曲亭馬琴「兎園小説別集」中巻 「けんどん」爭ひ (その4) 瀧澤氏勸解回語・寫本「洞房語園」卷三 / 「けんどん」爭ひ~了
○瀧澤氏勸解回語
『「けんどん」考勸解』の一通、遯辭謙退、なかなかに當り難くこそ侍れ、足下、亦復、論辨の趣意なければ、予も亦、この勸解にかきて、いさゝかも、いふべきにあらず。そが中に、『「けんどん」を「慳貪」也』とせし事は、寫本「洞房語園」・「北女閭紀原」・「人倫訓蒙圖彙」・「世事談綺」等により給ひしよしなれど、寫本「洞房語圖」は享保五年[やぶちゃん注:一七二〇年。]の撰にて、「大名けんどん」の廢せし後より、いへる事なれば、既に、あやまり傳へし也。况、「語園」より後のものをや。但、「人倫訓蒙圖彙」は、元祿中の風俗諸商賈の畫圖を書集めたるものなれども、こは京師にて撰述せし俗書にて、蒔繪師源三郞とかいふものゝ筆に成れるものなれば、江戶の事は謬傳る[やぶちゃん注:「あやまりつたふる」。]事、多かり。當時、京・攝の册子に、江戶の事をかけるには、あやまりも粗[やぶちゃん注:「ほぼ」。]あるよしは、曩に[やぶちゃん注:「さきに」。]いへるが如し。かゝれば、只、顯にこれらを信用し給ひしは、千慮の一失なるべし。又、「子」といふことは、尊稱のよしにて、「論語義疏」幷に「二程全書」[やぶちゃん注:北宋の程顥(ていこう)・程頤(ていい)兄弟の文集・語録・著述などを集大成したもの。宋学の先駆となる著作集で全六十八巻。明の徐必達の校訂に成り、一六〇六年に刊行された。]なる、程子の言を引て敎訓せらる。予は淺學なれども、かばかりの事は、知れり。いにしへ、唐山姬周[やぶちゃん注:「唐山」は「唐土」に同じ。「姬」(き)は周王朝の王の姓。]の時、「子」は五等の爵也。又、「子」は男子の惣稱ともいへり。當時は弟子、その師を尊稱して「子」とする、勿論也。しかれども、當時、「師」も亦、弟子を「子」と稱する事あり。孔子の「吾」にあらず、『彼二、三子也。』[やぶちゃん注:「彼(か)の二、三子(し)なり。」。]などいふ「子」は、孔子の爲には「孫弟子」なる、顏淵が弟子をさしていふにあらずや。此他、『小子、識ㇾ之。』などもいへり。此故に墨氏[やぶちゃん注:底吉川弘文館随筆大成版には『(マヽ)』注が有る。]・列子の徒に至ては、其師を推尊て[やぶちゃん注:「おしたつとびて」。]「子墨子」・「子列子」など、上下に「子」を置て稱したり。これ、孔子、世を去し後には、「子」とのみ稱することの、輕きかたになる故と、しられたり。孔子の時といへ共、師弟の問對[やぶちゃん注:「もんつい」。応答。]には「夫子」と稱せり。「夫子」の辨は「朱子」の語中にあり。足下のしれる所なれば、いはず。そは、とまれかくまれ、予が曩編[やぶちゃん注:嘗ての文書。]に足下を「先生」と稱せしに、足下は予をさして、「子」といはれしことをいふくだりに、『今の禮節をもて見れば、さながら、師弟の如し』云々と、いへり。此、「今の禮節」といふ「今」の字、則、字眼なるを、よくも見られずや。「今」の字に、こゝろありと、見られなば、遠き姬周の時、孔子の「子」を引くも、要、なし。譬へば、「殿」と云事は、「關白殿下」をまうしゝ尊稱なれども、後世に「樣」と云稱呼の行れしによりて、「殿」といへば、「樣」と云より、いたく貶したる事のやうに聞ゆるがごとし。「子」を稱する事は、古へは、尊稱なれ共、今は尊稱にあらず。同輩朋友の間に相對せずして、物にかくには「某子」と稱すれども、往來の尺牘[やぶちゃん注:「せきとく」。書簡。]も「子」と稱せば、誰かは貶せりと思はざるべき。よりて、予は足下を「先生」と稱せしに、足下は予を「子」と稱したり。今の禮節をもて見れば、『師弟の如し』と、いへる也。さればとて、これを非禮として足下を咎るにあらず。かばかりの用心だに足下に知られざるは、吾、菲薄[やぶちゃん注:「ひはく」。才能の乏しいこと。]の故なり。身を責て、歎息せしまで也。又、我に、『足下、予を稱して「老兄」といはれしを』云々といひしにより、忌嫌ふやうに思はれしは、愚意と、たがへり。古人も「十年肩すぐれは、兄とし、從ふ。」といへり。大抵、弟をもて稱する事は、同年輩のうへにあるべし。又、壯弱の人を「老」と稱するは、其才德の老人のごとく也とたゝゆるの意なれば、論、なし。又、われより年は弟なれども、書を見ること、われより博く、其才の、わが下にあらぬを稱して、「兄」といふ事は、論、なし。しかるを、五十、六十の老人は、みづからも「愚老」と稱すれば、「老」は、俗に云「あたりまへ」也。己より、年齡の二十餘も、三十も、劣りたるものゝ爲には、「兄」といはるゝも「あたりまへ」にて、たうとまるゝことゝは覺えず。さればこそ、禮にも、『長者前、不ㇾ稱ㇾ老。』といへるにあらずや。されば、これらの意味にも、唐山の古しへには、さまざまのわけあるべけれども、只今、俗文の手簡には、却て馬鹿にされるやうにおもふもの、あらん。「『足下の博識高才もて、かばかりの事に心づき給はぬにや』とおもひしかば、いひにくきことなるを」云々といひし事、萬、みな、朋友の信より出たる諷諫の徵言也けり。いと憚あることなれども、足下の癖として、動も[やぶちゃん注:「ややも」。]すれば、席上にて、人をやりこむる事、しばしば也。足下は、心づかずや、いふらん、予も兩三度、やりこめられしことあり。しかれども、予は、爭ひを好まず。いふべきこと辨ずべきことありても、さやうの時には、閉口してをりし故、足下は、心づき給はぬならん。もし、足下の博識もて、謙退を旨とし給はゞ、才德兼備の君子ならんと思ひつゝ、足下を愛する心から、人は得いはぬことまでを、いひし也。かくて、今、「勸解」の篇のみならず、近頃、足下の動靜、云爲[やぶちゃん注:「いひなす」。]に心をつけて見れば、去冬より當春の北峰子[やぶちゃん注:美成の号。]にあらず、一段の光耀をまし給ひしを竊に歡び思ふのみ。愚者にも、一得、有り。賢者も、一失、なからんや。過[やぶちゃん注:「あやまち」。]を改る事は、君子のおそるゝ所なり。足下、元より、あやまちあるにはあるべからざれど、予がひが目には、しか、おもひしなり。すべて、足下の、說を辨ぜしことは、諷諫の微意のみ。さらばとて、よき說をも、わろしといふ事は、絕て、なし。予は人の說のよきを聞けば、よろこびて、いねられず、人にも告しらせ、物にもしるす事、むかしより、今、猶、しかり。一言一句たりとも、人の說を、わが說のやうに書あらはすことは、予がふかく耻る所なり。又、過あれば、怠狀を出すも耻とは思はず。孔聖すら、其過あるを、人の告るものあれば、『丘也、幸』云々と宣へり。俗客の「あやまり證文」と學者の怠狀とは、その差、徑庭あり。わがあやまりあらんには、足下に諫められんことを、ねがふのみ。斯のごとくならば、實に「忘形の友」といふべし。あなかしこ。[やぶちゃん注:「忘形の友」「地位や能力などを問題にしない隔てなき盟友」の意。]
○
寫本「洞房語園」卷三[やぶちゃん注:前回、私が注で電子化したものと、必ず、対照されたい。]
媗鈍[やぶちゃん注:「媗」はママ。吉川弘文館随筆大成版も同じ。]、寬文二年寅秋中より、吉原に始て出來たる名也。往來の人をよぶ聲、媗しく、局女郞[やぶちゃん注:「つぼねぢよらう」。]より、遙におとりて、鈍く見ゆるとて、「媗鈍」と云せたり[やぶちゃん注:「いはせたり」。]。
[やぶちゃん注:以下、最後まで、底本では全体が]二字下げ。]
按るに、「北女閭紀原」云、其頃、江戶町二丁目に仁右衞門と云ふ者云々、一人前の辨當をこしらへ、そば切を仕込て、銀目五分づゝにうり、端[やぶちゃん注:「はした」。]けいせいの下直[やぶちゃん注:「げぢき」。]なるになぞらへ、「けんどんそば」と名付しより、世間にひろまる。又、云[やぶちゃん注:「いはく」。]、「媗鈍」、本說のごとくなるべし。しかし、昔より、世に「けんどんなる人」などゝいふは、慳貪とつゞけ書たる文字にて、愛・仁なき人の上を、いふ。さあらば、端女郞の呼聲、とかく、愛なきさまゆへに云出たることもあるべし、と、いへり。今に、これによりて、おもへば、「けんどん」の名の起りは「語園」をもて、證すべし。その名義は「北女閭紀原」の愛なきといふ說、是なり。此二書をもて、先に、餘が、いひし言の、妄ならざるを、證するに足れり、とや、いわん。
[やぶちゃん注:結局のところ、馬琴は「けんどん」の名義で争うことに学術的風俗史的意義を見出したのでは、さらさらなく、単に山崎美成の、目上の識者をこき下ろす許し難い増長慢に、遂に、堪忍袋が切れた、というだけのことであることが判る。要は、傍観者として冷静に見れば、馬琴も美成も文字通り「慳貪」の極みであることも判るのである。]
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