多滿寸太禮卷㐧一 仁王冠者の叓 / 多滿寸太禮卷㐧一~了
仁王冠者(にわうくわじや)の叓《こと》
[やぶちゃん注:一九九四年国書刊行会刊木越治校訂「浮世草子怪談集」よりトリミングした。]
去(さん)ぬる永和(よう《わ》)年中(ねんぢう)に、美濃の國中山(なかやま)と云ふ所の山のおくに、いつのほどともなく、年のほど三十年(みそ《ぢ》)あまりなる男の、いとやむ事なきが、とある山の片陰に柴の庵(いほり)を結び、朝な夕なの煙(けふり)もたえだえに、
「いかなる世のいとなみをかなしみて、かくはすめるよ。」
と、稀れにあへる木こりも不審なる事に思へり。
[やぶちゃん注:「永和(よう《わ》)」の「よう」はママ。普通は「えいわ」である。南北朝時代に北朝方で使用されたもので、一三七五年から一三七九年まで。室町幕府将軍は足利義満。義満が働きかけ、「明徳の和約」で南北朝が合一するのは元中九/明徳三年十月二十七日(ユリウス暦一三九二年十一月十二日)のことである。
「中山」中山七里(なかやましちり)。岐阜県にある飛騨川中流の渓谷。ここ(グーグル・マップ・データ)。]
此男の有樣をみるに、長(たけ)高く、すこやかにして、色、きはめて白く、眼(まなこ)さかしまにきれ、綠のはやしに草鹿(くさじゝ)書きたる水色の小袖の垢付きたるに、白浪に帆かけ舟付《つけ》たる素袍(すはう)の破れたるを、玉だすき、あげ、かちんのつるはきして、小ぶし卷きの弓の、にぎりぶとなるに、色々の羽(は)にて、はきたる矢、負ひ、輪寶鍔(りんほうつば)の大刀(おほかたな)に、九寸五分(くすんごぶ)のさしそへして、峯によぢ、谷に下(くだ)り、麓の里へは出《いで》たる事もなく、山里の習ひ、幼(いとけな)き童(わらは)、貧なる女共の、こり木する重荷をたすけ、炭燒翁(おきな)の老苦をいたはる。かくするほどに、後(のち)には、をのづから、人も見馴れて、
「いかなる人。」
と問へど、さだかに、こたへず。
[やぶちゃん注:「草鹿」「夏草に立つという鹿が頭をもたげた姿」に作った歩射(ぶしゃ)の訓練に用いる的の大きな鹿のフィギア。材料は檜板を革で包んで、その間に綿を詰め込み、表面は矢当ての星(円)一つと、ほかに二十三個の小円を白く残して栗色に塗ったもので、木を「冂」字形に組んだものを地面に刺し、その中央に縄で固定した。「精選版 日本国語大辞典」の図を参照されたい。グーグル画像検索「草鹿」も見られたい。
「九寸五分」尺貫法で約二十八・五センチメートルを言うが、江戸以前はその九寸五分の短刀を特に指す。戦場で敵を刺したり、切腹の際にも用いられた。「鎧通し」とも呼ぶ。
「こり木」「樵(こ)り木」。]
或る日、おなじ國、北山邊(きたやまべ)に、尊(たうと)き律僧のありける。金胎兩部(こんたいりやうぶ)の檀の上には、四曼相卽(しまんさうそく)の花を翫(もてあそ)び、瑜伽三密(ゆがさんみつ)の道場には、六大無碍の月をみがき、久修練行(くしゆれんぎやう)、としをかさね、觀念の加持、日(ひ)を積れり。
[やぶちゃん注:「北山邊」不詳。
「金胎兩部」両部曼荼羅のこと。「金剛界曼荼羅」と「胎蔵界曼荼羅」の併称。真言密教の根本的な曼荼羅で、金剛界と胎蔵界の関係は不二平等とされ、金剛界が「果」を、胎蔵界が「因」を表わす。「金剛界曼荼羅」は現実の世界・人の持つ知恵・修行の階程をシンボライズして図示してあり、「金剛頂経」の所説に基づく。「胎蔵界曼荼羅」の方は、実在の世界(宇宙)・普遍的理性・仏の内容を同様に図示し、こちらは「大日経」の所説に基づいている。この二者を一つにまとめたのは本邦の真言宗の教学の力に拠る。
「四曼相卽」上記とは別の曼陀羅の種類に「四種(ししゅ)曼荼羅」があり、「大曼荼羅」(姿形を具えている身体で表わす尊形(そんぎょう)曼荼羅)・「三昧耶曼荼羅(さんまやまんだら)」(印相など象徴物で表わす曼荼羅)・「法曼荼羅」(種子(梵字)で表わす曼荼羅)・「羯磨曼荼羅(かつままんだら)」(字・印・形の三種の身体に具わる活動や働きを表わす曼荼羅)があり、この四種曼荼羅は六大(「あ・び・ら・うん・けん」は五大(あ(地)・び(水)・ら(火)・うん(風)・けん(空))を表わすが、その真言に「識大」=「識」を表わす「うん」が加えられることにより、大日如来の体が六大で構成されていること示す)で成り立つ宇宙を相(=姿)で表わす。宇宙の現われを知ることができるのが四種曼荼羅となり、その観念世界の様態を「四曼相大(しまんそうだい)」と言うのが一般的である。「卽」はそれによる「即身成仏」の謂いか。
「瑜伽三密」行者の「身」・「口」・「意」の三密が、仏・菩薩の三密と相応し、融合することを言う。
「六大無碍」大日如来としての先に示したの六大が、凡夫の六大と相互に融合し、また、六大の一つ一つが互いに融合していることを言う。
「久修練行」長い年月、修行を怠らず、行(ぎょう)に熟練すること。
「觀念の加持」ここは真言行者が、心静かに智慧によって一切を観察し、思念して、手に印を結び、口に真言を唱え、心を仏の境地に置くことで、仏と一体になることを指す。「三密加持」とも言う。]
去比(さんぬるころ)、京白河にて、兩部の大法(だいほう)を傳へ、諸尊の床(ゆか)を學び、金剛薩陲(こんがうさつた)の位(くらゐ)に住(ぢう)せり。
[やぶちゃん注:「金剛薩埵」は、中期密教では、大日如来の教えを受けた菩薩。真言密教においては第二祖とされ、後期密教では、法身普賢(普賢王如来)・持金剛と並んで、本初仏(原初仏)へと昇格している。金剛(ダイヤモンド)のように堅固な菩提心を持つと称され、真言密教の付法の八祖の第二祖に当たる仏を指すが、ここはその生き仏として称を得たということである。]
その法恩のため、上京しけるが、山ごへに此所を通りかゝり、秋の日のならひ、程なく暮れかゝり、日、西山(せいざん)にかたぶき、遠近(おちこち)の、たづきもしらぬ山中に、往來(ゆきゝ)もまれに、猿、樹上に叫むで、閨(ねや)をいそぎ、鳥の聲、かまびすし。
はからずも、彼(か)の男に行きあひぬ。
僧は、
『いかなる山賊・强盜(ごうだう)やらむ。』
と、猶豫(ゆうよ)して、道の傍らにうづくまり居(ゐ)けるに、此男、
「やゝ。御房はいづかたへ御通り候ぞ。日もかたぶき、かゝる山中、殊に夜(よ)に入ぬれば、豺狼(さいらう)の恐れも侍る。里、遠し。いかゞし給ふらん、いたはしき次第、我れ、夜獵(よれう)のため、假(かり)に結べる庵(いほ)あり。一夜(いちや)をあかし、何(いづ)くへも通り給へ。」
と申せば、僧は、
『かゝる怖しき者の、やさしきこゝろざしや。』
と、とかく伴ひ、遙かの峯をこへ、一木(ひとき)しげれる陰の、淺ましき庵(いほり)に入《いり》けるに、柴、折りくべしいろのもとに、わらを、つかねしよるのものならでは、調度も、なし。枕の上(うえ)と覺しき所に、不動の繪像を掛け、すべて食(しよく)すべき物も、なし。
[やぶちゃん注:「猶豫し」躊躇し。
「豺狼」山犬(野犬)やオオカミ。
「折りくべしいろのもとに」意味不明。「いろ」は「いろり」(圍爐裏)の脱字か。]
『いかにとしてか、年月(としつき)を送りけむ。世には、かくしても、過《すぐ》るものかは。」
と思ひつゞけしに、男、申けるやうは、
「山路(やまぢ)の宿り。いかゞしてかは、物をも、まいらせん。」
と、やうやう、芋といふものを燒き、僧にもまいらせ、我が身もうち食《くひ》てげり。
僧は有《あり》し次第を見、
「抑(そもそも)、貴邊(きへん)は、いかなる御事にか、かゝる人倫まれなる所に、かく、ひとり居(ゐ)のすまひ。かたがた、ふしぎに侍る。願(ねがはく)は、その故を、つゝまず、語りたまへ。」
と、あれば、男、答へて、
「申《まうす》につけて、便(びん)なふ候へど、且つは、さんげの爲(ため)、又は、再會も、期(ご)しがたし。夜すがら、語り申さむ。
もとは、いせの國の者にて侍る。十八のとし、親なる者をうたせ、その敵(かたき)を打《うち》けるに、敵の一族、ひろき者にて、所の住居(すまゐ[やぶちゃん注:ママ。])もなりがたく、伊賀の山中(やまなか)にさまよひ侍りしに、うき世のならひ、とかく、ながらゆべきよすがもなく、をのづから、夜打(ようち)・强盜の身と成《なり》、世には「仁王冠者(にわうくわじや)」と云ひけり。
あまたの者を從へ、冨貴(ふうき)・尊家(そんか)をうかゞひ、あけくれ、切取(きりどり)・追剥(おひはぎ)を業(わざ)とし、或とき、黨をくみ、三十人斗り、同心し、人家を取りまはし、打入《うちいる》事侍りしに、家主(いゑぬし)、心、早き者にて、散々(さんざん)に切《いり》て追ひ出(いだ)す。人々、あまた討(うつ)とられ、あるひは、疵をかうむり、引《ひき》けるほどに、我が從弟(いとこ)にて有しもの、引き後(をく)れて、行方(ゆくかた)を、しらず。
『扨《さて》は、打ち留められぬるにや。』
と思ひしかど、
『おこの者なれば、そこつには討たれじ。』[やぶちゃん注:「おこの者」「烏滸の者」。正しい歴史的仮名遣は「をこのもの」。ここは、人を笑わせることの特異な、身軽でなかなかの剽軽者にして手強い者の意であろう。]
と思ひ、人靜まりて後(のち)、又、我一人、跡に歸り、かくれて有ぬべき所々、小聲に呼びて尋ねけるに、大なる柚(ゆ)の木の茂りたる梢にのぼりてゐたりけるが、
「爰《ここ》に有《あり》。」
と、こたふ。
「何としたる。早く下(お)りよ」
といへ共、いばらにかゝりて。下り得ず。
時、移りける程に、夜(よ)、已に明けなんとす。
『いかゞはせん。』
と思ひて、大音(だいおん)あげて、
「ぬす人、一人、此の柚(ゆ)の木にのぼりて、あり。とりまはし、打ち殺せよや。」
と、呼びたりければ、彼(か)の男、
『難義(なんぎ)。』
と思ひけるにや、思ひ切《きり》て、飛び下(お)り、我(われ)とつれて逃げたり。
彼(か)の身(み)を、たばひ[やぶちゃん注:「庇(かば)ふ」に同じ。]、命を失ふべかりつるを、身を捨て、下(おろ)さむと、我、わざと謀(はかりごと)に、助けたり。
是れを以つて、萬事(ばんじ)をつくづく思ふに、只(たゞ)、心一つの仕(し)わざなるにや。
それより已後(いご)、一向(いつかう)に世をすて、山林幽谷を栖かとして、暮山(ぼさん)に薪(たきゞ)をひろひ、一靈(いちれい)の性(しやう)をみて、萬緣(まんゑん)の執心を斷(だん)じ、居(きよ)、やすからざれども、彼(か)の淨妙居士(じやうめうこじ)の丈室(ぢやうしつ)を觀(くわん)じ、食(しよく)、乏しけれども、顏囘が道(みち)とたのしむで、山河大地(さんがだいち)を踏蹁(とうへん)し、一乾坤(いちけんこん)の外に逍遙し、形(かたち)は塵俗に同じけれども、無爲をたのしみ、心は仁聖(じんせい)につうじて、一心法界(いつしんほうかい)の源(みなもと)を悟り、多念無相の理(ことはり)を觀ず。
[やぶちゃん注:「淨妙居士」古代インドの商人で釈迦の在家の弟子となった維摩居士(生没年未詳)のことか。彼の名の漢訳に「淨名(じやうみやう)」がある。なお、「居士」とは「在家の弟子」のことを指す。当該ウィキによれば、『毘舎離城(ヴァイシャーリー)の富豪で、釈迦の在家弟子となったという。もと前世は妙喜国に在していたが』、『化生』(けしょう)『して、その身を在俗に委』ね、『大乗仏教の奥義に達したと伝えられ釈迦の教化を輔(たす)けた。無生忍という境地を得た法身の大居士といわれる』。『なお、彼の名前は』「維摩経」を『中心に』、「大般涅槃経」などでも『「威徳無垢称王」などとして挙げられている。したがって』、『北伝の大乗経典を中心として見られるもので、南伝パーリ語文献には見当たらない。これらのことから』、『彼は架空の人物とも考えられるが、実在説もある』。『彼が病気になった際には、釈迦が誰かに見舞いに行くよう勧めたが、舎利弗や目連、大迦葉などの阿羅漢の声聞衆は彼にやり込められた事があるので、誰も行こうとしない。また』、『弥勒などの大乗の菩薩たちも同じような経験があって』、『誰も見舞いに行かなかった。そこで釈迦の弟子である文殊菩薩が代表して、彼の方丈の居室に訪れた』。『そのときの問答は有名である。たとえば、文殊が「どうしたら仏道を成ずることができるか」と問うと、維摩は「非道(貪・瞋・痴から発する仏道に背くこと)を行ぜよ」と答えた。彼の真意は「非道を行じながら、それに捉われなければ』、『仏道に通達できる」ということを意味している』。『大乗経典、特に』「維摩経」では、『このような論法が随所に説かれており、後々の禅家などで多く引用された。一休宗純などは』、『その典型的な例であると考えられる』とある。彼っぽい。
「踏蹁」足下が危なっかしい感じで歩き回ることか。]
又、此山に年月(ねんげつ)を送る。されば、いづくともなく、女、一人、夜每にかよひ、獨臥(どくぐわ)を、なぐさめ、美食(びしよく)を、はこぶ。いつぞの比より、馴れそめ、夫婦のかたらひ。淺からざりしに、恩愛の衾(ふすま)の下(した)に、一人の男子(なんし)を、まふく。彼(かれ)になぐさみ、生(しやう)を送る。御僧の御宿(おやど)も、多生(たしやう)の緣に侍れば、又、此の緣にひかれて、後生こそ、たのもしけれ。世も靜かならねば、道(みち)のほども、心元(こころもと)なし。小童(こわらは)を路次(ろし)の守(まも)りに付け奉らん。」
と、いとたのもしく語りける。
此の僧、奇異の思ひをなし、
「扨、御妻女・御息(ごそく)は。」
と、問へば、
「待ち給へ。暫く過ぎて、來りなむ。」
とて、とかくする程に、『亥の尅(こく)[やぶちゃん注:午後十時前後。]斗りにもや』と覺ゆる時、嵐(あらし)、一通り、はげしく落ちて、ものすさまじく、十四、五斗《ばかり》の童の、髮を、からわにつかね、淸らかに見へながら、目の内、すゝどきに[やぶちゃん注:鋭くして。]、小弓(こゆみ)に、小矢(こや)、うちおひ、松明(たいまつ)とぼし來(く)る跡に、年の比、廿(はたち)斗りに見えて、容顏美麗の女性(によしやう)、くみたる籠(かご)を左の手にかけ、靜かに内に入、此の僧を見て、おどろきたる事もなく、
「いとゞさへ、旅のうきに、かゝるいぶせき庵(いほり)にやどらせ給ふ事の、いたはしさよ。いまだ、夜もふかく侍らめ。」
と、
「齋(とき)を供養し侍らん。」
と、持ちたる籠の内より、さまざま、目なれぬものを、あまた出し、小童(《こ》わらは)に、かよひせさせ[やぶちゃん注:運ばさせて。]、僧にもあたへ、おのこにも、くはせ侍るに、世に有難き珍味にぞ有ける。
かくして、小筒(さゝへ)の内より、酒を取り出《いだ》し、すゝめけれど、僧は禁酒にて、のまず。
僧のいはく、
「かくはなれたる住居、いかに、夜每に、かよひ給ふらん。」
「其事にさぶらふ。わが身は此峯のあなたに住むものにて侍る。さる子細ありて、人めをつゝむ身なれば、かく、夜ごとに、かよひ侍る。かなしさ、思ひやらせ給へ。」
とて、
世を外(ほか)に住(すみ)やならへる山祇(《やま》ずみ)の木守(こもり)と人の名にや立《たつ》らん
あるじのおとこ、とりあへず、
をのづから馴(なれ)てきぬれば木のもとに世を捨(すつ)る身の名をもいとし
かくて、東雲(しのゝめ)、漸々(やうやう)明けなむとす。
「歸京の折ふしは、尋ねとはせ給へ。」
と、出《いで》し立《たち》て、小童を道の案内者(あないしや)とし、弓矢かき負ひて、かひがひ敷(しく)伴ひつれ、步(あゆみ)をすゝむる驛路(ゑきろ)の駒(こま)の、沓掛(くつかけ)の里を打過《うちすぎ》て、愛智(ゑち)の河原(かわら)に出けるに、昨日(きのふ)の雨に水まして、白浪、岸を洗ひ、逆水(さかみづ)、堤に余れり。橋、落ち、舟、なふして、のぼり下りの旅人(りよじん)、道、絕(たへ)て、南北の岸に、むらがれり。
[やぶちゃん注:「沓掛」現在の豊明市沓掛町(くつかけちょう)附近。
「愛智の河原」不詳。]
此僧、川端に大きなる石の有けるに、座をくみて南方(なんぱう)に向つて、祕印を結び、眞言を誦し、三密平等觀に住(ぢう)し給ひければ、此の石、忽ちに、うきて、河を南へわたる。毛宝(もうほう)が龜に乘り、張騫(ちやうけん)が浮木(うきき)にあへるごとくにて、向(むかい)の岸へぞ着き給ふ。
[やぶちゃん注:「毛宝が龜に乘り」日蓮宗のサイトのこちらによれば、『晋の毛宝』(?~三三九年:東晋の軍人)『が年十二の時、江口』(こうこう:大きな川のほとり)『で遊んでいた。すると漁師が一匹の白亀を釣りあげるのを見た。毛宝はかわいそうに思い、なにがしかの銭を払って亀の身がらを引き取り、川の中に放ってやった』。『二十余年後、毛宝は邾(ちゅう)城を守備していた。そこに石虎将軍が沢山の兵をつれて攻め寄せて来たので交戦となったが、城を守れず敗れてしまった。身を川に投げて自殺をはかったが、脚は石を踏んだようだった。それは亀の背であり、亀は毛宝を岸に渡してくれたので死なずにすんだ。首をめぐらして見ると、それは昔、自分が放してやった白亀であった。亀の体長は四尺余になっていて、向きを変えて中流までいくと首をひねって毛宝を見ていた』とあり、『これは』「琅邪代酔(ろうやだいすい)」『に説かれているものである』とある。
「張騫が浮木にあへる」サイト「note」のYuDaiichiro氏の『大語園 別解の部 #005 「天の川上」』に(読みは一部を除去させてもらった)、『漢の武帝の臣下に、張騫といふがあつた。或時武帝から、天の川の川上を探《たづ》ねて参れといふ勅令を受けたので、早速浮木に乗つて天へ昇り、一筋の川を見つけて、だんだん上流へと志し、毎日々々足に委《まか》せて進む程に、或日其川の縁《ふち》で、見知らぬ一人の女が、頻りに機《はた》を織つて居る。猶よく見ると一人の老翁が、牛を牽いて立つて居る。其所で張騫は、試みに此の土地の名を訊ねると、二人は声を揃へて、こゝは天の川原だと教えて呉れた』。『張騫は、これに力を得て、二人の名をも訊ねてみたら、女は織女、翁は牽牛だと答へた。張騫は、私は漢の武帝の勅命を受けて、天の川の水上を探ねに来たが、これからどう行つたらよいかと質問を出したら、二人は笑ひながら、こゝが天の川上である。もう他へ行く必要はないと教へて呉れたので、張騫は其まゝ又浮木に乗つて帰つて来た』。『さて都に着いて、武帝に拝謁して、探検の模様を、有りのまゝに復命したところが、武帝は一向信用しなかつた。併し張騫がまだ帰つて来ない先に、武帝の所へ天文博士《てんもんはかせ》が来て、七月七日の晩に、天の川の辺に、ついぞ見慣れぬ星が一つ現れたと報告した。武帝は不図』、『天文博士の説を思ひ出して、『さては七月七日の晩の、見慣れぬ一つの星といふのは、多分張騫であつたらう』といふので、漸く此の報告を信用して、厚く賞を下されたといふ』とある。実はそこにも引用元が記されているのであるが、この話、「今昔物語集」の巻第十に「漢武帝以張騫令見天河水上語第四」(漢の武帝、張騫を以つて天河(あまのかは)の水上(みなかみ)を見せたる語(こと)第四」)として載っていることで知られるものである。「やたがらすナビ」のこちらで、新字であるが、原文が読める。]
此の童、これを見て、
「やゝ、まち給へ。御供(おんとも)しつる身の、是より罷り歸らば、父母(ふぼ)の、恨みむ。是非、御供。」
と、云《いひ》もあへず、箙(ゑびら)より、かぶら矢、一筋、ぬき出し、弦(つる)まきなる弦をとり、片端をかぶらの目につけ、今(いま)片(かた)はしをわが脇にゆひ付《つけ》て、其矢を弓にさしはげて、向ふの岸をさして能引(よつぴい)て放ちたれば、其矢、彼(かの)童を引《ひつ》さげて、川の面(おもて)五町[やぶちゃん注:約五百四十五メートル半。]余(よ)を飛びけるに、河の中程にて勢ひや、つきけむ、落ちむとしける所を、又、其矢を取つて射(ゐ)放ちたり。則ち、川を過《すぎ》て、むかふの岸に、遙かなる大日堂の前なる畠(はたけ)の内へぞ、立《たち》にける。
「あれは、」
「いかに、」
「いかに、」
と、數(す)百人の者ども、兩方より、どよめきけるうちに、此童、いづちともなく失せにけり。
[やぶちゃん注:「弦まき」「弦卷」。掛け替えのための予備の弓弦(ゆみづる)を巻いておく籐(とう)製の輪。「弦袋」とも呼ぶ。「デジタル大辞泉」の「弦巻」に添えられてある「箙」の図を参照されたい。又実物の写真はグーグル画像検索「弦巻」をリンクさせておく。]
かくて、阿闍利(あじやり)[やぶちゃん注:「利」はママ。]は、なくなく、京着(《きやう》ちやく)しけるに、思ひの外(ほか)なる事どもありて、心ならず、程へけるに、然るべき寺院に入寺しけるが、供の仕丁(しちやう)もなく、
『いかゞせん。』
と案じけるに、彼(かの)童の、いづくともなく罷り出でて、
「御供の仕丁の事、いとなみ侍らむ。」
とて、夜すがら、藁にて、人形をこしらへ、ひそかにおこなひしけるに、殘らず、人の形となり、きらびやかなる侍仕丁(さむらいしちやう)と成《なり》、阿闍梨の輿(こし)を仕(つかまつ)て、公用をつとめ、童、申やうは、
「猶、これまで御供し侍りて、御專途(ごせんど)にあひ參らする事、身の本望(ほんまう)なり。返す返す、父母(ちゝはゝ)の後生(ごしやう)、助けさせ給へ。いとま申(まうす)。」
とて、人形も、共(とも)に、失せぬ。
阿闍梨、ふしぎの思ひをなし、又もや、美濃に下り、
「今一たび、尋ね見ばや。」
と思はれけれども、公請(くじやう)[やぶちゃん注:「公請」僧が朝廷から法会(ほうえ)や講義に召されること。]に、ひまなく、
「せめては、報恩を謝せばや。」
とて、三七日《みなぬか》[やぶちゃん注:二十一日。]、道場に籠りて、金剛摩尼法(こんがうまにほう)を修(しゆ)し、逆修(ぎやくしゆ)を行ひ給ひしが、遙かに過ぎて、彌生の比、只一人、忍び出《いで》、有つる所を尋ね給へど、誰(たれ)しる人もなく、終日(ひめもす)、山路(やまぢ)を分けて求め給へど、そことだに、しらず。
[やぶちゃん注:「金剛摩尼法」不詳。
「逆修」本来は生前に逆(あらかじ)め、自分自身の死後の冥福を祈って仏事を営むことを指すが、ここはそれを他者(ここでは仁王冠者とその妻と子)に拡大した謂い。]
其夜(よ)は、麓の里にやどり、亭(あるじ)の翁(おきな)に、
「しかじか。」
と語り給へば、
「其事にさふらふ、過《すぎ》つる年の夏、里に出《いで》て、『諸用ありて、年比のしたしみ、名殘(《な》ごり)惜しけれ。』とて、行方、しらず。」
其年月を案じみるに、うたがひもなく、都にて摩尼法を行なひ給ひし日に當れり。
「さるにても。かの女の歌がらこそ。いかさま、其邊(ほとり)に社(やしろ)やある。」
と問ひ給へば、
「其峯のあなた、岸陰(きしかげ)[やぶちゃん注:山の崖の陰の所。]の茂みに、木守(こもり)の社とて、山神(さんしん)の祠(ほこら)、侍る。」
と、いへば、
「されば社(こそ)。」
と思ひて、かの主人を案内(あない)として、尋ね上り見給ふに、うたがひもなく、小社(ほこら)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]の有ければ、過つる事もなつかしく、かの者共の行衞も聞まほしく、社(やしろ)の前にて種々(しゆじゆ)の祕法を修(しゆ)し、しばらく觀念し給へば、神木の椎のこずへに、白雲(はくうん)、一むら、おほい、三人の形(かた)ち、有つるに、引《ひき》かへ、衣冠たゞしくあらはれ、上人を禮(らい)し、
「去る比の摩尼呪(まにじゆ)の功力(くりき)によつて、忽ちに、神仙の身と成り、無量のたのしみをうけ、朝には風雲(ふううん)に乘じ、夕には仙境に遊ぶ。まことに、報じても、猶、あまり。」
とて、三拜かつがう[やぶちゃん注:「渇仰」。]して、雲(くも)と共に消失(きへうせ)けり。
阿闍梨も、衣の袖をしぼり、かの社に並べて、ふたつの祠(ほこら)を、あらたにしつらひて、都へ歸り給ひけり。
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