曲亭馬琴「兎園小説別集」中巻 「けんどん」爭ひ 始動 (その1)「けんどん」名義・瀧澤氏批考・山崎「けんどん」批考問辨
[やぶちゃん注:「兎園会」最大の事件を引き起こすもととなった『「けんどん」爭ひ』の電子化に入る。「耽奇会」(古書画・珍物奇物の品評会。「耽奇会」は文政七(一八二四) 年五月から文政八(一八二五)年十一月まで、毎月一回、文政七年の閏八月を含め、合計二十回開催された)の方で、亀屋文宝堂が実物を持ち込み、文政八年三月十三日に発表したもの(上欄の解説は「北峰」とある通り、これは文宝堂ではなく、中心メンバーの一人であった随筆家で雑学者の山崎美成(よししげ 寛政八(一七九六)年~安政三(一八五六)年)の別号で、彼の記したものである)から始まった一大論争で、その皮切りは本篇冒頭にも再録されているが、「耽奇漫録」第十二集に所収するのを是非見られたい。国立国会図書館デジタルコレクションのオール・カラーの美しい「大名慳貪」の絵二枚も示されているからである。ここと、ここである。この「けんどん」というのは、前のリンク先の画像で判る通り、「倹飩箱(けんどんばこ)」(盛り切りで売るうどん・そば・飯・酒などを江戸時代に「けんどん」と称したが、その倹飩饂飩や蕎麦など、一杯盛りの食品を入れて運ぶ箱を言い、上下又は左右に溝を切って、蓋の嵌め外しが出来る)に、汁次(しるつぎ)や、薬味箱なども一緒に収めたものを「けんどん提重(さげじゅう)」「忍(しのび)けんどん」と称したが、これに種々の蒔絵を施した豪華なものを「大名けんどん」と呼んだ。ところが、この「けんどん」或いは「大名けんどん」という名義の由来・用法を巡って、続く「耽奇会」席上で「大名慳貪」の「大名」の名義をどう解するべきかという山崎による問いかけがあった(本篇参照)。これについて、美成が名義考証の継続を言上げをし、御大瀧澤馬琴が自身の考証を示したところ、例によって若い山崎がその内容に嚙みつき、強烈に対立する反駁論争へと発展してしまい、この通称「慳貪争ひ」が致命的に拗(こじ)れ、孰れも譲らず(二人とも心が慳貪だぁねぇ!)、両者は遂に絶交するに至ってしまったのである。二十九年上の馬琴が先に死ぬが、終生、絶交は続いた。
また、冒頭注で述べたが、中巻は底本が変わって、
国立国会図書館デジタルコレクションの「新燕石十種」第一のここから
となるので、注意されたい。
以下の冒頭の総標題とクレジットは吉川弘文館随筆大成版のものを元にした。各立項部は前を一字空けた。なお、「饂飩」(うどん)の「饂」は底本では(つくり)が「昷」であるが、表示出来ないので「饂」とした。]
兎園小說別集 中卷
慳 貪 爭 ひ
○けんどん名義
文政八年乙酉三月十三日「耽奇會」
大名樫貪之匣【圖載二于「漫錄」中後篇第二一。】。文寶堂、携。
「慳貪蕎麥」、また、俗に「大名慳貪」ともいへり。そも、「大名」と呼し由は、諸候がたの船を、かずかず、繪がけるをもて也けり。此後、世に憚りて、あだしくさぐさの繪樣をゑがきても、猶、その名は殘りし也。今、こゝに戴するもの、船をゑがけるは、「大名」とよべる稱への起原をも見るべく、いとおもしろく、又、類ひあるまじきもの也。おもふに「寸錦雜綴」に蕎麥器あり。「野乃舍隨筆」に、折敷をのせたり。此會、已に寫山樓珍藏の汁子(しるつき)を錄せり。今、文寶堂の此器を併せ見る時は、當時、「けんどん」の器のその全きをしるに足れり。
再案に、「寸錦雜綴」に、今の「灰水抜」のたぐひにや。孔、方一錢目にかゆるといへり。 北 峰 記
[やぶちゃん注:底本では以上の最後の「再案に、」から「北峰記」の署名までは全体が一字下げである。
「文政八年乙酉」一八二五年。
「あだし」「変わり易い」で、「絵柄は流行の流行り廃りがあって変化し」の意であろう。
「寸錦雜綴」医者・蘭学者にして戯作者でもあった森島中良(ちゅうりょう 宝暦六(一七五六)年?~文化七(一八一〇)年)の随筆。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちら(PDF一括版)の34コマ目で絵図とともに視認出来る。右と左上のキャプションを判読し、電子化しておく(他に図には各部のサイズが示されてある)。
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可漏麪噐(ソバノハコ) 一名「大明慳貪(ケンドン)」
今もふるき可漏麪(ソバヤ)には持使ふよし。
此筥の中に簾(ス)を敷き、漏麪(ソバ)ヲ
かふとなり。
案に、その灰水抜(あくぬき)のたくひにや。
孔方(ゼニ)一錢目(ヒヤクモン)にてかふよし。
*
四方、如圖
描金(マキヱ)あり。
内、朱塗。
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「野乃舍隨筆」国学者大石千引(ちびき 明和七(一七七〇)年~天保五(一八三四)年)の随筆。「国文学研究資料館」のオープン・データで、「折敷」(をしき)は、ここに豪華なその図が、前のページ末に解説がある。
「此會、已に寫山樓珍藏の汁子(しるつき)を錄せり」「耽奇漫録」のここに見つけた。]
右は「漫錄」中、「けんどん」の器の圖上に、予が題する所にして、本日、席上にて、「諸君に『大名』の名義は、いかに解し給ヘる。」といひしに、梭江ぬしの、「兼て、『大名もくふべきほど美味なり』と云ふ意なるよし、聞給ふ。」と、いはれしのみにて、誰、何と云こともなかりければ、右の說を、予、いひしに、俊江ぬしの、いとよろこび給ひて、「大名の義、初めて發明せり。」とぞ、のたまひし。さて、又、輪池翁の、「『けんどん』と云名義はいかに。』と問はれしかば、「『けんどん』は『樫貪』の意にて、もり切にて、あきなふ故に、そのあつかい[やぶちゃん注:ママ。]の慳貪なり、といふよしにて、しか名づけし也。『けんどん奈良ちや』、『けんどん野良』等の名あり。」と答へしに、翁、頭をて、「否しからず。ある書に『見頓』とかける、是なり。『頓』は『食』の義にて、『行がゝりに調ひ食する』よしの名也。」と、の給へりしが、予、猶、その意を論辨せんことをおもひたれども、暗記の失あらんも謀りがたく、默して、止みぬ。その「漫錄」の巡廻せし時、曲亭、かの「けんどん名義」を論じて附られし。 北峰逸人美成記
[やぶちゃん注:「梭江」西原梭江(さこう)。本名好和。柳川藩留守居。号は松羅館で本「兎園小説」でもお馴染み。驕奢遊蕩を尽くし、幕府から、風聞宜しからずして国元蟄居の譴責処分を受けて江戸を去った。
「輪池翁」屋代弘賢。]
○瀧澤氏批考
「大名けんどん」は蕎麥切[やぶちゃん注:「そばぎり」。]のみならで、多くは饂飩なりしにや、とおもふよしあり。亡友醒々、年ごろ、「大名けんどん」のうつはものを秘藏して、印箱にしけるあり。そのうつは物は、今の世、店屋にて饂飩をもる物に似たり。醒々歿後、京山へ傳へて、今もかの家にあるべし。さて又、「けんどん」、「樫貪」なるよし、又、「見頓」なる由、さきの夜、兩先醒の異說をかたへ聞する[やぶちゃん注:「かたへぎきする」。傍らで親しく聞くこと。]ことを得たり。退てひそかに思ふに、當時、「あきなひざまの慳貪なり」とて、買人は、さ、いふとも、賣る人の、しか唱ふべくも、あらず。又、麪類ならでも、食物に「けんどん」の名を負せしは、當時「けんどん」の流行に從ひしものにて、餠まれ、菓子まれ、蕎麥・うどんのごとく、箱に入れて、所々持出せしを「けんどん」といひし也。又、「見頓」と物に書たるは、そは記者の心よりえらみ出せし文字にはあらずや。なべて、しか書たらんとも定めがたしも、坊間[やぶちゃん注:街中。]の書物に「頓」の字の義などをよく穿鑿して、唱はじむべくもあらねば也。しからば、「けんどん」は、むかしも今も「卷鈍」なるを、物には「慳貪」とも、又、「見頓」とも書たるにはあらぬか。雅俗の用心、今はたかゝること、多かり。されば、「卷飩」は、「箱」によりての名にして、「大名」は名によりて、箱に畫きしものなるべし。予が總角[やぶちゃん注:「あげまき」。少年期。]なりし頃までは、蕎麥屋の障子に、「けんどん」と書たるもありしを見たり。「けんどん」は、「箱に入て所々へ指出す」の義にて、見世賣のみなるを「手打」といひしに、今は、なべて、もち出す事になりぬ。さて、「卷飩」といふよしは、およそ麪類屋にて所々へ持出すうどん・蕎麥切の箱は、其かたち、本箱に似たり。よつて書卷の「卷」の字をかけて「卷飩」といひし也。今も「蕎麥・うんどんのぶつかけ」云ものに、乾海苔[やぶちゃん注:「ほしのり」。]をふりかけたるを、「花まき」といふ。此「卷」の字も、「卷飩」の爲なるべし。且、むかしは、そば切より、うどんを好むもの、多かり。予がをさなき頃迄も、店屋より麪類を取よする時は、必、「饂飩かそば歟。」と、その人々の好みか問れしに、今は饂飩をこのむものゝ稀なれば、さることも、なくなりぬ。「どうけ百人一首」といふものに、「あし引の山屋のうどん汁もよしながながしきをひとりすゝらん」と、よめり。これ、昔は、饂飩屋にて、蕎麥をかね、ひさぎし、といふ一老人の話なり。かゝれば、『「大名けんどん」も饂飩を旨とせしにや』と、おもふなり。抑、此あげつらひは、『三聖の醋を嘗たり』といふ譬には似るべくもあらざめれど、わきてえうなきくさはひも、「耽奇」の上にはゆるすべきか、とばかりにして、二百歲の翁にあふてたゞさずば、誰か、よく、この當否を定めん。果は[やぶちゃん注:「はては」。]諸君子のわらひぐさにせられん外は、あらずかし。
[やぶちゃん注:以下の二段落は底本ではそれぞれ全体が一字下げである。]
「けんどん」は、今いふ「出まへ」の事にて、「所々へ持出る」の義なり。
「大名けんどん」と唱へしも、必、右之箱の繪より其名を得たりとも、一定しがたし。これも愚說なきにあらねど、いわゆる、「山屋のうどん」なれば、もらしつ。よく諸君の評判記をきゝたるうへにて、二のかはりを出すべし。
[やぶちゃん注:「亡友醒々」浮世絵師で戯作者の山東京伝(宝暦一一(一七六一)年~文化一三(一八一六)年)の号の一つに「醒々斎」がある。馬琴は彼に入門を乞うたが、京伝は弟子は取らなかったので断ったが、後、馬琴は彼の著作の執筆を助けており、代作もした。寛政四(一七九二)年には馬琴を版元蔦屋重三郎の手代として推薦している。京伝が亡くなった翌文政二(一八一九)年には、馬琴が「伊波伝毛乃記(いわでものき)」と題する京伝の評伝も書いており、周知の仲であった。馬琴は彼より六つ年下であった。
「京山」戯作者山東京山(明和六(一七六九)年~安政五(一八五八)年)江戸時代後期の。山東京伝の実弟。
「どうけ百人一首」数寄屋橋門外で汁粉屋を営みつつ、狂歌師で戯作者であった鹿都部真顔(しかつべのまがお 宝暦三(一七五三)年~文政一二 (一八二九)年)が恋川好町(こいかわすきまち)名義で書き、歌川豊国が絵を描いた狂歌集。国立国会図書館デジタルコレクションの画像の寛政五(一七九三)年板行の原本のここの十一行目には、
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〽あしびきの山屋がうどんしるもよしと大きにはんじやう表はる内
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という下句(「表はる内」は判読の自信なし)の違うものが載るのは見つけた。
「三聖の醋を嘗」(なめ)「たり」これは中国の故事「三聖吸酸」(さんせいきゅうさん)。孔子・釈迦・老子が酢を嘗めて、その酸味をともに共感したという、儒教・仏教・道教にシンボライズして、宗教や思想が異なっていても、真理は一つであるとする「三教一致」の意を比喩するもの。参照した「熊谷市」公式サイト内の「妻沼聖天」の「山聖天堂の彫刻3 三聖吸酸」によれば、『この故事のオリジナルは、儒教の蘇軾』と、『道教の黄庭堅』の『二人の書家が、仏教の仏印禅師(ふついんぜんじ)のもとを訪れた際に、桃花酸(とうかさん)という酢をなめ、三人が共に顔をしかめたという逸話に基づいてい』るとあった。]
○山崎「けんどん」批考問辨
「けんどん」は蕎麥切のみならず、多くは饂飩なる由、記されて、「どうけ百人一首」の「山やうどん」の狂歌を引用し、猶、老人の語を證し給へど、延寶九年の印本「都風俗鑑」一卷、「都遊興ぞめ記」の品々をいへる條に、或は蕎麥切によせて、『彼[やぶちゃん注:「かの」。]山州が「けんどん」也。と、かこち、「三官飴」にたとへては、風味一流、かわりもの[やぶちゃん注:ママ。]じや、と嬉しがり。』と見えたり。これ、其かみ、饂飩のみ、多くは蕎麥切といふまじきものをや。同じころの假名字紙に、「けんどんそば」は多かれど、「けんどん饂飩」といふ名目は見ず。扨、饂飩は、昔は、多くは、桶にて、箱は、まれ也。そのよし、委しくは、友人柳亭子の考【この考、載て、「還魂紙料」にあり。】あれば、こゝにいはず。『其器、今の世、店屋にて「うんどん」をもる物に似たり。』とあれど、昔を以て、今の沿革は證すべし。今の器が昔の證になるものかは。其證は、鮓も、今は、專ら、箱につけることなれど、昔は桶にのみ、つけたり。さて、「耽奇會」に、「吉野の鮓桶」の出しことあり。收めて「漫錄」中に有り[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの同原本に画像のこちらを参照。]。古製を見るに足れり。亦、饂飩と同く一轍[やぶちゃん注:「いつてつ」。同じものであること。]といふべし。又、「けんどん」の文字、「見飩」とあるは、假字なることは、論を、またず。「卷飩」も予はうべなはず。且、今の「出まへ」のことにて、「箱に入て持出す」の義とせられたれど、そば・うんどん・茶漬迄は、その名も叶へど、又、「都風俗鑑」卷三、「僧俗野郞にうちこむこと」の條に、『はやるにまかせ、だちんの高下ありて、あるは「大夫」といひ、「陰麼(かげま)」と名付、「慳貪野郞」といふが侍り。』とあるは、何とかいはん。これも俗に「三提重」[やぶちゃん注:「さんさげぢゆう」か。]とか異名する、かくしものゝ類ひとせんか。予は、今の「切見せ女郞」といへる如く、一と切りにうるものゆへ、『いかにも情なく、慳貪のあつかひ也。』といふ意なるべしと思はるゝは、非なりや。されば、先きの夜、いひしごとく、蕎麥・茶漬も、もり切にて、慳貪のあつかひなる意に同じかるべし。當時、「あきなひざまの慳貪也」とて、買人はさいふとも、うる人の唱ふべくもあらずと、いわれしは[やぶちゃん注:ママ。]、一とわたり、理[やぶちゃん注:「ことわり」。]はしかなれど、鄙俗の常言に異名の名目となれる、少からず。十月十九日の夜、傳馬町にての市を「くされ市」と云。是も買人の、かゝる名は負せしなるべけれど、今はうる人も、『こよひは、「くされ市」にあきなひに行べし。』などいへるが如し。かゝる事、考へ出ては、猶、あまたあるべし。さて、のたまへることなれど、二百歲の翁あらば、この當否は定めてんとも、いはれず。今の世のことの、今、しれざるもの、いと多かり。いづれにもあれ、これらは、わきて、えうなきことの如くなれど、小事も必らず名を正すは、聖門の旨とする所にして、後學のもの、ゆるかせにすべからず。且つ、子は莫逆の友と思へばこそ、かゝるよしなきながごともいへ、ゆめ、なじるには、あらず。疑質す[やぶちゃん注:「うたがひ」を「ただす」。]は學者の常とする事にて、切瑳が朋友の道ならずや。心置なく示し給ひね。猶、心にかゝることのあらば、又も問ひ侍るべし。
[やぶちゃん注:「延寶九年」一六八一年。徳川綱吉の治世。
「都風俗鑑」作者不詳の仮名草子。引用部は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの左ページ後ろから二行目から次のコマにかけて出現する。
「三官飴」(さんくわんあめ)江戸の芝の菓子商「三官」で作って売り出した飴。白飴をさらに白くし、細かく切って、米粉をまぶしたもの。中国の明の三官が伝えたという。
「友人柳亭子」「還魂紙料」(くわんごんしりゃう(かんごんしりょう))は柳亭種彦著の考証随筆。葛飾北斎画。文政九(一八二六)年刊。江戸初期の著名俳優・戯曲・芸能・習俗などについて古俳書から引例し、古画を模出紹介して、精細な考証ぶりを示した高度な考証書である。国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像の当該部をここから視認出来る。
『「都風俗鑑」卷三、「僧俗野郞にうちこむこと」の條』国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像のここから。
「切見せ女郞」単に「切見世」とも。最下級の女郎屋。店が五~八軒の長屋形式であったことから、「長屋」とも称し、また、「局(つぼね)見世」とも言った(但し、近世前期の「局見世」は逆に格が高く、これとは別物)。「切(きり)」とは、時間売りの単位を意味し、「一切(ひときり)」は銭百文を相場としたが、いろいろと理由をつけて、数倍の料金を取られることが多かった。店は間口が六尺(約一メートル八十二センチ)か四尺五寸(一メートル二十七センチ)で、座敷は二畳ほどしかなく、一店一妓(ぎ)が原則であった(小学館「日本大百科全書」に拠った)。
『十月十九日の夜、傳馬町にての市を「くされ市」と云』日本橋大伝馬町付近で開かれる「べったら漬け」を売る市。古くは翌日の恵比須講に用いる諸道具を売った。現在、ブロック・マーケットとして復活している。]
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