歴史的仮名遣の誤り・誤字・脱字・削除に至るまで、総てママである。

 なお、同全集の『草稿詩篇「未發表詩篇」』には本篇の草稿(無題)が載る。以下に示す。誤字・句読点の有無及び削除は総てママである。

   *

 

  

 

心靈意識のための絕息する手淫がある

眩惑する妖姬の歡待がある、

芳香無比の LIQUEUR がある。

而して此の種の風月賀宴に於ても時間と空間は存在する。然も何人も之れを智惻推斷することは出來ない。[やぶちゃん注:編者は「惻」を「測」の誤字とする。]

 

肉より出でゝ靈に及ぶところの淫樂は人と人との淫樂である、内至、魔樂の及ぼすところの樂欲であるかくの如きものを人は知る。[やぶちゃん注:編者は「内至」を「乃至」の、「魔樂」を「魔藥」の誤字とし、「樂欲である」の後に句点を打っている。]

 

   *]

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(よるに至りて哀しきことあり、……)

 

 

 

よるに至りて哀しきことあり、

よるに至りて

われのくちびるよりしてしたゝるところの

またかれつくしたる菊のくちよりしてしたゝる血

 

しきりに思をよするにより

菊を喰

ああ

うしなへる貨幣のごときもの

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。表記・歴史的仮名遣の誤り・誤字・脱字・削除に至るまで、総てママである。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(散りすぎし山茶花の……)

 

 

 

散りすぎし山茶花の

あはれを庭のおもてにとどめ

ひのきの木梢こなゆきふり

そのときはなすみどりをくむ

むかしよりして

植込の小路けぶり

せんすゐの金魚こゞえて

いま萩原家庭園の霜がれに入る、

 

[やぶちゃん注:底本は筑摩版「萩原朔太郞全集」第三巻の「未發表詩篇」の校訂本文の下に示された、当該原稿の原形に基づいて電子化した。「木梢」はママ。

 なお、同全集の『草稿詩篇「未發表詩篇」』には本篇の草稿(標題は「松葉」)が載る。以下に示す。歴史的仮名遣の誤りや誤字は総てママである。

   *

 

  松葉

 

光る木梢に手を ぬらし そへて

ゆきふるまへに

 

こなゆきふらば

ちりすぎしさゞんかの

あはれを庭のおもてにとめ

ひのきの木末こなゆきふる

そのときはなすみどりをくむ

木立をすぎ

あはれ ゆくゆく敷石の

つたはふ植込に

ひとゝせの

むかしよりして

ちちうへ愛玩のひのきなり

哀しくおとろへはて淚さしぐみ手にくめば

みよ想ふかく□□いろに

植込の小路をすぎけぶり

せんすゐ金魚こゞえて

いまはや萩原家庭園の霜がれに入る、

 

   *

編者注があり、『二行目のあとの空きの箇所に、題名のように「ひのき」と記されている。』とある。]

萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(わたしどもの風俗は……)

 

 

 

わたしどもの旅は 衣裝は風俗は

はてしなく 長く すばらしく新らしい話題にみちてゐた

かがやかしい髮の毛のために らしく 奇にさへもみえた新奇に見られた、であつた、

ああ、いまは都にちかづいた

風はにほつた

空氣はかがいた[やぶちゃん注:編者は「かがやいた」の脱字とする。]

空はまつさをに光つてゐた

地上には聖

みよ

そうしていまは聖 都にちかづ いた

そうして ああ みよいま都會はわたしどもの前に ひるがへつた 立つてゐた

この日々に旅のおわるの日に

わたしどもは聖都へきたをみた

ああはれずきた靑空のまつした

聖なる大建築の家根が高くひるがへつた、てゐた、

やさしくそうして神聖なる神樣の姿であつた

づかにめやかに鈴をならふりながら鳴らしながら

あわれあれめあれ、 あれをば見しやめしやよ

みくみづひとびとのきこえたささやいた

ゆくゆく鳥のとびすぎるのをみて

わたしは

憂鬱のひるすぎごろ

わたしは手をあげてさしばして

信心深い巡禮の 心から

くだものゝの上の大きな丸いくだものをもぎとつた とつてとり

くだものの しつぽりと喉いつぱいに汁をす りながら つたひこんだ

そうしてわたしどもの巡禮は

そうしてまた巡禮の列に追ひついたのである、

あゝけだしわたしども謹けんであり敬虔にして信心ぶかく

いはんや勇氣にみちあふれきつてゐる、

よるに祈ると言葉