甲子夜話卷之七 1 寶曆衣服の制仰出
甲子夜話七
7-1 寶曆衣服の制仰出
享保質素の令もおのづから薄らぎしや、寶曆九卯年に、衣服の制を仰出されける旨ありし頃は、老中の供𢌞り、絹の小紋羽折着たるもあり。御城の坊主は、皆無地の黑絹羽折なりしとぞ。町𢌞りの同心、兩國橋にて商人の妻、黑縮緬の袷にもうるの帶、茶の腰帶、下に白帷子を着たりしを咎めて番所へ預け、黑き縮緬の小袖一にて錢湯に赴く少婦の胸に封をつけしとぞ。これは能役者觀世大夫が妾と聞へし。神田邊にて靑梅縞の袷、裏に黑繻子つけ、金魚を縫たるを著したる少女も、襟に封をつけられたり。糀町にて輕き男、木綿袷の上に飛紗綾の帶を結たるを、其町へ預くるとて名主を呼出したれば、袴羽折にて出たるが、其羽折縮緬の小紋なりしとて、先これを大に叱り、しばらく遠慮申付たるよし。
■やぶちゃんの呟き
「寶曆九卯年」一七五九年。
「もうる」「莫臥兒」。ポルトガル語の「mogol」に当てた語。モール。本来はインドのモゴル(ムガル)帝国時代の特産と言われ、緞子(どんす:織り方に変化をつけたり、組み合わせたりして、紋様や模様を織り出す紋織物の一種。生糸の経(たて)糸・緯(よこ)糸に異色の練糸を用いた繻子(しゅす:絹を繻子織り――縦糸と横糸とが交差する部分が連続せず一般には縦糸だけが表に現れる織り方――にしたもの)の表裏の組織りを用いて文様を織り出した。「どんす」という読みは唐音で、本邦には室町時代に中国から輸入された織物技術とされる)に似た浮織の織物。経は絹糸で、緯に金糸を用いたのを「金モール」、銀糸を用いたのを「銀モール」と称し、後世は、金糸又は銀糸だけを撚(よ)り合わせたものを言う。
「白帷子」「しろかたびら」。
「少婦」「せうふ(しょうふ)」。年若い娘或いは若い嫁。
「能役者觀世大夫」この年代から、観世流十五世宗家観世左近元章(もとあきら 享保七(一七二二)年〜安永二(一七七四)年)であろう。ウィキの「観世流」によれば、この頃、『観世流は徳川家重・徳川家治二代にわたる能師範を独占』する一方、『京都進出を完了するなど、その絶頂期を迎えた。元章は』、『これらの状況を受けて、弟織部清尚(後に十七世宗家)を別家して観世織部家を立て、四座の大夫に準ずる待遇を獲得させたほか、国学の素養を生かした小書を多く創作し、さらには世阿弥伝書に加註』した上、『上梓するなど、旺盛な活動を行った』とある。
「妾」「めかけ」。
「靑梅縞」「あをうめじま」。
「糀町」「かうぢまち(こうじまち)」。
「飛紗綾」「とびざや」。地が紗綾(さあや:絹織物の一種。平織り地に「稲妻」「菱垣(ひしがき)・「卍」(まんじ)などの模様を斜文織(ななめあやお)りで表わした光沢のある絹織物。中世末頃から江戸初期にかけて多く用いられた)に似て厚く、とびとびに花紋のある織物。
「先」「まづ」。芋蔓式のエンディングが面白い。
« 甲子夜話卷之六 43 駿城勤番、蛇を畜置し人の事 / 甲子夜話卷之六~了 | トップページ | 譚海 卷之四 丹後國天の橋立幷ぶり魚・山邊綿・沙中の古杉・國分寺鬼面等の事 »