狗張子卷之七 飯森が陰德の報
[やぶちゃん注:挿絵は今回は底本(昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編「同全集第一期「江戶文藝之部」第十巻の「怪談名作集」)をトリミング補正して、適切と思われる位置に配した。]
○飯森《いひもり》が陰德の報(ほう)
豐臣秀賴公の侍大將鈴木田隼人佐(すゞきたはやとのすけ)は、中《ちゆう》・西國(さいこく)の敵を押(おさ)ゆる番船(ばんせん)の下知(げち)を仰せ付けられ、穢多が城(ゑつたがじやう)に居住せらる。
其の家臣飯森兵助(へいすけ)といふ人、盜賊奉行として、二心(ふたこゝろ)なく鈴木田に忠功をはげます。
天性(てんせい)、心すなほにして、慈悲ふかく、其の意(こゝろ)、貧(まづ)しふして弱(よわ)きをあはれみ、富みて憍(おご)れるを、制(せい)す。
故に、人、自然と、其の裁斷に服(ふく)して、欺(あざむ)くに、しのびず。
或る時、ひとり、政所(まんどころ)に臨んで、訴訟の事を判斷す。
一人《ひとり》の囚人(めしうど)あり、その名を土井《どゐ》孫四郞といふ。
罪狀、まぎれなきによりて、面縛(めんばく)して誅伐せんとす。
孫四郞、ひそかに兵助にむかひて、
「我は、もと、不義をなせるものにあらず。名ある武士なり。智謀勇力(ちばうゆうりき)、よのつねならず。あはれ、君(きみ)、よく、我が科(とが)を察して、命をたすけ、再び、故鄕(ふるさと)に歸し給へかし。しからば、かならず、君がために、力(ちから)を盡して、その厚恩を報ぜん。」
といふ。
兵助、つらつら、かれが面顏魂(つらだましひ)をみるに、凡人にあらず、詞色(ししよく)雄長(ゆうちやう)にして、臆せず、まことに豪傑の士なり。
兵助、心(こゝろ)に、
『これを、たすけん。』
と、おもひ、わざと佯(いつは)りて、聞(きか)ぬ體(てい)して、許(ゆる)さず。
その夜更(よふけ)すぎ、人しづまりて、ひそかに獄屋(ひとや)の役人をよびて、かの囚人(めしうど)をゆるし、歸さしめ、すなはち、その役人も亡げ失せさせて、屋敷を出(いだ)しぬ。
翌日(あくるひ)、
「獄中(ひとやのうち)、囚人(めしうど)一人(ひとり)、にげいでて、又、役人も、にげうせぬ。」
と披露す。
鈴木田(すゞきた)、大《おほき》におどろき、
「これ、しかしながら、兵助が越度《おちど》なり。」
とて、しばらく出仕をやめて、閉居せしむ。
その比(ころ)、德川家衆(とくがはけしゆ)、攝州・大坂に在陣し給ひ、蜂須賀(はちすか)阿波守に仰せ付けられ、穢多が城を攻めさせらる。
城中(じやうちう)、勝利を失ひて、敗北す。
兵助も、馬(むま)にのり、士卒を下知して、命を惜しまず、ふせぎ戰ふといへども、天軍無勢《てんぐんぶぜい》にして、かなはず、つひに城(しろ)を攻め落され、鈴木田、やうやう、一方(《いつ》はう)を切り拔け、萬死(ばんし)をいでゝ、一生(《いつ》しやう)を全(まつた)ふし、秀賴公の館(たち)に歸參しぬ。
それより、兵助、旅客(りよかく)牢浪の身となり、あなたこなた、漂泊(ひやうはく)せしが、後(のち)には、糧、盡き、囊(ふくろ)、空(むな)しふして、困窮、實(まこと)に、はなはだし。
辛吟(しんぎん)と、さまよひて、播州の地に至る。
或る大(おほき)なる在鄕(ざいがう)に、ゆきかゝり、その鄕(さと)の代官職の人の姓名をきけば、
「土井孫四郞。」
といふ。
『我(われ)、むかし、放しやりたる囚人(めしうど)の姓名と同じ。』
兵助、ふしぎにおもひて、その屋敷をたづねて、案内、乞ふ。
孫四郞、大《おほ》きにおどろき、急(きう)に、はしり出(いで)て、迎ふ。
よくみれば、うたがふべくもなき、むかし、放しやりたる囚人なり。
むかしの事共、語り出(いで)つゝ、
「まことに。命の親なり。ひごろ、なつかしくおもひしに、よくこそ、尋ね來り給へ。」
とて、拜謝(はいじや)、奔走(ほんそう)し、すなはち、別(べち)に座敷をきよめて、すゑ置き、晝夜(ちうや)、酒宴を催ほし、相(あひ)ともに寢臥(しんぐわ)して歡びを、きはむ。
凡そ十日あまりに及ぶといへども、つひに、我が居宅(ゐたく)に、かへらず。
ある夜(よ)、孫四郞、その居宅に、かへれり。
兵助、折ふし、厠(かはや)に行きけり。
此厠と、孫四郞居宅と、たゞ、壁、ひとへを隔てぬ。
しづかに、事の樣(やう)をきけば、孫四郞妻(つま)の聲として、
「君(きみ)、此の間(あいだ)、ことのほかに、もてなし給ふ客は誰人(たれ《ひと》)ぞや。此の十日あまり、晝夜(ちうや)つきそひて、かへり給はず、いぶかし。」
といふ。
孫四郞、こたへて、
「むかし、あの客の大恩(《だい》おん)をうけて、危うき命を、たすかり、今、かかる榮花(えいぐわ)をきはむるも、これ、ひとへに、あの客の隱德によれり。何(なに)をもつて、此大恩を報(ほう)ぜん樣(さま)を、しらず。」
といふ。
妻のいふ、
「君(きみ)は。おろかなる事を、のたまふものかな。それ、人(ひと)の一生、盛衰浮沈(せいすいふちん)、古今(ここん)、めづらしからず。時を得ては、人を制し、運、窮まりては、身を屈す。なんぞ、今更、過ぎ去りしむかしの事を、かへりみん。諺にも、『大恩は報ぜず』と、いへり。かつ、君、むかし、難にあひ、囚(とらは)れにかゝり給へる事、誰(たれ)知るもの、なし。しかるに、今、かゝるふるまひし給ひ、もし、他人に、もれきこえなば、かさねての恥辱なるべし。はやく、時機にしたがひて、いかにも思慮し給へ。」
といふ。
孫四郞、返答もせざりしが、やゝ久しくありて、
「げにも。なんぢがいふところ、尤(もつとも)なり。我(われ)、智謀をもつて、よきに、はからはん。かならず、色(いろ)をさとらるゝ事、なかれ。」
と、いひて、止(やみ)ぬ。
兵助、聞(きゝ)すまして、大きに、おそれ、おのゝき、衣服・荷物、悉くすて置き、直(すぐ)にその家(いへ)をはしり出(いで)て、馬(むま)をかり、鞭をはやめて、逃げ去り、その夜(よ)の初更の比(ころ)までに、十里あまりを過(すぎ)て、攝州堺(さかひ)に到(いた)る。
ある旅店(りよてん)に宿(やど)をかりぬ。
その體(てい)、はなはだ、あはたゞし。
兵助が僕(ぼく)、これ、何故《なにゆゑ》ともしらず、あやしみ、問ふ。
兵助、しばらく、座を定め、胸をさすりて、具(つぶさ)に孫四郞が、たちまち、大恩を忘れて、かへりて、野心をさしはさむ次第を語り、ためいきをついて、憤激す。
僕、これを聞きて、淚をながし、その陰德を感ずるあひだ、忽ち、旅店の床(ゆか)の下より、瘦せ枯れたる男、一人《ひとり》、刀を拔き持ちて出(いで)あらはる。
兵助、膽(きも)を消して驚く。
この男のいはく、
「我は、軍中忍びの達者にて、しかも、仁義の侍なり。さきの孫四郞をたのみて、君(きみ)が頭(かうべ)をとらしむ。しかれども、ふしぎに、今の物がたりを聞(きい)て、かの孫四郞が放逸無慚(はういつむざん)なる事を知り、君は、まことに智仁兼備の君子なり。あやういかな。あやまつて、殺さんとす。我、義において、君(きみ)を捨てじ。君、しばらく、寐入(ねい)る事(こと)、なかれ。すこしのあひだに、君がために、かの孫四郞が頭をとりてかへり、君が鬱憤を散(さん)ぜしめん。」
といふ。
兵助、恐懼して、
「よきに、はからひ、給《たまは》れ。」
といふ。
此男、刀を手に提(ひつさ)げ、門(もん)を出《いづ》るとみえし。
屋(や)をつたひ、高塀(たかへい)を超えて、そのはやき事、飛ぶがごとし。
既に夜半にいたり、立ちかへりて、
「敵(てき)の首(くび)を打ちおほせぬ。」
と、よばはる。
火をとぼして、よくみれば、すなはち、孫四郞が首なり。
その男、すぐに暇(いとま)乞(こ)ひて、歸り去る。
その跡、たちまち、みえず。
それより、兵助は、諸國、抖藪(とさう)して、後(のち)には都(みやこ)にのぼりて、兵術の師範となりて、その身を終はりし、といふ。
[やぶちゃん注:「飯森」「兵助」不詳。
「鈴木田隼人佐(すゞきたはやとのすけ)」江本裕氏の論文「『狗張子』注釈(五)」(『大妻女子大学紀要』一九九九年三月発行・「大妻女子大学学術情報リポジトリ」のこちらから同題論文の総て((一)~(五))がダウン・ロード可能)の注に拠れば、『蒲田隼人兼相』(すすきだはやとかねすけ)とする。当該ウィキによれば、生年不詳で慶長二〇(一六一五)年五月六日没とする。『戦国時代から江戸時代初期の武将で』、『通称は隼人正。豊臣秀頼に仕えた。兼相の前身は講談で知られる岩見 重太郎』『といわれている』。『前半生はほとんど不明』。『豊臣氏に仕官し、秀吉の馬廻り衆として』三千『石を領したとされる(後に』五千『石に加増)。慶長』一六(一六一一)年の『禁裏御普請衆として名が残っている』。慶長一九(一六一四)年の「大坂の陣」に参戦し、「冬の陣」においては、『浪人衆を率いて博労ヶ淵砦を守備したが』、「博労淵の戦い」では、『守将でありながら』、『遊女と戯れている間に、砦を徳川方に陥落されたため』、『味方から「橙武者」と軽蔑されていた』。『その理由は「だいだいは、なり大きく、かう類(柑類)の内色能きものにて候へども、正月のかざりより外、何の用にも立ち申さず候。さて此の如く名付け申し」(『大坂陣山口休庵咄』)というものであった』。「夏の陣」の「道明寺の戦い」に『おいては、渋皮色の鎧に星兜の緒を占め、十文字の槍を取り、黒毛の馬に黒鞍を置き、紅の鞦を掛けていた。三尺三寸の太刀を帯び、軍勢の先頭をきって駆けつけた(『難波戦記』)』。『十騎ばかりの敵を討ち取ったが、押し寄せる東軍のために、間もなく戦死したとされる』、『剛勇の武将として知られ、兼相流柔術や無手流剣術においては流祖とされている』。『薄田兼相の前身が岩見重太郎であるという説は有名である。それによるならば、小早川隆景の剣術指南役・岩見重左衛門の二男として誕生したが、父は同僚の広瀬軍蔵によって殺害されたため、その敵討ちのために各地を旅したとされる。その道中で化け物退治をはじめとする数々の武勇談を打ち立て』、天正一八(一五九〇)年、天橋立にて、『ついに広瀬を討ち果たした。その後、叔父の薄田七左衛門の養子となったとされる』。『大阪市西淀川区野里に鎮座する住吉神社には薄田兼相に関する伝承が残されている』。『この土地は毎年のように風水害に見舞われ、流行する悪疫に村民は長年苦しめられてきた』。『悩んだ村民は古老に対策を求め、占いによる「毎年、定められた日に娘を辛櫃に入れ、神社に放置しなさい」という言葉に従い』、六『年間』、『そのように続けてきた』。七『年目に同様の準備をしている時に薄田兼相が通りがかり、「神は人を救うもので犠牲にするものではない」と言い、自らが辛櫃の中に入った』。『翌朝、村人が状況を確認しに向かうと辛櫃から血痕が点々と隣村まで続いており、そこには人間の女性を攫うとされる大きな狒々が死んでいたという』とある。芥川龍之介にズバリ、「岩見重太郞」という面白い作品がある。未読の方は、是非、読まれたい。私の詳細注附きのサイト版テクストである。
「番船(ばんせん)」港湾近辺や海浜に近い関所などで、必要に応じて警固・見張りを行なう船。「ばんぶね」とも呼ぶ。
「穢多が城(ゑつたがじやう)」不詳。
「土井《どゐ》孫四郞」不詳。
「面縛(めんばく)」両手を後ろ手に縛り、顔を前にさし出しさらすこと。打ち首の仕儀であろう。
「詞色」言葉遣い及びその発言の仕方。
「雄長(ゆうちやう)」雄々しく勝れているさま。
「德川家衆(とくがはけしゆ)、攝州・大坂に在陣し給ひ……」所謂、「大坂夏の陣」。結末は御存じの如く、慶長二〇(一六一五)年五月七日、大坂城の豊臣軍は多くの将兵を失って、午後三時頃には壊滅した。
「初更」凡そ現在の午後七時から九時まで。
「野心」江本氏の注に、『大坂役』(おおさかのえき)『当時の播州の東半分は姫路城は徳川家康の女婿池田輝政、明石城は正輝の甥の池田出羽守由之に治められていた。土井は徳川方の大名に飯森兵助を差し出すつもりであったと考えられる。』とある。
「抖藪(とさう)」本来は仏教用語で、「衣食住に対する欲望を払い除け、身心を清浄にすること」及び「その修行」を指すが、ここは「雑念を払って、心を一つに集めること」を意味している。]
« 萩原朔太郎 未発表詩篇 無題(はかりかねたる汝の罪だ……) | トップページ | 毛利梅園「梅園介譜」 蛤蚌類 キケウ貝 / イソチドリではないか? »