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2022/03/03

筑摩書房「萩原朔太郞全集」(初版)「散文詩・詩的散文」初出形 正規表現版 感傷詩論

 

 感傷詩論

 

感傷至極なれば身心共に白熱す、電光を呼び、帷幕を八裂するも容易なり。[やぶちゃん注:「白熱」の「熱」は初出では異体字のこれ(「グリフウィキ」)であるが、表示出来ないので、「熱」に変えてある。]

 

天使も時に哀しめども蛇は地上に這ひて泣かず、感傷の人は恒に地に立ちて淚をのむ。

 

感傷必ずしも哀傷にあらず、憤怒も歡喜もその極に達すれば淚ながる、然れども淚なきものは感傷にあらず。

 

感傷なき藝術は光なき晶玉の如し、實質あれども感動なし。

 

女人に感傷なし、然れども感傷の良電體。

 

ひとびとよ、美しきひとびとよ、つねに君はせんちめんたるなれ。[やぶちゃん注:太字は底本では傍点「﹅」(今まで雨だれの傍点を「ヽ」としてきたが、向後はこれを用いることとする)。以下同じ。]

 

昔より言ふごとく死人は白玉樓中にあり。

 

感傷至上の三昧は冷朧たり、萬有にリズムを感じ、魚鳥も屛息し、金銀慟哭す。[やぶちゃん注:「冷朧」はママ。「玲瓏」の誤字か誤植。「屛息」は「へいそく」と読み、この場合の「屛」は「閉じて外に出さない・隠し納める」の意で、「息を殺すこと・凝っと静かにすること」或いは「怖れて縮こまること」を言うここは前者でよい。]

 

純銀感傷の人室生犀星。

 

感傷の人犀星に逢へば菓子も憔悴す。

 

感傷は理智を拒まず、卻つて必然に之を抱擁す、

感傷とは痴愚の謂にあらず、自覺せざる哲理なり、前提を忘れたる結論なり。而して藝術と科學との相違は單に此の一點に存す。

 

耶蘇の素足は砂にまみれ、その手は奇蹟を生み、その言葉は感傷に震へたり。彼の說くところは道理にあらずして信仰なりき、慨念にあらずして祈禱なりき。然もたれか聖書に哲學なしと言ひ得るものぞ。

理智が感情と並行し、或は之を超越せる塲合に於ては祈禱あることなし。ただ感情が理智を慴伏する刹那にのみ咏嘆と祈禱はあり。[やぶちゃん注:「慨念」ママ。「槪念」の誤字「慴伏」(せふふく(しょうふく))は勢いや力に怖れて屈伏・服従すること。「懾服・懾伏・讋服」とも書く。]

 

祈禱とは奇蹟を希願ふの言葉、而して詩は地上の奇蹟。

 

淚の甘くして混濁せるものを咏嘆と呼び、淚の苦くして透純せるものを感傷と呼ぶ。

 

咏嘆もまた幼年期の感傷と言ふを得べし、而して短歌の生命は咏嘆を出でず、格調に捉はるれば也。

 

感傷が白熱するとき言葉は象徵の形式を生ぶ、

あらゆる藝術の至上形式は象徵にあり

然りと雖も形式は結果にして目的にあらず、象徵のための象徵の如きは必竟藝術上の遊戯にあらずして何ぞや。[やぶちゃん注:「白熱」の「熱」は第一連の注に同じ。「生ぶ」はママ。底本校訂本文は「帶ぶ」とする。穏当であろう。]

 

象徵とは必ずしも不徹底乃至(ないし)朦朧を意味するものにあらず、ロダンの藝術が如何に鮮明なる輪𤲿を有するかを想へ、ゴツホの藝術が如何に强烈なる色彩を有するかを想へ。然もたれか彼等に象徵なしと言ふものぞ。[やぶちゃん注:「輪𤲿」はママ。「𤲿」は「畫(画)」の異体字であるからして意味は分かるが、「輪郭・輪廓」を、こう書いたものを私は見たことがない。校訂本文は「輪廓」とする。]

 

刷毛を以てある種の𤲿面を洗ふは象徵の一手段なり、然れども全般の手段にあらず。象徵の意義をしかく漂渺模糊たる境致にのみ限らんとするは甚だしき偏見なりと言はざるべからず。煙と霧とを描くことをもて我の藝術なりと言ふはよし、然れども太陽の象徵を𤲿くものを目して異端となすは甚だ良ろしからず。斯くの如き形式のものは象徵なり、斯くの如き形式のものは象徵にあらずと言ふは愈々不可なり、恐らくは象徵詩をして遊戯に墮落せしめん。詩の生命は形式にあらずしてリズムにあれば也。[やぶちゃん注:「漂渺」校訂本文は否応なしに「縹渺」と書き変えてしまっている。辞書にちゃんと「漂渺」が立項されているのにである。私は全く従えない。「愈々」校訂本文はこれを「愈」と書き変えてしまっている。呆れてものも言えぬ。]

 

藝術上の遊戲とは必然性なき創作を言ふ

生活を𤲿くもの必ずしも眞實にあらず花鳥風月を唄ふもの必ずしも遊べるにあらず、[やぶちゃん注:太字下線部は底本では傍点「﹆」。「遊べるにあらず、」の読点はママ。]

 

賭博(とばく)は社會觀念より遊戯と目さるゝも賭博者自身は遊戯を行へるにあらず、彼は一心不亂なり、時に生命(いのち)がけなり、此の塲合に於ては賭博もまた靈性を有す。

 

怠惰なる農夫にとりては耕作も遊戯なり、

所謂、遊戯は眞の生活にして、所謂、生活は多くの塲合に遊戯なり。

遊戯の眞實、生活の虛僞を想へ。

遊戯を愛せざる且つ知らざるものに眞の生活あることなし、遊戯とは生命意識の具象化されたる躍動なり

あらゆる遊戯を淺辱したる昔時の日本人の生活を想へ。眞に生くるものは貴族にして賤民にあらず、賤民に遊戯なる生活なし。[やぶちゃん注:「淺辱」はママ。校訂本文は「賤辱」とする。まあ、穏当。「卑しんで馬鹿にすること」である。私はこの朔太郎の浅薄な、プチブル的非論理的で饐えた仮象の生活観・遊戯観には呆れ果てる。]

 

西洋人の思想を受賣りするより外に能なき衒學屋と流行屋を葬れ、[やぶちゃん注:文末読点はママ。]

 

乞食をしても葉卷煙草を吸ふ者は室生犀星一人のみ。眞に彼は賤民貴族の公爵なる哉。[やぶちゃん注:本連は初出形も校訂本文も一行目が文末で第一文が句点で終わっており、以下の第二文が改行されたものであるかどうか、判読が不能である。私は連結したものとして採った。可能性としては初出を見る以外に明らかにしようがないだろう。]

 

詩は斷じて空想に非ず、實驗の世界なり。

 

奇蹟は感動にして形體に非ず、天國を說かんとするものは必ずその口を緘せらる。此の故に詩人の武器は言葉に非ずして傳熱なり。抽象にあらずして象徵なり。[やぶちゃん注:「傳熱」の「熱」は第一連の注に同じ。]

 

いやしくも理智又は意志がその慨念を展開したる祈禱は虛僞なり、かくの如き祈禱には感能あることなし。眞(まこと)に祈禱するものは一所懸命なり、祈禱者はその心靈に於て明らかに神と交歡す、彼自ら何を言ひ何を語りつゝあるかを知らざる也。[やぶちゃん注:「慨念」はママ。同前。]

 

奇蹟を啓示するものは神なり、神とは宇宙の大精力なり、而して之と交歡し得るもの人間の感傷以外にあること無し。

 

幼兒と聖人は神に聽かれんために祈禱し、衒學者及び說敎者は傍人に聽かれんために祈禱す。

前者の祈禱は『詩』なり、その最も單純なるものと雖も尙『詩』といふを得べし。後者の祈禱に至りては『演說』にして詩に非ず、その最も幽邃深玄を極むる者と雖も尙詩形を借りたる論文に外ならず。而して祈禱に慨念あることなし。[やぶちゃん注:「慨念」はママ。同前。]

 

西洋人は眞に詩を理解する人種にあらず、彼等の感傷はあまりに混濁す、その最も透純なる者と雖も尙芭蕉に及ばず北原白秋に遠く及ばず。

 

詩とは『光』なり光體にもあらず、[やぶちゃん注:文末読点はママ。]

 

幼兒の眞實を嘲笑するものは必ず衒學の徒なり、

萬葉集の咏嘆は單純なれども千載の後その光を失ふことなし。幼年期の哲理は後に必ず嘲笑さるる秋あるも幼年期の眞實は永劫にその光を失ふことなし。[やぶちゃん注:「秋」は「とき」と訓じていよう。]

 

最も貧弱なる『光』も尙最も巨大なる『物體』にまされり、萬葉の戀歌一首はソクラテスの敎理よりも刧久なる生命を有す。[やぶちゃん注:「刧久」の「刧」は「劫」の異体字。]

 

『光』は感傷に發す、眞實の核を磨くことにより。

 

足は天地に垂降するの足、

手は地上に泳ぎて天上の泉をくむの手、

諸君、肉身に供養せよ、

諸君、おん手をして泥土にけがさしむる勿れ、詩人をして賤民の豚と丈接せしむる勿れ、生活に淫する勿れ、手をして恒に高く頭上に輝やかしめ、肉身をして氷山の頂上に舞ひあがらしめよ、

あゝ、香料もて夕餐の卓を薰郁せしめよ。[やぶちゃん注:「丈接」はママ。校訂本文は「交接」と訂する。穏当である。「薰郁」(くんいく)は「芳しいこと・香りが良いこと」。]

 

感傷奇蹟、絕倒せんとして視えざる氷をやぶり、疾行する狼を殺す、畜生の如きも金屬なれば閃電を怖るゝ事もつとも烈し、詩人よ汝の手を磨け。

 

感傷の權威を認めざるものは始めより詩を作らざるに如かず。       ――人魚詩社宣言――

 

[やぶちゃん注:大正三(一九一四)年十二月号『詩歌』に発表された。底本の『草稿詩篇「拾遺詩篇」』に以下の無題の草稿断片が載る。

   *

 

  ○

 

煉獄の夜にのむハツシユの幻惑[やぶちゃん注:「ハツシユ」所謂、大麻製剤の「Hashish」(音写は「ハシシ」「ハッシッシ」「ハシッシュ」「ハシッシュ」「ハシシュ」等がある)のこと。]

 

ふるへる手、いたむ指、したゝる血、らうまぢずむの疾患、これらの風景の倒影空に光る、[やぶちゃん注:「らうまぢずむ」朔太郎は好んで使う「らうまちずむ」(=リューマチ)の誤記。]

 

純銀感傷の人、室生犀星

 

感傷の人にあへば菓子も憔悴す。

 

美とは貴族の荒淫にありだ。西洋菓子の嗅覺にありだ。

  

 

   *

後に底本編者注があり、『本稿は未發表詩篇「(屍體を汚すの邪淫……)」とも関連がある。』とある。それも以下に示す。無題である。誤字や句読点(無しも含む)はママ。

   *

 

 ○

 

屍體を姦する汚すの邪淫、煉獄の中で夜にのむハツシュの幻惑

美とは音樂異人の奏する音樂だ、

 

美とは責族の荒淫だ、西洋菓子の嗅觸だ、[やぶちゃん注:「嗅觸」聴いたことがない熟語である。朔太郎の造語であろう。「嗅」いだ感じと「觸」れた感触の謂いであろう。後に編者注があり、やはり不審に思ったのであろう、校訂本文もそのまま写しながら、『「嗅觸」は原文のまま』とある。]

 

「光」の發作だけが自分である我々の「現實」である、

その外の我は「夢」である、

闇夜の巡禮がきいたセレノクチユールネ、[やぶちゃん注:「ノクチユールネ」夜想曲。フランス語の「ノクチュルヌ」(nocturne)の誤転写。]

 

自分に夢がない、自分に現實がない、

自分の感傷が自分以外の世界をみせるに光をみせるだけ、

光の中に「時」の砂時計 が遲刻する遲刻をきくことが出來る、[やぶちゃん注:校訂本文の「光の中に「時」の砂時計の漏刻をきくことが出來る」が穏当。]

 

遠ければ遠い程自分に近い影は世界のどこかに居る、きのふ發見したものは未來永遠にかへらないの自分である、今日の自分はない、

 

自分が戀をするときには自分の心臓は戀をすることによつて靑く燃えて、烈しければ烈しい程靑く燃える

 

ふるへる手、いたむ指、

美しい女の屍體はいつも遠い世界の病院にある、

 

   *]

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