甲子夜話卷之六 39 歡來祠記
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島原役のこと記したる諸事の中に見へざる傳說なればと、左に載す。
[やぶちゃん注:以下、漢文部分は最後まで底本では全体が一字下げ。文は漢文訓点附きであるが、まず、白文で示し、後の「*」で、訓点に従って訓読したものを示す。それについては、読みを推定で歴史的仮名遣で附し、句読点も変更・追加し、段落を成形した。一部、訓読が承服出来ない部分は独自に読んだ。そこは注した。一部に注も附した。]
歡來祠記
寬永中、榊原飛驒君牛籠門第有飛頭之孽。降於庭。猴面而人言。謂君曰、將有逆亂。兩君受要任。幸見祭必有美報。言訖不見。無幾耶蘇賊起、據島原。朝廷命二肥薩築諸國主進勦。皆受大河内侯信綱節度。侯號令嚴肅、勉持重圍守。連月未決。君時監鍋島氏軍。月城當前。一日賊出挑戰。將退。君之子左衞門尾進。鍋島之師繼之、急擊獲月城。益進。侯遽令諸軍、一時仰攻、遂覆巢穴殲之。軍旋頒賞。君父子以犯令見黜。然以賊之殲自君所監、後二歲賜食邑二千石。世襲御先手頭、得除與力騎十人同心卒五十人。君乃點從軍兵有功者充之。乃建歡來祠、祭其降於庭者。配以舊社。騎卒別賜居駒籠片町。君又令騎卒延祀之。昔神降於莘而虢亡、雉呴于鼎而殷興。飛頭之孽、其亦雉呴之類邪。傳曰、國之將興、必有禎祥。此其非妖孽邪。及其人請於余、乃記而與之。飛驒君諱某。左衞門君諱某。今其裔猶居其第、食其職秩。騎卒之後、居駒籠者、亦隷焉。
文政二年月日松崎復書
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歡來祠記(くわんらいしのき)
寬永中、榊原飛驒君(さかきばらひだのきみ)が牛籠門(うしごめもん)の第(だい)に、飛頭(ひとう)の孽(ゲツ/わざはひ)、有り。庭に降(くだ)る。猴面(コウメン/ましら(さる)づら)にして人言(じんご)す。君に謂ひて曰はく、
「將に、逆亂(げきらん)有らんとす。而して、兩君、要任を受く。幸ひに祭りて見れば、必ず、美報(びほう)有らん。」
と。言ひ訖(をは)りて、見えず。
幾(いくばく)も無くして、耶蘇(やそ)の賊、起こり、島原に據(よ)る。朝廷、二肥・薩・築の諸國主に命じて、進めて勦(セウ・サウ/ほろぼさ)せしむ。皆、大河内侯信綱の節度を受け、侯、號令、嚴肅、勉めて、重(おもき)を持(も)て、圍守す。連月、未だ決せず。君、時に鍋島氏の軍に監たり。月城(グワツジヤウ/にのまる)の前に當る。一日、賊、出でて、戰さを挑む。將に退ぞかんとするとき、君の子、左衞門尾進(もとのしん)[やぶちゃん注:後注参照。]、鍋島の師、之れに繼ぎ、急(にはか)に擊ちて、月城を獲る。益(ますます)、進む。侯、遽(つひ)に諸軍に令して、一時(いちじ)に仰(あふ)ぎ攻め、遂に巢穴(さうけつ)を覆(くつが)へして、之れを殲(ほろぼ)す。軍、旋(かへ)りて、頒賞(はんしやう)す。君父子、令を犯すを以つて、黜(しりぞ)けらる。然(しか)れども、賊の殲(つ)くるを君が監する所よりするを以つて、後(のち)、二歲、食邑(しよくいう)二千石を賜ふ。世(よよ)、御先手頭を襲(かさ)ね、與力騎十人・同心卒五十人を除することを得(う)。君、乃(すなは)ち、從軍の兵、功、有る者を點(たて)て、之れに充つ。乃(すなは)ち、「歡來祠」を建てて、其の庭に降れる者を祭り、配ずるに舊社を以つてす。騎卒は、別に居(きよ)を駒籠片町(こまごめかたまち)に賜ふ。君、又、騎卒をして延(なが)く[やぶちゃん注:底本では『延テ』である。]之れを祀らしむ。昔、神、莘(しん)[やぶちゃん注:地名。]に降(くだ)りて、虢(くわく)[やぶちゃん注:周代の国名。]亡び、雉(きじ)、鼎(かなへ)に呴(な)きて、殷、興(おこ)る。飛頭の孽(ゲツ)、其れ、亦、雉呴(ちく)の類ひか。傳へて曰はく、「國の將に興きんとするとき、必ず、禎祥(ていしやう)、有り。此れ、其れ、妖孽(ヤウゲツ)に非ずや。其の人、余に請ふに及びて、乃(すなは)ち記して、之れを與(あた)ふ。飛驒君、諱(いみな)は某。左衞門君、諱は某。今、其の裔、猶ほ、其の第に居(を)り、其の職秩(しよくちつ)を食(は)む[やぶちゃん注:底本は『食フ二其職秩ニ一』。]。騎卒の後、駒籠に居(を)る者、亦、隷(レイ)す[やぶちゃん注:今もまたつき従っている。]。
文政二年[やぶちゃん注:一八一九年。]月日松崎復書)
この松崎は掛川侯の儒臣にて、林門高足の弟子なり。
■やぶちゃんの呟き
この「榊原父子」は以下。父は旗本榊原職直(もとなお 天正一四(一五八六)年~慶安元(一六四八)年)・官位は従五位下・飛騨守。子は職信(もとのぶ:左衛門)。当該ウィキによれば、『宇喜多氏家臣・花房職之の次男として誕生。母は同じく宇喜多氏家臣・額田三河守の娘。出家し』、『池上本門寺の僧となっていたが、徳川家康に還俗を命じられ』、『慶長元年』(一五九六年)『に家康に拝謁、翌年に徳川秀忠の小姓となった。慶長』四(一五九九)年『に榊原康政の養子となり、以後』、『「榊原職直」と名乗るようになった。康政の側室が花房氏であり、また康政は宇喜多騒動の際に調停役を勤めたことがあり、それらの縁であろうと推測される』。慶長一九(一六一四)年の「大坂の陣」では、『父の職之・兄の職則と共に出陣。 職直はのちに兄の職則により、花房家』八千二百二十『石の内から』一『千石の分与を受け、旗本として独立して取り立てられた』。寛永二(一六二五)年に千八百石を『知行し』、『御徒頭』、寛永九(一六三二)年には『御書院番頭となり、従五位下飛騨守となった』。寛永一〇(一六三三)年には二千五百石に加増を受けている。寛永一一(一六三四)年、『長崎奉行に就任。江戸幕府が推進していたキリシタンの弾圧を更に推し進めた。長崎奉行時代に行われた幕府の政策として、唐貿易の許可を長崎のみと限定、日本人の外国渡航の禁止、長崎近在の混血児』二百八十七『人を海外に追放、ポルトガル人を出島に移す、などがある。一方、諏訪神社の祭礼(現在の長崎くんち)を始めるなど』、『長崎町人の懐柔を勧めた』。寛永一五(一六三八)年の「島原の乱」においては、『職直は、鍋島勝茂の軍監を勤めていた』が、五月、『鍋島軍が抜け駆けを行ったの際、職直の子の職信が』、『同時に抜け駆けを行った。職信は城内に突入する戦功を挙げたが、これは軍令違反であるため』、『親子はただちに咎を受け』、同年六月二十九日に『長崎奉行を免職、更に閉門の処分を受けてしまう』しかし、『その後』、『許され』、寛永一九(一六四二)年には『御先鉄砲頭』、正保三(一六四六)年には、『近江国水口城(水口御茶屋)城番を務め』ているとある。