甲子夜話卷之六 42 小田原侯、その祖先の事
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林氏云。今の小田原侯【大久保加賀守忠眞】未だ寺社奉行たりしとき、常々相往來せし頃の話なりし。偃武以前之先祖、一月幾日と期を定て、主從ともその日は終日斷食なり。主人は早天より、臺所の外口に床机に腰を掛て日暮まで居しと云。物蔭にありては、いつ飮食するも人の知るべきならざれば、かくして家來中に示したるよし。是第一は斷食しても堪ることを習はし、次には一日主從の飯米を積めば、終歲には多分の數に盈るを、貯て軍用の手當としたりしとなり。又忠眞の話に、今は國恩を以て十萬の封地を襲げども、恐らくは祖先の本意に非るべし。參遠の頃、祖先代々、每ㇾ戰に功あれば少々づゝの御加恩被りしを、必ず子弟に分ちけり。その後、上より加恩賜しとき、元來大身になされんとの思召を以て下さるゝなり。子弟に分ち與ふべからずとの御沙汰ありしに、臣等が本意は、事に臨で御馬前に立塞り、身命を抛ち候をこそ專一と心得候。夫には一人も多く候が御爲なるべく候。大身になり候ときは、一方の大將を勤候間、御馬𢌞りの働きは出來申さず。御膝元を離れ候て戰べき人は、外にいかほども有るべくとて、始終增祿ごとに子弟に分ちければ、小身の同姓、今の如く多くなりたりと云。予是を聞て、眞にその赤忠に感じ入りぬ。世諺に九十大久保、百酒井と云。其頃の譜第衆の念慮は、皆同一樣に有し事なるべし。いかにも志の醇厚なること、世に難ㇾ有次第にこそ。
■やぶちゃんの呟き
「林氏」お馴染みの静山の友人の儒者林述斎。
「小田原侯【大久保加賀守息眞】」相模国小田原藩第七代藩主大久保忠真(安永七(一七七八)年(天明元(一七八二)年とも)~天保八(一八三七)年)。彼は財政窮乏の折りから、藩政改革のために、かの二宮尊徳を登用して改革を行なったことで知られる。ウィキの「大久保忠真」によれば、『尊徳は藩重臣・服部家の財政を再建した実績をすでに持っていた。忠真もその話を聞き、小田原藩の再建を依頼しようとした』。『しかし、尊徳の登用はすぐには実現しなかった。身分秩序を重んじる藩の重役が反対したのである』(尊徳は百姓の出身であった)。『そこでまず、忠真は』文政五(一八二二)年、『尊徳に下野国桜町(分家・宇津家の知行地、現在の栃木県真岡市二宮地区)の復興を依頼した。桜町は』三千『石の表高にも関わらず、荒廃が進んで収穫が』八百『石にまで落ち込んでいた。それまでにも小田原藩から担当者が派遣されていたが、その都度』、『失敗していた』。『尊徳が桜町復興に成功すると、次に忠真は重臣たちを説き伏せ、尊徳に小田原本藩の復興を依頼し、金』一千『両や多数の蔵米を支給して改革を側面から支援した』。これは天保八(一八三七)年のことで、『尊徳登用を思い立ってから』十五『年が経っていた。尊徳の農村復興は九分九厘成功したが』、この年、忠真が五十七歳で『突如として急死し、跡を嫡孫の忠愨』(ただなお)『が継ぐと、尊徳は後ろ盾を無くし』、『二宮尊徳による小田原藩の改革は保守派の反対によって頓挫した』とある。また、『幕政においては松平定信の推挙で老中となり』、二十『年以上在職』している。『政治手腕等においては、同役の水野忠邦に比較すると影は薄いが、反面』、『矢部定謙』(さだのり)、『川路聖謨、間宮林蔵(蝦夷地や樺太の探検で著名)など下級幕吏を登用・保護している』ともある。
「未だ寺社奉行たりしとき」それ以前の奏者番から、文化元(一八〇四)年に寺社奉行を兼務した時から、文化七(一八一〇)年に大坂城代となるまでの、約五年半。
「偃武」「偃」は「伏せる」の意で、「武器を伏せて、用いないこと・戦争をやめること」で、ここは江戸幕府開幕以後の、天下が太平になった時期を指す。
「床机」「しやうぎ」。脚を打ち違いに組み、尻の当たる部分に、革や布を張った折り畳み式の腰掛け。
「居し」「をりし」。
「堪る」「たふる」。
「盈る」「みつる」。
「貯て」「たくはへて」。
「襲げども」「つげども」。
「非るべし」「あらざるべし」。
「參遠」「さんえん」。遠江の家康の下(もと)に参ずること。
「每ㇾ戰」「いくさごとに」。
「上」「かみ」。
「臨で」「のぞんで」。
「立塞り」「たちふさがり」。
「身命」「しんみやう」。
「抛ち」「なげうち」。候
「夫には」「それには」。
「赤忠」「せきちゆう」。
「世諺」「せいげん」。
「大久保」家康・秀忠・家光三代に仕えた名臣大久保彦左衛門忠教(ただたか)。
「酒井」「徳川四天王」・「徳川十六神将」ともに筆頭とされ、家康第一の功臣として称えられる酒井忠次。
「同一樣」これで一語として「どういちやう」と読んでおく。
「醇厚」「じゆんこう」人柄が素朴で、人情にあついこと。
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